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Facebook批判 -ザッカーバーグ27歳の誕生日を言祝ぐ-

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 2007年だったか2008年頃に、私が初めてFacebookを知ったときの印象は決して良いものではなかった。

 Googleが、登場した当初からいきなりクールで評判が良かったのとは対照的に、Facebookは全然クールではなかったし、評判も良くなかった。当時の私のFacebookに対して抱いてゐたイメージは、「MySpaceの次席」。しかも日本では2004年からmixiといふSNSがあったので、「なぜ今さらSNS?」といふ印象も拭へなかった。

 しかし今や全世界におけるFacebookのユーザー数、約6億人。日本国内でも300万人を超えてゐると言はれてゐる。もちろん世界最大のSNSであり、SNSどころかすべてのウェブサイトの中で最もアクセス数の多いウェブサイトになった。
 
 これだけの大きな影響力は看過できない。今までもこのブログで何回かFacebookや、その創設者であるマーク・ザッカーバーグを批判してきたが、今日あらためて批判を認めておかう。


・Google vs. Facebook

 GoogleとFacebookの対決の構図といふのは、今でこそ多くの人に知れ渡ってゐるが、2008年当時はそこまで鮮明ではなかった。少なくとも私は分かってゐなかった。

 2008年の3月13日に、私は「「オープン化」を進めるグーグル」といふ記事を書いてゐる。その記事の中でFacebookとGoogleの距離感について次のやうに書いてゐた。

Googleが進めてゐる「OpenSocial」とは、SNS向けのAPIであり、SNSの新たなプラットフォームになることを目指してゐるものだ。この計画が進めば、このAPIを使つた新たなソフトウェアが生まれ、例へば今まで各SNSごとにバラバラだつた友人・知人を横断的に繋げたり検索できたりするやうになる。
 上記記事には書かれてゐないが、米Friendsterや日本のmixiも対応を表明してゐるやうだ。大手どころで参入を表明してゐないのはどうやらFacebookだけらしい。Facebookがなぜ静観してゐるのか実際の理由は知らないが、もしGoogleのオープン化に対抗する気概があるのだつたら、それはそれで応援したい気持ちになる。



 「Facebookの気概を応援したい」などと書いてゐるが、それは当時の時点で、Facebookごときが巨人Googleに敵ひっこない、と思ってゐたからだ。
 実際、私はFacebookのCEOは賢明ではないと思ってゐた。2008年当時、すでに色褪せて古色蒼然としたMicrosoftに距離を置くならともかく、ネット・ITの世界で最もクールな企業であるGoogleに対して距離を取るのは成長戦略的にも賢くないと思ってゐた。
 しかし、今ならはっきりと分かる。ザッカーバーグは初めからGoogleを追ひ抜く、あるいは打倒するつもりだったのだ。Googleにすり寄って内包されて育ててもらって、Googleの「良く出来た子ども」になるつもりは毛頭なかったのだ。

 「オープン」化をすすめるGoogleとは対照的に、Facebookはどこまでも「クローズド」だといふ印象だった。これもまた私は賢明ではないと思ってゐた。「オープン化」はウェブ2.0から続くネットの世界の重要な潮流の一つで、その流れに疑義を挟む人は少なかったし、何よりオープンにするからこそ、世界標準のプラットフォームを形作れると思ってゐたからだ。
 しかしザッカーバーグがさうした意味での「オープン」の重要性を理解してゐなかったわけではないことは、最近のFacebookの「オープングラフ」の動きを見れば分かる。要は「Google主導なのが気に喰はない」といふことだったのだ。


・オープンなGoogle、クローズドなFacebook

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 私の頭の中では上図のやうなイメージだ。真ん中の線で左右に分かれてゐる。

 Googleは、ウェブの申し子、ウェブの良き理解者であり優秀な具現者、体現者であった。有名なページランクの思想を武器に広大なウェブの世界を整理した。

 一方のFacebookだが、ザッカーバーグにもし憧れの人がゐるとすれば、それはラリー・ペイジでもスティーブ・ジョブズでもなくて、ビル・ゲイツなのではないだらうか。
 私は上図の右の流れを「壟断型」と言ってゐる。クローズドで独占的な支配を目指してゐる。


