「※ただイケ」の誤謬を糺す
「※ただイケ」という言葉がある。
「※ただしイケメンにかぎる」の省略形である。
私はこの言葉が好きではない。
「※ただイケ」は間違っている。
今日は、この「※ただしイケメンにかぎる」という言葉のどういうところが間違っているかについて書こうと思う。
「※ただしイケメンにかぎる」という言葉の由来
この言葉は、今では若い女性が使っている例も見受けられるが、元々は男性が言い出した言葉と思って間違いない。
女性誌などで、「最近は◯◯男子が人気!」(例、オタク男子、理系男子etc.)という特集が組まれ、それがネット上で紹介され、男性ユーザーたちが「お!いよいよ俺みたいな男がモテる時代の到来か?」と色めき立つ。そこで、すかさずユーザーの一人が「勘違いするな、モテるのはイケメンである場合に限られる」という注意を促す。最初に※印があるのは、条件付き、但し書き、ということを意味している。
つまり、「もしかして俺のモテる時代の到来か?」と何度も勘違いしては裏切られてきた男性たちが自嘲気味に「どうせイケメンにかぎるんだろ」と言い出したのがこの言葉の始まりだと思われる。
「顔」を重視する男性
そこで、そもそも「イケメン」とは何かという定義から考えなければならない。
『広辞苑』には【いけ面】で項目立てしてあり、「顔が良い」が語源であるように書かれているが、これは誤りである。「イケメン」の「メン」は「面」ではなく「メンズ」から来ている。イケメンとは「イケてる男(メンズ)」の略である。
ならば、「イケてる」とはどういうことか。
私は「イケてる」という言葉は男たちが考えているよりずっと多義的な言葉だと思う。
容姿だけではなく、振る舞いがスマートである、とか、仕草が男らしい、仕事で活躍して輝いて見える、働いている時の背中がかっこいい、等々、「イケてる」が意味するものは実に多義的である。
だが少なくとも男たちの多くは「イケてる」を「顔がいい」という意味だと思っている。これは男たちが女を見る際に顔を重視するから、女も男を選ぶ時に顔を重視するに違いない、と考えてしまうからである。
男は顔か中身か?
「所詮、男は顔だよ」
「いや、やっぱり大事なのは中身でしょ」
「いやいや、結局、なんだかんだ言ったって男はやっぱり顔なんだって!」
男同士のこういう会話を聞くことがある。その度に私は「ああ、この人たちは分かってないな」と思う。
「三高」信仰というものがある。「高身長・高学歴・高収入」の男が女に人気があるというものである。
「三高はもう古いよ」と言う人もいるかもしれないが、それは以前ほどは言わなくなったというだけであり、今もこの三項目が重視されていることに変わりはない。
で、この「三高」が示す三つの項目の中に、「顔」も「中身(性格)」も入っていないことに注意してほしい。
男はすぐに「男は顔か中身か」という議論をしたがるが、その二択の設定がそもそも頓珍漢なのである。
顔がかっこ良くて性格も良ければ申し分ないだろう、と男なら考える。
だがそれでもモテないことがあるのは、女が求めているものとの齟齬があるからである。
中でも一番重視される「収入」
三高の中でも一番重視されるのはなんと言っても収入である。
結婚相談所などでも男が必ず書かされるのは年収。
女が「結婚相手の男に求める条件は最低でも年収500万以上」などと言うのは、男が「女は最低でも胸がCカップ以上」と言うのと同じくらい、いやらしいことだと私は思っている。にもかかわらず、女はバストサイズの記入は義務づけられていないし、そもそも表向きは尋ねられることもないのに対して、男は堂々と年収を聞かれる。
美しい羽を持った孔雀がモテる?
