暫定龍吟録

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冬休みに読みたい? 2011年今年の3冊<311を考える>

 新聞で「今年の3冊」といふ企画がある。それに倣って私も「今年の3冊」を書かうと思ふ。

 かういふのは、読書家である評者が今年読んだ厖大な数の本の中から選りすぐりの3冊を選んで紹介するのが普通だが、私は読書家ではないので、私が今年読んだ「たった3冊の本」をすべて紹介してしまはう。たゞし、すべて「311」絡みだ。私は2011年は311を抜きにしては語れないから。

 今年2011年に出版された本、といふことではなくて、あくまで私が今年読んだ本、といふことで。
 それでは、行きませう。


1.『偶然とは何か』竹内啓

偶然とは何か――その積極的意味 (岩波新書)偶然とは何か――その積極的意味 (岩波新書)
(2010/09/18)
竹内 啓

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 1冊目に紹介するのは、岩波新書から出てゐる『偶然とは何か』といふ本。これはすごい本だ。読むのを無理にお薦めするわけではないけれど、もっと多くの人が読んで話題になっていい本だと思ってゐる。
 何がすごいって、この本には「メルトダウン」といふ言葉が出てくる。メルトダウンなんて今や誰でも知ってゐる。311後、多くの人が口にし、また耳にしただらう。しかし、この本が出版されたのは2010年の9月、東日本大震災の約半年前である。311の直前に原発のメルトダウン事故のことを考へてゐた人、話題にしてゐた人はそんなに多くないだらう。
 この本では、偶然とは何かといふことを数学的に緻密に考へていく。それはそれで面白いのだが、圧巻なのは最終章「歴史の中の偶然性」で、人間が偶然とどう対峙していくのか、といふ話が展開されるところだ。

 ちょっと長い引用になるが、今年、311の原発事故を経験したばかりの私たちには、かなり衝撃的な文章だと思ふので紹介しよう。

もしそれが発生すれば莫大な損失を発生するような、絶対起こってはならない現象に対しては、大数の法則や期待値にもとづく管理とは別の考え方が必要である。
例えば、「百万人に及ぶ死者を出すような原子力発電所のメルト・ダウン事故の発生する確率は一年間に百万分の一程度であり、したがって「一年あたり期待死者数」は一であるから、他のいろいろなリスク(自動車事故など)と比べてはるかに小さい」というような議論がなされることがあるが、それはナンセンスである。
そのような事故がもし起こったら、いわば「おしまい」である。こんなことが起こる確率は小さかったはずだなどといっても、何の慰めにもならない。また、もしそのことが起こらなかったら、何の変化もないので、毎年平均一人は死んだはずだなどというのはまったくの架空の話でしかない。このような事故に対して、料率が百万分の一の保険をかける、あるいはその他の対策によって「万一に備える」というのは無意味である。



 そのうえで著者は、このやうな事故が起こる可能性は「無視」しろ、と言ってゐる。原発事故が起こる可能性など無視しろ、と言ってゐるのである。さう聞くと、この著者は原発擁護派なのか?と思はれるかもしれないが、よく読めば実際にはさういふことではないことがわかる。
 著者は、原発事故が起こる確率を十分に小さくした上で、さういふ大事故が起こる確率は無視するやうに、と言ってゐるのである。しかし、「原発事故が起こる確率はどんなに小さくしてもゼロにはできないんだから、やっぱり原発は建てるべきぢゃないんぢゃないの?」と思ふ人もゐるかもしれない。著者はその問ひにも答へてくれてゐる。

 311の地震、津波、原発事故。
 あの日の津波で隣の家は流されなかったのに、なぜ自分の家は流されたのか。あるいは自分の1メートルとなりにゐた人は津波に流されて亡くなったのに、なぜ自分だけが偶然にも助かったのか。さうした体験をした人は、偶然とは何か、運・不運とは何かについて問はずにはゐられないだらう。
 事故が起こる前の原発の存在そのものの問題、事故後の政府・東電の対応の問題、さうした問題に関心がある人も、この本を読んでみるといいかもしれない。
 もう一度言ふが、この本は311の半年前に書かれた本で、福島第一原発事故のことには一行も触れてゐない。にもかゝはらず、あの日の津波や原発事故のことを合はせて考へながら読むと、いろいろ深く考へさせられるのだ。

