暫定龍吟録

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遅れ続ける日本

 「日本はこの分野で大きく遅れてをり・・・」

 ニュースなどでよく聞く言葉。この言葉は子どもの頃からずーっと聞いてる気がする。自分が子どもの頃から日本は世界に遅れてゐて、その後もずっと遅れてゐて、今も遅れてゐる。
 「うかうかしてゐると世界に遅れをとるぞ」などと言ふが、今がまさにうかうかしてゐる時なのだと感じる。


旧ステージに拘る日本

 最近、巷間でよく聞くのは、製造業とくにテレビなどの日本の「お家芸」と言へる分野で韓国に負けてゐて悔しい、日本はもっと頑張らなければ、といふやうな声。テレビを始めとした家電や、自動車など、今まで日本が世界をリードして来た分野で韓国企業が日本を追ひ越し始めてゐる。

 たしかに大相撲などで外国人力士が活躍し、日本人力士がまったく活躍してゐない状況などを残念だと思ふ気持ちはわかる。しかし相撲は日本のお家芸かもしれないが、テレビや自動車が日本のお家芸だらうか。

 2004年に中国レノボが米IBMのPC部門を買収した時、中国は龍が巨人を飲み込んだと喜んだが、アメリカは大して大騒ぎもしなかった。旧いステージは後進国に呉れてやっていいぐらゐに思ってゐたのではないか。

 日本が頑張って国産のPCを普及させようとしてゐた頃にアメリカはOSの世界を制覇してゐたし、日本が国産のOS作りに励み出した頃にはアメリカはネット検索の世界を制してゐた。そして日本が国産の検索エンジンを、と言ってゐた頃にはアメリカはソーシャルネットワークの世界にステージを移し始めてゐた。


国内に留まる日本

 日本のサービスは概ね日本人向け(国内向け)に特化されてゐる。そのことを如実に表してゐる例は「ガラケー」とも呼ばれるケータイであらう。
 言葉の壁や文化の壁があって海外へ進出するのは難しいのかもしれない。
 日本のケータイは機能や性能の面において決して遅れてゐたわけではない。むしろ進んでゐた。日本列島といふ小さな島の中で独自の進化を遂げてきた。しかし後進の"iPhone"および外来のスマートフォンに駆逐されつゝあるのが現状だ。
 なぜ、進んでゐる日本のケータイが遅れてゐるやうに見える外来のスマートフォンに負けてゐるのか。

 「ケータイ」と「スマホ」の違ひは何か。「スマホとは何か」と訊かれた時、多くの人の認識は「今までボタンで操作してゐたのがケータイで、直接画面にタッチして指でシュッシュッてやるやつがスマホでしょ?」といふレベルである。
 一般人のスマホ理解がそのレベルであるのは仕方ないとして、私が心配してゐるのは、日本の携帯電話を作ってゐる会社のトップの方の人たちさへ、もしかしたらその程度の認識なのではないか、といふことだ。
 日本のケータイは、携帯電話を元としてそれにいろいろな機能を付加して進化してきたものだ。スマホは元はパソコンで、それに電話機能などを後付けしてできてきてゐるものだ。ケータイはハードウェアそのものを改変することで進化していくが、スマホはハードウェアよりも、その中のOSやアプリを進化させていく。根本的な思想が違ふ。
 iPhoneが凄いと言はれるのはiOSといふ思想を搭載してゐるからである。アップル社以外のスマホにはそのやうな思想がないやうに見えるが、OSがAndroidであることでグーグルの思想を搭載してゐると言へる。

 そして、このモバイルアプリの世界でも日本のIT企業が作るアプリは日本国内向けである。韓国の「LINE」や中国の「微信」が国境を超えてヒットしてゐるのに比べると、日本はこの分野でも世界市場において遅れてゐる感じがする。


遅れ続けるテレビ

 「日本は遅れてゐる」といふ問題を考へるとき、一番わかりやすくて象徴的なのは、やはりテレビだらう。
 2011年第3四半期の世界の薄型テレビのシェアランキングは次の通り。

1位:サムスン(韓)22.8%
2位:LG電子(韓)13.1%
3位:ソニー(日)9.9%
4位:パナソニック(日)8.4%
5位:シャープ(日)7.6%
その他38.2% 
(Source: DisplaySearch Advanced Quarterly Global TV Shipment and Forecast Report)

 今まで日本の得意分野だったテレビ作りの世界で韓国に負けた、と随分、話題になった。そして日本のメーカーは、更なる高画質化を目指して韓国勢に勝つ、などと言ってゐる。

 今は、まったく新しいタイプのテレビが出て来る前夜ともいふべき時期である。私は別に日本のメーカーに1位になってほしいとは思ってゐないけれど、この時期になってもなほ、「薄型」だの「高画質」だのといった旧来の基準にばかり着目してゐる日本企業は大丈夫なのかと心配になってくる。

