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【囲碁】イ・セドル九段と人工知能AlphaGoの戦いがまったく面白くなかった【Challenge Match】

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 イ・セドル九段とAlphaGoの戦いがまったく面白くなかった。

 イ・セドル(以下、敬称略)はコンピューターとの戦い方を知らない。

 グーグルが開発した囲碁AI(人工知能)のAlphaGoと「人類代表」のイ・セドルの戦いは、試合前からだいぶ注目を集めていた。「Google DeepMind Challenge Match」と題して、2016年3月9日から3月15日までソウルで行われた五番勝負はYouTubeでもストリーミング放映され、大きな反響があった。AlphaGo(アルファ碁)はグーグルが「ディープラーニング」と呼ばれる新たな学習方法を搭載させた囲碁の人工知能だ。一方のイ・セドルは「魔王」の異名を持つ世界で最も強い韓国の囲碁棋士だ。多くの人はイ・セドルが勝つと予想していたようだが、私はAlphaGoが勝つと思っていた。イ・セドルは一勝もできないだろうと思っていた。試合の結果は、五番勝負でAlphaGoの四勝一敗だったので、AlphaGoが勝ち越すという私の予想は当たったが、イ・セドルが一勝もできないという予想は外れた。

 世間では「AIが人類の叡智を超えた」とか「感動した」という声が随分多かったようだが、私にはちっとも面白くない戦いだった。皆、この結果を以て、「人工知能の勝利だ」、「コンピューターは囲碁でも人間を上回ったのだ」と言っているが、そんな「人類の歴史的敗北」というには相応しくない、まったくお粗末な試合だった。

 イ・セドルはどれくらい事前にAlphaGoを研究していたのだろう。そこら辺の情報が全然入ってこないのだが、おそらくAlphaGoのことを全然知らずに、言わば「丸腰」の状態で対局に臨んだのではないか。こんなことは、対コンピューター戦ではあり得ないことだ。

 日本の将棋の世界におけるここ数年の人間対コンピューターの試合のことをイ・セドルは知らなかったのだろうか。

 昨年2015年、日本では、囲碁よりもコンピューターに勝つことが難しいと言われている将棋で人間のプロ棋士がコンピューターに勝利した。勝つことができたのは、プロ棋士が事前にコンピューターソフトを借りて入念に研究と対策を考えてから試合に臨んでいたからだ。どんなに強いプロ棋士でも何の事前情報もない初対面のソフトに対して勝つことはできない。勝利した棋士は事前にソフトと何百局、何千局と指して、ソフトの癖や弱点を見抜いた上で試合に臨んでいた。対コンピューター戦においては事前研究は“常識”である。

 事前に相手に関する情報を仕入れるのは決して卑怯なことではない。人間同士の対局でさえ、相手のことは知っている。相手の棋風、得意戦型などは事前に知っていることだ。だから、例えば「この人は角換わり(という戦型)が得意だから、その形には持って行かないようにしよう」などと考える。コンピューター側だって、過去の何万局だか何十万局だかの厖大なデータが入っているわけだから、当然、イ・セドルの過去の対局情報も入っており、彼の棋風や癖、弱点だって知っているのだ。

 日本の将棋の棋士たちがあれほど入念にコンピューター対策を行っていたのに、もしイ・セドルが相手に関する何の事前研究もせずにのこのこと対局場へ出かけて行ったなら、こんな愚かなことはない。

 だいぶ以前、将棋界でも似たようなことがあった。渡辺明と木村一基という二人のプロ棋士がコンピューターソフトと戦うことになった。渡辺は将棋界の第一人者、木村も将棋界指折りの実力者だ。で、結果はどうなったかというと、木村は敗けて渡辺は勝った。木村は自らの腕っぷしの強さを恃んで特にソフトの研究もせずに対局場に赴いた。渡辺も棋界随一の力を持っているので当然腕には自信があったが、念の為にソフトの研究をしてから対局場へ赴いた。渡辺と木村の力の差ではない。渡辺はコンピューターとの戦い方をよく解っていた。(※もっともこの戦いは「角落ち」という変則ルールでの試合だった。またかなり昔のことなので私の記憶が間違っていたら木村さん、ごめんなさい。)

 私のイ・セドル(又は韓国棋院)に対する不満は大きく二つある。

 一つは、今言った事前研究の怠りだが、もう一つは、ルールの不透明さである。

 イ・セドルは、今回の試合に臨む前に、どこまでルールの策定に関わったのだろうか。

 「えっ、囲碁のルールなんて最初から決まってるんじゃないの?」と思う人もいるかもしれない。だがそうではない。囲碁や将棋のルールというのは従来、人間対人間を前提として作られていた。対コンピューターということを前提としては作られていない。

