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カテゴリー "東日本大震災関連" の記事

「復興」の名の下に消されるもの 〜東日本大震災から五年〜

 あの日から今日で丸五年。
 今年は五周年というだけでなく、曜日も一致しているので、尚更にあの日を如実に思い出す。

 3月11日は痛恨の日。私は現代の日本で、一度の自然災害で一万人以上の死傷者が出るなんて思っていなかった。そういうのは発展途上国における話だと思っていた。

 あれだけの大きな被害があったのだから、当然に「大反省」が来るだろうと思っていたところに反省が来ていない。

 原子力発電所もそうだが、防潮堤とか、被災した学校校舎の取り壊しとか。

 防潮堤など、「世界最大級の防潮堤があるから大丈夫」と慢心して逃げるのが遅れたから被害が大きくなってしまっているのに、今また新たにもっと大きな防潮堤を建てようと計画している。

 小学校の校舎も取り壊そうという動きがある。「復興のため」。綺麗に取り壊して跡地に高層ビルや高層マンションでも建てればたしかに復興したように見える。
 しかし記憶は消える。すべては「なかった」ことになる。波に攫われていった子供たちなどいなかったことになる。「建物は取り壊しても、子供たちのことはちゃんと心に残っています」と言うかもしれない。でも大半の人は忘れる。人間はただでさえ忘れやすい生き物なのに痕跡や遺構がなかったらどんどん忘れていく。
 「復興」は大事だが、この言葉が国や不動産業者などが大好きな「再開発」のための名目に使われることを私は懼れる。
 震災からまだ五年しか経っていないのに、震災の被害に遭ったほとんどの建物は綺麗に取り壊され平地にされていると聞く。小学校だけでなく、もっと多くの公共の建物を遺構として残すべきではなかったのか。どうしてさっさと「片づけて」しまうのか。

 「見ていると思い出してつらいから」。関係者は確かにそうだろう。しかし広島の原爆の直接の「関係者」は今やほとんど居らず、それでいて原爆ドームが日本中のみならず世界中の人々に原爆の悲惨さを教えている影響力の大きさを思うと、建物を取り壊してしまうのはあまりにも乱暴すぎる。

 人間は歴史に学ばない。これだけの「大被害」があってもなお学ばないのなら、あの日の一万数千の命は浮かばれない。

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丸山眞男くん(小学四年)に学ぶ大震災

 丸山眞男くん(東京の四谷第一尋常小学校四年生)が書いた震災の作文がすごい。

 思想家、丸山眞男が9歳のときに経験した関東大震災の様子を綴ったこの作文は、関東大震災の貴重な記録となっているばかりでなく、また現代への警鐘として多くの示唆に富む。


地震の揺れと火災の二つが被害の主因であることを見抜いていた丸山少年

 お昼近くなつて来たので、御飯の用意をした。
 すると突然、「ガタガタガタ」と地震がすると同時に、天地もひつくりかへる程の上下動の大地震がした。僕等は皆まんなかにあつまつた。柱がゆれる。かべは落ちる。すすが頭にふりかかる。まるで舟にのつて暴風雨にあつたやうにゆれる。


 丸山少年は、大震災に遭ったときのことを、このようにかなり克明に書き記している。

 この作文は、丸山眞男(当時、小学四年、九歳)が、大正十二年の九月から十月の初めにかけて書いたもので、自分で奥付などもつけて仮綴じし、「本」の体裁を整えたものである。

 丸山少年がすべて自分で考えて書いたとは言い切れないかもしれない。周囲の大人たちが話していた知恵も少しは入っているだろう。新聞やラジオで得た見解も入っているかもしれない。だが、それらの中から何を書くべきかを取捨選択しているのは、やはり丸山眞男である。9歳にしてこれだけ冷静に震災のことを書き残せている丸山眞男に、私は驚嘆を禁じ得ない。

 丸山少年はこの本の「序文」で、「震災ばかりなら、まだよいのに、火災が起り、二つで攻めて攻め立てたので、如何なる帝都もつひに、このやうになつたのである」と書いている。
 後の時代の私たちは、関東大震災の被害が地震動による家屋の倒潰だけでなく、その後の火災による被害が大きかったことを“歴史”として知っているが、丸山少年は震動と火災の二つが大きな被害要因であることを、当時もうすでに分かっている。

 九月一日の夕刻、丸山一家は、火災が迫って来そうな四谷を脱出して避難を始める。

 時計を見ると十一時である。向ふを六時に出たから、こつちへ来るまで、五時間かかつたのである。
 その晩は長谷川さんの家でねた。


 徒歩で5時間も歩いた、というこの記述は、東日本大震災の日の東京近郊における大量の帰宅難民の人たちを思い出させる。
 丸山一家が向かった先は、親が親交のあった東中野の長谷川如是閑宅である。その日は、大きな「長谷川さん」の家の庭にテントを張って寝た。


意外な情報の速さ

 大正十二年当時は、今と比べればテレビもインターネットもなかったし、情報を得る手段と言えば新聞や後はラジオがあったかというぐらいだったろうが、この丸山少年の作文を読んでいると意外と当時の情報の伝わり方は速かったのだな、と思わせる記述がある。

 すると新宿の方から、ものすごい黒煙があがつた。
 正ちやんが「あつ、火事だ、新宿だ」
とさけんだ。と、一せいにその方を見た。
 正ちやんのお母さんが、「十二階がおれたそうですね」とおつしやつた。


 「十二階」というのは、当時の日本を代表する高層建築、「浅草十二階」のことである。
 四谷に住んでいた丸山が、九月一日当日に、浅草の建物が倒れたことを知っていた。さらに、「神田も浅草ももうとつくに皆やけたそうだ」と書き、下町が火災によって全滅に近い状態であったことも把握している。


震災直後のデマ

 東日本大震災の後にもさまざまなデマが飛び交ったが、関東大震災のときにもあった。
 丸山少年は「恐ろしいうわさ」として次のように書いている。

 それから又朝せん人が、ばくだんを投げたり、するそうで、市の方で、けいかいが、げんぢゆうになつたから、こつちの東中野へ来たといふ話だ。ここまで逃げてきて、ばくだんで、やられたら、こなみぢんになるだらう。と思うと、思はず、身ぶるいする。


 私は小学校の社会の時間に、関東大震災の直後には「朝鮮人が井戸に毒を投げ込んだ」というデマが飛び交った、と習ったような気がするが、丸山少年によれば爆弾を投げるという話もあったようだ。
 しかしさすがに冷静沈着な丸山眞男くんもこの話がデマである可能性を考えるところまでには至らなかったのだろう、9歳なのだから無理もない、と思いきや、巻末の「付録」に、ちゃんと次のように記していた。
 少し長くなるが引用しよう。

