暫定龍吟録

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追悼 千代の富士

千代の富士の相撲が好きだった。
大横綱、千代の富士の相撲は強いし美しかった。小兵力士ではあったが強靭な腕の力で寄り、投げた。千代の富士以降、大相撲の世界ではさらなる「大型化」が進んで行ったが、江戸、明治の頃の力士はこんな風だったのではないか、と思わせる、最後の「日本の横綱」という感じの力士だった。
2016年7月31日、千代の富士の訃報が走った。
国民栄誉賞の人の訃報なので、本来ならトップニュース扱いされるべきところだったが、その日は生憎、都知事選の日で、ニュースは都知事選の話題ばかり。その後もこの夏はリオオリンピックや、政治的社会的にもビッグニュースが多く、千代の富士逝去のニュースが霞んでしまったのはさびしいことであった。
千代の富士の訃報を受けて、元横綱の朝青竜が「横綱たちの横綱」というコメントを出した。歴代の横綱が集まったら、その中で横綱、という意味だろう。
歴代の横綱の中でいったい誰が一番強いのか、つまりそれぞれ最盛期の時の横綱を一同に会わせて総当りで対戦したら、誰が勝つのだろう、というのは、相撲ファンならずとも興味のある話題ではある。
私は千代の富士が「史上最強」かどうかは分からない。「最強候補」ではあろう。昭和以降であれば、他に、双葉山、大鵬、北の湖、貴乃花、白鵬あたりも強そうだ。
だが、最も「美しかった」「かっこ良かった」のは千代の富士だ。私にとっては。
体が小さいということは、体重をかけて押すということができないので、それで勝つのは、つまり腕の力が凄まじかったということだ。そして押されても押し負けない下半身の強靭さも兼ね備えていた。強さだけでなく靱やかさも併せ持っていた。
相撲は、強さと美しさと両方が大事だと思っている。単なる「スポーツ」ではない。「格闘技」でもない。千代の富士の雲龍型の土俵入りは比類の無い美しさだと言われている。
今後、このような「美しくかっこ良い」それでいて強い力士が現れて来てほしいと思う。


猛烈な日差しが照りつける夏の日、そっと手を合わせた。
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小柄なイメージが強い千代の富士だが、手を重ねてみると、指の先は2センチほど余り、指の幅も太く、やはり一般人に比べたら全然大きくて逞しい手なのであった。
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この左手であの強烈な左前みつを取ったんだ。
墓にも。蟬噪を忘れるほど、亡き横綱に思いを馳せながら静かに手を合わせた。
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正確には、これは千代の富士の墓ではない。私が参った時はまだ千代の富士の告別式が行われておらず、千代の富士はここには埋葬されていない。千代の富士のご家族の墓である。そしてこの後、千代の富士がこの墓に埋葬されるのかどうかも分からない。
後ろの卒塔婆には、零歳で亡くなった三女の娘さんの名前が見える。モデルとして活躍する梢さんの妹にあたる。三女を亡くした時の千代の富士は、周囲から「もう二度と相撲は取れないんじゃないか」と心配されたほどの憔悴ぶりであったという。
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仁王立ちする千代の富士の像。その見つめる視線の先には先に逝った愛娘が。
強く美しき大横綱、安らかに。
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外国人コンビニ店員「10円お返します」

 地方はどうだか分からないが、東京は外国人のコンビニ店員が多い。
 私の生活環境ではコンビニの店員は半分くらいの割合で外国人である。

 で、外国人のコンビニ店員がお釣りを渡すときに、例えば10円のお釣りだったら、

「10円お返します」

と言う。一人ではなく、いろんな店の外国人店員がそう言う。

 これはもちろん、

「10円お返しします」

が正しい。

 この「お返しし」と「し」が2回連続するのが発音として難しいのだろうか。

 あるいは彼女たちは、日本で暮らしていて日常会話レベルの日本語は分かっている人たちだから、「返します」という正しい日本語を知っていて、それに丁寧の「お」を付けているのだから間違っていないと思っているのかもしれない。

 だがやはり、「10円お返します」はおかしい。

「10円、お返しします」

「10円のお返しです」あるいは「10円、お返しです」

でも成り立つ。

 最悪、「10円、お返します」から頭の「お」を取って、

「10円、返します」

でも日本語文法的には正しい。



と、ここまで考えて、はたと気がついた。

 ひょっとしたら、彼女たちは

「10円お返します」

ではなく、

「10円“を”返します」

と言っていたのかも。


 そんな!!! 

