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【囲碁】イ・セドル九段と人工知能AlphaGoの戦いがまったく面白くなかった【Challenge Match】

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 イ・セドル九段とAlphaGoの戦いがまったく面白くなかった。

 イ・セドル(以下、敬称略)はコンピューターとの戦い方を知らない。

 グーグルが開発した囲碁AI(人工知能)のAlphaGoと「人類代表」のイ・セドルの戦いは、試合前からだいぶ注目を集めていた。「Google DeepMind Challenge Match」と題して、2016年3月9日から3月15日までソウルで行われた五番勝負はYouTubeでもストリーミング放映され、大きな反響があった。AlphaGo(アルファ碁)はグーグルが「ディープラーニング」と呼ばれる新たな学習方法を搭載させた囲碁の人工知能だ。一方のイ・セドルは「魔王」の異名を持つ世界で最も強い韓国の囲碁棋士だ。多くの人はイ・セドルが勝つと予想していたようだが、私はAlphaGoが勝つと思っていた。イ・セドルは一勝もできないだろうと思っていた。試合の結果は、五番勝負でAlphaGoの四勝一敗だったので、AlphaGoが勝ち越すという私の予想は当たったが、イ・セドルが一勝もできないという予想は外れた。

 世間では「AIが人類の叡智を超えた」とか「感動した」という声が随分多かったようだが、私にはちっとも面白くない戦いだった。皆、この結果を以て、「人工知能の勝利だ」、「コンピューターは囲碁でも人間を上回ったのだ」と言っているが、そんな「人類の歴史的敗北」というには相応しくない、まったくお粗末な試合だった。

 イ・セドルはどれくらい事前にAlphaGoを研究していたのだろう。そこら辺の情報が全然入ってこないのだが、おそらくAlphaGoのことを全然知らずに、言わば「丸腰」の状態で対局に臨んだのではないか。こんなことは、対コンピューター戦ではあり得ないことだ。

 日本の将棋の世界におけるここ数年の人間対コンピューターの試合のことをイ・セドルは知らなかったのだろうか。

 昨年2015年、日本では、囲碁よりもコンピューターに勝つことが難しいと言われている将棋で人間のプロ棋士がコンピューターに勝利した。勝つことができたのは、プロ棋士が事前にコンピューターソフトを借りて入念に研究と対策を考えてから試合に臨んでいたからだ。どんなに強いプロ棋士でも何の事前情報もない初対面のソフトに対して勝つことはできない。勝利した棋士は事前にソフトと何百局、何千局と指して、ソフトの癖や弱点を見抜いた上で試合に臨んでいた。対コンピューター戦においては事前研究は“常識”である。

 事前に相手に関する情報を仕入れるのは決して卑怯なことではない。人間同士の対局でさえ、相手のことは知っている。相手の棋風、得意戦型などは事前に知っていることだ。だから、例えば「この人は角換わり(という戦型)が得意だから、その形には持って行かないようにしよう」などと考える。コンピューター側だって、過去の何万局だか何十万局だかの厖大なデータが入っているわけだから、当然、イ・セドルの過去の対局情報も入っており、彼の棋風や癖、弱点だって知っているのだ。

 日本の将棋の棋士たちがあれほど入念にコンピューター対策を行っていたのに、もしイ・セドルが相手に関する何の事前研究もせずにのこのこと対局場へ出かけて行ったなら、こんな愚かなことはない。

 だいぶ以前、将棋界でも似たようなことがあった。渡辺明と木村一基という二人のプロ棋士がコンピューターソフトと戦うことになった。渡辺は将棋界の第一人者、木村も将棋界指折りの実力者だ。で、結果はどうなったかというと、木村は敗けて渡辺は勝った。木村は自らの腕っぷしの強さを恃んで特にソフトの研究もせずに対局場に赴いた。渡辺も棋界随一の力を持っているので当然腕には自信があったが、念の為にソフトの研究をしてから対局場へ赴いた。渡辺と木村の力の差ではない。渡辺はコンピューターとの戦い方をよく解っていた。(※もっともこの戦いは「角落ち」という変則ルールでの試合だった。またかなり昔のことなので私の記憶が間違っていたら木村さん、ごめんなさい。)

 私のイ・セドル(又は韓国棋院)に対する不満は大きく二つある。

 一つは、今言った事前研究の怠りだが、もう一つは、ルールの不透明さである。

 イ・セドルは、今回の試合に臨む前に、どこまでルールの策定に関わったのだろうか。

 「えっ、囲碁のルールなんて最初から決まってるんじゃないの?」と思う人もいるかもしれない。だがそうではない。囲碁や将棋のルールというのは従来、人間対人間を前提として作られていた。対コンピューターということを前提としては作られていない。

 例えば、コンピューターは何台まで繋げていいか、とか、コンピューターが試合の途中で固まってしまった場合、ソフト作成者(技術者)がどこまで「修理」していいか、という問題がある。「修理はいいけど増強や改良は駄目」といってもどこまでが「修理」でどこからが「改良」なのか、などといった細かい問題も残る。他にも誰が敗けを宣言するか、コンピューター自身ではなくソフト作成者が勝手に「敗けました」と言ってもいいのか、とか、対コンピューター戦では新たに決めなければいけないルールがいっぱいある。