付録二 自警団の暴行
 震火災の後、朝せん人が、爆弾を投げると言ふことが、大分八釜しかつた。それであるから、多くの、せん人を防ぐのには、警察ばかりではどうしても防ぎきれない。それから自警団と言ふものが出来たのである。だが、今度の自警団はその役目をはたして居るのではなく、朝せん人なら誰でも来い。皆、打ころしてやると言ふ気だからいけない。
 朝せん人が、皆悪人ではない。その中、よいせん人がたくさん居る。それで、今度は朝せん人が、二百余名は打殺されてゐる。その中悪いせん人は、ほんのわづかである。それで警察の方ではなほいそがしくなる。それであるから今度の自警団は、暴行を加へたことになる。しらべて見ると、中には、せん人をやたらに、打殺したので、警官が、しばらうとすると、それに、うつてかかつて、さんざんなぐつた末、警察にまでおしこんで行くやうならんばう者もある。このやうにするのなら、あつてもなくても同ぢである。かへつてない方がよいかもしれない。こんなことなら自警団をなくならせた方がよい。
 自警団とは前にも申した通り、警察ばかりでは防げないから、そこで自警団と言ふ物を作つたのであつて、決して、朝せん人を殺すやくめとはまつたくちがふ。


 自警団ができた目的を考えた上で、それがまったく正常に機能していないどころか、却って悪になっている。こんなことなら無くしたほうがよい、という丸山少年の炯眼が光っている。


「公」への意識

 さらに丸山少年は、「今後の注意」として「公」への意識を語っている。

 今度の震火災の時百数十箇所から火が出たと言ふがもし東京の人が、自分一人を思はないで此の東京市を思ふ心があつたら、あんな大火にならずにすんだであらう。なぜならばあの時ちようど昼ごろ大抵の家は火をたいてゐるところであつた。すると突ぜん大地震が襲来した時大方の人は自分一人の命がたすかれば、この東京市はどんなになつてもかまふものかと言ふ心であつたに相ゐない。そうでなければすぐに地震中、てばやく火をけすであらう。東京の人がその心だつたらあんなにやけずにすんだであらう。
 この事は東京市民の恥であり又、日本の国の恥である。だから我々は未来どんなことが起つてもけつして自分一人を考へず公の事を考へなければならない。


 丸山少年のこの「注意」は、関東大震災について言ったもので、どんなときも我先に逃げてはいけない、と言うのは、津波の場合や東京大空襲のような場合に必ずしも当て嵌まるわけではない。
 だが、関東大震災の被害が大きくなった原因の分析としてはかなり鋭い。
 東京で生まれ育った私は、子どもの頃から地震が起きたらまず火の始末!と教わってきたが、それも、この時の教訓が生きているからだ。

 東日本大震災のときは、多くの日本人は店に殺到して食料品を強奪したりなどせず、じっと行列を作って並ぶ姿が世界から賞賛された。しかし、“ひっそりと”買い占めは行なった。
 自分一人さえ助かれば構うものか、という気持ちは現代の人の心の中にもあるのだ。
 丸山少年の「けつして自分一人を考へず」という警句は、現代にあってもなお重要な意味を持つ。


関東大震災と東日本大震災の共通点

 丸山少年はこの本を次のように締め括っている。

(午前十一時五十八分四十六秒)
安政大地震より七十年後


 東日本大震災でも「午後2時46分」までは言うが通常「秒」までは言わない。
 そして「前回」の東京の大地震である安政地震のことまで調べているのは恐れ入る。

 こうして見ると、関東大震災当時の様子は東日本大震災の時の東京と、そう変わらないような気がする。もちろん東京の被害は前者の方が甚大だったが、地震直後からいろんな情報が錯綜したり、デマが飛び交ったり、不安に駆られた行動をとったり、意外と冷静だったり、多くの共通点を感じる。

 夜になつた。電気がこないので、電車・電灯・電話、等も通ぢない。その外、水道・瓦斯もこないので丸で昔だ。地震のために今が昔にひつくりかへつたんだ……こう思うと、おかしくなつた。


という丸山少年の子どもらしい表現の感想を読んでいると、電話や電車が通じなくなったのは、東日本大震災の東京でもあったし、電気に頼って暮らしていて、それがストップしたら大混乱、という図式は、大正時代からそれほど変わってはいない、いやそれどころか電気への依存度はますます弥増している、現代は大正時代からどれだけ進歩したのだろうと思わずにはいられない。

 小学四年生の丸山眞男くんが、いつか来るであろう「東京大地震」の問題点を教えてくれている。都市計画や防災対策ばかりでなく、いざという時の人々の心理や行動の在り方など、実に多くのことを示唆してくれている一冊である。


(参考文献:「恐るべき大震災大火災の思出」『丸山眞男の世界』(みすず書房)所収)

311と想定外

 東日本大震災から二年になるのを機に、あらためて311を振り返りたい。


地震は想定外だったか

 福島第一原発事故のあと、「想定外」という言葉が盛んに使われた。

 できるかぎりの可能性を想定して安全性の確保に努めていたけれども、こんなに大きな地震や津波は想定外だった、ということだ。

 たしかに近年に前列のない大きさの地震だった。発表されたマグニチュードの数字は何度か変更があった。
 近年の日本での巨大地震と言うと阪神大震災、そして知名度の高い大正時代の関東大震災などが思い起こされる。でもどちらも津波の被害のない地震だった。
 それよりもっと古い明治三陸津波、あるいは江戸期の安政の大地震や宝永地震が引き合いに出され、さらにはそれよりずっと古い平安期の貞観地震以来の大地震、1000年に一度の未曾有の大地震と言われた。

 この「想定外」、「未曾有」ということについて政府事故調査委員会の委員長も務めた失敗学の権威、畑村洋太郎がそのものずばり『未曾有と想定外』という本を書いている。


未曾有と想定外─東日本大震災に学ぶ (講談社現代新書)未曾有と想定外─東日本大震災に学ぶ (講談社現代新書)
(2011/07/15)
畑村 洋太郎

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 その中で畑村氏は「未曾有」と言っても津波にかぎって言えば明治期、昭和期にも三陸沖で似たような津波があったわけだし、「想定外」と言ってもその想定外を想定するのが専門家の仕事なのだから、「未曾有」や「想定外」という言葉を責任逃れの免罪符にしてはいけない、と厳しく指弾している。


二つの原則

 たしかに「想定外」という言葉を責任逃れのための言い訳の道具に使ってはいけない。
 しかし私は同時にまた、想定外ということはあり得るだろうと思うのだ。

 この二年間、想定外ということ、そして人間が稀に受ける大きな運命の打撃について考えていた。
 そして考えたのは、人間が避けることのできない大きな二つの原則があるということである。即ち、

