暫定龍吟録

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冬休みに読みたい? 2011年今年の3冊<311を考える>

 新聞で「今年の3冊」といふ企画がある。それに倣って私も「今年の3冊」を書かうと思ふ。

 かういふのは、読書家である評者が今年読んだ厖大な数の本の中から選りすぐりの3冊を選んで紹介するのが普通だが、私は読書家ではないので、私が今年読んだ「たった3冊の本」をすべて紹介してしまはう。たゞし、すべて「311」絡みだ。私は2011年は311を抜きにしては語れないから。

 今年2011年に出版された本、といふことではなくて、あくまで私が今年読んだ本、といふことで。
 それでは、行きませう。


1.『偶然とは何か』竹内啓

偶然とは何か――その積極的意味 (岩波新書)偶然とは何か――その積極的意味 (岩波新書)
(2010/09/18)
竹内 啓

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 1冊目に紹介するのは、岩波新書から出てゐる『偶然とは何か』といふ本。これはすごい本だ。読むのを無理にお薦めするわけではないけれど、もっと多くの人が読んで話題になっていい本だと思ってゐる。
 何がすごいって、この本には「メルトダウン」といふ言葉が出てくる。メルトダウンなんて今や誰でも知ってゐる。311後、多くの人が口にし、また耳にしただらう。しかし、この本が出版されたのは2010年の9月、東日本大震災の約半年前である。311の直前に原発のメルトダウン事故のことを考へてゐた人、話題にしてゐた人はそんなに多くないだらう。
 この本では、偶然とは何かといふことを数学的に緻密に考へていく。それはそれで面白いのだが、圧巻なのは最終章「歴史の中の偶然性」で、人間が偶然とどう対峙していくのか、といふ話が展開されるところだ。

 ちょっと長い引用になるが、今年、311の原発事故を経験したばかりの私たちには、かなり衝撃的な文章だと思ふので紹介しよう。

もしそれが発生すれば莫大な損失を発生するような、絶対起こってはならない現象に対しては、大数の法則や期待値にもとづく管理とは別の考え方が必要である。
例えば、「百万人に及ぶ死者を出すような原子力発電所のメルト・ダウン事故の発生する確率は一年間に百万分の一程度であり、したがって「一年あたり期待死者数」は一であるから、他のいろいろなリスク(自動車事故など)と比べてはるかに小さい」というような議論がなされることがあるが、それはナンセンスである。
そのような事故がもし起こったら、いわば「おしまい」である。こんなことが起こる確率は小さかったはずだなどといっても、何の慰めにもならない。また、もしそのことが起こらなかったら、何の変化もないので、毎年平均一人は死んだはずだなどというのはまったくの架空の話でしかない。このような事故に対して、料率が百万分の一の保険をかける、あるいはその他の対策によって「万一に備える」というのは無意味である。



 そのうえで著者は、このやうな事故が起こる可能性は「無視」しろ、と言ってゐる。原発事故が起こる可能性など無視しろ、と言ってゐるのである。さう聞くと、この著者は原発擁護派なのか?と思はれるかもしれないが、よく読めば実際にはさういふことではないことがわかる。
 著者は、原発事故が起こる確率を十分に小さくした上で、さういふ大事故が起こる確率は無視するやうに、と言ってゐるのである。しかし、「原発事故が起こる確率はどんなに小さくしてもゼロにはできないんだから、やっぱり原発は建てるべきぢゃないんぢゃないの?」と思ふ人もゐるかもしれない。著者はその問ひにも答へてくれてゐる。

 311の地震、津波、原発事故。
 あの日の津波で隣の家は流されなかったのに、なぜ自分の家は流されたのか。あるいは自分の1メートルとなりにゐた人は津波に流されて亡くなったのに、なぜ自分だけが偶然にも助かったのか。さうした体験をした人は、偶然とは何か、運・不運とは何かについて問はずにはゐられないだらう。
 事故が起こる前の原発の存在そのものの問題、事故後の政府・東電の対応の問題、さうした問題に関心がある人も、この本を読んでみるといいかもしれない。
 もう一度言ふが、この本は311の半年前に書かれた本で、福島第一原発事故のことには一行も触れてゐない。にもかゝはらず、あの日の津波や原発事故のことを合はせて考へながら読むと、いろいろ深く考へさせられるのだ。

