暫定龍吟録

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Twitterとブログで振り返る3月11日 〈東日本大震災から一年〉

 くりかえし、くりかえし、3月11日のことを思ってきた。この一年間は、ほとんど3月11日のことを考えてすごしていたと言っても過言ではない。

 あなたにとって311とは何か、と問われたら、私にとってそれは「痛恨」である。
 このことは以前にもブログに書いたけれども、私は、今の日本で、災害で1万人を超える死者行方不明者が出るなんて思っていなかった。災害は毎年のようにある。大災害も世界のどこかでは毎年のように起こっている。でも、どこかで、それは発展途上国の話だと思っていた。日本のような科学技術が発達した先進国で犠牲者1万人などありうるはずがない、と。
 私にとって痛恨であるというのは、先進国としての体面が保てなかった、まるで発展途上国みたいで恥ずかしい、とかそういうことではない。現代に生きている日本人として、日本という社会を構成している一員として、こんなに多くの人の命を救えなかったということが「痛恨」であった。
 
 後になってから、あの時ああしとけばよかった、とか、もっとこういう風にしておけばよかった、などとはいくらでも言える。しかし今さら何を言っても後の祭りである。反省として次回に活かすことはできるかもしれないが、亡くなった人たちに次回はない。原発事故だけではない、津波被害にしても「大失敗」である。自分が生きている時代に、つまり自分がなんとか被害を回避はできないまでも軽減の手段を打てる立場にあった時に、このような大失敗をおかしてしまったことは痛恨というよりほかない。

 スマトラ沖地震や四川大地震など何倍もの犠牲者が出ている災害が他にもいくらでもあるにもかかわらず、とりわけ東日本大震災が衝撃が大きかったのは、それだけ身近に感じたからだろう。
 東京にいた私も、大きな揺れとその後のトイレットペーパーの不足やコンビニ・スーパーから食料品が消える、などの事態に直面した。東京人も広い意味では「被災者」と言えるだろう。

 後世の人のために自分なりの東日本大震災体験記を残しておきたい。それは昨年の3月11日にも思って、主にTwitterとブログにリアルタイムで書いておいたけれども、書き漏らしていることもある。なので、震災から一年経った今、あらためて当時のことを振り返りつつ、3月11日に起こったこと、そして私がどのように行動したかを書いておこうと思う。


・自分のツイートから振り返る3月11日

 2011年3月11日の自分のツイートをツイログから引っ張り出して来て、時系列的に見ていこう。

駅の券売機が「準備中」だったので隣にずれたら「準備中」「準備中」「検査中」「調整中」で結局5台分も移動させられる。
posted at 12:20:22

 これが2011年3月11日最初のツイート。12時20分。この時は外にいた。こんな長閑なネタのようなツイートをしていて随分と呑気だったことがわかる。

機械が嫌いである。
posted at 12:20:58

 これが2つ目。当然ながらやはり緊張感がない。この後、自宅に帰る。金曜日だが私は休みだった。
 そして運命の2時46分を自宅で一人で迎えることになる。


・激震の最中に放った「なゐ」の二文字

なゐ
posted at 14:49:33

 激震に見舞われて最初にツイートした2文字。まだ激震の最中である。2時46分に東北地方で地震が起こってから何分何秒で東京に揺れが到達したかわからないが、私はすぐに大地震だと気付き、脱出口確保のため玄関のドアを開けそれを右手で押さえながら、左手に持ったスマートフォンでTwitterアプリを起動させていた。大きな揺れは何分も続き、私の住んでるボロアパートは激しく揺れてこのまま倒潰するんじゃないかと思った。死ぬ前にメッセージを残さなければ。2時49分と地震発生から少し時間があいているのは、この時、インターネットもしくは3G回線、Twitterのいずれかが繋がりにくかったためである。今にも建物ごと潰れてしまいそうだ。時間がない。Twitterしか思いつかなかった。なるべく短い言葉で外の世界の多くの人にメッセージを飛ばさなければ。自分が生きていた最後の証を残さなければ。その思いで激震の最中に放ったのが、この「なゐ」の二文字だった。「なゐ」は「地震」という意味の古い言葉である。

東京大地震
posted at 14:50:05

 2時50分。震源地がどこなのかはまだ知らなかった。ともかく東京が大地震に見舞われている、ということを伝えたかった。今にして思えば、私のTwitterのフォロワーさんは東京近郊の人が多いから「知ってるよ」ということだったろうが。このツイートまでが激震の最中に書いたものである。

