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カテゴリー "ネット社会" の記事

リテラシーとは何か

 先日、「虚構新聞」といふ嘘ニュースを書いてゐるジョークサイトが、ツイッターを中心としたネットの世界で大きく問題になった。
 問題は、2012年5月14日の「橋下市長、市内の小中学生にツイッターを義務化」といふ嘘記事がツイッターでたくさんリツイートされ、日頃から橋下市長の言動に関心を持ってゐた人たちがその記事を本当のことだと思ひ込んで、さらに情報を拡散、騙されてしまった人が続出した、といふ問題だ。

 虚構新聞自身が、この一連の騒ぎを纏めてゐる。(たゞし、虚実混ざった記事なので注意)。

 虚構新聞デジタル:ニュース特集:検証:橋下市長ツイッター義務化報道問題

 この一連の問題を多くの人が話題として取り上げた。虚構新聞を批判する人もゐれば、擁護する人もゐた。

 その中で、虚構新聞を擁護する人たちの中に、何度も「リテラシー」といふ言葉が出て来たのが気になった。要するに「騙されてゐる人は馬鹿。虚構を虚構と見抜けるぐらゐのリテラシーを身に付けろ」といふ意見だ。

 「情報リテラシー」、「ITリテラシー」、「ネットリテラシー」、「メディアリテラシー」などと呼ばれる、この「リテラシー」とは何なのか。
 現代日本社会には、まさにリテラシーが欠けてゐるのではないか。一連の騒動を見てゐて、その思ひを強くしたので、今日こゝに書き留めておきたい。


・「リテラシー」は「読み書き能力」

 リテラシーとは何か。先づは、辞書で確認しておかう。

[literacy]
1 [U]読み書きの能力, 識字能力;教養がある[教育を受けている]こと.
2 (特定分野の)知識, 能力;(コンピュータなどの)使用能力

(『プログレッシブ英和中辞典』)


・「コンピューターリテラシー」から「ネットリテラシー」へ

 「情報リテラシー」、「ITリテラシー」、「メディアリテラシー」といった言葉は、すべて「ネットリテラシー」といふ言葉と似たやうな意味である。しかし2000年代の前半ぐらゐまでは、リテラシーと言へば「コンピューターリテラシー」といふ意味合ひの方が強かった。

 まだ「ヤフー知恵袋」よりも「教えて!goo(OKWave)」がQ&Aサイトの代表であった頃、当時のPCが普及する過程とも相俟って、教えて!gooではパソコン関連のたくさんの質問が溢れてゐた。
 パソコンの初心者が質問し、回答者席に「常駐」してゐるパソコンに「詳しい」人たちが回答するやり取りを私もたくさん見てゐた。

 詳しい人たちは、いつも苛立ってゐた。「過去に同様の質問があります。過去に類似の質問がないかどうか調べてから質問してください」。「もう何度も言ってゐますが、PCについて質問するんだったら、最低限、お持ちのPCのCPUやメモリやOSなどの最低限のスペックを書いてから質問してください」等々。
 私は当時、「教へて!gooの教へ下手」と呼んでゐた。質問者がわざわざ「初心者です」と断ってゐても、「CPUは?」「OSは?」と聞く。初心者がCPUだのOSだのといふ言葉を分からうはずもない。

 「なんで未だにこんな基本的なルールを分かってない人がゐるの?」。「なんで未だに虚構に騙される人がゐるの?」。
 それは、新参者だからだ。時代が移り行き構成員が変はっていく限り、ツイッターにも2chにも毎年一定の新参者がゐる。

 あの頃から変はってないなあ、と思ふ。常連の「詳しい」人たちが、だ。
 パソコンの時代からネットの時代になったけれども、詳しい人たちの言ってることは、「トリセツを読め!」が「ソースを確認しろ!」に変はっただけで、本質的には何も変はってない。

 そもそもソースを“きちんと”確認するといふことがどれだけ大変なことか。
 ワールドワイドウェブがその初期に取り入れたハイパーテキストは元々は「ソースを確認する」といふことを重視した思想だったけれども、無限に続くハイパーリンクはむしろソースを確認するといふ作業をひどく面倒なものにした。
 リンク先の文章にまたリンク。その先にもまたリンク。どれだけリンクを辿って確認しなければいけないのだらう。
 英語圏のサービスで日本語対応してゐるものがあるが、サイトポリシーや利用規約など一部の文章は英語のまゝになってゐるサービスもある。「詳しい」人、「リテラシーが高い」人たちは、さうした英文までちゃんと読んでゐるのだらうか。


・「書く」側のリテラシー

 池上嘉彦が『日本語と日本語論』といふ本の中で、日本人の会話は話し手責任ではなく聞き手責任の文化である、といふ興味深い見方を紹介してゐる。
 欧米に比べて、話す側よりも話を聞く側、書き手よりも読み手、つまり受け取る側の責任が大きい、と。
 しかし本来、リテラシーは「読み書き能力」。「書く」のもリテラシーの内である。
 欧米のネットの世界はよく知らないが、日本ではあまりにも「読む」リテラシーばかりが問はれ、「書く」「記述する」リテラシーが問はれてゐないのではないか。


・「書く」リテラシーの具体例

 では、「書く」リテラシーとはどういふものだらうか。こゝで一つ具体例を紹介したい。

obento_20120520085049.jpg

 これは、先日、私のツイッターのタイムラインにリツイートで流れて来たツイートだ。人によって環境は異なるだらうが、私のTLでは最初は画像は表示されずに文字だけが流れて来てゐる。このツイートは50人以上の人にRTされふぁぼられてゐた。
 よくあるネタ画像といふやつで、この画像が本当にこの人が初出なのかどうか、といふことは今は追はない。

 しかし、私はこのツイートを見た時、嫌な感じがした。このツイートの文章が、だ。別に疑ふつもりはない。この人は「本当に友だちからメールで送られて来たからツイッターに書いたんです」と言ふかもしれない。本当にさうかもしれない。
 だが、特に「知り合いの会社の人」といふところが良くない。いかやうにも人をごまかす時に使はれる表現に見えるからだ。
 かういふネタ画像を投稿する場合はよくよく注意しなければいけない。自分が初出であるなら「知り合いの会社の人」などといふ如何にも曖昧な書き方ではなくて、もっと具体的に書かなくてはいけない。「友だちの◯◯ちゃん(実名でなくあだ名でよい)からメールで送られて来た」とか具体的に画像の由来も書いた方がいい。

 ネタ画像やおもしろ画像は忘れた頃に流れて来る。普段ツイッターをよく使ってゐる人は、「あゝ、この画像2年くらゐ前に見たわー」「この写真いろんなところで見たことあるわー」といふ経験にたびたび出遇ふ。初出ではないのにまるで自分が初出であるかのやうに装ひ、RTやふぁぼを稼ぐ人がゐる。上掲のやうなおもしろ画像なら騙されたとしても被害はないかもしれないが、それでも書く側にはもっと注意が必要である。

