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「上皇后」、「皇嗣殿下」でよいのか

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 天皇の退位に関する有識者会議の最終報告案が出た。それによると、天皇が譲位されると、その名称は「上皇」に、皇后は「上皇后」に、秋篠宮殿下は「皇嗣殿下」になる可能性がある。

 この三つのうち、「上皇」は分かる。「太上天皇」だと「天皇」という言葉が入っているので天皇が二人いるような印象を与える。

 だが、あとの二つには少しく違和感を感じる。


「皇太后」ではだめなのか

 美智子さまは「上皇后」と呼ばれるようになるという。「上皇后」は新設の名称である。昔からある「皇太后」をなぜ使わないのか。
 考えられる理由の一つは、「上皇」と「皇太后」だと“ペア感”がいまいちだから。「太上天皇」と「皇太后」だったら両方に「太」の字も入っていてペア感がある。「上皇」と「上皇后」だったらペア感がある。「御夫婦で共に歩んでこられた」ということを重視しているのだろう。

 しかしそれとは別に看過できない理由がある。それは、政府の有識者会議が言っている「『皇太后』には未亡人というイメージがある」という理由である。有識者会議は、香淳皇太后の例をあげて国民の間には「皇太后=未亡人」というイメージがある、と言っている。これはおかしい。
 今の10代や20代、あるいは30代や40代くらいの人でも、美智子皇后は知っているが香淳皇太后はよく知らないという人はたくさんいるはずである。そもそも「未亡人」という言葉自体が現代では使われない。有識者会議のメンバーの先生方は世代的に香淳皇太后をよく知っているかもしれないが、自分たちが世代的にピンと来るからと言って若い世代の感覚を無視するのはおかしい。

 「『上皇』と言ったら院政を敷いているイメージがある」と言う人もいるが、そんなことを言うのは、昭和生まれと平成生まれの人間だけであって、新しい元号生まれの人たちにとっては「上皇」と言ったら「あのお方」のことである。
 それと同じで、美智子皇后が「皇太后」になったら、「皇太后」という言葉のイメージは塗り替えられ、「皇太后と言えばあのお方」ということになるのである。


有識者会議が「上皇后」の新設を考えるもう一つの理由

 有識者会議が「上皇后」という名称を新しく提案している背景の一つとして、「御夫婦の単位で」という問題があると思われる。
 「御夫婦の単位」を考える時に、皇太后の謂わば「職権」に関する問題がある。
 例えば摂政への就任資格。上皇(仮)は摂政になれなくて皇太后(仮)は摂政になれるとすると、夫婦で揃わなくなる。妻はいいけど夫はだめ、ということになる。
 今上天皇は高齢による御公務の困難等を理由に譲位されるわけだから、譲位後に摂政に就けるようにするのはおかしい。
となると、夫婦単位で揃えるためには、皇太后から今ある摂政への就任資格をなくすことになる。これは典範の根本的改定になる。
 そこで、どうするか。

「夫婦単位」と考えられるのは、夫(または妻)が生きているあいだである。そのように考えて、「夫がいる皇太后」と「夫がいない皇太后」に分ける。
 不謹慎ながら、仮に上皇が先に薨った場合は、その時が来るまでは「上皇后」、その時が来たら名称が変わって「皇太后」となる。夫君が生きておられるあいだは、「夫婦単位」なので資格を制限し、なき後は謂わば「お独り身」なので、ある程度、行動の幅も広がり、資格も復活する。その場合に、「夫が生きているあいだの皇太后」と「夫なき後の皇太后」を区別する必要から、有識者会議は「上皇后」という新たな名称を考え出したのではないだろうか。


「皇太弟」ではだめなのか

 秋篠宮様を「皇嗣殿下」とお呼びする、という案を有識者会議が出している。会議がヒアリングに招いた学者からは出ていなかった案だ。これも新しい名称と言える。「皇嗣」というのは「世継ぎ」という意味だ。つまり皇位継承順位第一位であることを明確にする意味がある。
 だが、そもそも皇位継承順位を名称によって明らかにしなくても、皇室典範によって順位は明確に決まっている。わざわざその名称で呼ぶ必要があるのだろうか。
 典範にある「皇太孫」という言葉との整合性をとって「皇太弟」でよいのではないか。若しくは「皇太子」でもいい。歴史的にはこちらが一般的だが。
 ただ「皇太子」は現行典範の上では難しいかもしれない。典範では、皇太子とは「皇嗣たる皇子」と定められているから。「皇子」とは天皇の子供。秋篠宮様は新しい天皇の子供ではない。

