宝くじと格差社会
私は宝くじは買つたことはない。1等は絶対に「当たらない」と思つてゐる。
だが、世の中には、これが「当たるかもしれない」と思つて、買ふ人がゐる。私には、さういふ人の気持ちは分かりかねるのだが、宝くじをよく買ふ人は「実際に1等を当てゝゐる人がゐるぢやないか」と、当たりくじの方に注目する。
たしかに、例へば、今年のサマージャンボでは、1等2億円の当たりくじは40本入つてる。2等1億円の80本も合はせれば、「全国で120人もの億万長者がゐるではないか」といふわけだ。
実際にそれだけ当たつてゐる人がゐるのだから、もしかしたら自分も当たるかもしれないと考へる。
しかし、これはやはりをかしな考へ方だ。確率的には1等が当たる確率は1000万分の1である。1人の当選者の陰に、999万9999人のハズレ(落選者)がゐる。言はば、その40人の1等当選者は、圧倒的大多数のハズレの人たちの上に成り立つてゐるといつてよい。
皆さんは、満員の東京ドームに行つて、バッターが打つたホームランボールやファウルボールが、偶然自分のところに飛んで来て当たると思ふだらうか。あるいは、自分の人生史上で、雷に打たれて死ぬことがあると思ふだらうか。
1000万分の1の確率の出来事といふのは、ほゞ「起こらないこと」と言ひきつてしまつてよい。それぐらゐ、宝くじの1等は「あり得ないこと」なのである。
2008年3月2日の記事「「成功」の理由を考える」で、私は格差社会について少し論じた。格差社会といふのは、まさにこの宝くじの世界と一緒で、ごく一部の成功者と圧倒的多数の不成功者によつて成り立つてゐる。「個人が成功を収めれば済む話ぢやない」とその時書いた。さう、貧乏人が1等に当たれば済む話ではないのだ。
1等2億円を当てた人は、もう向かふ側へ行つてしまふ。「向かふ側」とは「成功者の側」のことだ。不成功者たちのことなんかもう完全に忘れて、2億円の使ひ道のことで頭がいつぱいだ。もちろん、1等を当てゝもいいのだけれど、たゞ1等を当てた人たちは運の良さを噛みしめてもらひたい、そして多くの不成功者たちの存在にも思ひを致してほしい、といふのが3月2日の話だつた。
宝くじは娯楽の世界の話だからいい。けれども、これがもし社会問題だつたら、もつと当選金額を小額にしてでも、できるだけたくさんの人が当たるやうにしなければいけない。
ハズレくじを引いた圧倒的多数の人たちが1人の人を大金持ちにするためにお金を払つてゐる。さういふ“社会”、“確率的に歪な社会”が問題なのであつて、一人一人に、あるいは貧乏な人に「宝くじの当たり方」を伝授すればいいといふ話ではないのだ。
私はこれからも、宝くじを買ふことはないだらう。
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Tag : 宝くじ
大聖堂落書き事件にみる心理
私は、この事件の詳しいことを知らない。どの程度悪質な落書きだつたのかわからない。落書きは、大きく書いたのか小さく書いたのか。たくさん書いたのか少し書いたのか。目立つところに書いたのか目立たないところに書いたのか。簡単に消せるもので書いたのか簡単には消せないもので書いたのか。かうした程度によつて、悪質度合ひも変はつてくる。
一説によると、その大聖堂にはたくさんの落書きがあつたさうだ。割れ窓理論を引用するまでもなく、もしそこにたくさんの落書きが放置されてゐたら、「自分も記念カキコして行かう」といふ気持ちになる者もゐるかもしれない。
もつとも、だからと言つて、落書きが許されてよいといふことにはならない。今回の大学生がした行為を擁護するつもりはないし、私も落書きは大嫌ひだ。
だが、今回の事件に対する日本の世間の反応が気になる。
「日本の恥だ!」と言ふのは、まあ分かる。
「もう一度イタリアまで行つて土下座して来い!」と言ふのは少し言ひすぎかと思ふが、まあ正義を思ふ憤りの心から出た言葉なのだらう。しかし、
「学生の謝罪旅行にマスコミも同行すればいいのに」と言つた者がゐたが、これはいたゞけない。これは、「このバカな若者をみんなで見世物にして晒し者にしよう」といふ魂胆である。
かういふ群集心理はおそろしく、殊に戒めなければならない。ネット上で時々起こるブログの「炎上」といふやつも同じ心理から起きる。
これらの学生は、すでに謝罪文を書かされたり、停学になつたり、それなりの罰を受けてゐる。人間誰しも過ちを犯すことがある。それを本人が二度と立ち直れないほどに完膚無きまでに「群集」の力が袋叩きにするのはよくない。
人は誰でもいつでも、この学生の立場になる可能性がある、といふことを想像しなければいけない。「自分は絶対落書きなんかしない」と思つてる人でも、他のどんなことで急に世間の批判の矢面に立たされるか分からない。その時、初めて、「群集」の袋叩きの恐ろしさに気づくかもしれない。
ところで、この大学生たちは、落書きに自分の名前も書き、さらにご丁寧なことに所属する大学名まで書いてゐたといふ。
ネット上で匿名で落書きのやうな中傷、嘲笑コメントを書き込んでゐる輩より、よほど潔いのではないか。
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Tag : 落書き
子どものために、大人のために、ノーテレビ・ノーゲームデーを
ノーテレビ・ノーゲームデー:「家庭の会話増やして」 行橋市立17小中学校、来月から毎月1回
福岡県の行橋市教委と同市PTA連合会は25日、来月から毎月1回、市立17小中学校に通う児童・生徒(計6198人)の家庭を対象に、テレビを見ず、ゲームもしない「ノーテレビ・ノーゲームデー」を設けると発表した。
