桜雨
今日降るやうな雨を、
「桜雨(さくらあめ)」
といふ。桜の花の咲くころに降る雨のことだ。
昔から「春に三日の晴れなし」と言つて、この季節は晴天が長続きせず、晴れたり雨降つたりの日々を繰り返す。
日本では古来よりいろいろな表現で雨が喩えられてきた。「〜雨」といふやうに語末に「雨」が付く形の言葉は、『大辞林』には実に187語も載つてゐる。日本では187もの雨が降るのだ。
「桜雨」は英語で何といふのだらうか。"cherry blossoms rain"?こんな言ひ方で英国人は理解できるだらうか。英語に詳しい人がゐたら教へてほしい。
ずつと待ち遠しく楽しみにしてゐた桜の花も、咲いたと思つたらこのやうな雨や風であつといふ間に散つてしまふ。せめて桜の咲いてゐる短い間だけは、雨も降らず風も吹かないでほしい、と思ふのは私だけであらうか。でも、4月に入つたある日に、強い風が吹いて、桜の花が桜吹雪となつて潔く散つていく姿に美を感じる人もゐる。それはそれでたしかに風情なのである。
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Tag : 桜雨
桜
今日は、日本さくらの会が定めた「さくらの日」らしい。理由は「さくら」の「さく」が「39」で「3×9=27」だから。あるいは七十二候で今の時期がちやうど「桜始開」にあたるから、ともいふ。
ところで季節を表す名称である七十二候は日本と中国で微妙に違つてゐて、日本の「桜始開」にあたる時期は中国では「雷乃発声」。遠くで雷の音がし始める、といふ意味だが、これは日本の季節感に合はないといふことで変へられたらしい。
「桜(さくら)」の語源は、「語源由来辞典」によれば、動詞「咲く」に接尾語「ら」が付いて名詞化したものだといふ。
芭蕉の句に、
「さまざまの事 おもひ出す 桜かな」
といふのがある。これは「まさにその通り」と思はせる句だ。日本人にはおそらく桜に対してさまざまな思ひ出がある人が多いだらう。これだけいろいろな思ひ出を去来させるのは、日本ではこの時期に年度の変はり目があるためかもしれない。
桜と言へば、森山直太朗の「さくら(独唱)」といふ歌の中に、
「永遠にさんざめく光を浴びて」
といふ歌詞がある。光が「さんざめく」とはうまく表現したものだ。「さんざめく」とは「さゞめく」が転じたものだが、辞書によれば、「さゞめく」に比べて「浮き浮きと騒ぎたてる」といふ意味があるらしい。つまり、楽しいといつた意味合ひがあるのだ。光が楽しく騒ぎたてる、何だか目に浮かぶやうだ。
芭蕉から直太朗まで、日本人は昔(特に近世以降)から桜を大切に思ひ、そしてまた桜にいろいろな思ひを乗せて歌つて来たのだ。
このバラ科サクラ属の落葉高木が、私もまた好きだ。
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Tag : 桜
IT力に見る北陸と北欧の共通性
「Phun」といふソフトがある。物理演算ソフトで、丸や三角や四角といつた形を描くと、それが物理法則に則って動き出す、といふもの。ゲームにも使へさうだが、それよりも学校の数学や物理の授業で使はれる用途がありさうだ。
初めてこれを見たときは、よくぞこんなものを作ったものだと感心したが、これを作つたのが、スウェーデンのウーメオ大学の学生だといふことだ。
新しいウェブサービスやユニークなアイデアは米国発であることが多いが、かういふITの基礎的な力が北欧人にはあるやうな気がする。
LINUXを作つたのはフィンランドのヘルシンキ大学の学生だつたし、携帯電話最大手のエリクソンやノキアも北欧だ。
文系でしかもITに疎い私は、自分のことは棚に上げて、日本の理系の学生やコンピューター関連学部の学生は何をやつてゐるのか、と叱咤したくなる。もちろん、日本の学生もユニークなソフトやサービスを開発してゐるといふニュースは時々聞くが、大体、日本国内だけの人気に終はつてゐる気がする。
mixiの笠原さんも、はてなの近藤さんも、日本国内だけでの成功に満足せず、世界を目指してほしいものだ。
一昨日、日本の北陸人はIT力が高い、といふ記事を書いたが、それにしても、北欧人も相当IT力が高い。北欧の人々は世界でもつともインターネットを駆使した日常を送つてゐるといふ話も聞く。
そんなことを考へてゐると、何だか北陸人と北欧人が似てるやうな気がしてきた。北陸3県と北欧3国が私の頭の中で勝手にリンクしてきた。
ひよつとしたら、北陸地方は日本の北欧なのではないだらうか。能登半島がスカンジナビア半島に見えてきた、と言つたら大袈裟だが、日本政府はもしIT戦略を重視するなら富山か金沢あたりにIT戦略の拠点となる施設を作つたらどうだらう。案外、この地方から優秀な学生が出て、世界に通用するソフトやサービスが出てくるかもしれない。
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Tag : Phun
IT力の高い北陸人、IT力の低い九州人
それで、どこの県がもつとも受験者が多いか気になつたので調べてみた。もちろん、人口が多い県ほど受験者数が多いのは当たり前。なので、まづ、47都道府県を人口の多い順に並べ、それからその隣に日本語テストの受験者数が多い県順に並べて、両者の順位の変動を比較してみた。
人口順位との比較で見た場合、日本語テスト受験者数が多かつた都道府県ベスト10は以下の通り。
1.徳島県
2.山梨県
3.福井県
4.香川県
5.滋賀県
6.石川県
7.奈良県
7.富山県
7.鳥取県
10.三重県
1位が徳島県なのは、おそらくこゝが、このテストを主催したジャストシステムのふるさとだからだらう。北陸の3県がすべて入つてゐるのが際立つてゐる。
逆にワースト10は以下の通り。
1.福島県
2.山口県
2.鹿児島県
4.沖縄県
