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携帯電話「2年縛り是正」とは何だったのか

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(この記事は2016年の記事です。情報が旧くなっている可能性があります)

 総務省の要請により、大手携帯電話各社が、いわゆる「2年縛り」を是正するかも、というニュースを昨年から聞いていた。

 しかし今年2016年の春に携帯大手三社から発表された新プランは、ずいぶん期待外れのものだった。違約金(契約解除料)のないプランを新設するかわりに月々の支払い料金を高くする、という、多くの利用者にとってはほとんど何のメリットもないプランだった。

 私は、総務省が「2年縛りの是正を要請」というニュースを聞いたときに、「ああ、これで2年縛りがなくなるんだな」と思っていたが、そうではなかった。今年に入ってから携帯各社が発表したのは「2年を過ぎた場合の違約金の廃止」である。これでは2年縛りが無くなったということにはならない。なぜならば、「2年縛り」はもう一つあるからである。


もう一つの“2年縛り”

 「2年縛り」には、2年目のタイミングで解約しないと違約金を取られる、という縛りとは別の「もう一つの2年縛り」がある。

 それは24カ月にわたる割引き制度である。ドコモでは「月々サポート」と呼ばれ、auでは「毎月割」と呼ばれ、ソフトバンクでは「月々割」と呼ばれているもの。2年間にわたって端末代を割引く(と少なくとも多くの利用者が思っている)仕組みである。

 これにより、2年の途中で携帯会社を変えたり、機種変更をしたりすると、割引きが受けられなくなるので利用者は損をする。つまり、違約金の方の制度が見直されたとしても、こちらの「もう一つの2年縛り」があるかぎり、利用者は結局、2年の縛りからは逃れることができない。

 総務省はこのことを見落としていたのだろうか。


総務省の考え方

 総務省の有識者会議は「有識者」の集まりだけあって、もちろん、この「もう一つの2年縛り」のことも承知している。が、この月々割に関しては「利用者にわかりやすくすること」と言う程度に留めている。この程度の勧告なら、「ホームページの文言をちょっと変えて利用者にわかりやすいようにしておきました」とするだけで充分である。

 総務省が、こちらの「もう一つの2年縛り」に大きく踏み込まないのは、二つの「2年縛り」を比べたときに、「違約金を取る」、「契約更新月が一カ月しかない」、「契約自動更新」などといった決まりの方が、より「悪質」だと判断したためだろう。


もう一つの2年縛りがなくならないかぎり

 巷間では、携帯各社が発表した新プランを見て「結局高い」などと言っている声を多く聞くが、抑も、この「もう一つの2年縛り」がなくならないかぎり、結局私たち利用者は相変わらず2年縛りの軛の中なのだ。
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不当なスマホ批判

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(via:getnews.jp)



「歩きスマホは危ないからやめましょう」
「スマホ依存症に注意しましょう」
「スマートフォンの普及に伴い、駅のホームで電車に接触するなどの事故が多発しています」

 最近、こういったニュースをよく聞く。

 しかし、よくよく聞いていると「スマートフォンの普及に伴い・・・、」で始まるニュースのほとんどは「スマホ関係ない」ものばかりである。つまり「ガラケー」も含めた携帯電話全般に当てはまる問題であり、スマホ特有の問題でもなければ、ここ数年で急に出て来た問題でもない。

 私は、こうした不当なスマホ批判に対して若干の憤りを感じる。

 ここで初めにこの記事における用語の意味を明確にしておきたい。

「スマホ」・・・スマートフォンの略。iPhone含む。

「ガラケー」・・・ガラパゴスケータイの略。従来型携帯電話。フィーチャーフォン。カタカナで「ケータイ」と書くとガラケーを指す場合が多い。

「携帯電話」・・・ガラケーとスマホを両方含めた言い方。


歩きスマホは危ない?

 「歩きスマホは危ないからやめましょう」という言葉を聞くたびに、「じゃあ、歩きガラケーだったら危なくないのか」とツッコミたくなる。

 「歩きスマホによる電車や他人との接触事故」などと言うが、その危険は歩きガラケーだって同じことである。

 もう何ヶ月も前のことだが、NHKの朝の番組で、歩きスマホの危険性を検証するという番組をやっていたのだが、その番組の中で「実際に歩きスマホは歩きガラケーよりも危険なんです」とやっていた。「なぜならば、スマホはガラケーよりも画面への集中度が高くなって視野が狭くなるから」、「動画などをよく見るから」だと。

 画面への集中度が高くなるって、それは単にスマホの操作に慣れていないだけでは!?

