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30歳までニート!鴨長明という人-『方丈記』800年記念-

 テレビで芸能人が「金持ちの家に育ったやつはええなあ」と、裕福な家庭に育った人を羨んでいるのを偶に見かける。そして、自分がどれだけ貧しい少年時代を過ごしたか、そこからどれだけのハングリー精神でがんばって今の成功を掴んだかを力説する。

 しかし、私はそういった話にはあまり共感するところがない。子ども時代に貧しくても、今は成功して家族もマイホームも持ってこうしてテレビに出て稼げているのなら、そっちのほうが「いいなあ」である。
 それとは逆の人生、子ども時代にいくら裕福な家で育っていても大人になってから転落して行く人生の方がよっぽど辛い。

 「だから金持ちのボンボンは駄目なんだよ。ガッツがないから」と彼らは言うかもしれないが、しかし、世の中、裕福な家庭の子どもは大人になっても当然のように裕福になり、貧しい家の子はそのまま貧しくなる、という例の方が多い。

 『方丈記』の作者として知られる鴨長明(かものちょうめい)の人生は、社会的地位や経済面から見れば、まさに転落していく一方の人生だった。

 今日は、そんな鴨長明の失意の人生を振り返ってみたい。
 

鴨長明の人生
 
 1155年、京都の下鴨神社の禰宜の子として生まれた長明は、いわゆる裕福な家の子どもだった。当時の貧しい家の子よりもずっと衣食住に不自由しない生活を送っていただろう。褒めそやされて育てられて、なんとわずか7歳にして「従五位下」の称号を得る。
 しかし、『日本人なら知っておきたい日本文学』の言葉を借りれば、長明はこの7歳の時が「人生のハイライト」。生涯、「従五位下」より位が上がることはなかった。

 長明の夢はお父さんと同じような神官になること。そして自分も大きくなったらお父さんと同じような人生を歩むんだ、就職して社会的地位も得て、大きな家を建てて、結婚して子どもができて、あたたかい家庭を築いて幸せな生活を送るんだ。漠然とそう思っていたに違いない。

 しかし18歳の時、これから社会に出ていくという時に、父親が亡くなる。有力な庇護者であった父を亡くしたことで神社への就職がかなわず。ショックを受けた長明は自殺を思う。(死ななかった。)

 失意の内に20代を過ごすことになるが、長明の20代はよく判っていない。
 特に、長明の恋愛、結婚、家族のことなどは、かなり謎に包まれている。結婚生活だけではない。恋人の存在どころか、友人・知人等、プライベートなことはかなり不明である。

 家はおばあちゃんの家(大邸宅)に住まわせてもらっていた。ここでおそらく結婚して子どももいたらしいが、肩身は狭かった。なぜならニートだったから。働きもしないで毎日家にいる男なんて今も昔も女からは不評だろう。長明もニートのままでいいと思っていたわけではなくて、いろいろ就活もしていたのだろうが、うまく行かなかった。しかしいくら広い家とは言え、毎日家の中にいる夫に妻のイライラは爆発しただろう。おばあちゃんもニートの孫をいつまで住まわせておかなくてはいけないのか、というイライラが募ったのだろう。
 そうした家庭内不和が限界に達して、30歳にして長明はその家を追い出された。事実上の離縁。一気に家も妻も子も失った。

 しかたなく、長明は自分で鴨川のほとりにおばあちゃんの家の10分の1サイズの家を建ててそこに住む。長明も日々、何の努力もせずに遊びほうけていたわけではない。自分の得意なことは「琵琶と和歌だ」と認識していた長明は、その才能を伸ばして何とか世間に認められようと、日々自分磨きに励んでいた。
 その甲斐あってか、33歳の時に『千載和歌集』というわりとメジャーな歌集に自分の歌が一首入選したときはとても喜んだ。初めて自分の才能が世間に認められたような気がした。

 それからも師匠に付いて得意分野の音楽(琵琶)と文学(和歌)の研鑽に励んだが、なかなか世間には認めてもらえなかった。
 だがついに、46歳の時に和歌所の寄人としての就職が決まった。46歳にして初めての就職!

