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ゲーム理論に初めて触れる人のための1冊『高校生からのゲーム理論』

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 ゲーム理論といふ数学の理論が近年注目を浴びてをり、それに関聯した書籍もいろいろと出版されてゐる。

 しかしその関心は経済学的な応用への関心が専らである。だから今書店に出まはってゐるタイトルに「ゲーム理論」とつく本は、大抵が経済書やビジネス書である。それを除けば、あとは純粋な専門的数学書があるのみだ。

 「ゲーム理論」といふ言葉はこれだけ有名になってきてゐるのに、意外と非理数系の人にも読めるやうな簡単な入門書が存在しない。以前からゲーム理論について書いた入門書のやうな新書があればいいなと思ってゐたが、これだけ大量の新書本が存在する時代であるにもかゝはらず、ゲーム理論について書かれた新書は今まで一冊もなかった。

 そこへ、このたび、ちくまプリマー新書から、松井彰彦の手になるゲーム理論の本が登場した。

高校生からのゲーム理論 (ちくまプリマー新書)高校生からのゲーム理論 (ちくまプリマー新書)
(2010/04/07)
松井 彰彦

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 以前から待ち望んでゐたゲーム理論の新書だ。書店で見かけてから早速読んでみた。

 読んだ感想は、正直言って、予期してゐたものとは違った。もっとゲーム理論の基礎基本についてしっかり書いてある教科書のやうな本を想像してゐたが、実際読んでみると、これはゲーム理論についての読み物であり物語風に書かれたものだった。

 だが読み物としては楽しい。本書で扱はれてゐる話題は、サッカーのPK戦の話から三国志の話、童話、ヒュームの哲学、アインシュタインの相対性理論、いぢめの問題、ソクラテスから仏教の話まで、多岐に渡る。本来数学の本のはずなのに、これだけ多様な話題を扱ってゐれば、本書の中身をちらっと見ただけでもなんだか楽しさうでワクワクしてくるといふものだ。

 中でも私が印象に残ったのは、第五章の「いじめられる理由なんてない」といふ話だ。

 今こゝに、A、B、C、Dといふ4人の子どもがゐたとして、A、B、Cはグループを作ってDだけが仲間外れになったとする。この状態はゲーム理論的にはナッシュ均衡として意外と安定してゐる。A、B、Cの3人はDに話しかけようとはしない。Dと親しくすれば、今度は自分が仲間外れの標的にされてしまふ可能性があるからだ。さういった意味で3人は誰も戦略を変へようとしないのでナッシュ均衡になるのだ。
 ところで、このDへの仲間外れが持続するためには、「実際にDと遊んだ子どもが仲間外れになる必要はない。重要なのは、Dと『遊ぶ』と自分が仲間外れになる、と心配しているということである」と著者は言ふ。これはつまり、子どもたちが自分たちの頭の中に勝手に作り上げたゲームモデルであるといふことである。
 ではなぜ、Dは最初に仲間外れになったのか。この問ひに対して、多くの人間はD自身に何か問題があったからだと考へる。しかし著者は「それは、A、B、Cという三人が仲間外れにしたからである」とシンプルに言ひ切る。このシンプルすぎる当たり前の答へに気付ける人がいったいどれだけゐるだらうか。著者は、「原因と結果に関する推理はすべて経験の積み重ねから導かれるのであって、そこに論理的な必然性はない」といふデビッド・ヒュームの因果関係に関する哲学を引き合ひに出して、D自身の問題が原因でその結果として仲間外れやいぢめがある、といふ考へ方は私たちの「誤ったものの見方」であると主張する。そしてこの話の最後を次のやうに結んでゐる。

いじめの撲滅は、それが何の益ももたらさないし、見方を変えれば何の根拠もなくなる、とみんなが理解するところから始まる。いじめの問題はいじめられる側ではなく、いじめる側のものの見方が歪んでいることから帰納的に生じることをみんなが理解すれば、何を変えるべきかの答えは自ずと見つかるであろう。