 ネタ画像は投稿しないと言ふ人でも、写真を撮ってツイートすることはあるだらう。その時に「ちょwこれワロタw」などといふ一言で紹介してはいけない。もう少しはっきり言ふと、リンクをクリックしなければどんな画像か分からないやうな書き方をしてはいけない。せめて「この猫の座り方面白いw」などのやうに、リンク先を開かなくてもだいたい何の画像であるかが分かるやうに書かなければいけない。(上掲のネタ画像はtwitter.com内なのでまだ良いが)。
 おもしろ画像のコメント欄に「ちょwこれパ◯ツ見えてるw」などといふ一文とともにリンクが張られてゐるのを見たことのある人も多いだらう。リテラシーが高い人は「だれがそんなのに引っかかるか」と思ふだらうが、10代の子なら引っかかってしまふかもしれない。


・ネット全体で書くリテラシー向上の気運を

 「詳しい」人、「リテラシーが高い」人たちは、「トリセツを読め!」を連呼してゐたあの頃から何も成長してゐない。「嘘を嘘と(略)」、「デマをデマと(略)」、「ガセをガセと(略)」、「ネタをネタと(略)」・・・。かうしたことをいつまで言ひ続けるつもりなのか。

 「リテラシーが高い」のだったら、もっとユーザーインターフェースを改良するなり、書くリテラシー向上の気運を盛り上げていくなり、いろいろと良くして行くことができるはずだ。未だに「ソースを確認しろ!」ばかり連呼してゐるのは、あまりに能がないと感じる。


・最後に
 
 この記事は虚構新聞批判ではない。虚構新聞は私も何年か前から偶に読んでゐる。
 虚構新聞そのものよりも、それを擁護する人たちの中にあまりに「リテラシー云々」と言ふ人が多かったので、その人たちに対する批判記事である。

 「リテラシー、リテラシー」と言ふのなら、先づ、「リテラシーが高い」人たちが先頭に立って書くリテラシー、記述するリテラシーの向上に、ネット全体の気運を盛り上げて行ってもらひたい。
 「リテラシーが高い」からこそできることがあるはずだ。



 似たやうなことを批判してゐる記事があったので紹介。

 情報リテラシーなるものの正体 - novtan別館

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ソーシャルスコアとソーシャルプア

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via businessesgrow.com



 先月(2012年4月)、朝のNHKテレビを見てゐたら、最近の就職活動の在り方、特に採用する企業の側の在り方が変はってきた、といふニュースをやってゐた。ある不動産会社が今年から、銓衡の際に、履歴書や面接だけでなくフェイスブックのチェックを始めた、といふ事例が紹介されてゐた。その会社の採用担当者曰く、面接などはどの学校も力を入れてゐるので何を質問してもありきたりな答へしか返ってこないので、フェイスブックで応募者の素顔を知りたい、とのことだった。

 私はこのニュースを聞いてゐて、情けなく思った。
 フェイスブックで応募者の素顔を知ることができる!?

 かつて悪質SEO業者とグーグルが何年にも渡り繰り広げてきたあの不毛な戦ひを、ソーシャルネットワーク版でやり直さうと言ふのか。

 実際、もうパーソナルブランディングに関するさまざまな対策がすでに進行してをり、その番組で紹介されてゐた学生向けの就職活動セミナーでは、フェイスブック対策が教へられてゐた。その内容がまた驚くべきもの(と言ふよりくだらないもの)だったのだが、(1)笑顔の写真を掲載しろ、(2)友達の数は50人以上を目指せ、(3)週に2回は前向きな発言を書き込め、といふものだった。

 (1)は自分でできる。(3)は、週に2回くらゐの頻度でポジティブな発言を自動的に書き込んでくれるbotがすぐにでも登場するだらう。そして(2)こそ、悪質業者の出番だ。10万円であなたの友達の数を100人以上にしてあげます、などといふ業者が雨後の筍の如く現れるだらう。いや、もうすでにあるのかもしれない。

 本当にフェイスブックで応募者の素顔を見られると思ってゐるのだらうか。私はテレビを見てゐて、企業の採用担当者がこんなことでは情けない、と不安になった。


・人間を数値化する「ソーシャルスコア」
 
 昨年2011年に「パーソンランクの時代」といふ記事で、人間をノードとしたランク付けの世界が始まらうとしてゐる危惧について書いた。そこでは、とりあへず「パーソンランク」といふ言葉を使ったが、他の言ひ方があるかもしれない、とも書いた。
 私は英語圏のウェブを見てゐるうちに、それが「ソーシャルスコア」といふ言葉で呼ばれてゐるのを見かけた。このソーシャルスコアといふ言葉はまさに私がパーソンランクと呼んでゐたものだ。
 人間を数値でランク付けするといふのは、衝撃的なことであり、多くの人は直感的に反発を感じることでもあらう。実際、ソーシャルスコアの代表格ともいふべきKlout(企業名またサービス名)に対し、英語圏では批判の記事がたくさん書かれてゐる。
 私は「パーソンランクの時代」の記事の中で、パーソンランクにしろエッジランクにしろ、さうした仕組みは出来てゐたとしてもなるべく人の目に触れないやうにしなければいけない、と書いたが、Kloutなどはまさに思ひっきり人の目に触れるやうに、しかも分かり易く表示する仕組みにしてゐる。
 当然だが、人間はそんな数値で測れるものではない。なんでも数値化、定量化しようとするのは西洋人の悪い癖だ。

 そしてKloutに対する批判記事でもやはり多いのが「差別に繋がる」といふ点を指摘する声だ。ソーシャルスコアが低いだけで駄目な人間と見做されてしまったり、差別的な扱ひを受けたりすることになる。「私はスコアの数値を見ても心を動かされません。絶対に差別しません」と言へるほど、人間の心は強くないからだ。
 先日ツイッターのタイムラインで見かけたのは、「この人はかういふところがいい、とか、かういふ点だったらこの人が優れてゐる、とか、 それぞれの人の長所を見て付き合っていきたい」といふ誰かの発言だった。つまり、一人の人間に総合的に点数を付けるのではなく、この人は歴史に詳しい、だとか、音楽に関することだったらこの人に聞かう、といふやうなそれぞれの人の得意分野に注目してフォローしていく、といふスタイルだ。

 ソーシャルスコアの仕組みではそこまで詳しく見えない。もしかしたら、そこまでの細かい分野別スコアにも対応しますよ、とKloutが言ってくるかもしれないが、しかし、あの人は優しいのが取り柄だ、とか、情感が豊かだ、とか、センスがいい、だとか、さういふことは決して数値化できるものではない。
 あの人は、何の経験も地位も才能も無ささうだしフォロワー数も少ないみたいなんだけれども、でもなんとなく心が暖かい感じがするからフォローしてゐる、といふこともあるはずだ。