 例えば、コンピューターは何台まで繋げていいか、とか、コンピューターが試合の途中で固まってしまった場合、ソフト作成者(技術者)がどこまで「修理」していいか、という問題がある。「修理はいいけど増強や改良は駄目」といってもどこまでが「修理」でどこからが「改良」なのか、などといった細かい問題も残る。他にも誰が敗けを宣言するか、コンピューター自身ではなくソフト作成者が勝手に「敗けました」と言ってもいいのか、とか、対コンピューター戦では新たに決めなければいけないルールがいっぱいある。

 極端な話、「二日間休みなしで対局」というルールにした場合、これは当然コンピューター側に有利になる。人間は眠くなってくるし疲労で思考力も集中力も落ちてくるからだ。

 私は一応、韓国棋院とグーグルの双方のサイトを覗いてみたが今回のチャレンジマッチに関する細かいルールが書かれたページを見つけることはできなかった。明らかになっていたのは「中国ルールで行う」ということだけだった。(※囲碁は中国ルールと日本ルールで若干ルールの違いがある。)

 将棋の時も、こうした従来の人間対人間の時にはなかった新たなルール問題でだいぶ揉めたのだ。だから、2015年の電王戦などでは事前に細かくルールの確認が行われた。(それでも試合後に揉めることになったが。)

 世界チャンピオンともあろうプロ棋士が、対局条件(試合のルール)も確認せずに、というより、ルールに一言も口出ししないなどあり得ないこと、あってはならないことだ。

 以前、私は今回と似たような不満を抱いたことがある。それは、かつて民放のTVで放送されていた「ほこ×たて」という番組を見たときだった。例えば「絶対に壊れない壁VS何でも壊す鉄球」というような勝負があった。どっちが勝つか。それはルール次第である。もし一発勝負なら壁が勝つだろうし、何日間も何カ月間も叩き続けていいのであればいつかは鉄球が勝つ。それなのに、番組に呼ばれている会社関係者は、ルールを番組スタッフに任せている人が多かった。私が会社関係者だったら絶対にルール決めには口を出す。勝つか負けるかはほぼルールによって決まるからだ。二時間以内という時間制限があったとしても、鉄球を釣り上げるクレーン車がポンコツか高性能かでは、当てられる回数が違ってくる。壁サイドから考えれば、壁の厚さや大きさ、それにその日の天候が晴天か雨上がりの湿度が高い日かによって壁の堅さも違ってくるということもあるだろうから、気象条件が有利な日にやりたいと考えるだろう。もっとも所詮はTVのエンターテインメント番組なので、一瞬にして勝負が決まってしまってはつまらないので、番組スタッフがギリギリの勝負になるようにうまくルールを考えるのだろう。所詮は「真剣勝負」の世界ではなく「ショー」なのだ。

 「ああ、ルールはそっちで決めていいですよ。どういうルールであれ、私に勝てたら大したもんですよ」

 こういう科白は、一瞬、かっこよく聞こえる。だが、こんなことを言っていいのは、せいぜいアマチュアの高段者であって、プロならば絶対に言ってはならない科白である。

 イ・セドルはどういうつもりでチャレンジマッチに出て来たのだろう。もし、グーグルの宣伝に協力するボランティアとして出て来たのなら、別に私は何も言うことはない。しかし、真剣勝負で勝つつもりでいたのなら、事前のルール決めに口を出さなかったのはプロ失格である。

 2015年、日本の将棋棋士、永瀬拓矢はコンピューターソフトに勝利した。一回勝負で勝った。

 事前に入念にソフトの研究をしてから対局に臨み、本番では「角不成」という常識外の一手でコンピューターを敗けに追い込んだ。コンピューターが「角不成」を認識できなかったのだ。これは事前に相手の弱点を知っていたからこそできたことである。永瀬は事前の研究でコンピューターが角不成を認識できないことを発見していた。しかも、永瀬は、この一点だけを研究していたわけではなく、もしコンピューターが「成長」していて角不成を認識されてしまったら、次はこれ、次はこれ、というように幾つもの「策」を考えて対局に臨んでいた。

 これは、対コンピューター戦の正しい戦い方だった。

 いや、「正しい」かどうかは分からないが、少なくとも対コンピューター戦はいかにあるべきか、どのように戦うべきか、という一つの形を示したことは確かだ。

 日本の将棋棋士で「天才」と呼ばれている羽生善治は、「もし自分がコンピューターと戦うことになったら、一年間くらいコンピューターの研究に専念する必要がある」と言っている。

 日本の将棋界という良き先蹤があったにもかかわらず、囲碁界がそこから何も学ばずに世界的大舞台でAIに敗北を喫したのは実にみっともないことであった。

 もっともAlphaGoを事前に借りてじっくり研究して、さらにルール決めにも参加して慎重にルールを決めていたとしても、それでもイ・セドルが勝っていたかどうかは分からないが。
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私にとってのウィキペディア

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 今朝起きたら、ウィキペディア日本語版の記事が100万を超えていた。

 日本でも、今では「ウィキ」と言ったら「ウィキペディア」のことを指す、と思われるくらいに多くの人々に知れ渡ったウィキペディア。

 つい先日、ウィキペディアが15歳の誕生日を迎え、「あなたにとってウィキペディアとはなんですか」と問いかけていたので、私にとってのウィキペディアについて考えてみる。


