ソーシャルスコアとソーシャルプア

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via businessesgrow.com



 先月(2012年4月)、朝のNHKテレビを見てゐたら、最近の就職活動の在り方、特に採用する企業の側の在り方が変はってきた、といふニュースをやってゐた。ある不動産会社が今年から、銓衡の際に、履歴書や面接だけでなくフェイスブックのチェックを始めた、といふ事例が紹介されてゐた。その会社の採用担当者曰く、面接などはどの学校も力を入れてゐるので何を質問してもありきたりな答へしか返ってこないので、フェイスブックで応募者の素顔を知りたい、とのことだった。

 私はこのニュースを聞いてゐて、情けなく思った。
 フェイスブックで応募者の素顔を知ることができる!?

 かつて悪質SEO業者とグーグルが何年にも渡り繰り広げてきたあの不毛な戦ひを、ソーシャルネットワーク版でやり直さうと言ふのか。

 実際、もうパーソナルブランディングに関するさまざまな対策がすでに進行してをり、その番組で紹介されてゐた学生向けの就職活動セミナーでは、フェイスブック対策が教へられてゐた。その内容がまた驚くべきもの(と言ふよりくだらないもの)だったのだが、(1)笑顔の写真を掲載しろ、(2)友達の数は50人以上を目指せ、(3)週に2回は前向きな発言を書き込め、といふものだった。

 (1)は自分でできる。(3)は、週に2回くらゐの頻度でポジティブな発言を自動的に書き込んでくれるbotがすぐにでも登場するだらう。そして(2)こそ、悪質業者の出番だ。10万円であなたの友達の数を100人以上にしてあげます、などといふ業者が雨後の筍の如く現れるだらう。いや、もうすでにあるのかもしれない。

 本当にフェイスブックで応募者の素顔を見られると思ってゐるのだらうか。私はテレビを見てゐて、企業の採用担当者がこんなことでは情けない、と不安になった。


・人間を数値化する「ソーシャルスコア」
 
 昨年2011年に「パーソンランクの時代」といふ記事で、人間をノードとしたランク付けの世界が始まらうとしてゐる危惧について書いた。そこでは、とりあへず「パーソンランク」といふ言葉を使ったが、他の言ひ方があるかもしれない、とも書いた。
 私は英語圏のウェブを見てゐるうちに、それが「ソーシャルスコア」といふ言葉で呼ばれてゐるのを見かけた。このソーシャルスコアといふ言葉はまさに私がパーソンランクと呼んでゐたものだ。
 人間を数値でランク付けするといふのは、衝撃的なことであり、多くの人は直感的に反発を感じることでもあらう。実際、ソーシャルスコアの代表格ともいふべきKlout(企業名またサービス名)に対し、英語圏では批判の記事がたくさん書かれてゐる。
 私は「パーソンランクの時代」の記事の中で、パーソンランクにしろエッジランクにしろ、さうした仕組みは出来てゐたとしてもなるべく人の目に触れないやうにしなければいけない、と書いたが、Kloutなどはまさに思ひっきり人の目に触れるやうに、しかも分かり易く表示する仕組みにしてゐる。
 当然だが、人間はそんな数値で測れるものではない。なんでも数値化、定量化しようとするのは西洋人の悪い癖だ。

 そしてKloutに対する批判記事でもやはり多いのが「差別に繋がる」といふ点を指摘する声だ。ソーシャルスコアが低いだけで駄目な人間と見做されてしまったり、差別的な扱ひを受けたりすることになる。「私はスコアの数値を見ても心を動かされません。絶対に差別しません」と言へるほど、人間の心は強くないからだ。
 先日ツイッターのタイムラインで見かけたのは、「この人はかういふところがいい、とか、かういふ点だったらこの人が優れてゐる、とか、 それぞれの人の長所を見て付き合っていきたい」といふ誰かの発言だった。つまり、一人の人間に総合的に点数を付けるのではなく、この人は歴史に詳しい、だとか、音楽に関することだったらこの人に聞かう、といふやうなそれぞれの人の得意分野に注目してフォローしていく、といふスタイルだ。

 ソーシャルスコアの仕組みではそこまで詳しく見えない。もしかしたら、そこまでの細かい分野別スコアにも対応しますよ、とKloutが言ってくるかもしれないが、しかし、あの人は優しいのが取り柄だ、とか、情感が豊かだ、とか、センスがいい、だとか、さういふことは決して数値化できるものではない。
 あの人は、何の経験も地位も才能も無ささうだしフォロワー数も少ないみたいなんだけれども、でもなんとなく心が暖かい感じがするからフォローしてゐる、といふこともあるはずだ。

