暫定龍吟録

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兎と狗の違い 〜マイナンバーカードの眼目〜

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 今まで何回もこのブログで、マイナンバーについて書いて来たが、やはりまだまだ多くの人が兎と狗の違いを解っていない、と感じる。

 図書館でマイナンバーカードが使われるようになるとか、商店街でポイントが貯まるようになるとか、そのようなニュースが流れる度に、マイナンバーカード批判の声をたくさん聞く。批判は結構なことだが、それらの批判の多くがあまりにも的外れな批判ばかりである。

 さすがに「まったく関係ない」とまでは言わないけれども、しかし狗は、その大部分において兎とは関係がない。にもかかわらず、多くの人が兎と狗をごっちゃにしてしまっているのは、この二匹の名前が似ているからかもしれない。兎の名前は「マイナ」、狗の名前は「マイキー」、名前が似てるから人々はこの二匹を混同して語る。しかし狗が持ってる鍵は兎の耳とはほとんど関係がないのである。

 マイナンバーカードに反対し批判する人たちは、もしかしたら将来的に「狡兎死して走狗煮らる」ならぬ「狡兎“活きて”走狗煮らる」事態が来ることを予想して批判しているのかもしれない。つまり、狗が兎の“活躍”に貢献する、と。だから「兎に反対の私たちは、狗を持ちたくないんです」と。

 そこまで考えて批判しているなら、それはそれで聞く耳は持つけれども、しかし、狗は兎のために走るというよりは、自らの持つ価値のために走る、という側面が大きいことを知らなければならない。

 この狗はただの「兎のための」狗ではない。物凄く大きなポテンシャルを秘めた狗である。

 マイナンバー制度にしろマイナンバーカードにしろ、私は賛成を強制するわけではない。賛成意見も反対意見もあっていい。だが「私は兎が嫌いだから狗も嫌いです」と言うのはおかしい。

 マイナンバーカードにはたしかに番号が書いてある。しかしこれは言わば「おまけ」みたいなものである。顔写真も付いているから身分証明書にもなります、というのも「おまけ」の機能である。

「身分証明書として“も”使えます」
「番号確認に“も”使えます」

ということで、「おまけとしてそんな風にも使えますよ」というようなものである。QRコードだって「おまけ」である。

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 マイナンバーカードの眼目はそんなところにあるのではない。狗の眼に注目してほしい。眼から鍵に向かって「JPKI」と読めるだろう。眼に「眼目」が描かれているのだから、こんなに分かりやすいことはない。マイナンバーカードの眼目はまさにこの狗の眼目が物語っている。それは、ICチップの中に入っている狗、即ち、公的個人認証(と空き領域)である。そして、この狗(マイキー)は兎の耳(ナンバー)とは関係がない。

 個人認証の中には基本4情報、即ち、住所、氏名、生年月日、性別は入っている。

 「だから、その個人情報を使われるのが嫌なんですよ」

と言うのかもしれないが、それならそれで兎批判とはまた別けて批判すべきことである。

 私はマイナンバーカード批判は大いにあってよいと思う。私たち日本国民の生活に大きく関わってくることなのだから、批判はあって当然である。しかし、今まで私が見聞きしてきたマイナンバーカード批判は、何れも、この兎と狗を混同した頓珍漢なものばかりだった。

 マイナンバーカードはオンラインにおける本人認証が主たる用途になってくる。

 「なんでカードを作ってしまってから使い道を考えてるの?官僚が住基カードの二の舞と批判されないためにあの手この手で普及策を無理やり考えてるとしか思えない。普及しなかったら、また壮大な税金の無駄遣いになって責任者である自分たちの首が飛んでしまうからね」

 そういう批判をよく目にする。しかしそうではない。今、マイナンバーカードと連携する実験が進んでいるものは、ほとんどがカードができる前から計画されていたものである。

 マイナンバーカードは、現代のネット社会を睨み、これから益々オンラインにおける本人認証が重要になってくることを想定して作られた、と私は思っている。ただ、その場にたまたま機械がなかったりして、本人が目の前にいてなおかつカードも持っているのに本人認証ができなかったら、なんか残念だから、対面でも、つまりオフラインでも認証ができるように、券面に顔写真や氏名や生年などの情報を載せたのである。

