暫定龍吟録

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兎狗分離の提案 〜マイナンバーと早期の“日本の電子化”の実現のために〜

電子化で遅れすぎている日本

 マイナンバー制度の諸々の取組の遅さに焦燥感を感じている。
 現段階で計画されていることは、今から一年以内くらいには実現してほしいが、マイナポータルの実用開始が遅れるなど雲行きが怪しくなってきている。「2020年の東京オリンピックのころには」と言うのでは遅すぎる。日本はただでさえ電子政府化の取組が遅れているのに、これ以上遅くなるようなことは耐えられない。


遅れの原因

 遅れの原因はいくつかある。
 一つにはセキュリティに慎重になっている、つまり拙速にならないよう、念には念を入れて準備をしているから。
 もう一つには、やはり国民からの不人気がある。国がマイナンバー制度を推進しても、自治体が乗り気でない。そして何より国民がマイナンバー制度を嫌ってる人が多い。国民が嫌ってるなら、自治体も金をかけてまでシステムを改修しようと思わない。自治体が動かなければ利便性は高まらないので、国民はますますカードを持たない。


マイナンバーカードの普及率の低さが日本の“電子化”を阻む

 マイナンバーカード(以下、カード、マイカ等と略す)が普及しないことによる弊害がある。それは、日常のあらゆる手続きの電子化が進まないことである。目下のところ、国民がマイカを持たなければ、電子証明書を手にすることはない。となれば、行政レベルでも民間レベルでも、電子化は進まない。


マイナンバーとカードが相互に足を引っ張る

 今はまさにマイナンバーとカードがお互いに足を引っ張っている状態にある。私はマイナンバーは一旦置いておくとしても、マイキーには走ってもらいたいと思っている。国はマイナンバーを走らせたいと思っているが、カードの普及が思うように進まず前進できないでいる。マイキーはマイナンバーの不評の煽りを受けて、これまた前に進めずにいる。

 そこで、この二つを分離してはどうか。
 兎と狗の分離である。


二人三脚からの兎狗分離(とくぶんり)
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 兎(マイナンバー)と狗(マイキー)をそれぞれ走らせるためには、いまお互いに脚が絡まり縺れ合っているこの二匹を分離する。二人三脚の脚紐を解いてやれば、走りやすくなるはずだ。
 マイナンバーはすでに普及が完了している。それなのに足の遅い狗を二人三脚で引き連れているために、まったく前に進むことができないでいる。一方、狗は、みんなの嫌われ者の兎とペアを組んでしまっているために、自分までが嫌われてしまっている状態にある。
 そこで、この二匹を引き離すのである。

 マイナンバーとマイキーカードに分けるのである。

 すでに普及が完了しているマイナンバーと、これから普及を目指すマイキーを一緒のカードで括っているのは、クラスで一番足の速い子と一番足の遅い子を二人三脚のペアにしているようなものである。
 狗という足枷が外れて身軽になったマイナちゃんは、クラスのみんなからどんなに嫌われようが、目標に向かって邁進できるようになる。
 マイキーくんは、「マイナとかいうあの兎と同じグループなんでしょ!」というクラスメートからの誤解が解けて、我が道を進むことができる。

 具体的には、マイカのICチップの中に入っているマイキー部分のユニットをマイナンバーが書かれていない別のカードとして独立させる。


マイキーカードの誕生

 このカードは「カード」と言っても必ずしもプラスチック製のカードである必要はない。大事なのは電子証明書を中心としたユニットなので、それをどこかの端末に取り込む。例えば今ならスマートフォンなどがいいだろう。スマホなら国民の大半が持っているから。端末内へのセキュアな格納が完了してからマイナンバーを切り離す。そうすれば、「マイナンバーカード」ではない所謂「マイキーカード」が誕生する。
 国民みんなが嫌いなマイナンバーが入っていないので、このカードは普及し、マイキープラットフォームを中心とした日常生活の電子化、オンライン化は加速する。


マイナンバーは所期の目的を果たしやすくなる

 「分離によってマイキーにメリットがあるとして、マイナンバーはどうなるの?マイナンバー側にメリットがなかったら国はつまらないんじゃないの?」と思う人もいるかもしれない。