冷蔵庫動いた
posted at 14:51:25


棚の上のもの全部落ちる。
posted at 14:52:04


2分以上揺れ
posted at 14:52:34

 揺れが少し収まってからのツイート。驚きと呆然という状態だったと思う。

本棚の本がたくさん落ちる、東京
posted at 14:55:53


人生でいちばんの地震か、東京
posted at 14:56:39

 地震発生の9分後、2時55分から「東京」という情報を付け加え始めた。どこの話かがわからないと混乱を招くと思ったから。でも、しばらくしたら「東京」という情報はいちいち付けなくてもいいと思った。それよりも情報のスピードを優先させるべきだと判断した。

まだ揺れてる、スカイツリーは倒れてない
posted at 14:58:19

 一番最初に確認したことはこれだったかもしれない。建設中のスカイツリーが倒れてないかどうか確認してしまうほどの大地震だったということだ。あと、Twitterができているということでインターネットが通じていることも確認できた。

建物ごと崩れるかと思った
posted at 14:59:29

 2時59分。この時までは家の中にいた。
 この後、隣に住んでた一人暮らしの外国人女性に声をかける。言葉がわからない日本に来て日本人ですら驚くほどの大地震に遭遇してさぞ怖い思いをしているだろう、テレビをつけても日本語ばかりで情報がわからなくて不安だろう、と思ったから。出てきた彼女は引きつった表情をしていたが、私の顔を見ると少しほっとしたような顔を見せた。そしてジェスチャーで自分はずっと怖くて震えていた、という仕種をしてみせた。私が「今はもう大丈夫ですか?」と英語で問いかけると「OK。あなたは?」と私のことも気遣ってくれた。
 それから、近所の防災広場に行った。持って行ったのはスマートフォンだけだった。広場には何人かの人が集まっていたが、特に何をするというでもなかった。度々余震が襲って来てはいたが、広場にいたのでは何の情報も得られない、と思い、また家に戻った。

もう15分以上たつのにまだ余震が、東京
posted at 15:15:11


また大きな余震
posted at 15:16:53

 テレビ(NHK)とTwitterのタイムライン、それにネット上でいろいろな情報を見ていた。

15時15分
posted at 15:17:24


私のところは体感的に震度5から6
posted at 15:18:58


15時25分、東京まだ少し揺れてる。
posted at 15:25:24


15時26分、余震、東京
posted at 15:27:49


大きな余震
posted at 15:28:25

 地震発生から29分後の3時15分からツイートに時間を付け加え始めた。たくさんリツイートされたらそれが何時時点での情報かが判りづらくなると思ったから。実際のツイート時間とのあいだに僅かなタイムラグがあるのは私の3G回線かインターネットの遅さだと思う。

インターネットは通じてる
posted at 15:30:44

 どのライフラインが生きているかの確認を始めている。


・地震発生から約45分後に原発情報をネットでさがす

Reading:NHKニュース 東北地方の原発がすべて停止 http://nhk.jp/N3ue67mQ
posted at 15:33:22

 地震発生から45分後頃、ふと原発は大丈夫だったのかが気になった。しかし東北地方のどこに原発があるのかを全然知っておらず、「東北地方 原発」でググってみたところ、宮城県の女川というところに女川原発というものがあるのを知った。今回の地震の震源から考えてもこの女川原発が一番危なそうだ。そこで私は女川原発に関する情報をネットで必死に探しはじめたところ、このNHK配信のニュースを見つけた。「東北地方の原発がすべて停止」と。私は当時原発の仕組みなどをまったく理解していなかったので、「すべて停止」ということは原発については安心していいのだろう、と判断した。いちはやく原発の心配をしておきながら、私の原発に関するツイートはここで終わっている。3時33分で早くも原発について思考停止してしまっていた。実際には女川原発ではなく福島第一原発が大問題になっていることを知るのはもう少し後のことである。

15時35分、小さな余震
posted at 15:36:42


15時45分、東京余震
posted at 15:46:14

 引き続き余震が頻繁にあったことがわかる。

防災頭巾を被って防災広場に避難する子どもたち、東京。 http://twitpic.com/48drrx
posted at 15:48:05


 この写真は忘れられない一枚になった。3時48分となっているが、実際には3時11分に外に出た時に撮ったものでいったんEvernoteに保存してからtwitpicにアップしている。

15時57分、小さな余震、東京
posted at 15:58:56


【3月11日】宮城県北部の地震(震度7)についての速報情報まとめ - NAVER まとめ http://t.co/MrzgoV3
posted at 16:11:17