5.宮崎県
6.群馬県
7.長崎県
8.栃木県
8.青森県・秋田県・山形県
8.佐賀県
東北地方や九州地方が少ない感じだ。

Map of Japanで地図にしてみた。かうして見ると、北陸〜近畿〜山陰にかけてと四国に受験者が多さうだ。首都圏が多さうに見えないのは、私の今回の分析手法に問題がある。この地域は元々人口が多く順位が高いために、いくら受験者数が多くても順位が上がらないのだ。
さて、この結果は一体何を意味するのだらうか。北陸には日本語に興味がある人が多くて、九州には日本語に興味がある人が少ない?いや、さうではあるまい。このATOKの日本語テストはネット上で実施された。これに参加するためには日ごろからインターネットに親しんでゐることが必要になつてくるだらうし、そもそもかういふテストが実施されてゐることを知るためにはネット上の情報収集などに敏感でなければならない。つまり、この結果はそれぞれの都道府県民のIT力の高さを表してゐるのではないか。
九州の各県は軒並み少ない。九州はインターネット普及率が低いから、といふ理由が考へられさうだが、しかし、同じくインターネット普及率が低い北陸はこんなにも受験者数が多かつた。
やゝ性急にすぎる感もあるが、この地図を見て私が出した結論は、「北陸人はIT力が高く、九州人はIT力が低い」である。こゝで言ふIT力とは、普段からインターネットを使ひこなしてゐるかどうか、といつた程度の意味である。
ところが驚くべきことにこの私の分析結果と非常に似通つた分析結果を弾き出した人がゐた。LSTY氏が3月22日付のブログ記事で、Amazonユーザの都道府県別分布について調べたのだ。
他人の不幸は蜜の味: Amazonユーザの都道府県別分布
リンク先の日本地図をよくご覧になつてほしい。そしてこのページの地図と見比べてほしい。私は今回、この地図を作るにあたつてLSTY氏の作成した地図とわざと同じ色を使つたので、比較しやすいはずだ。
LSTY氏が調べたのは、Amazonといふネット書店の利用者がどの都道府県に多いのか、といふことを人口構成比とのポイント差で調べたものだ。その分析結果と私の分析結果との間に驚くほどの共通点があるのがおわかりいたゞけるだらう。
LSTY氏はAmazon利用者の都道府県別分布を地図にまとめあげた上で、「全体的には九州が弱い感じ」、「北陸〜近畿〜山陰と関東・四国は比較的利用者が多そうだ」と分析してゐる。この感想が、上記の私が作つた地図にもそのまゝ当てはまる。
このAmazonユーザの分析結果に対しては、「田舎の人は読書意欲がないんだ」などとする意見を寄せる人もゐたが、さうではないのではなからうか。やはり、Amazonを利用して書籍を購入するといふのは、これは一つのIT力を示してゐるのではなからうか。
LSTY氏は記事の最後に「やっぱり北陸は強い」と感想を述べてゐるが、ATOK日本語テストの受験者数を調べた私も「北陸は強い」と感じた。
AmazonとATOK日本語テストの共通点は何だらうか。「言語や文字に対する興味」だらうか。それもあるかもしれないが、やはり「インターネットを手段にしてゐる」といふことではないだらうか。
二つの分析結果がこれだけ似た傾向を示してゐるのだから、次のやうに言つても良ささうだ。
「北陸人はIT力が高い。もしくは、日常的にインターネットを駆使した生活を送つてゐる。逆に、九州人はIT力が低い。家にインターネット環境があるかどうかは別にして、日常的な生活の中でインターネットを使つてゐる人が少ない」と。
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Tag : IT力
その如月の望月のころ
この時期になると、この歌を思ひ出す。
今日は旧暦2月の満月。空にはきれいなまるい月が浮かんでゐる。
西行は自らのこの歌の予言通り、如月の満月の日に亡くなつた。しかも歌人であると同時に僧侶でもあつた西行はその忌日が釈迦入滅の日(2月15日)と同じであつたといふから驚きだ。(西行が没したのは正確には2月16日)。西行ほどその最期が見事なまでに美しかつた人はゐないだらう。
だが私は春に亡くなるのはいやだなあ、と思ふ。気温が暖かくなつたり暑くなつたりすると、昔のいろいろな感覚が甦つてくるのを体で感じる。それで懐かしさでいつぱいになつて、たぶんこの世に未練たらたらになると思ふのだ。
亡くなるなら秋か冬がいい。記憶がなく、未練がなく、葉が落ち、草木が枯れるのと同じやうに亡くなつていくのがいいのだ。
今日、東京では桜が開花した。しかし、この一瞬の花が美しく咲き誇つてゐるあひだに亡くなりたい、といふ気持ちもわかる。それは刹那の美である。刹那の美を間違ひなく確実に切り取つた人だけが永遠の美を受け取る。西行はさうして永遠の美を手に入れた。
一年に一度の如月の満月の日、800年以上昔の歌人の気持ちに思ひをいたしてはいかゞだらうか。
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Tag : 西行
新東京タワー問題を考える
私は東京人といふことで「地元人」の意識で書いたつもりだつたが、もつと「地元人」な人たち、すなはち墨田区民や押上・業平橋地区に住んでる人たちの気持ちにもつと寄り添ふべきであつた。
このやうな巨大な建造物を建てるときは、まづ何よりも近隣住民の気持ちが最優先されなけらばならない。その近隣住民の方々の気持ちを知るためにも、ぜひ「新東京タワー(すみだタワー)を考える会」のホームページを一度ご覧になつていたゞきたい。地元のこの会の人たちは、新東京タワーを「もう建つてしまふもの」として諦めて考へてゐない。「考える会」の人たちは、新東京タワーについて多くの問題点を指摘し、タワーは必要ないと訴へる。そしてまだ建設の中止を諦めてはゐない。