 そうなのか!??


【関連記事】

カンバーバッチが走る!映画『イミテーション・ゲーム』感想

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 たまには映画の感想でも。

 映画『イミテーション・ゲーム』を観て来た。
 めずらしく映画を観た。何年ぶりだろう。

 有名人の史実を基にして作られた映画なので、ネタバレも何もないと思うが、一応、まだ観てない人のために詳しいストーリー展開は書かないでおこうと思う。

 感想を一言で言うと、おもしろかった。

 感動的であり、特に後半からエンディングに向かって加速度的に感動が高まっていく。元々、感情的なタイプの私は最後は泣きそうになった。隣の席の男(※後出)の啜り泣く声が聞こえた。(ただの花粉症だったかもしれない。そう言えばチューリングも花粉症だった。)

 第二次世界大戦中に暗躍したイギリスの天才数学者、アラン・チューリングの人生をベネディクト・カンバーバッチが好演している。

 アラン・チューリングは、国からの依頼で、当時イギリスが戦っていたドイツ軍の暗号を解読するよう頼まれる。
 その暗号は「エニグマ」と呼ばれる超難解な暗号で「解読不能」と言われた。世界一の天才数学者チューリングが、その解読に挑む。

 絶対に解読できない暗号 v.s. 世界一の天才数学者

という構図だ。

 しかし私は数学的側面やエンターテインメント的側面よりも、歴史的側面の方が気になった。
 この物語はフィクションだとも言えるし史実だとも言える。しかもそう遠くない昔に実際に何万人という人が亡くなった、あの世界大戦の話なのだ。

 日本ではアインシュタインは有名だが、同時代に生きていたチューリングはそれほど有名ではない。
 それはチューリングの存在自体が戦後も長く、トップレベルの国家機密だったからだ。大正11年の来日時に熱狂的に歓迎されたアインシュタインとは知名度が全然違う。
 チューリングが為した仕事は英独戦の結果に大きな影響を与えた。ということは、ドイツと同盟関係にあった日本の戦局にも大きく影響しているということだ。
 私たち日本人にとって、決して「関係ない数学者」ではない。
 この映画をきっかけにしてもっとその名が知られればいい。

 映画の初めの方では、チューリングの“変人”ぶりが描かれる。だが、チューリングを主人公にしているだけあって、映画全体としてはチューリングを好意的に描いている。

 暗号解読の舞台となったブレッチリー・パークでの「挌闘」「死闘」の日々は、現代の私たちが使っているコンピュータに繫がっている。チューリングはコンピュータの生みの親でもある。その意味でも現代の日本人のほとんどはチューリングの影響を受けているのであり、「関係ない、昔の人」の話ではない。

 チューリング自身が、いわゆる「チューリング・テスト」を行う場面も描かれている。数学やコンピュータの歴史に興味がある人は、そういった観点からも楽しめるかもしれない。
 また、映画には欠かせない「恋愛」の要素も少しは描かれている。
 映画全体としては、壮絶な騙し騙されの世界で、いったいどっちが騙している側でどっちが騙されている側なのか、そうしたスリリングな感じも味わうことができる。

 この映画で一つだけ物足りないと感じたのは音楽だ。
 と言っても悪いわけではない。テーマ音楽は非常に高尚な音楽だ。だが高尚すぎて印象に残らなかった。もっと俗っぽい、歌詞があるような音楽でもよかったのではないか。この映画ではなんと言ってもチューリングが、と言うよりカンバーバッチが、全力疾走するシーンが印象的だが、そこをもっと盛り上げる音楽があればよかった。高貴ではあるが、スリリングさを表現したり興奮を盛り上げたりするには少し物足りない気がした。

 ポスターには「アカデミー賞最有力」の文字があったが、実際には作品賞も主演男優賞も獲らなかった。
 しかし、私はこの映画がアカデミー賞を獲らなくてよかったと思っている。このような“政治的な”映画が、現代の政治の思惑に利用されることは望ましくない。アカデミー賞を獲らなかったことで初めて安心してこの映画が「おもしろい映画」だったと言える。
 