 地震発生から1時間25分後の4時11分には早くもネット上で速報情報がまとめられだしていたことがわかる。

16時14分から余震、東京
posted at 16:17:19


16時27分、小さな揺れ、東京
posted at 16:28:28

 夕方になっても余震はやまず。


・最初の死亡者情報が入ってきたのは地震発生から103分後

16時28分、NHKで最初の死亡者のニュースを聞く。
posted at 16:31:04

 地震発生から103分(1時間43分)後。東日本大震災における最初の死亡者情報を聞く。これが最速だったと思う。当時もどかしく思っていたことの一つは、TwitterのTLを見ていても流れてくるのは東京の情報(地下鉄の何線が止まっているとか)ばかりで、そういう情報は山のように流れてきたが、肝腎の東北地方の情報は全然流れてこないということだった。103分。これが今の日本の情報力の限界。
 しかし、情報力のすごさに驚いた点もあった。3月11日当日の内に、東京での被害として九段会館の天井が崩落して犠牲者が出た、というニュースを聞いた。私はその時、これだけの大地震だったのだから東京でももっとたくさんの人が亡くなっているはずであり九段会館のニュースはその第一報に過ぎない、と思っていた。しかし結局東京では九段会館以外での死者はほとんどなかった。
 東北地方と東京の情報の落差を実感した。

16時31分小さな揺れがある、東京
posted at 16:33:01


16時32分、NHKで今回の地震に名前がついたと聞くが聞き損ねる
posted at 16:36:55

 この時私が聞きそこねた名前は「東北地方太平洋沖地震」だと思う。名前なんてどうでもよいではないかと思うかもしれないが、地震に名前が付くというのはその地震が歴史に残る地震だと人々が認識したということである。
 当日のブログには、

この地震は、「東北地方太平洋沖地震」と名付けられたが、明日以降、被害情報が明らかになるにつれて、場合によっては「〇〇大震災」と呼ばれるやうになるかもしれない。/歴史に残る地震になるのも間違ひない

と書いている。
 この後、ガスの復旧作業をする。あとアパートの大家さんに声をかけた。大家さんの家は老夫婦二人暮らしで心配だったから。アパートの他の住人は皆、平日ということでいなかった。

17時05分、小さな揺れ、東京
posted at 17:07:28


17時11分、小さな揺れ
posted at 17:12:33


17時17分から小揺
posted at 17:19:38


17時20分、少し大きめの揺れ
posted at 17:21:18


1728小揺れ
posted at 17:30:26


1731少し大きめの揺れ
posted at 17:32:44

 頻繁な揺れ。

東北地方太平洋沖地震M8.8、国内最大の地震、とNHK。
posted at 17:38:35

 マグニチュードはこの後、何度か修正されることになる。5時38分。この時点では「国内最大」というのは記録が残る近代以降の地震で、という意味だった。

Tokyo Disneyland & Sea Have Flooded http://t.co/qjiDCQQ
posted at 17:41:22

 これも今思えば情報の速さに驚いたことの一つ。5時41分、ネットで東京ディズニーランドの液状化のニュースを伝える海外のサイトの記事を見つけた。これも数ある液状化した地域の第一報にすぎないと思っていたが、結局、浦安は液状化の被害が最も有名なところだった。

ヘリが東北方面に飛んで行くのを見る。
posted at 17:54:00

 5時54分。ヘリはこれだけではなく、頻繁に見ていた。

1754、NHKで18人死亡と聞く。
posted at 17:55:59

 これは確定情報だけだ。実感としてはもっと多くの人が亡くなっているのはとくに三陸地方の人だったらわかっているだろうけど、これだけの大災害においては情報を確定させるだけでも一苦労なのだ。

明治29年の「三陸地震津波」を聯想する。
posted at 18:34:01

 津波による被害が大きかったということで私が真っ先に連想したのが明治29年の「明治三陸津波」だった。後日、明治三陸津波や昭和8年の「昭和三陸沖地震」などと比較されて研究されることになるが、この時はまだ人々にそんなことを考える余裕はなかった。

18時45分、NHK、26人死亡と伝えてる。
posted at 18:46:30


19時22分、小さな揺れ。
posted at 19:22:59


19時36分、小さな揺れ。
posted at 19:37:40

 この日は揺れは断続的に続いており、まだ建物がゆらゆらしているあいだに次の余震が来るので、実際には前回の揺れと今回の揺れ、などという具合にはっきり区別できるものではなかった。ほとんど一日中、ずっと揺れているという感じだった。