 「人間には想定できないことがある」

という第一の原則。
 さらに、

 「人間は稀にしか起こらないことには備えることはできない」

という第二の原則とである。
 この二つの大原則を見落とすならば、畑村失敗学は間違うだろう。


第一原則 人間には想定できないことがある

 人間には、どうしても想定できないことがある。予測も予想も、想像することすらできないことがある。
 思いも寄らなかった、考えてもみなかった、ということがある。
 それは人間の想像力には限界があるからである。井の中の蛙は大海を見たことがない、知らないだけでなく、イメージすることすらできない。
 現代の人間は、宇宙の外側がどうなってるのか知らないし想像することもできない。
 近代から現代にかけて科学やテクノロジーが発達して判ったことは、この世界にはわかってることよりも、未だわかってないことの方が遙かに多いということだった。
 想像の限界だけではなく、人間には「盲点」というものもある。
 「空気のような存在」という言葉があるが、昔の人は何もない空間に空気が“ある”とは思わなかった。あるいは数学の世界における「零の発見」とか。あまりにも当たり前すぎて意外と盲点になっていて見落としてしまっているものはたくさんある。


第二原則 人間は滅多に起こらないことには備えることはできない

 人間は滅多に起こらないことには備えることはできない。
 そのことを非常ベルの話、隕石衝突の話、オオカミ少年の話を例に考えてみよう。


もしも非常ベルが鳴ったら、その瞬間どう思うか

 中学の頃、非常ベルが廊下に鳴り響くことが偶にあった。
 皆さんがもし中学校の授業中に非常ベルを聞いたら、どう思うだろうか。

1.火事だ!逃げろ!
2.今日、訓練だったっけ?
3.業者の点検が入ってるのか?
4.また誤作動か…
5.また誰かががふざけて押したな

 この五つのどれだろうか?
 私が通っていた学校はオンボロだったので真っ先に4番を考えた。また不良の生徒も多かったから5番も考えた。
 ちゃんとした(?)学校だった人は4番や5番は思わないかもしれない。もっとちゃんとした学校なら、「非常ベルなんて一度も聞いたことない」か。しかし1番だと思う人も少ないのではないだろうか。


隕石問題

 「どんな危険でも、それが起こる確率が完全にゼロではないのなら、あらゆる危険が起こる事態を想定して備えておくべきです」と言う人がいる。

 では、そういう人は、隕石の衝突に対する何らかの備えをしているのだろうか。
 家一軒を潰すのにちょうどいい大きさの隕石が空から降ってきて、自分の家をピンポイントで直撃する危険性はゼロではない。確率的には限りなくゼロに近いが完全にゼロではない。何か家の屋根に衝突を和らげる材料を取り付けたり、何らかの対策を取っているのだろうか。

 私は以前からこの問題を「隕石衝突対策問題」あるいは「隕石問題」と呼んでいた。「人間は隕石の衝突に備えるべきか」、あるいは「備えることができるか」という問題である。

 以前も、このブログで紹介したことがあるが、統計学の竹内啓が書いた『偶然とは何か』という本がある。この本の中でこの「隕石問題」が取り上げられている。
 ところで、この本は、あまり知られていないスゴ本である。2013年のロシアでの隕石落下騒ぎや2011年の東日本大震災が起こる直前の2010年に書かれた本だが、隕石衝突問題や原発のメルトダウンのことについて言及している。


偶然とは何か――その積極的意味 (岩波新書)偶然とは何か――その積極的意味 (岩波新書)
(2010/09/18)
竹内 啓

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 竹内氏は「人類文明の存続というような超大問題から、いろいろなレベルの集団から個人に至るまで、『きわめて小さい確率はゼロと見なす』ということは行動原理とならねばならない」と言う。

そもそも非常に小さい確率の場合、それを実際に検証することは不可能である。それは一定の仮定のもとに計算上導かれた値にすぎない。したがってそれと現実とを結びつける関係は、「小さい確率の事象は事実上起こらない」ということにほかにはないのである。


人類全体も個人一人一人も「きわめて確率の小さいことは起こらない」とする前提にその存在を賭けていることになり、そこに本質的な不安全性が存在するというべきであるが、それはこの宇宙に生きる限り避けられないものである。われわれはそのことを認識すると同時に、そのような危険は無視して生きなければならない。



 竹内氏は、小さい確率のことは起こらないと思って生きなければならない、と言う。これは「もっと想定できるはずだ」と言う畑村氏の言と相反しているように見える。
 だが、相反してはいない。両者とも、どこまでが可能の限界でどこまでが不可能なのかを見極めることの重要さを言っているのである。

 さらにこの本のすごいところは、起こってはならない大事故が起こってしまった時の「不運」を認めた上で「不運の事後処理」の問題を考えなければならない、と説いているところである。

 被害者の「不運」をどう社会で分配していくかを考えなければならない、と竹内氏は言う。これは、東日本大震災のことと併せ考えながら読めば、実に深く考えさせられる。津波被害にしろ、原発被害にしろ、被災者の不運の事後処理は国民全員で、世界全体で考えなければならない問題である。


オオカミ少年の話の続き

 イソップ物語に「オオカミ少年」という話がある。毎日「狼が来た!」と嘘を吐いては村人が慌てふためくのを楽しんでいた少年が本当に狼が来た時に「狼が来た!」と叫んでも誰も信じてくれなかった、という話だ。
 この話は、だから嘘を吐いてはいけない、普段から嘘を吐いてるといざという時に信じてもらえないよ、という教訓話として語り継がれている。
 自己責任論者ならば「あの少年はかわいそうだったけど、まあ自業自得だね」と言うかもしれない。
 この話は少年が食べられた(若しくは少年が飼っていた羊が食べられた)ところで終わっているが、私はこの話はこんなところでは終わらないと思う。
 狼は集団で行動することが多い動物である。当然、少年一人を食べても食べ足りずに更なる美味を求めて集落の奥深くまで村人たちを襲いにやってくるに違いない。
 「自己責任だ」とか「自業自得だ、ざまあみろ」などと言って少年一人を切り離している人たちは我が身の問題として捉えられていない人たちである。羊が食べられたという話だったとしても、少年が管理していたその羊たちは村人たちにとっても大切なものではなかったのか。
 「えっ!?今回は本当だったの?また、あの少年の嘘かと思った」と言っても、もう時すでに遅し。飢えた狼の集団にぐるりと囲まれて万事休す。
 啻に少年一人の身の問題ならず、村人全員の問題である。
 村人たちの対応には明らかに問題がある。少年がいち早く危険を知らせてくれたにもかかわらず何の対応もできず狼の侵入を容易に許した。