 「プライドが高い人は自分はこんな下っ端な仕事はできませんとか言って仕事を選んでるから駄目なんだよ。これだけ不景気で仕事がない時代なんだから、自分はどんな仕事でもやります!っていうぐらいの意気込みじゃないと」と言う人がいるだろう。たしかに長明は自分の得意分野である音楽か文学に関する職に就けたらいいなあとは思っていただろう。しかしこれはいつの時代でも誰もが思うことだ。だが長明は決して「それなりの地位の高い職に」などとは思っていなかった。長明は地下歌人で昇殿を許されない低い身分であった。今の感覚だと、公的機関の非正規の職員みたいなものだ。正規の職員たちに比べて扱いは下だった。

 でも、それでも、長明はこの就職が決まって嬉しかった。そして事務主任の源家長によれば「めちゃくちゃまじめに働いた」。自分を雇ってくれた恩に応えようとしていたのだろう。

 40代は、得意の和歌で勝負ができる、少しだけ楽しい時代だった。
 長明は貴族としては和歌所に集まった他のエリート宮廷歌人たちより身分は低かった。和歌には自信があったけど、彼らの新しい歌風には少しびびった。時代の流れは「新古今流」だった。
 自分がプライドが高すぎることは自分でもよくわかってる。そのプライドに拘りすぎると、時代の波に乗れなくて出世できない。新古今プロジェクトの中心メンバーは藤原定家である。定家流の新しいスタイルの歌が今は流行っているのである。だから長明は自分の今までの拘りは捨てて、最新の歌のスタイルを真似てみたりする工夫をした。プライドも捨てて、とにかく世間に「ウケる」ことが必要だと思った。その結果、新古今和歌集には長明の歌は十首、入選した。

 ああ、頑張っていればいいことあるな。私の人生、少しは良くなってきたのかな。

 そして50歳になった時、河合社のポストが空いた、という話が舞い込んできた。河合社は下鴨神社の摂社。若い頃からのずっと第一希望だった就職先である。もちろん正職員である。ああ、やっと私の人生が好転し始めた。やっぱり生きていればいいこともある。18歳の時に死んでなくてよかった。
 内定が出た。後鳥羽院からの推薦状までいただいた。日頃のまじめな働きぶりを後鳥羽院が評価してくださったのだ。やっぱりまじめに頑張っていれば、見てくれている人はちゃんと見てくれている。

 だが。
 定員1名のポストに対して、もう一人の志願者が「長明は相応しくない」とかいろいろ言って、就職を勝ち取ってしまった。

 長明、大ショック。今度はもう立ち直れないほどの大ショック。
 そりゃそうだろう。安定した職へ就くことは長年の夢だったのだ。しかも、職に就いていなかったことで自分は家や家族まで失っているのだ。そうした暗い過去とようやく決別することができると思っていた。もう就職は目の前まで来ていた。今度は99%確実、周りの人もみんなそう言ってくれていた。何より後鳥羽院の推薦状までもらっていた。それがまたしても目の前で掌からするりと零れ落ちて行った。

 あまりに落ち込んでいる長明を見た後鳥羽院、「今回は残念だったけれど、でも君のために新しいポストを新設したんだ。第一希望のところじゃないけど、その職に就いて頑張ってみたらどうかな。そうしてればまたいつか話がいい方向に進むかもしれないし」。
 「いつかいつかって、私はもう50なんです!残りの人生もそんなに長くないんです。下手な慰めは要りません」と長明が言ったかどうかは分からないが、これ以上はないというほどに落ち込んでいた長明は、後鳥羽院の厚意を拒絶して失踪。京都の街から姿を消した。

 出家することにしたのである。だが、30歳の時に家も家族も失っていたのに今さら出家というのもなんかちょっと変だった。なので俗世間との関わりをさらに断つということを形として示すために、京都の都心を出て、郊外の大原という山の中に住むことにした。
 と言っても、大原はけっこう都心との人の往来も多くて完全に孤独になれる場所ではなかった。