地震があってからずっとツイートがなかった人のツイートを確認して安心した。
posted at 20:12:57

 当時、Twitterで自分がフォローしていた名前も顔も知らない人たちの安否も気になっていた。

20時21分、揺れてる。こんなにいつまでも揺れていたら、今夜は眠れそうにない。
posted at 20:22:42

 精神的にも肉体的にもかなり疲労していた。

22時11分、NHK午後10時のまとめで91人の死者と聞く。
posted at 22:12:30

 3月11日当日に判明した死者数は91人。これを多いとみるか少ないとみるか。

22時17分また揺れ。
posted at 22:18:44

 これで3月11日のツイートは終わっている。全49ツイートすべてである。当日書いたものとしてはTwitterの他にもブログがある。ブログは夜8時頃から11時頃にかけて書いた。

 あと3月11日当日のことで印象に残っているのは、いつもは夕方の5時に子どもに帰宅を呼びかけるのが最後の区の防災無線が、夜中の11時30分頃まで防災情報(電車の復旧情報など)を流していたことだ。

 ブログの方にはこんなことを書いている。
今日(3月11日)の夜の時点で、被害の全容はまだまだ判ってゐない。明日以降、痛ましい悲惨なニュースが徐々に入ってくるだらう。今はまださうした甚大な被害を実感する前夜なのだ。最終的な死傷者数は3桁をこえるのは確実だらうといふ予感がする。最悪、1000人を超えることも考へられる。
 1000人。これが当時の私の予想の限界だった。しかし甚大な被害が明らかになる前夜であったことは本当だった。ちなみに震災の翌日、3月12日からはブログは震災関連の記事は現代仮名遣いで書いている。震災関連の検索で私のブログを見に来た人が「思ふ」などと書かれているのを見たら、人によっては「ふざけている」と感じるかもしれないと思ったから。しかし過去ログをご覧になっていただければ分かるが、3月11日の記事だけはそれまでの習慣通り歴史的仮名遣いのままで書いてある。現代仮名遣いで書き直そうかと思ったが、これも当時の私の慌てっぷりをよく表していると思ってそのままにしてある。

 Twitterももちろん3月11日で終わりではなくて、日をまたいで翌日以降もツイートしつづけている。


・3月12日、13日のツイート

 ちなみに、翌日、翌々日のツイートはこんな感じ。

 3月12日。

これがtsunamiか。身近(日本)で起こると実感として深く迫る。
posted at 00:30:15


日本は地震先進国なはずなのにそれでもこれほどの被害。自然の脅威を感じる。
posted at 00:38:37


22時17分。やや大きめの揺れ。
posted at 22:18:05


 3月13日。

日常も大事だが非日常も大事だ。
posted at 17:43:08


八百万の神と恒河沙の仏が総無視
posted at 20:37:02


お地蔵さんが素知らぬふり
posted at 20:37:55


観音さまが見て見ぬふり
posted at 20:38:24


文殊菩薩がわかってない
posted at 20:39:18


千手観音の手が足りてない
posted at 20:39:43


弥勒菩薩が間に合わない
posted at 20:40:03


天網恢恢疎にしてダダ漏れ
posted at 20:40:25

 ここに当時の私の歎息が見てとれる。神様や仏様に八つ当たりしている。震災後2日目。地震の規模と被害の全容が徐々に明らかになり、絶望的な状況を目の当たりにしてきていた時期だ。
 私はエレン・ケイの「偶然がある子どもを不幸から守った場合、子どもの『守護神』について語るのを聞くことがあるが、わたしはこれ以上の神の冒瀆はないと思う。この『守護神』は、数知れない不幸の際には一体どこにいるのであろうか?」という言葉を思い出していた。東北地方にもたくさんいたであろう神や仏は、あの瞬間何をしていたのか。


・震災から一年が経って

 あれから一年。未だに人出は足りていないし、復興への道のりは遠い。原発事故は収束する気配はなく、本当に弥勒菩薩がやって来ると言われている56億7千万年後まで禍根を残しそうである。

 この一年間、津波で家族を失った遺族の話や信じられないような惨状の映像をたくさん聞いたり見たりした。しかしそれらもこの甚大な災害のごく一部であって、語られることすらなく海のわだつみと消えていった物語は無数にある。

 一年というのは一つの節目ではある。区切りをつけて前を向いて歩いて行かなければならないと言うのもわかる。しかし、行方不明の家族が未だに見つかっていない人、住む家を失った人、原発事故の問題を抱えている福島の人たちなどにとっては「被災」は現在進行形であるだろう。