 今回の震災でも似たようなことがあった。津波警報が出ていたにもかかわらず、「どうせここまで津波は来ないよ」、「今までの人生で何度か津波警報を聞いたことがあるけど、津波があの防波堤を越えて来たことは一度もないよ」、「逃げるほどのことはない」、そう言ってて高台に逃げずに、あるいは逃げるのが遅れて、津波に飲まれた人がいっぱいいた。もっと早く高台に逃げていれば助かった人がいっぱいいた。

 では、なぜ人々は逃げられなかったのか。


強力な「習慣化」

 何よりも強くて怖いものは「慣れ」である。

 大震災を機に、毎週一回、必ず避難訓練をするようにしましょう、と決めた街があったとする。しかしマメに訓練をしていればしているほど、サイレンや非常ベルを聞いた時に人々は訓練だと思ってしまう。「いつもそう」だと「今回もそう」と人間は思ってしまうものだ。
 非常ベルがしょっちゅう誤作動を起こしている学校の子供は「また誤作動だ」と思って、「逃げる」という行動には至らない。

 津波警報を出すかどうかを判断する担当者というのがいるだろう。

A.警報を出したけれど、実際には10㎝程度の小さな波しか来なかった

B.警報を出さないでいて、8メートルの巨大な津波が来た

 どちらも「外れ」には違いないが、どちらがマシかと言えば、前者の方がマシである。もし後者のようなことが起こってしまったら担当者は「なぜ警報を出さなかったのか」と全国から非難される。なので自分が「大責」を負うのを恐れて「念のために」「念には念を入れて」少しでも津波の危険性が予想される場合は警報を出す。
 しかし、この「念のために」小さな波の時にも「警報」という大仰な報せを出すことで(※警報は注意報よりもレベルが上)、人々の間には「どうせ今度も大したことない」というオオカミ少年の村人に似た感覚(「オオカミ少年効果」)が広がる。人々の感覚は次第に警報と実際の波の小ささの間のズレを覚え、ゆっくりと麻痺していく。

 少年に100回も嘘を吐かれて、それで101回目の「狼が来た!」を虚心坦懐な気持ちで新鮮に聞け、と言うのはかなり難しいことである。慣れに抗える人間などそうそういるものではない。

 オオカミ少年の話は、「どんな時も常に警戒を怠るな」という教訓話である、という人もいるが、私はそうした見方は「習慣」の強力さを見縊っていると思う。

 非常ベルやサイレンへの反応の早さを促すためには、予測の精度を上げることが重要になる。機械やコンピュータへの信用の度合いがまだ全幅でない時代には人間は自身の勘や直感を優先させるものだ。
 しかしその直感は屡々経験則に基づく。そしてその経験というのは、その人が生きて来た、たかだか数十年の経験なのだ。

 その短さを補うために歴史は記録されている。過去、何百年、何千年にわたる人類がさまざまなアーカイブを残してきた。


不幸を繰り返さないために

 これは畑村氏批判の記事ではない。
 畑村氏が『未曾有と想定外』で言っているのは、未曾有にしろ想定外にしろ、その範囲が狭過ぎる、ということである。
 「未曾有」は「いまだかつてない」という意味だ。過去50年にはなかったかもしれないが、過去100年、1000年、10000年まで遡れば、これぐらいの規模の地震はあっただろう。
 そして、今回の震災に関しては専門家が想定していた範囲はあまりにも狭すぎた。
 私は基本的には、人間には想定できないことがある、という考え方だが、決められた範囲内で問題解決を図るのは皆得意だが、どこが問題とすべき範囲なのかの線引きができる人は少ない、という畑村氏の指摘は重要である。

 畑村氏は、昔の人々がさまざまな形で記録を残して来たのに、現代の人はそれをじゅうぶんに活かすことができなかったということをたくさんの事例で紹介している。

 過去何百年、何千年にわたって人類が残してきたアーカイブ。それをなぜ活かすことができなかったのか。そして現代の情報テクノロジーはなぜ十分に活かされなかったのか。

 また別稿で、震災とInformation Technologyの関係について考察してみたい。



 「オオカミ少年効果」と津波に寄る死者を一人も出さなかった茨城県大洗町の事例をNHKの井上裕之氏が以下に纒められているので参照されたい。

 大洗町はなぜ「避難せよ」と呼びかけたのか(PDFファイル)

方丈記800年、今こそ読みたい『方丈記』-大震災から500日-

 あの未曽有の大被害を齎した東日本大震災から今日で500日。
 復興が進んだ地域もあれば遅れている地域もある。大地震が齎した大きな爪痕に今なお苦しんでいる人々がたくさんいる。

 しかし一方で、東京などではすっかり日常生活を取り戻し、脱原発運動などを除いては地震そのものの記憶、特に津波被害のことなどは次第に話題にのぼることも少なくなって来ている。

 こうした、大災害に対する記憶の風化、特に人々の心持ちの変化を800年前に書いている本がある。歴史の教科書でも有名な鴨長明の『方丈記』である。

すなはちは、人みなあぢきなき事を述べて、いさゝか心の濁りもうすらぐと見えしかど、月日重なり、年経にし後は、ことばにかけて言ひ出づる人だになし。
(意訳:地震が起こった直後は、人々は皆「はかない」などと言って欲に塗れた汚い心も少しはきれいになっているように見えたけれども、年月を経るうちに、そういう言葉を口にする人もいなくなった。)

(鴨長明『方丈記』岩波文庫より)

 2011年3月11日金曜日にあの大地震が起こって、その翌土曜日と翌々日の日曜日に私が一心に読んでいたのは『方丈記』である。被害の全容が徐々に明らかになり、続々と凄まじい映像がテレビやネットで流れ、死者行方不明者の数がどんどん増えていく、そんな大きな不安と動揺の日々の中で読み続けたのは『方丈記』だった。


『方丈記』に書かれた元暦地震

 今からちょうど800年前に書かれた『方丈記』は日本三大随筆の一つとして名高いが、特に自然災害の被害の描写が詳細なことで知られる。
 東日本大震災が「千年に一度の大地震」と言われてから、それまで過去の大きな地震と言えば大正時代の「関東大震災」ぐらいまでの知識しかなかった人たちが、メディアに登場する学者たちが口にする江戸時代やそれ以前の中世、古代の地震にまで関心を持つようになった。

 西暦1185年、長かった平安時代が終わり新しい武士の時代が始まろうとしていた頃、京都の街を大地震が襲った。その時の元号をとって「元暦地震」と呼ばれるこの地震がどれほど大きな地震だったのか、今、鴨長明が『方丈記』に書き残しておいてくれていたからこそ判る。

 『方丈記』には、鴨長明自身が体験した安元三年の火災、治承四年の竜巻、養和の飢饉、元暦の地震という四つの大災害が書かれているが、その中から地震に関する記述をここに載せておこう。上が本文、下が現代語訳である。(以前書いた記事「余震はいつまで続くのか -『方丈記』に見る元暦地震-(2011/04/17)」にも載せてある。)