 つまり、オンライン用途が「主」であり券面は言わば「付属」、「おまけ」みたいなものである。ところが今、マイナンバーカードを批判している人たちは皆、この「おまけ」の方ばかり見て批判している。

 こんなにも的外れな批判が多いのは、おそらく名前のせいもあると思う。「マイナンバーカード」という名前だから、人々は「マイナンバーのカードだ」と思うのだろう。「JPKIカード」、「個人認証カード」などと名前を変えたらどうだろう。

 「嫌いだから近づかないようにしている」人もいるかもしれないが、出来上がってしまってから「ああ、やっぱり国が作るものはロクなもんじゃなかった」と言うのでは遅い。

 「マイナンバーカードって、もう出来上がってるんじゃないの?」

 そんなことはない。出来上がったのは外郭だけであって、「狗」の部分については今まさに「考え中」なのだ。だからこそ、文句があるなら今の内に言う必要がある。そのためには先ず兎と狗の別が解っていないと批判は始められない。


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Decentralized化する世界

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 米大統領選でヒラリー・クリントンを倒してドナルド・トランプが選ばれた時、ビットコインの価格が高騰した。(と言ってもビットコインのそれまでの歴史から見れば小さな高騰ではあったが。)

 ビットコインとドナルド・トランプは相性がいい。ビットコインとドナルド・トランプには共通項がある。それは、"Decentralized(非中央集権化、分権化)"だ。

 ビットコインブロックチェーンについて語られる時、いつも"Decentralized"という言葉を聞く。トランプ大統領が口で言ってることをどこまで実行に移すかは分からないが、その思想もまたDecentralizedである。

 アメリカという国は今までも好き勝手やってきた。世界の各々の国や地域の実情は無視し、"Globalism"の名の下に「アメリカ流」のやり方や常識を押し付けてきた。しかしそれはアメリカを中心とした「世界」作りの一貫として行われてきた。21世紀は「パックス・アメリカーナ」の時代になると言われていた。その象徴とも言える言葉がGlobalismだった。Globalismはそれぞれの国、地域の文化、実情、常識、つまり都合を無視し、アメリカの常識を押し付けるものと斉しくなっていた。

 トランプもまたアメリカの利益のことばかりを考え、他の国々のことは慮っていない。そういう意味では「アメリカ流」を押し通そうとしている姿勢は同じだと言えるが、大きく違うのは、Globalismの流れにおいては、アメリカは「世界の警察」、「世界のリーダー」として自国の都合を押し通そうとしていた、ということだ。トランプはアメリカが世界の警察であり続けることは「負担(特に経済的負担)」であると考えている。

 "Decentralized"を日本語で「分散化」と訳すと、「だから、環境問題やテロとの戦いなどのグローバルな問題を世界の国々が少しづつ分担して解決を目指すのでしょう」と思われる。しかしここで言うDecentralizedは「分散化」と言うよりは「非中央化」である。


非中央化とは何か

 「非中央化」とは中央から離れるということである。では「中央」とは何か。

 中央とは地球温暖化問題やテロとの戦い、TPPなど、世界的に取り組まなければならない問題に取り組むときの枠組や組織である。国連やG8がそうだし、EUもヨーロッパの「中央」である。

 2016年、イギリスとアメリカという兄弟または親子のような関係にある二つの国が、それぞれ"Decentralization"の道を択んだ。Decentralizedには、メリットとデメリットがある。

 イギリスと対極的なのなドイツで、ドイツはずっとヨーロッパの“顔”としての役割を果たして来た。メルケルはドイツ国内の問題だけでなく、ヨーロッパ全体の問題についても責任を持って仕事をしてきた。温暖化問題などの世界的問題にも積極的に取り組んで来た。その結果、EU内におけるドイツの地位は高まり、発言力も大きくなった。今のヨーロッパには誰もメルケルのドイツには逆らえない雰囲気がある。