そこそこ信頼できるオンライン百科事典

 ウィキペディアをどこまで信頼していいかというのはずっと議論のある話で、「鵜呑みにしてはいけない」とよく言われる。どれだけ信頼できるかというのは、項目やジャンルにもよる。例えば時事的な項目で編集合戦が行われているような項目には、たくさんの注意喚起が書かれている。

 それでも日本語版のウィキペディアは信頼されているほうだ。それは日本におけるウィキペディアへのアクセス率の高さからも分かる。日本語版ウィキペディアは記事数こそ少ないが、とてもたくさん参照(利用)されている。諸外国語版に比べても、まあまあ信頼できる、と言える。

 「鵜呑みにするな」という声は、「信頼に足りない」という気持ちから来るよりも、どちらかというと「自分で考え調べる努力をしろ」という気持ちから来ていると思う。学生がレポートを書くのにウィキペディアを丸々コピペしたりして問題になるのは時々聞く話だ。


記事を書く難しさ

 日本語版の記事数は2016年1月時点で世界13位。アジアの中でもセブアノ語、ワライ語、ベトナム語に次いで第4位。日本の人口(日本語話者数)や日本のネット利用率の高さから考えても少なすぎる数字だ。もっとも、セブアノ語版やワライ語版などは、ボットで記事を粗製濫造しているとも聞くから、必ずしも記事数が多ければよいというものでもないが。

 なぜ日本語版の記事がこんなに少ないのかはよく分からないが、私もウィキペディアの充実のために記事を書こうと思ったことがある。しかし記事を書くのは予想外に難しいということが分かった。
 有名な項目についてはもうすでに記事がある。まだ記事がないのは無名な、マイナーな項目だが、そのようなマイナーな項目はそもそも参考文献が少ない。自分の見識や見解だけで記事を書くと「要出典」のタグを付けられてしまうので、権威(参考文献)を探さなければならないのだが、それが平凡社や小学館の百科事典ぐらいしかなかったとすると、それはその百科事典の丸写しになってしまう。あるいは、ウェブで情報を探して英語版ウィキペディアくらいにしかその項目についての説明がなかったとすると、それはやはり単なる英語版ウィキペディアを翻訳しただけ、ということになってしまう。
 ウィキペディアの記事を書くのは意外に難しいのだ。


ウィキペディアの面白さ

 “アンチ”ウィキペディアの存在として「アンサイクロペディア」というものがある。ジョーク版ウィキペディアといったところか。
 アンサイクロペディアに集う人たちはウィキペディアの多すぎる「要出典」タグを皮肉り、「ユーモアを解さない人たち」と言う。

 だが、本当にウィキペディアは面白くないのだろうか。

 例えば、【野比のび太】という項目がある。
 のび太というのは漫画『ドラえもん』に出てくる架空の人物である。その架空の人物についての項目が14000字を超える長文で驚くほど詳しく書かれている。過去の厖大な漫画やアニメを「出典(参考文献)」として、性格やら特技やらについて事細かに書かれているのである。

 例えば、ウィキペディアに拠れば、のび太の特技の一つは射撃で、「1個の空き缶にピストルの弾丸6発を空中で全弾命中させるという離れ技も見せている」のだそうだ。そしてその特技について「ドラえもんに至っては「現代では全く役に立たない能力」と断じている。」と書かれている。

 私は、こうしたところに、ウィキペディアのユーモアセンスを感じる。

 のび太について知りたいと思ったときに、紙の百科事典を引いても載っていない。こういうのはウィキペディアにしか載っていない。もちろん、のび太のことを好き勝手に面白おかしく書こうと思えばいくらでも書けるが、ウィキペディアの面白いところは、こんな漫画の登場人物について、大真面目に書いているところにある。真面目に調べて書いているからこそ面白いのである。

 多すぎる要出典タグは時に煩いと感じられるかもしれないが、【野比のび太】の項目などは、確かな典拠がウィキペディアを面白いものにしている一例と言える。


ウィキペディアの存在意義と課題

 こうして考えると、ウィキペディアの存在意義というのは、紙の百科事典には決して拾われないような項目の充実ぶりにある、と言えるかもしれない。同時にそういった隙間をより充実させていくことが課題とも言えるだろう。

 また、利用者側の課題としては、やはりウィキペディアに過度に依存しすぎない、ということが挙げられると思う。ウィキペディアの文章を丸々コピペ、などという行為は、「典拠を示しなさい」「原典に当たりなさい」というウィキペディアの精神の真逆を行っている。

 「ウィキペディアを鵜呑みにしない」という言葉をウィキメディア財団は嫌がらないだろう。

 15周年、おめでとう。

Don't google !