イケメンでありさえすれば、顔さえ良ければ女にモテる、そんな簡単なことだったら男にとって人生はもっとずっと楽なものになっているはずだ。
男の人生は何故こんなにも苦労に満ちているのか。
それは、男は顔さえ良ければモテる、などという単純なことではないからだ。
つまり、「ただ◯◯でありさえすれば」などというものは、少なくとも男には存在しない。
孔雀は美しい羽を持った雄がモテるという。しかし本当にそうなら、雄はダンスをしたり鳴いたりする必要はないし、そもそも羽を広げる必要すらない。ただ寝てればいいだけである。寝ているところに雌がやって来て、寝ている雄の羽を押し広げて美しさを鑑定して、美しければ交尾を迫るだろう。
引きこもりニートの福山雅治はモテない
私は昔から、
「引きこもりニートの福山雅治はモテない」
と言っている。(「福山雅治」の部分は各自適当なイケメンに置き換えてください)
これは断言できる。
福山雅治さんは、音楽家、俳優、写真家などとして幅広く活躍しているから、(その上に顔もよいから)モテるのである。
いくら福山さんの顔でも年中、部屋に閉じ籠って、それでいてネット上で活躍したりするわけでもなく、誰とも接触せずに無為に毎日を過ごしていたとしたら、そんな男がモテることはまずない。
逆はあり得る。
昔のアニメなどに、よく「深窓の美少女」が登場した。病弱などの理由で外出を禁じられている女の子を外から見かけた男の子が一目惚れし、窓に紙飛行機を投げたりしてなんとかコンタクトを取ろうとする。そういう話はある。
だが、「深窓の美男子」はあり得ないのだ。
「ただイケ」よりも恐ろしい「ただカネ」
現代社会において、もし「これさえあれば」というようなものを強いて一つ上げるとするならば、私はそれは「ただイケ」ではなく「ただカネ」だと思う。
「※ただしカネ持ってる男にかぎる」である。
上述のように、女が男を選ぶポイントはとても多岐にわたる。男が「女は可愛ければ、ただ優しければ、それでいい」と言うのとは違う。
しかしその多岐の中でも強いて一つを上げろと言われたら、現代の日本の女が最も重視しているのは「金(カネ)」であろう。
私が「ただイケ」という言葉が嫌いなのは、「ただイケ」よりずっと残酷で冷酷な現実として頑として横たわっている「ただカネ」を隠蔽して見えなくしてしまっているからだ。
現代の多くの男たちは本当はこの「ただカネ」にこそ苦しんでいる。
結婚したいかどうかは置いておくとして、現代の大半の若い男たちの収入は年収500万にも届かない。
にもかかわらず、自分たちで「ただイケ」と言うことにより、この深刻な問題を自ら見えにくくしてしまっている。
心理的な背景から考察すれば、「顔さえ良ければ俺はもっとモテるはずなんだ」と思い込むことによって自らを慰めていると考えられる。
しかしやはりそれは間違いなのである。
そうやって慰めに逃げてしまうことで男たちは自分たちの首を自ら締めていることに気づいていない。
男たちが「ただイケ」と言い続けていてくれるかぎり、女たちは「ただカネ」という汚い本心を隠し続けることができる。
「ただカネ」は「ただイケ」を上手に隠れ蓑として利用して、現代社会に着実に瀰漫している。
「イケメン」は必要最低条件でもない
「イケメンでありさえすれば人生全勝だ!」ということはない。それどころかイケメンであっても「九敗一勝」すらできないこともある。
女の「美人」と違って男の顔にはそこまでの力はない。
それなのに、「ただイケ」と言うことによって実際以上に過剰に顔に力を持たせてしまっていることが問題なのだ。つまり、例えば顔を美形な顔に取り替えただけで本当にモテるようになるのなら「ただイケ」と言ってもいいが、実際にはそんなことはない。
モテのための必須要素は他にある。
「イケメン」というのは、モテるための必要最低条件ではなくて、数ある「付加価値」の一つである。
「イケメン」がモテるための必須条件だとすると、イケメンではないのにモテているたくさんの男についての説明がつかなくなる。(例えば、若い美女と結婚しているブサイクな石油王、等。)
