暫定龍吟録

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カテゴリー "東日本大震災関連" の記事

復興ソングとしての斎太郎節 -東日本大震災から3カ月-

 今日6月11日で、あの東日本大震災から3カ月が経った。

 今日の毎日新聞は、「依然として8095人(10日現在)が行方不明のままで、今も捜索が続く異例の事態になっている」と伝えている。

 復興の道のりは重く険しい。急ピッチで進んでいるとも言えるし、遅々として進まないとも言える。どこの側面を見て「復興」と言うか、また、それぞれの人がおかれた立場によっても感じ方は違ってくるだろう。

 こうした劇甚なる大災害から立ち直るときに、歌を歌うことで、明るさを取り戻したり勇気を奮い立たせたりすることがある。もちろん、歌を歌ったところで、被災者の経済面や生活面の困窮が解決されるわけではない。日本の経済が上向きになるわけでもない。被災者の心の傷にしたって、歌ぐらいでそんなに簡単に癒えるものではない。しかし、歌はショックを受けて暗く沈みがちな心に小さなあかりを灯すものであると私は思う。

 今回の震災でも、3月からのこの3カ月の間に、さまざまな復興ソングが歌われてきた。多くの歌手たちが自発的に復興のための歌を作って歌った。
 今回、日本国民にもっとも復興ソングとして認識されたのは坂本九の「上を向いて歩こう」だろう。テレビCMを初め、たくさんのところで歌われた。歌詞が復興のための歌としてぴったりなのだ。
 その他にも、「そうだ!うれしいんだ生きるよろこび。たとえ、胸の傷がいたんでも」という歌詞で始まる「アンパンマンのマーチ」などが復興ソングとしてクローズアップされた。やはり歌詞がマッチしているからだろう。

 私は、ここにもう一つ復興ソングを掲げたい。
 宮城県民謡「斎太郎節」である。
 斎太郎節は、東北地方の特に三陸地方に広く伝わる大漁歌であり、それは今回の地震と津波で大きな被害にあった地域とほぼ重なっている。

【斎太郎節(さいたらぶし)】
宮城県松島湾沿岸一円の民謡。同地方でカツオ漁の大漁祝い唄(うた)として歌われてきたもので、その源流は岩手県陸前高田市気仙町周辺の木遣唄(きやりうた)『気仙坂』である。それが、重い物を移動する唄として、また神に捧(ささ)げる祝い唄としての双方の性格から東北地方一円に広まったおり、三陸沿岸一円の漁村にも伝えられた。そして『サイドヤラ』とか『サイタラ節』とよばれていたものに『斎太郎節』の文字をあてた。この『斎太郎節』は1925年(大正14)宮城県桃生(ものう)郡東名(とうな)(東松島(ひがしまつしま)市)の斎藤清次郎によって、のど自慢の会で紹介され、それを聞いた後藤桃水が弟子の八木寿水に節回しを整理させ、自ら歌詞を補作、今日の形に整えて発表、以来海の代表曲として広まった。

『小学館日本大百科全書』



 小学館日本大百科全書では、斎太郎節の源流を「岩手県陸前高田市気仙町周辺の木遣唄(きやりうた)『気仙坂』である」としている。東日本大震災では陸前高田市が大きな被害を被ったのは知っての通りである。そして三陸沿岸一円に伝わった。地域的な重なりという点から見ても、これほど復興ソングに相応しい歌は他にない、と考える。
 斎太郎節は大漁歌だけあって力強い。私はこの歌を聞いていると自らの中に力が漲ってくるのを感じる。
 以下の動画は、合唱用にアレンジされたものである。

(大人数バージョン)



(超高速バージョン)


松島の サーヨー 
瑞巌寺ほどの 寺もないとエー
アレハエーエ エイトソーリャ大漁だエー

前は海 サーヨー 
後は山で 小松原とエー
アレハエーエ エイトソーリャ大漁だエー

石巻 その名も高い 日和山トエー
西東 松島 遠島 目の下に



 上の歌詞を見てもわかるように、この歌には、今回の震災の被災地がその歌詞の中に入っている。
 国宝・瑞巌寺は、松島の対岸にある有名な寺で、今回の震災で被害を受けたが崩壊は免れたと聞く。松島が緩衝材になり津波の威力を和らげたために瑞巌寺を初めとする松島町は被害が少なかったのだという話も聞いた。地元の人たちは、それを知ってか知らでか、3月11日のあの日、「津波が来るから瑞巌寺へ行け!」と叫んでいたそうだ。(参考ブログ:2011.03.11. 松島海岸周辺→瑞巌寺

