暫定龍吟録

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南方熊楠と愛国心 〜南方熊楠生誕150年記念〜

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 今年2017年は、和歌山の傑物、南方熊楠の生誕150年の記念の年である。

 南方熊楠と言ったら、その「天才ぶり」ばかりが語られることが多いが、今日は明治42年頃に書いたと思われる『神社合祀に関する意見』を基に、南方熊楠が考えていた「愛国心」について考えてみたい。

 熊楠の語る「愛国心」の問題は、現代にも通ずるところが多い。


熊楠の「神社合祀批判」

 1906年に「神社合祀令」が出される。これは全国、一町村に一社とし、神社を少なくし管理しやすくする目的で行われた。この合祀令が出されてから1914年までの八年間ほどのあいだに全国の小さな神社が次々と潰され、神社の数が激減するというできごとがあった。県単位で実施されたため、神社減少の数は県によってまちまちだったが、特に三重県と熊楠のお膝元、和歌山県でひどかった。
 この神社合祀令を猛烈に批判したのが、南方熊楠だった。

合併社趾の鬱蒼たりし古木は、伐り払われ、売られ、代金は疾くに神事以外の方面に流通し去られて、切株のみ残りて何の功なし。古木などむやみに伐り散らすは人気を荒くし、児童に、従来あり来たりし旧物一切破壊して悔ゆることなかるべき危険思想を注入す。


と厳しく批判している。
 熊楠は神社合祀における八つの弊害、問題点を指摘している。

一、敬神思想を薄くする。
二、民の和融を妨げる。
三、地方の凋落を来たす。
四、人情風俗を害す。
五、愛郷心と愛国心を減じる。
六、治安、民利を損じる。
七、史蹟、古伝を滅ぼす。
八、学術上貴重の天然記念物を減却する。

 粘菌学者でもあった熊楠だけに動植物の絶滅を心配している。だが、それだけでなく、歴史、民俗学にも詳しかった熊楠は史蹟、古伝の滅失も、さらには、風俗、文化、政治、経済、思想、心理といった、幅広い観点から神社合祀を批判している。
 熊楠は、目の前で切り倒されていく鎮守の森、破壊されていく旧くからの神社を見ながら、それが「私利を計る官公吏」や「不埒」「非義饕餮」の神職による金の問題であると喝破する。そして、

この神職輩の年に一度という講習大会の様子を見るに、(1)素盞嗚尊と月読尊とは同神か異神か、(2)高天の原は何方にありや、(3)持統天皇、春過ぎての歌の真意如何など、呆れ返ったことを問いに県属が来るに、よい加減な返事を一、二人の先達がするを、十余人が黙して聞きおるなり。米の安からぬ世に、さりとは無用の人のために冗職を設けることと驚き入るばかりなり。


と痛烈に批判している。熊楠のような博学な人間が、こうした「知」のやり取りを批判しているところに意味がある。
 熊楠は日本で初めて「エコロジー」という言葉を使ったことで知られるが、「エコ、エコ」と言っても、「そうは言っても開発したほうが経済が良くなる」と言うであろう人民の“本音”を見抜いていた。だから、神社合祀による神社の滅失、鎮守の森の伐採は、地方経済にとっても実は悪影響なのである、というような言い方をする。

また従来最寄りの神社参詣を宛て込み、果物、駄菓子、鮓、茶を売り、鰥寡貧弱の生活を助け、祭祀に行商して自他に利益し、また旗、幟、幕、衣裳を染めて租税を払いし者多し。いずれも廃社多きため太く職を失い難渋おびただし。村民もまた他大字の社へ詣るに衣服を新調し、あるいは大いに修補し、賽銭も恥ずかしからぬよう多く持ち、はなはだしきは宿り掛けの宿料を持たざるべからず。以前は参拝や祭礼にいかに多銭を費やすも、みなその大字民の手に落ちたるに、今は然らず、一文失うも永くこの大字に帰らず、他村他大字の得となる。故に参詣自然に少なく、金銭の流通一方に偏す。


