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学校のいじめと社会

(2012/7/9加筆あり)

【学校が人を怪物にさせる】大津いじめ自殺事件についての内藤朝雄さんのコメント - Togetter

 これを読んで、同感する部分もあったが少しく違和感を感じた気になった部分があったので書き留めておきたい。

 違和感を感じた気になったのは、内藤朝雄氏の次のようなツイート。

【学校に法を、いじめ加害者に刑事罰を】暴力に対しては警察を呼ぶのがあたりまえの場所であれば「警察だ」の一言で、(利害計算の値が変わって)暴力によるいじめは確実に止まる。加害者が大きな損失を被ってまで特定の人をいじめ続けることはほんんどない。
【学校に法を】いじめは「やっても大丈夫」「やった方がむしろ得だ」という利害構造に支えられて蔓延し、エスカレートする。さらに法は、現実感覚のモードを切り替えるを、強力な解除キーとして働く。
【法は解除キー】法執行機関が目の前に迫ってきたり、「警察を呼ぶ」「告訴する」「あなたの行為は刑法○○条に触れている」といった法の言葉が発せられたりするだけで、現実感覚は聖なる集団生活のモードから、市民社会のモードへと、瞬時に切り替わる


 今回の大津いじめ自殺事件では、その警察も頼りにならなかったから問題になっているわけで、「警察を呼びます」、「法に訴えます」と言って解決するならいいが、警察も法も守ってくれなかったらどうすればいいのか。

 内藤朝雄氏の考え方は、「学校」という場所を特別な場所にしないでその中に「市民社会」のルールを適用させよう、という考え方だ。

【学校での暴力はすぐに警察に】路上で誰かが誰かを殴るのを目撃したら警察に通報するのが当然だが、学校の「友だち」や「先生」の暴行傷害を学校の頭越しに警察に通報すれば、学校と地域社会で非難されるのは加害者ではなく被害者や目撃者の方となりがちだ。


 つまり、「あなたたちいじめっ子の行いは“社会”では通用しません」と言いたいのだろう。

 だが、ちょっと待て。この「そんなの社会では通用しません」、「社会はそんなに甘くありません」、「社会の厳しさを教えてやる」という言葉はどこかでよく聞く言葉だ。

 同じ日にこんな文章を見た。

 体育会系のクズがやさしい社会を殺してる気がする(はてな匿名ダイアリー2012-07-08)

 この中に、

体育会系は「社会は厳しい」と言う

就職活動中の学生に「そんなんじゃ、社会に出たらやっていけない。」というのが快感になっている。
基本的に学生の事なんかこれっぽっちも考えて喋ってなくて、自分がいかに社会を生きてきたかの武勇伝が中心となる。


とあった。

 私は中学時代、いじめっ子に暴力を振るわれるときに「おまえのそのひん曲がった根性を叩き直してやる」と言われた。彼らは社会の厳しい掟を教えてやってくれていたわけだ。

 大人の社会にもいじめはある。子どもの社会は大人社会の縮図である。本来、規範となるべきその大人の“社会”がダメダメである。まず“社会”が全然立派じゃない。とても胸を張って子どもに教えられるようなものじゃない。

 そして学校は、人間がいきなり社会の厳しい荒波に揉まれて戸惑わないように、生きていく術を身につけておく場だと位置づけられている。それは2002年以来の学習指導要領に打ち出されている「生きる力」というスローガンにも表れている。

 しかし“社会”を厳しいものだとしておきたい人たちがいる。無意味に固定化して、それは「変えられないものだ」という人たちがいる。「俺らも1年の頃はこういう厳しい扱きを受けたんだ」と厳しい伝統を守りたがる2、3年生が学校にいるのは、そういう大人たちの高校バージョンであり、中学バージョンである。

 学校がそのような目的を課せられているのであれば、あるいは学校の存在意義がそのように定義づけられているのであれば、いじめっ子がおとなしい子に社会の厳しさを教えているのは一面理に適ったこと、学校の目的に沿ったことだと言えるだろう。
 言えてしまうだろう。



(2012/7/9追記)
 私は内藤朝雄氏の言ってることに同感する部分もあったので、「違和感を感じた」という言葉を「気になった」に改めた。
 内藤氏は、学校が社会の最低限のルール(法)さえ通用しないあまりにも特別な場所になってしまっているのを注意しているのだろう。異常な暴力や命の危険に晒されるほどの行為が学校の中なら許されるというのは確かにおかしい。
 学校という装置の中に長年いると、その異常が常態化してしまう。こうしたことは会社などでも同じようなことが起こる。その団体や組織の中に長年いればいる人ほど、異常に対する感覚は薄れてゆく。ただ、学校は会社に比べて自由度が低い。転校することは社会人が転職するよりもずっと難しい。その点を考慮して「学校に最低限のルールを」と言うのはわかる。