 石巻がどれだけひどい被害にあったかについては、もう言うまでもないだろう。3月11日以来、ニュースでもたびたび取り上げられている。そしてその石巻市には「日和山」という名の山がある。歌詞中で「その名も高い」と歌われているのは、その昔、松尾芭蕉が立ち寄ったからである。日和山については、以前このブログで詳しく書いたので、そちらの記事をご一読いただきたい。(祈りの日和山 -東日本大震災から2カ月-

 東北の魂の歌、斎太郎節。
 三陸地方の人たちにとってのソウルソングとも言うべき歌、斎太郎節。

 今こそ、全国の大学のグリークラブは「斎太郎節」を歌うべきだろう。アマチュアの合唱団だからこそ、ボランティアとして、被災地にそして日本全国に元気をおくることができるだろう。



(追記2012/3/11)
 慶應志木高校と早稲田大学グリークラブが歌っているものがアップされていました。

(慶應義塾志木高校バージョン)



(早稲田大学グリークラブバージョン)




【東日本大震災関連の記事】

祈りの日和山 -東日本大震災から2カ月-

 今日5月11日で、東日本大震災から2カ月になる。

 今日の河北新報が伝えるところによれば、5月10日時点で、死者・行方不明者の数は約2万4千人超、避難生活を送っている人は12万人近くにのぼるという。

 私はこの2カ月間、ずっと震災のことを考えていた。あの日3月11日に一瞬にして津波に飲まれていった人たちのこと、今なお行方不明の人たちのこと、そして辛くも生き延びたけれど家族や友人を失ったり、家を流されてしまって避難生活を余儀なくされている人たちのこと。

 私は東北地方についていろいろ調べているうちに、「日和山(ひよりやま)」という山が存在することを知った。その山は海岸沿いの川の河口付近に立っており、あの日巨大津波に襲われた付近の住民たちは一斉に高台である日和山を目指したと思われる。

 「日和山」という名前は、漁に出るときに、そこに登って天候を見極めるところから、その名がついている。
 調べてみると、「日和山」という名前の山は全国にいくつもあることがわかった。そして3月11日の大震災で、特に宮城県内にある3つの日和山が、甚大な被害を被った。


・3つの日和山

 宮城県内には、日和山と呼ばれる山が少なくとも3つある。

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(クリックで拡大)

 上記は、宮城県の地図で、一番南にあるのが名取市閖上(ゆりあげ)地区にある日和山。真ん中が仙台市宮城野区蒲生地区にある日和山。そして一番北にあるのが石巻市の日和山である。何れも川の河口付近に立っている低山であるという共通点がある。


・名取市閖上の日和山

 名取市閖上地区は、津波によってほぼ全滅と言っていい被害を受けた。この動画を見ていただければ、その惨状のひどさがわかるだろう。



 ここの日和山は、元々大正時代に人工的に作られた小山で、山と言うよりは高台に近いようだ。津波をもろに被り、頂上にあった富士主姫神社は消滅したとも聞く。
 この日和山で5月8日には、「鎮魂と連帯の響き」と題するコンサートが開かれた。そして河北新報が伝えるところによれば、山の上には、「一人じゃない」「みんなで手を取って」などと書かれた標柱が幾つも立ち並んでいるという。名取市閖上地区の住民にとって、日和山はまさに祈りの山になっているのである。


・仙台市宮城野区蒲生の日和山

 宮城野区蒲生地区もまた、壊滅的な被害を受けた。

 ここの日和山は明治時代に人工的に作られた標高6mほどの小山で、「元日本一低い山」だった。ここの日和山は今回の地震で完全に消滅してしまったそうだ。
 山がなくなってしまった跡地から撮った写真がこちらのブログに載せられている。被害のひどさをうかがい知ることができる。

