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丸山眞男と8月15日

 丸山眞男はあらゆる意味で8月15日に殉じた人だった。

 その日を境に世界はまったくの別世界になったのだ。丸山にとっては。

 お母さんがいた世界といない世界。
 軍国主義の世界と民主主義の世界。
 生前の世界と死後の世界。

 丸山眞男にとって8月15日が持つ意味は誰よりも大きい。

 お母さんの命日であり、専門である「政治思想」の大転換日であり、そして自分自身の命日であり。

 丸山は昭和二十年代前半に積極的に「民主主義とは何か」ということを民衆に説いて回った。それは、終戦直後は多くの人々が「民主主義ってなんだ?」と問うていたからだ。だが誰も民主主義とは何かと問わなくなってからも丸山は「民主主義とは」ということを語り続けた。そこに丸山の哀しみがある。

 その時代遅れ、時代錯誤な感じを批判したのは吉本隆明だった。
 吉本隆明に『擬制の終焉』で批判された時に直接は何の反論も返さなかったが、後に「高度成長期の日本の資本主義というものは僕には見通せなかった」という反省の言葉を残している。
 なぜ、見通せなかったか。現在進行形で圧倒的な形で進んでいた高度経済成長という「大変化」をなぜ「見られ」なかったのか。それは、もう、丸山の心の中に、「戦争の反省」という問題があまりにも大きな比重で占めていたからだ。
 「戦争の反省がまだ終わってない」という拘りをいつまでも持ち続けた丸山眞男。
 でも、「僕はどうしても許せないんです」と語気を強めて丸山が言う時、丸山の8月15日に対する特別な思いと気迫を感ぜずにはいられない。

 丸山の思想の中には時間の流れがある。時間や前提を意識した思想である。

 丸山の思想に見られる時間観は、政治に限定されることなく社会全体に当て嵌めて語られるべきものである。

 政治を語るとどうしても「現代政治」について語らざるを得なくなる。それは「今」であって「先後」は霞んでしまう。
 例えば、首相が何度も「徴兵制はありえない」と明言しているにもかかわらず、「徴兵は嫌です。戦争には行きたくありません」と言う人々がいるのは何故か。それは、この国では首相や政権がコロコロ変わることを皆知っているからだ。
 「絶対にありません」と言うのは、その首相、その政権であるかぎりにおいてはそうだということであって、五年後、十年後の首相がどう言うかは分からない。

 丸山が語った「予測可能性の減退」。丸山の思想の中には「予測」という明らかな時間がある。
 自然法的な秩序はある程度の社会の安定性を前提としている、と丸山は言う。そして、今や“誰が”社会を安定せしめるのかが問われなければならない、と言う。
 この言葉から、丸山は「主体性」の重要さを語ったのだ、ということは気づくことができる。
 だがもう一つ気づくべき点がある。それは、「前提」や「予測」といった時間と関係のある言葉が使われていることだ。
予測可能性が減退している時代にあっては、“誰が”が問われるのはもちろんのこと、“何を”すべきで“何を”すべきではないか、も問われなければならない。
 そしてそれらを問うときに、すべての前提が疑われなければならない。自然法と見えていたものが本当に“自然”だったのか、ということが問い返されなければならない。
 現代は、もうこれ以上、前提の上に虚構を気づくことは許されない時代である。前提の上に前提、虚構の上に虚構、というような屋上屋を架すようなことは許されない。
 破れるのは規範や法則だけではない。習慣や常識も破れる。にもかかわらず、それらのものが「ある」と前提して何かを言ったり為したりすることは、無意味どころか罪なことである。