 一方、デメリットとしては負担が大きすぎる、ということが挙げられる。数年前のギリシャ問題のときも、「なぜウチらがギリシャの面倒をみてやらなければならないんだ」という国内からの不満の声がたくさんあった。国内の問題も山積みなのに中央(ここではEU)の仕事もしなければならない。イギリスは中央の仕事の負担軽減のために"Brexit"を択んだ。負担は軽減するが、中央における地位、発言力の低下、というデメリットがある。

 アメリカもまたトランプ大統領が中央から離れようとしている。真っ先にTPPからの離脱を表明したが、この先、地球温暖化対策やテロとの戦いなど、世界的規模で協力して取り組んで来た問題からも手を引いていくかもしれない。

 こうした動きは、政治の世界で「保護主義」、「孤立主義」などと言われるスタイルと似てくる。

 もっともアメリカの長い歴史においては、孤立主義的傾向を示す時代は長かった。第二次世界大戦後、「戦争のうまみ」が増すにつれ、アメリカは世界の中央に出て来た。父ブッシュ、子ブッシュ時代の戦争はパックス・アメリカーナの象徴のような出来事だった。だがその後、アメリカはだんだん中央から手を引いていくようになる。

 古代から戦争は領土の奪い合いだった。戦争に勝つと領土が手に入る、これが大きな動機だった。だが国と国との戦争からテロとの戦いの時代になり、肝腎の戦利品としての領土が手に入らなくなった。今問題になっているIS(イスラミックステート)などは国ですらない。テロは世界各地で予測不可能的に起こり、それに勝利したとしても、それは単に「テロを食い止めた」というだけで領土獲得のような“うまみ”はない。

 「ドナルド・トランプは内向きなのか外向きなのか」と問う人がいる。自国内の問題に関心を持っているのか、それとも対外的な問題に関心を持っているのか。だがその問いの立て方は正しくない。トランプは内にも外にも両方関心を持っている。今までどおり、いやそれ以上に「偉大なアメリカ」を対外的に誇示しようとしている。ただ、その方法がDecentralizedなのである。せっかく力を持っているのだから、中央を介さずに直接誇示したり圧力をかけたりしたほうが早いというわけだ。


P2P化する世界

 非中央化、脱中央化は、決していわゆる外交に興味がないということではない。トランプはアメリカとロシアとの間の問題は米露間で個別に解決しようと考えている。中国との間の問題、日本との問題、メキシコとの問題は、それぞれ米中間、米日間、米墨間で解決を図るべきことだと考えているだろう。こうした関係はとてもP2P(ピアトゥーピア)的だ。中央を介さずに当事者同士で直接やり取りをする。ビットコインもそうだ。中央銀行を介さずに両者間で価値の移転を実現する。

 ビットコインを支持する人たちのあいだには、「中央なんか要らない」という考え方の人も多い。だが中央には“うまみ”もある。ドイツの例のように中央での発言力が増す、というのも一つだが、そもそも中央は「世界に対してある程度のコントロールが効く」というのが大きなメリットである。「中央銀行はなくなる。ビットコインのような仮想通貨だけの世の中になる」という人もいる。もし今、日本から日本銀行がなくなったとすると、経済のコントロールは失われ(今でもコントロールできてるのか?という疑問はあるが)、日本という国の経済の安定性は失われる。

 一方で、トランプの思想は、P2P的な世界をよしとする人々との強い親和性を持つ。


中央の役割

 では、「中央」は要らないのか。中央なんか無くしてそれぞれ個別にやり取りを行えばいいだけなのか。例えば今の日本から日本銀行を無くして、それぞれでお金のやり取りを(日本銀行券を使用せずに)行えばいいのか。

 中央には中央の役割がある。中央の役割は全体の「コントロール」であり「調整」である。

 個別に、例えば二国間でやり取りをすれば強い方が勝つ。太平洋上に長く太い綱が横たわっていて、それを日米間で綱引きをすれば、それは強い方が勝つだろう。この場合の“強い”は必ずしも軍事力や経済力ばかりではないが。だが、その綱の真ん中が滑車のように中央に引っかかっていれば、日米間の綱引きにも“調整”がかかる。どちらか弱い方が一方的に負けてしまわないようにするのも中央の役割である。