 「皇太弟」、「皇太子」以外だと、「儲君」があり得る。「儲君(チョクン、もうけのきみ)」は、歴史的には「皇太子」のような意味だが、「次に皇位を継ぐ者」という意味なので「皇嗣」の意味にかぎりなく近い。
 なので「皇嗣殿下」と言うぐらいだったら(立太子礼を行わないのだったら)「儲君殿下」でいい。


日本語を先にして考えよう

 今回、このような「上皇后」や「皇嗣殿下」という案が出た理由の背景として、英語名称との兼ね合いがあると思われる。つまり、「皇太弟」を直訳してしまうと、外国で、今までの皇太子と同格だと思われないのではないか、ということを心配してこうした案を出しているのではないだろうか、ということである。
 「皇太后」の公式英訳「empress dowager」の「dowager」には「未亡人」という意味がある。だから都合が悪い、というわけである。
 しかしそれなら、英語の訳語の方をうまく適当なものを見つければよいだけのことではないのか。秋篠宮様の英語名称は、従来の「皇太子」の英訳である「crown prince」で行くことがほぼ決まっている。日本語名称が「皇太弟」で、その英訳が「crown prince」でも別によいのではないか。それと同じように、「皇太后」も適切な英訳語を当てればよいだけという気がする。

 これは「マイネームイズ、ヤマダ・タロウ」を「マイネームイズ、タロウ・ヤマダ」と言うようなものである。一般人は「ヤマダ・タロウ」だろうが「タロウ・ヤマダ」だろうがどっちでもいいかもしれないが、天皇制は日本の伝統の根幹に関わることなのだから、“外国に配慮して”名称を考える、というのは違う気がする。


官邸の意嚮に寄りすぎている最終報告案

 今回の有識者会議の最終報告案に目を通してみて感じたことは、全体的に首相官邸の意嚮に寄りすぎている、ということだ。
 首相には今回の退位を「一代限り」の特別なことにしたいという意嚮があると思われる。「上皇后」という言葉の新設にも、歴史上に登場する言葉とは変えることによって、歴史の中に位置づけるのではなく、「あのときは例外中の例外で特別だった」ということにしたいという意図が透けて見える。だから「上皇后」は過去にも登場しないし未来にも登場しない。美智子様だけの名称となる。
 ただ、そのような「官邸の意嚮」ばかりでは一学者として面白くないのか、会議の座長代理を務めた御厨氏は今回決めたことは「先例」になる、として、未来に影響を与えることは必至であると釘を刺している。

 私は「特例法」を作ることには同意だが、それは天皇の御高齢、御健康の問題が「今まさに現在」の問題で先延ばしにできないからであり、基本的には天皇制の中に「例外」や「新規」を設けるべきではないと考える。
 もし「現代だけの特例」というならば、どのような時代の事情があって、いかに苦心して法律を取りまとめるに至ったかを後世の人たちに説明する文言を盛り込むべきだろう。

 有識者会議の先生方にはあらためて深慮いただきたいことである。
 いや、もう有識者会議は終わってるから、総理にお願いすべきか。

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天皇譲位に伴う課題(2016/08/09)

さようなら、オバマ大統領

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 さようなら、オバマ大統領。

 あなたは私が知っているかぎり、最もまともなアメリカ合衆国大統領でした。

 あなたが銃で亡くなった子どものことを思うと涙が出る、と言って涙を流したのを忘れません。「あんなのパフォーマンスだよ」と言う人もいるでしょうが、パフォーマンスですら涙を流さない人よりマシです。

 「経済政策はひどかった。任期中にアメリカ経済は全然良くならなかった」と言う人もいるかもしれませんが、経済政策よりも重要なのは、先ずは「まともな人間」であることです。

 アメリカ大統領の考えや行動は、アメリカ国民ならず、世界中の人々の人生に影響するからです。イラクやアフガニスタンを空爆し無辜の民を大量に殺して、「ごめん、ごめん、誤爆、誤爆」と言っていた大統領もかつていました。