 極端な話、「二日間休みなしで対局」というルールにした場合、これは当然コンピューター側に有利になる。人間は眠くなってくるし疲労で思考力も集中力も落ちてくるからだ。

 私は一応、韓国棋院とグーグルの双方のサイトを覗いてみたが今回のチャレンジマッチに関する細かいルールが書かれたページを見つけることはできなかった。明らかになっていたのは「中国ルールで行う」ということだけだった。(※囲碁は中国ルールと日本ルールで若干ルールの違いがある。)

 将棋の時も、こうした従来の人間対人間の時にはなかった新たなルール問題でだいぶ揉めたのだ。だから、2015年の電王戦などでは事前に細かくルールの確認が行われた。(それでも試合後に揉めることになったが。)

 世界チャンピオンともあろうプロ棋士が、対局条件(試合のルール)も確認せずに、というより、ルールに一言も口出ししないなどあり得ないこと、あってはならないことだ。

 以前、私は今回と似たような不満を抱いたことがある。それは、かつて民放のTVで放送されていた「ほこ×たて」という番組を見たときだった。例えば「絶対に壊れない壁VS何でも壊す鉄球」というような勝負があった。どっちが勝つか。それはルール次第である。もし一発勝負なら壁が勝つだろうし、何日間も何カ月間も叩き続けていいのであればいつかは鉄球が勝つ。それなのに、番組に呼ばれている会社関係者は、ルールを番組スタッフに任せている人が多かった。私が会社関係者だったら絶対にルール決めには口を出す。勝つか負けるかはほぼルールによって決まるからだ。二時間以内という時間制限があったとしても、鉄球を釣り上げるクレーン車がポンコツか高性能かでは、当てられる回数が違ってくる。壁サイドから考えれば、壁の厚さや大きさ、それにその日の天候が晴天か雨上がりの湿度が高い日かによって壁の堅さも違ってくるということもあるだろうから、気象条件が有利な日にやりたいと考えるだろう。もっとも所詮はTVのエンターテインメント番組なので、一瞬にして勝負が決まってしまってはつまらないので、番組スタッフがギリギリの勝負になるようにうまくルールを考えるのだろう。所詮は「真剣勝負」の世界ではなく「ショー」なのだ。

 「ああ、ルールはそっちで決めていいですよ。どういうルールであれ、私に勝てたら大したもんですよ」

 こういう科白は、一瞬、かっこよく聞こえる。だが、こんなことを言っていいのは、せいぜいアマチュアの高段者であって、プロならば絶対に言ってはならない科白である。

 イ・セドルはどういうつもりでチャレンジマッチに出て来たのだろう。もし、グーグルの宣伝に協力するボランティアとして出て来たのなら、別に私は何も言うことはない。しかし、真剣勝負で勝つつもりでいたのなら、事前のルール決めに口を出さなかったのはプロ失格である。

 2015年、日本の将棋棋士、永瀬拓矢はコンピューターソフトに勝利した。一回勝負で勝った。

 事前に入念にソフトの研究をしてから対局に臨み、本番では「角不成」という常識外の一手でコンピューターを敗けに追い込んだ。コンピューターが「角不成」を認識できなかったのだ。これは事前に相手の弱点を知っていたからこそできたことである。永瀬は事前の研究でコンピューターが角不成を認識できないことを発見していた。しかも、永瀬は、この一点だけを研究していたわけではなく、もしコンピューターが「成長」していて角不成を認識されてしまったら、次はこれ、次はこれ、というように幾つもの「策」を考えて対局に臨んでいた。

 これは、対コンピューター戦の正しい戦い方だった。

 いや、「正しい」かどうかは分からないが、少なくとも対コンピューター戦はいかにあるべきか、どのように戦うべきか、という一つの形を示したことは確かだ。

 日本の将棋棋士で「天才」と呼ばれている羽生善治は、「もし自分がコンピューターと戦うことになったら、一年間くらいコンピューターの研究に専念する必要がある」と言っている。

 日本の将棋界という良き先蹤があったにもかかわらず、囲碁界がそこから何も学ばずに世界的大舞台でAIに敗北を喫したのは実にみっともないことであった。

 もっともAlphaGoを事前に借りてじっくり研究して、さらにルール決めにも参加して慎重にルールを決めていたとしても、それでもイ・セドルが勝っていたかどうかは分からないが。

パーソンランクの時代

 この記事は2011年の大晦日に書いてゐる。2011年もいろいろなことがあった年だったが、明くる2012年はどんな年になるだらう。もちろん明るい未来だったらいいのだが、私には心配の種もある。
 そこで、私が今感じてゐる「2012年はこんな年になりさうだ」といふ予感を書く。日本には「来年のことを言ふと鬼が笑ふ」といふ諺があるけれども、私は来年といふ近い未来のことを考へるのは決して悪いことではないと思ふ。