 この本についての感想を書かうと思ったら、また別に記事を一つ作らなければいけない。興味がある人は読んでみてください。


2.『天災と日本人』寺田寅彦

天災と日本人  寺田寅彦随筆選 (角川ソフィア文庫)天災と日本人 寺田寅彦随筆選 (角川ソフィア文庫)
(2011/07/23)
寺田 寅彦

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 「天災は忘れた頃にやって来る」で有名な寺田寅彦の随筆選。

しかしここで一つ考えなければならないことで、しかもいつも忘れられがちな重大な要項がある。それは、文明が進めば進むほど天然の暴威による災害がその劇烈の度を増すという事実である。(「天災と国防」)


 科学者であった寺田の警句は含蓄があり、重い。これも詳しくは読んでほしいのだが、寺田が言ってゐるのは単純なる文明批判ではなく、世界を設計・構築していく際にどのやうにしていくべきかといふ問題の提言である。インターネットやソーシャルネットワークなどのネットワークの発展に関係した仕事をしてゐる人は読んでおいてもいいかもしれない。

 311後の「風評被害」と呼ばれた問題、「デマッター」と揶揄されたツイッターによるデマ拡散の問題、さういふ問題に関心がある人は、この本に収録されてゐる「流言蜚語」といふ随筆を読むといいかもしれない。
 また、起こってはならない事故が起こってしまった場合の対応の在り方についても考察されてゐる。この点は上記の『偶然とは何か』と同じだ。福島第一原発事故などの起こってはならない事故が起こってしまった場合、政府は、東電は、そして国民一人ひとりは、どう対応したらいいのか。さうした点についても示唆がある。
 決して古い本ではない。何十年も前にこれだけのことを考へてゐた人がゐた。科学者でもあり名文家でもあった寺田寅彦ならではの深い洞察と含蓄のある文章だ。


3.『花びらは散る 花は散らない』竹内整一 

花びらは散る 花は散らない 無常の日本思想 (角川選書)花びらは散る 花は散らない 無常の日本思想 (角川選書)
(2011/03/25)
竹内 整一

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 竹内整一東大教授の退官記念最終講義を収録したもの。

 311で私たちは地震や津波などの自然の脅威をまざまざと味ははせられた。
 この本を読むと、その「自然」とは何なのか、について考へさせられる。
 自然の「自」は、「おのづから」とも読むし「みづから」とも読める。そこから著者は「”おのづから”と”みづから”の”あはひ”」といふ論を展開していく。私たちが普段よく「自然にさうなった」と言ふとき、それは必然的にさうなったのか、それとも偶然さうなったのか。著者は「自然」といふ言葉には必然と偶然の両義性があると言ふ。

 日本人が「自然」をどう捉へ、どう向き合って来たのか、上記2冊と併せ読むとますます興味が深くなる本だ。

 一見、先人たちの言葉や思想を整理してゐるだけにも見えるが、しかしその整理の手法も手腕もかなり鮮やかで、これまた多くの示唆に富む本に出来上がってゐる。
 特に著者が「間(あひだ)」ではなく、「あはひ」といふ言葉を使ってゐるのは、「あはひ」といふ言葉に動的なニュアンスを読み込んでゐるからだ、と書いてあるのを読んだときは、膝を打つ思ひだった。

 この著者は言葉を大事にしてゐる。実際この本は、「はかない」、「いたむ」、「とむらふ」、「しあはせ」、「幸ひ」、「やさし」、「かなし」、「さやうなら」などの日本語の分析を通して、日本思想の深淵に迫っていくスタイルになってゐる。
 さうして著者が描き出したのは、人の手を超越したものと人の手が織り成すものがダイナミックに関係性を変化させながら創りだされていく世界、といふ世界観だ。