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 グーグルが嫌いだった。

 「ググらない」生活を送ってきた。

 今でも。

 グーグルが齎した罪について考えたい。


誕生当初から評判がよかったグーグル

 今の若い人たちは知らないかもしれないが、グーグルというのは徐々に評判が良くなっていったのではない。登場した時からいきなり評判が良かった。
 昔はダイヤルアップ接続と言って、インターネットへの接続は非常に細く遅かった。一枚のウェブページが表示されるのに何分もかかった。そんなとき、情報量が多くて読み込みに時間がかかる画像を多用しているヤフーより、トップページにロゴと検索窓しかないシンプルなグーグルは、それだけ素早く表示された。
 検索サイトにアクセスする時は、すぐに何か調べたいことがある時なので、このちょっとした「速さ」を人々は喜んだ。

 その後、グーグルは成長と拡大を続けた。
 AltaVista、Lycos、Infoseek、gooを駆逐した。一時、評判になったAsk.jp、Technorati、MARSFLAG、Bingさえグーグルの敵ではなかった。そしてヤフーを追い抜いた。

 ヤフーにグーグルの検索エンジンが採用されていることを考えれば、今や検索の世界はほぼグーグルに支配されていると言っても過言ではない。


「知」の在り方を変えた暴力的な検索

 インターネット初期の頃、私はグーグルよりヤフーの方が好きだった。
 ヤフーは「ディレクトリ検索」と言って、検索の仕組みに人力が入っていた。
 だがそのうち、爆発的に増えるウェブページの整理が追いつかなくなり、人力を排したグーグル式の検索エンジンが流行するようになった。

 私がグーグルに対して最初に抱いた印象は「ずるい」だった。

 すべてを横断的に検索してぶっこ抜く。

 私にはこれは“本来の”順番を無視しているように感じられた。

 例えば「ウィキペディア」というサイトを知っていて、そのウィキペディアのページでサイト内検索をかけるのとは違う。
 サイト内検索は、まだサイトに辿り着いてからの行為だから、それは“順序に適っている”というか、“行儀がいい”行為に思えた。

 だが、グーグルは違う。検索ワードからもっと直接的に答えに辿り着く。ウィキペディアという便利なサイトを知ってる必要すらない。

 しかも、精度がいいので、最も欲しかった答えにダイレクトに辿り着く。誰でも検索窓に好きな言葉を入れるだけ。ウェブサイトに関する予備知識は必要ない。必要な知識は「ググり方」に関する知識だけだ。


グーグルが葬り去ったもの

 グーグルが葬り去ったもの、それは例えば「知識」だ。

 「もの知り」とか、該博な知識を持った人への敬意とか。

 グーグルが登場してから、知識を自分の頭の中に入れておく必要はなくなった。必要なときにその都度ググればいいからだ。

 今の時代には、例えば「漢字博士」はいない。漢字に詳しい人はいるだろうが、その知識は永遠に役立たない。
 今の人は分からない漢字があったら、隣の漢字に詳しい人に聞くのではなく、目の前のパソコン、ネットに聞く。
 上司、先輩からもそのように教えられる。
 「先ずはググろうよ。それでも分からなかったら聞きにおいで」

 せっかく隣の席に漢字に詳しい人がいるのに、その知識が活かされることはなくなった。それどころか、現代人は隣の席の人が漢字に詳しいということすら知ることはないだろう。

 現代の人々に尊敬されているのは、隣の漢字博士ではなく、カリフォルニアのグーグル先生である。


グーグルによって人間は「馬鹿」になる

 グーグルが葬ったものは知識だけではない。記憶もまた不要になった。

 あらゆることはログとして記録されているので、それらを自分の頭の中に記憶させておく必要はなく、必要なときに検索して引っ張ってくればいいだけになった。

 ところで先日、こんな記事を見かけた。

ネット検索は「自分は賢い」と錯覚させる 米研究 - ITmedia ニュース

 ネットによる情報検索は、実際以上に自分が賢いと錯覚させる──米国の研究者によるこんな研究結果が米心理学会の専門誌に掲載された。検索ユーザーはネット上の知識と自分の知識を混同してしまう傾向があり、研究者は「正確な知識を身につけるのは難しいことだが、ネットはそれをさらに困難にしている」という。

 ある実験では、対象者をネット検索を使ってもいいグループとそうではないグループに分け、「ジッパーはどういう仕組み?」といった4つの質問に答えてもらった。その上で、4つの質問とは無関係な別の質問(「曇りの夜はなぜ暖かい?」など)を示したところ、ネット検索を使ってもいいグループは、そうではないグループに比べ「自分はその質問に答える能力がある」と考える傾向にあったという。

 検索を使えるグループは、正確な回答が見つからないようなとても難しい質問や、Googleのフィルターによって回答が見つからないようになっている質問を検索した場合でさえ、自分の知識は十分にあると感じる傾向にあった。「“検索モード”時の認知作用はとても強力で、検索で何も見つからなかった時でさえ、人々は自分を賢く感じているようだ」と研究者は述べている。 