・ザッカーバーグはネットの中のどこに世界を作ったのか
 
 Googleはウェブの「良く出来たこども」だった。ほんの数年前なら「Google=ウェブ」と言ひ切っても差し支へなかった。実際、「Google検索にヒットしないウェブページはこの世に存在しないも同じ」と言はれてゐた。
 インターネットの中にありながらGoogleに内包されてゐない世界を私は思ひ描けてゐなかった。だが、ザッカーバーグははっきりとその世界を思ひ描いてゐた。

 2010年11月にサンフランシスコで開かれた「ウェブ2.0サミット」で、ザッカーバーグが「ウェブの世界の勢力地図はゼロサムゲームではない」と言ってゐたのが深く印象に残ってゐる。(マーク・ザッカーバーグ・インタビュー:「ゼロサムゲームではないことを忘れてはならない」(ビデオ) TechCrunch Japan

皆さんは間違ってます。この地図でいちばん大きな部分は「未知の領域」と記されるべきです。この地図ではゼロサムゲームに見える。しかし実際はそうではない。われわれは価値を他の誰かから取り上げているんではありません。われわれは価値を新しく創り出しているんです。


 今こゝに、「ウェブ」といふ名の一つの部屋があったと想像しよう。床には各種ウェブサービスが隙間なくびっしりと敷き詰められてゐる。それを見て、普通だったら「この部屋には、後発の私たちがサービスを展開できる余地はもう残されてゐない」と諦めるだらう。だが、ザッカーバーグは違ふところに目をつけた。「空中がある」。床から天井までがウェブ空間である。だとすれば、床の上空(空中)が空いてるではないか。空中の空きスペースを利用すればサービスを展開できる。
 私にはさう思へる。ザッカーバーグは言はば、「もう一つのウェブ」の世界を作ってしまったのだ。

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 しかし、FacebookはGoogleとは距離を置きながらも、ちゃっかしウェブの中にはゐる。スティーブ・ジョブズの「Ping」はウェブの外に世界を作らうとしてうまく行かなかった。こゝら辺もザッカーバーグの抜け目のないところだ。


・Facebookの3つの問題点
 
 今や世界のインフラと化したFacebookは、人間関係のあり方、あるいは私たちのライフスタイルを劇的に変へる。

 これだけ利用者数が増え大きな影響力を持つに至ったら、当然、問題点もいろいろ出てくる。

 Facebookにはいくつもの問題があると私は思ってゐるが、私が特に注意してゐるのは、以下の3つの問題点だ。

・プライバシーの問題
・アイデンティティの問題
・ネットワーク構造の問題


・プライバシーの問題

 プライバシーの問題については、すでに米国などでもさんざん批判されてゐるので、特にこゝでは書かないけれども、Facebook Placesなどの位置情報サービスが犯罪に悪用される危険性などはもっと考慮した方がいいだらう。今はまださうした犯罪が少ないのは、米国の10代の子どもたちの間でさへ、位置情報サービスの認知度がまだ低いことが理由の一つにあげられるだらう。(10代の位置情報サービスの認知度、Facebook Placesですら半数を下回る TechWave.jp


・アイデンティティの問題

 今まではネットの世界では、多重人格(複数アカウント)や匿名性が認められてきたが、Facebookの世界ではそれらは認められない。唯一無二の自分しか認められないのだ。
 この苛斂誅求に自己同一性を求められる世界では、どのやうな問題が起こるのか。
 その世界ではおそらく、若き日の過ちを忘却の彼方へと消し去ることができない。そして、卑近な例で言へば、たとへば「大学デビュー」などは今までよりもずっと難しくなるだらう。複数のネットワークに絡め取られ「キャラの固定化」を要求される。しかし、家族、親戚、中学時代の友人、高校時代の友人、職場の同僚など、異なるグループの人たちに対して、常に「一つの自分」を見せることが可能だらうか。人は誰しも「隠れた顔」を持つのが普通ではないだらうか。
 どっちの方面に顔向けしても恥づかしくない、と言ひ切れるほど強い自信を持った人間はさうさうゐるものではない。