旅→日和山 仙台市宮城野区蒲生 - みなとまち新潟 日和山 五合目から - Yahoo!ブログ


・石巻の日和山

 石巻という地名は、今回の震災で何回もニュースで聞いた人も多いだろう。かなり早い段階から被害の大きさが伝えられていた街だ。この石巻市の旧北上川の河口付近に、日和山がある。

 三陸地方の大漁歌「斎太郎節」で、「その名も高い日和山」と歌われているのは、この石巻の日和山である。なぜ「その名も高い」のかと言うと、江戸時代に松尾芭蕉が立ち寄ったことで有名になった。

 ここの日和山は、標高は約60mくらいあり、3つの日和山の中では、唯一、山らしい山と言える。津波は、この日和山は飲み込まなかった。
 そして実際、この山に逃げてきた人たちは助かった。だが、助かったのは日和山の上だけ。下の世界は瓦礫の山と化した廃墟だった。





・祈りの日和山

 5月3日、朝日新聞がこんなニュースを伝えていた。

「5・1 日和山(ひよりやま)お花見プロジェクト」。こう銘打った花見の会が1日、宮城県石巻市の桜の名所・日和山公園で催された。同市出身の東京の団体職員、雁部智博さん(31)が「前を向いて歩き出すきっかけに」とブログなどで呼びかけ、各地から延べ約200人が集まった。


 多くの石巻市民にとって、日和山は祈りと復興の象徴のような存在になっているのだろう。
 3つのそれぞれの日和山、またはその跡地が、鎮魂の祈りを捧げる場になっている。

 「日和」とは、本来、海上の天気や空模様を意味する言葉だが、「よい天候」という意味もある。よく聞くことわざの「待てば海路の日和あり」とは、まさに良い天候の意味である。

 復興には長い時間がかかる。だが今はまだ苦しい渦中にあるかもしれない被災者の人たちが、いつか「良い日和」に出会えるであろうことを私は信じている。

余震はいつまで続くのか -『方丈記』に見る元暦地震-

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又同じころかとよ、おびたゝしく大地震振ること侍りき。そのさま、世の常ならず。山は崩れて河を埋み、海は傾きて陸地をひたせり。土さけて水わきいで、巌われて谷にまろびいる。渚漕ぐ船は波にたゞよひ、道ゆく馬は足の立ちどをまどはす。都のほとりには、在々所々、堂舎塔廟、ひとつとして全からず。或は崩れ、或は倒れぬ。塵灰立ち上りて、盛りなる煙の如し。地の動き、家の破るゝ音、雷にことならず。家の内にをれば、忽ちにひしげなんとす。走り出づれば、地われさく。羽なければ、空をも飛ぶべからず。竜ならばや、雲にも乗らむ。恐れのなかに恐るべかりけるは、只地震なりけりとこそ覚え侍りしか。(鴨長明『方丈記』)

(意訳)
元暦二年(1185年)ごろだったと思うが、大地震があった。その様子は尋常じゃなかった。山は崩れて川を埋め、海は傾いて陸地に浸水した。地面は裂けて水が湧き出し、岩は谷に転げ落ちた。船は波間に漂流し、馬は足場を失った。都のあちこちで、仏塔など一つとして無事ではなかった。あるものは崩れ、あるものは倒れていた。塵が立ち上って煙のようだった。震動、家の壊れる音は、雷のようだった。家の中にいれば、たちまち下敷きになってしまう。かと言って外に走りだせば、地面が割れている。羽がないので空を飛ぶこともできない。竜だったら雲にも乗って逃げるだろうが。恐ろしいものの中でとりわけ恐ろしいのは、地震なのだと思った。