 全国各地の小さな神社が、いかに経済システムとして優れていたかを熊楠は語る。

 現代でも地方の経済の衰退が問題になり、どうすれば地方の経済が活性化するかという議論はしばしば行われる。そして経済活性化のために「開発」を唱える人は少なくない。日本各地にある原発なども、原発を誘致すれば町や村の経済が潤う、活性化する、という口車に乗せられて建てられたものばかりだ。熊楠が『神社合祀に関する意見』で批判した構図とまったく同じである。
 昔からそこにある小さな神社が、地域の経済に如何に寄与しているかを熊楠は説明する。熊楠がわざわざこうした説明をするのは、今も昔も「自然や伝統も大事だが経済だって大事だ」と言う人が多いからだ。

 山口県の長島に上関原発という原発がある。この原発の計画過程で、四代八幡宮という地元の神社の鎮守の森を伐採する計画があったとか。しかもその計画を神社本庁が推進していたという話がある。この話は情報が少なくて真偽の程は定かではないのだが、もし本当だとしたら熊楠の時代も現代もあまり変わっていないということになる。

千百年来の由緒あり、いずれも皇室に縁故ある諸神を祀れる神社を破壊、公売するより、見習うて不届き至極の破壊主義を思いつくようでは、国家に取りて何たる不祥事ぞ。




熊楠にとって「愛国」とは

 現代の「愛国」は全然、愛国ではない、と感じることがよくある。ネット上の日の丸アイコンの人たちの言動を見ていると、

古い古いと自国を自慢するが常なる日本人ほど旧物を破壊する民なしとは、建国わずか百三十余年の米国人の口よりすら毎々嗤笑の態度をもって言わるるを聞くなり。


という熊楠の言葉をいつも思い起こす。

 今はもう無くなってしまったが、「国立競技場ザハ案」というのがあった。建築家のザハ・ハディドが提案した巨大な競技場で、建てるには東京の貴重な緑地である神宮外苑の森を一部破壊する必要のある案だった。当然、批判の声がたくさん上がったのだが、ネット上の日の丸アイコンの人たちは、「作ってやろうじゃないか」、「作って日本の技術力の高さを世界に見せつけてやろうじゃないか」という賛成意見の人が多く見受けられた。
 あのとき、「ああ、この人たちにとってはこれが“愛国”なのか」と思った。
 明治神宮の森である。日本の精神の中枢と言ってもいい。それを明治神宮の何たるかも解っていない外国人建築家の作品発表の場所として貸してあげようというのである。作品と言っても部屋の中に飾れるような作品ではない。神宮外苑の景観を一変させてしまうような超巨大な作品である。

 昔も今も「愛国者」たちは「開発」によって日本の経済が豊かになり、日本が経済的に、あるいは軍事的にも強くなるよう目指すことが「愛国」なのだと思っている。「だって、伝統とか自然を守りましょうとばかり言っていたのでは、全然新しいことができなくて、日本はどんどん遅れていくばかりでしょう?」と思っている。
 でも「伝統」や「自然」を守ることと「最先端」とは両立するのだということは、熊楠の人生そのものが教えてくれる。熊楠は東大を飛び出し、アメリカ、イギリスに渡り、英科学誌『ネイチャー』で多数の論文を発表していた。この生き方は当時の日本人のまさに「最先端の」、いや、日本人の枠を突き破るほどの進んだ生き方だった。熊楠の研究内容は時代を100年以上先取りしていたとも言われる。

 当時、明らかに日本人より「上」に見られていた西洋人に対し、時には「上から目線」のような態度で論駁する熊楠という「思想」は、外国人建築家の建物を有り難がる思想とは真逆の思想である。

 私は現代にもっと熊楠のような「愛国心」を持った人が増えてほしいと思う。

 熊楠曰く、

祖先来四百年以上奉崇し来たれる古社を滅却せんとする心もて愛国心など説きたればとて、誰かこれを信ぜん。


かくまで百方に大害ある合祀を奨励して、一方には愛国心、敬神思想を鼓吹し、鋭意国家の日進を謀ると称す。何ぞ下痢を停めんとて氷を喫うに異ならん。


等々、『神社合祀に関する意見』には11回ほど「愛国」という言葉が出てくる。
 そして最後は「何とぞ愛国篤志の人士が一人たりともこれを読んでその要を摘」むことを望む、と締め括られている。