 「見えざる「道理の感覚」が拘束力を著しく喪失したとき、もともと歴史的相対主義の繁茂に有利なわれわれの土壌は、「なりゆき」の流動性と「つぎつぎ」の推移との底知れない泥沼に化するかもしれない」と丸山は言う。
 そして、その歴史主義化が却ってそのつどの絶対化を呼び起こさずにはいないだろう、と言う。
 丸山のこの指摘は鋭い。
 現代は先鋭化した「絶対」が虚構の上に立ち現れている。それは、もともとの基底が「無窮」であるからばかりではない。無窮性をも失った時代に「絶対」が存立しているのがおかしいのだ。それが無窮性を持った自然法であれ、もっと主体性を持った作為の法であれ、なんらかの存立基盤となっているのならよい。
 丸山の指摘通り「歴史主義化」は進み、「絶対性」は先鋭化しているにもかかわらず、一つ一つの「絶対」は見えて来ず、「つぎつぎとなりゆくいきほひ」の濁流に飲み込まれている。
 丸山の「古層」は通時的問題を浮かび上がらせている。

 ここまで考えて、丸山が戦前/戦後に拘るのも、私が高度経済成長前/高度経済成長後に拘るのも、根は同じなのかもしれないと思った。時代の前提への反省がないことへの不満なのだ。
 現代人は皆、偶然に甘えている。「である」にも甘えている。そうした甘えの上に厳しい機構を作り上げている。
 これは、丸山が拘った戦争の構造の問題と同じなのだ。
 丸山は、「私が戦争を始めました」という者が何処にもいない曖昧な甘えのもとに始まった戦争で、軍隊的厳しさばかりが増していったことに大きな不満を抱いていたのだ。

 現代は戦争の代わりに「社会」がある。
 「社会を舐めるな」
 「社会人として恥ずかしくないマナーを」
 「現実はそんなに甘くないよ」
 「もっと現実を見なさい」
 「社会に出たらそんなのは通用しないよ」

 こういうことを言う人たちは社会を厳しいものとしたがっている。まるで戦時中の軍隊が丸山に「軍隊を舐めるな!」と怒鳴ったように。
 だが、誰がその厳しい軍隊を主導しているのかは全然わからない。聞いてみても、「上官の命令だ」。その上官に聞いてみてもさらにその上官からの命令。上官の上官の上官、、、最後に行き着くところは天皇陛下からの御命令だ、と天皇に責任を押し付けるも、天皇に責任はないと言う。

 現代社会も“誰が”そういう社会にしているのか、という意識は誰にもない。「社会とはこういうものだ」という所与があるだけである。
 丸山が「今や“誰が(ヴェーア)”が問われなければならない」と言ったのはそういうことだ。

 「こうして古層における歴史像の中核をなすのは過去でも未来でもなくて、「いま」にほかならない。」

 「つぎつぎとなりゆくいきほひ」に待ったをかけた丸山。そもそも日本には「なる」はあって「なす」はない。不断に響き続ける「“中今”への讃歌」を止めて見せた丸山。
 しかし、政治をテーマとしているかぎり、丸山には「中今」が響き続ける。政治というテーマは常に「現代政治」を話題にせざるを得ないからだ。

 思想家としての丸山はこんなにも魅力に満ちているのに、政治学者としての丸山はつまらない。

 「錨づけからとき放たれ」る必要があるのは丸山だ。

 私は8月15日から丸山を解放してあげたい。

 だが、丸山の中では思想と政治は不可分のものであり、丸山を8月15日から解き放った途端に、その思想は輝きを減じてしまう。

 丸山はその生涯をかけて8月15日に拘った。
 それはそれで美しい。

 丸山の思想を政治以外にどう適用していくかは、後世の人間に託された仕事だ。


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戦争世代論 ~天皇はなぜいつまでも戦争責任を問われ続けるのか

 戦後、もう60年以上も経つが、いつまでも「天皇の戦争責任」を問う声が一部で燻っている。

 昭和天皇は平和を愛したお方であられたのに、そしてその天皇の御意に反して軍部が始めた戦争であるというのに、なぜ天皇の戦争責任がいつまでも問われるのか。

 この問題について昔からさまざまな議論があるが、私は世代論の観点から一つの試論を述べてみたいと思う。

 「天皇は戦争世代ではない」

という観点から。

 なお、この記事では「太平洋戦争」という言葉を用いるが、昭和16年から昭和20年までの対米英戦争を念頭に置いている。


戦争世代ではない昭和天皇

 私は子供の頃早くから、自分の家と天皇家とが、世代がずれているということに気づいていた。

 現・皇太子の御年齢は、私の年齢からも私の父の年齢からも離れている。また、今上天皇の御年齢は、父の年齢と祖父の年齢の真ん中にある。つまり、ちょうど交互に食い違っている。