昨日、ノー・ネット・デーについて書いたが、今日は、ノーテレビ・ノーゲームデーの話。
かういふ話が出ると、必ず
「こんなことは、行政や学校が強制することではない。各家庭が判断してやればいいこと」
と言ふ人が出てくる。
だが、テレビやゲームが子どもの勉強時間を減らしたり、家庭内の会話の時間を減らしてゐることは明らか。
子どもが自主的にテレビやゲームを止めることは難しい。
では、親が止めさせればいいのか?しかし、今の時代は親も一緒になつてテレビを観たり、ゲームをしたりしてゐる。以前、病院の待合室で、子どもよりもずつと携帯ゲーム機に熱中してゐる母親を見た。
さういふ家庭の子どもも含めて学校が半強制的にノーテレビ・ノーゲームデーを決めてくれるのは、本来はありがたいことなのだ。
自分でそのやうなものを決めようと思つてもなかなかできない。テレビやゲームの魅力に自ら逆らへる子どもなど少ない。大人でも少ない。そこまで意志の強い人はなかなかゐない。
例へば、本を書く仕事の人がゐるが、編集者が半ば強制的に締め切りを決めてくれるから、文章を書き上げることができる。これが、もし締め切りといふものが無かつたら、本一冊を書き上げるのは相当困難だらう。
今の30代以下の人は、自分が子どもの頃にも家庭内ゲーム機があつて、それで遊んで育つたはずだ。テレビやゲームのおかげで、いかに友達とのあるいは家庭内での会話が少なくなつたかを身をもつて知つてる世代のはずだ。
さういふ世代の人間こそが、今回の行橋市のやうな取り組みを積極的に支持していくべきではないのか。
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Tag : ノーテレビ・ノーゲームデー
秋葉原通り魔事件と若者の雇用環境問題
昭和4年に小林多喜二によつて書かれたプロレタリア文学の古典なのに、今年に入つて急に話題になり出した。今、全国各書店でベストセラー入りしてゐる。人気の理由は、この作品背景にある労働者の環境が現代のワーキングプアの問題と大いに重なるところがあるかららしい。
この現代の『蟹工船』ブームの火付け役の一人は、雨宮処凛氏だ。
その雨宮処凛が、今日の新聞で、先日の秋葉原通り魔事件について書いてゐた。秋葉原通り魔事件については、私も6月8日の記事で速報で取り上げたが、その時はまだ事件が起きた直後でもあり、事件に関する深い考察を加へることはできなかつた。
雨宮氏が今日の新聞で書いてることと、ほゞ似たやうなことがこちらのページに載つてゐるので読んでみてもらひたい。
雨宮処凛は、現代の若者が置かれてゐる派遣労働や日雇ひ労働などの過酷な現状が、秋葉原の犯人を追ひ詰め、今回のやうな事件に走らせたのだといふ見方をしてゐる。
かうした若者が今の日本にはたくさんゐる。そして、このやうな若者たちの鬱積は積もりに積もつてゐる。このエネルギーをどこかに吐き出したいが不満の矛先がない。不満を言はうとすれば、世間からは常に「自己責任」と言はれ、ますます行き場のない思ひが溜まる。「国際競争」ばかりを強調し、非正規雇用を使い捨てることで人件費削減を成し遂げ、「史上最高の利益」を連発してきた日本の多くの大企業。その影でホームレスやネットカフェ難民となってきた若者。
かうした若者の現状は、明らかに社会のせゐであり先行利権者としての大人たちの責任でもあるのに、それを「自己責任」だとか「働かざる者、喰ふべからず」などと言つてる大人たちは何も分かつてない。
真面目に社会運動などをするよりも秋葉原のやうな大事件を起こした方が、世間が注目してくれて若者の雇用環境などの問題に真面目に目を向けてくれるやうになるのは皮肉なことだ、と雨宮は書いてゐる。「自爆テロしたい」「いっそのこと、戦争でも起こればいいのに」「通り魔になってみんな殺してやりたい」。ワーキングプアと呼ばれたり、既にネットカフェ生活だったりする若者たちから届くメールや、実際に彼らと話した時に聞いた言葉だ。
もちろん、今回、犯人がとつた行動は到底、許されるものではない。いくら不満が溜まつてゐたからといつて、通り魔になつてよいといふことはない。
けれども、さうした犯人を「甘つたれとる」と批判するのは、違つてゐる。そのやうに、個人の責任、個人の問題、といふ方向に視点が向かつてしまふと、事件の背景にある社会の問題がいつまでたつても見過ごされる虞がある。
秋葉原の犯人が凶行に至つた原因の真相は分からない。おそらく複数の原因が重なつてゐるのだらう。雨宮処凛の見方は、その複数の原因の中の一つの要因だと思ふ。
二度と秋葉原のやうな悲惨な事件を起こさないためにも、一人一人が社会の在り方について考へなければならないと思ふ。もちろん、彼のしたことは許されることではない。しかし、ここまで25歳の若者を自暴自棄にしてしまったのは、一体何なのだろうか。多くの若者から「未来」を奪ってきたこの社会のシステムを、もう一度考え直す必要があるだろう。
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100万人のキャンドルナイト
6月21日夏至〜7月7日七夕まで。
といふ呼びかけ文に共感。プラグを抜くことは新たな世界の窓をひらくことです。
かうした催しに世界中の人が参加すればいい。100万人と言はず、1000万人、1億人のキャンドルナイト。
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Tag : キャンドルナイト