今こそ熊楠の「愛国心」を思い起こすとき

 学者でもあらせられた昭和天皇は特別に熊楠による粘菌の進講を所望された。そのとき熊楠が粘菌をキャラメルの箱に入れて献上した話は有名である。
 熊楠はこのときのことを喜び、

一枝もこころして吹け沖つ風 わが天皇(すめらぎ)のめてましし森ぞ


という歌を残している。
 一方の昭和天皇も昭和37年和歌山行幸の際、

雨にけふる神島を見て 紀伊の国の生みし南方熊楠を思ふ


という御製を残されている。

 南方熊楠生誕150年。今こそ熊楠の「愛国心」をあらためて思い起こす時ではないか。

 

※文中引用はすべて『南方熊楠コレクション第五巻 森の思想』河出文庫より

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兎狗分離の提案 〜マイナンバーと早期の“日本の電子化”の実現のために〜

電子化で遅れすぎている日本

 マイナンバー制度の諸々の取組の遅さに焦燥感を感じている。
 現段階で計画されていることは、今から一年以内くらいには実現してほしいが、マイナポータルの実用開始が遅れるなど雲行きが怪しくなってきている。「2020年の東京オリンピックのころには」と言うのでは遅すぎる。日本はただでさえ電子政府化の取組が遅れているのに、これ以上遅くなるようなことは耐えられない。


遅れの原因

 遅れの原因はいくつかある。
 一つにはセキュリティに慎重になっている、つまり拙速にならないよう、念には念を入れて準備をしているから。
 もう一つには、やはり国民からの不人気がある。国がマイナンバー制度を推進しても、自治体が乗り気でない。そして何より国民がマイナンバー制度を嫌ってる人が多い。国民が嫌ってるなら、自治体も金をかけてまでシステムを改修しようと思わない。自治体が動かなければ利便性は高まらないので、国民はますますカードを持たない。


マイナンバーカードの普及率の低さが日本の“電子化”を阻む

 マイナンバーカード(以下、カード、マイカ等と略す)が普及しないことによる弊害がある。それは、日常のあらゆる手続きの電子化が進まないことである。目下のところ、国民がマイカを持たなければ、電子証明書を手にすることはない。となれば、行政レベルでも民間レベルでも、電子化は進まない。


マイナンバーとカードが相互に足を引っ張る

 今はまさにマイナンバーとカードがお互いに足を引っ張っている状態にある。私はマイナンバーは一旦置いておくとしても、マイキーには走ってもらいたいと思っている。国はマイナンバーを走らせたいと思っているが、カードの普及が思うように進まず前進できないでいる。マイキーはマイナンバーの不評の煽りを受けて、これまた前に進めずにいる。

 そこで、この二つを分離してはどうか。
 兎と狗の分離である。


二人三脚からの兎狗分離(とくぶんり)
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 兎(マイナンバー)と狗(マイキー)をそれぞれ走らせるためには、いまお互いに脚が絡まり縺れ合っているこの二匹を分離する。二人三脚の脚紐を解いてやれば、走りやすくなるはずだ。
 マイナンバーはすでに普及が完了している。それなのに足の遅い狗を二人三脚で引き連れているために、まったく前に進むことができないでいる。一方、狗は、みんなの嫌われ者の兎とペアを組んでしまっているために、自分までが嫌われてしまっている状態にある。
 そこで、この二匹を引き離すのである。

 マイナンバーとマイキーカードに分けるのである。

 すでに普及が完了しているマイナンバーと、これから普及を目指すマイキーを一緒のカードで括っているのは、クラスで一番足の速い子と一番足の遅い子を二人三脚のペアにしているようなものである。
 狗という足枷が外れて身軽になったマイナちゃんは、クラスのみんなからどんなに嫌われようが、目標に向かって邁進できるようになる。
 マイキーくんは、「マイナとかいうあの兎と同じグループなんでしょ!」というクラスメートからの誤解が解けて、我が道を進むことができる。