 図で描くと以下のような感じ。
tennouke02.jpg

 私の家のような庶民の家と天皇家を並べるのは不遜で畏れ多いことだが、話をわかりやすくするためにこのように描く。

 私の祖父は大正生まれで、ドンピシャで戦争世代である。戦地に赴き、多くの同世代の仲間を失った。
 大正生まれの祖父が昭和時代の戦争に参加したのだ。

 当たり前のことだが、多くの人がうっかりしがちな事実は、

昭和天皇は昭和生まれではない

という事実である。

 昭和天皇は明治34年生まれ。
 今上天皇(平成の天皇)は昭和8年生まれ。

 つまり、昭和天皇が戦争世代でないのみならず、天皇家が「戦争世代の家」ではないのだ。


戦争に関する知識の「逆転現象」

 私は高校生の頃、年上の人、皇太子様と同じ世代の人たちと話をしていた時、彼らがあまりに戦争のことを何も知らないのに驚いた。彼らは自分の父親も祖父も戦争に行ってないから家庭で戦争の話を聞く機会がなかったのだ。彼らより歳が若い私の方が祖父から戦争のリアルな話をたくさん聞いていたおかげで戦争については詳しかった。

 一般的に時代が下っていくにつれて戦争に関する知識は一様に少なくなっていくと思われがちだが、家単位で見てみると、戦争世代の人がいる家庭といない家庭があり、それによって、若い世代の人の方が却って戦争のことを知っている、という逆転現象が起こる。もっともこれからは戦争経験者がいなくなってくるので、こうした逆転現象も起こらなくなるだろうが。


軍隊は20代が中心で、30代は「老人」扱い

 太平洋戦争にかぎって言えば、昭和16年の開戦の年に、昭和天皇は40歳。今上天皇は僅か7歳。
 どちらにしろ、戦地に行く年齢ではない。

 天皇はなぜ戦地に行かれなかったのか。
 多くの人は、「高貴な家柄の人だから」、「尊いお方だから」と思っている。しかし、仮に天皇が一般庶民であったとしても、年齢的に戦地に赴くことはなかったのだ。

 召集令状(通称「赤紙」)は、誰に配られたのか。
 成人の男性すべて、と言われているが、70歳や80歳の男性が兵隊として駆り出されたとは考えられない。

 どこの国でも、だいたい軍隊というものは20代の青年を中心に構成されていると言う。30代で「老人」扱い。40歳以上の人は一部の志願兵とかを除けば、現場には少なかっただろう。

 つまり太平洋戦争開戦時に、すでに40歳であらせられた昭和天皇は、年齢的に言って兵隊として召集されるような御年齢ではなかった。
 また、開戦時、7歳であらせられた今上天皇は、終戦時でさえ、まだ11歳。

 つまり、戦争時、家族の中に戦争世代の人がいる家庭といない家庭があった。
 「銃後を守る」という意味では、戦時中に生きていたすべての人は「戦争世代」と言えるかもしれないが、ここでは実際に兵隊として戦地に駆り出された20代から30代の人のことを戦争世代と呼ぶことにする。


開戦を決めたのは明治生まれ、実際に戦地に行ったのは大正生まれ

 以下、開戦の意志決定に関わった(と私が考える)主な人々の生年を記す。

寺内寿一(明治12年生)
杉山元(明治13年生)
東條英機(明治17年生)
板垣征四郎(明治18年生)
鈴木貞一(明治21年生)
木戸幸一(明治22年生)
近衛文麿(明治24年生)
岸信介(明治29年生)