 「オバマはリーダーシップに欠けていた。在任中に大した実績を何も残さなかった」。

 それでも世界中に悪や憎悪をばら撒くよりはマシです。

 広島を訪れたオバマ大統領。できれば在任中に沖縄を訪れてほしかった。

 私の知るかぎりでは、もっとも人間的な、人間として当たり前の感覚、感情を持っていた米国大統領でした。

 さようなら、オバマ大統領。

兎と狗の違い 〜マイナンバーカードの眼目〜

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 今まで何回もこのブログで、マイナンバーについて書いて来たが、やはりまだまだ多くの人が兎と狗の違いを解っていない、と感じる。

 図書館でマイナンバーカードが使われるようになるとか、商店街でポイントが貯まるようになるとか、そのようなニュースが流れる度に、マイナンバーカード批判の声をたくさん聞く。批判は結構なことだが、それらの批判の多くがあまりにも的外れな批判ばかりである。

 さすがに「まったく関係ない」とまでは言わないけれども、しかし狗は、その大部分において兎とは関係がない。にもかかわらず、多くの人が兎と狗をごっちゃにしてしまっているのは、この二匹の名前が似ているからかもしれない。兎の名前は「マイナ」、狗の名前は「マイキー」、名前が似てるから人々はこの二匹を混同して語る。しかし狗が持ってる鍵は兎の耳とはほとんど関係がないのである。

 マイナンバーカードに反対し批判する人たちは、もしかしたら将来的に「狡兎死して走狗煮らる」ならぬ「狡兎“活きて”走狗煮らる」事態が来ることを予想して批判しているのかもしれない。つまり、狗が兎の“活躍”に貢献する、と。だから「兎に反対の私たちは、狗を持ちたくないんです」と。

 そこまで考えて批判しているなら、それはそれで聞く耳は持つけれども、しかし、狗は兎のために走るというよりは、自らの持つ価値のために走る、という側面が大きいことを知らなければならない。

 この狗はただの「兎のための」狗ではない。物凄く大きなポテンシャルを秘めた狗である。

 マイナンバー制度にしろマイナンバーカードにしろ、私は賛成を強制するわけではない。賛成意見も反対意見もあっていい。だが「私は兎が嫌いだから狗も嫌いです」と言うのはおかしい。

 マイナンバーカードにはたしかに番号が書いてある。しかしこれは言わば「おまけ」みたいなものである。顔写真も付いているから身分証明書にもなります、というのも「おまけ」の機能である。

「身分証明書として“も”使えます」
「番号確認に“も”使えます」

ということで、「おまけとしてそんな風にも使えますよ」というようなものである。QRコードだって「おまけ」である。

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 マイナンバーカードの眼目はそんなところにあるのではない。狗の眼に注目してほしい。眼から鍵に向かって「JPKI」と読めるだろう。眼に「眼目」が描かれているのだから、こんなに分かりやすいことはない。マイナンバーカードの眼目はまさにこの狗の眼目が物語っている。それは、ICチップの中に入っている狗、即ち、公的個人認証(と空き領域)である。そして、この狗(マイキー)は兎の耳(ナンバー)とは関係がない。

 個人認証の中には基本4情報、即ち、住所、氏名、生年月日、性別は入っている。

 「だから、その個人情報を使われるのが嫌なんですよ」

と言うのかもしれないが、それならそれで兎批判とはまた別けて批判すべきことである。

 私はマイナンバーカード批判は大いにあってよいと思う。私たち日本国民の生活に大きく関わってくることなのだから、批判はあって当然である。しかし、今まで私が見聞きしてきたマイナンバーカード批判は、何れも、この兎と狗を混同した頓珍漢なものばかりだった。

 マイナンバーカードはオンラインにおける本人認証が主たる用途になってくる。

 「なんでカードを作ってしまってから使い道を考えてるの?官僚が住基カードの二の舞と批判されないためにあの手この手で普及策を無理やり考えてるとしか思えない。普及しなかったら、また壮大な税金の無駄遣いになって責任者である自分たちの首が飛んでしまうからね」

 そういう批判をよく目にする。しかしそうではない。今、マイナンバーカードと連携する実験が進んでいるものは、ほとんどがカードができる前から計画されていたものである。

 マイナンバーカードは、現代のネット社会を睨み、これから益々オンラインにおける本人認証が重要になってくることを想定して作られた、と私は思っている。ただ、その場にたまたま機械がなかったりして、本人が目の前にいてなおかつカードも持っているのに本人認証ができなかったら、なんか残念だから、対面でも、つまりオフラインでも認証ができるように、券面に顔写真や氏名や生年などの情報を載せたのである。