「イケメン」は第一必須要件ではない。所詮、付加価値程度の価値しかない。繰り返しになるが、「イケメン」であることがそんなに強大な力を持っていたなら、男の人生はもっと楽なものになっていたはずなのだ。
もっとも、「ただし金持ってる男にかぎる」と言う女ばかりではない。
女が男を見る、選ぶときには、顔や金以外のさまざまな評価基準があって、「モテたい」と願う男たちを苦しめている。
それは「イケてる」という言葉が持つ多義性とも関係がある。
では、そのさまざまな評価基準とはいったい何なのか。
それらの点についてはまた別稿で論じたいと思う。
「※ただしイケメンにかぎる」の省略形である。
私はこの言葉が好きではない。
「※ただイケ」は間違っている。
今日は、この「※ただしイケメンにかぎる」という言葉のどういうところが間違っているかについて書こうと思う。
「※ただしイケメンにかぎる」という言葉の由来
この言葉は、今では若い女性が使っている例も見受けられるが、元々は男性が言い出した言葉と思って間違いない。
女性誌などで、「最近は◯◯男子が人気!」(例、オタク男子、理系男子etc.)という特集が組まれ、それがネット上で紹介され、男性ユーザーたちが「お!いよいよ俺みたいな男がモテる時代の到来か?」と色めき立つ。そこで、すかさずユーザーの一人が「勘違いするな、モテるのはイケメンである場合に限られる」という注意を促す。最初に※印があるのは、条件付き、但し書き、ということを意味している。
つまり、「もしかして俺のモテる時代の到来か?」と何度も勘違いしては裏切られてきた男性たちが自嘲気味に「どうせイケメンにかぎるんだろ」と言い出したのがこの言葉の始まりだと思われる。
「顔」を重視する男性
そこで、そもそも「イケメン」とは何かという定義から考えなければならない。
『広辞苑』には【いけ面】で項目立てしてあり、「顔が良い」が語源であるように書かれているが、これは誤りである。「イケメン」の「メン」は「面」ではなく「メンズ」から来ている。イケメンとは「イケてる男(メンズ)」の略である。
ならば、「イケてる」とはどういうことか。
私は「イケてる」という言葉は男たちが考えているよりずっと多義的な言葉だと思う。
容姿だけではなく、振る舞いがスマートである、とか、仕草が男らしい、仕事で活躍して輝いて見える、働いている時の背中がかっこいい、等々、「イケてる」が意味するものは実に多義的である。
だが少なくとも男たちの多くは「イケてる」を「顔がいい」という意味だと思っている。これは男たちが女を見る際に顔を重視するから、女も男を選ぶ時に顔を重視するに違いない、と考えてしまうからである。
男は顔か中身か?
「所詮、男は顔だよ」
「いや、やっぱり大事なのは中身でしょ」
「いやいや、結局、なんだかんだ言ったって男はやっぱり顔なんだって!」
男同士のこういう会話を聞くことがある。その度に私は「ああ、この人たちは分かってないな」と思う。
「三高」信仰というものがある。「高身長・高学歴・高収入」の男が女に人気があるというものである。
「三高はもう古いよ」と言う人もいるかもしれないが、それは以前ほどは言わなくなったというだけであり、今もこの三項目が重視されていることに変わりはない。
で、この「三高」が示す三つの項目の中に、「顔」も「中身(性格)」も入っていないことに注意してほしい。
男はすぐに「男は顔か中身か」という議論をしたがるが、その二択の設定がそもそも頓珍漢なのである。
顔がかっこ良くて性格も良ければ申し分ないだろう、と男なら考える。
だがそれでもモテないことがあるのは、女が求めているものとの齟齬があるからである。
中でも一番重視される「収入」
三高の中でも一番重視されるのはなんと言っても収入である。
結婚相談所などでも男が必ず書かされるのは年収。
女が「結婚相手の男に求める条件は最低でも年収500万以上」などと言うのは、男が「女は最低でも胸がCカップ以上」と言うのと同じくらい、いやらしいことだと私は思っている。にもかかわらず、女はバストサイズの記入は義務づけられていないし、そもそも表向きは尋ねられることもないのに対して、男は堂々と年収を聞かれる。
美しい羽を持った孔雀がモテる?