・ネットワーク構造の問題

 しかしながら、私がFacebook批判をするとき、一番問題にしたいのはプライバシーの問題でもアイデンティティの問題でもない。一番問題だと思ってゐるのは、Facebookのネットワークの在り方の問題だ。

 ウェブが嫌ひだった。
 Googleがそのウェブの世界を整理してみせたときに用ゐたのが、「ページランク」と呼ばれる思想だった。長く果てしないSEO業者との争ひの中で、Googleの検索アルゴリズムはいろいろと変遷してきたが、基本的には次の2つの要素が今も重要であらう。すなはち、

1.被リンクの数が多いこと
2.質の高いウェブページからリンクされてゐること

 「質が高い」といふのは「ページランクが高い」といふことだ。ページランクが高いページからリンクされれば、そのページのページランクも上がる。
 ウェブは、そのネットワークの生成過程において、多くの被リンクを集めページランクが高いページほどますますたくさんのリンクを獲得し、ますますページランクが上がる、といふ構造に成ってゐる。「貴族主義的ネットワーク」(マーク・ブキャナン)とも呼ばれたかうしたネットワークを「スケールフリー・ネットワーク」と言ふ。

 ザッカーバーグはFacebookといふ名の「もう一つのウェブ」を作ったはずだった。しかし、そのFacebookもまた私にはウェブと同じスケールフリー・ネットワークに思へるのだ。
 スケールフリー・ネットワークの特徴は簡単に言ふと、「金持ちほどますます金持ちに」といふことである。
 私は以前、このブログで、Facebookがリア充主義であることを批判した。(Facebookが日本で流行らない3つの理由(2011/01/11))Facebookはフレンド(友達)が多いほど楽しめる。所謂、「顔が広い」人は、友達の友達、友達の友達の友達、といふ具合にどんどんソーシャルネットワークが拡がって行く。一方で友達が一人もゐない人は、ソーシャルネットワーキングサービスに登録したはずなのに、そのソーシャルネットワークはまったく拡がって行かない。
 友達が多い人はFacebookを使ふことでそのソーシャルネットワークがどんどん豊穣になり、自然とレベルの高い人も集まってくる。ますます知り合ひは増える。ちゃうど、ページランクの高いウェブページが放っておいても質の高いリンクを獲得できるやうに。
 さう、私にはFacebookは、ウェブがウェブページをノード(単位)としてゐたものを、人に置き換へただけのものと見えるのだ。


・結び

 私はウェブが嫌ひだった。
 そして、もう一つの世界として現れたはずのFacebookもまた好きになれなかった。 

 「スケールフリー」は「格差社会」にコミットしてゐる。相性が良い、と言ってもいい。スケールフリーとは、標準的なスケールがないといふことだから、当然と言へば当然のことかもしれない。
 格差社会を助長するやうな構造が好きになれない。

 私がなぜこゝまでFacebookを批判するのか。
 それは、ザッカーバーグほどの透徹した眼を持った天才なら、新しい世界を作るときにもっと理想的な(と私が考へてゐる)在り方の世界を作ることができたはずだといふ思ひがあるからだ。
 Facebookは私の理想とはほど遠い。FacebookがSNSの最終型であるとは思はない。今後新しく生まれてくるSNSは根本的にネットワークの在り方を見直す必要があるだらう。

 Facebookはバッドデザインな駄作である。
 もちろん、金儲けといふ観点から見るならば成功作だらう。Facebookが保持してゐる厖大なソーシャルグラフのデータは「金の成る木」だ。Googleとの熾烈なデータ争奪戦争に勝つことができれば、Facebookは幸せになるだらう。だが、Facebookが幸せであるといふことと、全世界のFacebookの利用者が幸せであるといふこととは別のことである。


 マーク・ザッカーバーグ、27歳の誕生日おめでたう。



【Facebook関連の記事】
  • 日本でFacebookは始まるのか(2010/10/13)

  • アサンジvs.ザッカーバーグ(2010/12/31)

  • Facebookが日本で流行らない3つの理由(2011/01/11)