 私が気にかゝってゐることの一つは、こゝ数年のソーシャルネットワークの発展だ。フェイスブックやツイッターに代表されるやうなソーシャルメディアが普及するにつれ、ソーシャルネットワークの世界はどんどん拡大を続けてゐる。私は、かうしたソーシャルネットワークの拡大が私たちの社会、あるいは生活にどのやうな影響を齎すのか、といふことを随分前から危惧してゐる。そして今から2年ほど前に、少し恐ろしい世界のイメージが頭の中に浮かんだ。「人がランク付けされる」といふ世界だ。この2年ほど、ずっとそのことについて考へてゐたがブログには書かなかった。しかし2012年、いよいよさうした世界が現実に顕在化してくるかもしれないといふ不安が大きくなってきたので、その不安の根元と問題点について整理するために、こゝに書いておかうと思ふ。


・2010年初頭、「ツイ割」の衝撃

 2010年1月、私は一つの気になるブログ記事を見かけた。「百式」で有名な田口元氏が、ツイッター割引を実施してゐる玩具屋さんに行った時のレポート記事だ。


Twitterのフォロアー数に応じて割引してくれるボードーゲームのお店、『すごろくや』に突撃してきた! | IDEA*IDEA

 今から2年ほど前、2010年1月、東京・高円寺のボードゲーム店が「ツイ割」を実施した。ツイ割といふのは、ツイッターのフォロワーの人数に応じてその値段分、割引するといふキャンペーンである。フォロワーが100人ゐたら100円の割引。そのかはり、客はツイッターでお店について呟く。
 さういふ企画をやってゐたお店に、当時フォロワー数25万の@taguchi氏が訪れた。私はその時の@taguchi氏と店員とのやり取りに、何か目に見えない緊迫感を感じ取った。

しばらく店内を見回したあとに店員さんをつかまえて質問してみます。

「えーと、Twitterで割引と聞いたのですが?」
「ええ、そうですよ」
「フォロアー数に応じて割引ですよね?」
「そうです」
「僕、25万人ぐらいいますけどいいですか?」
「え?・・・えーと、いいですよ、もちろん」
「ほんとに?」
「えぇ」
「いいんですか?」
「ええ、サイトに書かせていただいたままです。」
「ほんとに?上限とかないんですか?」
「いえ、サイトに書いたままです。」

若干押し問答ぎみになりましたが、どうやら本当に上限はない模様。「実験的な試みなのでいろいろ見直してはいきますが」との前提はありつつも、基本的にはそのままの条件のようです。

でもまぁ、そこで25万円分割り引いてもらうほど鬼畜ではないのでw



 @taguchi氏は、私が知るかぎり、日本で最も早くツイッターを始めた人だ。そして当時、約25万人のフォロワーがゐた。店側としては、25万人もの人に自分の店のことについて宣伝してもらへるのは確かに大きなメリットだ。しかし本当に25万円分の玩具をタダで持って行かれたのでは、大きな痛手である。しかし「割り引く」と言ってしまった以上、後には引けない。@taguchi氏の良心に期待するしかない。
 結局、@taguchi氏は、1500円分の商品を割り引いてもらっただけだった。そしてツイッターどころか、かうしてブログにまで紹介したので、その店にとってはとても大きな宣伝効果になった。よかったよかった、と。

 だが私は、この記事の最後の方に気になる一文を見つけた。

基本的にすごろくやの人たちが素敵だったので印象は良かったのですが、とりようによっては「1フォロアーを1円で買っている」ともとられがちかと・・・(ま、しょうがないですな)。でもTwitterユーザーが楽しんでくれればそれはそれでアリじゃないかな、と個人的に思ったり。



 店の人は、@taguchi氏がネット上の有名人であることを知ってをり、それをきっかけにして話がはずんで場が和んだとのこと。しかし、この時もし、店員が@taguchi氏のことを知らず、話も弾まずに、@taguchi氏の機嫌を損ねてしまったとしたら。その時はどうなるのか。@taguchi氏が店員に対し悪い印象を持ち、ブログに「お店は品揃へも充実してゐたし、それなりに良いお店だったのですが、店員がちょっと不愛想で態度が悪い感じでした」などと書いたら、どうなるのか。
 店側の条件は、ツイッターで店のことについて呟くこと、といふ条件だけなので、その後、ブログなどにどのやうなことを書かうが@taguchi氏の勝手である。
 もちろん、人気ブログで「店員の態度が悪かった」などと書かれたら、店側にとっては大打撃である。しかし、多少大袈裟に言ふならば、店の運命が、@taguchi氏がブログにどのやうに書くか、といふアルファブロガー一人の裁量に委ねられてゐる、といふ状態になってゐるわけで、これはとても怖いことだと思ふのである。


・グーグルの「ページランク」からソーシャルメディアの「パーソンランク」へ

 グーグルはページランクと呼ばれる有名なアルゴリズムを作った。詳細は秘密とされてゐるが、大きな要素は次の3つのやうなものであらう。

 1.質の良いページはページランクが高い。(スパム排除のため)
 2.多くのページからリンクされてゐるほどページランクが高い。
 3.ページランクが高いページからリンクされるとページランクが高まる。