 だが、分離はマイナンバー側にもメリットがある。マイナンバーの所期の目的である税と社会保障が進まないのは、狗に足を引っ張られているからだ。
 「普及」をゴールとすると、兎はとっくにゴールに達しているのだ。今は足の遅い狗を待っている状況だ。マイナンバーの国民への普及(付帯)は2016年にとっくに完了している。狗と足並みを揃えるという制約がなければ、もうゴールに到達している兎は、のびのびと税や社会保障との結び付きに勤しむことができる。


一日も早い電子化、オンライン化の実現を

 日本国民の間で大不評のマイナちゃん。仮にあまりの評判の悪さから国がマイナンバー制度を廃止したとして、その時に「狡兎死して走狗煮らる」ことを私は怖れている。
 兎が死ぬだけではなく、狗まで共倒れになったら目も当てられない。「電子政府化の仕組みを一から作り直しましょう」と言う人もいるかもしれないが、「10年後の実用化を目指して」、「20年後を目処に」などと言われたら気が遠くなる。ただでさえ電子化の取組が遅れている日本。世界各国の電子化が進む中、日本だけが前世紀に留まるようなことは私は耐えられない。

 「日本の電子化」の実現に、今、最も近いところにいるのはマイキーだ。だからこそ、二人三脚の脚紐を解いてでも、狗には走ってほしい。


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「上皇后」、「皇嗣殿下」でよいのか

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 天皇の退位に関する有識者会議の最終報告案が出た。それによると、天皇が譲位されると、その名称は「上皇」に、皇后は「上皇后」に、秋篠宮殿下は「皇嗣殿下」になる可能性がある。

 この三つのうち、「上皇」は分かる。「太上天皇」だと「天皇」という言葉が入っているので天皇が二人いるような印象を与える。

 だが、あとの二つには少しく違和感を感じる。


「皇太后」ではだめなのか

 美智子さまは「上皇后」と呼ばれるようになるという。「上皇后」は新設の名称である。昔からある「皇太后」をなぜ使わないのか。
 考えられる理由の一つは、「上皇」と「皇太后」だと“ペア感”がいまいちだから。「太上天皇」と「皇太后」だったら両方に「太」の字も入っていてペア感がある。「上皇」と「上皇后」だったらペア感がある。「御夫婦で共に歩んでこられた」ということを重視しているのだろう。

 しかしそれとは別に看過できない理由がある。それは、政府の有識者会議が言っている「『皇太后』には未亡人というイメージがある」という理由である。有識者会議は、香淳皇太后の例をあげて国民の間には「皇太后=未亡人」というイメージがある、と言っている。これはおかしい。
 今の10代や20代、あるいは30代や40代くらいの人でも、美智子皇后は知っているが香淳皇太后はよく知らないという人はたくさんいるはずである。そもそも「未亡人」という言葉自体が現代では使われない。有識者会議のメンバーの先生方は世代的に香淳皇太后をよく知っているかもしれないが、自分たちが世代的にピンと来るからと言って若い世代の感覚を無視するのはおかしい。

 「『上皇』と言ったら院政を敷いているイメージがある」と言う人もいるが、そんなことを言うのは、昭和生まれと平成生まれの人間だけであって、新しい元号生まれの人たちにとっては「上皇」と言ったら「あのお方」のことである。
 それと同じで、美智子皇后が「皇太后」になったら、「皇太后」という言葉のイメージは塗り替えられ、「皇太后と言えばあのお方」ということになるのである。


有識者会議が「上皇后」の新設を考えるもう一つの理由

 有識者会議が「上皇后」という名称を新しく提案している背景の一つとして、「御夫婦の単位で」という問題があると思われる。
 「御夫婦の単位」を考える時に、皇太后の謂わば「職権」に関する問題がある。
 例えば摂政への就任資格。上皇(仮)は摂政になれなくて皇太后(仮)は摂政になれるとすると、夫婦で揃わなくなる。妻はいいけど夫はだめ、ということになる。
 今上天皇は高齢による御公務の困難等を理由に譲位されるわけだから、譲位後に摂政に就けるようにするのはおかしい。
となると、夫婦単位で揃えるためには、皇太后から今ある摂政への就任資格をなくすことになる。これは典範の根本的改定になる。
 そこで、どうするか。