 ご覧のとおり、全員、明治生まれ。明治30年代、40年代生まれもここにはいないことから、当時の大正生まれの若者たちは、開戦の意志決定にほとんど関わっていないことがわかるだろう。

 明治生まれの「大人」たちが、「もう、こうなったら戦争するぞ!」と決めて、「よーし、おまえら行って来い!」と大正生まれの若者たちを戦地に行かせたのである。
 戦争することを決めた世代と、実際に戦地に行った世代は大きく異なっている。
 上記の人たちも戦争には参加しているが、上記の「世代の人たち」が最前線に行っていたわけではない。

 太平洋戦争で兵隊として召集されたのは、主にどの世代だったのか。生年別に纏めた資料があるかと思って調べてみたが、見つけられなかった。
 私の推測では、おそらく上は明治40年代生まれぐらいから下は昭和2年生まれぐらいまでだと思う。


世代の問題に拘る理由

 私はこのブログでも過去に何度か世代論を取り上げてきた。世代の問題を語ると「不毛な世代論を語るな」と言う人がいる。でも私は世代論を語ることが不毛なことだとは思わない。私は世代の問題に拘りたい。

 祖父は同世代の仲間を戦争でたくさん亡くした。
 20代というのは、普通、恋に遊びに勉強に、人生の中でも最も輝いている楽しい時期のはずだ。それなのに、祖父の20代はなぜ真っ暗だったのか。上下の世代が普通に楽しい20代を送ったのに、なぜ大正生まれの人間だけがこんなに真っ暗な青春時代を送らなければならなかったのか。

 昔から一部の左派の人たちの間で、天皇の戦争責任を問う声が渦巻いている。しかし、そうした左派の人たちでさえ、天皇が“身分”において一般人よりも特別扱いされていることを問題視しているだけだ。
 だが、戦争の時代を肌身に知っている人たちの中に、もし天皇の戦争責任について蟠った気持ちを持っている人がいるとしたら、それは啻に身分の不公平のみならず、世代の不公平を感じているからではないか。にもかかわらず、自分たちでも今まではっきりとそのことを自覚してこなかったのではないか。

 「天皇は平和を願っておられたし戦争責任はないと思うんだけど、なんかモヤモヤするんだよなあ」と今まで思っていた人に、そのモヤモヤを解消するための一つの視点として、この「戦争世代論」を提供したい。

 もっとも、この記事は、世代の問題を際立たせるために、やや話を単純化している。

 昔は一般的に今よりも兄弟の数が多く、一番上の姉が母親代わりだった、とかいう話はざらにある。つまり、上図のように綺麗に等間隔に並ぶわけではなく、一つの家の中でもっとグラデーションが長くなるのである。
昭和一桁生まれ世代の人などは、「俺は戦争に行かなかったけど、一番上の兄貴は戦争に行った」などという人も多い。
 天皇家も、昭和天皇の歳の離れた弟君である三笠宮崇仁親王は大正生まれで「戦争世代」であり、実際に軍人であった。

 この記事で私が訴えたいのは、世代の問題であり、天皇の戦争責任の問題ではない。

 「明治生まれの人たちだって戦争を経験してるのでは?」
と言う人がいるかもしれないが、日露戦争のような「勝ち戦」と、太平洋戦争では規模も何もかもが違いすぎる。

 「世代間の不公平とか言ってもしょうがない。終わったことをああだこうだ言ってもしょうがない。青春時代が戻ってくるわけじゃないんだし」
 確かに、終わったことをどうこう言っても取り返しはつかない。しかし私は「しょうがない」で済ませたくはないのだ。
 あれほど苛酷で悲惨な戦争体験を「しょうがない」という言葉で済ませたくはない。祖父の20代は戻ってこないけれども、こうして「世代の問題」を語ることで、私たち以降のこれからの世代の人たちにこうした不幸な世代を作り出すことを少しでも防ぐことができれば、と思っている。

 そのための、これは一つの試論である。


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