新東京タワーの問題点はこちらのページに実にうまくまとめられてゐる。
「新東京タワーをめぐる問題点」
例へば次の指摘、
墨田区は、新タワー建設により世界中から観光客が訪れ、経済波及効果は計り知れないと言う。しかし、タワー・展望台は、多くの人にとって“一度行けば終わり”。各地のタワー・展望台でも、入場客はオープン直後のピークから急速に減少。
これは実に鋭い指摘だ。と同時にこれは誰もが容易に思ひつく問題点でもある。実際、横浜ランドマークタワーや東京都庁展望台は、年々入場者が激減してゐる。近年では六本木ヒルズブームといふのもあつたが、そのブームももう去つてしまつた。私が予感しかつ懸念するのは、新東京タワーのブームは六本木ヒルズブームよりもさらに短命なのではないか、といふこと。街全体がおしやれで魅力を持つてゐる六本木地区とタワー以外に何もない押上地区とでは、人を引き寄せる力は全然違ふのだ。しかも、今や超高層の建物は世界各地にあり、たゞ高いといふだけで人々の興味を惹きつけられる時代はとつくに過ぎてゐる。つまり、この新タワーは数十年後には非常に「残念な建物」になつてしまふ可能性が高いのだ。タワーが建つことで「経済が活性化する」とか「地域に活気が出る」と言つて無邪気に喜んでゐる人たちは、そのやうな「活気」が一時的な盛り上がりに終はる可能性を十分に考慮すべきだ。
かつて戦後の高度経済成長期に新宿の西口に超高層ビルが次々と建てられてゐたとき、人々はそれを目を細めて眺めてゐた。それは、経済第一優先主義の時代であつた高度成長期には、それらの高い建物はその時代の多くの人にとつて「日本の経済成長の象徴」であつたからだ。
だが、今や時は平成、21世紀。もはやとつくに経済第一優先主義の時代ではない。アジアの後進国ぢやあるまいし、「おらが街にも高い建物が建つた」と言つて喜ぶやうな時代ではない。
「考える会」では他にもさまざまな観点からの問題点を挙げてゐる。日照権、景観権、眺望権、防災面、電磁波による健康への影響面、等々であるが、これらの中で私が一番気になるのは、景観の問題である。昔ながらの下町の住宅街に突如として現れる600mの巨大な建造物。その光景はかなり異様であると想像される。今すでに中央区や江東区の東京湾沿ひの街では、昔ながらの木造の家々と近代的な超高層ビルが混在する異様な風景が出現してゐる。東京の下町はかうしてでたらめな開発が進み、アジアの後進諸国のやうな扱ひを受けることになるのだらうか。
この新タワーは安藤忠雄といふ著名な建築家がデザインしてゐるらしいが、一体かういふ高名な建築家は建物のデザインのことだけ考へて、周囲の景観との調和とかいふことは一切考へないのだらうか。
ヨーロッパの秩序だつた美しい街並みを見るにつれ、どうして日本人はかうもセンスがないのかと思ふ。無秩序な乱開発を好むのは、やはりアジア人だからなのか?
「考える会」では、行政側からの「住民への説明不足」を訴へてゐるが、もし私が押上の住民だつたら説明されても納得しないだらう。このタワーは本当に必要のないタワーだからだ。たゞ観光の目玉として建てよう、といふだけのことなのだ。どうしても必要不可欠な建物だといふのなら止むを得ず建設に納得することもあるかもしれないが、必要のない建物のために自分の大切な故郷が破壊されることほど苦々しいことはない。なぜ、新東京タワーが必要ないのかについては、上記の「考える会」のホームページに詳しい。
おそらく東京人以外の人たちにとつては他人事と思はれるかもしれないが、かういふ問題は今後も全国で起こりうる問題だと思ふ。この記事が多くの人々に新東京タワー問題について関心を持つてもらへるきつかけになればと思ふ。
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Tag : 新東京タワー
新東京タワーの名称を考える
東京人の私は、この新東京タワー建設案が発表されたとき、建設に反対した。今さら日本一高い建物が建つて喜ぶなんて田舎者ぢやあるまいし。当初は、さいたま市なども建設候補予定地に入つてゐた。私は、さいたま市に決まればいいなあ、と思つてゐた。東京にこんな無用の長物は要らない。すでに港区に「東京タワー」があるのに、なぜ今さら新たにもう一つタワーを作らなければいけないのか。テレビのデジタル放送に対応するため、と言ふが、港区の東京タワーをちよつと延伸すれば対応できる、といふ話ではないか。
しかし計画は決まつてしまつた。もう建設工事も進んでゐるらしい。
そこへ、新東京タワーの名称候補決定のニュースが飛び込んできた。3月19日、有識者10名による『新タワー名称検討委員会』が、一般投票で募つた18606件の名称案の中から候補を選定したらしい。
この無用な建物がすでに建設中ならそれが建つてしまふことはあきらめるよりほかないが、それならせめて名前だけはマシな名前をつけてほしい。東京人として黙つてはゐられない。
決定した名称候補は以下の6つ。
・東京EDOタワー
・東京スカイツリー
・みらいタワー
・ゆめみやぐら
・ライジングイーストタワー
・ライジングタワー
検討委員会の座長で、元東京都副知事、明治大学大学院教授の青山やすし氏は、「品格のある日本を代表する」名称といふことで選んださうだ。しかしながら、この6案には「品格」は感じられない。
「みらいタワー」なんて、まるでどこかの地方都市に新しく建てた建物のやうな名前ではないか。どこにでもありがちな凡庸な名前でこれほどつまらない名称はない。
「ゆめみやぐら」も駄目だ。なんか「海ほたる」と似たやうな発想だな。「夢見櫓」ならまだ解るが、なぜわざわざ平仮名にしてゐるのか。
「ライジングイーストタワー」と「ライジングタワー」は、ともにこれはなぜ英語なのか。「日本を代表する」にふさわしい名前をつけるならば、英語はをかしいのでは?