 実際にはこんな単純ではなく、スパムとの長い挌闘の末、今では相当複雑なアルゴリズムになってゐるはずだが、上記に掲げたのは基本的な価値基準である。

 グーグルが生み出したページランクの思想は、ウェブページをノードとしたものだった。私は、これがソーシャルネットワークの時代になって、ノードがウェブページから人に置き換はるのではないかと危惧してゐるのである。
 こんなことは誰でも思ひつきさうなことである。ツイッターを使ってゐて、フォロワー数が多い人はなんとなく自分より格上のやうな気がしたことのある人は多いだらう。
 ソーシャルメディアでは、基本的にウェブページではなく、「人」をノードとして世界が繋がってゐる。それも多くの人が気付いてゐることだ。だとすれば、グーグルのページランクの思想における「ウェブページ」をそのまゝ「人」に置き換へた、言はば「パーソンランク」とでも言ふべきものを誰かが作らうとしてもをかしくはない。

 上記のページランクの3つの価値基準をツイッターで置き換へるならば、こんな感じだ。

 1.オリジナリティのある(RTやコピペやbotでない)ツイートをしている人はパーソンランクが高い。
 2.フォロワー数が多い人ほどパーソンランクが高い。(フォロー数に対するフォロワー数の比率も考慮)
 3.パーソンランクが高い人からフォローされるとその人のパーソンランクは高まる。

 実際、フェイスブックは「エッジランク」といふページランクとパーソンランクの中間のやうなアルゴリズムを作った。
 グーグルやフェイスブックのやうな厖大なソーシャルグラフのデータを持ってゐる企業なら、そんなものはすぐに簡単に作れさうな気がする。実際、もう作ってゐるのかもしれないが、人をランク付けするといふことに対する世間からのバッシングを怖れて公表できないかもしれない。自社サービスのブランド力の失墜はグーグルもフェイスブックも避けたいだらうから。
 しかし、失ふものが何も無いスタートアップ企業なら、それができてしまふかもしれない。私は2011年の初め頃に、Q&AサイトのQuoraが「ピープルランク」とも言ふべきアルゴリズムを開発中である、といふ噂話を耳にした。噂だから本当かどうか全然判らないが。
 Quoraのピープルランクは、Quoraのサイト内だけで適用される指標だからまだよい。もっと大規模に私たちの日常社会にまで浸透してくるほどの巨大なパーソンランクのシステムが敷衍化してきた時に私たちの生活はいったいどうなってしまふのだらうか。


・ARとパーソンランク

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 今でも忘れられない光景がある。2009年の春、私は秋葉原に寄った時に、ふとスマートフォンを空中に翳してみた。すると、空中に「姉ヶ崎」「姉ヶ崎」「姉ヶ崎」といふタグがいっぱい浮かんでゐた。ゲームやアニメにまったく詳しくない私は「姉ヶ崎」といふのが何のことか分からず、おそらく地名だらう、姉ヶ崎といふ街から上京して来た人が記念に自分の街の名前をタギングしていったのだらう、と思ってゐた。

 パーソンランクの思想と、私が秋葉原の空で見た拡張現実の世界が一緒になったら、いったいどういふことになるのか。それはおそらく、アニメ「ドラゴンボール」のやうな世界になるのではないか。これは、考へたことのある人も多いだらう。

 「ドラゴンボール」の中では、「スカウター」と呼ばれるコンピューター付きの眼鏡のやうな機械が登場する。その眼鏡をかけると、相手の戦闘力が数値として表される仕組みになってゐる。
 今あるAR(拡張現実)の技術とパーソンランクのアルゴリズムを組み合はせれば、このやうな機械を作ることはそんなに難しいことではないだらう。

 スカウターを身につけた客が店内に入って来る。客のスカウターにはパーソナルに最適化された商品がレコメンドされる。他店との比較情報ももちろん流れてくる。そしてその店が自分が買ひ物をするに相応しい店かどうかを瞬時に判断する。
 一方、店員の側もスカウターを身につけてゐて、今入って来た客のパーソンランク、過去の購買履歴、その人の行動パターンや商品の嗜好、また一回の買ひ物で平均どれくらゐの金を使ふのか、などの情報がスカウターに表示される。
 さうした多様な情報を元にした、言はば、静かな「バトル」のやうなものが繰り広げられるかもしれない。

 そして、こゝからが重要なところだが、このバトルに最終的に勝つのは、パーソンランクが高い方だ、といふことだ。パーソンランクが高い方のスカウターに、より多くの情報が流れ、また上質かつ制度の高い情報が表示されるからだ。
 さらに、パーソンランクが高い人の最大の強みは、なんと言っても影響力である。店に訪れたのは自分一人だが、自分の背後には25万人のフォロワーが控へてゐるのである。

 こゝから、さらに心配すべき事柄が出てくる。それは、パーソンランクによる人間差別の問題だ。パーソンランク25万の客が入って来たら、店員はビビるだらう。そして丁寧な接客に努めるだらう。しかしパーソンランクが低い客が入って来たら、どうせ影響力がないのだから雑な対応でもよいと考へる店員が出てくるかもしれない。