「夫婦単位」と考えられるのは、夫(または妻)が生きているあいだである。そのように考えて、「夫がいる皇太后」と「夫がいない皇太后」に分ける。
 不謹慎ながら、仮に上皇が先に薨った場合は、その時が来るまでは「上皇后」、その時が来たら名称が変わって「皇太后」となる。夫君が生きておられるあいだは、「夫婦単位」なので資格を制限し、なき後は謂わば「お独り身」なので、ある程度、行動の幅も広がり、資格も復活する。その場合に、「夫が生きているあいだの皇太后」と「夫なき後の皇太后」を区別する必要から、有識者会議は「上皇后」という新たな名称を考え出したのではないだろうか。


「皇太弟」ではだめなのか

 秋篠宮様を「皇嗣殿下」とお呼びする、という案を有識者会議が出している。会議がヒアリングに招いた学者からは出ていなかった案だ。これも新しい名称と言える。「皇嗣」というのは「世継ぎ」という意味だ。つまり皇位継承順位第一位であることを明確にする意味がある。
 だが、そもそも皇位継承順位を名称によって明らかにしなくても、皇室典範によって順位は明確に決まっている。わざわざその名称で呼ぶ必要があるのだろうか。
 典範にある「皇太孫」という言葉との整合性をとって「皇太弟」でよいのではないか。若しくは「皇太子」でもいい。歴史的にはこちらが一般的だが。
 ただ「皇太子」は現行典範の上では難しいかもしれない。典範では、皇太子とは「皇嗣たる皇子」と定められているから。「皇子」とは天皇の子供。秋篠宮様は新しい天皇の子供ではない。

 「皇太弟」、「皇太子」以外だと、「儲君」があり得る。「儲君(チョクン、もうけのきみ)」は、歴史的には「皇太子」のような意味だが、「次に皇位を継ぐ者」という意味なので「皇嗣」の意味にかぎりなく近い。
 なので「皇嗣殿下」と言うぐらいだったら(立太子礼を行わないのだったら)「儲君殿下」でいい。


日本語を先にして考えよう

 今回、このような「上皇后」や「皇嗣殿下」という案が出た理由の背景として、英語名称との兼ね合いがあると思われる。つまり、「皇太弟」を直訳してしまうと、外国で、今までの皇太子と同格だと思われないのではないか、ということを心配してこうした案を出しているのではないだろうか、ということである。
 「皇太后」の公式英訳「empress dowager」の「dowager」には「未亡人」という意味がある。だから都合が悪い、というわけである。
 しかしそれなら、英語の訳語の方をうまく適当なものを見つければよいだけのことではないのか。秋篠宮様の英語名称は、従来の「皇太子」の英訳である「crown prince」で行くことがほぼ決まっている。日本語名称が「皇太弟」で、その英訳が「crown prince」でも別によいのではないか。それと同じように、「皇太后」も適切な英訳語を当てればよいだけという気がする。

 これは「マイネームイズ、ヤマダ・タロウ」を「マイネームイズ、タロウ・ヤマダ」と言うようなものである。一般人は「ヤマダ・タロウ」だろうが「タロウ・ヤマダ」だろうがどっちでもいいかもしれないが、天皇制は日本の伝統の根幹に関わることなのだから、“外国に配慮して”名称を考える、というのは違う気がする。


官邸の意嚮に寄りすぎている最終報告案

 今回の有識者会議の最終報告案に目を通してみて感じたことは、全体的に首相官邸の意嚮に寄りすぎている、ということだ。
 首相には今回の退位を「一代限り」の特別なことにしたいという意嚮があると思われる。「上皇后」という言葉の新設にも、歴史上に登場する言葉とは変えることによって、歴史の中に位置づけるのではなく、「あのときは例外中の例外で特別だった」ということにしたいという意図が透けて見える。だから「上皇后」は過去にも登場しないし未来にも登場しない。美智子様だけの名称となる。
 ただ、そのような「官邸の意嚮」ばかりでは一学者として面白くないのか、会議の座長代理を務めた御厨氏は今回決めたことは「先例」になる、として、未来に影響を与えることは必至であると釘を刺している。