 この本についての感想を書かうと思ったら、また別に記事を一つ作らなければいけない。興味がある人は読んでみてください。


2.『天災と日本人』寺田寅彦

天災と日本人  寺田寅彦随筆選 (角川ソフィア文庫)天災と日本人 寺田寅彦随筆選 (角川ソフィア文庫)
(2011/07/23)
寺田 寅彦

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 「天災は忘れた頃にやって来る」で有名な寺田寅彦の随筆選。

しかしここで一つ考えなければならないことで、しかもいつも忘れられがちな重大な要項がある。それは、文明が進めば進むほど天然の暴威による災害がその劇烈の度を増すという事実である。(「天災と国防」)


 科学者であった寺田の警句は含蓄があり、重い。これも詳しくは読んでほしいのだが、寺田が言ってゐるのは単純なる文明批判ではなく、世界を設計・構築していく際にどのやうにしていくべきかといふ問題の提言である。インターネットやソーシャルネットワークなどのネットワークの発展に関係した仕事をしてゐる人は読んでおいてもいいかもしれない。

 311後の「風評被害」と呼ばれた問題、「デマッター」と揶揄されたツイッターによるデマ拡散の問題、さういふ問題に関心がある人は、この本に収録されてゐる「流言蜚語」といふ随筆を読むといいかもしれない。
 また、起こってはならない事故が起こってしまった場合の対応の在り方についても考察されてゐる。この点は上記の『偶然とは何か』と同じだ。福島第一原発事故などの起こってはならない事故が起こってしまった場合、政府は、東電は、そして国民一人ひとりは、どう対応したらいいのか。さうした点についても示唆がある。
 決して古い本ではない。何十年も前にこれだけのことを考へてゐた人がゐた。科学者でもあり名文家でもあった寺田寅彦ならではの深い洞察と含蓄のある文章だ。


3.『花びらは散る 花は散らない』竹内整一 

花びらは散る 花は散らない 無常の日本思想 (角川選書)花びらは散る 花は散らない 無常の日本思想 (角川選書)
(2011/03/25)
竹内 整一

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 竹内整一東大教授の退官記念最終講義を収録したもの。

 311で私たちは地震や津波などの自然の脅威をまざまざと味ははせられた。
 この本を読むと、その「自然」とは何なのか、について考へさせられる。
 自然の「自」は、「おのづから」とも読むし「みづから」とも読める。そこから著者は「”おのづから”と”みづから”の”あはひ”」といふ論を展開していく。私たちが普段よく「自然にさうなった」と言ふとき、それは必然的にさうなったのか、それとも偶然さうなったのか。著者は「自然」といふ言葉には必然と偶然の両義性があると言ふ。

 日本人が「自然」をどう捉へ、どう向き合って来たのか、上記2冊と併せ読むとますます興味が深くなる本だ。

 一見、先人たちの言葉や思想を整理してゐるだけにも見えるが、しかしその整理の手法も手腕もかなり鮮やかで、これまた多くの示唆に富む本に出来上がってゐる。
 特に著者が「間(あひだ)」ではなく、「あはひ」といふ言葉を使ってゐるのは、「あはひ」といふ言葉に動的なニュアンスを読み込んでゐるからだ、と書いてあるのを読んだときは、膝を打つ思ひだった。

 この著者は言葉を大事にしてゐる。実際この本は、「はかない」、「いたむ」、「とむらふ」、「しあはせ」、「幸ひ」、「やさし」、「かなし」、「さやうなら」などの日本語の分析を通して、日本思想の深淵に迫っていくスタイルになってゐる。
 さうして著者が描き出したのは、人の手を超越したものと人の手が織り成すものがダイナミックに関係性を変化させながら創りだされていく世界、といふ世界観だ。