イケメンでありさえすれば、顔さえ良ければ女にモテる、そんな簡単なことだったら男にとって人生はもっとずっと楽なものになっているはずだ。
男の人生は何故こんなにも苦労に満ちているのか。
それは、男は顔さえ良ければモテる、などという単純なことではないからだ。
つまり、「ただ◯◯でありさえすれば」などというものは、少なくとも男には存在しない。
孔雀は美しい羽を持った雄がモテるという。しかし本当にそうなら、雄はダンスをしたり鳴いたりする必要はないし、そもそも羽を広げる必要すらない。ただ寝てればいいだけである。寝ているところに雌がやって来て、寝ている雄の羽を押し広げて美しさを鑑定して、美しければ交尾を迫るだろう。
引きこもりニートの福山雅治はモテない
私は昔から、
「引きこもりニートの福山雅治はモテない」
と言っている。(「福山雅治」の部分は各自適当なイケメンに置き換えてください)
これは断言できる。
福山雅治さんは、音楽家、俳優、写真家などとして幅広く活躍しているから、(その上に顔もよいから)モテるのである。
いくら福山さんの顔でも年中、部屋に閉じ籠って、それでいてネット上で活躍したりするわけでもなく、誰とも接触せずに無為に毎日を過ごしていたとしたら、そんな男がモテることはまずない。
逆はあり得る。
昔のアニメなどに、よく「深窓の美少女」が登場した。病弱などの理由で外出を禁じられている女の子を外から見かけた男の子が一目惚れし、窓に紙飛行機を投げたりしてなんとかコンタクトを取ろうとする。そういう話はある。
だが、「深窓の美男子」はあり得ないのだ。
「ただイケ」よりも恐ろしい「ただカネ」
現代社会において、もし「これさえあれば」というようなものを強いて一つ上げるとするならば、私はそれは「ただイケ」ではなく「ただカネ」だと思う。
「※ただしカネ持ってる男にかぎる」である。
上述のように、女が男を選ぶポイントはとても多岐にわたる。男が「女は可愛ければ、ただ優しければ、それでいい」と言うのとは違う。
しかしその多岐の中でも強いて一つを上げろと言われたら、現代の日本の女が最も重視しているのは「金(カネ)」であろう。
私が「ただイケ」という言葉が嫌いなのは、「ただイケ」よりずっと残酷で冷酷な現実として頑として横たわっている「ただカネ」を隠蔽して見えなくしてしまっているからだ。
現代の多くの男たちは本当はこの「ただカネ」にこそ苦しんでいる。
結婚したいかどうかは置いておくとして、現代の大半の若い男たちの収入は年収500万にも届かない。
にもかかわらず、自分たちで「ただイケ」と言うことにより、この深刻な問題を自ら見えにくくしてしまっている。
心理的な背景から考察すれば、「顔さえ良ければ俺はもっとモテるはずなんだ」と思い込むことによって自らを慰めていると考えられる。
しかしやはりそれは間違いなのである。
そうやって慰めに逃げてしまうことで男たちは自分たちの首を自ら締めていることに気づいていない。
男たちが「ただイケ」と言い続けていてくれるかぎり、女たちは「ただカネ」という汚い本心を隠し続けることができる。
「ただカネ」は「ただイケ」を上手に隠れ蓑として利用して、現代社会に着実に瀰漫している。
「イケメン」は必要最低条件でもない
「イケメンでありさえすれば人生全勝だ!」ということはない。それどころかイケメンであっても「九敗一勝」すらできないこともある。
女の「美人」と違って男の顔にはそこまでの力はない。
それなのに、「ただイケ」と言うことによって実際以上に過剰に顔に力を持たせてしまっていることが問題なのだ。つまり、例えば顔を美形な顔に取り替えただけで本当にモテるようになるのなら「ただイケ」と言ってもいいが、実際にはそんなことはない。
モテのための必須要素は他にある。
「イケメン」というのは、モテるための必要最低条件ではなくて、数ある「付加価値」の一つである。
「イケメン」がモテるための必須条件だとすると、イケメンではないのにモテているたくさんの男についての説明がつかなくなる。(例えば、若い美女と結婚しているブサイクな石油王、等。)
「イケメン」は第一必須要件ではない。所詮、付加価値程度の価値しかない。繰り返しになるが、「イケメン」であることがそんなに強大な力を持っていたなら、男の人生はもっと楽なものになっていたはずなのだ。
もっとも、「ただし金持ってる男にかぎる」と言う女ばかりではない。
女が男を見る、選ぶときには、顔や金以外のさまざまな評価基準があって、「モテたい」と願う男たちを苦しめている。
それは「イケてる」という言葉が持つ多義性とも関係がある。
では、そのさまざまな評価基準とはいったい何なのか。
それらの点についてはまた別稿で論じたいと思う。
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