 つまり、オンライン用途が「主」であり券面は言わば「付属」、「おまけ」みたいなものである。ところが今、マイナンバーカードを批判している人たちは皆、この「おまけ」の方ばかり見て批判している。

 こんなにも的外れな批判が多いのは、おそらく名前のせいもあると思う。「マイナンバーカード」という名前だから、人々は「マイナンバーのカードだ」と思うのだろう。「JPKIカード」、「個人認証カード」などと名前を変えたらどうだろう。

 「嫌いだから近づかないようにしている」人もいるかもしれないが、出来上がってしまってから「ああ、やっぱり国が作るものはロクなもんじゃなかった」と言うのでは遅い。

 「マイナンバーカードって、もう出来上がってるんじゃないの?」

 そんなことはない。出来上がったのは外郭だけであって、「狗」の部分については今まさに「考え中」なのだ。だからこそ、文句があるなら今の内に言う必要がある。そのためには先ず兎と狗の別が解っていないと批判は始められない。


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三浦九段に対する将棋連盟の対応は「悪手」だったとは言えない

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 将棋の三浦弘行九段が、出場が決まっていた竜王戦へ出場しないことになる、という異例の事態があった。

 三浦九段はすでに竜王への挑戦権を獲得していたが、将棋連盟から出場停止処分を受けて、竜王戦番勝負へは出られないことになり、丸山忠久九段が繰り上げで出場することになった。背景には、将棋ソフトを使った不正の疑いがある、としてネットでも一頻り話題になっている。

日本将棋連盟は12日、15日に開幕する第29期竜王戦七番勝負(読売新聞社主催)で、挑戦者の三浦弘行九段(42)が出場しないことになったと発表した。対局中、スマートフォンなどに搭載の将棋ソフトを使って不正をした疑いもあるとして、説明を求めたという。連盟は、期日までに休場届が出されなかったため、12月31日まで公式戦の出場停止処分とした。
三浦九段は朝日新聞の取材に「不正はしていません。ぬれぎぬです」と話し、今後の対応は弁護士と相談中という。
(中略)
対局中は持ち時間の範囲で対局室から出られるが、連盟によると、三浦九段は今夏以降、離席が目立っていたという。連盟側が11日の常務会で聞き取りをしたところ、対局中のスマホなどの使用を否定。「別室で休んでいただけ。疑念を持たれたままでは対局できない。休場したい」と話したという。期日の翌12日までに休場届が提出されず、連盟は処分を決めた。
(『朝日新聞』2016年10月13日)


 このニュースに対し、三浦九段を擁護し、将棋連盟の対応の仕方を非難する声をたくさん聞いた。

 私は将棋連盟の側から、今回の騒動を考察してみたいと思う。以下、ネットでよく見た意見を太字にして、それに対する私のコメントを書き綴っている。


「クロだとしたら今回の処分は軽すぎるし、シロだとしたら重すぎる」

 今回の処分は、約三カ月弱の公式戦への出場停止、である。本当に不正をしていたのなら「除名」「永久追放」ぐらいのことであり三カ月弱の停止では軽すぎる。一方、一切の不正をしていなかったのなら、三カ月でもペナルティは重すぎるし、何より今後の棋士人生で一生、「不正疑惑の人」という目で見られてしまう、という声。

 しかし私は、今回の処分は、朝日新聞の報道の通りだとすれば、直接的には、「不正疑惑」に対するものではなくて、「休場すると言ったのに休場届を出さなかった」ことに対する処分だと読める。そう解すれば、三カ月弱の出場停止というのは妥当な処分であると思う。


「やってもいないことを証明しろなんて悪魔の証明だ。連盟側が不正の証拠を提出すべきだ」

 しかし、連盟も不正したという証拠を提出するのはほとんど不可能なことなのだ。「休憩室に監視カメラを設置しておけばよかったじゃないか」という声もあったが、仮に休憩室でスマホを操作する三浦九段の姿が映っていたとしても、それだけでは不正の証拠にはならない。奥さんとメールのやり取りをしていただけかもしれないし、それは従来、棋士の自由である。


