「ムペンバ効果」とネットへの過信
同じ条件の下で、普通の水と熱いお湯を同時に冷やした場合、お湯の方が早く凍る、と言ふのだ。
これを「ムペンバ効果」と言ひ、40年以上前から知られてゐる現象らしい。名前の由来はタンザニアの高校生ムペンバ君が発見したから。しかし理由は未だに科学的にきちんと説明できないらしい。
私はこの番組を見てムペンバ効果といふものに興味を持ち、もつと詳しく知りたいと思ひ、早速、ネットで調べてみた。
が、ヤフーで「ムペンバ効果」を検索してもたつたの5件、グーグルで検索してもたつたの10件しかヒットしなかつた。(2008年7月9日現在)。
先日、50万項目を突破したネット上の巨大百科事典ウィキペディア日本語版にも、「ムペンバ効果」に関する項目はなかつた。
(たゞし、"mpemba effect"でググると8960件ヒットし、Wikipedia英語版には"Mpemba effect"といふ項目がある。)
(2008/7/10追記)今日見たら、ウィキペディア日本語版にも「ムペンバ効果」といふ項目が追加されてゐました。早速、英語版から翻訳されたやうです。
どうやら私はネットを過信してゐたやうだ。
テレビ、新聞、本、雑誌、広告などでちよつと見た情報は、あとでググれば詳細情報がわかる。もしわからなかつたら、それはググり方が下手だからだ。
さう思ひ込んでる人は、世の中結構、多いのではないだらうか。かうした過信は、私たち現代人の新たな行動パターンを引き起こす。
例へば、テレビである事柄が紹介されてゐる。電車内の広告である事柄が紹介されてゐる。そこでは、きちんとその事柄に関する説明もなされてゐるのだが、私たちはその説明を聞いたり読んだりしないで、その事柄に関するキーワードだけを探してゐる。キーワードとは、あとでネットで検索して調べるときに、どんなワードで調べたらいいかを考へてゐるのだ。
私も、先日、ある会社に行かなければいけないことになつた。その時、先方の会社から電話を受けて、「当方の会社の場所がわかりますか?」と聞かれた。「わかりません」と答へると、相手は最寄り駅からの道順を詳しく説明してくれたが、その時相手の言葉は私の耳に入つてゐなかつた。私は、あとでその会社のホームページを見れば行き方はわかるだらうと高を括つてゐたのだ。だが、あとでその会社のホームページを見たら、詳しいアクセスマップは載つてをらず、その会社に辿り着くのに相当迷つてしまひ、私は電話での説明をちやんと聞いてゐなかつたことを後悔した。
「詳しいことはあとでネットで」といふ悪い癖が染み付いてしまつてゐる。
企業など発信する側が「詳しくはWebで」といふのはまだよい。だが、受身側がこの癖を身に付けてしまふのは困りものだ。ネットの世界にくらべてリアルの世界を疎かにしてしまふ。いや、疎かにするだけではなく、いつか見下してしまふかもしれない。ネット上にあるのが真実の情報でリアル社会にあるのは仮の情報だ、といふ錯覚に陥るかもしれない。
検索でヒットしなかつたからといつて、それがこの世に存在しないといふわけではない。例へば、ムペンバ効果は、たまたま日本では知られてゐなかつたといふだけだらう。
「ムペンバ効果」はいろいろなことを教へてくれた。熱いお湯より水の方が早く凍るだらう、といふ先入観を覆してくれたし、ネットで調べれば詳しいことがわかるだらう、といふ思ひ込みも覆してくれた。
リアルの世界に存在してネットの世界に存在しないものなどいくらでもある。くれぐれもネットを過信しないことだ、自戒を込めてさう思ふ。
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Tag : ムペンバ効果
「ノー・ネット・デー」を読んで思ったこと
を読んだ。
この著者は、帰宅してからネットをするときについついビールを飲んでしまふ。そこで健康上の理由から、週に2日、ネット(ビール)をやめることにしたのださうだ。
ネットを利用しなくなった時間は読書に充てるやうになり、今までの生活に比べて、ずつと生産性が向上したと言ふ。
なんだか分かるやうな気がする。