 今はこの実験の信頼性については語らない。

 私が気になるのは、このような記事を読んでもなお、
「でも、その『まず検索する』ということすらしない馬鹿がいるのが問題なんだよ」
と言う人が多いことだ。

 それぐらい現代では「先ずググる」、「先ず検索して自分で調べる」というのが常識になっている。

 ググった結果の一番目にヤフー知恵袋が出てきて、回答者が「すぐに聞かないで先ずは自分で調べる努力をしましょう」だとか「◯◯_△△でググったらいっぱい出てきますよ」などと言っていてガッカリした経験のある人も多いのではないだろうか。ググった結果、そこのページに辿り着いているのに…。


ググるカス

 私は、すぐに「ググレカス」と言う人のことを、内心密かに「ググるカス」と呼んでいる。

 「ググレカス」と言う人は、どんなことでもグーグルで答えが出て来ると思っている。
 「自分が思いつくようなことは大抵、誰かが同じような疑問を持ってどこかに書いているはずだから、ググればわかるんですよ」と言う。

 ググる人たちは所詮そのレベルなのだ。世界の誰かしらが思いついたり考えたりした、その後追いの範囲内でしか生きていないのだ。

 誰も考えていないことは、ググっても出てこない。答えはウェブ上では見つからない。

 それでも「ググるカス」たちは、それはググり方が下手なのだ、と思っている。
 「AND検索やOR検索は使ってみた?英語でググってみた?」と言う。

 テクニックの問題だと思っている。テクニックとグーグルに対する過信がある。


“宝”を見落とすグーグル

 グーグルは確かに、その“優秀な”評価の仕組みで、有用なウェブサイトやウェブページを目立つところに引き上げて来た。

 「ページランク」をコアとするその評価手法は、たしかに優れた一面があった。これによって、人々はまったく役に立たない、あるいは中身の無いサイトを見なくて済むようになった。

 だがグーグルは「宝」を見落とす。

 どんなに素晴らしい内容のページでも、被リンクがないページをグーグルは見つけられない。

 グーグルは、素晴らしい内容のページは必ず誰かに見つけられ、リンクされ、さらにリンクがリンクを呼んでランクが高まっていく、と考えている。

 しかし、その最初の「リンク」を張るのは人間だ。人間が中身を読んで、このページには素晴らしいことが書いてある、と判断して初めてリンクができる。

 ところで、ウェブの世界には「グーグルの検索結果に出てこないウェブページはこの世に存在していないも同じ」という言葉がある。
 ちゃんとURLがあってウェブ上には存在していても、グーグルの検索結果に出てこないのでは、誰の目にも留まることがないから存在していないも同然、という意味だ。

 すると次のような問題が出て来る。
 とある素晴らしい中身が書かれたウェブページがあったとしよう。
 しかし、

 誰からもリンクされていないのでグーグルが拾えない。
  ↓
 グーグルの検索結果に出てこないので誰もそのページの存在を知らない。
  ↓
 誰も見たことがないので、そのページの中身を良いとも悪いとも評価できない。
  ↓
 誰もリンクしない。
  ↓
 誰からもリンクされていないのでグーグルが拾えない。

というループができる。

 グーグルの評価の仕組みには、このような欠点がある。埋もれた宝を見つけ出せないのだ。見つけ出せないどころか、グーグルの「活躍」がますます宝を埋没させることに繫がっている。
 被リンクがなくても、閲覧数が増えるとか、なんらかの動きがなければグーグルは拾えないのだ。


グーグルが掬い損ねたもの

 グーグルがその羂索(検索)に救い(掬い)そこねたもの、それは「端末にいないもの」だ。

 グーグルはウェブ検索だけに力を入れてきたのではない。ソーシャルネットワークにも力を入れてきた。古くはOrkut、今はGoogle+を柱に据えている。ソーシャルネットワークを活用して社会を良くしていこう、という動きもある。

 だが私は、グーグルのウェブ検索にしろソーシャルネットワークにしろ、その根本の仕組みは大きく変わらないような気がする。ウェブページを点(ノード)にしていたものを「人」に置き換えただけのように思える。

 グーグルはウェブに乗っかって、ハイパーリンクという架橋の仕事を続けてきたが、その橋(はし)の末(すえ)にいないもの、端末にいないものは、結局のところ掬え(救え)ない。
 それはウェブページだろうが人だろうが同じことなのだ。

 グーグルは広大なウェブの世界を整理し、ウェブを使いやすいものにした。これはグーグルの功績だ。
 一方、グーグルのページランクを代表とする検索の評価の仕組みは、強いものをより強く、弱いものをより弱くすることに貢献した。これはグーグルの罪だ。
 弱い紐帯であれ、繫がっているものはまだいい。まったくどこにも繫がっていない「孤立したもの」は、グーグルの仕組みでは救われない。