 それで55歳の頃、さらに山の方の日野というところに引っ越した。ここに小さな庵を建てた。広さは四畳半ほど。30歳の時から住んでいた鴨川の家の100分の1。おばあちゃんの家の1000分の1。

 この小さな「方丈(四畳半)」の家に住んで俗世間との関わりを断っているつもりだったが、鎌倉に就職口があるかもしれないという話が舞い込んできた。鎌倉!新しく幕府が開かれたばかりの新天地鎌倉!そうだ鎌倉に行こう!もう時代は京都から鎌倉に移っているんだ。鎌倉に行けば仕事があるかもしれない。

 長明ははるばる鎌倉まで行って、3代将軍源実朝の面接試験を受ける。

 結果は不採用。

 失意に打ちのめされて京都に帰る。

 そして方丈の庵に籠って『方丈記』を書き上げる。

 それから四年ほどして62歳で亡くなった。


まじめな人、長明

 ここからはちょっとまじめな話。

 「30歳までニート」と書いたが、実際には長明が何歳までニートだったのかは分からない。30歳まではずっとおばあちゃんの家にお世話になっていたわけだが、その後もどうやって生計を立てていたのかは分からないから、フリーターみたいな感じだったのだろう。

 長明のその自由な生き方を知って、「長明は世間の束縛を逃れて自由になりたかったのだ」と言う人がいる。私はその考え方には反対である。
 むしろ長明は世間一般の人並みの暮らしを求めていた。本当に自由になりたかったのなら大原などという中途半端な山中に住まないはずだし、50歳を過ぎても鎌倉まで就活みたいなことをしに行っているのも実社会指向がある証である。長明は、お父さんと同じように、普通に就職して結婚して家を持って、そうした普通の生活を送りたいと思っていたはずだ。

 長明は、よく西行に比較される。
 たしかに山の中の庵に隠居して琵琶を弾いていれば「風雅ですなあ」と思われるのも無理はない。たしかに長明には音楽や文学の教養があったし、そういうことを嗜んではいた。それで昔から今まで多くの人が長明のことを西行のような「風流な趣味人」と解した。
 たしかにそういう一面はある。だが、「風流な趣味人」と思われるのは、長明本人は不本意であろう。
 長明の人柄の本質は、あくまでも「まじめ」である。
 好きでニートでいたわけじゃない。好きで独身でいたわけじゃない。

 長明は出家したとは言っても実社会との関わりを持ち続けていたし、外面的には完全なる出家ではなかった。だが内面的には、そこらの坊主よりもずっと求道的で自分に厳しくまじめだった。『方丈記』の最後の方で、山の静かさや小さな家に拘ることさえおのれの醜い欲望の表れではないか、と自問しているのはまさに長明の「まじめ」さが窺えるところである。


方丈は失意の象徴

 私はかつてほんの僅かな期間だが京都の下鴨神社の近くのアパートに住んでいたことがある。広さはたたみ四畳半。まさに「方丈」の家だった。
 近所の下鴨神社の糺の森をよく散歩した。長明が愛した糺の森。今も当時と変らぬ森閑な静謐がそこにはある。私は長明の思いに思いを馳せた。長明は糺の森が好きだったろうが、同時に苦い思い出の地でもあったはずだ。

 日野の山中に結んだ方丈の庵は、けっして“数寄の結晶”などではない。それは“失意の象徴”であり“まじめの表象”である。

 長明は「孤独を愛した自由人」などではけっしてない。寂しがり屋だった。方丈の庵に琵琶などを持ち込んだけれども、それは風流のためというよりは、音楽でもなければとても寂しさに堪えられなかったからだ。


才能はあるのに生き方下手

 長明は音楽や文学の秀でた才能があった。いや、秀でてたなどというレベルではない。『方丈記』はこうして800年間も多くの人に愛読されてきた。歴史の教科書に名前が残るのは相当なレベルである。