「連盟は指し手のソフトとの一致率や離席率を調べるべき」

 三浦九段の指し手がソフト(コンピューター)とどのくらい一致しているか、というのは、実際多くの将棋ファンが検証している。だが、三浦九段自身も言うように、最善の手を尽くせば指し手がソフトと一致しても何ら不思議ではない。三浦九段は昔から研究熱心な棋士として有名である。三浦九段以外も、現代の棋士たちの多くが研究段階でコンピューターソフトを活用している。ソフトは過去の強い棋士たちの棋譜を学んでいる。今や棋士とソフトはお互いに学ぶ関係にある。

 また、離席率にしても、それを調べて離席率がとても高い、ということが判ったところで、それを以て「だから不正だ」とは言えない。対局中の離席は、従来自由である。何回でも、何時間でも。


「そもそも将棋アプリってそんなに強いの?」

 強い。終盤の詰め筋を発見するだけなら、一般の将棋ゲームアプリで事足りる。

 だが、必ずしもスマホに将棋アプリが入っている必要はない。三浦九段は自分のスマホには将棋アプリが入っていない、と言っているが、本当に不正をしようと思えばメールができるだけでも十分である。将棋には「棋譜」というものがある。これは「5六歩、7七銀成」といった単なる文字である。外部に協力者がいれば、その協力者が自宅でもっと強いコンピュータープログラムを走らせ、その「答え」をテキストデータとしてメールで伝えるだけで十分である。

 将棋アプリが入っているか入っていないかという問題ではないのである。


「スマホの通信ログを調べればいい」

 スマホの通信ログを調べたところで、どうなろう。例えばメールに、

こんにちは。
今度また会おう。


というメールが残っていたとして、一行目は五文字で二行目は七文字だから「5七」だ。というような簡単な秘密のルールを作っておけば他人にはわからない。ある局面で5七に動かせる駒は限られているし、どの駒を動かすべきなのかはプロならばわかる。もちろん、ア行からワ行までにすべての駒を対応させておいて、メールの一文字目がタ行で始まったら「銀」だ、などというルールを作っておくこともできる。

 メールでもスマホでもなくて、例えばポケベルのような原始的な通信手段でもじゅうぶん不正は可能である。「監視カメラに映っていたスマホの画面は将棋アプリには見えなかった」などという理由でシロとは言えないのである。


「だからと言って、疑わしいというだけで処分するのはおかしい」

 だから、今回は不正疑義に関する処分ではなく、あくまで休場すると言ったのに休場届を出さなかったことに対する処分なのである。(不正疑義に関する部分を含むという見方もある。→「将棋ファンから見た三浦弘行九段のソフト不正使用疑惑と竜王戦の挑戦者交代 | 将棋ワンストップ・ニュース」)。

 休場届が書面として提出されなければ、連盟側としては「勝手に休んだ」ということであり、これは処分を下すのに十分な理由である。(もっともその時点ではまだ竜王戦は始まっていなかったので三浦九段が「休んだ」という実績は無い。)

 また、複数の棋士から不正行為の可能性を訴えられている連盟としては、「何もしない」というわけにもいかない。


「三浦九段は竜王戦を辞退するわけがないと言っている」

 三浦九段はNHKの取材に対して、確かにそう答えている。

 これは私の勝手な憶測でしかないが、常務会に事情聴取に呼ばれた三浦九段はA級棋士である自分が不正を疑われたことにカチンときて、「こんな疑いを持たれた状態では竜王戦に出場できない。(だから疑いを解いてほしい)」と言った。三浦九段は括弧の中の気持ちを強調して言ったつもりだったが、連盟側は「出場できない」のところを受け取った。出場できないと言うのなら「それでは休場届を出してください」と言うしかない。三浦九段は竜王戦には出たかったので休場届は出さなかった。連盟側としては休場届が出されなかったら、出場停止処分にするしかない。


「連盟の対応が問題を泥沼化させた」

 泥沼化したのは、メディアや(私を含む)ファンが、興味深く取り上げているからだと思う。

 そもそも連盟は、最初は処分を下すつもりではなく、「話を聞こうじゃないか、あなたの言い分を聞こうじゃないか」ということで話を聞いたのだと思う。シロかクロかを物的証拠ではっきりさせることなど至難なことであることが分かっていたからこそ、本人が「不正はしていませんが、これからは疑いを持たれないように、振る舞いには気をつけます」と言えば、それで終わりにするつもりだったのではないか。


