暫定龍吟録

反便利、反インターネット的 This blog has not been updated since 2016

2008年06月の記事

大聖堂落書き事件にみる心理

 最近、イタリア・フィレンツェの大聖堂に日本人の大学生が落書きをしてゐた、といふニュースが話題になつた。

 私は、この事件の詳しいことを知らない。どの程度悪質な落書きだつたのかわからない。落書きは、大きく書いたのか小さく書いたのか。たくさん書いたのか少し書いたのか。目立つところに書いたのか目立たないところに書いたのか。簡単に消せるもので書いたのか簡単には消せないもので書いたのか。かうした程度によつて、悪質度合ひも変はつてくる。

 一説によると、その大聖堂にはたくさんの落書きがあつたさうだ。割れ窓理論を引用するまでもなく、もしそこにたくさんの落書きが放置されてゐたら、「自分も記念カキコして行かう」といふ気持ちになる者もゐるかもしれない。

 もつとも、だからと言つて、落書きが許されてよいといふことにはならない。今回の大学生がした行為を擁護するつもりはないし、私も落書きは大嫌ひだ。

 だが、今回の事件に対する日本の世間の反応が気になる。
 「日本の恥だ!」と言ふのは、まあ分かる。
 「もう一度イタリアまで行つて土下座して来い!」と言ふのは少し言ひすぎかと思ふが、まあ正義を思ふ憤りの心から出た言葉なのだらう。しかし、
 「学生の謝罪旅行にマスコミも同行すればいいのに」と言つた者がゐたが、これはいたゞけない。これは、「このバカな若者をみんなで見世物にして晒し者にしよう」といふ魂胆である。
 かういふ群集心理はおそろしく、殊に戒めなければならない。ネット上で時々起こるブログの「炎上」といふやつも同じ心理から起きる。

 これらの学生は、すでに謝罪文を書かされたり、停学になつたり、それなりの罰を受けてゐる。人間誰しも過ちを犯すことがある。それを本人が二度と立ち直れないほどに完膚無きまでに「群集」の力が袋叩きにするのはよくない。
 人は誰でもいつでも、この学生の立場になる可能性がある、といふことを想像しなければいけない。「自分は絶対落書きなんかしない」と思つてる人でも、他のどんなことで急に世間の批判の矢面に立たされるか分からない。その時、初めて、「群集」の袋叩きの恐ろしさに気づくかもしれない。

 ところで、この大学生たちは、落書きに自分の名前も書き、さらにご丁寧なことに所属する大学名まで書いてゐたといふ。
 ネット上で匿名で落書きのやうな中傷、嘲笑コメントを書き込んでゐる輩より、よほど潔いのではないか。
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コンビニで頭の体操

 先日、コンビニで買ひ物をしたら、レジで店員のお兄さんに

「311円です」

と言はれた。

 私は、100円玉3枚と10円玉2枚を出した。
 すると、

店員:「あと1円ありませんか?」

私:「ありません」


 おそらく、この店員さんは、私が320円出したのを見て、あと1円出してくれゝば、おつりがぴつたし10円になると思つたのだらう。
 だがお兄さん、よく考へてみよ。私がもし1円玉を持つてゐたら、321円ではなく、311円きつかり出せばよいでせう。 


 コンビニの会計でも、このやうに咄嗟に頭の回転が求められることがあるんですね。
 まあ、もし、私が店員の立場だつたら、そこまで咄嗟に頭が回るか自信がないですが。

子どものために、大人のために、ノーテレビ・ノーゲームデーを

毎日新聞6月27日のニュースより

ノーテレビ・ノーゲームデー:「家庭の会話増やして」 行橋市立17小中学校、来月から毎月1回
 福岡県の行橋市教委と同市PTA連合会は25日、来月から毎月1回、市立17小中学校に通う児童・生徒(計6198人)の家庭を対象に、テレビを見ず、ゲームもしない「ノーテレビ・ノーゲームデー」を設けると発表した。

 
 昨日、ノー・ネット・デーについて書いたが、今日は、ノーテレビ・ノーゲームデーの話。

 かういふ話が出ると、必ず
「こんなことは、行政や学校が強制することではない。各家庭が判断してやればいいこと」
と言ふ人が出てくる。

 だが、テレビやゲームが子どもの勉強時間を減らしたり、家庭内の会話の時間を減らしてゐることは明らか。
 子どもが自主的にテレビやゲームを止めることは難しい。
 では、親が止めさせればいいのか?しかし、今の時代は親も一緒になつてテレビを観たり、ゲームをしたりしてゐる。以前、病院の待合室で、子どもよりもずつと携帯ゲーム機に熱中してゐる母親を見た。
 さういふ家庭の子どもも含めて学校が半強制的にノーテレビ・ノーゲームデーを決めてくれるのは、本来はありがたいことなのだ。