 この本は、ゲーム理論といふ一見冷徹な数学の理論を取り扱った本でありながら、著者の精神や感情が垣間見える。さうした本の書き方は、著者が「友人」だといふ経済学者の小島寛之の本の書き方に似てゐる。私は以前、小島寛之の『確率的発想法』といふ本を読んで感動したことがあるが、数学をこのやうに感動的に語れる人といふのはなかなか少ないのではないだらうか。

 そこには、ゲーム理論は何よりも「人間の科学」でありたいといふ著者の熱い思ひが表れてゐる。こゝにあるのは、たゞの客観的な分析ではない。自分自身が人間社会といふゲームの中のプレイヤーの一人であり、その視点から、人と人との関係をどのやうに把捉していくかといふダイナミックな考察である。

 本書は、ゲーム理論を本格的に学ぶための本ではないけれども、ゲーム理論に初めて触れるといふ人にとっては、とてもすぐれた読み物であると思ふ。たゞ「知る」だけではない。多くのことを「考へさせられる」本なのだ。


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ITの基礎を知るために読んでおきたい本

 最近読んだのが、『知っておきたい情報社会の安全知識』(坂井修一著・岩波ジュニア新書)といふ本。

知っておきたい 情報社会の安全知識 (岩波ジュニア新書)知っておきたい 情報社会の安全知識 (岩波ジュニア新書)
(2010/03/20)
坂井 修一

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 岩波ジュニア新書は子ども向けの本だと思って侮ってゐると、意外とかうした良書が出てることが多いので、時々チェックするやうにしてゐる。特に子ども向けに書かれてゐるからこそ、非常にわかりやすく書かれており、ある分野の入門書や教科書とするにはもってこいである。

 この本は、大人が読んでも十分読みごたへがある。といふより、むしろ、今インターネットを使ってゐる大人たちで、学校できちんと系統立ってITについて学ばなかった世代の人たちにこそ、この本は読まれたい。

 今の若い世代の人たちは、ちゃんと学校でITを基礎から習ってゐる。しかし上の世代の人たちはコンピュータもインターネットも使ひこなしてゐるとしても、それはほとんど独学で身につけたものである。だから意外と基礎がわかってゐなかったりする人は多い。

 以前このブログで、NHKの『「ネットに弱い」が治る本』を、「最高の教科書」として紹介したが、この本も、さうした「普段からネットは使ひこなしてゐるんだけど、意外と基礎的なことがわかってないんだよね」といふ人には、良い教科書になると思ふ。

 例へば、「ITは性善説によって作られてゐる」といふ本書の言葉は、さまざまなことを考へさせられる。ITによって齎されてるさまざまな問題が、ITの構造そのものが持つ「性善説」といふ性格に起因してゐるなら、その構造やインターフェースを読み解くことによって、私たちITの利用者がどのやうに構造に流されてゐるかの一部を自覚することにもなるだらう。

 また著者は、ITによる質感・量感の喪失、といふ重要な問題も提起する。私たち生身の人間が、さうしたことによってITにどれだけ騙されるのか、といふことについて、こゝから考察を深めていくこともできる。

 ITと言ふと、それを使ってどれだけ楽しいことができるか、といふことばかり皆考へがちである。さうした明るい未来ばかり説く『ウェブ進化論』のやうな本は好まれる。
 だが、ITが齎すマイナスの問題点について考察することは、もっとずっと大切なことだ。なぜなら、「楽しい」といふことは、「マイナスなこと、苦しいこと、不快なことが無い」といふことでもあるからだ。

 私はほゞ毎日、インターネットを通じていくつかの不快に出会ふ。「ぢゃあ、インターネットやめれば?」といふわけにはいかない。これからの時代、ますます多くのデバイスがオンラインに繋がっていく。もはやオフラインの孤高を守り抜いて生きるのは極めて難しい時代になってゐる。