 日本のあるいは世界のシステムが救えなかったものがたくさんあった。その痛恨の思いのもとに今までもこのブログでたびたび震災関連のことを書いてきた。震災関連の検索で多くの人がこのブログを訪れてくれた。サイドバーのカテゴリー「東日本大震災関連」というところをクリックしていただくと、それらの記事をまとめて読むことができる。またはアーカイヴの2011年3月のところをクリックすれば、当時の日々の記録をリアルに感じることができる。
 東日本大震災のことはまだ書き足りていない。私はこれからも書くだろう。3月11日を忘れないために。後世に伝えるために。

 東日本大震災から一年の日に。

(参照)
りゅうたいぷ(@ryutype)/2011年03月11日 - Twilog

地震前後ツイート

2011(平成23)年3月11日東北地方太平洋沖地震当日 暫定龍吟録


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冬休みに読みたい? 2011年今年の3冊<311を考える>

 新聞で「今年の3冊」といふ企画がある。それに倣って私も「今年の3冊」を書かうと思ふ。

 かういふのは、読書家である評者が今年読んだ厖大な数の本の中から選りすぐりの3冊を選んで紹介するのが普通だが、私は読書家ではないので、私が今年読んだ「たった3冊の本」をすべて紹介してしまはう。たゞし、すべて「311」絡みだ。私は2011年は311を抜きにしては語れないから。

 今年2011年に出版された本、といふことではなくて、あくまで私が今年読んだ本、といふことで。
 それでは、行きませう。


1.『偶然とは何か』竹内啓

偶然とは何か――その積極的意味 (岩波新書)偶然とは何か――その積極的意味 (岩波新書)
(2010/09/18)
竹内 啓

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 1冊目に紹介するのは、岩波新書から出てゐる『偶然とは何か』といふ本。これはすごい本だ。読むのを無理にお薦めするわけではないけれど、もっと多くの人が読んで話題になっていい本だと思ってゐる。
 何がすごいって、この本には「メルトダウン」といふ言葉が出てくる。メルトダウンなんて今や誰でも知ってゐる。311後、多くの人が口にし、また耳にしただらう。しかし、この本が出版されたのは2010年の9月、東日本大震災の約半年前である。311の直前に原発のメルトダウン事故のことを考へてゐた人、話題にしてゐた人はそんなに多くないだらう。
 この本では、偶然とは何かといふことを数学的に緻密に考へていく。それはそれで面白いのだが、圧巻なのは最終章「歴史の中の偶然性」で、人間が偶然とどう対峙していくのか、といふ話が展開されるところだ。

 ちょっと長い引用になるが、今年、311の原発事故を経験したばかりの私たちには、かなり衝撃的な文章だと思ふので紹介しよう。

もしそれが発生すれば莫大な損失を発生するような、絶対起こってはならない現象に対しては、大数の法則や期待値にもとづく管理とは別の考え方が必要である。
例えば、「百万人に及ぶ死者を出すような原子力発電所のメルト・ダウン事故の発生する確率は一年間に百万分の一程度であり、したがって「一年あたり期待死者数」は一であるから、他のいろいろなリスク(自動車事故など)と比べてはるかに小さい」というような議論がなされることがあるが、それはナンセンスである。
そのような事故がもし起こったら、いわば「おしまい」である。こんなことが起こる確率は小さかったはずだなどといっても、何の慰めにもならない。また、もしそのことが起こらなかったら、何の変化もないので、毎年平均一人は死んだはずだなどというのはまったくの架空の話でしかない。このような事故に対して、料率が百万分の一の保険をかける、あるいはその他の対策によって「万一に備える」というのは無意味である。



 そのうえで著者は、このやうな事故が起こる可能性は「無視」しろ、と言ってゐる。原発事故が起こる可能性など無視しろ、と言ってゐるのである。さう聞くと、この著者は原発擁護派なのか?と思はれるかもしれないが、よく読めば実際にはさういふことではないことがわかる。
 著者は、原発事故が起こる確率を十分に小さくした上で、さういふ大事故が起こる確率は無視するやうに、と言ってゐるのである。しかし、「原発事故が起こる確率はどんなに小さくしてもゼロにはできないんだから、やっぱり原発は建てるべきぢゃないんぢゃないの?」と思ふ人もゐるかもしれない。著者はその問ひにも答へてくれてゐる。