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ゲーム理論に初めて触れる人のための1冊『高校生からのゲーム理論』

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 ゲーム理論といふ数学の理論が近年注目を浴びてをり、それに関聯した書籍もいろいろと出版されてゐる。

 しかしその関心は経済学的な応用への関心が専らである。だから今書店に出まはってゐるタイトルに「ゲーム理論」とつく本は、大抵が経済書やビジネス書である。それを除けば、あとは純粋な専門的数学書があるのみだ。

 「ゲーム理論」といふ言葉はこれだけ有名になってきてゐるのに、意外と非理数系の人にも読めるやうな簡単な入門書が存在しない。以前からゲーム理論について書いた入門書のやうな新書があればいいなと思ってゐたが、これだけ大量の新書本が存在する時代であるにもかゝはらず、ゲーム理論について書かれた新書は今まで一冊もなかった。

 そこへ、このたび、ちくまプリマー新書から、松井彰彦の手になるゲーム理論の本が登場した。

高校生からのゲーム理論 (ちくまプリマー新書)高校生からのゲーム理論 (ちくまプリマー新書)
(2010/04/07)
松井 彰彦

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 以前から待ち望んでゐたゲーム理論の新書だ。書店で見かけてから早速読んでみた。

 読んだ感想は、正直言って、予期してゐたものとは違った。もっとゲーム理論の基礎基本についてしっかり書いてある教科書のやうな本を想像してゐたが、実際読んでみると、これはゲーム理論についての読み物であり物語風に書かれたものだった。

 だが読み物としては楽しい。本書で扱はれてゐる話題は、サッカーのPK戦の話から三国志の話、童話、ヒュームの哲学、アインシュタインの相対性理論、いぢめの問題、ソクラテスから仏教の話まで、多岐に渡る。本来数学の本のはずなのに、これだけ多様な話題を扱ってゐれば、本書の中身をちらっと見ただけでもなんだか楽しさうでワクワクしてくるといふものだ。

 中でも私が印象に残ったのは、第五章の「いじめられる理由なんてない」といふ話だ。

 今こゝに、A、B、C、Dといふ4人の子どもがゐたとして、A、B、Cはグループを作ってDだけが仲間外れになったとする。この状態はゲーム理論的にはナッシュ均衡として意外と安定してゐる。A、B、Cの3人はDに話しかけようとはしない。Dと親しくすれば、今度は自分が仲間外れの標的にされてしまふ可能性があるからだ。さういった意味で3人は誰も戦略を変へようとしないのでナッシュ均衡になるのだ。
 ところで、このDへの仲間外れが持続するためには、「実際にDと遊んだ子どもが仲間外れになる必要はない。重要なのは、Dと『遊ぶ』と自分が仲間外れになる、と心配しているということである」と著者は言ふ。これはつまり、子どもたちが自分たちの頭の中に勝手に作り上げたゲームモデルであるといふことである。
 ではなぜ、Dは最初に仲間外れになったのか。この問ひに対して、多くの人間はD自身に何か問題があったからだと考へる。しかし著者は「それは、A、B、Cという三人が仲間外れにしたからである」とシンプルに言ひ切る。このシンプルすぎる当たり前の答へに気付ける人がいったいどれだけゐるだらうか。著者は、「原因と結果に関する推理はすべて経験の積み重ねから導かれるのであって、そこに論理的な必然性はない」といふデビッド・ヒュームの因果関係に関する哲学を引き合ひに出して、D自身の問題が原因でその結果として仲間外れやいぢめがある、といふ考へ方は私たちの「誤ったものの見方」であると主張する。そしてこの話の最後を次のやうに結んでゐる。

いじめの撲滅は、それが何の益ももたらさないし、見方を変えれば何の根拠もなくなる、とみんなが理解するところから始まる。いじめの問題はいじめられる側ではなく、いじめる側のものの見方が歪んでいることから帰納的に生じることをみんなが理解すれば、何を変えるべきかの答えは自ずと見つかるであろう。



 この本は、ゲーム理論といふ一見冷徹な数学の理論を取り扱った本でありながら、著者の精神や感情が垣間見える。さうした本の書き方は、著者が「友人」だといふ経済学者の小島寛之の本の書き方に似てゐる。私は以前、小島寛之の『確率的発想法』といふ本を読んで感動したことがあるが、数学をこのやうに感動的に語れる人といふのはなかなか少ないのではないだらうか。