 どうしたら、インターネットの不快を感じずに、ネット生活を送ることができるだらう。
 かうしたことは、ネット社会の作り手である大人たちが考へなければならない問題だ。その杜撰な試作品の犠牲になるのは、いつだってその時代の子どもたちなのだ。

 「面白さうだから、とりあへず作ってみた」。ネット大好き人間には、さういふ人間が多い。新しい世界の創造のためにはさうした好奇心も必要だ。だが私には、かうした発想が時に軽率な遊びに感じられる。
 大人たちの一時の遊びに振り回される子どもたち。例へば、キーボードの並びはなぜQWERTY配列にしたのか。ユニバーサルデザインからはほど遠い。日本語を入力するにはまったくの不自然な並び。学校でその不自然な並びのキーボードのタッチタイピングを学ばなければならない子どもたち。

 ITが齎すマイナス面にも目を向けよう。問題点を把握した上で、その問題点を克服する方法を考へなければならない。IT社会が楽しいものであるためには、不快は取り除かなければならない。
 そのための問題整理として、この本は役に立ちさうである。




 

『いじめの直し方』-いじめ問題は誰に語られるべき問題か

 『いじめの直し方』(内藤朝雄・荻上チキ著、朝日新聞出版)を読む。

 薄い本で、しかも小中学生に語りかけるやうな口調でわかり易く書かれてゐるので、短い時間で読める。


いじめの直し方いじめの直し方
(2010/03/19)
内藤 朝雄荻上 チキ

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 この本では、「元気も勇気もいらないし、きみが変はる必要もない」と言ふ。タイトルが「治し方」ではなく「直し方」となってゐるのも意味があって、いぢめが起きやすい環境や構造を見直さう、といふ意味があるやうだ。
 普通のいぢめ関係の本だったら、「負けるな」とか「いぢめに立ち向かへ」「強くなれ」「きみ自身が変はらなきゃ」などといった言葉が並ぶのが普通だが、この本には一切そのやうな言葉は出てこない。

 例へば、著者は交通事故の例をあげる。道路のある場所で交通事故が異常に頻繁に起こる場合、もちろんドライバーはもっと注意深くなるべきだし運転技術の向上のために努力しなければならないが、しかし、その場の環境や構造を見直すことも大切なのでは?と著者は言ふ。
 たしかに努力は大事だ。私たちは日々努力を怠るべきではない。しかし、ある特定の場所で異常に交通事故が多かったとしたら、やはりその場の環境に何か問題があると考へるのが自然ではないのか。
 
 広い海で仲良く泳いでゐた魚たちを狭い水槽に入れると途端にいぢめが始まる、といふさかなクンの話も本書では紹介されてゐる。

 (参考リンク)いじめられている気味へ - 広い海へ出てみよう 東京海洋大客員助教授・さかなクン

 学校といふ日本の閉鎖的で特殊な環境がいぢめを生み出してゐる構造について私たちは考へるべきなのだ。

 よくプロボクサーなどが「自分は子どものころいぢめられっ子だったので、強くなりたいと思ってボクシングを始めました」などと言ふのを聞く。かうした話はテレビなどでよく紹介されるのだが、これなどはまさに「いぢめられっ子自身が変はらなきゃ」といふ発想のものだ。もちろん本人が変はりたいと思ったなら変はっていいのだけれど、大人がかうしたことを子どもに言ふのはよくない。子どもだけではなく、いぢめに苦しんでゐる大人に対して言ふのも間違ってゐる。それは、いぢめられっ子は「弱いからいぢめられる」のではないからだ。
 「弱いからいぢめられるのではない」といふことについては、例へば渡辺真由子といふメディアジャーナリストが『大人が知らないネットいじめの真実』といふ本の中で明確にはっきりと述べてゐる。