まとめ

 今年2011年は、私は3月11日以降は、ほゞ毎日、311のことを考へて過ごした。311で何かが大きく変はったのか、それとも何も変はらなかったのか。希望と絶望について考へた。運、不運について考へた。
 被災してしまった人、ひどい被害に遭ってしまった人は、その不運とどう心の折り合ひを付けていけばいいのか。
 311が惹起した問題は、社会の問題であり、政治の問題であり、経済の問題であり、数学の問題であり、物理の問題であり、工学の問題であり、教育の問題であり、心理の問題でもある。
 それらは311の前からわかってゐた問題のやうな気もするし、311で改めて切実に考へさせられたのだといふ気もする。

 上記3冊は、それらの問題を考へる上で、たくさんのヒントを与へてくれる。正解は無い。


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311の痛恨 -東日本大震災から半年-

 今日で3月11日の東日本大震災からちょうど半年になる。

 私が今年書いたブログ記事は、東日本大震災関連のことが一番多かったかもしれない。
 なぜここまで東日本大震災のことに拘って書いてるのかというと、それは私にとって東日本大震災は痛恨だったからだ。

 1万人を超える死者、というのは信じられないことだった。
 たしかに、2004年にはスマトラ島沖地震で22万人以上の人が亡くなり、2008年には四川大地震で6万人以上の人が亡くなっている。しかしそれは発展途上国で起きた災害だったからだ。先進国ではどんな災害でも1万人を超える死者が出ることはありえない。そう思っていた。

 実際、日本では、死者が何千人、何万人という単位の災害というのは、昭和50年より前の言わば日本が発展途上国だった時代には起こっていたが、「先進国」になった昭和50年以降はまったく起こっていなかった。
 やはり先進国ではそこまで甚大な災害は起こらない。日本では死者が10人を超えたら「大災害」、100人を超えたら「甚大災害」である。それより上の1000人とか10000人というのは無い。子どもの頃からずっとそう思っていた。
 そう、平成7年までは。

 平成7年の阪神淡路大震災は衝撃だった。神戸はボロい田舎町ではなく、先進国日本の中でもかなり先進的な都会の街だ。それが6千人を超える死者を出したということは、私の住む東京ももし巨大地震に見舞われたら、似たような被害を受けるのだろうということがリアルに実感された。
 しかし私の心の中では、まだ阪神淡路大震災も「例外」として処理したい気持ちがあった。これはきわめて「特異」なことであって、こんな珍しいことはもう二度と起こることはないであろう、と。
 だからこそ、平成23年3月11日、大地震が起こったときも、最終的な死者数が阪神淡路大震災のそれを上回ることはないだろうと予想していた。それは3月11日の記事にも書いている。

 自分の見当が外れたこともさることながら、21世紀の現代、しかも先進国において、未だに1万人超えの大被害を出してしまったという事実が痛恨だった。

 私が今のところ一番恐れているのは、東京直下型地震だ。自分が住んでいるところだからでもあるが、何より桁違いに人口が多い。東京直下型地震の場合は、タイプとしては東日本大震災よりもむしろ阪神淡路大震災のような災害になるのだろう。津波よりも建物の倒潰や火事での被害者が多くなると思う。しかしもっと恐れているのは、亡くなってしまう人たちよりも、生き残った人たちの大混乱だ。東日本大震災でも、東京は死者数こそ少なかったが、交通、水、食糧、そして情報の面ではかなりの混乱に陥った。
 いつか来る「東京大震災」では、高度に発達した情報ネットワーク、情報インフラが却って仇となって、人々は大混乱、大パニックに陥るかもしれない。


 東日本大震災では、私は、「世界最大の防潮堤」などのハード面よりも、むしろ「日頃の心構え」や「的確で迅速な判断」のようなソフト面で助かった人々の事例に興味が行った。

 被害をゼロにする「防災」という考え方から、被害をなるべく小さく食い止める「減災」という考え方にシフトする話も最近聞くようになった。マグニチュード8とか震度7といった巨大地震が起こった場合には、被害をゼロにすることはできないかもしれないが、人間の知恵で、それもハード面よりもソフト面における対策において、被害を想定されたものよりもずっと小さくすることが可能なのではないかと思っている。