「三浦九段が裁判に訴えたらどうか」

 それは泥沼化になる。

 証人として渡辺竜王が法廷で、「この手は不自然ですよねえ。いかにもコンピューターっぽい手だと思いませんか」と言ったとして、その手がコンピューターっぽいかどうかなんて裁判官の誰も解らない。


「当事者(利害関係者)が登場するのがおかしい。利害関係のない第三者に判断してもらえばいい」

 三浦九段はプロ棋士の中でもトップクラスの棋士である。また研究熱心な棋士として昔から知られる。三浦九段の指し手の深い“意味”を果たしてどれだけの棋士が理解できるだろうか。どれだけの棋士が三浦九段の研究レベルに付いて来れるだろうか。トップクラスの他の棋士たちは理解できるだろうが、トップクラスであれば当然日頃から三浦九段と対戦する機会も多く、利害関係がある。

 つまり、三浦九段の指し手の意味を深いレベルで理解できる人たちはみんな利害関係者である。


「連盟がきちんとルールを決めていなかったのが悪い」

 それは一理ある。

 ただ、連盟はなるべくルールを「ガチガチ」にはしたくなかっただろう。盤の前に座っているより、ぶらぶらと歩いていたほうが良い手が閃く、という棋士もいるはずだ。ルールとして一律に決めてしまうと、すべての棋士の行動を束縛し、とても窮屈なものになってしまう。そして本当に証拠を押さえようとしたら、対局のたびにボディーチェック、スマホのメールもLINEもTwitterもすべて読まれる、トイレにまで付いて来られる、挙げ句の果てには将棋会館内のすべてのトイレに監視カメラを付けられる。そんなことは連盟は望んでいないし、他の棋士たちだって嫌だろう。

 連盟も、おそらく今回の件があったためと思われるが、先日、対局場へのスマホの持ち込みを禁止する、という新ルールを作った。しかし、スマホは駄目だけどガラケーだったらいいのか、とか、外部との通信手段はいくらでもある。通信機器を使わなくても対局室の窓から見える景色に映すことでも不正はできる。


「そもそも三浦九段はなぜ疑われたのか」

 報道によれば、複数の棋士たちからの訴えがあった、と。また、終盤での離席が多かった(または長かった)、と。

 対局中の離席は自由であるが、終盤は普通はあまり離席をしたくない。なぜなら、終盤は両者とも持ち時間が少なくなっており、「できるだけ読みに集中したい」、「できるだけ時間を取っておきたい」と思うからである。序盤や中盤ならともかく、終盤での離席はデメリットが大きい。

 そして、先にも言ったように、長手数の詰み手順があるかどうかは、棋士よりソフトの方が圧倒的に読み切れる。終盤の局面で詰むか詰まないかという微妙な局面では、ソフトはとても役に立つ。

 また、その場にいなければわからない微妙な疑義というものがあっただろう。この局面で席を立つのは不自然だとか、戻って来てすぐに迷わずに指したとか、席を離れる時にポケットが膨らんでいたとか、体を休めるならあっちの部屋で休めばいいのに何故かあっちの部屋に行ったとか、そういうことはその場にいた人間にしかわからない機微だ。


「では、どうすればいいのか」

 これはもう、三浦九段が「振る舞いを正す」しかない。

 勝手に疑われた挙句、「振る舞いを正す」と言われたら三浦九段は怒り心頭かもしれないが、不正を訴えた棋士たちはクロだと確信して訴えているのでこちらも怒り心頭である。しかし、100%シロという証明も100%クロという証明もほぼ不可能である。だとしたら、やはり、疑われないように心掛ける、ようにするしかない。
 
 竜王戦という将棋界で最も賞金額の高いタイトル戦で、棋士たちもみな神経は敏感になっている。そのような場であるからこそ、そしてまたトップクラスに位置する棋士の一人であるからこそ、対局中の振る舞いには殊更、気をつけなければならない。