 東日本大震災から一カ月以上が経った。普通なら一カ月も経てば、「あの時の地震は」などと振り返るところだが、今回の地震はあまりにも巨大で被害が甚大すぎて、行方不明者の捜索や避難所生活、原発事故の問題も未だ現在進行形だ。
 そして何より、今回の地震の特徴は余震が多い、ということだ。3月11日からちょうど1カ月が経った4月11日にも大きな余震があり、その翌日の4月12日にも千葉県沖で大きな地震があった。東京に住んでいる私のところでは、3月11日から今日4月17日まで、体に感じる地震が1回もなかった日はニ日しかない。
 地面が不安定であるということは、心の不安を引き起こす。震度4とか5のとりわけ大きな揺れではなくて震度1か2程度の小さな揺れでも、こう頻繁に続くと嫌なものだ。私のTwitterのTLでは、多くの人が「怖い」「気持ち悪い」「いいかげんにして」と不安を口にしている。実際に生命の危険を感じるほどの揺れではないのだが、やはり地面が絶えず揺れているというのは、人間の心を不安にさせるものだ。それでなくても、テレビやインターネットで流れてくる三陸地方の悲惨な映像などを毎日たくさん見て、心の平静を失っているのだ。その疲弊して弱った心に相次ぐ余震が追い打ちをかけている。
 東京にいてさえ、これだけ不安なのだ。揺れが大きい東北地方の人はもっと不安だろう。そしてこの余震が何より応えているのは、避難所生活を送っている人たちだろう。

 最初の巨大地震があった3月11日は金曜日で、その翌土曜日と日曜日は、電車もまともに動いてないし、店は休業だらけ、コンビニ・スーパーに行っても買う物がなく、テレビをつけても地震のニュース一色、というわけで、何もすることがなく、また何も手につかなかったので、私は一心に本を読んでいた。
 その時読んでいたのが、『方丈記』だった。

 『方丈記』は、今からほぼ800年前に鴨長明(1155-1216)によって書かれた随筆文学の古典として有名だが、この中に地震に関する記述が出てくる。それが冒頭に引用した部分である。
 鴨長明が被災したこの大地震は、歴史的には「元暦の大地震」として知られている。地震について語ったこの箇所は、『平家物語』にも類似の文章がある。
 「元暦地震」とは、1185年(元暦2年)7月9日、近畿地方を襲ったマグニチュード7.4クラスの大きな地震だった。

近江・山城・大和:京都,特に白河辺の被害が大きかった. 社寺・家屋の倒潰破壊多く死多数. 宇治橋落ち,死1. 9月まで余震多く,特に8月12日の強い余震では多少の被害があった.

(『理科年表』より)

 鴨長明は、この地震を30歳の時に経験した。特に京都で被害が大きかったらしいから、京都人の鴨長明は大きな被害と衝撃を受けただろう。だからこそ、こうやって地震の様子を詳細に記しているのだ。この地震をはじめ、火事(安元三年の火災)、水害(治承四年の竜巻)、飢饉(養和の飢饉)など度重なる災難に襲われたことが、あの「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」で始まる名随筆『方丈記』執筆のきっかけになった。
 そして、この1185年元暦地震の一つの大きな特徴は、余震が多かった、ということだった。鴨長明もその点については詳しく書いている。

かくおびたゝしく振る事は、しばしにてやみにしかども、そのなごりしばしば絶えず。世の常驚くほどの地震、二三十度振らぬ日はなし。十日廿日過ぎにしかば、やうやう間遠になりて、或は四五度、二三度、若しは一日まぜ、二三日に一度など、おほかたそのなごり、三月ばかりや侍りけむ。四大種のなかに水火風は常に害をなせど、大地にいたりてはことなる変をなさず。昔斉衡のころとか、大地震振りて、東大寺の仏の御頭落ちなど、いみじき事ども侍りけれど、なほこの度にはしかずとぞ。すなはちは、人みなあぢきなき事を述べて、いさゝか心の濁りもうすらぐと見えしかど、月日重なり、年経にし後は、ことばにかけて言ひ出づる人だになし。

(意訳)
こんなに大きな揺れはしばらくしてやんだけれども、余震が絶えなかった。普通にびっくりするくらいの地震が1日に2、30回くらいあった。10日、20日ほど過ぎてようやく間隔があいてきて、1日に4、5回、2、3回、もしくは1日おき、2、3日に1回などとなって、結局、余震は3カ月ぐらい続いた。この世のものの中で、水害と火事と台風はいつも被害があるけれども、大地が揺れるなんてことはなかった。昔、斉衡時代(854-857)に大地震があって、東大寺の大仏の頭が落ちたとか聞いたことあるけれど、今回ほどの地震ではなかっただろう。その当時は、人々は皆「情けない」とか「はかない」とか言って、心の中の濁りや欲望も薄らぐように見えたけれども、年月が経って、そんなことを言う人もいなくなった。