まとめ

 今年2011年は、私は3月11日以降は、ほゞ毎日、311のことを考へて過ごした。311で何かが大きく変はったのか、それとも何も変はらなかったのか。希望と絶望について考へた。運、不運について考へた。
 被災してしまった人、ひどい被害に遭ってしまった人は、その不運とどう心の折り合ひを付けていけばいいのか。
 311が惹起した問題は、社会の問題であり、政治の問題であり、経済の問題であり、数学の問題であり、物理の問題であり、工学の問題であり、教育の問題であり、心理の問題でもある。
 それらは311の前からわかってゐた問題のやうな気もするし、311で改めて切実に考へさせられたのだといふ気もする。

 上記3冊は、それらの問題を考へる上で、たくさんのヒントを与へてくれる。正解は無い。


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渋谷最大!丸善&ジュンク堂書店へ行ってきた

 以前から、渋谷に都内最大級の書店がオープンするとして話題になってゐた、「MARUZEN&ジュンク堂書店」へ行ってきた。

 今まで、山手線の主要なターミナル駅の中で上野と渋谷だけ、大型書店が無かった。なぜこの二つの街に大型書店がないのかずっと不思議だったが、今回、その大型書店不毛の地である渋谷にやっと大型書店ができたと聞いて、これは行ってみようと思った。しかも名前が「MARUZEN&ジュンク堂書店」。これは丸善なのか?ジュンク堂なのか?行って確かめてきたいといふ思ひもあった。

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 場所は、東急本店の7階。


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 エレベーターで7階へ。

 店内に入ってみると人がたくさん。オープン直後といふこともあって、関係者8割、客2割ぐらゐの感じ。スーツを着た業界関係者の人たちが挨拶のために長蛇の列をなして名刺交換をしてゐた。また、報道関係者らしき人もたくさんゐた。


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 店内は、だだっ広い。ワンフロアとしては都内最大級といふだけのことはある。

 そして、問題の、丸善なのか?ジュンク堂なのか?といふ疑問だが、これは一瞬にして氷解した。写真を見てもわかる通り、使ってゐる書棚も本の分類も店内のトータルデザインも、ジュンク堂ベースで作られてゐる。この本屋は、ほゞジュンク堂と言っていい。
 丸善らしさは、入り口近くに小さな文具売り場スペースがあるところだけ。こゝには鳩居堂も入ってゐるが、文具売り場としては、丸の内丸善に劣る。

 ジュンク堂9割、丸善1割と言っていい、この本屋の全体的な雰囲気は、新宿のジュンク堂に似てゐる。新宿ジュンク堂のあのだだっ広さが渋谷にそのまゝ再現された感じだ。たゞし、新宿店は2フロアあるので、個人的には新宿店の方がやゝ広く感じる。

 あと、大事なのがトイレ。本屋と言へばトイレ。本屋にゐるとなぜかトイレに行きたくなりますよね。トイレがきれいな本屋としては丸の内丸善あたりが思ひつくが、こゝのトイレも真っ先にチェック。

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 ご覧の通り、新しいので当然きれい。でも驚くほどではなかった。


 そして肝腎の品揃へだが、これもジュンク堂に準拠してゐる。すべてのジャンルの棚を見て回ったが、どのジャンルも豊富に本が揃へてあり、池袋ジュンク堂にも新宿ジュンク堂にも遜色ない品揃へである。日本橋や丸の内の丸善を上回る。逆に言ふと、池袋や新宿店を上回るものがないとも言へる。

 以前、渋谷にあったパルコブックセンターは、デザイン・アート系の本に力を入れてゐた。また、以前、渋谷にあったブックファーストといふ大型書店は、場所柄、雑誌の品揃へに力を入れてゐた。さうした“渋谷”といふ土地柄を考慮した品揃へがなされてゐるかと思って、さういふ目で見てみたけれども、この丸善ジュンク堂は、デザイン本にも雑誌にも特に力を入れてゐるといふ感じはなかった。もちろんそれらの本は豊富に置いてあるけれども、池袋や新宿と同程度といふことだ。ビットバレーらしくコンピュータ書がとりわけ多いといふこともなかった。