大人が知らない ネットいじめの真実大人が知らない ネットいじめの真実
(2008/07/25)
渡辺 真由子

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 いぢめ問題は、まづ誰に語りかけるべきかといふ問題がある。『いじめの直し方』は良い本だ。この本は、いぢめられっ子に向かって語りかけてゐる。いぢめに遭ったときどうすればいいか、処方箋のやうな本だと言へるだらう。
 私は、だが、いぢめ問題といふのは本来、いぢめっ子、または大人たちに向かって語られるべき問題だと思ふ。順番としてはそちらが先だ。いぢめられっ子本人がなんとかしなければいけない問題ではない。狭い水槽に入れられた魚はどうやって広い海に戻ればいいのか?魚自身の努力でなんとかなるのか?魚たちを狭い水槽に入れた人間が問題なのである。まづその人間に向かっていぢめ問題は語られなければならないはずだ。

 となると、この本も、いぢめられっ子ではなく大人たちに読まれるべきである。「弱いからいぢめられるんだ」「本人が変はらうと努力しなきゃ」「がんばれ」「応援してるから」等々、いぢめの自己責任論を振りかざす無責任な大人たちにこそ、この本を読んでもらひたい。
 いぢめられっ子自身も当然、いぢめられてゐる現状は嫌なわけだから、なんとかして環境を変へようと努力するだらう。しかし環境を変へるのは私たち大人たちの責務である。その責務を放ったらかしておいて、いぢめられっ子に向かって「がんばれ」などと言ふことは、到底許されることではない。

道具は「使う人の問題」か

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 インターネットやケータイの批判をすると、

「それは道具の問題ではなく使ふ人の問題です」、

「使ふ人次第でせう」

と言ふ人が必ずゐる。
 
 このやうに問題を、道具を使用する人間の側に帰してしまふ言ひ方は、道具そのものが持つ功罪を見えなくしてしまふ。
 つい先日も、ネット上での議論の場としての道具が変遷するにつれ議論の質が下がつてきたやうな気がする、と誰かが呟いたのに対し、「それはあなた自身のレベルが下がつて来てゐるのでせう。道具のせゐではありません」と皮肉を返してゐる人がゐた。

 だがやはりそのやうな認識は間違ひなのである。
 「インターネットは善い道具か悪い道具か?」と問ふたときに、「使ふ人次第で善い道具にも悪い道具にもなります」と答へる。しかし、道具をそんなに賢く使へる人なんて、この世に1%もゐない。使ひ方を過つ人が99%だ。道具そのものが持つインターフェイスやアーキテクチャがどのやうな問題を孕むかといふことは、もつと多くの人に注目され考へられなければならない。

 例へば、子ども向けケータイの問題。
 私は、子どもにケータイを持たせるべきではないといふ考へだが、ケータイ各社は、ある時期一斉に力を入れて子ども向けケータイの販売展開を行つた。そのとき各社が一斉に謳つたのが「防犯」といふことだつた。つまり子どもが犯罪に巻き込まれるかもしれないといふ親の不安心理につけこめば、ケータイの防犯機能を売りにすればいくらでも売れると考へたのだ。その読みは見事的中し、世間の多くの親が子どもにケータイを買ひ与へることになつたのはご存知の通りだ。親の方でも、自分の子どもにケータイを持たせる理由として「防犯」をあげる人が多い。

 だが待つてほしい。「防犯」なら、ケータイではなく「防犯機」でよいではないか。
 私がわざわざ「携帯」ではなく「ケータイ」とカタカナで書いてゐるのは、時に「ガラパゴスケータイ」とも言はれる日本独特の多様な機能がついたケータイのことを言つてゐるからだ。

 現在、ケータイ各社が売り出してゐる子ども向けケータイは次の通り。

ドコモ:キッズケータイ
au:ジュニアケータイ
ソフトバンク:コドモバイル

 名前こそいろいろ各社変へてあるが機能は似たり寄つたりだらう、と思つて調べてみたら、さうでもなかつた。
 以下、上記3社について、子ども向けケータイの機能を比較検証してみる。