 自分でそのやうなものを決めようと思つてもなかなかできない。テレビやゲームの魅力に自ら逆らへる子どもなど少ない。大人でも少ない。そこまで意志の強い人はなかなかゐない。
 例へば、本を書く仕事の人がゐるが、編集者が半ば強制的に締め切りを決めてくれるから、文章を書き上げることができる。これが、もし締め切りといふものが無かつたら、本一冊を書き上げるのは相当困難だらう。

 今の30代以下の人は、自分が子どもの頃にも家庭内ゲーム機があつて、それで遊んで育つたはずだ。テレビやゲームのおかげで、いかに友達とのあるいは家庭内での会話が少なくなつたかを身をもつて知つてる世代のはずだ。
 さういふ世代の人間こそが、今回の行橋市のやうな取り組みを積極的に支持していくべきではないのか。

「ノー・ネット・デー」を読んで思ったこと

「ノー・ネット・デー」を設けて思ったこと : ITpro

を読んだ。

 この著者は、帰宅してからネットをするときについついビールを飲んでしまふ。そこで健康上の理由から、週に2日、ネット(ビール)をやめることにしたのださうだ。
 ネットを利用しなくなった時間は読書に充てるやうになり、今までの生活に比べて、ずつと生産性が向上したと言ふ。

 なんだか分かるやうな気がする。
 「ネットを使つても、生産性を上げることはできる」と反論する人もゐるかもしれない。たしかにさうだ。ネットより読書の方が生産性が高いとは限らない。ネットは自分から情報を発信したり、何かを創造したりすることもできる。
 だが、ネットをそのやうに“能動的に”、“生産的に”使へてゐる人は少ないのではないだらうか。多くの人はネットを“受動的に”、“非生産的に”しか使へてゐない。

 友人・知人のブログを見て回り、コメント欄に半ば“義理的に”コメントを書いて回る。あるいはまた、返事を書く。ミクシィ日記でも同じやうな「儀式」を繰り返し、さらにはメールの返事も書く。
 かういふことで、一日の数十分や数時間が潰れてしまつてゐる人も多いのではないだらうか。

 このやうなことは大体、生産性のあることではない。こんな「儀式」の遂行を、毎日欠かさず馬鹿丁寧にやるよりも、読書でもした方が、たしかに生産性がありさうだ。
 コメントやメールにはすぐに返事を返さなければいけないと思つてゐる人も多いやうだが、仕事ではないのだから、一日遅れの返事でもよいのではなからうか。

PCにしろ携帯電話にしろ,仕事や趣味に大変役立ツールであることは確か。だが,ツールであるはずのネットが,それを利用することだけが最終的な目的になりつつあるようだ。

といふ、著者の考へに共感。
 私が時々「反インターネット」的なことを言ふと、「ネットは賢く使へば便利な道具である」と言ふ人がゐる。たしかにさうなのだが、そのやうに「賢く」使へてゐる人は少ないだらうと思ふのだ。

 せつかくの「インター(相互性)」を備へたネットなのに、テレビと同じやうに、ほゞ受動的にしか使へてゐない人は多いと思ふ。「情報を浴びる」だけのために、PCの前に座る(携帯を手にする)人は多いと思ふ。さういふ人は皆、ネットに振り回されてゐるのだ。

 しかし、この著者は、よくぞ「ノー・ネット・デー」を設けることができた。この著者はITproの記者だから、常にネットの最新情報を得てゐなければいけないだらうに。
 かういふ立場の人がかういふ記事を書くことに意義があるんだと思ふ。

ヤフーニュースのコメント欄はなくした方がいい

 ヤフーニュース下のコメント欄が気になる。

 6月17日の記事「ロングテールが多数派になる法則」で、ヤフーニュースの下に書かれてゐるコメントの上位コメントに同意できないことが多い、と書いた。

 先日も、日本のある地方で、少年5人の乗つた車が電柱に激突し死傷事故を起こした、といふニュースが取り上げられてゐて、それに対し、「バカは早く死ね」とか「電柱乙」といつたコメントが多数の人々の同意を得て、上位に掲載されてゐた。

 そのニュースでは事故原因はまだ捜査中と書かれてゐた。急に何かが飛び出してきたのかもしれないし、急に車の故障でハンドルが効かなくなつたのかもしれない。だが多くの人が、バカな若者たちが若気の至りで調子に乗つてスピードを出し過ぎて事故つたのだらう、といふ推測のもとにコメントを書いた。

 本当の事故原因が何も判つてゐない段階で、このやうな先入観的推測だけでコメントを書く行為はあまりにも安直だし、それに対して同意ボタンを押してる人がたくさんゐる現状もあまりにひどい。