 具体的にどういった対策があるか。それはずっと考え中だ。気づいたことがあったら、また、おりおりブログに書いていこう。


 

Still For Japan 日本に捧げる1分間 -東日本大震災から4カ月-

 7月11日、東日本大震災から4カ月が経った。

 震災の記憶は年月の経過とともに風化していく。しかし、世界にはまだまだ日本のことを想ひ続けてゐる人たちがゐる。

 「非日常」は突然訪れた。3月11日は金曜日だった。翌、土曜、日曜は多くの日本人が「非日常」を味はった。しかし大地震から3日後の月曜日、早くも大多数の日本人が「日常」に戻らうとしてゐるのを私は感じてゐた。私の東京の知り合ひの中には、3月11日当日も、12日も13日もまったく普段通り仕事をしてゐた人もゐる。
 日常を取り戻すことも大事だが、空前絶後の非日常をしっかりと噛み締めることも大事だ、とその時感じた。

 4カ月経った今、東京ではほとんどの人が日常を取り戻し、東北でも避難所生活を送ってゐる等何らかの当事者以外は大部分の人は日常生活を取り戻してゐる。
 復興は喜ばしいことだが、その一方で多くの人たちが、あの日の記憶を忘れ始めて来てゐる。
 日常の仕事の忙しさにかまけて、東北のこと、三陸のことを思ひ出すことすら忘れかけてゐる。

 ニューヨークのレポーターKaede Sevilleさんが始めたStill for Japanといふサイトがある。1分間、サイトが下へスクロールしていくのを黙って見るだけ、といふサイトだ。その間、マウスの操作は受け付けない。急いでるからスキップ、とかは無しに、1分間といふ時間を捧げることに意味がある。

 1人1分として、目標は震災で被害に遭った18万人分の180,000分ださうだ。私が7月12日午後9時に見た段階では、まだ5700分ほどしか集まってゐなかった。

 「忙しい、忙しい」と言って、日頃から便利さや効率ばかり求めてゐる人にこそ、このサイトを見てほしい。





 → Still for Japan



祈りの日和山 -東日本大震災から2カ月-

 今日5月11日で、東日本大震災から2カ月になる。

 今日の河北新報が伝えるところによれば、5月10日時点で、死者・行方不明者の数は約2万4千人超、避難生活を送っている人は12万人近くにのぼるという。

 私はこの2カ月間、ずっと震災のことを考えていた。あの日3月11日に一瞬にして津波に飲まれていった人たちのこと、今なお行方不明の人たちのこと、そして辛くも生き延びたけれど家族や友人を失ったり、家を流されてしまって避難生活を余儀なくされている人たちのこと。

 私は東北地方についていろいろ調べているうちに、「日和山(ひよりやま)」という山が存在することを知った。その山は海岸沿いの川の河口付近に立っており、あの日巨大津波に襲われた付近の住民たちは一斉に高台である日和山を目指したと思われる。

 「日和山」という名前は、漁に出るときに、そこに登って天候を見極めるところから、その名がついている。
 調べてみると、「日和山」という名前の山は全国にいくつもあることがわかった。そして3月11日の大震災で、特に宮城県内にある3つの日和山が、甚大な被害を被った。


・3つの日和山

 宮城県内には、日和山と呼ばれる山が少なくとも3つある。

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(クリックで拡大)

 上記は、宮城県の地図で、一番南にあるのが名取市閖上(ゆりあげ)地区にある日和山。真ん中が仙台市宮城野区蒲生地区にある日和山。そして一番北にあるのが石巻市の日和山である。何れも川の河口付近に立っている低山であるという共通点がある。