 また、丸善と言へば洋書の品揃へが有名。渋谷といふ土地柄を併せて考慮すれば、洋書が豊富に揃へてあるのではないかと期待したが、これも期待したほどではなかった。丸の内丸善の方がずっと豊富である。

 
 本屋に行ったとき、その本屋が何を「プッシュ」してゐるかは、入り口近くの「島」に平積みされてゐる本を見れば大体わかる。丸善ならば、ビジネス書が多く置かれてゐるが、実際、カウンター前の「島」を見てみたら、ビジネス書以外のいろんなジャンルの本が置いてあった。しかも、その「島」自体が小さく、これといって「プッシュ」してゐない。かうしたベストセラーをあまりプッシュしないスタイルもジュンク堂のスタイルだ。

 あと気になってゐたのが、ブックカバーは丸善デザインなのか、ジュンク堂デザインなのか、といふこと。
 これは、ご覧の通り。

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 デザインっ気も素っ気もない、いかにも急造な感じのカバーである。シンプルと言へばシンプルだけれども。


 感想をまとめると、その名前のわりには、「丸善らしさ」や「丸善の良さ」がほとんど表れてゐないのが残念だと思った。また「渋谷らしさ」も特に感じられなかった。
 「マルゼンジュンクドウ」といふ呼び名は長いので、これからは略して「マルジュン」と言ふか、普通に「渋谷のジュンク堂」と呼ぶことになりさうだ。

 とは言へ、今まで長年、大型書店不毛の地だった渋谷に、ジュンク堂のやうな本格派書店ができた意義は大きいだらう。特に普段から渋谷をよく利用してゐる人や渋谷で働いてゐるビジネスマンたちにとっては待望の本屋ではないだらうか。
 個人的には、例へば、東急ハンズで買ひ物をしたついでに本屋に寄りたい、と思ふことがある。それが、池袋、新宿に次いで渋谷でもできるやうになる意義は大きいと思ってゐる。




(おまけ)

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 オープン直後の関係者でごった返す店内で、通路をふさいでゐる方が・・・。
 もしや、丸善ジュンク堂のマスコットキャラクター?


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と思って、正面から見たら、あれ?

 ノンタン!

 ノンタンだよね?子どものころ、よく読んだよ!


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 子どもと戯れるノンタン。



ゲーム理論に初めて触れる人のための1冊『高校生からのゲーム理論』

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 ゲーム理論といふ数学の理論が近年注目を浴びてをり、それに関聯した書籍もいろいろと出版されてゐる。

 しかしその関心は経済学的な応用への関心が専らである。だから今書店に出まはってゐるタイトルに「ゲーム理論」とつく本は、大抵が経済書やビジネス書である。それを除けば、あとは純粋な専門的数学書があるのみだ。

 「ゲーム理論」といふ言葉はこれだけ有名になってきてゐるのに、意外と非理数系の人にも読めるやうな簡単な入門書が存在しない。以前からゲーム理論について書いた入門書のやうな新書があればいいなと思ってゐたが、これだけ大量の新書本が存在する時代であるにもかゝはらず、ゲーム理論について書かれた新書は今まで一冊もなかった。

 そこへ、このたび、ちくまプリマー新書から、松井彰彦の手になるゲーム理論の本が登場した。

高校生からのゲーム理論 (ちくまプリマー新書)高校生からのゲーム理論 (ちくまプリマー新書)
(2010/04/07)
松井 彰彦

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 以前から待ち望んでゐたゲーム理論の新書だ。書店で見かけてから早速読んでみた。

 読んだ感想は、正直言って、予期してゐたものとは違った。もっとゲーム理論の基礎基本についてしっかり書いてある教科書のやうな本を想像してゐたが、実際読んでみると、これはゲーム理論についての読み物であり物語風に書かれたものだった。