「東京スカイツリー」も問題がある。検討委員の一人で作詞家の阿木燿子は「オリジナリティー」と言つたらしいが、オリジナリティーを言ふならば、この地域“ならでは”の名称でなければなるまい。だが、「東京スカイツリー」は頭の地名を挿げ替えればどこの地域でも通用してしまふ名前だ。札幌に塔が建てば「札幌スカイツリー」、大阪に塔が建てば「大阪スカイツリー」、福岡に塔が建てば「福岡スカイツリー」…、といつた具合に。よつて、この名前も駄目。
この6案の中で一番マシなのは、「東京EDOタワー」だ。なぜなら、この塔が建つ押上・業平橋地区はその昔、まさに「本所」、「向島」と呼ばれた「江戸」の市街だからだ。だから6案の中では、これが一番オリジナリティーとアイデンティティーがある名称だと言へる。たゞし、「江戸」を「EDO」とローマ字表記にしてゐるのは意味がわからない。普通に「江戸タワー」でいいだらう。もしくは「江戸塔」。
あと、頭に「東京」とつけるのは賛成できない。今の石原都知事は、「首都大学東京」とか「新銀行東京」とか、なんでもかんでも「東京」と付けるのが好きならしいが、「東京つ子」であつて断じて「江戸つ子」ではない私としては、「東京」と「江戸」はやはり峻別したいのだ。墨田区のあの地域はやはり「江戸」であつて「東京」ではない。
以上、候補6案を批判、検討してみた。
私個人としてこの6案以外の名称を考へてみるならば、単に「押上塔(タワー)」、「業平(橋)塔(タワー)」とするのがいいと思ふ。座長の青山氏は「歴史に残る、歴史的に使はれていく、名称を選ばなければならない」と言つたらしい。「歴史」を重視するならばその土地の古来よりの固有の地名を重視すべきではなからうか。
「押上」は江戸時代以前からあるらしい由緒ある名前だし、「業平(橋)」は、かの有名な歌人、在原業平に因んでゐる、歴史を感じさせる名前だ。業平の有名な歌
「名にしおはばいざ言問はむ都鳥我がおもふ人はありやなしやと」
が、この付近で詠まれたことに因んでゐる。検討委員の阿木氏は「ロマンやドラマが入つてゐる名前」にしたいと言つたらしいが、これほどロマンを感じさせる名前はない。
しかしこの6案はもう決定のやうで、4月1日から5月30日までの間、この6案の中から一般投票を実施して決めるさうだ。
残念ながらこの無用な建物は2012年頃に建つことが決まつてしまつてゐる。だつたらせめて名前だけでも東京にある建造物として恥ずかしくないマシな名前をつけたい。
私と同じ東京人の皆さん、そして全国の皆さん、どうかこの建物が少しでもマシな名前に決まりますやう、ご助力をお願ひします。
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Tag : 新東京タワー
「できるか、できないか」ということと「するか、しないか」ということ
・Attribute=51:要は、勇気がないんでしょ?
といふ記事を読んだ。3月16日の記事。
それに対する、リルリル氏の憎しみに満ちた反論、
・ NWatch ver.X:世界よ、もっとウインプ達の憎しみで満たされろ
の記事も読んだ。
どのやうな内容かは、リンク先を読んでいたゞくとして、リルリル氏の言ひ分、
そもそも彼らマッチョは既にマッチョなんですから、金とか名声とかそんなものは十分あるわけです。だったら何でその上私たちが、インターネット上で彼らが傍若無人に自慢や根性論を書くのを容認しなきゃならないのか?