・名取市閖上の日和山

 名取市閖上地区は、津波によってほぼ全滅と言っていい被害を受けた。この動画を見ていただければ、その惨状のひどさがわかるだろう。



 ここの日和山は、元々大正時代に人工的に作られた小山で、山と言うよりは高台に近いようだ。津波をもろに被り、頂上にあった富士主姫神社は消滅したとも聞く。
 この日和山で5月8日には、「鎮魂と連帯の響き」と題するコンサートが開かれた。そして河北新報が伝えるところによれば、山の上には、「一人じゃない」「みんなで手を取って」などと書かれた標柱が幾つも立ち並んでいるという。名取市閖上地区の住民にとって、日和山はまさに祈りの山になっているのである。


・仙台市宮城野区蒲生の日和山

 宮城野区蒲生地区もまた、壊滅的な被害を受けた。

 ここの日和山は明治時代に人工的に作られた標高6mほどの小山で、「元日本一低い山」だった。ここの日和山は今回の地震で完全に消滅してしまったそうだ。
 山がなくなってしまった跡地から撮った写真がこちらのブログに載せられている。被害のひどさをうかがい知ることができる。

旅→日和山 仙台市宮城野区蒲生 - みなとまち新潟 日和山 五合目から - Yahoo!ブログ


・石巻の日和山

 石巻という地名は、今回の震災で何回もニュースで聞いた人も多いだろう。かなり早い段階から被害の大きさが伝えられていた街だ。この石巻市の旧北上川の河口付近に、日和山がある。

 三陸地方の大漁歌「斎太郎節」で、「その名も高い日和山」と歌われているのは、この石巻の日和山である。なぜ「その名も高い」のかと言うと、江戸時代に松尾芭蕉が立ち寄ったことで有名になった。

 ここの日和山は、標高は約60mくらいあり、3つの日和山の中では、唯一、山らしい山と言える。津波は、この日和山は飲み込まなかった。
 そして実際、この山に逃げてきた人たちは助かった。だが、助かったのは日和山の上だけ。下の世界は瓦礫の山と化した廃墟だった。





・祈りの日和山

 5月3日、朝日新聞がこんなニュースを伝えていた。

「5・1 日和山(ひよりやま)お花見プロジェクト」。こう銘打った花見の会が1日、宮城県石巻市の桜の名所・日和山公園で催された。同市出身の東京の団体職員、雁部智博さん(31)が「前を向いて歩き出すきっかけに」とブログなどで呼びかけ、各地から延べ約200人が集まった。


 多くの石巻市民にとって、日和山は祈りと復興の象徴のような存在になっているのだろう。
 3つのそれぞれの日和山、またはその跡地が、鎮魂の祈りを捧げる場になっている。

 「日和」とは、本来、海上の天気や空模様を意味する言葉だが、「よい天候」という意味もある。よく聞くことわざの「待てば海路の日和あり」とは、まさに良い天候の意味である。

 復興には長い時間がかかる。だが今はまだ苦しい渦中にあるかもしれない被災者の人たちが、いつか「良い日和」に出会えるであろうことを私は信じている。

余震はいつまで続くのか -『方丈記』に見る元暦地震-

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又同じころかとよ、おびたゝしく大地震振ること侍りき。そのさま、世の常ならず。山は崩れて河を埋み、海は傾きて陸地をひたせり。土さけて水わきいで、巌われて谷にまろびいる。渚漕ぐ船は波にたゞよひ、道ゆく馬は足の立ちどをまどはす。都のほとりには、在々所々、堂舎塔廟、ひとつとして全からず。或は崩れ、或は倒れぬ。塵灰立ち上りて、盛りなる煙の如し。地の動き、家の破るゝ音、雷にことならず。家の内にをれば、忽ちにひしげなんとす。走り出づれば、地われさく。羽なければ、空をも飛ぶべからず。竜ならばや、雲にも乗らむ。恐れのなかに恐るべかりけるは、只地震なりけりとこそ覚え侍りしか。(鴨長明『方丈記』)