 ところで、映画が始まる前にトイレに行ったら、自分とまったく同じ恰好をした男に遭った。
 背恰好も似ていて服装が丸かぶりだった。
 恥ずかしいので、開場するまでこの男からはなるべく離れたところにいよう、と思った。
 開場時間になって指定の席に座っていると、しばらくしてからその男が入ってきて、私のすぐ隣の席に座った。これだけ広い映画館でよりによって隣の席・・・。
 同じところで買った服なんじゃないか、と思うぐらい上も下も完全にかぶっていた。

 はっ! イミテーションゲームか。






【関連する記事】
  • よみがえるチューリング -アラン・チューリング生誕100年-(2012/06/23)



光芒一閃の人 -立原道造生誕100年-

 立原道造が生まれて今日でちょうど100年になる。

 私は、この長身痩躯の詩人が好きだ。

 宮澤賢治も好きだが、この二人はなんとなく印象が似ている。
 ところが、当の立原道造本人は、宮澤賢治はあまり好きじゃないみたいなことを言っている。
 なぜ立原が宮澤賢治を批判しているのか。
 よくは分からないが、おそらく自分と似た匂いを感じていたからではないか。
 つまり自分と「風(ふう)」が似ていて、それでいて有能で常に自分の先を歩いている賢治が嫌だったのではないか。理系(賢治は地学、立原は工学)を専門とする詩人であるところや絵や音楽が好きなところなど似ている点は多い。


多才な人

 立原は秀才だった。
 両国中学→一高→東大という、当時の東京下町のエリートコースを歩んでいる。

 高校時分に千葉の房総半島に合宿に行ったときに、蛙の研究や方言の研究をしているのが興味深い。
 千葉の方言についての分析や考察は、高校生レベルとしてはかなりレベルの高いもので感心させられる。また、現代ではほとんど無くなってしまっている千葉の方言の貴重な記録でもある。

 幅広い分野のことに興味を持っていた。単に成績が優秀というだけでなく、多方面にわたっての才能があった。

 立原の魅力の一つはこのような「多才さ」にある。


建築家、立原道造

 東大在学中から、すでに詩人として有名だった立原だが、専攻は建築学であった。

 『方法論』は、立原道造の建築学に関する論文だが、建築学に関しては門外漢の私は読んでも、いまいち何が言いたいのかよく分からなかった。
 ただ、文中に「これからの建築は空間のことだけでなく時間のことを考えなければならない」みたいなことが書いてあって、それは感心した。

 本当は、今、話題になっていて、かつ私も関心がある国立競技場の問題について、プリツカー賞より権威のある辰野賞受賞者の立原ならどう言うだろうか、と憶測してみたいところなのだが、さすがにそのような我田引水は立原が怒るかもしれないから辞めておこう。
 しかし何かしら一家言あったはずであろう。

 立原は「建築」を、その言葉の語源、すなわち「たつ」と「きづく」から考察している。根源から問おうとするその試みはもう少し時間が経てば、日本の建築学を大きく変えていたかもしれない。
 立原の建築がどういうものになるのかは見てみたかった。
 唯一、埼玉県に、「ヒアシンスハウス」という立原の設計になる建物があるらしい。


光芒一閃の人

 以前、東大の裏手、弥生門を出た辺りに立原道造記念館という建物があった。開館直後の頃、一度行ったことがある。繊細な感じの立原道造に相応しい小さな記念館だった。
 立原道造はいつまでも若い。
 百歳と言っても、イメージはいつも、あのひょろひょろな青年のままだ。

 立原は生きていたとしても、あの体つきでは徴兵検査には合格しなかっただろう。いや、だからこそ逆に戦争の禍を免れて長生きできた?

 中学三年の時のノートにこんな詩を書き残している。

もしも私が失望からすくつてあげられたら、
私はむだにすごしたことにはならないだらう、
ひとりの人の命のいたみをやはらげられたら、
ひとりの人の苦悶をやはらげられたら、
一匹の弱くなつて居る駒鳥を再び巣にたすけてかへすこ
 とが出来たら
私はむだに一生を過したことにはならないだらう。


 自身が身体が弱かったからこそ書けた詩ではないだろうか。

 東大建築科で学年一コ下だった丹下健三は立原のことを「鮮烈な光ぼうを放って私の目の前を通り過ぎた一人」と評しているが、「光芒」という表現はぴったりだと思った。

 それは一瞬の煌めき。

 昭和の初めの東京で、鮮烈な光芒一閃を放っていった人。


 立原道造の百歳の誕生日にあたる今朝、墓に静かに手を合わせた。


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 左から二番目の「温恭院紫雲道範清信士」とあるのが道造。


