ロングテールが多数派になる法則

 自分は少数派なんだ、と思ふことがよくある。

 数ヶ月前から、ヤフーのニュースにコメントが書けるやうになつてゐる。それぞれのコメントの横には、「そう思う」といふ同意ボタンが付いてゐて、そのボタンをクリックすると同意ポイントが上がる。ニュースの下には、同意ポイントが多いコメント上位5つが最初に表示されてゐる。

 この上位5つのコメントは、それだけ「私もさう思ふ」といふ同意者が多いといふことなのだが、私はなぜかこの上位コメントに同意できないことが多い。
 おそらく、考へ方が少数派に属するのだらう。

 アンケートサイトでアンケートに答へることが時々ある。
 ヤフーのクリックリサーチやライブドアのリスログのやうに、投票するとすぐに結果が表示されるものもあるが、こゝでも大体、私が投票した答へは少数派であることが多い。

 ところで、この私のやうな少数派は全体の何割ぐらゐゐるのだらう。
 変な言ひ方だが、「少数派は多数派なのか?」といふ疑問がある。
 多数派と少数派をどこで区切るか、といふ問題もあらう。

 例へば、本の世界だつたら、ベストセラートップ100の本を購入する人と、それ以外の本を購入する人はどちらが多いのか。本の世界だつたら、ロングテールの人の割合が多さうだ。だからこそ、そこに着眼したアマゾンは成功することができたのだらう。
 では、映画の世界だつたらどうか。興行収入トップ10の映画とそれ以外の映画を観に行く人はどちらが多いのか。歌の世界だつたら、ダウンロードトップ100の曲とそれ以外の曲とどちらが多いのか。

 本の世界のやうに、ロングテールが細く長くなるためには本の点数(冊数)が必要である。アンケートのやうに、あらかじめ決められた数の選択肢(例へば5つの選択肢)しかなかつたら、少数派は多数派に成りやうがない。テールが長くないからだ。

 といふことは、点数(選択肢数)が少なければ少ないほど、そこでの少数派は絶対的に少数派であるといふことができるのだらう。
 もつともこれはアンケートにおいては、選択肢の在り方が完璧である場合に限る。「犬と猫、どちらが好き?」といふアンケートで「犬が好き」と「猫が好き」といふ2つの回答選択肢だけでは不十分であつて、「どちらも嫌ひ」な人もゐるし、「好きでも嫌ひでもない」人もゐる。

 ヤフーニュースに対するコメントはどうなんだらう。
 掲載されてゐるコメントの数は限られてゐる。これらのコメントの中から1つ同意するコメントを選べ、と言はれたら、それは選択肢が少ない、といふことになる。だが、同意すべきコメントが特に無い場合、無限に自分なりのコメントを書き加へられる、と考へたら、無限の選択肢、そこには非常に長いロングテールの意見や考へ方が隠れてゐると考へられる。

 だとすれば、上位コメントに同意できなくても、自分の考へ方は少数派だといつて気にすることはない。そこには、書き込まれてゐないだけで、無数の多種多様な考へや意見が隠れてゐると考へることができるのだから。
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Tag : ロングテール

読書とは何か

 先日、丸善で、籠いつぱいに本を買つてる人を見て驚いた。それも文庫本などの軽い本ではなく、辞典やらハードカバーの重厚さうな本ばかり、籠からあふれんばかりに。
 それだけの本を読みきれる自信があるといふことも驚きだが、それよりも「金持ちだなあ」といふのが一番の感想だ。だつて、一冊5000円としても籠の中には10冊以上あつたから、5万円以上。本屋で一回の買ひ物で5万円も使ふなんて。

 私は、本屋にはよく行くけれども、本は滅多に買はない。第一の理由は「金が無いから」。第二の理由は買つても「狭い家の中に置く場所がないから」。第三の理由は「そんなに本を読まうと思はないから」。
 二番目の理由の方は、これから電子書籍が普及していくにつれて解消していく問題かもしれない。だが、紙から電子になつても金は必要である。

 読書家と世間で呼ばれてゐる人たちは、勉強家である前に金持ちであると思ふ。

 それはともかく、読書家と呼ばれる人たちは、この大量情報化社会において、月に20冊以上といふハイペースで大量の本を読破していく。本屋に毎日のやうに新しく登場する新刊出版物も、彼らによつて次々に読み倒されていく。

 さて、読書家たちのかうしたスタイルは、はたして「勉強家」などといつて褒め称えられるものなのだらうか。

 本屋で、平野啓一郎の『本の読み方 スローリーディングの実践』といふ新書を見かけた。

私たちは、日々、大量の情報を処理しなければならない現代において、本もまた、「できるだけ速く、たくさん読まなければならない」という一種の強迫観念にとらわれている。「速読コンプレックス」と言い換えてもいいかもしれない