 私は将棋ファンとして三浦九段が「振る舞いを正す」ことで問題が終息していくことを願っている。


「将棋連盟にはすべきことはないのか」

 今回の一連の騒動及び、それに対するネット上のファンたちの意見を読んでいて、将棋連盟に対する批判が多すぎるように感じたので、この記事では連盟寄りの書き方をした。

 「将棋界(将棋連盟)はムラ社会だ」とか「閉鎖的である」とか「民間の企業だったらあり得ない」とか、「今回の対応はひどい」という意見をたくさん見た。そうした批判の中には、「どうせ連盟の常務たちは将棋のことしか知らない世間知らずに違いない」というような先入観に基づくものがたくさんあるように思われた。

 将棋連盟側にまったく問題がなかったかどうかは分からない。話し合いの場で、最初からクロだと決めてかかるような嫌な言い方をした常務(または棋士)がいたのかもしれない。それで三浦九段が態度を硬化させたのかもしれない。それはその場に居なかった人間には分からない。そんな話し合いはおそらく議事録も残っていないだろう。

 チェスの世界ではひと足早くコンピューターとの共存が問題になり、今では試合によっては一部、コンピューターの使用が認められたりもしている(Advanced Chess)。今回の件を機に、コンピューターの利用についてのルール作りと棋士の対局中の振る舞いについての在り方を、連盟と将棋界に携わる人たち全員で考えてみるといいと思う。


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天皇譲位に伴う課題

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 なんとなく畏まった姿勢でテレビから流れてくる優諚を聞いた。

 NHKが報道したからには、もうこれは、お気持ちを汲んで速やかに譲位を実現させなければならない。

 こんな大事なことをNHKが臆測で報道するはずはなく、陛下自らがお言葉を述べられる前から、御意嚮が伝えられた時点で、「こういう方向で行きましょう」ということは決まっているはずである。

 「数年前から、そのようなお気持ちを示されていた」ということなら、本来なら数年前に報道すべきことだが、それを直ぐに報道しなかったのは、関係者の間で調整が付かなかったからだろう。そして今回報道に踏み切ったということは、ある程度の調整が付いたということだろう。

 報道しておいて、陛下のお言葉までいただいておいて、「お気持ちはわかるけど、法制度の関係で御意に沿うことは難しい」などということがあってはならない。なぜなら、テレビを通じて広く国民に示されたということは、これは「詔(みことのり)」だからである。

 だからこそ、速やかに具体的な実現を目指さなければいけない。「数年前から」が、もし仮に五年前からだとして、お気持ちを発表されてからさらに五年間、国民的議論を尽くして漸く実現に至ったとすると、御意に適うのに十年もかかったということになる。御病気、健康、御年齢による体力の問題に起因する今回の御発言なのに、それではあまりに遅すぎる。

 一方で、決まりを変えることには、さまざまな解決しなければならない問題がある。

 例えば、皇太子殿下が天皇になられた後、誰が皇太子になるのか、という問題。

 皇太子というのは、今までは「天皇の長男」だった。だが、今の皇太子殿下には男のお子様がおられない。愛子内親王は皇太子にはなられない。愛子内親王にはお子様がないので、「皇太孫」もいない。秋篠宮さまは、弟君に当たられるので、「皇太子」と言うのは違和感がある。悠仁さまは、甥である。皇位継承順位が一位になる秋篠宮さまを「皇太子」とするのか、それとも「皇太子不在」でいくのか。その場合、今まで皇太子殿下が担ってこられた公務はどうするのか。

 仁孝天皇以来、約二百年ぶりになる受禪踐阼となれば、またそれに伴う儀式の問題がいろいろ出てくるだろう。さらに、もし万が一、皇太子殿下が新しく天皇に即位されて直ぐに御不予があって公務を行えなくなった場合、今上天皇が「それではもう少し私が引き続き務めましょうかね」と仰せられた場合、これは一度退位したあとの再度の踐阼なので「重阼」ということになる。重阼となると、八世紀の孝謙天皇以来、ここ千二百五十年余り例がない。皇室典範にも規定がない。このような重阼を認めるのかどうか。

 考えなければいけない問題はたくさんある。

 皇室典範を改定すると、未来にわたってルールが変わってしまうので、今上天皇に限った特別法で対応しようという考え方も出てきている。しかし特例は前例になる。将来、「平成天皇(假)の時の例があるから」ということになる。また、今上天皇“だけ”を特別にはからうことが叡慮に適っているのか、という疑問もある。

 こうした諸問題を解決しつつ、速やかに宸襟を汲まなければならない。

 拙速を避けつつ、可及的速やかに。

 難しい課題を迫られている。