 また、地球温暖化問題のような“グローバルな”問題も、中央が解決しなければならない問題である。(地球が温暖化しているかどうかという議論は今は置いておいて)、日本一国だけがCO2をいくら削減しても、他の国々が協力して足並みを揃えなかったのでは、こうした問題は解決しない。テロとの戦いにおいても、今やテロは世界のどこで起こってもおかしくない。「テロに優しい国」があったのではいつまでたってもテロは無くならないのは、タックスヘイブンなどと同様である。


日本の孤立化は「孤立主義」の孤立ではない

 日本の孤立化は、英米のそれのような自国優先のための孤立ではない。また自発的な孤立でもない。「国際社会の一員として恥ずかしくない責務を果たす」と言って中央に出て行ったら、アメリカが自宅に帰ってしまって中央でぽつんと一人になってる状態である。

 日本の首相はアメリカの大統領に翻意を促しTPPへの復帰を求めているがはたしてどうなるか。トランプが自国に引き籠もってくれたらまだいいほうで、実際には(おそらく貿易を中心とした)過酷な綱引きを今後はどの国もしなければならなくなる。

 「Decentralized化する世界」と言っても、「中央」が無くなるなどとは私は思っていない。中央は今まで通り在り続ける。ただDecentralizedの“動き”には注意しておかなければならない。

 Decentralized化が進む世界で日本は今後どうするのだろう。

 世界のリーダーとして存在感を増していくか、Decentralized化の流れに乗って日本国内に引き籠もるか、それとも中央の真ん中で「僕はひとりぼっちだ」と叫ぶのか。一つの進路が問われる局面に来ている。

三浦九段に対する将棋連盟の対応は「悪手」だったとは言えない

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 将棋の三浦弘行九段が、出場が決まっていた竜王戦へ出場しないことになる、という異例の事態があった。

 三浦九段はすでに竜王への挑戦権を獲得していたが、将棋連盟から出場停止処分を受けて、竜王戦番勝負へは出られないことになり、丸山忠久九段が繰り上げで出場することになった。背景には、将棋ソフトを使った不正の疑いがある、としてネットでも一頻り話題になっている。

日本将棋連盟は12日、15日に開幕する第29期竜王戦七番勝負(読売新聞社主催)で、挑戦者の三浦弘行九段(42)が出場しないことになったと発表した。対局中、スマートフォンなどに搭載の将棋ソフトを使って不正をした疑いもあるとして、説明を求めたという。連盟は、期日までに休場届が出されなかったため、12月31日まで公式戦の出場停止処分とした。
三浦九段は朝日新聞の取材に「不正はしていません。ぬれぎぬです」と話し、今後の対応は弁護士と相談中という。
(中略)
対局中は持ち時間の範囲で対局室から出られるが、連盟によると、三浦九段は今夏以降、離席が目立っていたという。連盟側が11日の常務会で聞き取りをしたところ、対局中のスマホなどの使用を否定。「別室で休んでいただけ。疑念を持たれたままでは対局できない。休場したい」と話したという。期日の翌12日までに休場届が提出されず、連盟は処分を決めた。
(『朝日新聞』2016年10月13日)


 このニュースに対し、三浦九段を擁護し、将棋連盟の対応の仕方を非難する声をたくさん聞いた。

 私は将棋連盟の側から、今回の騒動を考察してみたいと思う。以下、ネットでよく見た意見を太字にして、それに対する私のコメントを書き綴っている。


「クロだとしたら今回の処分は軽すぎるし、シロだとしたら重すぎる」

 今回の処分は、約三カ月弱の公式戦への出場停止、である。本当に不正をしていたのなら「除名」「永久追放」ぐらいのことであり三カ月弱の停止では軽すぎる。一方、一切の不正をしていなかったのなら、三カ月でもペナルティは重すぎるし、何より今後の棋士人生で一生、「不正疑惑の人」という目で見られてしまう、という声。

 しかし私は、今回の処分は、朝日新聞の報道の通りだとすれば、直接的には、「不正疑惑」に対するものではなくて、「休場すると言ったのに休場届を出さなかった」ことに対する処分だと読める。そう解すれば、三カ月弱の出場停止というのは妥当な処分であると思う。