 しかし、こんなことは別に新しく言ふまでもなく、昔から言はれて来たことだ。全人的に付き合ってゐると、ちょっとでも欠点があった時にその人のことを許せなくなってしまって、結果的に友だちができないといふことになるから、いろんな人の長所だけ見て付き合っていったらいいよ、といふやうなことは昔の人も繰り返し言ってゐることだ。
 こんな「人間との付き合ひ方」を改めて唱へる人が出て来るのは、それだけ「ソーシャルスコア的世界」が普及して来るかどうかの岐路に今まさに来てゐるからだらう。
 

・やって来たる「ソーシャルプア」の問題

 しかし、かうした数値化システムの普及が進行するか留まるかに拘らず、所謂「ソーシャルプア」の問題は確実にやって来る。
 これも、今、私は仮に「ソーシャルプア」と言ふけれども、違ふ言葉で言はれるかもしれない。

 ワーキングプアとソーシャルプアの違ひは、前者が「職が無い、金が無い」状態(または人)を言ふのに対して、後者はそれに「人脈が無い、能力が無い、経験が無い」が加はったやうなものと考へれば分かり易いだらう。

 「社会的貧困」と「ソーシャルプア」の違ひは、ソーシャルメディアを通してより明らかになりやすい貧困が後者だと考へればいいだらう。
 だからこそ、ソーシャルメディアの普及に当たっては、もっとソーシャルプアの問題が考へられなければならない。

 人々はこの世界の見方が「勝ち組、負け組」などといふ見方でいいと思ってゐるのだらうか。フェイスブックやリンクトインが「勝ち組」のためのツールにしかなってゐない現状をどう思ってゐるのだらうか。

 かうした格差を増さしめる世界の在りやうを変へるには、所謂「ソーシャルグッド」などのソーシャルメディアを社会を良くするために使ふことも一つの方法だが、それと同時にソーシャルメディアの設計デザインについて根本からの見直しを迫らなければならないだらう。そしてネットユーザーひとりひとりは、かうした世界を助長する行動に加担しないやうにすべきだらう。

 「ソーシャルメディアを使って優秀な人材を確保する」などと短期的な利益ばかりを見てゐてよいものか。


【ソーシャルスコア関連の記事】
  • パーソンランクの時代(2011/12/31)


パーソンランクの時代

 この記事は2011年の大晦日に書いてゐる。2011年もいろいろなことがあった年だったが、明くる2012年はどんな年になるだらう。もちろん明るい未来だったらいいのだが、私には心配の種もある。
 そこで、私が今感じてゐる「2012年はこんな年になりさうだ」といふ予感を書く。日本には「来年のことを言ふと鬼が笑ふ」といふ諺があるけれども、私は来年といふ近い未来のことを考へるのは決して悪いことではないと思ふ。

 私が気にかゝってゐることの一つは、こゝ数年のソーシャルネットワークの発展だ。フェイスブックやツイッターに代表されるやうなソーシャルメディアが普及するにつれ、ソーシャルネットワークの世界はどんどん拡大を続けてゐる。私は、かうしたソーシャルネットワークの拡大が私たちの社会、あるいは生活にどのやうな影響を齎すのか、といふことを随分前から危惧してゐる。そして今から2年ほど前に、少し恐ろしい世界のイメージが頭の中に浮かんだ。「人がランク付けされる」といふ世界だ。この2年ほど、ずっとそのことについて考へてゐたがブログには書かなかった。しかし2012年、いよいよさうした世界が現実に顕在化してくるかもしれないといふ不安が大きくなってきたので、その不安の根元と問題点について整理するために、こゝに書いておかうと思ふ。


・2010年初頭、「ツイ割」の衝撃

 2010年1月、私は一つの気になるブログ記事を見かけた。「百式」で有名な田口元氏が、ツイッター割引を実施してゐる玩具屋さんに行った時のレポート記事だ。


Twitterのフォロアー数に応じて割引してくれるボードーゲームのお店、『すごろくや』に突撃してきた! | IDEA*IDEA

 今から2年ほど前、2010年1月、東京・高円寺のボードゲーム店が「ツイ割」を実施した。ツイ割といふのは、ツイッターのフォロワーの人数に応じてその値段分、割引するといふキャンペーンである。フォロワーが100人ゐたら100円の割引。そのかはり、客はツイッターでお店について呟く。
 さういふ企画をやってゐたお店に、当時フォロワー数25万の@taguchi氏が訪れた。私はその時の@taguchi氏と店員とのやり取りに、何か目に見えない緊迫感を感じ取った。

しばらく店内を見回したあとに店員さんをつかまえて質問してみます。

「えーと、Twitterで割引と聞いたのですが?」
「ええ、そうですよ」
「フォロアー数に応じて割引ですよね?」
「そうです」
「僕、25万人ぐらいいますけどいいですか?」
「え?・・・えーと、いいですよ、もちろん」
「ほんとに?」
「えぇ」
「いいんですか?」
「ええ、サイトに書かせていただいたままです。」
「ほんとに?上限とかないんですか?」
「いえ、サイトに書いたままです。」

若干押し問答ぎみになりましたが、どうやら本当に上限はない模様。「実験的な試みなのでいろいろ見直してはいきますが」との前提はありつつも、基本的にはそのままの条件のようです。

でもまぁ、そこで25万円分割り引いてもらうほど鬼畜ではないのでw



 @taguchi氏は、私が知るかぎり、日本で最も早くツイッターを始めた人だ。そして当時、約25万人のフォロワーがゐた。店側としては、25万人もの人に自分の店のことについて宣伝してもらへるのは確かに大きなメリットだ。しかし本当に25万円分の玩具をタダで持って行かれたのでは、大きな痛手である。しかし「割り引く」と言ってしまった以上、後には引けない。@taguchi氏の良心に期待するしかない。
 結局、@taguchi氏は、1500円分の商品を割り引いてもらっただけだった。そしてツイッターどころか、かうしてブログにまで紹介したので、その店にとってはとても大きな宣伝効果になった。よかったよかった、と。

 だが私は、この記事の最後の方に気になる一文を見つけた。

基本的にすごろくやの人たちが素敵だったので印象は良かったのですが、とりようによっては「1フォロアーを1円で買っている」ともとられがちかと・・・(ま、しょうがないですな)。でもTwitterユーザーが楽しんでくれればそれはそれでアリじゃないかな、と個人的に思ったり。



 店の人は、@taguchi氏がネット上の有名人であることを知ってをり、それをきっかけにして話がはずんで場が和んだとのこと。しかし、この時もし、店員が@taguchi氏のことを知らず、話も弾まずに、@taguchi氏の機嫌を損ねてしまったとしたら。その時はどうなるのか。@taguchi氏が店員に対し悪い印象を持ち、ブログに「お店は品揃へも充実してゐたし、それなりに良いお店だったのですが、店員がちょっと不愛想で態度が悪い感じでした」などと書いたら、どうなるのか。
 店側の条件は、ツイッターで店のことについて呟くこと、といふ条件だけなので、その後、ブログなどにどのやうなことを書かうが@taguchi氏の勝手である。
 もちろん、人気ブログで「店員の態度が悪かった」などと書かれたら、店側にとっては大打撃である。しかし、多少大袈裟に言ふならば、店の運命が、@taguchi氏がブログにどのやうに書くか、といふアルファブロガー一人の裁量に委ねられてゐる、といふ状態になってゐるわけで、これはとても怖いことだと思ふのである。