 7月9日に起きた大地震の余震が断続的に9月頃まで続いた様子が詳しく記録されている。鴨長明が『方丈記』を書いたのは57歳の頃なので、自身が30歳の時に被災した地震、すなわち27年も前のことを驚くべき記憶力でこんなに詳しく書いているのである。もしかしたら地震があった時、余震の回数などを克明に日記につけていたのかもしれない。そして更に驚くことは、鴨長明は自分が生まれる300年も前の斉衡時代の地震について知っていたことだ。今でこそ、図書館やインターネットに過去のアーカイブが保存されていて簡単に調べることができるが、当時はそれほどの情報社会ではない。今回の東日本大震災があった時も、新聞にでも教えてもらわないかぎり、「そう言えば、300年前の江戸時代にも大きな地震があったなあ」などと思えた人はいないだろう。鴨長明はどうやって300年も前の地震を知っていたのか。古文書を調べたのか、それとも京都の街で代々、人々に言い伝えられて来た話だったのだろうか。


 元暦地震と東日本大震災、時代も違えば、場所も違うし規模も違う。今回の東日本大震災のほうが圧倒的にスケールが大きかった。地学的、地震学的には比較することはあまり意味が無いかもしれない。
 しかし、余震が多いという共通点はある。元暦地震は7月9日に最初の大きな揺れがあり、その約1カ月後の8月12日に強い余震があった。平成の東日本大震災では、3月11日に最初の大きな揺れがあり、そのちょうど1カ月後の4月11日に大きな余震があった。体に感じる揺れの間隔が少しづつあいてきている感じも似ている。余震がいつまでも続いて不安だが、もし『方丈記』を参考にするならば、私は3カ月後、つまり6月くらいには余震は収まるのではないかと思っている。科学的ではないけれども、目安を立てることで不安を和らげているのだ。ただし、もちろん今後も大きな地震に対する警戒は必要だ。

 『方丈記』から学びたいのは、地震の直後は、皆「はかない」などと言って「心の濁り」つまり欲望や執着などが薄らいでいたのに、年月が経つと皆そんなことも忘れてしまった、という鴨長明の指摘だ。
 今回の東日本大震災でも、「ウエシマ作戦」と呼ばれた「どうぞどうぞ」という譲り合いの精神や、「ヤシマ作戦」と呼ばれたみんなで協力して節電しよう、という、たくさんの互助や思いやりの精神が生まれた。こうしたせっかく生まれた美しい精神が、歳月とともに失われていってしまうのは悲しい。

 現代の私たちは、この大災害、大災難にどう向き合い、どう心持ちを持つべきなのか。800年前に書かれた書物がいろいろと教えてくれる。


【『方丈記』関連の記事】

金子みすゞとともに振り返る大震災一カ月

 振り返るのはまだ早い。行方不明者の捜索活動も、避難生活も、原発の問題も、すべて現在進行中だ。
 しかし、地震から今日でちょうど一カ月が経ったのを期に、この大震災をあらためて考えてみようと思う。


・金子みすゞと大震災

 今回、3月11日の地震の後に多くの企業がテレビのCMを自粛し、代わりにACのCMが大量に流れた。その中で使われた金子みすゞの詩が話題になった。「こだまでせうか」という詩だ。

 こだまでせうか

「遊ばう」つていふと
「遊ばう」つていふ。

「馬鹿」つていふと
「馬鹿」つていふ。

「もう遊ばない」つていふと
「遊ばない」つていふ。

さうして、あとで
さみしくなつて、

「ごめんね」つていふと
「ごめんね」つていふ。

こだまでせうか、
いいえ、誰でも。

(『さみしい王女』所収)

 金子みすゞは、大正末期から昭和初期にかけて活躍した童謡詩人。小さな命を大切にする感性の詩を数多く残した。
 この「こだまでせうか」という短い詩は、この一カ月間テレビで繰り返し流れ、日本中の多くの人が耳にした。もう全文覚えてしまった人もいるだろう。