 又同じころかとよ、おびたゝしく大地震振ること侍りき。そのさま、世の常ならず。山は崩れて河を埋み、海は傾きて陸地をひたせり。土さけて水わきいで、巌われて谷にまろびいる。渚漕ぐ船は波にたゞよひ、道ゆく馬は足の立ちどをまどはす。都のほとりには、在々所々、堂舎塔廟、ひとつとして全からず。或は崩れ、或は倒れぬ。塵灰立ち上りて、盛りなる煙の如し。地の動き、家の破るゝ音、雷にことならず。家の内にをれば、忽ちにひしげなんとす。走り出づれば、地われさく。羽なければ、空をも飛ぶべからず。竜ならばや、雲にも乗らむ。恐れのなかに恐るべかりけるは、只地震なりけりとこそ覚え侍りしか。かくおびたゝしく振る事は、しばしにてやみにしかども、そのなごりしばしば絶えず。世の常驚くほどの地震、二三十度振らぬ日はなし。十日廿日過ぎにしかば、やうやう間遠になりて、或は四五度、二三度、若しは一日まぜ、二三日に一度など、おほかたそのなごり、三月ばかりや侍りけむ。四大種のなかに水火風は常に害をなせど、大地にいたりてはことなる変をなさず。昔斉衡のころとか、大地震振りて、東大寺の仏の御頭落ちなど、いみじき事ども侍りけれど、なほこの度にはしかずとぞ。すなはちは、人みなあぢきなき事を述べて、いさゝか心の濁りもうすらぐと見えしかど、月日重なり、年経にし後は、ことばにかけて言ひ出づる人だになし。


(意訳)
元暦二年(1185年)ごろだったと思うが、大地震があった。その様子は尋常じゃなかった。山は崩れて川を埋め、海は傾いて陸地に浸水した。地面は裂けて水が湧き出し、岩は谷に転げ落ちた。船は波間に漂流し、馬は足場を失った。都のあちこちで、仏塔など一つとして無事ではなかった。あるものは崩れ、あるものは倒れていた。塵が立ち上って煙のようだった。震動、家の壊れる音は、雷のようだった。家の中にいれば、たちまち下敷きになってしまう。かと言って外に走りだせば、地面が割れている。羽がないので空を飛ぶこともできない。竜だったら雲にも乗って逃げるだろうが。恐ろしいものの中でとりわけ恐ろしいのは、地震なのだと思った。こんなに大きな揺れはしばらくしてやんだけれども、余震が絶えなかった。普通にびっくりするくらいの地震が1日に2、30回くらいあった。10日、20日ほど過ぎてようやく間隔があいてきて、1日に4、5回、2、3回、もしくは1日おき、2、3日に1回などとなって、結局、余震は3カ月ぐらい続いた。この世のものの中で、水害と火事と台風はいつも被害があるけれども、大地が揺れるなんてことはなかった。昔、斉衡時代(854-857)に大地震があって、東大寺の大仏の頭が落ちたとか聞いたことあるけれど、今回ほどの地震ではなかっただろう。その当時は、人々は皆「情けない」とか「はかない」とか言って、心の中の濁りや欲望も薄らぐように見えたけれども、年月が経って、そんなことを言う人もいなくなった。


 鴨長明は、地震のことをなぜこんなに詳しく書いているのだろう。
 京都人の鴨長明が元暦の大地震に大きなショックを受けたことは間違いないが、『方丈記』が書かれたのは長明57歳の頃、そして元暦地震は長明30歳の時に被災した地震である。つまりだいぶ前の若い頃に被災した地震のことを思い出して書いているのである。上記引用の中で「すなはちは(当時は)」と言っているのは、斉衡時代の地震のことを振り返っているのではなくて、元暦地震のことを指している。

 鴨長明は30歳の頃は、自分の人生でも辛いことが重なっていた時期でもあり、とても筆を執れるような心境ではなかったかもしれない。しかし、人生の最終盤に差し掛かり、閑居していた方丈の庵の中で自らの人生を振り返り、世の無常を思った。
 『方丈記』は随筆でありながら、プライベートなことよりも自然現象や抽象的な思想などを語っている点が特徴的である。そしてこの点が『方丈記』を価値あるものにしている。


『方丈記』の歴史的な眼

 最近読んだ中で興味深かったのは、『日本人なら知っておきたい日本文学』の中で著者の海野凪子氏が、『方丈記』の中には「いくさ」という言葉が出て来ない、と指摘していたことである。

 鴨長明が生きた時代は源平の争乱が最も激しかった頃に重なる。そうした戦の数々について記していてもおかしくはない。

 しかし長明は、政治や自分のプライベートなことなど、流動的な現在進行形のことについては敢えて書かなかったのだろう。私には『方丈記』は、遠い過去から遠い未来へと亘って貫徹する歴史の哲理のようなものを追究した本に見える。それは300年も前の斉衡時代の地震に言及しているところなどからも窺える。長明はあきらかにこの本を後世の人たちが読んだ時に歴史的な史料として参考になることを意識して書いている。自然災害の描写が詳しかったり、本の最後に「于時建暦の二年、弥生の晦日ごろ、桑門の蓮胤、外山の庵にして、これをしるす」と年月日をしっかり記しているのも、そうした歴史を意識している表れである。当時はこうした随筆文にそれを書いた年月日を記すことは珍しかった。


『方丈記』が肯定する“人間らしさ”

 岩波文庫版(が底本としている大福光寺所蔵本)の本文には載っていないが、別の伝本にはこんな話も載っている。

 6歳か7歳ぐらいの子どもが遊んでいたが、大地震(元暦地震)が来て塀の下敷きになって死んでしまった。その子を抱きかかえて、父親と母親が声を惜しまずに泣いていた。その子の父親は武者だったが、そんな勇敢な者でも我が子を失った悲しみには恥を忘れて泣くのだ、と。

 ここにほんの少しだけ、当時擡頭して来ていた武士に対する長明の思いと、やはりどんなに時代や人が変わっても我が子を失った悲しみは変わらない、という長明の確信を看て取れる。長明はそれを「いとをしくことわりかな」と言っている。

 『方丈記』が強烈に肯定しているのは、こうした「人間らしさ」。政治的な、誰が天下を取ったとか誰が偉くて誰が上で下だとかいう話ではなく、もっと根源的な人間らしさを語っている。