・グーグルの「ページランク」からソーシャルメディアの「パーソンランク」へ

 グーグルはページランクと呼ばれる有名なアルゴリズムを作った。詳細は秘密とされてゐるが、大きな要素は次の3つのやうなものであらう。

 1.質の良いページはページランクが高い。(スパム排除のため)
 2.多くのページからリンクされてゐるほどページランクが高い。
 3.ページランクが高いページからリンクされるとページランクが高まる。

 実際にはこんな単純ではなく、スパムとの長い挌闘の末、今では相当複雑なアルゴリズムになってゐるはずだが、上記に掲げたのは基本的な価値基準である。

 グーグルが生み出したページランクの思想は、ウェブページをノードとしたものだった。私は、これがソーシャルネットワークの時代になって、ノードがウェブページから人に置き換はるのではないかと危惧してゐるのである。
 こんなことは誰でも思ひつきさうなことである。ツイッターを使ってゐて、フォロワー数が多い人はなんとなく自分より格上のやうな気がしたことのある人は多いだらう。
 ソーシャルメディアでは、基本的にウェブページではなく、「人」をノードとして世界が繋がってゐる。それも多くの人が気付いてゐることだ。だとすれば、グーグルのページランクの思想における「ウェブページ」をそのまゝ「人」に置き換へた、言はば「パーソンランク」とでも言ふべきものを誰かが作らうとしてもをかしくはない。

 上記のページランクの3つの価値基準をツイッターで置き換へるならば、こんな感じだ。

 1.オリジナリティのある(RTやコピペやbotでない)ツイートをしている人はパーソンランクが高い。
 2.フォロワー数が多い人ほどパーソンランクが高い。(フォロー数に対するフォロワー数の比率も考慮)
 3.パーソンランクが高い人からフォローされるとその人のパーソンランクは高まる。

 実際、フェイスブックは「エッジランク」といふページランクとパーソンランクの中間のやうなアルゴリズムを作った。
 グーグルやフェイスブックのやうな厖大なソーシャルグラフのデータを持ってゐる企業なら、そんなものはすぐに簡単に作れさうな気がする。実際、もう作ってゐるのかもしれないが、人をランク付けするといふことに対する世間からのバッシングを怖れて公表できないかもしれない。自社サービスのブランド力の失墜はグーグルもフェイスブックも避けたいだらうから。
 しかし、失ふものが何も無いスタートアップ企業なら、それができてしまふかもしれない。私は2011年の初め頃に、Q&AサイトのQuoraが「ピープルランク」とも言ふべきアルゴリズムを開発中である、といふ噂話を耳にした。噂だから本当かどうか全然判らないが。
 Quoraのピープルランクは、Quoraのサイト内だけで適用される指標だからまだよい。もっと大規模に私たちの日常社会にまで浸透してくるほどの巨大なパーソンランクのシステムが敷衍化してきた時に私たちの生活はいったいどうなってしまふのだらうか。


・ARとパーソンランク

hazuma.png


 今でも忘れられない光景がある。2009年の春、私は秋葉原に寄った時に、ふとスマートフォンを空中に翳してみた。すると、空中に「姉ヶ崎」「姉ヶ崎」「姉ヶ崎」といふタグがいっぱい浮かんでゐた。ゲームやアニメにまったく詳しくない私は「姉ヶ崎」といふのが何のことか分からず、おそらく地名だらう、姉ヶ崎といふ街から上京して来た人が記念に自分の街の名前をタギングしていったのだらう、と思ってゐた。

 パーソンランクの思想と、私が秋葉原の空で見た拡張現実の世界が一緒になったら、いったいどういふことになるのか。それはおそらく、アニメ「ドラゴンボール」のやうな世界になるのではないか。これは、考へたことのある人も多いだらう。

 「ドラゴンボール」の中では、「スカウター」と呼ばれるコンピューター付きの眼鏡のやうな機械が登場する。その眼鏡をかけると、相手の戦闘力が数値として表される仕組みになってゐる。
 今あるAR(拡張現実)の技術とパーソンランクのアルゴリズムを組み合はせれば、このやうな機械を作ることはそんなに難しいことではないだらう。

 スカウターを身につけた客が店内に入って来る。客のスカウターにはパーソナルに最適化された商品がレコメンドされる。他店との比較情報ももちろん流れてくる。そしてその店が自分が買ひ物をするに相応しい店かどうかを瞬時に判断する。
 一方、店員の側もスカウターを身につけてゐて、今入って来た客のパーソンランク、過去の購買履歴、その人の行動パターンや商品の嗜好、また一回の買ひ物で平均どれくらゐの金を使ふのか、などの情報がスカウターに表示される。
 さうした多様な情報を元にした、言はば、静かな「バトル」のやうなものが繰り広げられるかもしれない。

 そして、こゝからが重要なところだが、このバトルに最終的に勝つのは、パーソンランクが高い方だ、といふことだ。パーソンランクが高い方のスカウターに、より多くの情報が流れ、また上質かつ制度の高い情報が表示されるからだ。
 さらに、パーソンランクが高い人の最大の強みは、なんと言っても影響力である。店に訪れたのは自分一人だが、自分の背後には25万人のフォロワーが控へてゐるのである。

 こゝから、さらに心配すべき事柄が出てくる。それは、パーソンランクによる人間差別の問題だ。パーソンランク25万の客が入って来たら、店員はビビるだらう。そして丁寧な接客に努めるだらう。しかしパーソンランクが低い客が入って来たら、どうせ影響力がないのだから雑な対応でもよいと考へる店員が出てくるかもしれない。


・パーソンランクとセルフブランディング

 2012年はどのやうな年になるだらう、と考へた時に、例へば危惧されるのは、就職活動の問題だ。

 「ソー活」といふ言葉を聞いたことがある。「ソーシャルメディアを使った就職活動」といふ意味ださうだ。これは2012年以降、ますます主流になっていくであらうことは間違ひないと思はれる。その時、学生たちが使ふソーシャルメディアがフェイスブックなのかLinkedInなのか、はたまた他のメディアなのかは知らない。
 こゝで、私はまた、今年2011年頃から嫌な言葉を耳にしてゐる。それは「セルフブランディング」とか「パーソナルブランディング」とかいふ言葉だ。この言葉の意味は説明しなくてもだいたい見当がつくだらう。
 で、セルフブランディングで自己をブランド化していく際に、もっとも重要となる中心的要素は何だらうかと考へてみる。それはもちろん、自分のページを華やかに色取り取りに飾ったりすることではない。採用する側がもっとも重視するであらうポイント、それはやはり、その人物のフォロワー数などの要素、すなはちその人のパーソンランクであらう。
 といふことは、学生たちが「ソー活」に取り組む際、もっとも力を入れるべきことは、自らのパーソンランクを上げること、といふことになる。そしてパーソンランクを上げる、といふのは本質的に、多くの人と繋がる、といふことに他ならない。
 そこでまた、一つの心配事が出てくる。