 もう一つ、このコメント欄を見てゐて気になるのは、割とどうでもいい一つの話題提供程度のニュースに対しても辛口のコメントが目立つことだ。「こんなどうでもいいことより、もつと外にやるべきことあんでしょ」といつた類のコメントだ。

 どうも人々は、ニュースに対してコメントを求められると、何か批判的なことを言はなければならないと思つてしまふやうだ。別に無理して批判的なコメントを書かなくてもいいのだ。どうでもいいニュースに、わざわざ批判を加へる必要はない。

 インターネットが登場する前の時代にも、テレビのニュースなどを見てゐて、一つ一つのニュースすべてに突つ込み(批判的コメント)を入れるやうな人はゐた。この突つ込みは、せいぜい同じ部屋にゐる人ぐらゐにしか聞かれないが、インターネット上の突つ込みは、多くの人に聞こえてしまふのが問題だと思ふ。特にヤフーのやうに多くの人が見てゐるところで、あのやうに安直な突つ込みがいつまでも目立つところに掲載されてゐるのは、子どもたちの教育上の視点からも良くないと思ふ。

 ヤフーニュースのコメント欄はない方がよい。

秋葉原通り魔事件と若者の雇用環境問題

 『蟹工船』が話題だ。

 昭和4年に小林多喜二によつて書かれたプロレタリア文学の古典なのに、今年に入つて急に話題になり出した。今、全国各書店でベストセラー入りしてゐる。人気の理由は、この作品背景にある労働者の環境が現代のワーキングプアの問題と大いに重なるところがあるかららしい。

 この現代の『蟹工船』ブームの火付け役の一人は、雨宮処凛氏だ。

 その雨宮処凛が、今日の新聞で、先日の秋葉原通り魔事件について書いてゐた。秋葉原通り魔事件については、私も6月8日の記事で速報で取り上げたが、その時はまだ事件が起きた直後でもあり、事件に関する深い考察を加へることはできなかつた。
 雨宮氏が今日の新聞で書いてることと、ほゞ似たやうなことがこちらのページに載つてゐるので読んでみてもらひたい。

 雨宮処凛は、現代の若者が置かれてゐる派遣労働や日雇ひ労働などの過酷な現状が、秋葉原の犯人を追ひ詰め、今回のやうな事件に走らせたのだといふ見方をしてゐる。

「国際競争」ばかりを強調し、非正規雇用を使い捨てることで人件費削減を成し遂げ、「史上最高の利益」を連発してきた日本の多くの大企業。その影でホームレスやネットカフェ難民となってきた若者。

 かうした若者が今の日本にはたくさんゐる。そして、このやうな若者たちの鬱積は積もりに積もつてゐる。このエネルギーをどこかに吐き出したいが不満の矛先がない。不満を言はうとすれば、世間からは常に「自己責任」と言はれ、ますます行き場のない思ひが溜まる。
 かうした若者の現状は、明らかに社会のせゐであり先行利権者としての大人たちの責任でもあるのに、それを「自己責任」だとか「働かざる者、喰ふべからず」などと言つてる大人たちは何も分かつてない。

「自爆テロしたい」「いっそのこと、戦争でも起こればいいのに」「通り魔になってみんな殺してやりたい」。ワーキングプアと呼ばれたり、既にネットカフェ生活だったりする若者たちから届くメールや、実際に彼らと話した時に聞いた言葉だ。

 真面目に社会運動などをするよりも秋葉原のやうな大事件を起こした方が、世間が注目してくれて若者の雇用環境などの問題に真面目に目を向けてくれるやうになるのは皮肉なことだ、と雨宮は書いてゐる。

 もちろん、今回、犯人がとつた行動は到底、許されるものではない。いくら不満が溜まつてゐたからといつて、通り魔になつてよいといふことはない。
 けれども、さうした犯人を「甘つたれとる」と批判するのは、違つてゐる。そのやうに、個人の責任、個人の問題、といふ方向に視点が向かつてしまふと、事件の背景にある社会の問題がいつまでたつても見過ごされる虞がある。

 秋葉原の犯人が凶行に至つた原因の真相は分からない。おそらく複数の原因が重なつてゐるのだらう。雨宮処凛の見方は、その複数の原因の中の一つの要因だと思ふ。

もちろん、彼のしたことは許されることではない。しかし、ここまで25歳の若者を自暴自棄にしてしまったのは、一体何なのだろうか。多くの若者から「未来」を奪ってきたこの社会のシステムを、もう一度考え直す必要があるだろう。