 311の地震、津波、原発事故。
 あの日の津波で隣の家は流されなかったのに、なぜ自分の家は流されたのか。あるいは自分の1メートルとなりにゐた人は津波に流されて亡くなったのに、なぜ自分だけが偶然にも助かったのか。さうした体験をした人は、偶然とは何か、運・不運とは何かについて問はずにはゐられないだらう。
 事故が起こる前の原発の存在そのものの問題、事故後の政府・東電の対応の問題、さうした問題に関心がある人も、この本を読んでみるといいかもしれない。
 もう一度言ふが、この本は311の半年前に書かれた本で、福島第一原発事故のことには一行も触れてゐない。にもかゝはらず、あの日の津波や原発事故のことを合はせて考へながら読むと、いろいろ深く考へさせられるのだ。

 この本についての感想を書かうと思ったら、また別に記事を一つ作らなければいけない。興味がある人は読んでみてください。


2.『天災と日本人』寺田寅彦

天災と日本人  寺田寅彦随筆選 (角川ソフィア文庫)天災と日本人 寺田寅彦随筆選 (角川ソフィア文庫)
(2011/07/23)
寺田 寅彦

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 「天災は忘れた頃にやって来る」で有名な寺田寅彦の随筆選。

しかしここで一つ考えなければならないことで、しかもいつも忘れられがちな重大な要項がある。それは、文明が進めば進むほど天然の暴威による災害がその劇烈の度を増すという事実である。(「天災と国防」)


 科学者であった寺田の警句は含蓄があり、重い。これも詳しくは読んでほしいのだが、寺田が言ってゐるのは単純なる文明批判ではなく、世界を設計・構築していく際にどのやうにしていくべきかといふ問題の提言である。インターネットやソーシャルネットワークなどのネットワークの発展に関係した仕事をしてゐる人は読んでおいてもいいかもしれない。

 311後の「風評被害」と呼ばれた問題、「デマッター」と揶揄されたツイッターによるデマ拡散の問題、さういふ問題に関心がある人は、この本に収録されてゐる「流言蜚語」といふ随筆を読むといいかもしれない。
 また、起こってはならない事故が起こってしまった場合の対応の在り方についても考察されてゐる。この点は上記の『偶然とは何か』と同じだ。福島第一原発事故などの起こってはならない事故が起こってしまった場合、政府は、東電は、そして国民一人ひとりは、どう対応したらいいのか。さうした点についても示唆がある。
 決して古い本ではない。何十年も前にこれだけのことを考へてゐた人がゐた。科学者でもあり名文家でもあった寺田寅彦ならではの深い洞察と含蓄のある文章だ。


3.『花びらは散る 花は散らない』竹内整一 

花びらは散る 花は散らない 無常の日本思想 (角川選書)花びらは散る 花は散らない 無常の日本思想 (角川選書)
(2011/03/25)
竹内 整一

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 竹内整一東大教授の退官記念最終講義を収録したもの。

 311で私たちは地震や津波などの自然の脅威をまざまざと味ははせられた。
 この本を読むと、その「自然」とは何なのか、について考へさせられる。
 自然の「自」は、「おのづから」とも読むし「みづから」とも読める。そこから著者は「”おのづから”と”みづから”の”あはひ”」といふ論を展開していく。私たちが普段よく「自然にさうなった」と言ふとき、それは必然的にさうなったのか、それとも偶然さうなったのか。著者は「自然」といふ言葉には必然と偶然の両義性があると言ふ。

 日本人が「自然」をどう捉へ、どう向き合って来たのか、上記2冊と併せ読むとますます興味が深くなる本だ。

 一見、先人たちの言葉や思想を整理してゐるだけにも見えるが、しかしその整理の手法も手腕もかなり鮮やかで、これまた多くの示唆に富む本に出来上がってゐる。
 特に著者が「間(あひだ)」ではなく、「あはひ」といふ言葉を使ってゐるのは、「あはひ」といふ言葉に動的なニュアンスを読み込んでゐるからだ、と書いてあるのを読んだときは、膝を打つ思ひだった。

 この著者は言葉を大事にしてゐる。実際この本は、「はかない」、「いたむ」、「とむらふ」、「しあはせ」、「幸ひ」、「やさし」、「かなし」、「さやうなら」などの日本語の分析を通して、日本思想の深淵に迫っていくスタイルになってゐる。
 さうして著者が描き出したのは、人の手を超越したものと人の手が織り成すものがダイナミックに関係性を変化させながら創りだされていく世界、といふ世界観だ。