 私は「特例法」を作ることには同意だが、それは天皇の御高齢、御健康の問題が「今まさに現在」の問題で先延ばしにできないからであり、基本的には天皇制の中に「例外」や「新規」を設けるべきではないと考える。
 もし「現代だけの特例」というならば、どのような時代の事情があって、いかに苦心して法律を取りまとめるに至ったかを後世の人たちに説明する文言を盛り込むべきだろう。

 有識者会議の先生方にはあらためて深慮いただきたいことである。
 いや、もう有識者会議は終わってるから、総理にお願いすべきか。

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天皇譲位に伴う課題(2016/08/09)

さようなら、オバマ大統領

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 さようなら、オバマ大統領。

 あなたは私が知っているかぎり、最もまともなアメリカ合衆国大統領でした。

 あなたが銃で亡くなった子どものことを思うと涙が出る、と言って涙を流したのを忘れません。「あんなのパフォーマンスだよ」と言う人もいるでしょうが、パフォーマンスですら涙を流さない人よりマシです。

 「経済政策はひどかった。任期中にアメリカ経済は全然良くならなかった」と言う人もいるかもしれませんが、経済政策よりも重要なのは、先ずは「まともな人間」であることです。

 アメリカ大統領の考えや行動は、アメリカ国民ならず、世界中の人々の人生に影響するからです。イラクやアフガニスタンを空爆し無辜の民を大量に殺して、「ごめん、ごめん、誤爆、誤爆」と言っていた大統領もかつていました。

 「オバマはリーダーシップに欠けていた。在任中に大した実績を何も残さなかった」。

 それでも世界中に悪や憎悪をばら撒くよりはマシです。

 広島を訪れたオバマ大統領。できれば在任中に沖縄を訪れてほしかった。

 私の知るかぎりでは、もっとも人間的な、人間として当たり前の感覚、感情を持っていた米国大統領でした。

 さようなら、オバマ大統領。

兎と狗の違い 〜マイナンバーカードの眼目〜

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 今まで何回もこのブログで、マイナンバーについて書いて来たが、やはりまだまだ多くの人が兎と狗の違いを解っていない、と感じる。

 図書館でマイナンバーカードが使われるようになるとか、商店街でポイントが貯まるようになるとか、そのようなニュースが流れる度に、マイナンバーカード批判の声をたくさん聞く。批判は結構なことだが、それらの批判の多くがあまりにも的外れな批判ばかりである。

 さすがに「まったく関係ない」とまでは言わないけれども、しかし狗は、その大部分において兎とは関係がない。にもかかわらず、多くの人が兎と狗をごっちゃにしてしまっているのは、この二匹の名前が似ているからかもしれない。兎の名前は「マイナ」、狗の名前は「マイキー」、名前が似てるから人々はこの二匹を混同して語る。しかし狗が持ってる鍵は兎の耳とはほとんど関係がないのである。

 マイナンバーカードに反対し批判する人たちは、もしかしたら将来的に「狡兎死して走狗煮らる」ならぬ「狡兎“活きて”走狗煮らる」事態が来ることを予想して批判しているのかもしれない。つまり、狗が兎の“活躍”に貢献する、と。だから「兎に反対の私たちは、狗を持ちたくないんです」と。

 そこまで考えて批判しているなら、それはそれで聞く耳は持つけれども、しかし、狗は兎のために走るというよりは、自らの持つ価値のために走る、という側面が大きいことを知らなければならない。

 この狗はただの「兎のための」狗ではない。物凄く大きなポテンシャルを秘めた狗である。

 マイナンバー制度にしろマイナンバーカードにしろ、私は賛成を強制するわけではない。賛成意見も反対意見もあっていい。だが「私は兎が嫌いだから狗も嫌いです」と言うのはおかしい。