 二度と秋葉原のやうな悲惨な事件を起こさないためにも、一人一人が社会の在り方について考へなければならないと思ふ。

100万人のキャンドルナイト

 今年も100万人のキャンドルナイト

 6月21日夏至~7月7日七夕まで。

プラグを抜くことは新たな世界の窓をひらくことです。

といふ呼びかけ文に共感。

 かうした催しに世界中の人が参加すればいい。100万人と言はず、1000万人、1億人のキャンドルナイト。

羽生十九世名人誕生に思う

 先日、将棋の名人戦で、羽生善治さんが森内俊之名人を破り、名人位に返り咲いた。と同時に、十九世名人の称号を手に入れた。「十九世名人」を名乗るのは引退後のことだが、こゝでは仮に「羽生十九世名人」と呼んでおかう。

 羽生さんは、すでに、王将、棋王、王座、王位、棋聖の永世位も持つてをり、7大タイトルの内、永世位を持つてゐないのは、あと竜王だけになつた。史上初の「永世七冠」も現実味を帯びてきた。

 「史上最強」の呼び声が高い。今までの羽生さんの数々の実績を見れば、さういふ声が出るのも当然だらう。

 江戸時代の初代大橋宗桂から始まつて、羽生さんまで計19人の永世名人がゐるわけだが、その中で誰が一番強いのだらう。

 将棋界では、一般的に江戸時代から平成の現代に至るまで、棋士は段々強くなつてゐると言はれる。これは当たり前のやうに感じるかもしれないが、囲碁の世界では当たり前ではない。囲碁界では、江戸時代の棋士が現代の棋士より強いといふことがあり得る。

 江戸時代は、将棋の名人はずつと家元制度であり、実力制の名人戦が始まつたのは、昭和10年になつてからのことだ。
 実力制になつてからの永世名人は次の通り。

十四世 木村義雄
十五世 大山康晴
十六世 中原誠
十七世 谷川浩司
十八世 森内俊之
十九世 羽生善治

 この間に「永世」ではない名人も何人かゐる。例へば、大山十五世と激しい闘ひを繰り広げた升田幸三九段。彼こそ史上最強の棋士だと言ふ人もゐるだらう。升田九段には今でも多くのファンがゐる。羽生さんの好きな棋士でもある。

 私は、実績から考へて、史上最強の棋士は、大山十五世か、羽生十九世ではないかと思ふ。だが、時代と全盛期が違ふので、この両者を単純に比較することはできない。相撲界で史上最強の横綱を決められないのと同じだ。

 プロ棋士の間でも、若手の棋士の間では「羽生さんが一番強い」と言ふ人が多いらしいが、年配の棋士の人たちは「大山さんの方が強い」と言ふ人もゐる。これは世代の差だらう。
 野球でも、史上最高の野球選手は誰かと聞かれれば、今なら多くの人が「イチローだ」と答へるだらうが、王・長嶋の全盛期を知つてる世代の人からすれば、「長嶋さんのすごさを知らないからそんなこと言ふんだ」となる。

 かういふ歴史に名が残るほど強い棋士たちには、共通するものがある。それは、特徴的な「棋風」を持つてゐない、といふことだ。大山十五世は「○○流」とは呼ばれなかつた。中原十六世は「自然流」と呼ばれたが、自然流とは要するにその棋風に特徴がないので名づけやうがないといふことだ。羽生十九世もオールラウンドプレーヤーで、どんな戦型も指す。これといつて特徴的な棋風はない。
 かうした捉へどころのない柔軟さこそ、本当の強さの秘訣なのかもしれない。

 羽生さんは、「将棋はマラソンのやうなもので走り続けることが大事」といふ趣旨のことを言つてゐた。
 同時代に生きる人間としては、羽生さんにはこのまゝ突つ走つてもらつて、後世の人が到底及ばないやうな大記録を作つてほしい、といふ気もする。

ロングテールが多数派になる法則

 自分は少数派なんだ、と思ふことがよくある。

 数ヶ月前から、ヤフーのニュースにコメントが書けるやうになつてゐる。それぞれのコメントの横には、「そう思う」といふ同意ボタンが付いてゐて、そのボタンをクリックすると同意ポイントが上がる。ニュースの下には、同意ポイントが多いコメント上位5つが最初に表示されてゐる。

 この上位5つのコメントは、それだけ「私もさう思ふ」といふ同意者が多いといふことなのだが、私はなぜかこの上位コメントに同意できないことが多い。
 おそらく、考へ方が少数派に属するのだらう。

 アンケートサイトでアンケートに答へることが時々ある。
 ヤフーのクリックリサーチやライブドアのリスログのやうに、投票するとすぐに結果が表示されるものもあるが、こゝでも大体、私が投票した答へは少数派であることが多い。

 ところで、この私のやうな少数派は全体の何割ぐらゐゐるのだらう。
 変な言ひ方だが、「少数派は多数派なのか?」といふ疑問がある。
 多数派と少数派をどこで区切るか、といふ問題もあらう。