 だが読み物としては楽しい。本書で扱はれてゐる話題は、サッカーのPK戦の話から三国志の話、童話、ヒュームの哲学、アインシュタインの相対性理論、いぢめの問題、ソクラテスから仏教の話まで、多岐に渡る。本来数学の本のはずなのに、これだけ多様な話題を扱ってゐれば、本書の中身をちらっと見ただけでもなんだか楽しさうでワクワクしてくるといふものだ。

 中でも私が印象に残ったのは、第五章の「いじめられる理由なんてない」といふ話だ。

 今こゝに、A、B、C、Dといふ4人の子どもがゐたとして、A、B、Cはグループを作ってDだけが仲間外れになったとする。この状態はゲーム理論的にはナッシュ均衡として意外と安定してゐる。A、B、Cの3人はDに話しかけようとはしない。Dと親しくすれば、今度は自分が仲間外れの標的にされてしまふ可能性があるからだ。さういった意味で3人は誰も戦略を変へようとしないのでナッシュ均衡になるのだ。
 ところで、このDへの仲間外れが持続するためには、「実際にDと遊んだ子どもが仲間外れになる必要はない。重要なのは、Dと『遊ぶ』と自分が仲間外れになる、と心配しているということである」と著者は言ふ。これはつまり、子どもたちが自分たちの頭の中に勝手に作り上げたゲームモデルであるといふことである。
 ではなぜ、Dは最初に仲間外れになったのか。この問ひに対して、多くの人間はD自身に何か問題があったからだと考へる。しかし著者は「それは、A、B、Cという三人が仲間外れにしたからである」とシンプルに言ひ切る。このシンプルすぎる当たり前の答へに気付ける人がいったいどれだけゐるだらうか。著者は、「原因と結果に関する推理はすべて経験の積み重ねから導かれるのであって、そこに論理的な必然性はない」といふデビッド・ヒュームの因果関係に関する哲学を引き合ひに出して、D自身の問題が原因でその結果として仲間外れやいぢめがある、といふ考へ方は私たちの「誤ったものの見方」であると主張する。そしてこの話の最後を次のやうに結んでゐる。

いじめの撲滅は、それが何の益ももたらさないし、見方を変えれば何の根拠もなくなる、とみんなが理解するところから始まる。いじめの問題はいじめられる側ではなく、いじめる側のものの見方が歪んでいることから帰納的に生じることをみんなが理解すれば、何を変えるべきかの答えは自ずと見つかるであろう。



 この本は、ゲーム理論といふ一見冷徹な数学の理論を取り扱った本でありながら、著者の精神や感情が垣間見える。さうした本の書き方は、著者が「友人」だといふ経済学者の小島寛之の本の書き方に似てゐる。私は以前、小島寛之の『確率的発想法』といふ本を読んで感動したことがあるが、数学をこのやうに感動的に語れる人といふのはなかなか少ないのではないだらうか。

 そこには、ゲーム理論は何よりも「人間の科学」でありたいといふ著者の熱い思ひが表れてゐる。こゝにあるのは、たゞの客観的な分析ではない。自分自身が人間社会といふゲームの中のプレイヤーの一人であり、その視点から、人と人との関係をどのやうに把捉していくかといふダイナミックな考察である。

 本書は、ゲーム理論を本格的に学ぶための本ではないけれども、ゲーム理論に初めて触れるといふ人にとっては、とてもすぐれた読み物であると思ふ。たゞ「知る」だけではない。多くのことを「考へさせられる」本なのだ。


ITの基礎を知るために読んでおきたい本

 最近読んだのが、『知っておきたい情報社会の安全知識』(坂井修一著・岩波ジュニア新書)といふ本。

知っておきたい 情報社会の安全知識 (岩波ジュニア新書)知っておきたい 情報社会の安全知識 (岩波ジュニア新書)
(2010/03/20)
坂井 修一

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 岩波ジュニア新書は子ども向けの本だと思って侮ってゐると、意外とかうした良書が出てることが多いので、時々チェックするやうにしてゐる。特に子ども向けに書かれてゐるからこそ、非常にわかりやすく書かれており、ある分野の入門書や教科書とするにはもってこいである。