「やってもいないことを証明しろなんて悪魔の証明だ。連盟側が不正の証拠を提出すべきだ」

 しかし、連盟も不正したという証拠を提出するのはほとんど不可能なことなのだ。「休憩室に監視カメラを設置しておけばよかったじゃないか」という声もあったが、仮に休憩室でスマホを操作する三浦九段の姿が映っていたとしても、それだけでは不正の証拠にはならない。奥さんとメールのやり取りをしていただけかもしれないし、それは従来、棋士の自由である。


「連盟は指し手のソフトとの一致率や離席率を調べるべき」

 三浦九段の指し手がソフト(コンピューター)とどのくらい一致しているか、というのは、実際多くの将棋ファンが検証している。だが、三浦九段自身も言うように、最善の手を尽くせば指し手がソフトと一致しても何ら不思議ではない。三浦九段は昔から研究熱心な棋士として有名である。三浦九段以外も、現代の棋士たちの多くが研究段階でコンピューターソフトを活用している。ソフトは過去の強い棋士たちの棋譜を学んでいる。今や棋士とソフトはお互いに学ぶ関係にある。

 また、離席率にしても、それを調べて離席率がとても高い、ということが判ったところで、それを以て「だから不正だ」とは言えない。対局中の離席は、従来自由である。何回でも、何時間でも。


「そもそも将棋アプリってそんなに強いの?」

 強い。終盤の詰め筋を発見するだけなら、一般の将棋ゲームアプリで事足りる。

 だが、必ずしもスマホに将棋アプリが入っている必要はない。三浦九段は自分のスマホには将棋アプリが入っていない、と言っているが、本当に不正をしようと思えばメールができるだけでも十分である。将棋には「棋譜」というものがある。これは「5六歩、7七銀成」といった単なる文字である。外部に協力者がいれば、その協力者が自宅でもっと強いコンピュータープログラムを走らせ、その「答え」をテキストデータとしてメールで伝えるだけで十分である。

 将棋アプリが入っているか入っていないかという問題ではないのである。


「スマホの通信ログを調べればいい」

 スマホの通信ログを調べたところで、どうなろう。例えばメールに、

こんにちは。
今度また会おう。


というメールが残っていたとして、一行目は五文字で二行目は七文字だから「5七」だ。というような簡単な秘密のルールを作っておけば他人にはわからない。ある局面で5七に動かせる駒は限られているし、どの駒を動かすべきなのかはプロならばわかる。もちろん、ア行からワ行までにすべての駒を対応させておいて、メールの一文字目がタ行で始まったら「銀」だ、などというルールを作っておくこともできる。

 メールでもスマホでもなくて、例えばポケベルのような原始的な通信手段でもじゅうぶん不正は可能である。「監視カメラに映っていたスマホの画面は将棋アプリには見えなかった」などという理由でシロとは言えないのである。


「だからと言って、疑わしいというだけで処分するのはおかしい」

 だから、今回は不正疑義に関する処分ではなく、あくまで休場すると言ったのに休場届を出さなかったことに対する処分なのである。(不正疑義に関する部分を含むという見方もある。→「将棋ファンから見た三浦弘行九段のソフト不正使用疑惑と竜王戦の挑戦者交代 | 将棋ワンストップ・ニュース」)。

 休場届が書面として提出されなければ、連盟側としては「勝手に休んだ」ということであり、これは処分を下すのに十分な理由である。(もっともその時点ではまだ竜王戦は始まっていなかったので三浦九段が「休んだ」という実績は無い。)

 また、複数の棋士から不正行為の可能性を訴えられている連盟としては、「何もしない」というわけにもいかない。


「三浦九段は竜王戦を辞退するわけがないと言っている」

 三浦九段はNHKの取材に対して、確かにそう答えている。

 これは私の勝手な憶測でしかないが、常務会に事情聴取に呼ばれた三浦九段はA級棋士である自分が不正を疑われたことにカチンときて、「こんな疑いを持たれた状態では竜王戦に出場できない。(だから疑いを解いてほしい)」と言った。三浦九段は括弧の中の気持ちを強調して言ったつもりだったが、連盟側は「出場できない」のところを受け取った。出場できないと言うのなら「それでは休場届を出してください」と言うしかない。三浦九段は竜王戦には出たかったので休場届は出さなかった。連盟側としては休場届が出されなかったら、出場停止処分にするしかない。