 具体的には、マイカのICチップの中に入っているマイキー部分のユニットをマイナンバーが書かれていない別のカードとして独立させる。


マイキーカードの誕生

 このカードは「カード」と言っても必ずしもプラスチック製のカードである必要はない。大事なのは電子証明書を中心としたユニットなので、それをどこかの端末に取り込む。例えば今ならスマートフォンなどがいいだろう。スマホなら国民の大半が持っているから。端末内へのセキュアな格納が完了してからマイナンバーを切り離す。そうすれば、「マイナンバーカード」ではない所謂「マイキーカード」が誕生する。
 国民みんなが嫌いなマイナンバーが入っていないので、このカードは普及し、マイキープラットフォームを中心とした日常生活の電子化、オンライン化は加速する。


マイナンバーは所期の目的を果たしやすくなる

 「分離によってマイキーにメリットがあるとして、マイナンバーはどうなるの?マイナンバー側にメリットがなかったら国はつまらないんじゃないの?」と思う人もいるかもしれない。

 だが、分離はマイナンバー側にもメリットがある。マイナンバーの所期の目的である税と社会保障が進まないのは、狗に足を引っ張られているからだ。
 「普及」をゴールとすると、兎はとっくにゴールに達しているのだ。今は足の遅い狗を待っている状況だ。マイナンバーの国民への普及(付帯)は2016年にとっくに完了している。狗と足並みを揃えるという制約がなければ、もうゴールに到達している兎は、のびのびと税や社会保障との結び付きに勤しむことができる。


一日も早い電子化、オンライン化の実現を

 日本国民の間で大不評のマイナちゃん。仮にあまりの評判の悪さから国がマイナンバー制度を廃止したとして、その時に「狡兎死して走狗煮らる」ことを私は怖れている。
 兎が死ぬだけではなく、狗まで共倒れになったら目も当てられない。「電子政府化の仕組みを一から作り直しましょう」と言う人もいるかもしれないが、「10年後の実用化を目指して」、「20年後を目処に」などと言われたら気が遠くなる。ただでさえ電子化の取組が遅れている日本。世界各国の電子化が進む中、日本だけが前世紀に留まるようなことは私は耐えられない。

 「日本の電子化」の実現に、今、最も近いところにいるのはマイキーだ。だからこそ、二人三脚の脚紐を解いてでも、狗には走ってほしい。


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「上皇后」、「皇嗣殿下」でよいのか

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 天皇の退位に関する有識者会議の最終報告案が出た。それによると、天皇が譲位されると、その名称は「上皇」に、皇后は「上皇后」に、秋篠宮殿下は「皇嗣殿下」になる可能性がある。

 この三つのうち、「上皇」は分かる。「太上天皇」だと「天皇」という言葉が入っているので天皇が二人いるような印象を与える。

 だが、あとの二つには少しく違和感を感じる。


「皇太后」ではだめなのか

 美智子さまは「上皇后」と呼ばれるようになるという。「上皇后」は新設の名称である。昔からある「皇太后」をなぜ使わないのか。
 考えられる理由の一つは、「上皇」と「皇太后」だと“ペア感”がいまいちだから。「太上天皇」と「皇太后」だったら両方に「太」の字も入っていてペア感がある。「上皇」と「上皇后」だったらペア感がある。「御夫婦で共に歩んでこられた」ということを重視しているのだろう。

 しかしそれとは別に看過できない理由がある。それは、政府の有識者会議が言っている「『皇太后』には未亡人というイメージがある」という理由である。有識者会議は、香淳皇太后の例をあげて国民の間には「皇太后=未亡人」というイメージがある、と言っている。これはおかしい。
 今の10代や20代、あるいは30代や40代くらいの人でも、美智子皇后は知っているが香淳皇太后はよく知らないという人はたくさんいるはずである。そもそも「未亡人」という言葉自体が現代では使われない。有識者会議のメンバーの先生方は世代的に香淳皇太后をよく知っているかもしれないが、自分たちが世代的にピンと来るからと言って若い世代の感覚を無視するのはおかしい。