・よみがへるコネ社会

 昔は、顔の広い「地元の名士」と呼ばれるやうな人に頭を下げなければ、その街の中では何もできなかった。所謂、顔が広い、多くのコネクションを持った人が強かったのだ。しかし日本では、とうにそんな時代は過ぎ去り、今では人間一人ひとりの「個」が輝く時代になってゐるはずだった。
 だが、今ふたたび「コネ社会」がよみがへらうとしてゐる。パーソンランクの時代にあっては、何よりも「コネクション」の多さや強さが重視されるからだ。

 かつては、インターネットの登場により、引き篭もりであっても、目の前にネットに繋がったパソコンさへあれば、自分一人の力で十分、社会と渡り合っていける、と思はれてゐた。しかしこゝ数年、つくづく思ひ知らされてゐるのは、リアルで友達がいっぱいゐる人の強さだ。数年前から「リア充」といふ言葉を多く目にするやうになったのは、多くの人が「パソコン強者」や「ネット強者」よりも「リア充」の方がやっぱり強いと感じてゐるからであらう。

 私は以前、「Facebookが日本で流行らない3つの理由」といふ記事を書き、その中で「フェイスブックはリア充仕様である」と批判した。フェイスブックは、今でもすでに強いリア充の強さをさらに助長する道具でしかない。このやうな道具が広まることは、パーソンランクの格差を拡げることにしか貢献しない。


・まとめ

 私はパーソンランクの時代が来て欲しくない。でも、時代の流れはさういふ方向に向かってゐる。
 フォロワー数が多い人の方が偉い、などといふ認識は絶対に間違ってゐるし、さういふ間違った認識を起こさせやすい仕組みにも問題がある。人をランク付けしたり、人をノードとして扱ったりするのも間違ってゐる。そこからさまざまな弊害が生ずるであらうことも予想できる。一番まっさきに思ひつくのは「差別」だ。そしてその偏見から生じる「いぢめ」とか、今まで知られてきた社会問題がさらに増幅される方向に向かふのではないかと怖れてゐる。

 今のところ、私が考へてゐる唯一の抵抗は、せめて、それが表に出てこないやうにすることだ。「パーソンランク」といふ名前かどういふ名前が与へられるかわからないが、そのやうなアルゴリズムは必ず誰かによって作られてしまふだらう。
 でも、それはせめて、人々の目に見えない裏方で動いてほしい。表面化しないやうに。特に数字(数値)といふ形で人々に分かりやすいUIで人々の目に届くことがないやうに。そこはぎりぎり食ひ止めたい。
 誰かが決めた価値基準に基づいた人間評価が数字といふ極めて分かりやすい形で目の前に表示されたしまった時、「そんなものに惑はされないで、私は生きる!」と宣言できるほど、人間は強くも賢くもないからだ。
 人間が巨大なアルゴリズムに飲み込まれてしまはぬやうに。
 私たちはもっと多くの人間が輝く優れた仕組みを作れるはずなのだ。

Facebook批判 -ザッカーバーグ27歳の誕生日を言祝ぐ-

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 2007年だったか2008年頃に、私が初めてFacebookを知ったときの印象は決して良いものではなかった。

 Googleが、登場した当初からいきなりクールで評判が良かったのとは対照的に、Facebookは全然クールではなかったし、評判も良くなかった。当時の私のFacebookに対して抱いてゐたイメージは、「MySpaceの次席」。しかも日本では2004年からmixiといふSNSがあったので、「なぜ今さらSNS?」といふ印象も拭へなかった。

 しかし今や全世界におけるFacebookのユーザー数、約6億人。日本国内でも300万人を超えてゐると言はれてゐる。もちろん世界最大のSNSであり、SNSどころかすべてのウェブサイトの中で最もアクセス数の多いウェブサイトになった。
 
 これだけの大きな影響力は看過できない。今までもこのブログで何回かFacebookや、その創設者であるマーク・ザッカーバーグを批判してきたが、今日あらためて批判を認めておかう。


・Google vs. Facebook

 GoogleとFacebookの対決の構図といふのは、今でこそ多くの人に知れ渡ってゐるが、2008年当時はそこまで鮮明ではなかった。少なくとも私は分かってゐなかった。

 2008年の3月13日に、私は「「オープン化」を進めるグーグル」といふ記事を書いてゐる。その記事の中でFacebookとGoogleの距離感について次のやうに書いてゐた。

Googleが進めてゐる「OpenSocial」とは、SNS向けのAPIであり、SNSの新たなプラットフォームになることを目指してゐるものだ。この計画が進めば、このAPIを使つた新たなソフトウェアが生まれ、例へば今まで各SNSごとにバラバラだつた友人・知人を横断的に繋げたり検索できたりするやうになる。
 上記記事には書かれてゐないが、米Friendsterや日本のmixiも対応を表明してゐるやうだ。大手どころで参入を表明してゐないのはどうやらFacebookだけらしい。Facebookがなぜ静観してゐるのか実際の理由は知らないが、もしGoogleのオープン化に対抗する気概があるのだつたら、それはそれで応援したい気持ちになる。



 「Facebookの気概を応援したい」などと書いてゐるが、それは当時の時点で、Facebookごときが巨人Googleに敵ひっこない、と思ってゐたからだ。
 実際、私はFacebookのCEOは賢明ではないと思ってゐた。2008年当時、すでに色褪せて古色蒼然としたMicrosoftに距離を置くならともかく、ネット・ITの世界で最もクールな企業であるGoogleに対して距離を取るのは成長戦略的にも賢くないと思ってゐた。
 しかし、今ならはっきりと分かる。ザッカーバーグは初めからGoogleを追ひ抜く、あるいは打倒するつもりだったのだ。Googleにすり寄って内包されて育ててもらって、Googleの「良く出来た子ども」になるつもりは毛頭なかったのだ。

 「オープン」化をすすめるGoogleとは対照的に、Facebookはどこまでも「クローズド」だといふ印象だった。これもまた私は賢明ではないと思ってゐた。「オープン化」はウェブ2.0から続くネットの世界の重要な潮流の一つで、その流れに疑義を挟む人は少なかったし、何よりオープンにするからこそ、世界標準のプラットフォームを形作れると思ってゐたからだ。
 しかしザッカーバーグがさうした意味での「オープン」の重要性を理解してゐなかったわけではないことは、最近のFacebookの「オープングラフ」の動きを見れば分かる。要は「Google主導なのが気に喰はない」といふことだったのだ。


・オープンなGoogle、クローズドなFacebook

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 私の頭の中では上図のやうなイメージだ。真ん中の線で左右に分かれてゐる。

 Googleは、ウェブの申し子、ウェブの良き理解者であり優秀な具現者、体現者であった。有名なページランクの思想を武器に広大なウェブの世界を整理した。

 一方のFacebookだが、ザッカーバーグにもし憧れの人がゐるとすれば、それはラリー・ペイジでもスティーブ・ジョブズでもなくて、ビル・ゲイツなのではないだらうか。
 私は上図の右の流れを「壟断型」と言ってゐる。クローズドで独占的な支配を目指してゐる。