 だが、生き方下手だった。
 長明の人生を見ていると、もっと良い人生、楽な人生を送ることができただろうにと思えるところがいくつもある。人生の数々の分岐点で、自ら悪い方、自分を苦境に追い込む方を選択してしまっているように見える。
 こうした選択も、おそらく長明のまじめな性格がそうさせている。
 もし長明がまじめではなくて、もっと貪欲な性格の持ち主だったら、いくつかの就職の場面などにおいてライバルを蹴落として就職できていてもおかしくはなかった。

 才能はあるのに、とことん生き方が不器用。この要領の悪さが長明を苦しめた。
 そしてもう一つ長明を苦しめたものは時代である。


時代の変化と「無常」

 なぜ長明は「無常」と言ったのか。それは長明が生きた時代と大いに関係がある。

 長明が生きたのは1155年から1216年。鎌倉時代が始まったのが1185年から1192年頃。つまり平安時代から鎌倉時代に世の中の構造が大きく転換する時代を生きた。現代の歴史区分でも平安時代までは「古代」だが、鎌倉時代からは「中世」である。
 それまでの貴族が安定していた時代から変わり、同時代の慈円が言ったように「武者の世」になったのである。だが、昔ながらの伝統の家柄を重んじる風習などはまだ残っていて、貴族としての位は下っ端だった長明はそうした旧習にも苦しんだ。
 結局、長明は旧い社会システムにも新しい社会システムにもどちらにも救われなかった。どっちつかずの変化の途中の時代であった。

 長明は子どもの頃、漠然とお父さんと同じような人生を歩むんだと思っていた。お父さんのお父さんも、そのまたお父さんも、長い変化のない時代に、ずっと似たような平凡な人生を送って来た。だが自分は実際にはお父さんとはまったく違う人生を歩むことになった。そのことが長明に「無常」と言わせたのだと思う。時代も社会も人生もすべてはいつまでも「常態」ではない。そのことを誰よりも敏感に感じ取っていた。

 出家の動機の一つとして、岩波文庫版方丈記の解説に載っている市古貞次の次の文はもっとも納得のいくものである。

身分階級が固定し、重代が尊重された社会、才能があってもそれを思うようにのばし得ない環境などに対する抗議の意識が底に流れていたに相違ない


 そしてそれは出家の動機だけでなく、『方丈記』が書かれた動機でもあるだろう。


人間関係を築くのが下手だった

 長明はなぜなかなか就職できなかったのか。
 それはやはり「生き方が下手」だったからなのだが、では、どういうところが下手だったのだろう。

 それを考えるヒントが無くもない。

 長明が書いた文章には、圧倒的に個人名が少ない。もっと関わりのあった人の名前をたくさん書いていてもおかしくはないのだが、全然書いていない。長明が書いてないだけではなく、長明が関わったであろうはずの相手の日記などにも長明の名前が出て来ない。

 これはどういうことか。おそらく、長明は人間関係を築くのが下手だった。長明の文章には、友人・知人・恋人のことがほとんど書かれていない。あまりいなかったのだろう。
 人脈を作ることが下手だったことと、なかなか就職できなかったこととは少なからぬ関係があるだろう。

 そして長明が関わった人物は、後鳥羽院(1221年、隠岐島へ配流)や源実朝(1219年、鶴ヶ岡八幡宮で暗殺)など、いわゆる「悲運系」の人が多い。類は友を呼ぶのであろうか。何か引かれるところがあったのだろう。


折々のたがひめ

 長明が『方丈記』に書き残した「ヲリヲリノタカヒメ」。

 この「折々の違ひめ」を解明することは長明からの課題だと思っている。

 人生はどうしてこうも思いとは違っていくのか。

 食い違い、擦れ違い、あの時あの瞬間のちょっとした行き違いが決定的な今を生む。環境や時代の影響を受け、人生は本意から遠ざかる。

 自分の人生だけではない。多くの人の人生がそうなっている。長明が『方丈記』で自然災害に苦しむ人々に寄せる目は、この人たちはなぜこんなに苦しまなければならないのか、という思いと、もっとうまくやれるはず、という思いの表れではないか。