 動画などを見るって、それは人それぞれだろう!!

 ガラケーであれ、スマホであれ、どんなコンテンツを見るかは使う人次第である。

 さらにこれも前に見た新聞でソースは見失ってしまったのだが、ある大学教授が歩きスマホの危険性を語っている中で、「従来のケータイはメールや電話ぐらいしか機能がありませんでしたが、スマートフォンは多機能なので、」という趣旨のことを語っていて呆れた。

 「メールや電話ぐらいしかなかった」って、それはいつの時代の携帯電話の話をしているのか。

 「動画を見るようになって画面への集中度が高まった」と言う人は、そもそも動画機能についてはワンセグなどでガラケーの方がスマホよりも先行していたことを忘れたのだろうか。

 「多機能になって」と言う人は、2008年にiPhone3Gが発売された時、ワンセグはおろか、赤外線通信もQRコードの読み取りも、絵文字も着うたも、何もできなかったことを知らないのだろうか。ガラケーの方がずっと多機能だった。


スマホ依存症?

 さらに、「スマホ依存症」という言葉も聞く。なぜ「携帯電話依存症」とか「モバイル依存症」と言わないのか。

「スマホになってからTwitterなどのSNSが出て来て、それに嵌まっている人が多いんですよね」

 Twitterはガラケーでもできます。

「それに最近はLINEとかも流行ってるでしょ?」

 LINEもガラケーでもできます。

「うちの子どもはスマホに依存していて、家にいるときは片時もスマホを手放さず、食事のときまでTwitterやLINEをやっているんです」

 それは、ガラケー全盛の時代に、10代の若者たちがメールに嵌まっていたのと、何が違うのか。当時も、食事中もずっとケータイ片手にメールのやり取りをする10代の子どもたちが紹介されていた。

「違うんですよ。LINEには既読機能というのがあって相手が読んだかどうか分かるから、すぐに返事を返さなきゃって思うのかな」

 メールだってすぐに返事を返さなきゃと思うのは同じである。それに、ずっとずっと遙か昔、世の中の大半の人がOutlook Expressというメールソフトを使っていた時代から、相手が開封したかどうか分かる機能はあります。

「グループ機能というのがあって、」

 グループ機能ももちろんメールにもあります。


スマホという言葉の濫用をやめよう

 私はニュースから「スマートフォンの普及に伴い・・・」という言葉で始まるスマホ批判が流れてくると「ああ、またか」と思う。

 それらは全然、“スマホ特有の”、“スマホ固有の”問題ではないからだ。ガラケーを含めた携帯電話全体の問題である。
 そしてそれらのニュースを聞いていると、だいたい、「それって単にスマホに慣れていないだけでは、、、」と感じることが多い。

 ガラケーには存在しないスマホ特有の問題なら「スマホ」という言葉を使って語るべきだが、携帯電話全般にわたる問題を、濫りにスマホという言葉を使って批判するべきではない。
 それは問題の本質を見えにくくしてしまうから。



(2014/03/01追記)

 以前、夜のNHKニュースのキャスターが「ガラパゴスケータイと揶揄された日本の携帯電話のように、日本の政治や経済も世界から孤立していかないようにしたいものです」というようなことを言っていたことがある。
 これは今も日本でたくさんの人が「ガラパゴスケータイ」という言葉に対して抱いている勘違いを代表しているような例だ。

 「ガラパゴスケータイ」という呼称の元々の意味は「日本で独自に進化した」という意味であって「世界の流れから遅れた」という意味ではない。
 そうしたガラケーという言葉の誕生の経緯や背景を知らない人たちが、少し遅れてから「ガラケー」という言葉を知って「遅れてる」という意味だと誤解して、「ガラケーw」と馬鹿にするような感じで使うようになった。