東日本大震災と『方丈記』800年

 今年2012年は『方丈記』が書かれてから、ちょうど800年の年になる。

 東日本大震災の直後、多くの日本人が味わったあの危機感。電車が止まり、コンビニやスーパーから食料品が消え、テレビでは津波の衝撃的な映像が流れ、ネットでは猛烈な情報が流れ、原発事故の見えない恐怖に脅えていたあの頃、見知らぬ人とも「こんな時ですからお互いに助け合いましょう」という空気が、少なくとも私の住んでる東京にはあった。
 多くの人が東北の被災地にボランティアに行き、あるいは募金に応じ、無償の行動をしていた。こうした心を私たちはいつまで持ち続けていられるのだろうか。長明は大地震から二十数年後には「そんなことを言う人すらいなくなった」と言っている。
 東日本大震災はいろいろな形で記録され、その記録自体は風化しないだろうが、長明が言っているのは心持ちの風化である。
 西日本や海外に住んでいた人はもしかしたら少し感じ方が違うかもしれないが、私は東日本に住んでいた人間として、あの時感じた必死の思いやその時に人々の間にあらわれた人間らしさの感覚を忘れたくない。

 『方丈記』には地震に関する記述の他にも、弱者に対する眼差し、命に対する眼差し、など興味深い点がたくさんある。もちろん、文学的価値の高い名文でもある。
 『方丈記』は非常に薄い本なのですぐに読めるし、今は読みやすい現代語訳がいくつかある。まだ読んだことのない人、中学高校時代の古文の時間に習った冒頭の「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」しか覚えていないという人は、800年記念の今年に、ぜひ読んでみてはいかがだろうか。


方丈記 (講談社学術文庫 459)方丈記 (講談社学術文庫 459)
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安良岡 康作

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すらすら読める方丈記すらすら読める方丈記
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【『方丈記』関連の記事】

Twitterとブログで振り返る3月11日 〈東日本大震災から一年〉

 くりかえし、くりかえし、3月11日のことを思ってきた。この一年間は、ほとんど3月11日のことを考えてすごしていたと言っても過言ではない。

 あなたにとって311とは何か、と問われたら、私にとってそれは「痛恨」である。
 このことは以前にもブログに書いたけれども、私は、今の日本で、災害で1万人を超える死者行方不明者が出るなんて思っていなかった。災害は毎年のようにある。大災害も世界のどこかでは毎年のように起こっている。でも、どこかで、それは発展途上国の話だと思っていた。日本のような科学技術が発達した先進国で犠牲者1万人などありうるはずがない、と。
 私にとって痛恨であるというのは、先進国としての体面が保てなかった、まるで発展途上国みたいで恥ずかしい、とかそういうことではない。現代に生きている日本人として、日本という社会を構成している一員として、こんなに多くの人の命を救えなかったということが「痛恨」であった。
 
 後になってから、あの時ああしとけばよかった、とか、もっとこういう風にしておけばよかった、などとはいくらでも言える。しかし今さら何を言っても後の祭りである。反省として次回に活かすことはできるかもしれないが、亡くなった人たちに次回はない。原発事故だけではない、津波被害にしても「大失敗」である。自分が生きている時代に、つまり自分がなんとか被害を回避はできないまでも軽減の手段を打てる立場にあった時に、このような大失敗をおかしてしまったことは痛恨というよりほかない。

 スマトラ沖地震や四川大地震など何倍もの犠牲者が出ている災害が他にもいくらでもあるにもかかわらず、とりわけ東日本大震災が衝撃が大きかったのは、それだけ身近に感じたからだろう。
 東京にいた私も、大きな揺れとその後のトイレットペーパーの不足やコンビニ・スーパーから食料品が消える、などの事態に直面した。東京人も広い意味では「被災者」と言えるだろう。

 後世の人のために自分なりの東日本大震災体験記を残しておきたい。それは昨年の3月11日にも思って、主にTwitterとブログにリアルタイムで書いておいたけれども、書き漏らしていることもある。なので、震災から一年経った今、あらためて当時のことを振り返りつつ、3月11日に起こったこと、そして私がどのように行動したかを書いておこうと思う。


・自分のツイートから振り返る3月11日

 2011年3月11日の自分のツイートをツイログから引っ張り出して来て、時系列的に見ていこう。

駅の券売機が「準備中」だったので隣にずれたら「準備中」「準備中」「検査中」「調整中」で結局5台分も移動させられる。
posted at 12:20:22

 これが2011年3月11日最初のツイート。12時20分。この時は外にいた。こんな長閑なネタのようなツイートをしていて随分と呑気だったことがわかる。

機械が嫌いである。
posted at 12:20:58

 これが2つ目。当然ながらやはり緊張感がない。この後、自宅に帰る。金曜日だが私は休みだった。
 そして運命の2時46分を自宅で一人で迎えることになる。


・激震の最中に放った「なゐ」の二文字

なゐ
posted at 14:49:33

 激震に見舞われて最初にツイートした2文字。まだ激震の最中である。2時46分に東北地方で地震が起こってから何分何秒で東京に揺れが到達したかわからないが、私はすぐに大地震だと気付き、脱出口確保のため玄関のドアを開けそれを右手で押さえながら、左手に持ったスマートフォンでTwitterアプリを起動させていた。大きな揺れは何分も続き、私の住んでるボロアパートは激しく揺れてこのまま倒潰するんじゃないかと思った。死ぬ前にメッセージを残さなければ。2時49分と地震発生から少し時間があいているのは、この時、インターネットもしくは3G回線、Twitterのいずれかが繋がりにくかったためである。今にも建物ごと潰れてしまいそうだ。時間がない。Twitterしか思いつかなかった。なるべく短い言葉で外の世界の多くの人にメッセージを飛ばさなければ。自分が生きていた最後の証を残さなければ。その思いで激震の最中に放ったのが、この「なゐ」の二文字だった。「なゐ」は「地震」という意味の古い言葉である。

東京大地震
posted at 14:50:05

 2時50分。震源地がどこなのかはまだ知らなかった。ともかく東京が大地震に見舞われている、ということを伝えたかった。今にして思えば、私のTwitterのフォロワーさんは東京近郊の人が多いから「知ってるよ」ということだったろうが。このツイートまでが激震の最中に書いたものである。

冷蔵庫動いた
posted at 14:51:25


棚の上のもの全部落ちる。
posted at 14:52:04


2分以上揺れ
posted at 14:52:34

 揺れが少し収まってからのツイート。驚きと呆然という状態だったと思う。

本棚の本がたくさん落ちる、東京
posted at 14:55:53


人生でいちばんの地震か、東京
posted at 14:56:39

 地震発生の9分後、2時55分から「東京」という情報を付け加え始めた。どこの話かがわからないと混乱を招くと思ったから。でも、しばらくしたら「東京」という情報はいちいち付けなくてもいいと思った。それよりも情報のスピードを優先させるべきだと判断した。

まだ揺れてる、スカイツリーは倒れてない
posted at 14:58:19

 一番最初に確認したことはこれだったかもしれない。建設中のスカイツリーが倒れてないかどうか確認してしまうほどの大地震だったということだ。あと、Twitterができているということでインターネットが通じていることも確認できた。