 しかし、どうしたらうまくいくのかは分からなかった。自分でも抗い難い「たがひめ」を積み重ね、失意を重ねていった鴨長明。

 そんな長明だからこそ書けた。『方丈記』はそういう書だ。

 長明が残した課題は重い。




 この記事は、下記の本にインスパイアされて書いた。

日本人なら知っておきたい日本文学 ヤマトタケルから兼好まで、人物で読む古典日本人なら知っておきたい日本文学 ヤマトタケルから兼好まで、人物で読む古典
(2011/08/25)
蛇蔵、海野 凪子 他

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 また、下記の本を参考にした。

閑居の人 鴨長明 (日本の作家 (17))閑居の人 鴨長明 (日本の作家 (17))
(1984/10/10)
三木 紀人

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『時代閉塞の現状』と現代 -石川啄木没後100年-

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 今日、2012年4月13日は、歌人石川啄木が亡くなってちゃうど100年。これを機に、地元の有名人の人となりや思想を振り返ってみたい。


・ダメダメな石川くんと先覚者・啄木

 歿後100年にあたって最初、私は石川啄木の生涯と思想とを両方振り返ってみようと思ったが、やっぱりその私生活や人物像についてはあまり考へないことにしようと思った。すでに何人もの研究者によって、啄木の「ダメ人間」ぶりが紹介されてをり、これ以上それについて言及することもあるまいと思ったからだ。例へば、啄木は金にルーズで、盛岡中学の1コ上の親友、金田一京助に物心両面で世話をかけまくったとか、家族にも苦労をさせまくったとか。天才は往々にして私生活はダメダメであることも多い。
 近年では歌人枡野浩一がその著書『石川くん』で、啄木がいかにダメ人間であったかを愛情を持って書いてゐる。ダメっぷりを紹介することで偉人だと思ってゐた遠い存在が急に身近に感じられ親近感を覚えるようになることがある。枡野浩一の『石川くん』にはそんな功績があった。

 しかし私は今回の記事では先覚者・石川啄木としての偉大であった面を見て行かうと思ふ。


・現代に甦る名著『時代閉塞の現状』

 日本人はだいたいいつでも「閉塞感」を口にしてゐることが多い。「開放感」なんて滅多に言はない。戦後で開放的だったのは1960年代の高度経済成長期と1980年代のバブル期ぐらゐか。1990年代後半以降現在まではずっと閉塞感に満ちてゐる。
 しかし私はやはり、この「失はれた10年」もしくは「失はれた20年」ほど、啄木が書いた『時代閉塞の現状』とリンクを見せてゐる時代はないと思ふ。

 今から約100年前の当時、啄木が社会に対して抱いてゐた問題意識、そして若者に訴へかける声は、まさに平成の現代の若者に訴へかけてゐるやうだ。

 歌人・詩人として有名な啄木が、思想家・評論家としても一流であったことがこの『時代閉塞の現状』といふ文章によって知られることになった。もっと長生きしてゐれば、もっとたくさんの優れた文章を書き残したに違ひない。


・自然主義との対決

 『時代閉塞の現状』はその副題が「(強権、純粋自然主義の最後および明日の考察)」となってゐる。魚住折蘆の論文「自己主張の思想としての自然主義」への反論として書かれたものだ。
 啄木は自然主義の終はりを高らかに告げる。「事実においてすでに純粋自然主義がその理論上の最後を告げているにかかわらず、同じ名の下に繰返さるるまったくべつな主張と、それに対する無用の反駁(はんばく)とが、その熱心を失った状態をもっていつまでも継続されている」と手厳しく批判する。