 しかし、こんなことは別に新しく言ふまでもなく、昔から言はれて来たことだ。全人的に付き合ってゐると、ちょっとでも欠点があった時にその人のことを許せなくなってしまって、結果的に友だちができないといふことになるから、いろんな人の長所だけ見て付き合っていったらいいよ、といふやうなことは昔の人も繰り返し言ってゐることだ。
 こんな「人間との付き合ひ方」を改めて唱へる人が出て来るのは、それだけ「ソーシャルスコア的世界」が普及して来るかどうかの岐路に今まさに来てゐるからだらう。
 

・やって来たる「ソーシャルプア」の問題

 しかし、かうした数値化システムの普及が進行するか留まるかに拘らず、所謂「ソーシャルプア」の問題は確実にやって来る。
 これも、今、私は仮に「ソーシャルプア」と言ふけれども、違ふ言葉で言はれるかもしれない。

 ワーキングプアとソーシャルプアの違ひは、前者が「職が無い、金が無い」状態(または人)を言ふのに対して、後者はそれに「人脈が無い、能力が無い、経験が無い」が加はったやうなものと考へれば分かり易いだらう。

 「社会的貧困」と「ソーシャルプア」の違ひは、ソーシャルメディアを通してより明らかになりやすい貧困が後者だと考へればいいだらう。
 だからこそ、ソーシャルメディアの普及に当たっては、もっとソーシャルプアの問題が考へられなければならない。

 人々はこの世界の見方が「勝ち組、負け組」などといふ見方でいいと思ってゐるのだらうか。フェイスブックやリンクトインが「勝ち組」のためのツールにしかなってゐない現状をどう思ってゐるのだらうか。

 かうした格差を増さしめる世界の在りやうを変へるには、所謂「ソーシャルグッド」などのソーシャルメディアを社会を良くするために使ふことも一つの方法だが、それと同時にソーシャルメディアの設計デザインについて根本からの見直しを迫らなければならないだらう。そしてネットユーザーひとりひとりは、かうした世界を助長する行動に加担しないやうにすべきだらう。

 「ソーシャルメディアを使って優秀な人材を確保する」などと短期的な利益ばかりを見てゐてよいものか。


【ソーシャルスコア関連の記事】

新しくなった東洋文庫に行ってきた


東洋文庫


 あの東洋文庫が新しくなったと聞いて、行ってきた。

 と言っても、新しくなったのは昨年2011年10月のことなので、少し月日が経っているが。

 東洋文庫と言えば、東洋学の専門図書館としては世界でも五本の指に入ると言われるほどの権威でありながら、あのみすぼらしくてオンボロな建物が有名だった。それが少しは綺麗になったのだろうか。
 確かめるために久しぶりに行って見てきた。


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 入り口。ああ、確かに新しいビルになっている。


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 奥が東洋文庫ミュージアム。手前はショップ「マルコ・ポーロ」。いろいろなミュージアムグッズが売っている。「組曲・東洋文庫」なんてCDも売っている。受付の女性はアジアのどこかの国の民族衣装を着ている。何という民族衣装だったかは忘れた。


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 ミュージアムに入ってすぐのところにある「モンスーン・ステップ」。階段。


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 中は木を基調としたつくり。天井が高い。


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 2階にある圧巻の「モリソン書庫」。まさに汗牛充棟。


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 「回顧の路」。秘密の地下通路みたい。


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 再び1階に戻って、カフェに通じる「知恵の小径」。一つ一つのプレートにアジアの名言が書いてある。


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 「暴力は弱者の武器であり、非暴力は強者の武器である」。


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 「智者はおだやかに言い、人を伏す黄河はゆるやかに往き、人をのせる」。西夏語。


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 「鳥は空を知らず、魚は水を知らない。地元に根ざす文化こそ、人々のくらしの生命源」。タイ語。


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 奥にある庭「シーボルト・ガルテン」。ベンチで一休みしたり。奥に見えるのは「オリエント・カフェ」。