ウェブの終焉とグーグル

 数年前から「ウェブの終焉」が囁かれるようになった。たしかに「アプリインターネット」の隆盛などを見ていると、そんな気がしないでもないが、この先、ウェブが終焉するのかどうか私にはわからない。
 しかしウェブが終焉したとしてもグーグルは、あるいはグーグルに似た何かは生き残るだろう。ウェブが過去のアーカイヴのような保管庫のような場所になったとしても、そこを覗くための道具としてやっぱり人々はグーグルを必要とするだろう。


脱グーグルの生き方のすすめ

 自らの知識も記憶も、そして行動ログに至る人生のすべてをグーグルに預けて生きる生き方は悲しい。

 「ググるカス」たちが馬鹿になっていく様は、鍋で茹でられる蟹に似ている。最初は水だから冷たくて快適だ。だが少しづつ誤魔化されて慣らされていく。それは徐々に進行するので水温が上がっていることには気づかない。熱湯だと気づいたときには、もう手遅れだ。

 憶えるべきことは自分の頭の中に記憶しよう。知っておくべきことは自分の頭のなかに蓄えよう。

 外部に預けていると、あなたの大切な想い出は勝手に作り変えられる。あなたはそのことに気付けない。あなたは作られた幸せな想い出に包まれながら熱湯の中で死んでいく。

 今のうちから「脱グーグル化」の訓練をしておいた方がいい。

 やがて「ブレインコンピューティング」の時代が来たときに、グーグルに飼い馴らされている人たちは真っ先に脳をハックされるだろう。


 ググらない生活はたしかに不便だ。ググることに慣れてしまっている人たちにとってはなおさらだろう。
 だが、不便もまたいいものだよ、と私は言いたい。


 私はググらない。

 今までも。そしてこれからも。

 
 Don’t google.

 エリック・シュミットGoogle会長、60歳還暦の誕生日の日に。


【関連する記事】

Apple Watchが日本であまり流行らないだろうと思う3つの理由

1. 片手操作ができないから

 多くのアメリカ生まれの製品は、iPhone 6 Plusなどもそうだが、アメリカ人向きに作られている。

 「スマホの文字入力は片手派?それとも両手派?」

という質問をたまに見かける。
 だが、これはずいぶん雑な質問なのだ。

 日本語の場合、「両手で文字入力」とはどういうことかと言うと、例えば左手でスマホを持ち、右手の人差し指でフリック入力するということだ。

 だがアメリカ人は違う。アメリカで「両手入力」と言った場合は、両手でスマホを持ち、両手の親指を使って文字を入力することを意味する。英語は日本語に比べてたくさんの文字を入力しなければならないので、両手の親指を使って高速文字打ちをする。子音と母音を連続入力しなければならない韓国でも両手親指高速打ちの人はいる。

 だが、日本には「両手文字入力」をしている人はあまりいない。


 アメリカ人は常に両手が空いている。
 リュックだし、雨降ってても傘ささないし、移動は車だから運転手以外は常に両手が空いている。

 だが、日本、特に都会に住んでいる日本人の生活スタイルは全然違う。
 満員の通勤電車で、左手は吊り革に摑まり、右手には鞄、傘、さらに夏は暑くて脱いでいるスーツの上着まで持っている。

 この状態でどうやってApple Watchを使うのだろうか。

 左手に嵌めたApple Watchは左手で操作することはできない。右手でしか操作できない。
 「右手だけで操作するんだから片手操作じゃないか!」
とは言えない。

 操作するためには左腕を目の前に持って来なければいけないから、結局両手が必要なのである。

 左手を一時的に吊り革から離し、目の前に持ってくることはできる。しかし右手の鞄や傘を手放すわけにはいかない。つまり、「見る」ことぐらいはできるが、操作するのは顎でするしかない。

 ティム・クックは「腕時計で電話ができる!」と言っていたが、今のiPhoneはイヤフォンの途中にある通話口から電話できる。iPhoneをポケットに入れたまま、手ぶらの状態で電話ができる。
 このスタイルに比べて、左腕を口元に持ってきて電話をするスタイルが新しいとは思えない。


2. 今のところ「健康」目的以外の使い途がない

 Apple Watchが発表された日、NHKのニュースでは皇居の周りを走るマラソンランナーにインタビューしていた。
 これは逆にそういう人でもないかぎり、いったいどういう目的で使うのかが分からないからだろう。

 健康志向や、スポーツ、フィットネスというのは、確かに一ジャンルではあるが、日本ではそこまで大きなジャンルというわけではない。
 これも「アメリカンスタイル」、「アメリカ人思考」なのだ。

 App Storeで、もっと細かく分かれるべきだと思うジャンルが分かれていなくて、「ヘルスケア/フィットネス」、「メディカル」、「ライフスタイル」と似たようなジャンルが細分化されているのを疑問に感じる日本人は私だけではないだろう。(※他にも「仕事効率化」、「ビジネス」、「ファイナンス」とかも一緒でいいんじゃないの?と思ってしまう。)

 「心拍数が測れる」とか「歩数が測れる」とか、そんな機能が付いたものはずっと昔からある。

 Appleが今後、健康目的以外の何か新しい用途を提案できるなら別だが、今のところはこれといった新しみがないように思える。


3. iPhoneがなければ機能しない

 Apple WatchにはiPhoneがなければ機能しない機能が多い。朝、Apple Watchさえ嵌めて出かけるのを忘れなければ大抵のことはこなせる、というのだったら便利だが、iPhoneを持って行って初めてApple Watchは機能する。

 で、その機能のほとんどはiPhoneでできることだと言う。

 だったら、iPhoneだけ持って行けばいいじゃん!!