 マイナンバーカードにはたしかに番号が書いてある。しかしこれは言わば「おまけ」みたいなものである。顔写真も付いているから身分証明書にもなります、というのも「おまけ」の機能である。

「身分証明書として“も”使えます」
「番号確認に“も”使えます」

ということで、「おまけとしてそんな風にも使えますよ」というようなものである。QRコードだって「おまけ」である。

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 マイナンバーカードの眼目はそんなところにあるのではない。狗の眼に注目してほしい。眼から鍵に向かって「JPKI」と読めるだろう。眼に「眼目」が描かれているのだから、こんなに分かりやすいことはない。マイナンバーカードの眼目はまさにこの狗の眼目が物語っている。それは、ICチップの中に入っている狗、即ち、公的個人認証(と空き領域)である。そして、この狗(マイキー)は兎の耳(ナンバー)とは関係がない。

 個人認証の中には基本4情報、即ち、住所、氏名、生年月日、性別は入っている。

 「だから、その個人情報を使われるのが嫌なんですよ」

と言うのかもしれないが、それならそれで兎批判とはまた別けて批判すべきことである。

 私はマイナンバーカード批判は大いにあってよいと思う。私たち日本国民の生活に大きく関わってくることなのだから、批判はあって当然である。しかし、今まで私が見聞きしてきたマイナンバーカード批判は、何れも、この兎と狗を混同した頓珍漢なものばかりだった。

 マイナンバーカードはオンラインにおける本人認証が主たる用途になってくる。

 「なんでカードを作ってしまってから使い道を考えてるの?官僚が住基カードの二の舞と批判されないためにあの手この手で普及策を無理やり考えてるとしか思えない。普及しなかったら、また壮大な税金の無駄遣いになって責任者である自分たちの首が飛んでしまうからね」

 そういう批判をよく目にする。しかしそうではない。今、マイナンバーカードと連携する実験が進んでいるものは、ほとんどがカードができる前から計画されていたものである。

 マイナンバーカードは、現代のネット社会を睨み、これから益々オンラインにおける本人認証が重要になってくることを想定して作られた、と私は思っている。ただ、その場にたまたま機械がなかったりして、本人が目の前にいてなおかつカードも持っているのに本人認証ができなかったら、なんか残念だから、対面でも、つまりオフラインでも認証ができるように、券面に顔写真や氏名や生年などの情報を載せたのである。

 つまり、オンライン用途が「主」であり券面は言わば「付属」、「おまけ」みたいなものである。ところが今、マイナンバーカードを批判している人たちは皆、この「おまけ」の方ばかり見て批判している。

 こんなにも的外れな批判が多いのは、おそらく名前のせいもあると思う。「マイナンバーカード」という名前だから、人々は「マイナンバーのカードだ」と思うのだろう。「JPKIカード」、「個人認証カード」などと名前を変えたらどうだろう。

 「嫌いだから近づかないようにしている」人もいるかもしれないが、出来上がってしまってから「ああ、やっぱり国が作るものはロクなもんじゃなかった」と言うのでは遅い。

 「マイナンバーカードって、もう出来上がってるんじゃないの?」

 そんなことはない。出来上がったのは外郭だけであって、「狗」の部分については今まさに「考え中」なのだ。だからこそ、文句があるなら今の内に言う必要がある。そのためには先ず兎と狗の別が解っていないと批判は始められない。


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Decentralized化する世界

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 米大統領選でヒラリー・クリントンを倒してドナルド・トランプが選ばれた時、ビットコインの価格が高騰した。(と言ってもビットコインのそれまでの歴史から見れば小さな高騰ではあったが。)

 ビットコインとドナルド・トランプは相性がいい。ビットコインとドナルド・トランプには共通項がある。それは、"Decentralized(非中央集権化、分権化)"だ。

 ビットコインブロックチェーンについて語られる時、いつも"Decentralized"という言葉を聞く。トランプ大統領が口で言ってることをどこまで実行に移すかは分からないが、その思想もまたDecentralizedである。