 このCMであらためて脚光を浴びた金子みすゞだが、その作品の中に、震災のことをうたった詩がある。

 去年のけふ
 -大震記念日に-


去年のけふは今ごろは、
私は積木をしてました。
積木の城はがらがらと、
見るまに崩れて散りました。

去年のけふの、夕方は、
芝生のうへに居りました。
黒い火事雲こはいけど、
母さんお瞳がありました。

去年のけふが暮れてから、
せんのお家は焼けました。
あの日届いた洋服も、
積木の城も焼けました。

去年のけふの夜更けて、
火の色映る雲の間に、
しろい月かげ見たときも、
母さん抱いてて呉れました。

お衣もみんなあたらしい、
お家もとうに建つたけど、
あの日の母さんかへらない。
今年はさびしくなりました。

(『空のかあさま』所収)

 この「去年のけふ-大震記念日に-」という詩は、大正14年に発表されたものだが、この「大震」とは大正12年9月1日の「関東大震災」を指しているとみて間違いないだろう。
 金子みすゞは山口県の人だが、その生涯で東京に住んだことはない。関東大震災があったときも山口県下関市に住んでいた。大正時代に山口県付近で大きな地震があったという記録もない。なので、この詩は、金子みすゞ自身が被災した経験を書いたのではなく、東京で被災した子どもの気持ちになって書いた詩だろう。
 当時の人は関東大震災のことを「大震災」とか「大地震」ではなく「大震」と呼んでいたのだろうか。

 今も東北地方には、この詩で書かれたことと同じような思いをしている子どもがたくさんいるだろう。一年たったら、家は再建するかもしれないが、あの日の母さんはかえらないのだ。


・不安心理と「みんなちがって、みんないい」

 3月17日の記事にも書いたが、日本人が今回の震災後に整然と行動した、というのは、一つには「恥」の意識が規定しているのだと思う。みんなが列に並んでいるのに自分だけ並ばなかったら恥ずかしい、という思いが強く作用している。しかし日本人特有のこの「横並び」意識は、時に秩序が一気に崩壊する危険性を孕んでいると思う。逆に言えば、みんなが略奪しているのなら自分もしても恥ずかしくないだろう、ということになる。
 金子みすゞは、「私と小鳥と鈴と」という詩の中で「みんなちがつて、みんないい」という有名な言葉を残した。小鳥には小鳥の、鈴には鈴の、そして私には誰にも真似できない私のよさがある、と。
 「他の人もみんなやってるから」という動機ではなく、「私は私」として「間違ったことはしない」という信念で行動しなければ、今回のような非常時には、社会不安にたやすく押し流されてしまうだろう。そうした不安心理に駆られた人が、悪意はなかったにせよ、チェーンメールやデマを多く拡散させてしまったりもした。(震災後に飛び交ったデマについてはこちらにまとめられている。「震災後のデマ80件を分類整理して見えてきたパニック時の社会心理[絵文録ことのは]2011/04/08」)。


・小さな命へのまなざし

 金子みすゞの詩には、「おとむらひの日」、「お葬ひごつこ」、「鯨法會」、「にぎやかなお葬ひ」など、弔いに関する詩がたくさんある。人の生やあらゆる生き物の命に対する深い眼差しがあったことがわかる。彼女の代表作でもある「大漁」の中の一節「濱は祭りの/やうだけど/海のなかでは/何萬の/鰮のとむらひ/するだらう。」には、そうした視点がよく表れている。

 今日4月11日は、東日本大震災から一カ月。そして、金子みすゞの誕生日。生きていれば108歳になる。26歳の若さで夭逝した金子みすゞは、大震災をきっかけに自分の詩が人口に膾炙しているのを天国で見て、どう思っているだろうか。おそらく今回の震災で亡くなった何万もの命への「おとむらひ」をうたうのではないか。


 金子みすゞは決して暗い詩ばかり書いていたわけではない。最後に明るい詩を紹介しておこう。

 おてんとさんの唄

日本の旗は、
  おてんとさんの旗よ。
日本のこども、
  おてんとさんのこども。
こどもはうたほ、
  おてんとさんの唄を。
さくらの下で、
  かすみの底で。