これには、同感。
私も日頃、このやうなクラスの人たちの書く、自己責任論や努力論に違和を感じてゐた。リルリル氏によれば、私たち「ウインプ」は、もつとかうした人たちの言動に対して怒るべきだ、といふことだ。(「マッチョ」とか「ウインプ」といふ言葉は、はてなユーザーの間でよく使はれてゐる言葉のやうで、私はその正しい意味を知らない)。
しかし、上の記事をよく読んでみると、はたしてguri_2氏はリルリル氏の言ふところの「マッチョ」なのだらうか。的外れといふかお門違ひといふか、リルリル氏はどうも怒りのぶつけ場所を間違つたやうな気がしてならない。
ところで、guri_2氏の上の記事は、これはこれで一つの心に響く記事で、自分自身の勇気についてあらためて考へさせられる記事ではあつた。
guri_2氏は、ナンパの話を引き合ひに出して、ナンパができない男はいろいろ言ひ訳を言ふけれど結局は勇気がないだけじやん、と言つた。
勇気が出ないっていう本音をカモフラージュしながら何十年も言い訳をしつづけるのは、考えただけでげんなりするので、できない理由を考える暇があるなら、できることだけでもやってしまった方がいいと思うし、そっちをおすすめしたいんです。
と、guri_2氏は言ふ。
だが、ちよつと違ふ。
「できるか、できないか」といふことと「するか、しないか」といふこととは違ふのだ。
たしかに私は勇気を出せばナンパ「できる」かもしれない。だが私はナンパを「しない」だらう。換言すれば、私がナンパ「できない」理由は「勇気がないから」だが、私がナンパ「しない」理由は「勇気がないから」ではない。
つまり、「できない理由」を考へてゐるのではなく、「しない理由」を考へてゐるのだ。
「言ひ訳ばつかりするな」といふ意見には賛成だが、「できることだけでもやってしまった方がいい」といふ意見には諾へない。「するか、しないか」といふことは「できるか、できないか」といふこととは分けて考へなければいけない。
たしかに、guri_2氏の言ふやうに言ひ訳ばかりしてゐるのはみつともないし、リルリル氏側の怒りにも一理ある。
だが私は両者に「できない」ではなく「しない」といふ主体的な生き方をすゝめたい。
「マッチョになれない」のではなく「マッチョにならない」のだ、といふ生き方だ。これはちつとも消極的な生き方ではなく、むしろ積極的な生き方である。
両者の記事を読んで、「できるか、できないか」に捉はれてゐることが主体的な生き方を阻んでしまつてゐる、と感じたのでこの記事を書いた。
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YouTubeの次に来る動画サービスは?
YouTubeはすぐれた動画サイトだし、十分使ひやすい。動画サイトはYouTubeさへあれば十分、と考へてゐる方も多いだらう。
他の動画サイトが、これだけ世界に普及したYouTubeに対抗することは不可能であると思はれるし、対抗するだけの労力を費やしてそれが報はれるかどうかもわからない。
でも、世界の動画共有サービスたちは、YouTubeの牙城を崩す、とまでは考へてゐなくても、YouTubeの二番煎じぐらゐは狙ひたい、と思つてるのではなからうか。
例へば、同じ米国内のMySpace VideoやVeohは、虎視眈々とその座を狙つてゐるかもしれない。あるいは老舗のMetacafeあたりも。Google Videoは同会社だからYouTubeと競合することはないだらう。
米国以外では、フランスのDailymotion、韓国のPandora TVあたりも世界市場を視野に入れてゐるだらう。
日本のニコニコ動画やAmebaVisionも、現在でこそほとんど日本の国内や一部の外国(台湾など)でしか人気がないが、将来的には世界進出を考へてゐるのかもしれない。
中国の動画共有サイト優酷網は、News Corp.が出資するSNSのMySpace中国と提携した。
中国の動画共有サイトの優酷網(ヨウク)、MySpace中国と提携
http://japan.cnet.com/news/media/story/0,2000056023,20369525,00.htm
(余談だが、「優酷網」つて、優しいんだか酷いんだかわからない名前ですね。)
有名な写真共有サイトの米Flickrも4月から「Flickr Video」といふ動画サービス(ベータ版)を始めるらしい。
世界中の動画サービスがYouTubeを追撃してゐる。かうしたサイトの中からYouTubeに取つて代はるサイトは現れるのか?それともこの先もYouTubeの天下が続くのか?
しばらくは様子見といかう。
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Tag : YouTube
世界一つまらないホームページ
でも、その中でも「世界で一番つまらないホームページはどれか」と問はれゝば何と答へるか。
私は、これではないかと思ふ。
「世界一つまらないホームページ」(←最後まで見ると「暇人」呼ばはりされるので注意されたい。)
ご覧になつていたゞければわかると思ふが、円周率がたゞ延々と記載されてるだけのページである。
以前、本屋で『円周率1'000'000桁』といふ本を見かけたことがある。文章は無く、たゞひたすら延々と円周率が百万桁載つてるだけの謎の本だ。この本はAmazonなどのネット書店には売つてない。かういふ不思議な本に出遭へるのはリアル書店ならではの面白さだ。
それでも円周率百万桁に何の意味も効用もないかといふとさうでもなくて、これは乱数表として使へる。適当なページをめくつて、目を瞑つて鉛筆を立てる。この方法でランダムな数字を選ぶことができる。
今日は、日本数学検定協会が定めた「数学の日」(円周率の3.14に因んで)。
偶には、この「世界一つまらない」かもしれない無理数を眺めてみてはいかゞだらうか。
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Tag : 円周率
「オープン化」を進めるグーグル