・パーソンランクとセルフブランディング

 2012年はどのやうな年になるだらう、と考へた時に、例へば危惧されるのは、就職活動の問題だ。

 「ソー活」といふ言葉を聞いたことがある。「ソーシャルメディアを使った就職活動」といふ意味ださうだ。これは2012年以降、ますます主流になっていくであらうことは間違ひないと思はれる。その時、学生たちが使ふソーシャルメディアがフェイスブックなのかLinkedInなのか、はたまた他のメディアなのかは知らない。
 こゝで、私はまた、今年2011年頃から嫌な言葉を耳にしてゐる。それは「セルフブランディング」とか「パーソナルブランディング」とかいふ言葉だ。この言葉の意味は説明しなくてもだいたい見当がつくだらう。
 で、セルフブランディングで自己をブランド化していく際に、もっとも重要となる中心的要素は何だらうかと考へてみる。それはもちろん、自分のページを華やかに色取り取りに飾ったりすることではない。採用する側がもっとも重視するであらうポイント、それはやはり、その人物のフォロワー数などの要素、すなはちその人のパーソンランクであらう。
 といふことは、学生たちが「ソー活」に取り組む際、もっとも力を入れるべきことは、自らのパーソンランクを上げること、といふことになる。そしてパーソンランクを上げる、といふのは本質的に、多くの人と繋がる、といふことに他ならない。
 そこでまた、一つの心配事が出てくる。


・よみがへるコネ社会

 昔は、顔の広い「地元の名士」と呼ばれるやうな人に頭を下げなければ、その街の中では何もできなかった。所謂、顔が広い、多くのコネクションを持った人が強かったのだ。しかし日本では、とうにそんな時代は過ぎ去り、今では人間一人ひとりの「個」が輝く時代になってゐるはずだった。
 だが、今ふたたび「コネ社会」がよみがへらうとしてゐる。パーソンランクの時代にあっては、何よりも「コネクション」の多さや強さが重視されるからだ。

 かつては、インターネットの登場により、引き篭もりであっても、目の前にネットに繋がったパソコンさへあれば、自分一人の力で十分、社会と渡り合っていける、と思はれてゐた。しかしこゝ数年、つくづく思ひ知らされてゐるのは、リアルで友達がいっぱいゐる人の強さだ。数年前から「リア充」といふ言葉を多く目にするやうになったのは、多くの人が「パソコン強者」や「ネット強者」よりも「リア充」の方がやっぱり強いと感じてゐるからであらう。

 私は以前、「Facebookが日本で流行らない3つの理由」といふ記事を書き、その中で「フェイスブックはリア充仕様である」と批判した。フェイスブックは、今でもすでに強いリア充の強さをさらに助長する道具でしかない。このやうな道具が広まることは、パーソンランクの格差を拡げることにしか貢献しない。


・まとめ

 私はパーソンランクの時代が来て欲しくない。でも、時代の流れはさういふ方向に向かってゐる。
 フォロワー数が多い人の方が偉い、などといふ認識は絶対に間違ってゐるし、さういふ間違った認識を起こさせやすい仕組みにも問題がある。人をランク付けしたり、人をノードとして扱ったりするのも間違ってゐる。そこからさまざまな弊害が生ずるであらうことも予想できる。一番まっさきに思ひつくのは「差別」だ。そしてその偏見から生じる「いぢめ」とか、今まで知られてきた社会問題がさらに増幅される方向に向かふのではないかと怖れてゐる。

 今のところ、私が考へてゐる唯一の抵抗は、せめて、それが表に出てこないやうにすることだ。「パーソンランク」といふ名前かどういふ名前が与へられるかわからないが、そのやうなアルゴリズムは必ず誰かによって作られてしまふだらう。
 でも、それはせめて、人々の目に見えない裏方で動いてほしい。表面化しないやうに。特に数字(数値)といふ形で人々に分かりやすいUIで人々の目に届くことがないやうに。そこはぎりぎり食ひ止めたい。
 誰かが決めた価値基準に基づいた人間評価が数字といふ極めて分かりやすい形で目の前に表示されたしまった時、「そんなものに惑はされないで、私は生きる!」と宣言できるほど、人間は強くも賢くもないからだ。
 人間が巨大なアルゴリズムに飲み込まれてしまはぬやうに。
 私たちはもっと多くの人間が輝く優れた仕組みを作れるはずなのだ。

Facebook批判 -ザッカーバーグ27歳の誕生日を言祝ぐ-

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 2007年だったか2008年頃に、私が初めてFacebookを知ったときの印象は決して良いものではなかった。

 Googleが、登場した当初からいきなりクールで評判が良かったのとは対照的に、Facebookは全然クールではなかったし、評判も良くなかった。当時の私のFacebookに対して抱いてゐたイメージは、「MySpaceの次席」。しかも日本では2004年からmixiといふSNSがあったので、「なぜ今さらSNS?」といふ印象も拭へなかった。

 しかし今や全世界におけるFacebookのユーザー数、約6億人。日本国内でも300万人を超えてゐると言はれてゐる。もちろん世界最大のSNSであり、SNSどころかすべてのウェブサイトの中で最もアクセス数の多いウェブサイトになった。
 
 これだけの大きな影響力は看過できない。今までもこのブログで何回かFacebookや、その創設者であるマーク・ザッカーバーグを批判してきたが、今日あらためて批判を認めておかう。


・Google vs. Facebook

 GoogleとFacebookの対決の構図といふのは、今でこそ多くの人に知れ渡ってゐるが、2008年当時はそこまで鮮明ではなかった。少なくとも私は分かってゐなかった。