まとめ

 今年2011年は、私は3月11日以降は、ほゞ毎日、311のことを考へて過ごした。311で何かが大きく変はったのか、それとも何も変はらなかったのか。希望と絶望について考へた。運、不運について考へた。
 被災してしまった人、ひどい被害に遭ってしまった人は、その不運とどう心の折り合ひを付けていけばいいのか。
 311が惹起した問題は、社会の問題であり、政治の問題であり、経済の問題であり、数学の問題であり、物理の問題であり、工学の問題であり、教育の問題であり、心理の問題でもある。
 それらは311の前からわかってゐた問題のやうな気もするし、311で改めて切実に考へさせられたのだといふ気もする。

 上記3冊は、それらの問題を考へる上で、たくさんのヒントを与へてくれる。正解は無い。


869年貞観地震とはどんな地震だったのか

・「流光、昼のごとく隠映す」

 2011年3月11日に起きた巨大地震は、869(貞観11)年の「貞観地震」との共通性が指摘されてゐる。

福島第1原発:東電「貞観地震」の解析軽視 - 毎日jp(毎日新聞)

多くの専門家は、東日本大震災を「貞観地震の再来」とみている。同研究所などは05年以降、貞観地震の津波による堆積(たいせき)物を調査。同原発の約7キロ北の福島県浪江町で現在の海岸線から約1.5キロの浸水の痕跡があったほか、過去450~800年程度の間隔で同規模の津波が起きた可能性が浮かんだ。


 9世紀と言へば、平安時代初期にあたり、『枕草子』や『源氏物語』が書かれるよりも1世紀以上前である。
 「貞観」とはどんな時代だったかと言へば、いはゆる「弘仁・貞観文化」が花開き、漢文学や密教が流行した時代である。また、866(貞観8)年には、藤原氏が伴氏、紀氏を没落させた「応天門の変」が起こってゐる。

 そんな時代に三陸地方を襲った巨大地震とはどのやうな地震だったのか。手元の『理科年表』で調べてみた。

869 7 13 (貞観11 5 26) M8.3
 三陸沿岸:城郭・倉庫・門櫓・垣壁など崩れ落ち倒潰するもの無数. 津波が多賀城下を襲い, 溺死約1千. 流光昼のごとく隠映すという. 三陸沖の巨大地震とみられる.



 869年の旧暦5月26日に起きた三陸沖のマグニチュード8.3の巨大地震だったやうだ。この『理科年表』はおそらく歴史書を参考にして書いてゐる。こんなに古い時代の地震の被害の状況がわかるのは、歴史書に書かれてゐるからだ。その歴史書とは『日本三代実録』である。六国史の第六。"三大"実録ではなく、"三代"実録、すなはち、清和、陽成、光孝天皇の三代、858年から887年までの出来事を記した歴史書である。
 その『日本三代実録』の中に次のやうな記述がある。

廿六日癸未。陸奥國地大震動。流光如晝隱映。頃之。人民(叫)呼。伏不能起。或屋仆壓死。或地裂埋殪。馬牛駭奔。或相昇踏。城(郭)倉庫。門櫓墻壁。頽落顛覆。不知其數。海口哮吼。聲似雷霆。驚濤涌潮。泝漲長。忽至城下。去海數十百里。浩々不弁其涯涘。原野道路。惣為滄溟。乗船不遑。登山難及。溺死者千許。資産苗稼。殆無孑遺焉。

 要約すると、

貞観11年5月26日、陸奥国(東北地方)で大地震があった。流光、昼のごとく隠映する。しばらく人々は泣き叫び、倒れて立つこともできなかった。ある者は家屋が倒壊して圧死し、ある者は裂けた地面に埋もれた。牛馬は驚いて走り出し、あるいは足場を失った。建物の倒壊は数知れず。海は吠え、雷のやうだった。長大な驚くべき波が湧き起こり、たちまち城下に至った。海から数十百里離れたところまで、そのはてが分からないほど広大な範囲が波に襲われた。原野も道路もまったく分からなくなった。船に乗って逃げる暇もなく、山に逃げるのも難しかった。溺死者は1000人ばかり。資産も苗もほとんど何一つ残らなかった。



 「馬牛」が「自動車」になったぐらゐで、今回2011年3月11日の巨大地震と様子はよく似てゐる。溺死者が1000人と今回の被害より小さいやうだが、これは当時は今のやうに情報網が発達してゐないから、遠い陸奥国の正確な死者数はよくわからないだらうといふことと、当時は日本全体の人口数も少なかったので、三陸地方にもそれほどたくさん人が住んでゐたわけではなかった、といふことを考慮する必要がある。津波の大きさを物語る記述から見れば、今回の地震に匹敵する巨大地震であったとも考へられる。
 この中で「流光、昼のごとく隠映す」といふところだけがよくわからない。流れる光が夜空を昼のごとく照らした、といふ異常現象を書いてゐるやうだが、どんな物理現象だったのか、この記述だけからではよくわからない。