・ザッカーバーグはネットの中のどこに世界を作ったのか
 
 Googleはウェブの「良く出来たこども」だった。ほんの数年前なら「Google=ウェブ」と言ひ切っても差し支へなかった。実際、「Google検索にヒットしないウェブページはこの世に存在しないも同じ」と言はれてゐた。
 インターネットの中にありながらGoogleに内包されてゐない世界を私は思ひ描けてゐなかった。だが、ザッカーバーグははっきりとその世界を思ひ描いてゐた。

 2010年11月にサンフランシスコで開かれた「ウェブ2.0サミット」で、ザッカーバーグが「ウェブの世界の勢力地図はゼロサムゲームではない」と言ってゐたのが深く印象に残ってゐる。(マーク・ザッカーバーグ・インタビュー:「ゼロサムゲームではないことを忘れてはならない」(ビデオ) TechCrunch Japan

皆さんは間違ってます。この地図でいちばん大きな部分は「未知の領域」と記されるべきです。この地図ではゼロサムゲームに見える。しかし実際はそうではない。われわれは価値を他の誰かから取り上げているんではありません。われわれは価値を新しく創り出しているんです。


 今こゝに、「ウェブ」といふ名の一つの部屋があったと想像しよう。床には各種ウェブサービスが隙間なくびっしりと敷き詰められてゐる。それを見て、普通だったら「この部屋には、後発の私たちがサービスを展開できる余地はもう残されてゐない」と諦めるだらう。だが、ザッカーバーグは違ふところに目をつけた。「空中がある」。床から天井までがウェブ空間である。だとすれば、床の上空(空中)が空いてるではないか。空中の空きスペースを利用すればサービスを展開できる。
 私にはさう思へる。ザッカーバーグは言はば、「もう一つのウェブ」の世界を作ってしまったのだ。

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 しかし、FacebookはGoogleとは距離を置きながらも、ちゃっかしウェブの中にはゐる。スティーブ・ジョブズの「Ping」はウェブの外に世界を作らうとしてうまく行かなかった。こゝら辺もザッカーバーグの抜け目のないところだ。


・Facebookの3つの問題点
 
 今や世界のインフラと化したFacebookは、人間関係のあり方、あるいは私たちのライフスタイルを劇的に変へる。

 これだけ利用者数が増え大きな影響力を持つに至ったら、当然、問題点もいろいろ出てくる。

 Facebookにはいくつもの問題があると私は思ってゐるが、私が特に注意してゐるのは、以下の3つの問題点だ。

・プライバシーの問題
・アイデンティティの問題
・ネットワーク構造の問題


・プライバシーの問題

 プライバシーの問題については、すでに米国などでもさんざん批判されてゐるので、特にこゝでは書かないけれども、Facebook Placesなどの位置情報サービスが犯罪に悪用される危険性などはもっと考慮した方がいいだらう。今はまださうした犯罪が少ないのは、米国の10代の子どもたちの間でさへ、位置情報サービスの認知度がまだ低いことが理由の一つにあげられるだらう。(10代の位置情報サービスの認知度、Facebook Placesですら半数を下回る TechWave.jp


・アイデンティティの問題

 今まではネットの世界では、多重人格(複数アカウント)や匿名性が認められてきたが、Facebookの世界ではそれらは認められない。唯一無二の自分しか認められないのだ。
 この苛斂誅求に自己同一性を求められる世界では、どのやうな問題が起こるのか。
 その世界ではおそらく、若き日の過ちを忘却の彼方へと消し去ることができない。そして、卑近な例で言へば、たとへば「大学デビュー」などは今までよりもずっと難しくなるだらう。複数のネットワークに絡め取られ「キャラの固定化」を要求される。しかし、家族、親戚、中学時代の友人、高校時代の友人、職場の同僚など、異なるグループの人たちに対して、常に「一つの自分」を見せることが可能だらうか。人は誰しも「隠れた顔」を持つのが普通ではないだらうか。
 どっちの方面に顔向けしても恥づかしくない、と言ひ切れるほど強い自信を持った人間はさうさうゐるものではない。


・ネットワーク構造の問題

 しかしながら、私がFacebook批判をするとき、一番問題にしたいのはプライバシーの問題でもアイデンティティの問題でもない。一番問題だと思ってゐるのは、Facebookのネットワークの在り方の問題だ。

 ウェブが嫌ひだった。
 Googleがそのウェブの世界を整理してみせたときに用ゐたのが、「ページランク」と呼ばれる思想だった。長く果てしないSEO業者との争ひの中で、Googleの検索アルゴリズムはいろいろと変遷してきたが、基本的には次の2つの要素が今も重要であらう。すなはち、

1.被リンクの数が多いこと
2.質の高いウェブページからリンクされてゐること

 「質が高い」といふのは「ページランクが高い」といふことだ。ページランクが高いページからリンクされれば、そのページのページランクも上がる。
 ウェブは、そのネットワークの生成過程において、多くの被リンクを集めページランクが高いページほどますますたくさんのリンクを獲得し、ますますページランクが上がる、といふ構造に成ってゐる。「貴族主義的ネットワーク」(マーク・ブキャナン)とも呼ばれたかうしたネットワークを「スケールフリー・ネットワーク」と言ふ。

 ザッカーバーグはFacebookといふ名の「もう一つのウェブ」を作ったはずだった。しかし、そのFacebookもまた私にはウェブと同じスケールフリー・ネットワークに思へるのだ。
 スケールフリー・ネットワークの特徴は簡単に言ふと、「金持ちほどますます金持ちに」といふことである。
 私は以前、このブログで、Facebookがリア充主義であることを批判した。(Facebookが日本で流行らない3つの理由(2011/01/11))Facebookはフレンド(友達)が多いほど楽しめる。所謂、「顔が広い」人は、友達の友達、友達の友達の友達、といふ具合にどんどんソーシャルネットワークが拡がって行く。一方で友達が一人もゐない人は、ソーシャルネットワーキングサービスに登録したはずなのに、そのソーシャルネットワークはまったく拡がって行かない。
 友達が多い人はFacebookを使ふことでそのソーシャルネットワークがどんどん豊穣になり、自然とレベルの高い人も集まってくる。ますます知り合ひは増える。ちゃうど、ページランクの高いウェブページが放っておいても質の高いリンクを獲得できるやうに。
 さう、私にはFacebookは、ウェブがウェブページをノード(単位)としてゐたものを、人に置き換へただけのものと見えるのだ。


・結び

 私はウェブが嫌ひだった。
 そして、もう一つの世界として現れたはずのFacebookもまた好きになれなかった。 

 「スケールフリー」は「格差社会」にコミットしてゐる。相性が良い、と言ってもいい。スケールフリーとは、標準的なスケールがないといふことだから、当然と言へば当然のことかもしれない。
 格差社会を助長するやうな構造が好きになれない。