(意訳)
元暦二年(1185年)ごろだったと思うが、大地震があった。その様子は尋常じゃなかった。山は崩れて川を埋め、海は傾いて陸地に浸水した。地面は裂けて水が湧き出し、岩は谷に転げ落ちた。船は波間に漂流し、馬は足場を失った。都のあちこちで、仏塔など一つとして無事ではなかった。あるものは崩れ、あるものは倒れていた。塵が立ち上って煙のようだった。震動、家の壊れる音は、雷のようだった。家の中にいれば、たちまち下敷きになってしまう。かと言って外に走りだせば、地面が割れている。羽がないので空を飛ぶこともできない。竜だったら雲にも乗って逃げるだろうが。恐ろしいものの中でとりわけ恐ろしいのは、地震なのだと思った。



 東日本大震災から一カ月以上が経った。普通なら一カ月も経てば、「あの時の地震は」などと振り返るところだが、今回の地震はあまりにも巨大で被害が甚大すぎて、行方不明者の捜索や避難所生活、原発事故の問題も未だ現在進行形だ。
 そして何より、今回の地震の特徴は余震が多い、ということだ。3月11日からちょうど1カ月が経った4月11日にも大きな余震があり、その翌日の4月12日にも千葉県沖で大きな地震があった。東京に住んでいる私のところでは、3月11日から今日4月17日まで、体に感じる地震が1回もなかった日はニ日しかない。
 地面が不安定であるということは、心の不安を引き起こす。震度4とか5のとりわけ大きな揺れではなくて震度1か2程度の小さな揺れでも、こう頻繁に続くと嫌なものだ。私のTwitterのTLでは、多くの人が「怖い」「気持ち悪い」「いいかげんにして」と不安を口にしている。実際に生命の危険を感じるほどの揺れではないのだが、やはり地面が絶えず揺れているというのは、人間の心を不安にさせるものだ。それでなくても、テレビやインターネットで流れてくる三陸地方の悲惨な映像などを毎日たくさん見て、心の平静を失っているのだ。その疲弊して弱った心に相次ぐ余震が追い打ちをかけている。
 東京にいてさえ、これだけ不安なのだ。揺れが大きい東北地方の人はもっと不安だろう。そしてこの余震が何より応えているのは、避難所生活を送っている人たちだろう。

 最初の巨大地震があった3月11日は金曜日で、その翌土曜日と日曜日は、電車もまともに動いてないし、店は休業だらけ、コンビニ・スーパーに行っても買う物がなく、テレビをつけても地震のニュース一色、というわけで、何もすることがなく、また何も手につかなかったので、私は一心に本を読んでいた。
 その時読んでいたのが、『方丈記』だった。

 『方丈記』は、今からほぼ800年前に鴨長明(1155-1216)によって書かれた随筆文学の古典として有名だが、この中に地震に関する記述が出てくる。それが冒頭に引用した部分である。
 鴨長明が被災したこの大地震は、歴史的には「元暦の大地震」として知られている。地震について語ったこの箇所は、『平家物語』にも類似の文章がある。
 「元暦地震」とは、1185年(元暦2年)7月9日、近畿地方を襲ったマグニチュード7.4クラスの大きな地震だった。

近江・山城・大和:京都,特に白河辺の被害が大きかった. 社寺・家屋の倒潰破壊多く死多数. 宇治橋落ち,死1. 9月まで余震多く,特に8月12日の強い余震では多少の被害があった.

(『理科年表』より)

 鴨長明は、この地震を30歳の時に経験した。特に京都で被害が大きかったらしいから、京都人の鴨長明は大きな被害と衝撃を受けただろう。だからこそ、こうやって地震の様子を詳細に記しているのだ。この地震をはじめ、火事(安元三年の火災)、水害(治承四年の竜巻)、飢饉(養和の飢饉)など度重なる災難に襲われたことが、あの「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」で始まる名随筆『方丈記』執筆のきっかけになった。
 そして、この1185年元暦地震の一つの大きな特徴は、余震が多かった、ということだった。鴨長明もその点については詳しく書いている。