 この本は、大人が読んでも十分読みごたへがある。といふより、むしろ、今インターネットを使ってゐる大人たちで、学校できちんと系統立ってITについて学ばなかった世代の人たちにこそ、この本は読まれたい。

 今の若い世代の人たちは、ちゃんと学校でITを基礎から習ってゐる。しかし上の世代の人たちはコンピュータもインターネットも使ひこなしてゐるとしても、それはほとんど独学で身につけたものである。だから意外と基礎がわかってゐなかったりする人は多い。

 以前このブログで、NHKの『「ネットに弱い」が治る本』を、「最高の教科書」として紹介したが、この本も、さうした「普段からネットは使ひこなしてゐるんだけど、意外と基礎的なことがわかってないんだよね」といふ人には、良い教科書になると思ふ。

 例へば、「ITは性善説によって作られてゐる」といふ本書の言葉は、さまざまなことを考へさせられる。ITによって齎されてるさまざまな問題が、ITの構造そのものが持つ「性善説」といふ性格に起因してゐるなら、その構造やインターフェースを読み解くことによって、私たちITの利用者がどのやうに構造に流されてゐるかの一部を自覚することにもなるだらう。

 また著者は、ITによる質感・量感の喪失、といふ重要な問題も提起する。私たち生身の人間が、さうしたことによってITにどれだけ騙されるのか、といふことについて、こゝから考察を深めていくこともできる。

 ITと言ふと、それを使ってどれだけ楽しいことができるか、といふことばかり皆考へがちである。さうした明るい未来ばかり説く『ウェブ進化論』のやうな本は好まれる。
 だが、ITが齎すマイナスの問題点について考察することは、もっとずっと大切なことだ。なぜなら、「楽しい」といふことは、「マイナスなこと、苦しいこと、不快なことが無い」といふことでもあるからだ。

 私はほゞ毎日、インターネットを通じていくつかの不快に出会ふ。「ぢゃあ、インターネットやめれば?」といふわけにはいかない。これからの時代、ますます多くのデバイスがオンラインに繋がっていく。もはやオフラインの孤高を守り抜いて生きるのは極めて難しい時代になってゐる。

 どうしたら、インターネットの不快を感じずに、ネット生活を送ることができるだらう。
 かうしたことは、ネット社会の作り手である大人たちが考へなければならない問題だ。その杜撰な試作品の犠牲になるのは、いつだってその時代の子どもたちなのだ。

 「面白さうだから、とりあへず作ってみた」。ネット大好き人間には、さういふ人間が多い。新しい世界の創造のためにはさうした好奇心も必要だ。だが私には、かうした発想が時に軽率な遊びに感じられる。
 大人たちの一時の遊びに振り回される子どもたち。例へば、キーボードの並びはなぜQWERTY配列にしたのか。ユニバーサルデザインからはほど遠い。日本語を入力するにはまったくの不自然な並び。学校でその不自然な並びのキーボードのタッチタイピングを学ばなければならない子どもたち。

 ITが齎すマイナス面にも目を向けよう。問題点を把握した上で、その問題点を克服する方法を考へなければならない。IT社会が楽しいものであるためには、不快は取り除かなければならない。
 そのための問題整理として、この本は役に立ちさうである。




 

やぽん・まるちが聴こえる - [保田與重郎生誕100年]

 今日は、戦前から戦後にかけて活躍した文芸評論家、保田與重郎の生誕100年の日。保田が生きてゐれば、今日が100歳の誕生日である。

 「保田與重郎文庫」を出してゐる京都の新学社が、今年の生誕100年を記念して『私の保田與重郎』といふ分厚い本を出版したが、これは新たに書き起こしたのではなく今までの全集や選集に収められてゐる月報などを再編輯したもののやうだ。
 今年は保田の記念すべき年なのだから、新たに語られてもいいはずだ。それなりの論客たちに集まってもらひ保田について思ふ存分語ってもらひ、それが文字化され出版されることで、保田が見直される契機になればいいと思ふ。だがさうしたことも困難なのだらう。もう今生きてゐる現役世代で保田を語れる人が少なくなってゐるのだ。
 戦後2、30年ごろまでならともかく、時代は平成になり、21世紀になり、ますます保田を知る人は少なくなった。保田はもうずっと遠い過去の人になってしまったのだ。