 例へば、本の世界だつたら、ベストセラートップ100の本を購入する人と、それ以外の本を購入する人はどちらが多いのか。本の世界だつたら、ロングテールの人の割合が多さうだ。だからこそ、そこに着眼したアマゾンは成功することができたのだらう。
 では、映画の世界だつたらどうか。興行収入トップ10の映画とそれ以外の映画を観に行く人はどちらが多いのか。歌の世界だつたら、ダウンロードトップ100の曲とそれ以外の曲とどちらが多いのか。

 本の世界のやうに、ロングテールが細く長くなるためには本の点数(冊数)が必要である。アンケートのやうに、あらかじめ決められた数の選択肢(例へば5つの選択肢)しかなかつたら、少数派は多数派に成りやうがない。テールが長くないからだ。

 といふことは、点数(選択肢数)が少なければ少ないほど、そこでの少数派は絶対的に少数派であるといふことができるのだらう。
 もつともこれはアンケートにおいては、選択肢の在り方が完璧である場合に限る。「犬と猫、どちらが好き?」といふアンケートで「犬が好き」と「猫が好き」といふ2つの回答選択肢だけでは不十分であつて、「どちらも嫌ひ」な人もゐるし、「好きでも嫌ひでもない」人もゐる。

 ヤフーニュースに対するコメントはどうなんだらう。
 掲載されてゐるコメントの数は限られてゐる。これらのコメントの中から1つ同意するコメントを選べ、と言はれたら、それは選択肢が少ない、といふことになる。だが、同意すべきコメントが特に無い場合、無限に自分なりのコメントを書き加へられる、と考へたら、無限の選択肢、そこには非常に長いロングテールの意見や考へ方が隠れてゐると考へられる。

 だとすれば、上位コメントに同意できなくても、自分の考へ方は少数派だといつて気にすることはない。そこには、書き込まれてゐないだけで、無数の多種多様な考へや意見が隠れてゐると考へることができるのだから。

修学旅行生に思う

 街で修学旅行生を多く見かける時期になつた。

 修学旅行生は、一目で、地元の中学生と見分けがつく。男子3人、女子3人ぐらゐの固まりで歩いてゐるのは、間違ひなく修学旅行生だ。これは班行動(自由行動)だ。大体、男子と女子が少し距離を置いて歩いてる。
 あと、田舎から来てる中学生は、女子のスカートの丈が長かつたり、履いてる靴が白い運動靴だつたりするのも特徴的だ。

 私たち東京の中学生の修学旅行先は、京都や奈良が定番で(今の時代はどうか知らないが)、それは文字通り“修学の”旅行だつた。寺院を廻つて、歴史などを勉強するのである。先生からも「修学旅行は“学を修める”旅行であつて、遊びに行くのではない」と重々言はれたものだ。

 だが、地方の学校には、修学旅行先が東京ディズニーランド、といふのがある。これが信じられない。ふざけてる。これではまるで、「“学を修める”のではなく、“遊び”に行きませう」と学校みづから言つてるやうなものだ。
 もちろん、修学旅行には、青春時代の楽しい遊び、といふ一面もあるのだが、いや、ほとんどそれがメインと言つていいかもしれないが、少なくとも教育機関である学校は、「修学」といふ体裁を整へる必要があるのではないだらうか。

 ところで、私は過日、浅草橋駅で班行動の修学旅行生を見かけた。自由行動で浅草橋に来るはずがない。なぜなら浅草橋には見るべきものなど何も無いのだから。
 「浅草」と間違へて来てしまつたのだらう。一言、こゝは浅草ではないですよ、と教へてあげればよかつた。
 他にも、神田の古本屋街に行かうとしてJRの神田駅で降りてしまふなど、かういふ不幸は、駅名が紛らはしいためにおこると思はれる。

グーグルのファビコンがヤフーに!?

 昨日の夜、グーグル(www.google.co.jp)にアクセスしたら、ファビコン(favicon)が変はつてゐた。

googlefavicon

 先日、グーグルのファビコンは大文字の「G」から小文字の「g」に変はつたばかりだが、また変更?それにしてもこれ、よく見るとYahoo!のマークに見えるのだが…。

 タブやブラウザのお気に入りでもご覧の通り。
Yahoo!google


 なぜ??
 今日、Yahoo!とGoogle、オンライン広告で提携(ITmedia News)といふニュースがあつたけれども、そのせゐなのか?
 それとも、パソコンに侵入したウイルスのしわざなのか。あるいはグーグル社のちよつとしたいたづらなのか。