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 上の階にある図書室。本当だ、綺麗になってる。


 
 久しぶりに行ってみて、昔の面影はまったく無く、完全に新しく生まれ変わっていると感じた。
 ミュージアムは入館料が880円とやや高いのでそう気軽には入れないが、東京の駒込まで足を延ばした日は!(先ず駒込に用がないと思うけど)、立ち寄ってみてはいかが。

 ※(図書室は研究者しか入れません)


 ミュージアム - 財団法人 東洋文庫

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Tag : 東洋文庫 ミュージアム

なぜ車優先の道路は改まらないのか

 こゝのところ、京都府京都市、京都府亀岡市、千葉県館山市などで自動車の暴走事故が相次いだ。

 このブログでは以前からたびたびクルマ社会を批判してきた。
 クルマ社会の問題は、もうずっと昔から存在してをり、むしろ日本における年間の交通事故死傷者数は減って来てゐるので、このタイミングでクルマ社会批判の記事を書く理由はないかもしれないが、社会的な関心が集まってゐるこの時期にまた少し書いておきたい。


・道路が悪いのか運転手が悪いのか

 毎日新聞が2012年4月24日に書いた記事を一部抜粋。

▲京都・祇園をつむじ風のように走り抜け、7人の命を奪った暴走事故の真相解明もまだすんでいない。
なのに今度は京都府亀岡市で登校中の小学生の列に乗用車が突っ込む惨事である。
児童と列に付き添っていた妊娠中の女性がおなかの赤ちゃんともども亡くなった
▲いつもと変わらない月曜朝の笑顔の列、そこからいくつもの未来が一瞬で奪われるなどと誰が想像できたろうか。
だが友人と一晩中車を走らせていたという18歳の無免許運転は、ごく普通の車をまがまがしい凶器に変えた
▲よく人間の暴力がやっかいなのは、強い爪や牙をもつ動物と違って攻撃を抑える本能が乏しいのに破壊力の大きな武器をもったからだといわれる。
同じように、人力とは比べようもないパワーを持つ車も少年の無軌道に途方もない「暴力」の魔をまとわせてしまった
▲生身の歩行者にとって車が暴力の相貌を帯びるのはモータリゼーションの初期ばかりではない。もしや守れた命ではなかったのか。
通学路はじめ生活道路の安全の点検は何度でも繰り返すべきだ。



 これを読んだ2chねらーの感想。

何で道路のせいにしてんだよ。


車が悪いんじゃなくて運転手が悪いんだ。
車のせいにはしないでほしい。


ほんと一部のバカと過剰反応するバカのせいでどんどん不便になるな。


こういう稀にある狂った連中の犯罪や事故にまで社会的コストと対策を講じても無意味に等しい
速やかに加害者を殺すくらいしか再発を防ぐ手段はない
一罰百戒


 いかにも典型的な2chねらーっぽい発言だけを抜粋した。
 毎日新聞の記事は犯人である運転手を擁護して、この事故を道路やクルマのせゐにしてゐるといふわけだ。


・稀にある事故か?
 
 では、今回のやうな「無免許」で「居眠り」の事故は、稀な事故なのだらうか。
 たしかに人の命を奪ってしまふほどの交通事故は稀である。しかし一つの事故の背後には危機一髪のところで事故に至らなかった、ぎりぎりのところで回避された危ない場面が何千倍もある。
 死亡事故などは言はば起こったら「おしまひ」であり、「稀にある」どころか稀にでも起こってはならないことである。


・厳罰化で事故は防げるか?
 
 運転手の厳罰化で今回のやうな事故は防げるのだらうか。居眠りしてゐた運転手も厳罰が怖くて目が覚めるのだらうか。
 長距離トラックの運転手の仕事とか、眠くても苛酷に走らされてゐる仕事がある。「今日は眠いです」と言へば、上司が「それなら運転しなくてもいいよ。休みなよ」と言ってくれるだらうか。
 無免許だった点を指摘して「かういふバカは厳しく罰しなければいけない」と思ってゐる人もゐるかもしれないが、館山の事故は無免許ではなかった。免許を持ってゐても事故を起こすことはある。
 免許を持ってゐる90歳の運転と免許を持ってゐない18歳の運転とではどちらが危険だらうか。