建物ごと崩れるかと思った
posted at 14:59:29

 2時59分。この時までは家の中にいた。
 この後、隣に住んでた一人暮らしの外国人女性に声をかける。言葉がわからない日本に来て日本人ですら驚くほどの大地震に遭遇してさぞ怖い思いをしているだろう、テレビをつけても日本語ばかりで情報がわからなくて不安だろう、と思ったから。出てきた彼女は引きつった表情をしていたが、私の顔を見ると少しほっとしたような顔を見せた。そしてジェスチャーで自分はずっと怖くて震えていた、という仕種をしてみせた。私が「今はもう大丈夫ですか?」と英語で問いかけると「OK。あなたは?」と私のことも気遣ってくれた。
 それから、近所の防災広場に行った。持って行ったのはスマートフォンだけだった。広場には何人かの人が集まっていたが、特に何をするというでもなかった。度々余震が襲って来てはいたが、広場にいたのでは何の情報も得られない、と思い、また家に戻った。

もう15分以上たつのにまだ余震が、東京
posted at 15:15:11


また大きな余震
posted at 15:16:53

 テレビ(NHK)とTwitterのタイムライン、それにネット上でいろいろな情報を見ていた。

15時15分
posted at 15:17:24


私のところは体感的に震度5から6
posted at 15:18:58


15時25分、東京まだ少し揺れてる。
posted at 15:25:24


15時26分、余震、東京
posted at 15:27:49


大きな余震
posted at 15:28:25

 地震発生から29分後の3時15分からツイートに時間を付け加え始めた。たくさんリツイートされたらそれが何時時点での情報かが判りづらくなると思ったから。実際のツイート時間とのあいだに僅かなタイムラグがあるのは私の3G回線かインターネットの遅さだと思う。

インターネットは通じてる
posted at 15:30:44

 どのライフラインが生きているかの確認を始めている。


・地震発生から約45分後に原発情報をネットでさがす

Reading:NHKニュース 東北地方の原発がすべて停止 http://nhk.jp/N3ue67mQ
posted at 15:33:22

 地震発生から45分後頃、ふと原発は大丈夫だったのかが気になった。しかし東北地方のどこに原発があるのかを全然知っておらず、「東北地方 原発」でググってみたところ、宮城県の女川というところに女川原発というものがあるのを知った。今回の地震の震源から考えてもこの女川原発が一番危なそうだ。そこで私は女川原発に関する情報をネットで必死に探しはじめたところ、このNHK配信のニュースを見つけた。「東北地方の原発がすべて停止」と。私は当時原発の仕組みなどをまったく理解していなかったので、「すべて停止」ということは原発については安心していいのだろう、と判断した。いちはやく原発の心配をしておきながら、私の原発に関するツイートはここで終わっている。3時33分で早くも原発について思考停止してしまっていた。実際には女川原発ではなく福島第一原発が大問題になっていることを知るのはもう少し後のことである。

15時35分、小さな余震
posted at 15:36:42


15時45分、東京余震
posted at 15:46:14

 引き続き余震が頻繁にあったことがわかる。

防災頭巾を被って防災広場に避難する子どもたち、東京。 http://twitpic.com/48drrx
posted at 15:48:05


 この写真は忘れられない一枚になった。3時48分となっているが、実際には3時11分に外に出た時に撮ったものでいったんEvernoteに保存してからtwitpicにアップしている。

15時57分、小さな余震、東京
posted at 15:58:56


【3月11日】宮城県北部の地震(震度7)についての速報情報まとめ - NAVER まとめ http://t.co/MrzgoV3
posted at 16:11:17

 地震発生から1時間25分後の4時11分には早くもネット上で速報情報がまとめられだしていたことがわかる。

16時14分から余震、東京
posted at 16:17:19


16時27分、小さな揺れ、東京
posted at 16:28:28

 夕方になっても余震はやまず。


・最初の死亡者情報が入ってきたのは地震発生から103分後

16時28分、NHKで最初の死亡者のニュースを聞く。
posted at 16:31:04

 地震発生から103分(1時間43分)後。東日本大震災における最初の死亡者情報を聞く。これが最速だったと思う。当時もどかしく思っていたことの一つは、TwitterのTLを見ていても流れてくるのは東京の情報(地下鉄の何線が止まっているとか)ばかりで、そういう情報は山のように流れてきたが、肝腎の東北地方の情報は全然流れてこないということだった。103分。これが今の日本の情報力の限界。
 しかし、情報力のすごさに驚いた点もあった。3月11日当日の内に、東京での被害として九段会館の天井が崩落して犠牲者が出た、というニュースを聞いた。私はその時、これだけの大地震だったのだから東京でももっとたくさんの人が亡くなっているはずであり九段会館のニュースはその第一報に過ぎない、と思っていた。しかし結局東京では九段会館以外での死者はほとんどなかった。
 東北地方と東京の情報の落差を実感した。

16時31分小さな揺れがある、東京
posted at 16:33:01


16時32分、NHKで今回の地震に名前がついたと聞くが聞き損ねる
posted at 16:36:55

 この時私が聞きそこねた名前は「東北地方太平洋沖地震」だと思う。名前なんてどうでもよいではないかと思うかもしれないが、地震に名前が付くというのはその地震が歴史に残る地震だと人々が認識したということである。
 当日のブログには、

この地震は、「東北地方太平洋沖地震」と名付けられたが、明日以降、被害情報が明らかになるにつれて、場合によっては「〇〇大震災」と呼ばれるやうになるかもしれない。/歴史に残る地震になるのも間違ひない

と書いている。
 この後、ガスの復旧作業をする。あとアパートの大家さんに声をかけた。大家さんの家は老夫婦二人暮らしで心配だったから。アパートの他の住人は皆、平日ということでいなかった。

17時05分、小さな揺れ、東京
posted at 17:07:28


17時11分、小さな揺れ
posted at 17:12:33


17時17分から小揺
posted at 17:19:38


17時20分、少し大きめの揺れ
posted at 17:21:18


1728小揺れ
posted at 17:30:26


1731少し大きめの揺れ
posted at 17:32:44

 頻繁な揺れ。

東北地方太平洋沖地震M8.8、国内最大の地震、とNHK。
posted at 17:38:35

 マグニチュードはこの後、何度か修正されることになる。5時38分。この時点では「国内最大」というのは記録が残る近代以降の地震で、という意味だった。

Tokyo Disneyland & Sea Have Flooded http://t.co/qjiDCQQ
posted at 17:41:22

 これも今思えば情報の速さに驚いたことの一つ。5時41分、ネットで東京ディズニーランドの液状化のニュースを伝える海外のサイトの記事を見つけた。これも数ある液状化した地域の第一報にすぎないと思っていたが、結局、浦安は液状化の被害が最も有名なところだった。