 啄木の反自然主義的な思想の萌芽は、僅か16歳の時に書かれた日記『秋韷笛語』などにもすでに見られる。

惟ふに人の人として価あるは其宇宙的存在の価値を自覚するに帰因す。人類天賦の使命はかの諸実在則の範に屈従し又は自ら造れる社会のために左右せらるゝが如き盲目的薄弱の者に非ず。宜しく自己の信念に精進して大宇宙に合体すべく心霊の十全なる発露を遂ぐべき也。運命は蓋し天が与へて以て吾人の精進に資する一活機たるのみ。されば余輩は喜んでその翼に鞭うつて人生の高調に自己の理想郷を建設せんとする者也。


 16歳が書いたとは思へないほどの高邁な文章だが、「諸実在則の範に屈従」するのが人生ではないと言ってゐる。


・啄木と現代のフリーター・ニート問題

 『時代閉塞の現状』を読むと、表向きの自然主義批判の裏に、社会や環境に盲目的に屈従して落ち着いてしまってゐる同時代の若者への不満が見てとれる気がする。
 
 翻って格差社会の現代。世代間格差などにより多くの若者は貧困に苦しんでゐるが、立ち上がる気配がない。50代、60代、あるいはそれ以上の世代から、現代の若者はこれだけの不遇な境遇にありながらなぜ大規模なデモや社会運動を起こさないのか、疑問の声が出てゐる。

 啄木の生きた明治末期から大正にかけてと平成は時代状況が似てゐる。啄木は元号が大正に変はる直前に亡くなったが、大正時代はまさに啄木が憂慮してゐた閉塞感を増す時代になって行く。

 啄木の生きてゐた時代と今の時代との共通点はたくさんあると思ふが、例へば次のやうな文章はどうだらう。

しかも今日我々が父兄に対して注意せねばならぬ点がそこに存するのである。けだしその論理は我々の父兄の手にある間はその国家を保護し、発達さする最重要の武器なるにかかわらず、一度我々青年の手に移されるに及んで、まったく何人も予期しなかった結論に到達しているのである。「国家は強大でなければならぬ。我々はそれを阻害(そがい)すべき何らの理由ももっていない。ただし我々だけはそれにお手伝いするのはごめんだ!」これじつに今日比較的教養あるほとんどすべての青年が国家と他人たる境遇においてもちうる愛国心の全体ではないか。

(青空文庫より引用、以下も同じ)
 
 私はこの箇所を読んで、現代の2chねらーを思った。「ネット右翼」と呼ばれるほどの愛国心の持ち主でありながら、自らは「ただし我々だけはそれにお手伝いするのはごめんだ!」と言って、自衛隊に入隊するわけでもなく、それどころか社会にも参加せず「自宅警備員」に留まる2chねらーたち。

 啄木は当時のフリーター・ニート問題について言及してゐる。

時代閉塞の現状はただにそれら個々の問題に止まらないのである。今日我々の父兄は、だいたいにおいて一般学生の気風が着実になったといって喜んでいる。しかもその着実とはたんに今日の学生のすべてがその在学時代から奉職口(ほうしょくぐち)の心配をしなければならなくなったということではないか。そうしてそう着実になっているにかわらず、毎年何百という官私大学卒業生が、その半分は職を得かねて下宿屋にごろごろしているではないか。(中略)かくて日本には今「遊民」という不思議な階級が漸次(ぜんじ)その数を増しつつある。今やどんな僻村(へきそん)へ行っても三人か五人の中学卒業者がいる。そうして彼らの事業は、じつに、父兄の財産を食い減すこととむだ話をすることだけである。


 「遊民」は100年前の「ニート」である。啄木自身も、これだけ頭が良く才能もありながら、遊民に近い不安定な非正規雇用であった。
 在学時代から本業の学問はそっちのけで就職口の心配、社会人になっても親の経済力に頼らなければとても生活していけない状況など、現代にそっくりではないか。