「連盟の対応が問題を泥沼化させた」

 泥沼化したのは、メディアや(私を含む)ファンが、興味深く取り上げているからだと思う。

 そもそも連盟は、最初は処分を下すつもりではなく、「話を聞こうじゃないか、あなたの言い分を聞こうじゃないか」ということで話を聞いたのだと思う。シロかクロかを物的証拠ではっきりさせることなど至難なことであることが分かっていたからこそ、本人が「不正はしていませんが、これからは疑いを持たれないように、振る舞いには気をつけます」と言えば、それで終わりにするつもりだったのではないか。


「三浦九段が裁判に訴えたらどうか」

 それは泥沼化になる。

 証人として渡辺竜王が法廷で、「この手は不自然ですよねえ。いかにもコンピューターっぽい手だと思いませんか」と言ったとして、その手がコンピューターっぽいかどうかなんて裁判官の誰も解らない。


「当事者(利害関係者)が登場するのがおかしい。利害関係のない第三者に判断してもらえばいい」

 三浦九段はプロ棋士の中でもトップクラスの棋士である。また研究熱心な棋士として昔から知られる。三浦九段の指し手の深い“意味”を果たしてどれだけの棋士が理解できるだろうか。どれだけの棋士が三浦九段の研究レベルに付いて来れるだろうか。トップクラスの他の棋士たちは理解できるだろうが、トップクラスであれば当然日頃から三浦九段と対戦する機会も多く、利害関係がある。

 つまり、三浦九段の指し手の意味を深いレベルで理解できる人たちはみんな利害関係者である。


「連盟がきちんとルールを決めていなかったのが悪い」

 それは一理ある。

 ただ、連盟はなるべくルールを「ガチガチ」にはしたくなかっただろう。盤の前に座っているより、ぶらぶらと歩いていたほうが良い手が閃く、という棋士もいるはずだ。ルールとして一律に決めてしまうと、すべての棋士の行動を束縛し、とても窮屈なものになってしまう。そして本当に証拠を押さえようとしたら、対局のたびにボディーチェック、スマホのメールもLINEもTwitterもすべて読まれる、トイレにまで付いて来られる、挙げ句の果てには将棋会館内のすべてのトイレに監視カメラを付けられる。そんなことは連盟は望んでいないし、他の棋士たちだって嫌だろう。

 連盟も、おそらく今回の件があったためと思われるが、先日、対局場へのスマホの持ち込みを禁止する、という新ルールを作った。しかし、スマホは駄目だけどガラケーだったらいいのか、とか、外部との通信手段はいくらでもある。通信機器を使わなくても対局室の窓から見える景色に映すことでも不正はできる。


「そもそも三浦九段はなぜ疑われたのか」

 報道によれば、複数の棋士たちからの訴えがあった、と。また、終盤での離席が多かった(または長かった)、と。

 対局中の離席は自由であるが、終盤は普通はあまり離席をしたくない。なぜなら、終盤は両者とも持ち時間が少なくなっており、「できるだけ読みに集中したい」、「できるだけ時間を取っておきたい」と思うからである。序盤や中盤ならともかく、終盤での離席はデメリットが大きい。

 そして、先にも言ったように、長手数の詰み手順があるかどうかは、棋士よりソフトの方が圧倒的に読み切れる。終盤の局面で詰むか詰まないかという微妙な局面では、ソフトはとても役に立つ。

 また、その場にいなければわからない微妙な疑義というものがあっただろう。この局面で席を立つのは不自然だとか、戻って来てすぐに迷わずに指したとか、席を離れる時にポケットが膨らんでいたとか、体を休めるならあっちの部屋で休めばいいのに何故かあっちの部屋に行ったとか、そういうことはその場にいた人間にしかわからない機微だ。


「では、どうすればいいのか」

 これはもう、三浦九段が「振る舞いを正す」しかない。

 勝手に疑われた挙句、「振る舞いを正す」と言われたら三浦九段は怒り心頭かもしれないが、不正を訴えた棋士たちはクロだと確信して訴えているのでこちらも怒り心頭である。しかし、100%シロという証明も100%クロという証明もほぼ不可能である。だとしたら、やはり、疑われないように心掛ける、ようにするしかない。
 