今、私が感知してゐるだけでも三つある。
1.SNSのオープン化
2.動画サービスのオープン化
3.携帯電話のオープン化
以上の三つはいづれもGoogleが主導してゐるオープン化の動きだ。
1.SNSのオープン化に関しては次の記事が詳しい。
グーグルの「OpenSocial」にヤフーも参加か?--Facebookは静観の構え(2008/03/12)http://japan.cnet.com/news/media/story/0,2000056023,20369286,00.htm
Googleが進めてゐる「OpenSocial」とは、SNS向けのAPIであり、SNSの新たなプラットフォームになることを目指してゐるものだ。この計画が進めば、このAPIを使つた新たなソフトウェアが生まれ、例へば今まで各SNSごとにバラバラだつた友人・知人を横断的に繋げたり検索できたりするやうになる。
上記記事には書かれてゐないが、米Friendsterや日本のmixiも対応を表明してゐるやうだ。大手どころで参入を表明してゐないのはどうやらFacebookだけらしい。Facebookがなぜ静観してゐるのか実際の理由は知らないが、もしGoogleのオープン化に対抗する気概があるのだつたら、それはそれで応援したい気持ちになる。
2.動画サービスのオープン化とは、これはGoogle傘下のYouTubeの話だ。
YouTubeは3月12日、開発者向けに新たなAPIの提供を開始したらしい。YouTubeは今回のAPIの提供により、今までの「単なるウェブサイト」から「動画サービスにおけるオープンな汎用プラットフォーム」になることを目指すと言ふ。
動画サービスの世界でもGoogleが「プラットフォーム」といふ統一化を図らうとしてゐる。
3.携帯電話のオープン化に関しては次の記事が詳しい。
iPhone vs Android、PC を超えるプラットフォーム争い(2008/03/13)http://japan.internet.com/finanews/20080313/6.html
Androidとは、Googleが打ち出した携帯端末オープン化のためのプロジェクトの名称だ。今、AppleのiPhone陣営とGoogleのAndroid陣営が、携帯電話の世界における熾烈なプラットフォーム争ひを演じてゐるといふことらしい。
デバイス、ミドルウェア、ワイアレスキャリア各社が加盟する Open Handset Alliance の組成により、専用端末を前提とする iPhone アプリよりも、 Android のほうが、オープンで広範な発展が期待できるかもしれない。両者の競争は、かつて Mac と PC/AT 互換機+Windows が繰り広げた、パーソナルコンピュータ市場でのプラットフォーム争いを彷彿とさせる。
そしてGoogleは、iPhoneのやうな携帯端末ではなく、ソフトウェアの道を選んだ。
一時は“GPhone”を作るのではないかと噂されていた Google は、携帯端末ではなく、オープンなモバイルソフトウェアプラットフォームの提供者となった。
それにしても思ふのは、AppleとGoogleが熾烈な争ひを繰り広げてゐた間、携帯先進国であつたはずの日本の携帯電話会社は一体何をしてゐたのか、といふことだ。長い間、「携帯鎖国」を続けてゐた日本の携帯電話各社は、少し反省しなければなるまい。
以上、SNSのオープン化、動画サービスのオープン化、携帯電話のオープン化、は、いづれも現在、米国のGoogleが主導になつて行はれてゐる。「オープン化」とはそれぞれの世界における「標準化」を目指す動きであるとも言へる。
それにしても、なぜ、いつもかうした新しい動きは米国発なのか。かうしてあらゆるデファクトスタンダードは米国基準になる。SNSのオープン化などは、Googleではなく日本のmixiなどの大手SNSが主導で動いてもよかつたはずだ。
結局、SNSにしろ、ニコニコ動画やAmebaVisionのやうな動画サービスにしろ、携帯電話にしろ、日本の企業は国内のことしか考へてゐない、といふことなのか。それともたゞ単に、世界標準となりうるだけの力量を持つてゐない、といふだけのことなのか。
力量はなくとも気概があれば、Googleの覇権に少しは待つたをかけられると思ふのだが。
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Tag : Google
「Hulu」はYouTubeのライバルとなりうるか
Hulu.comにコンテンツを提供してゐるのは、Time Warner、Lions Gate Entertainment、NBA、NHLなど20社以上のコンテンツ企業だ。
NBCとニューズは、YouTubeに対抗するつもりでこのサイトを作つたらしい。全米のすべてのインターネットユーザーが見るとも言はれるHuluだが、はたしてYouTubeの強力なライバルになりうるのか。
Huluの問題点の一つは、まづ、そのサービスが米国に限定されてゐるところにある。YouTubeが世界的規模でサービスを展開してゐるのと対照的だ。数多くの映画やNBA、NHLの試合が見放題、といふ点を強調してゐるやうだが、そもそもNBA(バスケットボール)やNHL(ホッケー)などは大体米国人しか興味がなくそれ以外の国の人にとつて魅力的なコンテンツだとは思へない。
それでも最近では、映画やテレビ番組に関しては米国のものでも日本で流行してゐるものが結構ある。さういふ映画やテレビが"フル"で配信されるのならば、日本人でも「見たい」と思ふ人はそこそこゐるかもしれない。
だが、現時点では日本国内からはこれらのコンテンツを見ることはできない。現在、日本からHulu.com内のコンテンツにアクセスすると、
Unfortunately this video is not currently available in your country or region. We apologize for the inconvenience.