 アメリカという国は今までも好き勝手やってきた。世界の各々の国や地域の実情は無視し、"Globalism"の名の下に「アメリカ流」のやり方や常識を押し付けてきた。しかしそれはアメリカを中心とした「世界」作りの一貫として行われてきた。21世紀は「パックス・アメリカーナ」の時代になると言われていた。その象徴とも言える言葉がGlobalismだった。Globalismはそれぞれの国、地域の文化、実情、常識、つまり都合を無視し、アメリカの常識を押し付けるものと斉しくなっていた。

 トランプもまたアメリカの利益のことばかりを考え、他の国々のことは慮っていない。そういう意味では「アメリカ流」を押し通そうとしている姿勢は同じだと言えるが、大きく違うのは、Globalismの流れにおいては、アメリカは「世界の警察」、「世界のリーダー」として自国の都合を押し通そうとしていた、ということだ。トランプはアメリカが世界の警察であり続けることは「負担(特に経済的負担)」であると考えている。

 "Decentralized"を日本語で「分散化」と訳すと、「だから、環境問題やテロとの戦いなどのグローバルな問題を世界の国々が少しづつ分担して解決を目指すのでしょう」と思われる。しかしここで言うDecentralizedは「分散化」と言うよりは「非中央化」である。


非中央化とは何か

 「非中央化」とは中央から離れるということである。では「中央」とは何か。

 中央とは地球温暖化問題やテロとの戦い、TPPなど、世界的に取り組まなければならない問題に取り組むときの枠組や組織である。国連やG8がそうだし、EUもヨーロッパの「中央」である。

 2016年、イギリスとアメリカという兄弟または親子のような関係にある二つの国が、それぞれ"Decentralization"の道を択んだ。Decentralizedには、メリットとデメリットがある。

 イギリスと対極的なのなドイツで、ドイツはずっとヨーロッパの“顔”としての役割を果たして来た。メルケルはドイツ国内の問題だけでなく、ヨーロッパ全体の問題についても責任を持って仕事をしてきた。温暖化問題などの世界的問題にも積極的に取り組んで来た。その結果、EU内におけるドイツの地位は高まり、発言力も大きくなった。今のヨーロッパには誰もメルケルのドイツには逆らえない雰囲気がある。

 一方、デメリットとしては負担が大きすぎる、ということが挙げられる。数年前のギリシャ問題のときも、「なぜウチらがギリシャの面倒をみてやらなければならないんだ」という国内からの不満の声がたくさんあった。国内の問題も山積みなのに中央(ここではEU)の仕事もしなければならない。イギリスは中央の仕事の負担軽減のために"Brexit"を択んだ。負担は軽減するが、中央における地位、発言力の低下、というデメリットがある。

 アメリカもまたトランプ大統領が中央から離れようとしている。真っ先にTPPからの離脱を表明したが、この先、地球温暖化対策やテロとの戦いなど、世界的規模で協力して取り組んで来た問題からも手を引いていくかもしれない。

 こうした動きは、政治の世界で「保護主義」、「孤立主義」などと言われるスタイルと似てくる。

 もっともアメリカの長い歴史においては、孤立主義的傾向を示す時代は長かった。第二次世界大戦後、「戦争のうまみ」が増すにつれ、アメリカは世界の中央に出て来た。父ブッシュ、子ブッシュ時代の戦争はパックス・アメリカーナの象徴のような出来事だった。だがその後、アメリカはだんだん中央から手を引いていくようになる。

 古代から戦争は領土の奪い合いだった。戦争に勝つと領土が手に入る、これが大きな動機だった。だが国と国との戦争からテロとの戦いの時代になり、肝腎の戦利品としての領土が手に入らなくなった。今問題になっているIS(イスラミックステート)などは国ですらない。テロは世界各地で予測不可能的に起こり、それに勝利したとしても、それは単に「テロを食い止めた」というだけで領土獲得のような“うまみ”はない。