・立ち上がらない若者への不満

 啄木のふつふつとした怒りが行間に滲み出てゐるのが読み取れるだらう。「父兄」の世代は楽に就職できたのに、自分たちの世代はこんなにも就職に苦労してゐる。そして貧困に喘いでゐる。
 では、啄木の怒りの矛先は「父兄」に向かってゐたのであらうか。さうではない。そんな社会を父兄に任せっきりにしてゐる同世代の若者へ向かってゐるのだ。

我々日本の青年はいまだかつてかの強権に対して何らの確執をも醸(かも)したことがないのである。したがって国家が我々にとって怨敵となるべき機会もいまだかつてなかったのである。/じつにかの日本のすべての女子が、明治新社会の形成をまったく男子の手に委(ゆだ)ねた結果として、過去四十年の間一に男子の奴隷(どれい)として規定、訓練され(法規の上にも、教育の上にも、はたまた実際の家庭の上にも)、しかもそれに満足――すくなくともそれに抗弁する理由を知らずにいるごとく、我々青年もまた同じ理由によって、すべて国家についての問題においては(それが今日の問題であろうと、我々自身の時代たる明日の問題であろうと)、まったく父兄の手に一任しているのである。これ我々自身の希望、もしくは便宜(べんぎ)によるか、父兄の希望、便宜によるか、あるいはまた両者のともに意識せざる他の原因によるかはべつとして、ともかくも以上の状態は事実である。国家ちょう問題が我々の脳裡(のうり)に入ってくるのは、ただそれが我々の個人的利害に関係する時だけである。そうしてそれが過ぎてしまえば、ふたたび他人同志になるのである。


 こゝに啄木の痛烈な批判が見てとれる。直接個人的利害に関係すること以外、国家の問題を論じようとしない若者に苛立ってゐるやうに見える。
 ではなぜ若者は立ち上がらないのか。その理由について啄木はかう言ふ。

むしろ当然敵とすべき者に服従した結果なのである。彼らはじつにいっさいの人間の活動を白眼をもって見るごとく、強権の存在に対してもまたまったく没交渉なのである――それだけ絶望的なのである。


 社会に参加せず選挙の投票にも行かず、自宅に引き篭もりネットの世界に引き篭もってゐる現代の若者たちも、やはりこの社会に絶望してゐるのであらうか。啄木は「当然敵とすべき者」だと言ってゐる。だが若者はそれを敵と思ってゐるかゐないかは分からないが、少なくとも服従してしまってゐる。


・現代の時代閉塞感

 私がこゝで「現代」と言ふのは、1990年代後半以降今に至るまでの長い長い閉塞の時代のことである。

かくて今や我々には、自己主張の強烈な欲求が残っているのみである。自然主義発生当時と同じく、今なお理想を失い、方向を失い、出口を失った状態において、長い間鬱積(うっせき)してきたその自身の力を独りで持余(もてあま)しているのである。すでに断絶している純粋自然主義との結合を今なお意識しかねていることや、その他すべて今日の我々青年がもっている内訌(ないこう)的、自滅的傾向は、この理想喪失(そうしつ)の悲しむべき状態をきわめて明瞭に語っている。――そうしてこれはじつに「時代閉塞(じだいへいそく)」の結果なのである。


 バブルが弾けて1995年頃にはっきりと不況が自覚された頃、多くの人はそれを一過性のものだと思ってゐた。しかし不況は長引き、時代の空気は固定され、それは「失はれた10年」となり、さらに長引いて「失はれた15年」となり、そして「失はれた20年」にならうとしてゐる。
 この失はれた時代に社会に出た世代はその名も「ロストジェネレーション」と呼ばれてゐる。大学卒業時に就職氷河期で就職できず、中途採用を狙ってゐた時期もずっと不況で正社員にはなれず、結局フリーターなどの非正規雇用で糊口を凌ぐしかなかった。

我々青年を囲繞(いぎょう)する空気は、今やもうすこしも流動しなくなった。強権の勢力は普(あまね)く国内に行わたっている。現代社会組織はその隅々(すみずみ)まで発達している。――そうしてその発達がもはや完成に近い程度まで進んでいることは、その制度の有する欠陥(けっかん)の日一日明白になっていることによって知ることができる。