・子どもの遊び場を奪ふクルマ社会

 Twitterのタイムラインにこんなのが流れてきた。


 これはもうまさに私の子ども時代がかうだった。
 本当に遊び場がまったくなかったので、しかたなく友だちの家の前のクルマ一台がぎりぎり通れる幅の道路で野球(のやうなこと)をして遊んでゐた。クルマが通るたびに皆で「くるまー、くるまー」と声を掛けあって試合を中断し、一斉に壁にへばりつく。そしてクルマが通り過ぎたら再びプレイ再開。そこは生活道路だったが、幹線道路の抜け道として利用するクルマも多かった。


・クルマは大人の利器

 私がクルマ社会を批判すると、「お互ひ様でせう」と言ふ人がゐる。誰だって歩いてゐる時はクルマは邪魔かもしれないが、自分がクルマに乗って出かけてゐる時は歩行者に迷惑を掛けてゐる、だからお互ひ様だ、といふわけだ。

 私はクルマに乗らない。自分が運転しないばかりでなく、助手席にも後部座席にも乗らない。親も祖父母もクルマを持ってゐない。
 しかし将来は分からない。何年後、何十年後かには私もクルマに乗ることがあるかもしれない。
 私はまだいい。

 今回のやうな事故が特に心が痛むのは、亡くなったのが幼い子どもだからだ。
 子どもにとっては、クルマといふ存在は、まったく「お互ひ様」ではない。クルマは18歳以上の大人の乗り物であり、子どもがクルマを運転してその恩恵に預かることはない。ましてや7歳で亡くなってしまったら一生クルマの免許すら取ることはないし、まさにたゞたゞ邪魔なものでしかなかったことになる。


・なぜクルマ優先の道路は改まらないのか
 
 亀岡の事故現場の道路、私はテレビで見ただけだが、ひどい道路に見えた。あれでも数年前に歩道が広くなったのださうな。朝の一方通行ではない時間帯は双方向ださうだが、クルマ同士がすれ違ふ時に思ひっきり歩道にはみ出してゐる。白線の外側は歩道だといふ建前すら守られてゐない。当然さういふ時は歩行者が立ち止まるなり避けるなりしてクルマを通してゐるのだらう。
 しかしこんなふざけた道路は日本中にいっぱいある。白線の引き方からしてそもそもをかしくて、日本には“ちゃんとした歩道”の方がむしろ少ない。日本では先づ、車道があり、その脇の僅かな隙間を歩行者が歩かせていただくことになってゐる。
 クルマは歩行者の協力がなければ通ることができない。歩行者が自主的に避けてくれたりどいてくれたりすることが前提となってゐる。「危ないからどいてね」といふわけだ。トラックがバックする時、録音された女の声で「バックします、ご注意ください」といふあの科白が象徴的だ。歩行者が車道の真ん中に突っ立ってゐることは許されないが、クルマは堂々と歩道に停まってゐる。

 どうしてこんなふざけた道路の在り方は改まらないのか。
 生活道路には基本的にクルマは通すべきではないと思ってゐる。抜け道利用を許すべきではない。沿道に住んでる人にとってはさうした細道に入って来るクルマは危険で邪魔なものでしかないからだ。
 だが、その沿道の人たちがクルマを持ってゐる場合がある。
 東京と田舎とでは「生活道路」といふ言葉の意味合ひも違ってくる。田舎では「生活=クルマ」である場合も多い。こゝにクルマ社会問題の根深さがある。なかなか道路の在り方を改められない理由だ。

 だから私は東京から改めるべきだと思ってゐる。クルマがないと生きていけないと言ふほどの生活必需品となってゐる田舎はともかく、東京でクルマに乗ることはたゞの贅沢でしかない。

 昔、近所のをぢさんが言ってゐた言葉。

先づ、十分な広さの歩道を造り、それでも道幅に余裕があったら自転車道を造り、それでもまだ余裕があったら自動車道を造る。


 至言だと思ふ。

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Tag : クルマ社会

一青窈「ハナミズキ」は東京スカイツリーのことを歌った歌だった?

 今日4月23日の誕生花は「ハナミズキ」だそうです。(1年366日それぞれの日の花というのがあって、事典によっていろいろあるようです。)

 というわけで、今日は、歌手・一青窈さんの有名な曲「ハナミズキ」の歌詞が、実は東京スカイツリーのことを歌っているのではないか、という仮説をとなえてみます。

 冒頭の部分の歌詞は次の通り。

空を押し上げて
手を伸ばす君 五月のこと
どうか来てほしい
水際まで来てほしい



 以下、解説。

「空を」
 東京スカイツリーの「スカイ」→「sky」→「空」。

「押し上げて」
 東京スカイツリーの所在地、東京都墨田区押上(おしあげ)。

「手を伸ばす」
 空に向かって塔が伸びる、電波塔として広域に電波を送る、観光客を手招きする。

「君」
 スカイツリー自身、または観光客の意?