 「ドナルド・トランプは内向きなのか外向きなのか」と問う人がいる。自国内の問題に関心を持っているのか、それとも対外的な問題に関心を持っているのか。だがその問いの立て方は正しくない。トランプは内にも外にも両方関心を持っている。今までどおり、いやそれ以上に「偉大なアメリカ」を対外的に誇示しようとしている。ただ、その方法がDecentralizedなのである。せっかく力を持っているのだから、中央を介さずに直接誇示したり圧力をかけたりしたほうが早いというわけだ。


P2P化する世界

 非中央化、脱中央化は、決していわゆる外交に興味がないということではない。トランプはアメリカとロシアとの間の問題は米露間で個別に解決しようと考えている。中国との間の問題、日本との問題、メキシコとの問題は、それぞれ米中間、米日間、米墨間で解決を図るべきことだと考えているだろう。こうした関係はとてもP2P(ピアトゥーピア)的だ。中央を介さずに当事者同士で直接やり取りをする。ビットコインもそうだ。中央銀行を介さずに両者間で価値の移転を実現する。

 ビットコインを支持する人たちのあいだには、「中央なんか要らない」という考え方の人も多い。だが中央には“うまみ”もある。ドイツの例のように中央での発言力が増す、というのも一つだが、そもそも中央は「世界に対してある程度のコントロールが効く」というのが大きなメリットである。「中央銀行はなくなる。ビットコインのような仮想通貨だけの世の中になる」という人もいる。もし今、日本から日本銀行がなくなったとすると、経済のコントロールは失われ(今でもコントロールできてるのか?という疑問はあるが)、日本という国の経済の安定性は失われる。

 一方で、トランプの思想は、P2P的な世界をよしとする人々との強い親和性を持つ。


中央の役割

 では、「中央」は要らないのか。中央なんか無くしてそれぞれ個別にやり取りを行えばいいだけなのか。例えば今の日本から日本銀行を無くして、それぞれでお金のやり取りを(日本銀行券を使用せずに)行えばいいのか。

 中央には中央の役割がある。中央の役割は全体の「コントロール」であり「調整」である。

 個別に、例えば二国間でやり取りをすれば強い方が勝つ。太平洋上に長く太い綱が横たわっていて、それを日米間で綱引きをすれば、それは強い方が勝つだろう。この場合の“強い”は必ずしも軍事力や経済力ばかりではないが。だが、その綱の真ん中が滑車のように中央に引っかかっていれば、日米間の綱引きにも“調整”がかかる。どちらか弱い方が一方的に負けてしまわないようにするのも中央の役割である。

 また、地球温暖化問題のような“グローバルな”問題も、中央が解決しなければならない問題である。(地球が温暖化しているかどうかという議論は今は置いておいて)、日本一国だけがCO2をいくら削減しても、他の国々が協力して足並みを揃えなかったのでは、こうした問題は解決しない。テロとの戦いにおいても、今やテロは世界のどこで起こってもおかしくない。「テロに優しい国」があったのではいつまでたってもテロは無くならないのは、タックスヘイブンなどと同様である。


日本の孤立化は「孤立主義」の孤立ではない

 日本の孤立化は、英米のそれのような自国優先のための孤立ではない。また自発的な孤立でもない。「国際社会の一員として恥ずかしくない責務を果たす」と言って中央に出て行ったら、アメリカが自宅に帰ってしまって中央でぽつんと一人になってる状態である。

 日本の首相はアメリカの大統領に翻意を促しTPPへの復帰を求めているがはたしてどうなるか。トランプが自国に引き籠もってくれたらまだいいほうで、実際には(おそらく貿易を中心とした)過酷な綱引きを今後はどの国もしなければならなくなる。

 「Decentralized化する世界」と言っても、「中央」が無くなるなどとは私は思っていない。中央は今まで通り在り続ける。ただDecentralizedの“動き”には注意しておかなければならない。

 Decentralized化が進む世界で日本は今後どうするのだろう。

 世界のリーダーとして存在感を増していくか、Decentralized化の流れに乗って日本国内に引き籠もるか、それとも中央の真ん中で「僕はひとりぼっちだ」と叫ぶのか。一つの進路が問われる局面に来ている。