 2008年の3月13日に、私は「「オープン化」を進めるグーグル」といふ記事を書いてゐる。その記事の中でFacebookとGoogleの距離感について次のやうに書いてゐた。

Googleが進めてゐる「OpenSocial」とは、SNS向けのAPIであり、SNSの新たなプラットフォームになることを目指してゐるものだ。この計画が進めば、このAPIを使つた新たなソフトウェアが生まれ、例へば今まで各SNSごとにバラバラだつた友人・知人を横断的に繋げたり検索できたりするやうになる。
 上記記事には書かれてゐないが、米Friendsterや日本のmixiも対応を表明してゐるやうだ。大手どころで参入を表明してゐないのはどうやらFacebookだけらしい。Facebookがなぜ静観してゐるのか実際の理由は知らないが、もしGoogleのオープン化に対抗する気概があるのだつたら、それはそれで応援したい気持ちになる。



 「Facebookの気概を応援したい」などと書いてゐるが、それは当時の時点で、Facebookごときが巨人Googleに敵ひっこない、と思ってゐたからだ。
 実際、私はFacebookのCEOは賢明ではないと思ってゐた。2008年当時、すでに色褪せて古色蒼然としたMicrosoftに距離を置くならともかく、ネット・ITの世界で最もクールな企業であるGoogleに対して距離を取るのは成長戦略的にも賢くないと思ってゐた。
 しかし、今ならはっきりと分かる。ザッカーバーグは初めからGoogleを追ひ抜く、あるいは打倒するつもりだったのだ。Googleにすり寄って内包されて育ててもらって、Googleの「良く出来た子ども」になるつもりは毛頭なかったのだ。

 「オープン」化をすすめるGoogleとは対照的に、Facebookはどこまでも「クローズド」だといふ印象だった。これもまた私は賢明ではないと思ってゐた。「オープン化」はウェブ2.0から続くネットの世界の重要な潮流の一つで、その流れに疑義を挟む人は少なかったし、何よりオープンにするからこそ、世界標準のプラットフォームを形作れると思ってゐたからだ。
 しかしザッカーバーグがさうした意味での「オープン」の重要性を理解してゐなかったわけではないことは、最近のFacebookの「オープングラフ」の動きを見れば分かる。要は「Google主導なのが気に喰はない」といふことだったのだ。


・オープンなGoogle、クローズドなFacebook

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 私の頭の中では上図のやうなイメージだ。真ん中の線で左右に分かれてゐる。

 Googleは、ウェブの申し子、ウェブの良き理解者であり優秀な具現者、体現者であった。有名なページランクの思想を武器に広大なウェブの世界を整理した。

 一方のFacebookだが、ザッカーバーグにもし憧れの人がゐるとすれば、それはラリー・ペイジでもスティーブ・ジョブズでもなくて、ビル・ゲイツなのではないだらうか。
 私は上図の右の流れを「壟断型」と言ってゐる。クローズドで独占的な支配を目指してゐる。


・ザッカーバーグはネットの中のどこに世界を作ったのか
 
 Googleはウェブの「良く出来たこども」だった。ほんの数年前なら「Google=ウェブ」と言ひ切っても差し支へなかった。実際、「Google検索にヒットしないウェブページはこの世に存在しないも同じ」と言はれてゐた。
 インターネットの中にありながらGoogleに内包されてゐない世界を私は思ひ描けてゐなかった。だが、ザッカーバーグははっきりとその世界を思ひ描いてゐた。

 2010年11月にサンフランシスコで開かれた「ウェブ2.0サミット」で、ザッカーバーグが「ウェブの世界の勢力地図はゼロサムゲームではない」と言ってゐたのが深く印象に残ってゐる。(マーク・ザッカーバーグ・インタビュー:「ゼロサムゲームではないことを忘れてはならない」(ビデオ) TechCrunch Japan

皆さんは間違ってます。この地図でいちばん大きな部分は「未知の領域」と記されるべきです。この地図ではゼロサムゲームに見える。しかし実際はそうではない。われわれは価値を他の誰かから取り上げているんではありません。われわれは価値を新しく創り出しているんです。


 今こゝに、「ウェブ」といふ名の一つの部屋があったと想像しよう。床には各種ウェブサービスが隙間なくびっしりと敷き詰められてゐる。それを見て、普通だったら「この部屋には、後発の私たちがサービスを展開できる余地はもう残されてゐない」と諦めるだらう。だが、ザッカーバーグは違ふところに目をつけた。「空中がある」。床から天井までがウェブ空間である。だとすれば、床の上空(空中)が空いてるではないか。空中の空きスペースを利用すればサービスを展開できる。
 私にはさう思へる。ザッカーバーグは言はば、「もう一つのウェブ」の世界を作ってしまったのだ。

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 しかし、FacebookはGoogleとは距離を置きながらも、ちゃっかしウェブの中にはゐる。スティーブ・ジョブズの「Ping」はウェブの外に世界を作らうとしてうまく行かなかった。こゝら辺もザッカーバーグの抜け目のないところだ。