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 最後に私の好きな「魚の話」を紹介したい。

魚の話

或る魚はよいことをしたのでその天使がひとつの
願をかなへさせて貰ふやうに神様と約束してゐ
たのである。
かはいさうに! その天使はずゐぶんのんきだつた。
魚が死ぬまでそのことを忘れてゐたのである。魚は
最後の望に光を食べたいと思つた、ずつと海の底に
ばかり生れてから住んでゐたし光といふ言葉だけ沈
んだ帆前船や錨★からきいてそれをひどく欲しがつ
てゐたから。が、それは果たされなかつたのである。
天使は見た、魚が倒れて水の面の方へゆるゆると、
のぼりはじめるのを。彼はあわてた。早速神様に自
分の過ちをお詫びした。すると神様はその魚を星に
変へて下さつたのである。魚は海のなかに一すぢの
光をひいた、そのおかげでしなやかな海藻やいつも
眠つてゐる岩が見えた。他の大勢の魚たちはその光
について後を追はうとしたのである。
やがてその魚の星は空に入り空の遥かへ沈んで行つ
た。

(『散歩詩集』より)
(★の部分には錨の記号が入る)



 立原道造が引いた光のおかげで後世の私たちはいろいろなものが見えている。

 立原道造の光を私もまた追い続けている。



【参考文献】
  • 『立原道造全集』筑摩書房

  • 『立原道造詩集』岩波文庫


大難問!サンタさんはどこから家に入ってくるのか? ~クリスマスの思い出~

 (このぶんしょうは10さいより上の人だけよむことができます。まだ10さいになっていない人は、お母さんかお父さんに、よんでもいいかどうかきいてからよんでください)


 いつも硬い話ばかりしているので、たまには子供の頃のクリスマスの思い出など軟らかい話でも。

 私は子供の頃は、本当に子供っぽい子供だった。

 クリスマスになると我が家にも毎年サンタクロースが来ていたが、どこから家の中に入ってくるのか疑問だった。

 よく「煙突から入ってくる」などと言われるが、マンションの我が家には屋根も煙突もなかった。
 上の方からやってくるイメージがあるけれども、私の家はマンションの2階で、天井の上には3階の人が住んでることは子供心にもわかっていたので、上から来ることはありえないと思っていた。

 となると、残るは窓か玄関のドアしかない。
 しかし、子供部屋の窓を開けるともう、すぐ隣のマンションが建っていて、隣のマンションとうちのマンションの隙間は手を伸ばせば届きそうなほど狭く、とてもサンタさんが橇を乗り付けられるようなスペースはなかった。

 なので、残るは玄関のドアしかない。サンタさんは玄関のドアから普通に入ってくるのだ!

 というわけで、12月24日の夜は必ず寝る前に玄関のドアの鍵を開けておくのが、毎年の慣わしだった。サンタさんを閉め出してしまわないように。


 しかし、そうして無事に家の中に入れても、その先にもう一つ問題があった。
 それは、我が家の台所が狭すぎて、サンタさんが子供部屋まで辿り着けないのではないか、という問題だった。

 我が家の玄関と子供部屋の間には台所があり、台所の真ん中にはテーブルが置いてあった。玄関から入ってきた場合は必ず台所を通らなければ子供部屋には辿り着けないのだが、そのテーブルと台所の壁の隙間がとても狭かった。

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 私の家族は全員痩せているのでそれでも全然問題なかったのだが、サンタさんは太っているイメージがある。サンタさんはお腹がテーブルにつかえてしまって、ここ通れないよね、という話になった。(お母さんにサンタさんがどういう経路で子供部屋まで辿り着くか相談していた。)

 これはかなりショックなことだった。だって、グリーンランドだかフィンランドだか知らないが、はるばる遠くから我が家までやって来たサンタさんが、子供部屋まであと2メートルぐらいのところまで来て、お腹がテーブルにつっかえて通れないから諦めて引き返してしまったら、こんな残念なことはない。

 なので、テーブルをできるだけ西へずらし、テーブルと壁の間を最大限に空けておく、という作業もクリスマスイヴに必ず行っていた。

 それで、クリスマスの朝には私の枕元にはサンタさんからのプレゼントが毎年、無事に届いていたのである。