 NHKのキャスターでさえ、意味を誤認しているぐらいなのだから、メディアの多くが、「ガラケー」「スマホ」「携帯電話」という言葉を正しく使い分けられないのも無理のないことなのかもしれない。


携帯電話を持たない私

 携帯電話を持たない人-はてな匿名ダイアリー

 まるで、私のことを名指しで批判してゐるやうな記事だと思つた。
 まさに携帯電話を持たない私からの反論。

「みんな持つのが常識だみたいな先入観に毒されてる」のようなことを唱える処置なしは極端な例だからおいとくとしても


 何が処置なしなのか、まつたく理解できない。
 
 私は生まれてこの方、携帯電話を持たずに生きてきたが、別に「自慢」したり「優越感を滲み出したり」してゐるつもりはない。

いや、お前が不便かどうかではなく、お前が持っていないことで他の人が不便なのが迷惑なんだよ。


 そんなことは、ずつと昔からわかつてる。以前、後輩と待ち合はせをして、後輩が30分くらゐ遅れてきたとき、「○○さん、頼むから携帯持つててくださいよ」と泣きさうな感じで言はれたことがある。私が不便なのではなく、遅刻することを私に連絡できない後輩が不便なのである。それは、わかつてる。
 しかし、

「古風な自分ステキ」的なポリシーでもって頑なに持たないことを続けようとする人ははっきりいって迷惑だ。


とまで言はれると、ポリシーとして携帯電話を持つてゐない私は黙つてゐられない。

 大体、衣服の例へと比べるのはをかしい。

例えば、衣服だって似たようなものだ。今の時代、「俺は別に寒くないから街に出るのも裸でいいや」というのが許されるか?


 衣服のやうな伝統と歴史があるものと、携帯電話のやうな一時の流行のものを比べるのはナンセンスだ。それを「パラダイムシフト」とまで言ひ出す始末は、あまりにひどい。携帯電話なんて一時的な流行のものに「パラダイム」を思つたり、時代の常識などと思つてる人がゐるとしたら、それはつまらない考へ方だ。「ポケベル」が所詮、一時的な流行に過ぎなかつたことを思ひ出してほしい。当時、ポケベルを持つてゐなかつたからといつて、それほどまでに非難されただらうか。

 それに上記の増田氏は、携帯電話を持たない生き方だつて選択できたんだよ?なぜあなたは、主体的に携帯電話を持たない生き方を選ばうとしないのか。
 周りの人たちに迷惑をかけるから?
 嘘をつけ!
 「携帯電話が好きだから」。持つてると「便利だから」、「楽しいから」だらう?
 今、携帯電話を持つてるほとんどの人は、最初に購入したきつかけは、さういふ自分の欲望からだ。
 周囲への義務感や責任感から携帯電話を持つやうになりました、と言ふなら、それはまだ感心なはうだ。でも、そんな義務感は、つまらない義務感だ。そんなことで周囲に迷惑がかゝる、などと思つてゐるのなら、いつまでたつても主体的な生き方はできないだらう。

 私が「私のPCにはWordがありません」と言ふと、「Wordファイルが送れないから困る」と言ふ人がゐる。さうやつて今まで私たちはマイクロソフトに毒されて来たのではないのか。その愚を携帯電話でも繰り返さうと言ふのか。Wordがないなら、OpenOfficeを、Google docsを使へばよいではないか。一人一人が「Wordを持つてません」といふ声をあげることによつて、これらの別の新たな手段は生まれてくるのではないか。
 携帯電話だつて同じこと。もつと「私は携帯電話を持つてません」と言ふ人が多くなれば、それに代はる別の連絡手段が生まれるはずだ。

 とまあ、持たざる者が持つ者を批判するならともかく、持たざる者が持つ者から批判されるとは思つてもみなかつたので、つい、感情的に反論してしまつた。

 ちなみに私が携帯電話を持つてゐないのは完全にポリシーだ。このブログの標語にもしてゐる「反便利」の精神から来てゐる。「反便利」とは、自分にとつての便利だけでなく、他人にとつても便利であつてはいけないのだ。
 どんなに批判を受けようとも、このポリシーは変へないだらうし、周りに不便をかけてるのは承知だけれども、「本気で申し訳なく思っ」たりすることはないだらう。