 以上の3つが、私がApple Watchが日本であまり流行らないだろうと思う理由です。

 あくまでも、「今のところは」という話。
 今後、Apple Watchが進化してもっと劇的に魅力ある変化を遂げれば人気が出ることもあるかもしれない。だが今のApple Watchには私はまったく魅力を感じないし、日本で流行るとも思えない。

 同じウェアラブル端末だったら、Apple WatchよりもGoogle Glassの方が未来を感じる。だって、Google Glassは両手を必要としないでしょう?

追悼、“マウスの父”ダグラス・エンゲルバートが見た夢

 今の若い人たちは物心ついた頃からマウスを触ってゐただらうから、初めてマウスを触った時のことを覚えてゐないかもしれない。

 私は子供の時に秋葉原の家電量販店の店頭で初めてマウスを触ってみた時のことをうっすらと覚えてゐる。マウスを動かした通りにパソコンの画面上の矢印が動く。これはちょっとした驚きだった。

 そのマウスの生みの親であるダグラス・エンゲルバートが先週亡くなった。

 このことは少なくとも日本ではあまり大きなニュースにならなかった。NHKはニュースとして報じたやうだが取り扱ひは小さかった。ネットでは、ただ「亡くなった」といふ記事はいくつも出てくるが詳しく追悼記事を書いてゐる人は少ない。


すぐれたビジョナリー

 今、IT系の有名なビジョナリーと言へば、ニ年前に亡くなったアップルのスティーブ・ジョブズが有名であり、カリスマ的人気を誇ってゐる。ジョブズの名を冠した本はよく売れる。
 マウスでさへ、ジョブズのアップルが発明したと思ってゐる人もゐる。

 だが、ジョブズの前には、エンゲルバートがゐた。

 エンゲルバートの肩書きは何だらう?発明家?技術者?どれも正解だがどれも足りない。彼は確かにコンピューターや機械を作りはしたが、作ることよりも「アイデアマン」「ビジョナリー」として才覚があった。


インターフェイスの巨人

 「マウスを発明した人」といふのは、エンゲルバートの多大な業績の一部しか表現してゐない。ウィンドウ、電子メール、ハイパーテキスト、かうしたものもエンゲルバートが発明に関はってゐる。

 現代では、「良きインターフェイスとは何か」と言はれたら、ほとんどの人は「老人でも小学生でも、何も説明しなくても直感的に使へるやうなインターフェイスが良いインターフェイスだ」と言ふだらう。
 ところが意外にも、インターフェイスの巨人であるエンゲルバートは必ずしもそのやうには考へてゐなかった。エンゲルバートはマウスを生み出した当時、それを不自然なものと考へてゐたのだ。多くの現代人はマウスを自然で使ひやすいものだと思ってゐるのに。
 だが彼は、多少不自然であっても、それが人間の拡張に繋がるならば作ったらいいだらう、と考へてゐた。
 今から何十年も前、まだコンピューターが大きくて重くて高価で限られた人しか触れなかった時代に、現代のパソコンの基本をなしてゐる多くのインターフェイスを考へ出してゐた。すぐれて先駆的なビジョナリーだった。


認められなかった“変はり者”

 若い頃から「変はり者」と見られてゐた。
 国も時代も違ふので一概に比較して理解できないが、今の日本の文系・理系といふ区分で例へて言ふならば、エンゲルバートばその狭間でどちらにも理解されなかった。
 工学部生だったエンゲルバートが理系仲間のところに行くと、彼らはコンピューター作りには熱心だったが哲学とかそれが社会に齎す影響とかさういった話にまったく無頓着だった。一方、文系学生のところに行くとさういふ話ができたが、彼らにコンピューターの話をしようとすると、「コンピューター?えっ、何それ?」と言はれる始末。どちらの側からも「変はり者」扱ひされてなかなか自分の話を理解してもらへなかった。


すべてのデモの母

 エンゲルバートは時代を先取りしすぎてゐて、同時代の人たちにその価値を分かってもらへなかった。特に1970年代にパソコンの時代が到来してからは不遇で、70年代、80年代とほゞ忘れ去られてゐた。
 エンゲルバートに再び脚光が当たり再評価の動きが出て来たのは90年代。ウェブの時代が到来した時だった。人々はウェブを使ひ出した時、その技術や仕組みの多くが1960年代にエンゲルバートがデモで示してみせた中にほとんど含まれてゐることに気づいた。