日本のくにに、
こぼれる唄は、
  お舟に積んで、
  世界中へくばろ。
こぼれるほどうたほ、
  おてんとさんの唄を。
さくらのかげで、
  おてんとさんの下で。

(『空のかあさま』所収)

 戦後最大の国難と言われる今回の大震災。日本全体が辛い時で、世界中からたくさんの支援をもらっているが、むしろ日本が元気を出して国内に「こぼれる唄」を逆に「世界中へくば」るぐらいの意気込みでいきたい。
 金子みすゞが背中を押してくれている。


東京人は2011年の夏を乗り切れるか

 今日4月7日、asahi.comのニュースより。

asahi.com(朝日新聞社):家庭の節電促す「電気予報」放送 今夏、経産省が検討

東京電力管内で電力不足が予想される今夏、経済産業省が、テレビやラジオで天気予報ならぬ「電気予報」の放送を検討していることが6日、明らかになった。近く放送局と調整に入る。計画停電を避けるため、電力需要の3割を占める家庭の節電意識を徹底するよう促す。
電気予報はニュース番組などで放送される天気予報に続いて、当日や翌日の電力の需要と供給の予測を時間帯別に伝える方法を検討している。猛暑で日中に需要が高まりそうな場合、「冷房の設定温度を上げて」「使わない家電製品の電源を抜いて」といったコメントも添え、視聴者に節電をするよう注意を促す。



・初めての「節電」

 経産省からこのやうな呼びかけがなくとも、今まで水や電気をこまめに節約してゐた人はゐただらう。だが、「節水」が、ダムの貯水量が足りなくなる心配から「水がもったいない」といふ精神で行はれてゐたのに対し、「節電」は、「電気がもったいない」といふよりも、今までは「お金(電気代)がもったいない」といふ精神で行なってゐた人が多かっただらう。
 今年2011年の夏は、おそらく初めて「電気がもったいない」といふ「でんこちゃん」の精神で行はれる節電となる。


・猛暑の日に冷房を消せるか

 「電気予報」はいいアイデアだと思ふが、上記記事中、「猛暑で日中に需要が高まりそうな場合、「冷房の設定温度を上げて」」といふのは、難しいだらうと思ふ。
 日頃から節電意識が高い人は、普段から冷房の設定温度を高めに設定してゐるだらう。それなのに、今日は最高気温が35℃を超える猛暑日だ、といふ日に、いつもより更に設定温度を高くすることができるだらうか。
 逆に意識の低い人は、日頃から冷房温度を低く設定してガンガンに冷やしてゐる。最高気温28℃程度の日にガンガンにかけてる人が、最高気温35℃の日に冷房をゆるめるとは考へにくい。
 そこで考へたいのが「リアルタイム節電」だ。


・リアルタイム節電

需要が急に跳ね上がって供給を上回り、予期せぬ大停電が起こりそうになれば、「ニュース速報」で電力使用をただちに控えるよう求めるテロップを流す案もあがっている。新聞やインターネットでも、電気予報ができないか検討する。


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 最近、Yahoo Japanのトップページにこのやうな東京電力の電力使用状況が表示されてゐる。
 これは、さうした一環だらう。
 だが、こゝ数日、これを見てゐるが、「毎時更新」と書いてあるものの実際には常に2時間くらゐ前の情報が表示されてゐる。
 もしできるなら、もっとリアルタイム性を高めて、電力使用状況を知らせてはどうか。さうすれば、どんなに暑い日でも「今一瞬だけ、冷房を止める」といふことは各家庭ではできるだらう。
 全員が一斉に冷房を止めて、電力使用量が十分に下がったのを見て安心して、全員が一斉に再び冷房のスイッチを入れてしまったら大変なことになってしまふわけだが、リアルタイム情報を流したとしても、そこまで大勢の人が一斉の行動を取ることはないと思ふ。情報にアクセスする時間は各人バラバラだからだ。
 リアルタイム電力使用量情報を流すなら、やはりネット、特にTwitterを使った方がいいだらう。新聞では「予報」はできても、リアルタイムな情報は伝へられらない。


 私たち東京人がこの夏を乗り切れるかどうか、知恵が試されてゐる。