 「『上皇』と言ったら院政を敷いているイメージがある」と言う人もいるが、そんなことを言うのは、昭和生まれと平成生まれの人間だけであって、新しい元号生まれの人たちにとっては「上皇」と言ったら「あのお方」のことである。
 それと同じで、美智子皇后が「皇太后」になったら、「皇太后」という言葉のイメージは塗り替えられ、「皇太后と言えばあのお方」ということになるのである。


有識者会議が「上皇后」の新設を考えるもう一つの理由

 有識者会議が「上皇后」という名称を新しく提案している背景の一つとして、「御夫婦の単位で」という問題があると思われる。
 「御夫婦の単位」を考える時に、皇太后の謂わば「職権」に関する問題がある。
 例えば摂政への就任資格。上皇(仮)は摂政になれなくて皇太后(仮)は摂政になれるとすると、夫婦で揃わなくなる。妻はいいけど夫はだめ、ということになる。
 今上天皇は高齢による御公務の困難等を理由に譲位されるわけだから、譲位後に摂政に就けるようにするのはおかしい。
となると、夫婦単位で揃えるためには、皇太后から今ある摂政への就任資格をなくすことになる。これは典範の根本的改定になる。
 そこで、どうするか。

「夫婦単位」と考えられるのは、夫(または妻)が生きているあいだである。そのように考えて、「夫がいる皇太后」と「夫がいない皇太后」に分ける。
 不謹慎ながら、仮に上皇が先に薨った場合は、その時が来るまでは「上皇后」、その時が来たら名称が変わって「皇太后」となる。夫君が生きておられるあいだは、「夫婦単位」なので資格を制限し、なき後は謂わば「お独り身」なので、ある程度、行動の幅も広がり、資格も復活する。その場合に、「夫が生きているあいだの皇太后」と「夫なき後の皇太后」を区別する必要から、有識者会議は「上皇后」という新たな名称を考え出したのではないだろうか。


「皇太弟」ではだめなのか

 秋篠宮様を「皇嗣殿下」とお呼びする、という案を有識者会議が出している。会議がヒアリングに招いた学者からは出ていなかった案だ。これも新しい名称と言える。「皇嗣」というのは「世継ぎ」という意味だ。つまり皇位継承順位第一位であることを明確にする意味がある。
 だが、そもそも皇位継承順位を名称によって明らかにしなくても、皇室典範によって順位は明確に決まっている。わざわざその名称で呼ぶ必要があるのだろうか。
 典範にある「皇太孫」という言葉との整合性をとって「皇太弟」でよいのではないか。若しくは「皇太子」でもいい。歴史的にはこちらが一般的だが。
 ただ「皇太子」は現行典範の上では難しいかもしれない。典範では、皇太子とは「皇嗣たる皇子」と定められているから。「皇子」とは天皇の子供。秋篠宮様は新しい天皇の子供ではない。

 「皇太弟」、「皇太子」以外だと、「儲君」があり得る。「儲君(チョクン、もうけのきみ)」は、歴史的には「皇太子」のような意味だが、「次に皇位を継ぐ者」という意味なので「皇嗣」の意味にかぎりなく近い。
 なので「皇嗣殿下」と言うぐらいだったら(立太子礼を行わないのだったら)「儲君殿下」でいい。


日本語を先にして考えよう

 今回、このような「上皇后」や「皇嗣殿下」という案が出た理由の背景として、英語名称との兼ね合いがあると思われる。つまり、「皇太弟」を直訳してしまうと、外国で、今までの皇太子と同格だと思われないのではないか、ということを心配してこうした案を出しているのではないだろうか、ということである。
 「皇太后」の公式英訳「empress dowager」の「dowager」には「未亡人」という意味がある。だから都合が悪い、というわけである。
 しかしそれなら、英語の訳語の方をうまく適当なものを見つければよいだけのことではないのか。秋篠宮様の英語名称は、従来の「皇太子」の英訳である「crown prince」で行くことがほぼ決まっている。日本語名称が「皇太弟」で、その英訳が「crown prince」でも別によいのではないか。それと同じように、「皇太后」も適切な英訳語を当てればよいだけという気がする。