 もし保田がまだ生きてゐて、今日のネット社会を目の当たりにしてゐたら、一体どんなことを言ふだらう。ネットに蔓延するネット右翼と呼ばれる輩の言動をどう思ふか、ぜひ聞いてみたいものだ。
 保田の『絶対平和論』のやうな精神は、インターネットを使ってゐる現代の若者の心には響くことはないのであらうか。『絶対平和論』の精神や思想は、私は古くさいものだとは思はないが、かうした思想が現代に説かれることは意味がないであらうか。

 私は普段から本はあまり読まないので、保田の著作もあまり読んでゐない。だから保田について何事か語らうとしても語れない。しかしそれでも保田の名文には心打たれるものがある。例へば『日本の橋』に出てくる次のやうな一節。

思へば、日本の古社寺の建築が今日のことばで建築と呼ぶさへ、私は何かあはれまれるのである。日本の橋の自然と人工の関係を思ふとき、人工さへもほのかにし、努めて自然の相たらしめようとした、そのへだてにあつた果無い反省と徒労な自虐の淡いゆきずりの代りに、羅馬人の橋は遙かに雄大な人工のみに成立する精神である。


 26歳の若さでこんな文章を書いてゐる保田の早熟ぶりも驚きだが、保田が現代の私たちにはわからない敏感さや豊かな感受性を持ってゐたことにも驚かされる。<建築>に対するかうした感覚一つ取ってみても、明治生まれの保田にはわかるが昭和生まれの者には体感的にわからない、といふことがある。昭和、特に戦後以降の奇妙な建築物の数々を見れば、それももっともなことだと感じる。もう現代の日本の<建築>には思想と呼べるほどの思想はないのだらうと私は思ってゐる。保田は、「日本の橋」が何であるかがわかってゐる最後の人だったのかもしれない。

 名文と言へば、私が好きな保田の名文は、『やぽん・まるち』といふ、初期の頃に書かれた短いエッセイだ。この名エッセイは次のやうな一文で締めくゝられてゐる。

上野のあつけない陥落は昼頃だつた。あひ変らずに喪心して皷をうちつゞけてゐた、「まるち」の作者は、自分の周囲を殺到してゆく無数の人馬の声と足音を夢心地の中で感じた。しかし彼は夢中でなほも「やぽん・まるち」の曲を陰々と惻々と、街も山内も、すべてを覆ふ人馬の響や、鉄砲の音よりも強い音階で奏しつゞけてゐた──彼にとつて、それは薩摩側の勝ち矜つた鬨の声よりも高くたうたうと上野の山を流れてゆく様に思はれてゐた。


 私は昔から上野の山をよく散策してゐる。中でも、寛永寺の境内を通り抜けるときに、あの鬱蒼とした雰囲気の所で、この一文をいつも思ひ出す。寛永寺幼稚園の子どもたちの声の向かふに遠く「やぽん・まるち」が聴こへるのである。それは勇ましくも物悲しい調べである。私にとっては淋しい響きでもある。

 これは「体感」といふよりほかない。頭で理解することではない。保田の思想・精神は読んで体で感じるものであり、感じるものがなかったとしたら何も「わかった」とは言へない。

 新学社は今年、生誕100年の何か記念事業を企画してゐるらしいが、この記念すべき年に、もっと保田に再び光が当てられてほしい。いや、再びではない。保田の死後、このすぐれた思想家が注目を浴びたことなどほとんどなかった。現代思想や文芸に興味を持ってゐる人ですら、保田與重郎と言っても「知らない」と言ふ人が多いだらう。

 21世紀の現代に必要な人。保田與重郎。現代の昏迷を解くヒントをいたゞくもよし、文章を深く解し味はふもよし。今年を契機に脚光が当たらんことを願ふ。

 私の中では、保田與重郎は今もなほ輝いてゐる。