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アサンジvs.ザッカーバーグ

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 米『タイム』誌は、2010年の「今年の人」にFacebookの創設者マーク・ザッカーバーグ(Mark Zuckerberg)を選んだ。
 読者投票で1位に選ばれてゐたのは、Wikileaksの創設者ジュリアン・アサンジ(Julian Assange)だったが、タイム誌の中の人が選んだのは、読者投票では10位に選ばれてゐたザッカーバーグだった。

 これを受けてネット上では「納得いかない、ザッカーバーグは2009年の人ならわかるけど」といったやうな声が多く見られた。
 Facebookが日本よりだいぶ以前から普及してゐた米国では「2007年の人の間違ひぢゃないのか」といふ皮肉が多く聞かれた。

 どちらが「2010年の人」に相応しい人物だったか。
 たしかにザッカーバーグに「パーソン・オブ・ザ・イヤー」を与へるのは少し遅すぎる気がする。しかしいづれこの男に与へられなければならなかった。2007年から2009年までは与へ逃してゐたのだ。

・WikileaksとFacebookの相違点

 アサンジとザッカーバーグに対してその人物像を評価するとき、私は正確に評価できない。この二人に会ったこともないからだ。あくまでネットで見聞きする範囲での私の勝手なイメージでしかない。

 私はこの二人を似たやうな人物だと思ってゐた。コンピューターに強い人。子どもの頃からコンピューターが得意で、天才的ハッカーであり天才的ギークであった。ITの力を使って世界を変へようとしてゐる。そして今日実際、世界に大きな影響を齎してゐる。
 しかし最近になって、この二人は随分と性格を異にするのではないかと思ふやうになった。

 例へば、二人が作った有名なウェブサイトは、少しその性格を異にしてゐる。

 ウェブ2.0のオープンな世界は終焉するのか?:日経ビジネスオンライン

 海部美知氏は上記記事の中で、オープンな「Web2.0」の時代が終はり、ネットが「クローズド」に向かってゐると指摘してゐる。

 私には、アサンジのWikileaksが「オープン」を志向してゐるのに対し、ザッカーバーグのFacebookは「クローズド」であるやうに見える。
 2004年頃、日本でmixiが流行ってゐると聞いた私はmixiの中を見てみたかったが、誰からも招待されない私はmixiの中を覗ひ見ることができなかった。
 mixiもFBもSNSは基本的に会員登録しなければ中を見ることができないクローズドな世界だ。

・アサンジとザッカーバーグの相違点

 この二つのウェブサイトにさうした大きな相違点を感じるとともに、アサンジとザッカーバーグといふ二人の人物についてもまた相違点を感じる。
 もちろん、Wikileaks=アサンジ、ではない。WLは好きだけれどアサンジは嫌ひだ、といふ人は結構ゐる。

 アサンジには政治信条がある。精神があり、思想があり、主義主張があり、イデオロギーがある。「反権力」を実行していく「活動家」といふイメージがぴったりくる。
 一方、ザッカーバーグにはさうしたものが感じられない。ザッカーバーグを見てゐても、主義主張も信条も思想も感じられないのだ。FBを作るときに「反権力」といった気骨のやうなものが多少はあったかもしれないが、彼の行動原理は基本的に「(ギーク的に)面白いか面白くないか」であるやうな気がする。
 詳しくはわからないが、FBを作る過程で、政治思想を持ってゐたのはクリス・ヒュージ(Chris Hughes)であり、FBの運営思想・経営思想を主に持ってゐたのはエドゥアルド・サヴェリン(Eduardo Saverin)なのではないだらうか。
 ザッカーバーグはそれが面白さうであれば動くし面白くなければ動かない。FBを作ったのは、自らの思想や信条を具現化するためではなく、単にそれが「面白かった」からだ。