 それにしても、違和感がありすぎる。

 こんなことになつてるの私だけ?
 何がなんなのか、さつぱり意味がわかりません。

ミズノとスピードの知られざる皮肉な関係

 6月9日の記事でスピード社の水着のことについて書いた。

 日本の競泳選手が国内のメーカーの水着を着なければいけないのか、英国スピード社の水着を着てもよいのか、その判断が注目されてゐたが、一昨日6月10日に、日本水泳連盟が、日本の選手は自由に水着を選んでよい、といふ決定を出した。

 こゝまでの経緯は、皆さん、新聞やニュースなどでご存知だと思ふ。
 だが、この話にはちよつと皮肉な続きの話があるのだ。

 ミズノは、国内大手水着メーカーとして、今まで選手たちを金銭面を含めあらゆる形で援助してきたわけだが、今回の件で、突然、五輪で自社の水着を着てもらへなくなる可能性が出てきた。今回のスピード社の件では、一番打撃を受けた会社だらう。

 ところが、このミズノ、実は、スピード社とは1965年から長年にわたり、日本における「SPEEDO」ブランドの製造・販売のライセンス契約を結んでゐたのだ。
 ずーつと、長年契約を結んでゐたのに、2006年にミズノが創業100周年を迎へたのを機に「自社ブランドによる世界戦略を強化する」といふ方針に切り替へ、2007年5月末をもつて契約を終了したのだつた。
 そしたら、40年以上もの長い契約期間が終はつた途端に、スピード社が新水着を開発、世界記録を連発、といふ今回の事態となつてしまつた。

 さらに、新たにスピード社と契約を結び「SPEEDO」ブランドの日本窓口となつてゐるゴールドウイン社の株が最近、上がつてゐるといふ話まである。

 なんたる皮肉。ミズノの社員は、このあまりに皮肉な話に皆、臍を噛む気持ちなのではなからうか。
 つまり、ミズノは、今までさんざん敵のブランド戦略を手助けしてきた上に、今回のやうにそのブランドが俄然、世界中の注目を浴びるやうになつたら、今度はそのブランド名を名乗ることさへできないのだ。それどころか、今まで営々と育ててきた「SPEEDO」ブランドは、北京五輪といふ晴れの舞台において、「ミズノ」ブランドの前に強力なライバルとして立ちふさがることになつてしまつた。
 まさに「飼ひ犬に手を噛まれる」気持ちだらうか。

 結果が大きくモノを言ふ世界だからしかたないのかもしれないが、皮肉と言へば皮肉な話である。

歩行者天国の日の皮肉

 6月8日に秋葉原通り魔事件に関する記事を書いたが、今日の読売新聞の記事に次のやうに出てゐた。

アキバ歩行者天国、当面中止の公算高まる
 東京・秋葉原で8日に起きた無差別殺傷事件を受け、毎週日曜・休日に行われている秋葉原の歩行者天国が当面中止になる公算が大きくなったことがわかった。(YOMIURI ONLINE6月10日記事より)


 奇しくも、今日6月10日は「歩行者天国の日」である。1973年の6月10日に歩行者天国が始まつたことに由来する。(たゞし、歩行者天国は1970年から東京で始まつてゐたとする説もある)。

 その歩行者天国の日にホコ天が中止になるとは、なんたる皮肉。

 秋葉原のホコ天は、一部のパフォーマーなどによる風紀の乱れが問題視されてゐたが、そこにきてこの通り魔事件が追ひ討ちをかけた。

 ホコ天は、本来、歩行者が気軽に散歩を楽しめるやうに、といふ良い目的で始められたものなのに、このやうな形で中止になつてしまふことは残念だ。
 

スピード社水着で新記録続出のもう2つの理由

 水泳界において、英国スピード(SPEEDO)社の新水着「レーザー・レーサー(LR)」を着た選手が次々と世界記録を更新して話題となつてゐる。
 日本でも、6月のジャパンオープンでスピード社の水着を着た選手たちが15個の日本新記録を出し話題となつた。平泳ぎの北島康介選手はこの水着を着て世界新記録まで出した。

 こゝまで好記録が続出したことで、日本水泳陣が今度の北京五輪で、はたしてスピード社の水着を着てもよいのか、それとも契約してゐる国内の水着メーカー(ミズノ・アシックス・デサント)の水着を着なければいけないのか、といふ問題が浮上してゐる。