「五月のこと」
 東京スカイツリー2012年5月開業。

「どうか来てほしい」
 たくさんの観光客に来てほしい。

「水際まで来てほしい」
 今まで、東京観光と言えば、新宿、渋谷、六本木ヒルズ、表参道など山手エリアばかりで、隅田川以東の下町エリアには目新しい観光スポットがなかった。隅田川やスカイツリーのすぐ足下を流れる北十間川などたくさんの川が流れる下町の水辺エリアにも、ぜひ来てほしい。

 歌詞の一番最後。

百年続きますように


「百年続きますように」
 西洋と違って、日本では「時代にそぐわなくなった」、「建物の老朽化」などの理由により、建造物が次々に壊されることが多い。この建物(東京スカイツリー)は100年後も残っていますように。


 以上、勝手な解釈でした。「ハナミズキ」の歌詞が書かれたのは、東京スカイツリーの計画が具体化する何年も前です。


(↓投票するとすぐに結果を見れます)


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Tag : 一青窈 ハナミズキ 東京スカイツリー

ノマドとモナド

 最近、ネット上で「ノマド」といふ言葉をよく聞くやうになった。
 
 ノマドワーカーがクールだなんて幻想だ! というお話 : ライフハッカー[日本版]
 ノマドという言霊ハイプを煽る - Tech Mom from Silicon Valley

 「ノマドワーカー」と呼ばれる新しい生き方・働き方が注目されてゐる。

 ところで、この「ノマド」によく似た響きの「モナド」といふ言葉がある。

「ノマド(nomad)」の語源は、nomas,nemein(割り当てられた所をさまよふ)で、「モナド(monad)」の語源は、mono(単一の)だから語源的にはこの二つの言葉は関係ないが、両者は音の響きだけではなくその世界観も何となく似てゐるので前から気になってゐた。アルファベットだとnomadとmonadはアナグラムでもある。

 そこで今日は、"nomad"と"monad"の差異や関係、また、そこから見えてくる問題について書かうと思ふ。


・従来の組織に属さないノマド

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(近所のカフェ・ノマド)

 ノマドとは元は「遊牧民」といふ意味である。現代のノマドの世界観を一言で言へば、会社・企業のやうな従来の組織や団体に属さず、また場所を選ばずに自由に生き、働くことだ。毎日、会社に行ってデスクに座って仕事をするといふスタイルではなくて、ネットに繋がった端末一つを持って彼方此方に出かけ自由に仕事する。かういふライフスタイルは「フリーランス」など昔からあったが、昨今のネット端末の発達や無線インターネット環境の普及などに伴ひ、移動性(働き場所の自由)が加味されてあらためて注目されてくるやうになったと思はれる。


・どういふ人がノマドに向いてるか

 どんな人が“ノマドな”生き方が向いてゐるのだらう。
 先づは、一定の箇所にぢっとしてゐられない人。学校とか会社とか決まった箱の中に毎日通ふのが苦痛な人。
 それから最近はシェアハウスなどが人気があるが、おそらくノマドな人はシェアハウスも苦手だらう。自分と相性の合はない人と相部屋になったり同じグループになったりするのが耐へられない人は、ノマド型だらう。ユースホステルのやうに短い期間、相部屋になるはうが好きだらう。

 先日も、テレビでノマドな生き方をしてゐる女性が紹介されてゐたが、その人は大手出版社に勤めてゐたが鬱病になってしまひ、会社を辞めてノマドな生き方へと転身したといふことだった。鬱病になってしまふといふのはそれぐらゐ会社といふ組織に属して一箇所にぢっとしてゐるのが耐へ難い苦痛だったのだらう。その人にはノマドな生き方が合ってゐるやうに見えた。


・モナドは単一な「個」

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(上掲カフェ・ノマドから歩いてすぐの所にあるジュエリーショップ・モナド)

 モナドとは、ライプニッツによれば、かう定義される。

これからお話しするモナドとは、複合体を作っている、単一な実体のことである。単一とは、部分がないという意味である。

(G.W.ライプニッツ『モナドロジー』より、以下の引用もすべて同じ)