 こゝで啄木が「流動しなくなった」と言ってゐるのは、景気の上下といったことではない。現代で言へば、大企業の新卒一括採用主義とかさういった旧弊の社会システムのことを言ってゐる。

戦争とか豊作とか饑饉(ききん)とか、すべてある偶然の出来事の発生するでなければ振興する見込のない一般経済界の状態は何を語るか。


 2007年、赤木智弘は「希望は、戦争」と言った。戦争のやうな大きな出来事でも起こらないかぎり、この停滞感・閉塞感から抜け出られない、といふ気持ちがそこにはある。


・啄木の敵は国家であった、現代の若者の敵は何か

 啄木が宣戦布告した「敵」は国家であった。現代の私たちの敵は誰であらうか。
 かつて赤木智弘が「丸山眞男をひっぱたきたい」と言ったとき、私が最初に感じたのは「ひっぱたく相手を間違へてゐる」といふことだった。
 ネット上の若者の間では、その「敵」は「マスゴミ」であったり「公務員」であったり「リア充」であったりするが、往々にして「勝ち組」の人たちがその対象になることが多い。しかし勝ち組の人たちを自分たちと同じ境遇まで引きずり下ろして何にならう。むしろ自分たち負け組が人間としての最低限の尊厳や生活が保障されてゐないこと、結婚したくても結婚を諦めざるを得ないほどの低賃金、「ブラック」と言はれ心身を壊してしまふほどの異常な長時間労働、さうした社会システムをこそ敵と見做すべきではないのか。

 だが実際のところ、現代において何が「強権」の「敵」なのか私にははっきり判ってゐない。政治家?官僚?マスコミ?しかしマスコミが何かの批判記事を書くよりも、ネットで「祭り」の対象にした方がはるかに攻撃力が強い場合もある。何が本当の「強権」であるかを見抜くのは難しい。


・希望はなくとも必至のために起て

 しかしそれでも私たちはこの閉塞感を打破するために動かなくてはならない。都会人の一票の軽さや若者層の票数の少なさに絶望して選挙に行かないでゐるわけにはいかない。

 26歳の若さで亡くなった啄木は、ぢつと手を見ながら絶望のうちに旅立って行ったのだらうか。縦令、啄木に希望がなかったとしても、啄木はその歩みを最後まで止めようとはしなかった。
 啄木の力強い言葉を最後に紹介しておかう。

かくて今や我々青年は、この自滅の状態から脱出するために、ついにその「敵」の存在を意識しなければならぬ時期に到達しているのである。それは我々の希望やないしその他の理由によるのではない、じつに必至である。我々はいっせいに起ってまずこの時代閉塞(へいそく)の現状に宣戦しなければならぬ。


 啄木が100年の時を超えて、現代の私たちに語りかけてゐる。





(おまけ)

 歿後100年を機に、子どもの頃から馴染みの啄木ゆかりの地をあらためて散歩してきた。

arai.jpg
(2012年4月撮影、以下も同じ)

 啄木が住んでゐた本郷弓町の家。写真中央の理容店の2階に住んでゐた。建物は当時と変はってゐる。道路拡幅により場所も若干動いてゐる。


araiannaiban.jpg

 そのアライ理容店の店頭に掲げられてゐる案内板。昔は喜之床と言った。


kinotoko.jpg

 その昔の「喜之床」はこんな感じでしたよ、といふ写真も店頭に掲げてくれてゐる。


takubokushuennochi.jpg

 こちらは変はって小石川の啄木が最後に住んでゐたところ。写真中央のビルのあたり。建物も変はってしまって、特に風情も何もない。


takubokushuennochiannaiban.jpg

 そのビルの壁面に掲げられてゐる東京都教育委員会による案内板。平成二〇年設置となってゐるが、かういふ案内板は昔からある。建物の取り壊しなどでたびたび掛け替へられてゐるのである。


(↓投票するとすぐに結果を見れます) 




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