・ザッカーバーグは"のらりくらり型"の天才

 私は、ザッカーバーグを見てゐると、日本の西村博之を思ひ出す。スケールは違ふかもしれないが何となく似てゐる。顔ではない。
 皆がきちんとしたスーツを着てくるフォーマルな場所にも、西村博之は私服で素足にサンダル、といふ格好で現れる。一方、ザッカーバーグもフリースにジーンズ、お気に入りのアディダスのサンダル、といつもラフな格好をしてゐる。
 ザッカーバーグはベーコン入りのホットドッグをこよなく愛し、西村博之はめんたい味のうまい棒をこよなく愛す。
 常に時代の斜め上、もしくは斜め先を行くが、その行動原理は自分にとって面白いか面白くないか、である。
 のらりくらりとした態度で周囲の人を苛立たせる。真面目に論争を挑まうとした者は痛い目をみる。よく言へば、意固地でなく、飄々として肩に力が入ってをらず、柔らか頭である。FB共同創業者のサヴェリンは結局、そののらりくらりとした態度に付いていけなかったし、気鋭の経済評論家であった勝間和代は西村博之と対談したとき、そののらりくらりとした態度に苛立ち口を滑らせ、最終的に謝罪させられるまでになった。
 多くの人から訴訟を起こされ、それに対してまともに相手してないところも似てゐる。

・アサンジのやり方の危ふさ

 アサンジは、2010年、Wikileaksで米国の機密文書を次々と公開し、世界を騒然とさせた。
 アサンジも斜め上を行くタイプの天才だ。ドメインを停止されても別のドメインがちゃんと用意されてあり、サーバーを停止されてもミラーサーバーを用意してゐる。自身が身柄を拘束されて物理的にネットにアクセスできない状況におかれても、自動的に文書を公開する仕組みを用意してゐる。常に相手の出方を上回ってゐる。

 しかし私はアサンジのやり方、すなはち彼の活動の仕方やWLの在り方に一種の危ふさを感じてゐる。

 アサンジは少年の頃から天才ハッカーとしての才能を持ち、10代の頃にはすでにいくつもの大きな組織への侵入を繰り返してゐたと言はれてゐる。
 しかし現在のWLの活動はそのやうなハッキング行為に依ってゐるのではない。ハッキングによって米国政府の機密文書を盗み出してゐるわけではない。内部告発、すなはち内部の人間からの情報提供に依ってゐる。

 私は以前、米国の元天才ハッカーで現在はネットセキュリティの専門家だといふ人の話を聞いて印象に残ってゐる話がある。それは、どこかのサイトの内部に侵入する場合、正面からセキュリティを破るよりも、人を騙す方が簡単だ、といふ話だった。つまりパスワードはそれを知ってゐる人の口から直接聞く方が早い、といふことだ。
 アサンジ少年がコンピューターをいぢってゐた頃だったらハッキングも容易だったかもしれないが、これだけ高度にネットセキュリティが発達した時代にあって、正面突破をはかるのは至難の業だ。それぐらゐのことはアサンジも当然わかってゐるだらう。
 WLは、FBの共同創業者たちの集まりよりも、もっとずっと信条や主義といった志を同じくする仲間たちの手によって成り立ってゐる。WLの協力者たちは基本的には志や精神といった結束で結ばれ、最終的には個人と個人の信頼関係といふところにその礎が置かれてゐる。
 WLがその活動のやり口としてゐる「内部告発」といふ"正義の裏切り"は、同時にWLといふ活動グループ自身にも内在してゐる。WLもまた常に内部崩壊の危機に晒されてゐるのだ。
 中国史を見ても日本史を見ても世界史の教科書を見ても、さうした人間と人間の裏切りの話はたくさん出てくる。
 私がWLに危ふさを感じるのは、皮肉にもその成立構造があまりにも個人と個人との信頼関係に基礎を置き過ぎてしまってゐるからだ。アサンジが今のやり口を進めていくならば、さうした構造はますます強化される。人と人との間に疑心暗鬼が生じ、人間は果てしない心理戦に追ひ込まれる。すでにアサンジ自身が今まで自分が最も信頼してゐた人、最も親しくしてゐた人に裏切られる恐怖に怯えてゐるのではないか。
 もし米国政府がアサンジを敵視してゐるとすれば、間違ひなくさうした協力者や近親者への懐柔策を仕掛けてくるだらう。