・Facebookの3つの問題点
 
 今や世界のインフラと化したFacebookは、人間関係のあり方、あるいは私たちのライフスタイルを劇的に変へる。

 これだけ利用者数が増え大きな影響力を持つに至ったら、当然、問題点もいろいろ出てくる。

 Facebookにはいくつもの問題があると私は思ってゐるが、私が特に注意してゐるのは、以下の3つの問題点だ。

・プライバシーの問題
・アイデンティティの問題
・ネットワーク構造の問題


・プライバシーの問題

 プライバシーの問題については、すでに米国などでもさんざん批判されてゐるので、特にこゝでは書かないけれども、Facebook Placesなどの位置情報サービスが犯罪に悪用される危険性などはもっと考慮した方がいいだらう。今はまださうした犯罪が少ないのは、米国の10代の子どもたちの間でさへ、位置情報サービスの認知度がまだ低いことが理由の一つにあげられるだらう。(10代の位置情報サービスの認知度、Facebook Placesですら半数を下回る TechWave.jp


・アイデンティティの問題

 今まではネットの世界では、多重人格(複数アカウント)や匿名性が認められてきたが、Facebookの世界ではそれらは認められない。唯一無二の自分しか認められないのだ。
 この苛斂誅求に自己同一性を求められる世界では、どのやうな問題が起こるのか。
 その世界ではおそらく、若き日の過ちを忘却の彼方へと消し去ることができない。そして、卑近な例で言へば、たとへば「大学デビュー」などは今までよりもずっと難しくなるだらう。複数のネットワークに絡め取られ「キャラの固定化」を要求される。しかし、家族、親戚、中学時代の友人、高校時代の友人、職場の同僚など、異なるグループの人たちに対して、常に「一つの自分」を見せることが可能だらうか。人は誰しも「隠れた顔」を持つのが普通ではないだらうか。
 どっちの方面に顔向けしても恥づかしくない、と言ひ切れるほど強い自信を持った人間はさうさうゐるものではない。


・ネットワーク構造の問題

 しかしながら、私がFacebook批判をするとき、一番問題にしたいのはプライバシーの問題でもアイデンティティの問題でもない。一番問題だと思ってゐるのは、Facebookのネットワークの在り方の問題だ。

 ウェブが嫌ひだった。
 Googleがそのウェブの世界を整理してみせたときに用ゐたのが、「ページランク」と呼ばれる思想だった。長く果てしないSEO業者との争ひの中で、Googleの検索アルゴリズムはいろいろと変遷してきたが、基本的には次の2つの要素が今も重要であらう。すなはち、

1.被リンクの数が多いこと
2.質の高いウェブページからリンクされてゐること

 「質が高い」といふのは「ページランクが高い」といふことだ。ページランクが高いページからリンクされれば、そのページのページランクも上がる。
 ウェブは、そのネットワークの生成過程において、多くの被リンクを集めページランクが高いページほどますますたくさんのリンクを獲得し、ますますページランクが上がる、といふ構造に成ってゐる。「貴族主義的ネットワーク」(マーク・ブキャナン)とも呼ばれたかうしたネットワークを「スケールフリー・ネットワーク」と言ふ。

 ザッカーバーグはFacebookといふ名の「もう一つのウェブ」を作ったはずだった。しかし、そのFacebookもまた私にはウェブと同じスケールフリー・ネットワークに思へるのだ。
 スケールフリー・ネットワークの特徴は簡単に言ふと、「金持ちほどますます金持ちに」といふことである。
 私は以前、このブログで、Facebookがリア充主義であることを批判した。(Facebookが日本で流行らない3つの理由(2011/01/11))Facebookはフレンド(友達)が多いほど楽しめる。所謂、「顔が広い」人は、友達の友達、友達の友達の友達、といふ具合にどんどんソーシャルネットワークが拡がって行く。一方で友達が一人もゐない人は、ソーシャルネットワーキングサービスに登録したはずなのに、そのソーシャルネットワークはまったく拡がって行かない。
 友達が多い人はFacebookを使ふことでそのソーシャルネットワークがどんどん豊穣になり、自然とレベルの高い人も集まってくる。ますます知り合ひは増える。ちゃうど、ページランクの高いウェブページが放っておいても質の高いリンクを獲得できるやうに。
 さう、私にはFacebookは、ウェブがウェブページをノード(単位)としてゐたものを、人に置き換へただけのものと見えるのだ。


・結び

 私はウェブが嫌ひだった。
 そして、もう一つの世界として現れたはずのFacebookもまた好きになれなかった。 

 「スケールフリー」は「格差社会」にコミットしてゐる。相性が良い、と言ってもいい。スケールフリーとは、標準的なスケールがないといふことだから、当然と言へば当然のことかもしれない。
 格差社会を助長するやうな構造が好きになれない。

 私がなぜこゝまでFacebookを批判するのか。
 それは、ザッカーバーグほどの透徹した眼を持った天才なら、新しい世界を作るときにもっと理想的な(と私が考へてゐる)在り方の世界を作ることができたはずだといふ思ひがあるからだ。
 Facebookは私の理想とはほど遠い。FacebookがSNSの最終型であるとは思はない。今後新しく生まれてくるSNSは根本的にネットワークの在り方を見直す必要があるだらう。

 Facebookはバッドデザインな駄作である。
 もちろん、金儲けといふ観点から見るならば成功作だらう。Facebookが保持してゐる厖大なソーシャルグラフのデータは「金の成る木」だ。Googleとの熾烈なデータ争奪戦争に勝つことができれば、Facebookは幸せになるだらう。だが、Facebookが幸せであるといふことと、全世界のFacebookの利用者が幸せであるといふこととは別のことである。