かくおびたゝしく振る事は、しばしにてやみにしかども、そのなごりしばしば絶えず。世の常驚くほどの地震、二三十度振らぬ日はなし。十日廿日過ぎにしかば、やうやう間遠になりて、或は四五度、二三度、若しは一日まぜ、二三日に一度など、おほかたそのなごり、三月ばかりや侍りけむ。四大種のなかに水火風は常に害をなせど、大地にいたりてはことなる変をなさず。昔斉衡のころとか、大地震振りて、東大寺の仏の御頭落ちなど、いみじき事ども侍りけれど、なほこの度にはしかずとぞ。すなはちは、人みなあぢきなき事を述べて、いさゝか心の濁りもうすらぐと見えしかど、月日重なり、年経にし後は、ことばにかけて言ひ出づる人だになし。

(意訳)
こんなに大きな揺れはしばらくしてやんだけれども、余震が絶えなかった。普通にびっくりするくらいの地震が1日に2、30回くらいあった。10日、20日ほど過ぎてようやく間隔があいてきて、1日に4、5回、2、3回、もしくは1日おき、2、3日に1回などとなって、結局、余震は3カ月ぐらい続いた。この世のものの中で、水害と火事と台風はいつも被害があるけれども、大地が揺れるなんてことはなかった。昔、斉衡時代(854-857)に大地震があって、東大寺の大仏の頭が落ちたとか聞いたことあるけれど、今回ほどの地震ではなかっただろう。その当時は、人々は皆「情けない」とか「はかない」とか言って、心の中の濁りや欲望も薄らぐように見えたけれども、年月が経って、そんなことを言う人もいなくなった。



 7月9日に起きた大地震の余震が断続的に9月頃まで続いた様子が詳しく記録されている。鴨長明が『方丈記』を書いたのは57歳の頃なので、自身が30歳の時に被災した地震、すなわち27年も前のことを驚くべき記憶力でこんなに詳しく書いているのである。もしかしたら地震があった時、余震の回数などを克明に日記につけていたのかもしれない。そして更に驚くことは、鴨長明は自分が生まれる300年も前の斉衡時代の地震について知っていたことだ。今でこそ、図書館やインターネットに過去のアーカイブが保存されていて簡単に調べることができるが、当時はそれほどの情報社会ではない。今回の東日本大震災があった時も、新聞にでも教えてもらわないかぎり、「そう言えば、300年前の江戸時代にも大きな地震があったなあ」などと思えた人はいないだろう。鴨長明はどうやって300年も前の地震を知っていたのか。古文書を調べたのか、それとも京都の街で代々、人々に言い伝えられて来た話だったのだろうか。


 元暦地震と東日本大震災、時代も違えば、場所も違うし規模も違う。今回の東日本大震災のほうが圧倒的にスケールが大きかった。地学的、地震学的には比較することはあまり意味が無いかもしれない。
 しかし、余震が多いという共通点はある。元暦地震は7月9日に最初の大きな揺れがあり、その約1カ月後の8月12日に強い余震があった。平成の東日本大震災では、3月11日に最初の大きな揺れがあり、そのちょうど1カ月後の4月11日に大きな余震があった。体に感じる揺れの間隔が少しづつあいてきている感じも似ている。余震がいつまでも続いて不安だが、もし『方丈記』を参考にするならば、私は3カ月後、つまり6月くらいには余震は収まるのではないかと思っている。科学的ではないけれども、目安を立てることで不安を和らげているのだ。ただし、もちろん今後も大きな地震に対する警戒は必要だ。

 『方丈記』から学びたいのは、地震の直後は、皆「はかない」などと言って「心の濁り」つまり欲望や執着などが薄らいでいたのに、年月が経つと皆そんなことも忘れてしまった、という鴨長明の指摘だ。
 今回の東日本大震災でも、「ウエシマ作戦」と呼ばれた「どうぞどうぞ」という譲り合いの精神や、「ヤシマ作戦」と呼ばれたみんなで協力して節電しよう、という、たくさんの互助や思いやりの精神が生まれた。こうしたせっかく生まれた美しい精神が、歳月とともに失われていってしまうのは悲しい。

 現代の私たちは、この大災害、大災難にどう向き合い、どう心持ちを持つべきなのか。800年前に書かれた書物がいろいろと教えてくれる。


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