 私がなぜこゝまでFacebookを批判するのか。
 それは、ザッカーバーグほどの透徹した眼を持った天才なら、新しい世界を作るときにもっと理想的な(と私が考へてゐる)在り方の世界を作ることができたはずだといふ思ひがあるからだ。
 Facebookは私の理想とはほど遠い。FacebookがSNSの最終型であるとは思はない。今後新しく生まれてくるSNSは根本的にネットワークの在り方を見直す必要があるだらう。

 Facebookはバッドデザインな駄作である。
 もちろん、金儲けといふ観点から見るならば成功作だらう。Facebookが保持してゐる厖大なソーシャルグラフのデータは「金の成る木」だ。Googleとの熾烈なデータ争奪戦争に勝つことができれば、Facebookは幸せになるだらう。だが、Facebookが幸せであるといふことと、全世界のFacebookの利用者が幸せであるといふこととは別のことである。


 マーク・ザッカーバーグ、27歳の誕生日おめでたう。



【Facebook関連の記事】

Facebookが日本で流行らない3つの理由

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 全世界でのユーザー数が間もなく6億に達しようといふFacebookだが、2011年1月現在、日本ではまだ「流行ってる」とは言へない状況だ。正確な数字ではないが、現在、日本でのFacebookユーザーは約180万人ぐらゐと言はれてゐる。日本国内の他のSNS、mixi約2000万人、GREE約2000万人、モバゲータウン約1800万人と比べても、かなり少ない数だ。

 Facebookが日本で流行るかどうか、といふことについては、昨年(2010年)の10月にもこのブログで考察した。

 日本でFacebookは始まるのか(2010/10/13の記事)

 その時は、私は日本でFacebookが普及する際の最大の足枷になるのは実名主義だらう、と書いた。日本人はネット上での実名に抵抗がある人が多いからだ。今でもさう思ってゐる。

 ちなみにその時、Facebookが今後、日本で普及すると思ふかどうかのアンケートをとった。

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 今日(2011/01/11)現在までに46人の人が回答を寄せてくれてゐるが、ご覧の通り、「普及する」と見る人と「普及しない」と見る人と、結構意見が割れてゐる。

 日本でFacebookが今後もずっと流行らない、とは私は言へないが、少なくとも現時点で「流行ってない」。その理由を前述の「実名主義」以外の理由で3つ考へてみた。


1.日本仕様でない

 Facebookを新たに始めようとすると、先づ、ユーザーは自分のプロフィールページを作成しなければならない。プロフィールページはFacebookにおける一つの“肝”である。必ずしもすべての欄を埋めなければいけないわけではないが、公開するか非公開にするかは別として、ある程度埋めることが望まれてゐる。

 しかし、いきなりこゝで多くの日本人が面食らふことになる。
 
 先づ、基本情報として、居住地、出身地、性別、生年月日、血液型、を訊かれる。こゝまでは問題ない。しかし、その後に「恋愛対象は女性?男性?」といふ項目がある。先に性別は「男性」と答へてゐるのだから、恋愛対象は「女性」に決まってゐる。おそらくこれは同性愛者にも配慮してかうなってゐるのだらうが、多くの日本人にとっては戸惑ふ質問だ。しかもこの項目はチェックボックス(複数選択可)になってゐるので、女性も男性も両方が恋愛対象である、といふバイセクシュアルにも配慮してある。

 その次に、参加目的として、友情、デート、恋愛、情報交換、の4つの中から複数選択可で選ぶやうになってゐるが、これも分かりにくい。デートと恋愛の違ひが分かりにくいし、友達と繋がるSNSだから「友情」は当たり前のやうな気もするし、でもそれを「友情」と言ふとぎこちない気もする。

 そして次に「政治観」といふ項目が来る。自由記述だが、これに至っては殆どの日本人は何を書いていいのかさっぱり分からないだらう。
 その次に来る「宗教・信仰」の項目も同様だ。

 その次の「経歴」欄は自分の生ひ立ちを適当に書けばいいだらう。「好きな言葉」欄も問題ない。

 あと他に訊かれることは、「交際ステータス」(独身か既婚か等)、家族、出身高校名、出身大学名、勤務先名、趣味・関心、好きな音楽、好きな本、好きな映画、好きなテレビ、等々。こゝら辺は問題ない。しかし一つだけ気になるのがあって、「好きな活動」といふ項目がある。好きな活動?それって何?環境保護活動とか、さういふことを訊いてゐるのか、それとも週末にサーフィンとかさういふことか。でもそれは趣味だよね。分かりにくい。

 おそらくアメリカ人が多いであらうFacebookの首脳陣は、本気で日本市場を攻略する気があるのか。
 日本では、プロフィール欄と言へば、「性別」、「血液型」、「星座」等を訊くのが一般的だ。(「干支」は流行ってない、歳がバレるので。)

 FBの首脳陣は、日本人に向かって「政治観」や「宗教」を訊くことが、西洋人に向かって「ブラッドタイプ(血液型)」を訊くのと同じくらゐ珍妙なことである、といふことが解ってゐないのだらう。

 ちなみに、Facebook英語版には、「血液型」の項目はない。自分の血液型なんて知らないといふ人が多いからだらうし、血液型を訊かれる意味が解らないといふ人が多いからだらう。私の調べた範囲では「血液型」の項目が出て来るのは、日本語版と韓国語版と中国語版だけである。

 このプロフィール欄の取っ付きにくさだけでも、かなりの日本人を遠ざけてゐる。


2.リア充仕様である

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 Facebookが、アメリカの超エリート校であるハーバード大学生まれであることを考へれば、これが「リア充(リアルが充実してる人)」向けのものであることは、当然のことかもしれない。

 Facebookは実名でリアル世界の友達と交流するのが基本になってゐる。だから、リア充でもネト充でもいいが、とにかく友達がたくさんゐなければ、ほとんど楽しめない。したがって、非コミュな非リア充(私は「リア空」と言ってゐる)がFacebookアカウントを取っても、“使ひ途”はあるかもしれないが、“楽しみ”はないだらう。

 そもそも、Facebookの本来の使ひ手になるべき30代や20代の若い人たちの多くが、なぜ同窓会に行かないのかを考へてみるとよい。
 特に氷河期世代を中心として、多くの日本の若者が、定職に就けてゐなかったり、結婚できてゐなかったりする。私の周りにもさういふ人はゴロゴロゐる。さういふ人たちは、同窓会に行って、「おー、久しぶり!今、何やってんの?」と現況を訊かれるのが辛いのだ。

 「いまどうしてる?」といふTwitterの質問に答へられるのは、Twitterは匿名アカウントだし、繋がってゐるのは顔も名前も知らない人であることが多いからだ。私も現に、顔も名前も知らない人ばかり100人以上フォローしてゐる。フォローされるのもまた知らない人ばかり。