 まづドコモのキッズケータイだが、機能としてはメールやインターネットなど大人のケータイと変はりない機能を備へてゐるが、購入時のデフォルトの状態では、通話以外のさうした機能は使へないやうになつてゐる。
 
 次にauのジュニアケータイだが、やはり機能としてはドコモとほゞ同じだが、購入時のデフォルトの状態ですべての機能が使へるやうになつてゐるところが異なる。つまり、親が機能利用制限をかけなければ、メールもインターネットも使へてしまふ。

 次にソフトバンクのコドモバイルだが、これは初めから通話とSMSだけの機能しか搭載されてゐない。普通のメールやインターネットは利用できない。

 以上3つを、子どもに持たせるといふ観点から、もし私が評価するならば、

1位:ソフトバンク
2位:ドコモ
3位:au

といふことにならうか。「防犯機」といふ観点から言ふなら、メールやインターネットの機能は初めから搭載するべきではない。ドコモはデフォルトで機能利用制限をしてゐるとは言へ、いざといふとき、例へば子どもがゴネたりすれば親が制限を解除してインターネットも使へてしまふ。auはデフォルトでさうした機能が使へてしまふ状態になつてゐるところがドコモよりひどい。

 ところで、市や町が条例などで「小・中学校へのケータイの持ち込み禁止」などと決めると、「そんなのは各家庭でルールを作つて守らせればいいだけのこと」と言ふ人がゐる。私はそれは反対だ。
 『クラスでケータイ持ってないの僕だけなんだけど』といふ状況は今や全国の学校で見られると思はれる。周りのみんなが持つてゐるのに自分一人だけ持つてない。それがどんなに心が苦しいことか、誰でもわかるだらう。大人だつて、周囲の友だちがみんなPSPやDSの話題で盛り上がつてゐれば、自分だけ持つてゐないことを苦しく思ふ。子どもならなほさらだ。ケータイといふあんなに楽しさうなオモチャをクラスの中で自分だけが持つてゐないなどとは、非常な苦しみである。「子どもには我慢を教へることも必要」、「我慢することも社会勉強」、などと言つてる大人には「まづ自分の物欲をすべて我慢してみてから言へ」と言ひたい。

 つまり、いはゆる「ケータイ」ではなく「防犯機」といふものを作ればいいのだ。「子どもの安全が心配」と言ふのなら、ケータイに防犯機能を付加するのではなく、ケータイとは別に防犯機能に特化した防犯機といふ道具(機械)を新たに作ればいいだけのことだ。それは技術的に難しいことであるはずがなく、さうしたものを作らないのはケータイ会社やメーカーの罪である。

 道具の問題である。私たちは何人(なんぴと)も道具に引きずられる。大人でさへ気づかぬうちにそのアーキテクチャに飲み込まれる。繰り返し言ふが、誰も“賢く”使ふことなどできないし、できてゐない。「各家庭で話しあつて」と言つて、その家庭の親がたまたま賢ければいいが、もし賢くなければ、そのまた賢くないであらう子ども(蛙の子は蛙)に、危険な道具を与へることになる。クラスの中で、頭の悪い子ばかりがケータイを持つてゐて、おそらくそのケータイをきちんと賢く使へるであらう賢い子だけがケータイを持つてない、といふ皮肉な光景もあることだらう。

 使ふ人の問題ではない。大人は子どもより少し賢いと思ふかもしれないが、皆、動線の上を歩かされてゐることに気づいてゐない。
 人間が用ゐる器具あるいは手段としての道具そのものが持つ問題がもつと注目され熟考されなければならない。


クラスでケータイ持ってないの僕だけなんだけどクラスでケータイ持ってないの僕だけなんだけど
(2010/01/20)
高橋 章子

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