 竜王戦という将棋界で最も賞金額の高いタイトル戦で、棋士たちもみな神経は敏感になっている。そのような場であるからこそ、そしてまたトップクラスに位置する棋士の一人であるからこそ、対局中の振る舞いには殊更、気をつけなければならない。

 私は将棋ファンとして三浦九段が「振る舞いを正す」ことで問題が終息していくことを願っている。


「将棋連盟にはすべきことはないのか」

 今回の一連の騒動及び、それに対するネット上のファンたちの意見を読んでいて、将棋連盟に対する批判が多すぎるように感じたので、この記事では連盟寄りの書き方をした。

 「将棋界(将棋連盟)はムラ社会だ」とか「閉鎖的である」とか「民間の企業だったらあり得ない」とか、「今回の対応はひどい」という意見をたくさん見た。そうした批判の中には、「どうせ連盟の常務たちは将棋のことしか知らない世間知らずに違いない」というような先入観に基づくものがたくさんあるように思われた。

 将棋連盟側にまったく問題がなかったかどうかは分からない。話し合いの場で、最初からクロだと決めてかかるような嫌な言い方をした常務(または棋士)がいたのかもしれない。それで三浦九段が態度を硬化させたのかもしれない。それはその場に居なかった人間には分からない。そんな話し合いはおそらく議事録も残っていないだろう。

 チェスの世界ではひと足早くコンピューターとの共存が問題になり、今では試合によっては一部、コンピューターの使用が認められたりもしている(Advanced Chess)。今回の件を機に、コンピューターの利用についてのルール作りと棋士の対局中の振る舞いについての在り方を、連盟と将棋界に携わる人たち全員で考えてみるといいと思う。


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追悼 千代の富士

千代の富士の相撲が好きだった。
大横綱、千代の富士の相撲は強いし美しかった。小兵力士ではあったが強靭な腕の力で寄り、投げた。千代の富士以降、大相撲の世界ではさらなる「大型化」が進んで行ったが、江戸、明治の頃の力士はこんな風だったのではないか、と思わせる、最後の「日本の横綱」という感じの力士だった。
2016年7月31日、千代の富士の訃報が走った。
国民栄誉賞の人の訃報なので、本来ならトップニュース扱いされるべきところだったが、その日は生憎、都知事選の日で、ニュースは都知事選の話題ばかり。その後もこの夏はリオオリンピックや、政治的社会的にもビッグニュースが多く、千代の富士逝去のニュースが霞んでしまったのはさびしいことであった。
千代の富士の訃報を受けて、元横綱の朝青竜が「横綱たちの横綱」というコメントを出した。歴代の横綱が集まったら、その中で横綱、という意味だろう。
歴代の横綱の中でいったい誰が一番強いのか、つまりそれぞれ最盛期の時の横綱を一同に会わせて総当りで対戦したら、誰が勝つのだろう、というのは、相撲ファンならずとも興味のある話題ではある。
私は千代の富士が「史上最強」かどうかは分からない。「最強候補」ではあろう。昭和以降であれば、他に、双葉山、大鵬、北の湖、貴乃花、白鵬あたりも強そうだ。
だが、最も「美しかった」「かっこ良かった」のは千代の富士だ。私にとっては。
体が小さいということは、体重をかけて押すということができないので、それで勝つのは、つまり腕の力が凄まじかったということだ。そして押されても押し負けない下半身の強靭さも兼ね備えていた。強さだけでなく靱やかさも併せ持っていた。
相撲は、強さと美しさと両方が大事だと思っている。単なる「スポーツ」ではない。「格闘技」でもない。千代の富士の雲龍型の土俵入りは比類の無い美しさだと言われている。
今後、このような「美しくかっこ良い」それでいて強い力士が現れて来てほしいと思う。