 つまり、Facebookに登録する、あるいはそこで活動するといふことは、同窓会に出かけて行くやうなものなのだ。誇らしい経歴を持ってゐる人は喜んで出かけて行くだらうが、さうではない人にとっては出かけにくい場所である。
 Twitterをやってる人なら、TwitterのBio欄にはっきり大学名を書いてる人が東京大学と慶應義塾大学の人ばかりであることを知ってゐるだらう。
 しかも今の30代ぐらゐの人たちは、少子化による「大学全入時代」が始まる前に大学受験してゐる世代なので、頭の良し悪しに関はらず結構ランクの低い大学を出てる人が多い。
 それにFBの学歴欄には、高校名と大学名を書く欄はあるが、中学名、小学校名を書く欄は無いので、そもそも高学歴な人が想定されてゐる。

 そして、リア充ならば同窓会に出かけて行っても、たくさんの友達から声をかけられるだらうが、リア空ならば同窓会に行ってもまづ、誰からも声をかけられない。何も楽しくない。

 「Facebookなら、パーティーで撮った写真に写ってる人にタグを付け、それを共有することができます。」
 パーティーって何だ。それはどこで開かれてゐるのだ。誰が参加してゐるのだ。

 Facebookが今ひとつ日本で流行らない要諦はこゝにあると私は見てゐる。

 つまり、かういふことだ。
 今(2011年1月現在)、日本でFacebookを積極的に使ひこなして楽しんでゐるのは、アーリーアダプターの人たちだ。こゝからマジョリティの人たちに拡がっていくためにはキャズムを越えなければいけない。
 では、どうしてFBは日本においてキャズムを越えられないのか。それは、さういふアーリーアダプターたちの多くがリア充もしくはネト充であるからだ。友達が多いアーリーアダプターが、いくらFBの楽しさを伝導したところで、リア空の元には届かない。

 mixiは、マイミクがゐなくてもコミュニティを覗いてゐるだけでもある程度楽しめる、といふ楽しみ方がある。Facebookにおけるこれからの伝導師たちは、キャズムを越えるためには、友達がゐなくてもある程度は楽しめる方法を提示していかなければならないだらう。

 逆に一旦、キャズムを越えたならば、「Facebookのアカウントは2008年頃から持ってるわー。でも、ほったらかしだわー。」などといふ友達がゐないアーリーアダプターを、2010年時点で「ふぇいすぶっくって何?」と言ってゐたやうな後発のリア充マジョリティたちが、あっといふ間に追ひ抜いていくだらう。


3.先行するSNSの巨人がゐる

 以下は、2011年1月上旬の国別Facebookユーザー数が多い順に並べたランキングである。

1位:米国
2位:インドネシア
3位:英国
4位:トルコ
5位:フィリピン
6位:フランス
7位:メキシコ
8位:インド
9位:イタリア
10位:カナダ
11位:ドイツ
12位:アルゼンチン
13位:スペイン
14位:コロンビア
15位:台湾
16位:マレーシア
17位:ブラジル
18位:オーストラリア
19位:チリ
20位:ベネズエラ
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29位:韓国
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53位:日本
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95位:中国
(参照:Socialbakers

 かうして見ると、経済先進国ばかりでなく、インドネシアなど人口が多い国が上位に入ってゐることがわかる。(インドネシアの人口は日本よりも多い)。
 しかしそれなら、人口が多いインドはなぜインドネシアやフィリピンより順位が下で、ブラジルはアルゼンチンより順位が下なのか。
 そしてネット先進国のはずなのにベスト20にも入ってゐない韓国。それよりずっと下位の日本。

 国策でFacebookをブロックしてゐる中国は別として、人口の多い世界の主要国の中で、FBが攻略できてゐないのは、インドとブラジルと韓国と日本だけに思へる。

 私が考へたのは、これらの国には共通してゐることがある、といふことだ。その共通してゐることとは、「先行してゐる巨大なSNSがある」といふこと。
 Orkut王国のインドとブラジル。韓国のCyworld。そして日本のmixi。
 もちろん、ブラジル、韓国、日本には言葉の壁もある。しかしさらに、それぞれの国内で全国民的レベルで普及してゐる巨大なSNSがある。これが後発のFBが入って行けない一つの要因ではないか。

 一旦、一つのソーシャルネットワークで深い人間関係を築いてしまふと、また別のSNSに移って一から人間関係を築き直すといふのはかなり面倒なことだ。

 「でも、アメリカにだって先行するMySpaceといふ巨人がゐたではないか」。私が思ふに、MySpaceは、ミュージシャンなどが自分を表現するための場(Space)だった。発信者がゐて、ファンがゐた。個人個人が内輪的で濃密な人間関係を作るSNSではなかった。
 しかしさうしたFacebookの内輪的で濃密なネットワークといふ性格は、mixiにもCyworldにもある。

 写真共有のInstagramのやうに、Twitterの人間関係をそのまゝ移植できるのならよいが、多くの日本人はTwitterの関係をそのまゝFacebookに、といふわけにはいかないだらう。Twitterは匿名アカウントで使ってゐるし、Twitterのゆるい繋がりとFBの濃密な繋がりとでは、顔ぶれは別になる、と考へてゐる人が多いだらう。そしてこゝでも、FBの実名主義が壁として立ちはだかる。

 mixiの友達関係とまったく同じものをFacebookでも作ったとしたら、いつものおしゃべりはどっちの場で行はうか、といふ問題も出てくる。

 一つの濃密なソーシャルネットワークがあまりにも浸透しすぎてゐる国では、なかなか新規開拓は難しいのだ。


まとめ

 そもそもFacebookは見た目が可愛くない、と言ふ人もゐる。青を基調としたシンプルなデザインは確かに日本のmixiやAmebaのやうな可愛さは無い。
 だが1番目の理由のやうな外形やUIの問題は、さしたる問題ではない。

 3番目の「先行する巨大SNS」といふ理由も、ちょっと苦しいかもしれない。と言ふのは、2010年頃から、ブラジルや韓国で、Facebookユーザーが急増してゐるからだ。この事を考慮に入れれば、日本でも2011年あたり、FBユーザーがある程度まで急増することは十分に考へられる。

 この3つの理由の中では、私は2番目にあげた「リア充仕様である」といふ問題が一番根深い問題だと思ってゐる。

 「プラットフォーム」と言ふよりももはや世界の「インフラ」と言ふに相応しいまでに発達したFacebookの波に日本も遅かれ早かれ飲み込まれるのは避けられないだらう。「Facebookなんて使ひたい人だけが使へばいいんだ」。日本の、陸の孤島、ガラパゴス的楽園を守りたい人々はさう言ふだらう。2chやニコ動など「日本語でおk」な環境の中で内輪でワイワイ楽しくやってゐる方がいいと思ふだらう。
 しかしさうしてゐる内に、先進的なあるいは遅れてやって来たリア充たちは、Facebookといふこの強力な武器を新たに手に入れ、ますます自己の世界を拡げて充実させていくだらう。
 こゝに、「デジタルデバイド」ならぬ「ソーシャルデバイド(social divide)」が現出する。
 Facebookを無批判に受容することも私はちょっと怖いのだ。

 その問題については、また改めて書かう。


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