 これは「マイネームイズ、ヤマダ・タロウ」を「マイネームイズ、タロウ・ヤマダ」と言うようなものである。一般人は「ヤマダ・タロウ」だろうが「タロウ・ヤマダ」だろうがどっちでもいいかもしれないが、天皇制は日本の伝統の根幹に関わることなのだから、“外国に配慮して”名称を考える、というのは違う気がする。


官邸の意嚮に寄りすぎている最終報告案

 今回の有識者会議の最終報告案に目を通してみて感じたことは、全体的に首相官邸の意嚮に寄りすぎている、ということだ。
 首相には今回の退位を「一代限り」の特別なことにしたいという意嚮があると思われる。「上皇后」という言葉の新設にも、歴史上に登場する言葉とは変えることによって、歴史の中に位置づけるのではなく、「あのときは例外中の例外で特別だった」ということにしたいという意図が透けて見える。だから「上皇后」は過去にも登場しないし未来にも登場しない。美智子様だけの名称となる。
 ただ、そのような「官邸の意嚮」ばかりでは一学者として面白くないのか、会議の座長代理を務めた御厨氏は今回決めたことは「先例」になる、として、未来に影響を与えることは必至であると釘を刺している。

 私は「特例法」を作ることには同意だが、それは天皇の御高齢、御健康の問題が「今まさに現在」の問題で先延ばしにできないからであり、基本的には天皇制の中に「例外」や「新規」を設けるべきではないと考える。
 もし「現代だけの特例」というならば、どのような時代の事情があって、いかに苦心して法律を取りまとめるに至ったかを後世の人たちに説明する文言を盛り込むべきだろう。

 有識者会議の先生方にはあらためて深慮いただきたいことである。
 いや、もう有識者会議は終わってるから、総理にお願いすべきか。

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天皇譲位に伴う課題(2016/08/09)

さようなら、オバマ大統領

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 さようなら、オバマ大統領。

 あなたは私が知っているかぎり、最もまともなアメリカ合衆国大統領でした。

 あなたが銃で亡くなった子どものことを思うと涙が出る、と言って涙を流したのを忘れません。「あんなのパフォーマンスだよ」と言う人もいるでしょうが、パフォーマンスですら涙を流さない人よりマシです。

 「経済政策はひどかった。任期中にアメリカ経済は全然良くならなかった」と言う人もいるかもしれませんが、経済政策よりも重要なのは、先ずは「まともな人間」であることです。

 アメリカ大統領の考えや行動は、アメリカ国民ならず、世界中の人々の人生に影響するからです。イラクやアフガニスタンを空爆し無辜の民を大量に殺して、「ごめん、ごめん、誤爆、誤爆」と言っていた大統領もかつていました。

 「オバマはリーダーシップに欠けていた。在任中に大した実績を何も残さなかった」。

 それでも世界中に悪や憎悪をばら撒くよりはマシです。

 広島を訪れたオバマ大統領。できれば在任中に沖縄を訪れてほしかった。

 私の知るかぎりでは、もっとも人間的な、人間として当たり前の感覚、感情を持っていた米国大統領でした。

 さようなら、オバマ大統領。

兎と狗の違い 〜マイナンバーカードの眼目〜

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 今まで何回もこのブログで、マイナンバーについて書いて来たが、やはりまだまだ多くの人が兎と狗の違いを解っていない、と感じる。

 図書館でマイナンバーカードが使われるようになるとか、商店街でポイントが貯まるようになるとか、そのようなニュースが流れる度に、マイナンバーカード批判の声をたくさん聞く。批判は結構なことだが、それらの批判の多くがあまりにも的外れな批判ばかりである。

 さすがに「まったく関係ない」とまでは言わないけれども、しかし狗は、その大部分において兎とは関係がない。にもかかわらず、多くの人が兎と狗をごっちゃにしてしまっているのは、この二匹の名前が似ているからかもしれない。兎の名前は「マイナ」、狗の名前は「マイキー」、名前が似てるから人々はこの二匹を混同して語る。しかし狗が持ってる鍵は兎の耳とはほとんど関係がないのである。