・多賀城に押し寄せた波は末の松山を越えたのか

 これは、TwitterのTLを見てゐて、@glasscatfish氏や@87a_wtnb氏のツヰートから教へてもらったのだが、百人一首にある清原元輔の有名な歌、

契りきな かたみに袖をしぼりつつ すゑの松山 波こさじとは

の、「すゑの松山」とは、宮城県多賀城市にある場所を指してゐる、といふことだ。

 清原元輔(908-990)は、あの清少納言の父で、この歌の意味は、「あの末の松山を波が越えることがないのと同じやうに、私たちが心変はりすることも絶対ないと約束したよね」といったほどの意味だ。

 この歌には本歌(今で言ふ元ネタ)があって、『古今和歌集』の「みちのくうた」にある、

君をおきて あだし心を わがもたば 末のまつ山 波もこえなん

(波が末の松山を越えることがないのと同じやうに、私が浮気することはあり得ない)
を元としてゐる。
 908年生まれの清原元輔が、自分が生まれる前の869年の貞観地震を知ってゐたかどうかわからないが、陸奥の人の間では古くからこの歌が歌はれてゐたのだらう。そしてそこでは「波が末の松山を越えることはない」とされてゐる。
 
 では「末の松山」とはどこなのか。多くの解説書では「宮城県多賀城市」としてゐるが、岩波文庫『古今和歌集』では、校注者の佐伯梅友が「宮城県多賀城市というが、岩手県二戸郡一戸町とする説もある」と書いてゐる。また、小学館『大辞泉』には、

陸奥(みちのく)の古地名。岩手県二戸(にのへ)郡一戸(いちのへ)町にある浪打峠とも、宮城県多賀城市八幡の末の松山八幡宮付近ともいわれる。[歌枕]

としてゐる。

 多賀城だったのか、一戸だったのか。もし一戸だったら、かなり内陸の町なので、「波」が海からの津波であることはあり得ない。川からの波だらう。多賀城は海沿ひの町なので、今回のやうに津波が襲ってきてをかしくない場所である。

 江戸時代の学者尾崎雅嘉は、その著書『百人一首夕話』で、

この本歌の心は奥州に末の松山といふ山あり、それは海辺の山なれど至りて高き山なる故、いか程波の高くたつ時もこの松山を波の越すといふ事はなし。それ故人の心の変らぬ事を、松山を波の越さぬといふなり。

と書いてゐる。
 この説を信じるなら、「海辺の山」と書いてあるので、やはり多賀城付近にあった山といふことになるだらう。

 869年、貞観地震の巨大津波は、はたして末の松山を越えたのかどうか。興味深いところである。


・地震前から貞観地震の再来を指摘してゐた人たち

 今回の大地震であらためて注目された貞観地震だが、地震の前から貞観地震の再来に注意を喚起してゐた人たちもゐたやうだ。

 例へば、産業技術総合研究所活断層・地震研究センターの宍倉正展氏の研究グループによる2007年の論文。

石巻平野における津波堆積物の分布と年代(pdf)

 またこれは別のチームによる2008年の論文で、貞観地震津波について詳しく書いてある。

石巻・仙台平野における869年貞観津波の数値シミュレーション(pdf)


 そして、これはいつ書かれた文章かわからないが、東北大学の箕浦幸治教授による文章。

特集 津波災害は繰り返す

 こゝには、「貞観津波の襲来から既に1100年余の時が経ており、津波による堆積作用の周期性を考慮するならば、 仙台湾沖で巨大な津波が発生する可能性が懸念されます」とはっきりと指摘されてゐる。

 だからと言って、1000年に一度、来るかもしれないし来ないかもしれない、といふほどの大津波を防ぎきれずに被災してしまった人たちを責めることはできない。人間は誰しも滅多に起こらないことには備へることはできないものだ。

 だがそれと同時に私たちは今回の大震災を深い教訓としなければならないだらう。上記の文章で箕浦教授が言ってゐる「こうした 破壊的な災害には、数世代を経ても、あるいは遭遇しないかもしれません。しかし、海岸域の開発が急速に進みつつある現在、津波災害への憂いを常に自覚しなくてはなりません。 歴史上の事件と同様、津波の災害も繰り返すのです」といふ言葉を肝に銘じたい。



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