 マーク・ザッカーバーグ、27歳の誕生日おめでたう。



【Facebook関連の記事】

Evernoteが使いにくい

 Evernoteが使ひにくい。

 Evernoteは保存には優れてゐるが、テキストエディタとしては今のところまったく役に立たない。

 私は、Windows版のEvernote×GoogleIMEの組み合はせで使ってゐるが、


evernote01.png



 ノートに文字を入力して変換しようとすると、文字入力の場所の上に変換候補ウィンドウがかぶって入力中の文字が見えなかったり、
 


evernote03.png

  

 ノートの右側の方で「へんかん」と入力し変換キーを押すと、ずっと左の方に候補ウィンドウが表示されたり、もう一回変換キーを押すと今度は・・・、


evernote02.png


 ↑のやうに、入力中の文字の場所とはるかに離れたところに候補ウィンドウが表示されたりする。

 何なんだらう、これは。きはめて使ひづらい。ほかにも勝手に左寄せが選択されたり、勝手に太字になったり、と不審な挙動を見せる。いろいろ細かいUIがをかしいのだ。こんな滅茶苦茶なUIのものを多くの人が皆不満を言ふこともなく使ってゐるのだらうか。

 ウェブ版も使ってみたが、何も触ってないのに、急に文字全体が6行分ぐらゐ下がったりするをかしな動きが1分に1回くらゐの割合で起こる。

 このやうなをかしな症状が現れるのは私だけなのだらうか。

 これはMicrosoft Wordに匹敵する使ひ勝手の悪さだ。なんでこんなに使ひ勝手が悪いのか。このまゝUIが改善されなければ有料版を使はうと思ふ人は少ないのではないか。

 別に至高の使ひ勝手を求めてゐるわけではない。Windows標準のメモ帳を使ふときのやうなシンプルで普通の使ひ勝手が欲しいだけだ。

 それともEvernoteにテキストエディタとしての期待を抱くのは間違ってゐるのだらうか。

 複数の異なるデバイスから同期する仕組みとか、ウェブページを手軽にクリップする仕組みなど、Evernoteには優れた点がいっぱいある。特にデータの保存といふ観点からは、とても優れたアプリだと言へる。
 それだけに細かなUIがお粗末なのが惜しいと思ふ。

 今後、改善されるのを期待して待たう。

本関係のウェブサービスが使えない

 本関係のサービスがウェブ上にいろいろあるのだが、使へないものが多い。

 なぜ使へないかと言へば、本関係の多くのサービスが、Amazonをデータベースとして利用してゐるからだ。

 例へば、「ブクログ」といふサービスがある。これはウェブ上に本棚を作ることができるサービスで、ブログパーツなどを利用すれば、自分のブログにお気に入りの本を本屋さんの本棚のやうに陳列して見せることができる。
 だが私はこのサービスを使ふ気にならない。私が普段読む本は、大抵、Amazonには売つてないからだ。試しにブクログでいくつかのお気に入りの本を検索してみたが、案の定、「No image(画像なし)」のオンパレード。これでは本棚として表紙を並べて見せる意味がない。

 「メディアマーカー」といふサービスも、読書の記録・管理・共有ができるウェブサービスとして大変人気があるが、残念ながらこゝもAmazonをデータベースとして利用してゐる。

 また最近では、「カーリル | 日本最大の図書館蔵書検索サイト」などといふサービスも登場して人気を博してゐるやうだ。私も使つてみたが、こゝもやはりAmazonをデータベースに使つており「図書館にない本でも見つけることができる」と謳つてゐるが、私の好きな本はいくら検索しても一冊も見つけることはできなかつた。
 大体、私が読みたいやうな本は街の図書館には置いてない。「私の街の」といふことではなく、区立図書館レベルの図書館には置いてないのだ。都立図書館にも置いてあるかどうか。国立図書館に行けば間違ひなく置いてあるだらうが、国立図書館は利用しにくい。だから私は図書館は昔から大学図書館を利用してゐる。大学図書館に行けば、私の読みたいやうな本も大概置いてある。

 ウェブ上の本関係のサービスがAmazonをデータベースとして利用するかぎり、私のやうな「読みたい本がAmazonにはない」といふ人間は面白くない。何とかならないものだらうか。
 例へば、国立情報学研究所の「Webcat」などをデータベースとして使用してくれれば、私のやうな者でも読みたい本を見つけ出すことができるだらう。たゞ、Webcatは営利目的の利用が禁止されてゐる。

 となると、これからは「Googleブックス」が本関係のデータベースの標準となつていくのだらうか。

 AmazonやGoogleなどの米国企業に依存しない日本独自の本のデータベースがあつてもいいと思ふのだが。



(追記)
 「読書メーター」なんてサービスも人気があるやうだが、やはりAmazonをデータベースに使つてゐて、今、私が読みたい本を何冊か検索してみたら、「画像がありません」だらけ。私も自分のウェブ本棚作つてみたい。誰かAmazonぢやないデータベースを使つてサービス作つてくれないかなあ。