 一般的には日本語では「単子」と訳される。

 もう20年くらゐ前から、教育の現場では「個を尊重する」とか「個性を伸ばす教育」といふことが言はれてきた。従来の型に嵌めた一斉教授といふ日本型の教育法からの脱却を目指したものだ。これは欧米の「個」を重視する教育を見習った動きでもあった。ライプニッツの「モナド」的なかうした人間観は、欧米の伝統的な人間観でもある。
 人間が一人ひとり独立的に単一に存在してゐて、それぞれの個性を放ってゐる。
 ライプニッツは言ふ。

じっさいどのモナドも、他のすべてのモナドと、たがいに必ず異なっている。


 これは教育の世界における「僕と君は違ふんだ」とか「みんな違ってみんないい」といふ考へ方の元になってゐる世界観であり人間観である。


・ノマドの窓

 ところで、ライプニッツは、モナドには窓がない、と言ふ。

モナドには、そこを通って何かが出はいりできるような窓はない。

外部の原因が、モナドの内部に作用をおよぼすことはできない。


 では、ノマドには窓はあるだらうか。
 ある。
 一番わかりやすいのはインターネットだらう。現代のノマドたちにとってインターネットは必須だ。ノマドは世界中を移動して働いてゐる。そのため空間的な制約をどうしても受ける。その隔たった距離を一瞬にして飛び越えてくれるインターネットが絶対に欠かせない。逆に言へば、このインターネットといふ「窓」があるおかげで、現代のノマドたちは生きていけてゐるとも言へる。

 そしてソーシャルメディアの興隆と流行も、ノマドたちを後押ししてゐる。ノマドの窓を通して彼らが一番駆使してゐるのはソーシャルネットワークだ。


・ノマドな生き方のハードルの高さ

 既存の組織や枠組み、常識がみるみる崩壊していってる時代にあって、たしかに「ノマド」は一つの新しいライフスタイルとして注目するに値する。しかし同時に、ノマドな働き方はまだまだハードルが高くもある。

 先づ第一に、輝いた個性がなければならない。そもそも売りにすべきパーソナリティが何もないといふ人が、ノマドな働き方をするのは難しい。

 第二に、もし輝いた個性を持ってゐたとしても、それを発揮するにはそれなりの規模の良質で強固なソーシャルネットワークを持ってゐなければならない。それがなければノマドな働き方で生きる(生計を立てる)のは現代ではまだ難しい。上述のテレビに出てゐた女性も、ネット上のある有名人に紹介されたのをきっかけにソーシャルネットワークが拡大し、それにより仕事が舞い込んで来るやうになった。


・孤立したモナドたち

 しかし、私が一番気にかゝってゐるのは、従来型の組織に属して働いてゐる人でも、ノマドでもない。
 会社に入って組織の一員として働くか、会社には入らないで自由な働き方をするか、それを選択できる人はいい。どちらにしろ自ら望んでそのやうな働き方をしてゐる人は別にいい。
 今の世の中には、会社にも雇ってもらへず、かと言ってノマドな生き方もできない、孤立したモナドたちがたくさんゐる。従来型の制度が崩壊してそちらにも入れてもらへず、新しくできたばかりのスタイルにも乗っかれない零れ落ちた人たちが、この端境期にいっぱいゐる。
 これは、ソーシャルな時代におけるもっとも憂慮すべき問題である。本来なら、かうした人たちを救ひ、あるいは掬ひ取ることはまさに轍鮒の急の問題であるはずなのに、社会の歩みは遅く、制度や体制もまだ全然整ってゐないし、人々の問題意識もまだそこまで至ってゐないやうに私には見える。

 1990年代の後半にインターネットが登場した時、「これでもう一人で生きていける」と思った人がたくさんゐた。しかしそれはやはり嘘だった。「ソーシャル」といふ言葉を頻繁に聞くやうになったこゝ数年でますます判ってきたのは、結局は“ソーシャルに”世界中のいろんな人の助けがなければ生きられないといふことだった。
 人間は一人では生きられない。

 ライプニッツもあれだけの天才の持ち主でありながら、生涯独身で友人もなく、まったくの孤独のうちに亡くなったといふ。ライプニッツ自身が孤独なモナドであった。彼の哲学的遺書とも言ふべき『モナドロジー』が書かれてもうすぐ300年が経たうとしてゐる。あらためて社会の在り方や働き方・生き方を問ひなほす時代に来てゐる。


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