 マイナンバーカードに反対し批判する人たちは、もしかしたら将来的に「狡兎死して走狗煮らる」ならぬ「狡兎“活きて”走狗煮らる」事態が来ることを予想して批判しているのかもしれない。つまり、狗が兎の“活躍”に貢献する、と。だから「兎に反対の私たちは、狗を持ちたくないんです」と。

 そこまで考えて批判しているなら、それはそれで聞く耳は持つけれども、しかし、狗は兎のために走るというよりは、自らの持つ価値のために走る、という側面が大きいことを知らなければならない。

 この狗はただの「兎のための」狗ではない。物凄く大きなポテンシャルを秘めた狗である。

 マイナンバー制度にしろマイナンバーカードにしろ、私は賛成を強制するわけではない。賛成意見も反対意見もあっていい。だが「私は兎が嫌いだから狗も嫌いです」と言うのはおかしい。

 マイナンバーカードにはたしかに番号が書いてある。しかしこれは言わば「おまけ」みたいなものである。顔写真も付いているから身分証明書にもなります、というのも「おまけ」の機能である。

「身分証明書として“も”使えます」
「番号確認に“も”使えます」

ということで、「おまけとしてそんな風にも使えますよ」というようなものである。QRコードだって「おまけ」である。

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 マイナンバーカードの眼目はそんなところにあるのではない。狗の眼に注目してほしい。眼から鍵に向かって「JPKI」と読めるだろう。眼に「眼目」が描かれているのだから、こんなに分かりやすいことはない。マイナンバーカードの眼目はまさにこの狗の眼目が物語っている。それは、ICチップの中に入っている狗、即ち、公的個人認証(と空き領域)である。そして、この狗(マイキー)は兎の耳(ナンバー)とは関係がない。

 個人認証の中には基本4情報、即ち、住所、氏名、生年月日、性別は入っている。

 「だから、その個人情報を使われるのが嫌なんですよ」

と言うのかもしれないが、それならそれで兎批判とはまた別けて批判すべきことである。

 私はマイナンバーカード批判は大いにあってよいと思う。私たち日本国民の生活に大きく関わってくることなのだから、批判はあって当然である。しかし、今まで私が見聞きしてきたマイナンバーカード批判は、何れも、この兎と狗を混同した頓珍漢なものばかりだった。

 マイナンバーカードはオンラインにおける本人認証が主たる用途になってくる。

 「なんでカードを作ってしまってから使い道を考えてるの?官僚が住基カードの二の舞と批判されないためにあの手この手で普及策を無理やり考えてるとしか思えない。普及しなかったら、また壮大な税金の無駄遣いになって責任者である自分たちの首が飛んでしまうからね」

 そういう批判をよく目にする。しかしそうではない。今、マイナンバーカードと連携する実験が進んでいるものは、ほとんどがカードができる前から計画されていたものである。

 マイナンバーカードは、現代のネット社会を睨み、これから益々オンラインにおける本人認証が重要になってくることを想定して作られた、と私は思っている。ただ、その場にたまたま機械がなかったりして、本人が目の前にいてなおかつカードも持っているのに本人認証ができなかったら、なんか残念だから、対面でも、つまりオフラインでも認証ができるように、券面に顔写真や氏名や生年などの情報を載せたのである。

 つまり、オンライン用途が「主」であり券面は言わば「付属」、「おまけ」みたいなものである。ところが今、マイナンバーカードを批判している人たちは皆、この「おまけ」の方ばかり見て批判している。

 こんなにも的外れな批判が多いのは、おそらく名前のせいもあると思う。「マイナンバーカード」という名前だから、人々は「マイナンバーのカードだ」と思うのだろう。「JPKIカード」、「個人認証カード」などと名前を変えたらどうだろう。

 「嫌いだから近づかないようにしている」人もいるかもしれないが、出来上がってしまってから「ああ、やっぱり国が作るものはロクなもんじゃなかった」と言うのでは遅い。

 「マイナンバーカードって、もう出来上がってるんじゃないの?」

 そんなことはない。出来上がったのは外郭だけであって、「狗」の部分については今まさに「考え中」なのだ。だからこそ、文句があるなら今の内に言う必要がある。そのためには先ず兎と狗の別が解っていないと批判は始められない。


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