 それは、伝説のデモ。

 あまりにも有名なこのデモンストレーションは「すべてのデモの母」と呼ばれてゐる。





ハイパーテキストの父

 エンゲルバートは、単にマウスの父であるのみならず、パソコンの父でもあり、ハイパーテキストの父でもあった。
 50年近くも前に現代のコンピューター社会をかなり的確に思ひ描いてゐた。
 パソコンの父はアラン・ケイかもしれないがそのアラン・ケイに影響を与へたのもまたエンゲルバートである。

 ハイパーテキストに関しては私はテッド・ネルソンの思想に影響を受けたが、エンゲルバートもまたもう一人のハイパーテキストの父だと言へる。

 エンゲルバートはハイパーテキストに関しては皆が共同作業をできるための仕組み、言はばWikiのやうなものを志向してゐたと思はれる。とすれば、エンゲルバートの思想は2000年代のウェブ2.0を先取りしてゐたとも言へる。


人工知能への夢

 エンゲルバートは、「コンピューターと対話する」といふことを考へてゐた。若い当時はそんなことを言っても誰からも笑はれるだけだった。

 エンゲルバートの思想の根幹は「人間の拡張」といふことであり、そのためにエージェントのやうなコンピューターの存在を考へてゐた。

 2011年、アップルはSiriを搭載したiPhoneを発売した。これは、エンゲルバートが夢見てゐた人工知能の一つの結晶、と言へるだらうか。私はエンゲルバートはもっとずっと先を夢想してゐたのではないかと思ふ。現代のテクノロジーのあり様は、エンゲルバートが1950年代に考へてゐたレベルにすら追ひついてゐないのだ。

 今はアップルのiWatchやグーグルのGoogleGlassなどが実用化が注目されてゐるが、エンゲルバートはウェアラブルコンピューティングについてすら言及してゐた。


エンゲルバートが見てゐた地平

 私はエンゲルバートの次の話が好きだ。少し長いが引用しよう。

個人が運転する自動車との類似点を考えてみましょう……「自動車の力という技術が我々の生活、都市、学校を作り変えるだろう」と聞かされても特別心をかき乱されるものはいなかったでしょう。それはもちろん、皆が鉄道や蒸気船が我々の生活への影響を強めつつあるという心の中のイメージを持っていたからです。それから車、トラック、フォークリフト、ブルドーザー、モータースクーター、ジープなどが現れました……そして、心を乱されないで聞いていた人々は、自分たちが耳だけで聞いていたことに気づいたでしょう。
自動情報取り扱い装置(コンピュータ)が最初に使われたときは、まず大規模で型どおりに決められた仕事を行う施設の中で使われ、社会に途方もなく大きな影響を及ぼしました。誰もがまったく心を乱されることなく、我々の生活はこの技術によって作り変えられるだろうという説に同意しています。しかし、我々がそれにうなずくとき、果たして本当に聞いているのでしょうか?私は、私たちの社会構造に対して容易にはのみこめないような変化をもたらす、個人が運転する自動車に似たものが、コンピュータの分野にも出現するだろうと言いたいのです。多くの人々が言っているマン-マシン・インタフェースは、機関車の運転席の制御装置(大きなシステムの使命に人が貢献するためのよりよい手段を与えるもの)に相当するものですが、私はブルドーザーの運転席(その力のすべてを個人の仕事に向けるための最大限の便宜を人に与えるもの)に相当するものについてもっと考えてもらいたいのです。(ティエリー・バーディーニ著、森田哲訳『ブートストラップ』より)



 基本的に新しもの嫌ひで機械が苦手な私は、エンゲルバートみたいな人とは相容れないところがある。「考へること」と「作ること」は別だと思ってゐる。好きか嫌ひかと聞かれれば好きとは言ひ難いかもしれない。コンピューターが人間社会に与へる影響といふことで言ふなら、ノーバート・ウィーナーやイヴァン・イリイチの洞察の方が魅力を感じる。しかし、エンゲルバートの言葉には学ぶべきところがいっぱいあるし、そして何より先を見通す力を持ったビジョナリーとしては敬意を持ってゐる。

 2000年以降、突然世間から思ひ出されたやうに、エンゲルバートはチューリング賞をはじめ数々の名誉ある賞を受賞した。長生きしたから偶々これらの名誉に浴することができたが、60、70歳ぐらいで亡くなってたら、つひに自分は世間から理解されなかったといふ思ひを抱きながら亡くなってゐたかもしれない。

 果てしない地平を見通し、人間に、コンピュータに、何ができて何ができないかを見極めようとしたエンゲルバート。彼の思考を辿り直すことで人間や世界のまた新たな行く先が見えてくるかもしれない。


Bootstrapping: Douglas Engelbart, Coevolution, and the Origins of Personal Computing (Writing Science)Bootstrapping: Douglas Engelbart, Coevolution, and the Origins of Personal Computing (Writing Science)
(2000/12)
Thierry Bardini

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