 「いや、どんな時代になってもモノづくりは大事ですよ」と言ふ人もゐるかもしれない。確かにその通りで、この先の時代もハードウェアを軽視していいといふことにはならない。しかし、その「モノ」がテレビや自動車である必要はない。
 私は昨今の若者のテレビ離れや自動車離れによって、すぐにもテレビや自動車が無くなるとは思はない。たゞ、これからのテレビや自動車は従来の概念を覆すほどのまったく新しいタイプのものが世界を席巻するだらう。iPhoneが携帯電話ではなかったやうに。
 テレビの世界で言ふなら、それはインターネットとの融合だったり、壁や空中などに自由にディスプレイを表示できる技術だったり。少なくとも、「リモコンのボタンで視聴者の皆さんも番組のクイズに参加できます」などといふレベルの革新ではない。

 数年後には、さうしたまったく新しいタイプのテレビが(おそらくどこかの外国で)登場して世界に普及し始め、その時NHKのアナウンサーがいつものやうに「この分野で日本は大きく遅れてをり・・・」といふニュースを伝へてゐることだらう。

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「パワースポット」ブームに思う

 最近、テレビなどで「パワースポット」といふ聞き慣れない言葉をよく聞くやうになった。

 テレビでも雑誌でもネットでも、見ない日はないといふぐらゐ取り上げられてゐる。

 パワースポットとは何ぞ。
 どうやら占ひで「ご利益のある場所」といふほどの意味らしい。
 それにしても、日本語には昔から「霊験あらたかな」といふ美しい言葉があるのに、なぜ「パワースポット」などといふカタカナ言葉を使ふのだらうか。

 ブームになってゐるのは、2009年末ぐらゐかららしい。

 明治神宮の御苑の中に「清正井」といふ井戸がある。この井戸が、その「パワースポット」として最近注目を集めてゐるらしい。なんでもこの井戸にお参りしてケータイで写真を撮って待ち受けにしておくとご利益があるといふ噂が広まっており、今は連日、3時間待ちとも5時間待ちとも言はれる行列ができてゐるらしい。

 清正井は私は思ひ出がある。
 明治神宮の近くの学校に通ってゐた私は、学校帰りによくこの井戸に立ち寄って、その清冽な水で喉を潤したりした。当時は並んでゐる人など誰もゐなかった。御苑の中自体にほとんど人がゐなかった。ケータイを持ってない私はもちろんそれを撮影して待ち受けにしたりなどしなかった。本当に当時は清正井なんて誰も知らなかった。知る人ぞ知るといふ感じの場所だった。

 それが今は3時間待ちの長蛇の列。こんなに多くの人が訪れたら、環境も悪化するかもしれないし水質も劣化するかもしれない。私はもう二度とこの井戸を訪れることはないだらう。あるいは30年後か40年後、ブームのほとぼりが冷めたころに、また訪れる機会があるかもしれない。

 清正井がこゝまで有名になったのは、2009年末にある占ひ芸能人がテレビで紹介したことがきっかけらしい。そしてその後、テレビやネットで何度も紹介されて「ご利益」の噂が広まって行った。

 つくづくテレビやネットが恨めしい。特にテレビは、まだまだネットよりも大きい影響力がある。
 余談だが、家の近くに普段閑古鳥が鳴いてゐる定食屋がある。その平凡な定食屋がある日テレビで紹介されたのだが、翌日に行列ができてゐて驚いた。

 最近のウェブのトレンドである「ソーシャル」といふ言葉には「共有」といふニュアンスもあるらしいが、私はどうもこの「共有」が苦手だ。「とっておきのおいしい店」なら、なほさらのこと、なぜ人に教へるのか理解できない。人が殺到してしまったら、自分がその店に行くことができなくなるではないか。
 これはケチとかさういふ問題ではない。本当に親しい人には教へてもいいのだ。たゞ、マスメディアを使って不特定多数の人に教へるべきではないといふ意見である。

 だが、人気ブログを書いてる人などは、「情報を出し惜しみすべきではない」と言ふ。たくさんアウトプットすれば、それだけたくさん人が集まってきて、インプットしてくる貴重な情報も増えてくると言ふのだ。
 なるほど、その言葉を聞けば、確かにこのブログがアクセス数が少ない理由がわかる。しかし残念ながら、私はアクセス数は増やしたいけれども知りたがりではないので、そんなにたくさんの情報を得たいとも思はないし、「とっておきのおいしい店」を教へてもらひたいとも思はない。

 私はたゞ静かに、今自分の持ってゐるものを大切にしたいと思ふだけだ。その持ってゐるものとは、自分に何か関聯したものでなければならない。私は学生の時分、わざわざ明治神宮まで出かけて行ったわけではない。自分の学校の近くだったから立ち寄ったのだ。
 私は自分のテリトリーを守りたい。あれもこれもと興味の赴くまゝに手を出して他人の領域を荒らしたくない。

 人々の静かな暮らしを蹂躙するのにテレビやネットが貢献してゐるのだとしたら、私たちはこれらの道具の使ひ方を今一度再考するべきではないか。