 ところで、なぜ、こゝまで新記録が続出したのだらうか。

 もちろん、スピード社が開発したこのLRといふ新水着の性能がすばらしい、といふのが一番の理由だと思ふ。聞くところによれば、LRは、

・超音波でつなぎ合はせてゐるので縫ひ目がない
・強い締め付けで水の抵抗を小さくする
・水をよくはじく

といつた、特徴があるといふ。

 たしかに、このすぐれた性能こそ、新記録続出の最大の理由であらう。

 だが私は、今回のジャパンオープンで、日本人選手が新記録を続出させた理由は、あと二つぐらゐあるのではないかと思つてゐる。
 その二つの理由とは、

1.プラシーボ効果
 一つ目は、プラシーボ効果である。プラシーボ効果とは、何の生理作用もない偽の薬を「これはよく効く薬だ」といつて医者から渡された患者が、その薬を飲んで本当に病気が良くなつてしまふといふもの。つまり、実際の性能以上に自己暗示が強く作用する場合だ。
 今回の大会でも、スピード社の水着を着た日本人選手たちに、ある程度、この種の暗示があつたと思はれる。泳ぐ前からすでに、世界記録が続出してゐる「魔法の水着」といふ触れ込みつきだ。これを着たら速く泳げさうな気がする、といふ気持ちが選手の泳ぎに前向きに作用したと考へられる。

2.研究室効果
 二つ目の理由は、研究室効果だ。「研究室効果」といふ言葉はなくて、これは私が勝手に名付けたものだ。
 ノーベル賞、特に自然科学系のノーベル賞は、不思議なことに米国の大学の研究室からばかり出る。これはなぜなのか、以前、考へたことがある。
 あるノーベル賞科学者が、「米国の大学にゐると、同じ研究室の先輩や同僚がノーベル賞を受賞してゐるし、あるいは同じ大学内から多数のノーベル賞が出てゐるので、自分がノーベル賞を取つてもをかしくないんぢやないか、といふ気がしてくる」と語つてゐるのを聞いたことがある。
 つまり、日本の大学にゐる研究者は、自分がノーベル賞を取れるわけがないと思つて研究してゐるが、米国の大学の研究者は初めから自分がノーベル賞を取れるかもしれないと思つて研究に取り組んでゐる。自然とノーベル賞の方に研究内容も寄り添つて行くのだらう。
 これを私は研究室効果と呼んでゐる。
 これと同じことが今回の大会でも起きたと私は思つてゐる。

みんながぽんぽんと日本記録を出すのを見て「私も絶対に出そう」と思つた。

 女子背泳ぎで日本新記録を出した中村礼子選手の言葉だ。
 周りの皆が好記録を連発してゐると、「それが普通」といふ空気が生まれるのだと思ふ。さうした空気に「釣られて」記録を出すといふことがあると思ふ。

 新記録続出の背景に、この二つの理由があつたであらうと私は考へてゐる。
 ともかく、何効果であれ、良い方に作用するならそれは良いわけで、日本人選手がこのまゝの良い状態で五輪で活躍してくれるなら、それは喜ばしいことだ。

秋葉原通り魔事件に想う

 6月8日日曜日の昼、寝てゐたら、午後0時半過ぎからワラワラと飛んできたヘリコプターの騒音で眠りから覚まされた。
 1時ごろになると、もうかなりのヘリが集まつて来た。目視で確認したところ、警視庁と思はれるヘリが1機、マスコミと思はれるヘリが3機。その後時間を追ふにつれて、ますますヘリの数は増えた。

 これらのヘリは、もちろん0時半ごろに秋葉原で起きた、通り魔事件に伴ふものだ。
 ニュースが伝へるところによれば、男がトラックに乗って、歩行者天国で歩いてゐた通行人を次々と撥ね、そのあと、車から降り、ナイフで次々と人を刺した。駆けつけた警察官も刺されたらしい。今のところ、けが人14人、うち5人が心配停止と伝へられてゐる。

 被害に遭はれた方は、本当にお気の毒である。私も秋葉原はよく通るので、他人事とは思へない。

 それにしても、よりによつて日曜日の昼間といふ、秋葉原がおそらくもつとも混雑してゐるであらう時間帯になぜ犯行が行はれたのか。犯人はわざとさういふ時間帯を狙つたのだらうか。場所も、まさに秋葉原電気街のど真ん中といふべきところだ。

 秋葉原に観光に来てゐたたくさんの外国人も、今日のやうな事件を目の当たりにして、あらためて東京は怖いところだ、と感じたに違ひない。

 それにしても思ふのは、なぜいつもウチの近くでこのやうな事件が起きるのか。ウチの近所では、年がら年中、やれ火事だ、強盗事件だ、発砲事件だ、殺人事件だといふのが絶えない。そのたびに多数のヘリが出動して大騒ぎになり、私は眠りから起こされる。

 東京の都心といふ、人が多い地域に住んでるから、事件や事故が起こる確率が高いのはいたしかたのないことなのであらうか。
 それにしても、「頼むから静かにしてくれ」といふのは、私の切なる願ひだ。
 かうして、この記事を書いてる今も、まだヘリが飛び回つてゐる。今回は犯人がすぐに捕まつたからよかつたやうなものの、これが犯人が捕まつてゐなかつたら、さらに長時間ヘリが旋回してゐることだらう。