猛烈な日差しが照りつける夏の日、そっと手を合わせた。
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小柄なイメージが強い千代の富士だが、手を重ねてみると、指の先は2センチほど余り、指の幅も太く、やはり一般人に比べたら全然大きくて逞しい手なのであった。
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この左手であの強烈な左前みつを取ったんだ。
墓にも。蟬噪を忘れるほど、亡き横綱に思いを馳せながら静かに手を合わせた。
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正確には、これは千代の富士の墓ではない。私が参った時はまだ千代の富士の告別式が行われておらず、千代の富士はここには埋葬されていない。千代の富士のご家族の墓である。そしてこの後、千代の富士がこの墓に埋葬されるのかどうかも分からない。
後ろの卒塔婆には、零歳で亡くなった三女の娘さんの名前が見える。モデルとして活躍する梢さんの妹にあたる。三女を亡くした時の千代の富士は、周囲から「もう二度と相撲は取れないんじゃないか」と心配されたほどの憔悴ぶりであったという。
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仁王立ちする千代の富士の像。その見つめる視線の先には先に逝った愛娘が。
強く美しき大横綱、安らかに。

天皇譲位に伴う課題

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 なんとなく畏まった姿勢でテレビから流れてくる優諚を聞いた。

 NHKが報道したからには、もうこれは、お気持ちを汲んで速やかに譲位を実現させなければならない。

 こんな大事なことをNHKが臆測で報道するはずはなく、陛下自らがお言葉を述べられる前から、御意嚮が伝えられた時点で、「こういう方向で行きましょう」ということは決まっているはずである。

 「数年前から、そのようなお気持ちを示されていた」ということなら、本来なら数年前に報道すべきことだが、それを直ぐに報道しなかったのは、関係者の間で調整が付かなかったからだろう。そして今回報道に踏み切ったということは、ある程度の調整が付いたということだろう。

 報道しておいて、陛下のお言葉までいただいておいて、「お気持ちはわかるけど、法制度の関係で御意に沿うことは難しい」などということがあってはならない。なぜなら、テレビを通じて広く国民に示されたということは、これは「詔(みことのり)」だからである。

 だからこそ、速やかに具体的な実現を目指さなければいけない。「数年前から」が、もし仮に五年前からだとして、お気持ちを発表されてからさらに五年間、国民的議論を尽くして漸く実現に至ったとすると、御意に適うのに十年もかかったということになる。御病気、健康、御年齢による体力の問題に起因する今回の御発言なのに、それではあまりに遅すぎる。

 一方で、決まりを変えることには、さまざまな解決しなければならない問題がある。

 例えば、皇太子殿下が天皇になられた後、誰が皇太子になるのか、という問題。

 皇太子というのは、今までは「天皇の長男」だった。だが、今の皇太子殿下には男のお子様がおられない。愛子内親王は皇太子にはなられない。愛子内親王にはお子様がないので、「皇太孫」もいない。秋篠宮さまは、弟君に当たられるので、「皇太子」と言うのは違和感がある。悠仁さまは、甥である。皇位継承順位が一位になる秋篠宮さまを「皇太子」とするのか、それとも「皇太子不在」でいくのか。その場合、今まで皇太子殿下が担ってこられた公務はどうするのか。

 仁孝天皇以来、約二百年ぶりになる受禪踐阼となれば、またそれに伴う儀式の問題がいろいろ出てくるだろう。さらに、もし万が一、皇太子殿下が新しく天皇に即位されて直ぐに御不予があって公務を行えなくなった場合、今上天皇が「それではもう少し私が引き続き務めましょうかね」と仰せられた場合、これは一度退位したあとの再度の踐阼なので「重阼」ということになる。重阼となると、八世紀の孝謙天皇以来、ここ千二百五十年余り例がない。皇室典範にも規定がない。このような重阼を認めるのかどうか。

 考えなければいけない問題はたくさんある。

 皇室典範を改定すると、未来にわたってルールが変わってしまうので、今上天皇に限った特別法で対応しようという考え方も出てきている。しかし特例は前例になる。将来、「平成天皇(假)の時の例があるから」ということになる。また、今上天皇“だけ”を特別にはからうことが叡慮に適っているのか、という疑問もある。

 こうした諸問題を解決しつつ、速やかに宸襟を汲まなければならない。

 拙速を避けつつ、可及的速やかに。

 難しい課題を迫られている。