(あなたの国では利用できません)
と表示される。
全米では大きなセンセーションを巻き起こしてゐるかもしれないHuluだが、これでは残念ながら米国内の内輪の盛り上がりに終はりさうだ。
そしてもう一つ注意しなければいけないこと。それは同じ動画サイトでもHuluはYouTubeとはその性格をまつたく異にしてゐるといふことだ。YouTubeは動画コンテンツを"共有"するサイトだ。それに対し、Huluは動画コンテンツを"供給"するサイトだ。日本で例へれば「GyaO」のやうなものか。YouTubeほど「Web2.0」的性格もない。だからYouTubeとは、「対抗する」といふよりも棲み分けて「共存する」といふ形になるのではないか。
といろいろ批判したが、Huluが米国人のテレビ視聴スタイルを今後大きく変へるであらうメガサイトであることに変はりはない。
で、日本への影響はどうなのか、といふことについて考へたい。
今後、Huluがそのサービスをアジア地域へ拡大して、日本人もHuluを"フル"に楽しむことになるのか。それとも日本独自でHuluに似たサービスを提供する企業が現れるのか。その時、コンテンツ企業である日本のテレビ局や映画会社やJリーグなどのスポーツ協会はどう動くのか。
"Hulu対YouTube"の問題は将来に向けて多くの問題をはらんでゐる。それは"個人対マスコミ"の問題でもあるし、"(従来の)テレビ対インターネット"の問題でもある。
これらの問題がこの先どういふ方向に向かふのか。日本は米国の動向を見守つてから動き出しても遅くはなささうだ。
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100年先を見据える「HISTROLL」
しかし、もう63年も前のことを覚えてゐる人はほとんどゐない。語り継ぎ継承していくべき歴史なのに記憶してゐる人も語り継ぐべき人もなく、年月とともに歴史は風化していく。
「HISTROLL」といふサイトをご存知だらうか。話題のニュースや事件の経緯や続報を投稿・編輯できるサイトで、「人類の財産となる集合知」を目指してゐるらしい。
「集合知」といふと、いかにもWeb2.0系らしい感じがするが、このサイトはたゞのWeb2.0系サイトではないやうだ。目指すところのものは、あちこちに散らばつてゐる事件の情報を収集・整理した上で、それらを「100年保存し、人類の資産」とすることだといふ。随分とスケールの大きい目標なのだ。
HISTROLLといふ名前の由来はサイトには書かれてゐないが、おそらく"HISTORY(歴史)"と"ROLL(記録簿)"を掛けた造語ではないかと思ふ。直訳すれば"歴史簿"とでもいふ意味になるのだらうか。
事件の記録ならすでにWikipediaにもある、と思ふ方もゐるかもしれない。たしかに多数の人が投稿・編輯できるといふ点でも同じであり、Wikipediaのやうなサイトとの棲み分けも必要になつてくると思はれるが、Histrollの場合は事件専門であり、ネット上だけで話題になつたやうな小さな事件も取り扱つていく方針のやうだ。
たしかに多くの事件は一時的なブームであり、その後の続報もないまゝに歴史の波に消え行く、といふことは多々ある。ある人にとつては、いつまで経つても忘れることのできない、あるいは忘れてはいけない大事な事件なのに、大手メディアはその時の旬のニュースしか取り上げてくれない。
サイトポリシーによれば、Histrollは、100年かけて事件簿の集合体を収めるシステムを作るのだと言ふ。運営団体はProject2108といふ団体らしいが、運営母体であるProject2108が存続しない事態になつてもコンテンツは生き残ることができるやうな仕組みまでとつてゐると言ふ。
これは本気であればすごい。インターネットの世界でこんな長期的な視点でサイト作りをしてゐる団体はさうない。米国サンフランシスコに「Internet Archive」といふ、世界中のウェブページを大量にコピー・保存してゐる団体があるが、まさにそれを思はせる取り組みだ。
例へば、毎日世界中で大量のウェブページが生成されたりブログが更新されたりしてゐる。思ふに、毎日ブログを更新するときに、今日書いた何気ない記事が100年後にどうなつてゐるかといふことまで考へて書いてゐる人は少ないだらう。
ある人は自分が亡くなつても、がんばつて書いた記事は記録として永遠に残つてほしいと考へるかもしれないし、ある人は自分が亡くなつたらブログ記事もすべて消してほしいと思ふかもしれない。
現実には、グーグルキャッシュのやうな形でウェブページは中途半端に残つていくのが現実である。しかし本当に、今、日々生み出されてゐるこの大量のブログ記事などは100年後にはどうなるのだらう、と真剣に考へると少し怖い。
ペタバイト級に記録された情報は、しかし、それが無秩序のまゝ保存されてゐるのであれば、記録としての意味を持たない。誰もが扱ひやすいやうに整理してまとめられた記録だけが記録としての意味を持つ。Histrollはそこらへんを目指してゐるのだらう。
Histrollが見据える先はとてつもなく大きい。このサイトはまだ始まつたばかりで情報も少ないが、もし軌道に乗つて成功すれば、人類の歴史にたしかな足跡を残すことになるのだらう。
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3月9日
オブジェクト私考
あらかじめ断つておくが、この記事中には「オブジェクト指向とは何か」については書かれてゐない。オブジェクト指向について知りたい方はこの先は読まないはうがいい。
私には、ずつと昔から疑問に思つてゐることがあつた。それは、
「オブジェクト指向」とは何か?
といふことである。
よく本屋のコンピューター書籍売場のコーナーに、「オブジェクト指向」と書かれたネームプレートのやうなものが掲げてある。私は本屋にはよく行くが、コンピューター書籍売場には滅多に行かない。それでもたまに通りかゝると「オブジェクト指向」と書かれた札が目に飛び込んできて、これが気になつて気になつてしかたなかつた。
コンピューターやITに疎い私には、オブジェクト指向といふのが何であるのかさつぱりわからない。「オブジェクト」の概念もはつきりとはわかり難い。
「オブジェクト指向」ではなく「オブジェクト志向」なら、だが、なんとなくわかる。あゝ、オブジェクトを志向してゐるのだな、と大まかなイメージを掴むことができる。しかし、
オブジェクト"指向"
とは何であらうか。
オブジェクトが指し示す方向???
もしくは、「オブジェクト嗜好」なら何となく理解できる。コンピューターを使つてゐる人たちのあひだで、さういふ傾向を好むことだと推測がつく。
でも、「オブジェクト指向」つて何?