ヘリが東北方面に飛んで行くのを見る。
posted at 17:54:00

 5時54分。ヘリはこれだけではなく、頻繁に見ていた。

1754、NHKで18人死亡と聞く。
posted at 17:55:59

 これは確定情報だけだ。実感としてはもっと多くの人が亡くなっているのはとくに三陸地方の人だったらわかっているだろうけど、これだけの大災害においては情報を確定させるだけでも一苦労なのだ。

明治29年の「三陸地震津波」を聯想する。
posted at 18:34:01

 津波による被害が大きかったということで私が真っ先に連想したのが明治29年の「明治三陸津波」だった。後日、明治三陸津波や昭和8年の「昭和三陸沖地震」などと比較されて研究されることになるが、この時はまだ人々にそんなことを考える余裕はなかった。

18時45分、NHK、26人死亡と伝えてる。
posted at 18:46:30


19時22分、小さな揺れ。
posted at 19:22:59


19時36分、小さな揺れ。
posted at 19:37:40

 この日は揺れは断続的に続いており、まだ建物がゆらゆらしているあいだに次の余震が来るので、実際には前回の揺れと今回の揺れ、などという具合にはっきり区別できるものではなかった。ほとんど一日中、ずっと揺れているという感じだった。

地震があってからずっとツイートがなかった人のツイートを確認して安心した。
posted at 20:12:57

 当時、Twitterで自分がフォローしていた名前も顔も知らない人たちの安否も気になっていた。

20時21分、揺れてる。こんなにいつまでも揺れていたら、今夜は眠れそうにない。
posted at 20:22:42

 精神的にも肉体的にもかなり疲労していた。

22時11分、NHK午後10時のまとめで91人の死者と聞く。
posted at 22:12:30

 3月11日当日に判明した死者数は91人。これを多いとみるか少ないとみるか。

22時17分また揺れ。
posted at 22:18:44

 これで3月11日のツイートは終わっている。全49ツイートすべてである。当日書いたものとしてはTwitterの他にもブログがある。ブログは夜8時頃から11時頃にかけて書いた。

 あと3月11日当日のことで印象に残っているのは、いつもは夕方の5時に子どもに帰宅を呼びかけるのが最後の区の防災無線が、夜中の11時30分頃まで防災情報(電車の復旧情報など)を流していたことだ。

 ブログの方にはこんなことを書いている。
今日(3月11日)の夜の時点で、被害の全容はまだまだ判ってゐない。明日以降、痛ましい悲惨なニュースが徐々に入ってくるだらう。今はまださうした甚大な被害を実感する前夜なのだ。最終的な死傷者数は3桁をこえるのは確実だらうといふ予感がする。最悪、1000人を超えることも考へられる。
 1000人。これが当時の私の予想の限界だった。しかし甚大な被害が明らかになる前夜であったことは本当だった。ちなみに震災の翌日、3月12日からはブログは震災関連の記事は現代仮名遣いで書いている。震災関連の検索で私のブログを見に来た人が「思ふ」などと書かれているのを見たら、人によっては「ふざけている」と感じるかもしれないと思ったから。しかし過去ログをご覧になっていただければ分かるが、3月11日の記事だけはそれまでの習慣通り歴史的仮名遣いのままで書いてある。現代仮名遣いで書き直そうかと思ったが、これも当時の私の慌てっぷりをよく表していると思ってそのままにしてある。

 Twitterももちろん3月11日で終わりではなくて、日をまたいで翌日以降もツイートしつづけている。


・3月12日、13日のツイート

 ちなみに、翌日、翌々日のツイートはこんな感じ。

 3月12日。

これがtsunamiか。身近(日本)で起こると実感として深く迫る。
posted at 00:30:15


日本は地震先進国なはずなのにそれでもこれほどの被害。自然の脅威を感じる。
posted at 00:38:37


22時17分。やや大きめの揺れ。
posted at 22:18:05


 3月13日。

日常も大事だが非日常も大事だ。
posted at 17:43:08


八百万の神と恒河沙の仏が総無視
posted at 20:37:02


お地蔵さんが素知らぬふり
posted at 20:37:55


観音さまが見て見ぬふり
posted at 20:38:24


文殊菩薩がわかってない
posted at 20:39:18


千手観音の手が足りてない
posted at 20:39:43


弥勒菩薩が間に合わない
posted at 20:40:03


天網恢恢疎にしてダダ漏れ
posted at 20:40:25

 ここに当時の私の歎息が見てとれる。神様や仏様に八つ当たりしている。震災後2日目。地震の規模と被害の全容が徐々に明らかになり、絶望的な状況を目の当たりにしてきていた時期だ。
 私はエレン・ケイの「偶然がある子どもを不幸から守った場合、子どもの『守護神』について語るのを聞くことがあるが、わたしはこれ以上の神の冒瀆はないと思う。この『守護神』は、数知れない不幸の際には一体どこにいるのであろうか?」という言葉を思い出していた。東北地方にもたくさんいたであろう神や仏は、あの瞬間何をしていたのか。


・震災から一年が経って

 あれから一年。未だに人出は足りていないし、復興への道のりは遠い。原発事故は収束する気配はなく、本当に弥勒菩薩がやって来ると言われている56億7千万年後まで禍根を残しそうである。

 この一年間、津波で家族を失った遺族の話や信じられないような惨状の映像をたくさん聞いたり見たりした。しかしそれらもこの甚大な災害のごく一部であって、語られることすらなく海のわだつみと消えていった物語は無数にある。

 一年というのは一つの節目ではある。区切りをつけて前を向いて歩いて行かなければならないと言うのもわかる。しかし、行方不明の家族が未だに見つかっていない人、住む家を失った人、原発事故の問題を抱えている福島の人たちなどにとっては「被災」は現在進行形であるだろう。

 日本のあるいは世界のシステムが救えなかったものがたくさんあった。その痛恨の思いのもとに今までもこのブログでたびたび震災関連のことを書いてきた。震災関連の検索で多くの人がこのブログを訪れてくれた。サイドバーのカテゴリー「東日本大震災関連」というところをクリックしていただくと、それらの記事をまとめて読むことができる。またはアーカイヴの2011年3月のところをクリックすれば、当時の日々の記録をリアルに感じることができる。
 東日本大震災のことはまだ書き足りていない。私はこれからも書くだろう。3月11日を忘れないために。後世に伝えるために。

 東日本大震災から一年の日に。

(参照)
りゅうたいぷ(@ryutype)/2011年03月11日 - Twilog

地震前後ツイート

2011(平成23)年3月11日東北地方太平洋沖地震当日 暫定龍吟録