 そこには、ゲーム理論は何よりも「人間の科学」でありたいといふ著者の熱い思ひが表れてゐる。こゝにあるのは、たゞの客観的な分析ではない。自分自身が人間社会といふゲームの中のプレイヤーの一人であり、その視点から、人と人との関係をどのやうに把捉していくかといふダイナミックな考察である。

 本書は、ゲーム理論を本格的に学ぶための本ではないけれども、ゲーム理論に初めて触れるといふ人にとっては、とてもすぐれた読み物であると思ふ。たゞ「知る」だけではない。多くのことを「考へさせられる」本なのだ。


『いじめの直し方』-いじめ問題は誰に語られるべき問題か

 『いじめの直し方』(内藤朝雄・荻上チキ著、朝日新聞出版)を読む。

 薄い本で、しかも小中学生に語りかけるやうな口調でわかり易く書かれてゐるので、短い時間で読める。


いじめの直し方いじめの直し方
(2010/03/19)
内藤 朝雄荻上 チキ

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 この本では、「元気も勇気もいらないし、きみが変はる必要もない」と言ふ。タイトルが「治し方」ではなく「直し方」となってゐるのも意味があって、いぢめが起きやすい環境や構造を見直さう、といふ意味があるやうだ。
 普通のいぢめ関係の本だったら、「負けるな」とか「いぢめに立ち向かへ」「強くなれ」「きみ自身が変はらなきゃ」などといった言葉が並ぶのが普通だが、この本には一切そのやうな言葉は出てこない。

 例へば、著者は交通事故の例をあげる。道路のある場所で交通事故が異常に頻繁に起こる場合、もちろんドライバーはもっと注意深くなるべきだし運転技術の向上のために努力しなければならないが、しかし、その場の環境や構造を見直すことも大切なのでは?と著者は言ふ。
 たしかに努力は大事だ。私たちは日々努力を怠るべきではない。しかし、ある特定の場所で異常に交通事故が多かったとしたら、やはりその場の環境に何か問題があると考へるのが自然ではないのか。
 
 広い海で仲良く泳いでゐた魚たちを狭い水槽に入れると途端にいぢめが始まる、といふさかなクンの話も本書では紹介されてゐる。

 (参考リンク)いじめられている気味へ - 広い海へ出てみよう 東京海洋大客員助教授・さかなクン

 学校といふ日本の閉鎖的で特殊な環境がいぢめを生み出してゐる構造について私たちは考へるべきなのだ。

 よくプロボクサーなどが「自分は子どものころいぢめられっ子だったので、強くなりたいと思ってボクシングを始めました」などと言ふのを聞く。かうした話はテレビなどでよく紹介されるのだが、これなどはまさに「いぢめられっ子自身が変はらなきゃ」といふ発想のものだ。もちろん本人が変はりたいと思ったなら変はっていいのだけれど、大人がかうしたことを子どもに言ふのはよくない。子どもだけではなく、いぢめに苦しんでゐる大人に対して言ふのも間違ってゐる。それは、いぢめられっ子は「弱いからいぢめられる」のではないからだ。
 「弱いからいぢめられるのではない」といふことについては、例へば渡辺真由子といふメディアジャーナリストが『大人が知らないネットいじめの真実』といふ本の中で明確にはっきりと述べてゐる。

大人が知らない ネットいじめの真実大人が知らない ネットいじめの真実
(2008/07/25)
渡辺 真由子

商品詳細を見る

 
 いぢめ問題は、まづ誰に語りかけるべきかといふ問題がある。『いじめの直し方』は良い本だ。この本は、いぢめられっ子に向かって語りかけてゐる。いぢめに遭ったときどうすればいいか、処方箋のやうな本だと言へるだらう。
 私は、だが、いぢめ問題といふのは本来、いぢめっ子、または大人たちに向かって語られるべき問題だと思ふ。順番としてはそちらが先だ。いぢめられっ子本人がなんとかしなければいけない問題ではない。狭い水槽に入れられた魚はどうやって広い海に戻ればいいのか?魚自身の努力でなんとかなるのか?魚たちを狭い水槽に入れた人間が問題なのである。まづその人間に向かっていぢめ問題は語られなければならないはずだ。

 となると、この本も、いぢめられっ子ではなく大人たちに読まれるべきである。「弱いからいぢめられるんだ」「本人が変はらうと努力しなきゃ」「がんばれ」「応援してるから」等々、いぢめの自己責任論を振りかざす無責任な大人たちにこそ、この本を読んでもらひたい。
 いぢめられっ子自身も当然、いぢめられてゐる現状は嫌なわけだから、なんとかして環境を変へようと努力するだらう。しかし環境を変へるのは私たち大人たちの責務である。その責務を放ったらかしておいて、いぢめられっ子に向かって「がんばれ」などと言ふことは、到底許されることではない。