「ネットを使つても、生産性を上げることはできる」と反論する人もゐるかもしれない。たしかにさうだ。ネットより読書の方が生産性が高いとは限らない。ネットは自分から情報を発信したり、何かを創造したりすることもできる。
だが、ネットをそのやうに“能動的に”、“生産的に”使へてゐる人は少ないのではないだらうか。多くの人はネットを“受動的に”、“非生産的に”しか使へてゐない。
友人・知人のブログを見て回り、コメント欄に半ば“義理的に”コメントを書いて回る。あるいはまた、返事を書く。ミクシィ日記でも同じやうな「儀式」を繰り返し、さらにはメールの返事も書く。
かういふことで、一日の数十分や数時間が潰れてしまつてゐる人も多いのではないだらうか。
このやうなことは大体、生産性のあることではない。こんな「儀式」の遂行を、毎日欠かさず馬鹿丁寧にやるよりも、読書でもした方が、たしかに生産性がありさうだ。
コメントやメールにはすぐに返事を返さなければいけないと思つてゐる人も多いやうだが、仕事ではないのだから、一日遅れの返事でもよいのではなからうか。
といふ、著者の考へに共感。PCにしろ携帯電話にしろ,仕事や趣味に大変役立ツールであることは確か。だが,ツールであるはずのネットが,それを利用することだけが最終的な目的になりつつあるようだ。
私が時々「反インターネット」的なことを言ふと、「ネットは賢く使へば便利な道具である」と言ふ人がゐる。たしかにさうなのだが、そのやうに「賢く」使へてゐる人は少ないだらうと思ふのだ。
せつかくの「インター(相互性)」を備へたネットなのに、テレビと同じやうに、ほゞ受動的にしか使へてゐない人は多いと思ふ。「情報を浴びる」だけのために、PCの前に座る(携帯を手にする)人は多いと思ふ。さういふ人は皆、ネットに振り回されてゐるのだ。
しかし、この著者は、よくぞ「ノー・ネット・デー」を設けることができた。この著者はITproの記者だから、常にネットの最新情報を得てゐなければいけないだらうに。
かういふ立場の人がかういふ記事を書くことに意義があるんだと思ふ。
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Tag : ノー・ネット・デー
ヤフーニュースのコメント欄はなくした方がいい
6月17日の記事「ロングテールが多数派になる法則」で、ヤフーニュースの下に書かれてゐるコメントの上位コメントに同意できないことが多い、と書いた。
先日も、日本のある地方で、少年5人の乗つた車が電柱に激突し死傷事故を起こした、といふニュースが取り上げられてゐて、それに対し、「バカは早く死ね」とか「電柱乙」といつたコメントが多数の人々の同意を得て、上位に掲載されてゐた。
そのニュースでは事故原因はまだ捜査中と書かれてゐた。急に何かが飛び出してきたのかもしれないし、急に車の故障でハンドルが効かなくなつたのかもしれない。だが多くの人が、バカな若者たちが若気の至りで調子に乗つてスピードを出し過ぎて事故つたのだらう、といふ推測のもとにコメントを書いた。
本当の事故原因が何も判つてゐない段階で、このやうな先入観的推測だけでコメントを書く行為はあまりにも安直だし、それに対して同意ボタンを押してる人がたくさんゐる現状もあまりにひどい。
もう一つ、このコメント欄を見てゐて気になるのは、割とどうでもいい一つの話題提供程度のニュースに対しても辛口のコメントが目立つことだ。「こんなどうでもいいことより、もつと外にやるべきことあんでしょ」といつた類のコメントだ。
どうも人々は、ニュースに対してコメントを求められると、何か批判的なことを言はなければならないと思つてしまふやうだ。別に無理して批判的なコメントを書かなくてもいいのだ。どうでもいいニュースに、わざわざ批判を加へる必要はない。
インターネットが登場する前の時代にも、テレビのニュースなどを見てゐて、一つ一つのニュースすべてに突つ込み(批判的コメント)を入れるやうな人はゐた。この突つ込みは、せいぜい同じ部屋にゐる人ぐらゐにしか聞かれないが、インターネット上の突つ込みは、多くの人に聞こえてしまふのが問題だと思ふ。特にヤフーのやうに多くの人が見てゐるところで、あのやうに安直な突つ込みがいつまでも目立つところに掲載されてゐるのは、子どもたちの教育上の視点からも良くないと思ふ。