ネット上の掲示板などでかういふ質問をすると、「それぐらゐ自分で調べろ」とか「勉強しろ」といふ答へが返つてくることが多い。だが、自分の興味のない分野のことを勉強しなければならないことほど辛いものはない。
だから、詳しい人に教へてもらひたい。
さういふわけで、このエントリーは未完であり、私はオブジェクト指向について疑問を糺す前に、オブジェクト指向の概念についてもう少しきちつと理解をしておくべきであるとは思ふ。つまり、このエントリーは、オブジェクト指向について理解が未熟な私がオブジェクト指向について試みに思考してみたものであり、言はば、「オブジェクト試行」であると言へる。
いつか私がこの概念についてもう少しきちんと理解できた時、その時あらためてこのエントリーの続きを書かう。
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mixi日記が書けない人におすすめの方法
その内容は、簡単に言へば、mixi上に書かれた日記などについてユーザーが著作者人格権を行使することを禁止した、といふものである。
これを受けて、mixiに書いた日記が勝手に書籍化されるのではないか、と少なからぬユーザーが大騒ぎをした。
私はmixiを使つてゐない。だからmixiの利用規約がどう改定されようが、私には全然関係ない。
この一連の騒ぎを見てゐて感じるのは、一体世の人々は著作権に敏感なのか鈍感なのか、といふことだ。
CNET Japanの伝へるところによれば、著作者人格権の行使の禁止といふのは何もmixiの規約に限らず、多くの他のSNSやブログサービスで規定されてゐることらしい。だから、mixiが規約改定したからと言つて今さら騒ぐことではないと思ふのだ。
それに他人が作つたブログサービスやSNSを利用してゐる以上、ある程度相手の言ひなりに従はなければならなくなるのは当然のことだ。もちろんこれは、ブログサービスを使はないでMovable Typeなどのブログツールを利用してゐる場合にも言へることだ。Movable Typeを使ふならSix Apart社の利用規約に従はなければならないだらう。
敏感だから、この度の些細な改定でもこれだけ大騒ぎしてゐるのであらうが、しかし、本当に著作権に敏感な人ならば、このやうなSNSやブログサービス上に日記を書くやうなことはしないだらう。
おすゝめの方法がある。
それは、紙の日記帳に日記を書くことだ。それも誰にも見せずにひつそりと書くことだ。かうすれば、著作権はかなりの確率で守られる。あなたの大切な文章が「コピペ」されることも「勝手に書籍化」されることもない。
筆と紙は、著作権に敏感な人にも良き友である。
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「成功」の理由を考える
http://d.hatena.ne.jp/good2nd/20080301/1204336629
著者は、「格差社会の問題は、苦しんでいる人の一人一人がそれぞれ「勝てばいい」という話じゃない」と言ふ。それは、格差社会には「つねに一定の弱者が存在する」からだ。
この見方は鋭い。だが又、かういふ見方ができる人は少ない。昨今は、雑誌でもブログエントリーでもハウツーものの記事が人気を博してゐる。さういつた記事を書く人の多くは、格差社会の問題も社会問題として捉へてゐない。例へば、「いくら社会が氷河期でも、うまくやり抜いて成功した人もゐる」といつたことを強調したがる。社会がどうであれ、やり方次第で個人の人生は成功に持つていくことができる、といふわけだ。
さうぢやない。勝ちたい個人が成功を収めれば済む話ぢやない、といふのが、このgood2nd氏の主張だ。個人の話ではなく、社会の話なのだ。
そして、「社会のせいにしてもしかたがない」、「犯人探しになど意味はない」などと言ふ人たちに対しては力強く次のやうに言ふ。
犯人を探したところで「今すぐ」問題が解決するわけじゃないというのは正しいが、「意味がない」というのは欺瞞だ。僕達は、絶対に「犯人探し」をするべきなのだ。そうしなければ、「社会」の問題は解決しない。
そして、それに続く指摘は出色である。
成功した人々は、自分の力でそうしたと信じたいものだ。それはよくわかる。今の自分があるのは、自分が何にもくじけることなく頑張ったからだ、と思いたいものね。
でも、と著者は言ふ。
よく考えてみれば、今の自分があるために、努力なんかよりもよっぽど沢山の運に支えられているはずなんだ。努力したのはわかる。そうだろう。人一倍したんだろう。それはとても意味のあることだ。でも、「人一倍の努力」が実を結ぶためには、運が決定的な役割を果たすってこともまた、認めるべきなんだ。そう思えば、今の自分が持っているものを「当然のこと」とは言いきれないんじゃないかと思う。そしてそのとき、自分がたまたまそれを得ることができた事に対して、責任を感じるはずだと思う。
私も以前から、似たやうなことを感じることがあつた。
TV番組の「トップランナー」とか「プロフェッショナル」といつた番組には何かの分野での一流の人が毎週登場する。その一流の人たちに司会者がインタビューをすると、必ずと言つていいほど「努力は裏切らない」といつた類の答へが返つてくる。そして「視聴者へのメッセージをお願ひします」と聞くと、「最後まであきらめないで」と言ふ。
番組に登場する一流の人たちは口を揃へてさう言ふ。なぜか。それは一流の人たちは皆、もれなく(その分野における)成功者であるからだ。一流になつた人といふのは一部の成功者である。このやうな一流の人は、たしかに「自分は最後まであきらめずに努力した」のだらう。その結果、今の成功があると思つてゐる。だが、その成功はあくまでも「結果」だ。その原因が「人一倍の努力」にあるとは限らない。
よしんば、その成功が「努力」の結果であつたとしても、それは結果として見た場合の成功者のみに当てはまることだ。結果として成功に終はつたからこそ「努力のおかげ」と言へるのであつて、結果として失敗に終はつてゐたら「努力は裏切らない」なんて言へない。そして現実には、多くの人はそのたゆまぬ「努力」にもかゝはらず、最後まで成功を手にすることはできないのである。
だから、TVに出る一流の人は簡単に「最後まで夢をあきらめないで」なんて言はないでほしい。世間の人たちに対して影響力の大きい一流人だからこそ、good2nd氏の言ふやうに「運の良さを噛み締めて」発言してもらひたい。
「成功」と「失敗」の間にある格差の問題を社会の問題として捉へ、一人一人が責任を感じて生きていけるやうな社会になればいいと思ふ。
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