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憎むべきは人をオモチャと見做す遊び感覚

首都大生の「ドブス写真集」動画が騒動に 大学は事実把握、「大変遺憾」 - ITmedia News

今回の首都大生たちをリンチするのは、彼らと同じ穴の狢なのではないか - 見たり聞いたりしたこと

 首都大学東京の学生が起こした問題がネット上で話題になってゐる。どういふ事件であるかについては、一つ目のリンク先を読んでもらひたい。その事件に対して意見を述べた二つ目のリンク先のブログにも多くの賛否両論が寄せられてゐる。

 この件で二つの出来事がある。一つは、件の大学生が起こした事件。もう一つは、その事件に対して2chねらーが行った「祭り」「晒し上げ」である。
 二つ目のリンク先のtaitiro氏は、この二つを行った人はどちらも同じ穴の狢ではないか、と述べてゐる。そしてtatitiro氏は思想やら芸術論の観点から、この二つの出来事に対して考察を加へてゐるのだが、私はむしろ、これら二つの出来事が最低なのは、そこに高邁な思想も芸術も存在しないからなのではないか、と思ってゐる。
 そこに高邁な思想なり芸術論なりが存在するのならまだ救はれるのだ。だが実際には思想もへったくれも存在しないからtaitiro氏の説は虚しいのだ。

 件の大学生は決して「ブス」が憎いわけではない。憎くてやったのならまだ救はれるのだ(良くないけど)。さうではなくて、大学生たちにとって「ブスな女」はたゞの面白さうなオモチャでしかない。かういふことをしたら「ブスな女」がどういふ反応を示すか面白さうだからやってみようぜ、といふノリで今回の件を起こしてゐる。

 同様に「祭り、晒し上げ」を行った2chねらーたちの多くは、この大学生のことが憎いわけではない。彼らの多くにとって、それはたゞの「メシウマ」のタネである。
 以前、どこかの大学教授が炎上について「もしも2chねらーたちが正義感から行ってゐるとしたら、」と発言したところ、多くの2chねらーたちが「正義感ぢゃねーよ、面白いからやってんだよ。たゞのメシウマだよ」と反論した。
 だとするならば、今回の件も多くの2chねらーたちにとっては、たゞの「メシウマのタネ」でしかないのだ。

 二つに共通するのは「面白いからやってゐる」といふ動機である。この二つの行ひが救ひやうがなく最低なのは、それが高邁な思想や正義感の下に行はれてゐるのではなく、単に「面白さうだからやってみようぜ」といふ遊び感覚に基づいて行はれてゐるからである。

 はてなブックマークなどにコメントしてゐる人の中には、「目には目を!歯には歯を!被害者の女性の気持ちをこの大学生にも思ひ知らせてやらう」といふ正義感からコメントしてゐる人も少なからずゐるかもしれない。それでも「祭り」や「晒し上げ」には加はるべきではない。なぜなら、その"場"に集まって来てゐる多くの2chねらーたちは、「祭りと聞きつけてやって来ますた」、「なんか知らんけど面白さうだから晒さうぜ」といふ程度のノリでしかないからだ。

 この大学生が最低なのは、被害者の一般女性たちのことを自分たちの「メシウマのタネ」、「面白いコンテンツ」としか見做してゐないところである。一人の感情を持った人間として見てゐない。そして今回の行ひは、それは彼らにとって必要欠くべからざる行ひではなく、やってもやらなくてもどっちでもいいことであり、でもやってみたら面白さうだからやってみようぜ、といふ遊び感覚のもとに行はれてゐるところが救ひやうがなく最低なのである。

 大学生を批判することは悪いことではない。だが、「祭り」や「晒し上げ」は、批判の方法としてふさはしくない。対象がとんずらしてしまった後に参加しても、もう祭りの「叩き」は誰にもヒットしてゐない可能性は高い。さうなるとますますたゞの自己満足のメシウマでしかないことになる。もし「冷静で客観的な自分がこの件について一言言ひたい」と思ふんだったら、掲示板やどこかのコメント欄ではなく、自分のブログに書くべきである。書く場所を間違へると、本人はそのつもりはなくても、はたから見たら「祭り」や「炎上」に加はってゐるたゞの野次馬といふことになる。

 (この記事では法的な犯罪行為については言及してゐないけれども、もしそのやうなことがあったなら、それについてはしかるべき法的処罰がなされるべきだと思ってゐる。)


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