ヤフーニュースのコメント欄はない方がよい。
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本の世界とブログの世界の埋もれた宝
出版の世界では出版不況が続いてをり、1990年代の後半から本の売り上げは右肩下がりに減り続けてゐる。一方で、本の出版点数は右肩上がりに増え続けてゐる。
毎日、たくさんの本が書かれ生まれてゐるのに、売れるのはごく一部の本だけ。では、どんな本が売れるのかといふと、それはランキングに依存してゐるのだといふ。
本の売り上げランキング、つまり、ベストセラーランキングといふものがある。消費者もランキングを頼りに本を買ひ、本屋の方でもランキング上位の本ばかり並べる傾向があるのだといふ。
ランキング上位に入らない本は、店頭に並べてすらもらへない。よつてますます人の目につかないから誰にも買はれない。かうして、どんどん良質の本が日の目をみることなく埋もれてゆく。
ちよつと待つて。この話、何かに似てないか。
さう、ウェブの世界の話にそつくりなのだ。
Yahoo!のやうな巨大ポータルサイトや一部の有名なサイトが厖大なトラフィックを集める一方で、圧倒的多数のサイトは訪れる人もほとんどゐない。
ブログの世界に限つて見てみてもさうだ。アルファブロガーが書いてるやうな一部の有名ブログが大量のアクセスを集めてる一方で、圧倒的大多数のブログは一日に50アクセスもない。
毎年、世界で大量のブログが誕生してゐる。日本語のブログは世界で一番多いといふ調査もある。しかし、そのほとんどのブログは限りなく0(ゼロ)アクセスに近いブログなのだ。そしてその裏で、ごく一部の人気ブログや有名ブログがますます大量のアクセスを集めてゐる。
ブログランキングといふものがあるが、これもランキング上位のブログにますます人が集まることに貢献してゐる。
ソーシャルブックマークといふ仕組みもあつて、このサービスが登場した当初は、これは隠れた良質サイトや良質ブログを発掘するのに役立つだらうといふ期待感があつた。しかし、はてなブックマークなどの有名SBMの人気エントリーなど見てみると、“いつもの”ブログが並んでゐることに気付く。
さうした“いつもの”ブログは、良質のブログには違ひないのだが、すでに有名ブログである。結局、皆が同じブログを見に行つてる。そのやうな有名ブログをブラウザの「お気に入り」に登録するなり、RSSなりによつて、毎回チェックしてゐるだけだ。SBMの人気エントリーは、さうした特定のブログからしか出てきにくい。
「良質なブログは人が放つておかないから、自然と人がたくさん集まつてくるやうになるはずだ」と言ふ人がゐる。
私は、それは嘘だと思ふ。
どんなに良質の記事を書いてゐても、そのブログがどこからもリンクされてゐなければ、その記事が誰かの目に触れることはないし、誰も読まなければ、その記事が良質の記事であることなど誰にもわからない。良い本かどうかは、少なくとも一度は誰かが手にとつて目を通してみないとわからないのと同じである。
だから、世の中にはたくさんの良質な本や良質なブログが誰にも気付かれることなく埋もれてゐるのだと思ふ。
かうした隠れた宝をどのやうにして発掘するのか。その仕組みを考へていかないかぎり、本の世界にしろブログの世界にしろ、本当の意味での豊かな文化は育たないのだといふ気がする。
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ネット社会の伝言ゲーム
校庭に各クラス縦一列に並んで、一番後ろの子が先生からお題の文章を聞く。それをどんどん前の子へ前の子へと耳打ちで伝へていく。そのやうにして一番先頭まで行つたら、その一番前の子が先生に文章を伝へる。先生が皆の前でそれを発表し、元の文章がどれだけ正確に伝はつてゐるかをクラスの列ごとに競ふ。
皆、後ろの子から回つてきた文章を、聞いて前の子へ伝へなければいけないわけだが、これがなかなか難しい。お題は大抵、長文で、一回聞いただけではなかなか覚えられないのだ。
その長い文章が、先生の元に一字一句違はぬ形で戻つてくることは稀で、大抵の場合、どこかが省略されてしまつてゐたり、余計な文言が付け加はつてゐたりと、「改変」されてゐるのが常であつた。