 はてなブックマークなどにあがる「最低でも読んでおきたい10冊の本」だとか「東大の先生がすゝめる100冊の本」などといふ類のエントリーを見てはこれらの本を次々に早く読まなければと思ひ、勝間和代などの「できる」人が薦めてゐる本を見てはそれも読まなければと思ひ、Amazonなどの書評で絶賛されてゐればそれも読みたいと思ひ、Socialtunesで本を次々とチェックする。そんな強迫観念に追はれてゐる人々には、ぜひ、かういふ本をこそ読んでもらひたい。いや、読まなくてもいい。スローリーディングの大切さ、読書とは何か、といふことがわかればそれでいい。

 『本は10冊同時に読め!』などといふ本がよく売れて、平野のかうした本が注目されない世の中を私は憂ふ。

 私はもとより遅読家である。能力的に速読できないといふのもあるが、速読しようと思はない。仮に速読できたとして、1ヵ月に30冊の本を読んだとして、それは何かの記録か金字塔なのか。
 本は何のために読むのか。もし、今月読んだその30冊の内の1冊の中に「もう、本は読むな」と書いてあつたら、それについてあなたはどう思ふのか。
 本の中のメッセージをどう受け止めるかは問題だ。メッセージを受け止めて、その日からあなたの行動が何らか変はらなければ、本を読んだ意味がない、と言つても言ひ過ぎではない。

 多くの本は辞書ではない。たゞ知識を詰め込むだけの「辞書的な読み方」をしてゐる人がゐたら、それは改めるべきである。行動が改まつていくならば、もうこれ以上本は読めないはずなのだ。

 読書とは何か。平野啓一郎はかう言つてゐる。

本当の読書は、単に表面的な知識で人を飾り立てるのではなく、内面から人を変え、思慮深さと賢明さをもたらし、人間性に深みを与えるものである



 一考すべきである。そしてそれがわかつたら、今日から行動を変へるべきである。


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Tag : 読書

「できるか、できないか」ということと「するか、しないか」ということ

 guri_2氏の、
Attribute=51:要は、勇気がないんでしょ?
といふ記事を読んだ。3月16日の記事。

 それに対する、リルリル氏の憎しみに満ちた反論、
・ NWatch ver.X:世界よ、もっとウインプ達の憎しみで満たされろ
の記事も読んだ。

 どのやうな内容かは、リンク先を読んでいたゞくとして、リルリル氏の言ひ分、

そもそも彼らマッチョは既にマッチョなんですから、金とか名声とかそんなものは十分あるわけです。だったら何でその上私たちが、インターネット上で彼らが傍若無人に自慢や根性論を書くのを容認しなきゃならないのか?


これには、同感。
 私も日頃、このやうなクラスの人たちの書く、自己責任論や努力論に違和を感じてゐた。リルリル氏によれば、私たち「ウインプ」は、もつとかうした人たちの言動に対して怒るべきだ、といふことだ。(「マッチョ」とか「ウインプ」といふ言葉は、はてなユーザーの間でよく使はれてゐる言葉のやうで、私はその正しい意味を知らない)。
 しかし、上の記事をよく読んでみると、はたしてguri_2氏はリルリル氏の言ふところの「マッチョ」なのだらうか。的外れといふかお門違ひといふか、リルリル氏はどうも怒りのぶつけ場所を間違つたやうな気がしてならない。

 ところで、guri_2氏の上の記事は、これはこれで一つの心に響く記事で、自分自身の勇気についてあらためて考へさせられる記事ではあつた。
 guri_2氏は、ナンパの話を引き合ひに出して、ナンパができない男はいろいろ言ひ訳を言ふけれど結局は勇気がないだけじやん、と言つた。

勇気が出ないっていう本音をカモフラージュしながら何十年も言い訳をしつづけるのは、考えただけでげんなりするので、できない理由を考える暇があるなら、できることだけでもやってしまった方がいいと思うし、そっちをおすすめしたいんです。


と、guri_2氏は言ふ。

 だが、ちよつと違ふ。
 「できるか、できないか」といふことと「するか、しないか」といふこととは違ふのだ。
 たしかに私は勇気を出せばナンパ「できる」かもしれない。だが私はナンパを「しない」だらう。換言すれば、私がナンパ「できない」理由は「勇気がないから」だが、私がナンパ「しない」理由は「勇気がないから」ではない。

 つまり、「できない理由」を考へてゐるのではなく、「しない理由」を考へてゐるのだ。
 「言ひ訳ばつかりするな」といふ意見には賛成だが、「できることだけでもやってしまった方がいい」といふ意見には諾へない。「するか、しないか」といふことは「できるか、できないか」といふこととは分けて考へなければいけない。

 たしかに、guri_2氏の言ふやうに言ひ訳ばかりしてゐるのはみつともないし、リルリル氏側の怒りにも一理ある。
 だが私は両者に「できない」ではなく「しない」といふ主体的な生き方をすゝめたい。
 「マッチョになれない」のではなく「マッチョにならない」のだ、といふ生き方だ。これはちつとも消極的な生き方ではなく、むしろ積極的な生き方である。
 
 両者の記事を読んで、「できるか、できないか」に捉はれてゐることが主体的な生き方を阻んでしまつてゐる、と感じたのでこの記事を書いた。


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