・アサンジ対ザッカーバーグ

 アサンジは、2010年の一年間の活動を通じて、あらためて、現実の世界で活動していくのに必要な基本的なサービスの一つ一つが、いかに米国企業のものばかりであるかといふことを嫌といふほど味ははせられただらう。
 PayPalしかり、Amazonしかり、VisaもMasterCardもさうだった。
 以前、WLにドメイン問題といふ小さな問題が起こったが、そのドメインでさへ、大元はICANNといふ米国の団体が管理してゐる。そしてICANNは米商務省の傘下にある。
 いくらアサンジが斜め上を行く天才であったとしても、これだけの基本的なサービスやツールの使用を制限されれば、いくらか行動は制約されるだらう。

 米国政府がアサンジと敵対してゐるとしたら、米国政府は、できるだけ多くの米国企業を味方につけたい。
 できればGoogleに、そして今一番味方につけたいのはFacebookではないだらうか。

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 2010年11月30日に、私は、ブッシュ前大統領とザッカーバーグが対談してゐるのを見た。ブッシュから近づいたのか、ザッカーバーグから接近したのかは分からない。この両者の対談が意味するものは一体何だらうか。
 ブッシュがどれだけ現在の政界に影響力を持ってゐるか知らないが、おそらく多くの政府関係者が、この若き天才と仲良くしたいと思ってゐるはずだ。ザッカーバーグ(とFB)が味方に付いてくれれば、これほど心強いことはない。

 かうなると、"アサンジ対ザッカーバーグ"といふ構図が見えてくる。
 実際にはさうはならないであらうが、もしこの二人の天才が直接対決したらどっちが勝つのだらうか、といふことを私は考へてみた。

 それは、やはりザッカーバーグが勝つのではないか。

・天才の掌の上

 なぜなら、Facebookはプラットフォームだからだ。多くの人がその上で生活し、5億人以上の人々を支へて繋げる、がっしりとした基盤を持つ。脆弱な基盤を持ち、内部崩壊・空中分解の危機に常に晒されてゐるWikileaksとは網の結び目の堅さが違ふ。

 私たちは毎日自由にネットの世界を遊んでゐるつもりでゐて、その実は、現代日本のネットユーザーの多くは、西村博之やザッカーバーグのやうな"サンダル履きのあんちゃん"たちの掌の上にゐたりする。

 そのザッカーバーグでさへ、ティム・バーナーズ=リーの掌の上にゐて、バーナーズ=リーはフォン・ノイマンの掌の上かもしれない。
 
 機械が嫌ひでネットが嫌ひで、未だに年賀状を一枚一枚、毛筆の手書きで書いてゐるやうな私みたいな古風な人間は、かうした天才たちに付いていけない。付いて行かなかればいいではないか、と思ふかもしれないが、付いて行かないまでも、かうした一部の天才たちに振り回されるのは嫌なのだ。いくらコンピューターが嫌ひだと言っても、21世紀に生きてゐる以上、まったくコンピューターに触らずに生きていくことはできない。自分を取り巻いてゐる環境に一人で抗ふことはできないのだ。

・小さくて大きな不安

 アサンジとザッカーバーグとどちらが好きか、と問はれたら、私なら「どちらも好きではない」と答へるだらう。

 (政治的な意味ではなく)保守的な傾向のある私は、新しいことに対しては反発を感じやすい。
 私は未だに、もしフォン・ノイマンがゐなかったら、もしロバート・オッペンハイマーがゐなかったら、もしヘンリー・フォードがゐなかったら、もしトーマス・エジソンがゐなかったら、といふ世界を夢想することがある。
 多くの人は、そんなのは馬鹿馬鹿しいことだと言ふだらう。「エジソンが生まれてゐなかったとしても、いづれ別の誰かが電気を発明してゐたさ」と。確かにその通りだ。しかし、それならなほさら「エジソンが」電気を発明する必要はなかった。もし私がエジソンと同時代に生きてゐたら、99%の汗を流してゐるエジソンに向かって「もうちょっと寝たまへ」と言っただらう。

 これは、世界を動かす力を持った天才に対する、小さな凡人の大きな不安なのだ。



 皆さんは、J.アサンジとM.ザッカーバーグの二人のどちらにシンパシーを感じますか。下記から投票してください。(投票すると結果が見れます。)






(おまけ)
 私が今回の記事を書くきっかけになった動画です。ジョーク動画なので真に受けないやうに。でもちょっと考へさせられます。