ジャーナリスト江川紹子氏の「ネット社会を生きる人へ〜自戒を込めて」といふ文章を読んだ。
光市母子殺害事件のご遺族の本村洋さんについて、事実からかけ離れた情報がネットに流れてゐる、といふ内容のものだ。
ある一つの小さな事実が、その元をきちんと確認されないまゝに、ネット上でどんどん「ウワサ」といふ形で形を変へて広まつていつたのだと江川氏は言ふ。
この事実が伝えられていくうちに、それぞれが自分の価値観や思惑を加味し、新たな意味づけがされて、ネットの世界で広がっていったのでした。(中略)話に尾ひれがついた、というより、背びれ胸びれまでくっついて、ネットという大海を泳ぎだしてしまった感じです。
私は、子どもの頃から伝言ゲームといふゲームに関心があつた。そして大人になつた今でも関心がある。
伝言ゲームでは参加者は全員、中継者である。真ん中の子だけではなく、一番後ろの子も先生からお題を聞いてくる中継者だし、一番前の子も最後に先生にお題を伝へなければいけないので中継者である。中継者でないのは、お題を出した先生、つまり情報発信元の先生だけである。
このゲームに勝たうと思ふなら、中継者は絶対に、元の文章に自分の価値観や思惑を加味してはいけないし、長い文章を自分なりに“要約”してもいけない。正確無比なコピー機でなければならないのだ。
江川氏は言ふ。
それより私が問題だと感じたのは、(中略)事実を確認しないまま、それに様々な意味づけや憶測を付け加えて流していく人たちです。どこかのサイトや掲示板で見たウワサをコピー&ペーストすれば、今度は自分が発信源になれます。
これは面白い視点だらう。伝言ゲームの途中で、ほんのちよつとでも自分なりの意味づけや憶測を付け加へてしまつた人は、もうその人が新たな伝言ゲームのスタート地点なのだ。自分は「真ん中の人」であつたつもりが、いつのまにか「一番最初の人」になつてゐるのだ。
また、私たちすべての中継者は、正確なコピー機でなければいけないにもかゝはらず、ネット上においては、その便利なコピー機能が却つて仇になる、といふ点も注意しなければならない点だ。もしネットにコピー&ペーストといふ機能がなければ、全然違つてゐただらう。ウワサの伝はる伝播力やスピードが断然違ふからだ。
そして、今回の江川氏の文章の中で最も大事な部分。
すごく安易に、とても気軽に、かなり無責任に、情報の流通の担い手になっている人たちがいます。彼らにとっては、単なる面白い情報の一つにすぎなくても、そうやって流された情報によって傷ついたり、困ったりする人がいる、ということを、もう少し考えてもらいたいと思います。
これは非常に重要なことだ。
「そんなにムキになることないんぢやないの」と思ふ人もゐるかもしれない。たしかに小学校の伝言ゲームにおいてはさうだ。小学校の伝言ゲームは一応は正確に伝へて勝つことが目的だけれども、一方では、元文が原形をとゞめないほどに「変形」してしまつてゐるところに面白み、をかしみがある。
だが、現実社会あるいはネット社会では、さうではない。現実社会の伝言ゲームは遊びではない。現実社会・ネット社会の伝言ゲームと小学校の伝言ゲームはどこが違ふのか。それは、「それによつて傷つく人がゐるかゐないか」の違ひだ。
かういふ「傷つく人」の存在に気づくかどうか。自分は誰も傷つけてるつもりはなくても、ネット上においては、安易に、面白がつて、かうしたゲームに参加することによつて、いつのまにか誰かを傷つけてゐる可能性が高いといふこと。それは「影響力が大きい」、「伝播しやすい」といつたネットの特質から来る危険性である。そして、時には自分でも気づかぬうちに自分がその「傷つけ」のスタート地点になつてゐる可能性すらある、といふことである。
最近は、不確かなウワサを「都市伝説」などと言つて面白がる風潮もあるが、ネットを利用する人、ネット社会を生きるすべての人は、くれぐれもこの種の伝言ゲームへの軽率な参加を慎まなければなるまい。
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Tag : 伝言ゲーム