 二度とこのやうな惨劇が起こらないことを願ふ。誰だつて、静かな暮らしを邪魔されたくはないのだ。

本の世界とブログの世界の埋もれた宝

 今日の「クローズアップ現代」といふテレビ番組で、本の世界における出版不況とランキング依存の問題を取り上げてゐた。

 出版の世界では出版不況が続いてをり、1990年代の後半から本の売り上げは右肩下がりに減り続けてゐる。一方で、本の出版点数は右肩上がりに増え続けてゐる。
 毎日、たくさんの本が書かれ生まれてゐるのに、売れるのはごく一部の本だけ。では、どんな本が売れるのかといふと、それはランキングに依存してゐるのだといふ。
 本の売り上げランキング、つまり、ベストセラーランキングといふものがある。消費者もランキングを頼りに本を買ひ、本屋の方でもランキング上位の本ばかり並べる傾向があるのだといふ。

 ランキング上位に入らない本は、店頭に並べてすらもらへない。よつてますます人の目につかないから誰にも買はれない。かうして、どんどん良質の本が日の目をみることなく埋もれてゆく。

 ちよつと待つて。この話、何かに似てないか。
 さう、ウェブの世界の話にそつくりなのだ。

 Yahoo!のやうな巨大ポータルサイトや一部の有名なサイトが厖大なトラフィックを集める一方で、圧倒的多数のサイトは訪れる人もほとんどゐない。
 ブログの世界に限つて見てみてもさうだ。アルファブロガーが書いてるやうな一部の有名ブログが大量のアクセスを集めてる一方で、圧倒的大多数のブログは一日に50アクセスもない。
 毎年、世界で大量のブログが誕生してゐる。日本語のブログは世界で一番多いといふ調査もある。しかし、そのほとんどのブログは限りなく0(ゼロ)アクセスに近いブログなのだ。そしてその裏で、ごく一部の人気ブログや有名ブログがますます大量のアクセスを集めてゐる。

 ブログランキングといふものがあるが、これもランキング上位のブログにますます人が集まることに貢献してゐる。

 ソーシャルブックマークといふ仕組みもあつて、このサービスが登場した当初は、これは隠れた良質サイトや良質ブログを発掘するのに役立つだらうといふ期待感があつた。しかし、はてなブックマークなどの有名SBMの人気エントリーなど見てみると、“いつもの”ブログが並んでゐることに気付く。
 さうした“いつもの”ブログは、良質のブログには違ひないのだが、すでに有名ブログである。結局、皆が同じブログを見に行つてる。そのやうな有名ブログをブラウザの「お気に入り」に登録するなり、RSSなりによつて、毎回チェックしてゐるだけだ。SBMの人気エントリーは、さうした特定のブログからしか出てきにくい。

 「良質なブログは人が放つておかないから、自然と人がたくさん集まつてくるやうになるはずだ」と言ふ人がゐる。
 私は、それは嘘だと思ふ。
 どんなに良質の記事を書いてゐても、そのブログがどこからもリンクされてゐなければ、その記事が誰かの目に触れることはないし、誰も読まなければ、その記事が良質の記事であることなど誰にもわからない。良い本かどうかは、少なくとも一度は誰かが手にとつて目を通してみないとわからないのと同じである。

 だから、世の中にはたくさんの良質な本や良質なブログが誰にも気付かれることなく埋もれてゐるのだと思ふ。
 かうした隠れた宝をどのやうにして発掘するのか。その仕組みを考へていかないかぎり、本の世界にしろブログの世界にしろ、本当の意味での豊かな文化は育たないのだといふ気がする。

相撲界の旧習の善し悪し

 先月、大相撲のチケットが入つたので、観に行つた。

 大相撲は料金が高いから、私たち貧乏人は、さう簡単に観に行けない。

 私は、幼い頃に一度、蔵前国技館には行つたことがあるのだが、両国国技館には行つたことがなかつたので、初めての経験であつた。

 国技館の中に入ると、通路の両側にいろいろな「店」が出てゐて、この「店」でチケットを見せると、その店の人が桝席まで案内してくれ、さらには席に座つた後も、飲み物を持つてきてくれたり弁当を出してくれたり、いろいろと接待してくれる。

 で、感じたのは、かういふ接待は必要なのか、といふこと。
 例へば、同じ娯楽でも、映画館などでは、飲み物や食べ物は自分で買つてくるし、席も自分で好きな席に座つていい。だが、大相撲では、席も決まつてゐるし、席料も高い。おそらく、会社の「接待」といふ文化とも密接な関係があるのだらう。

 桝席は、文字通り「桝」のやうな四角い形をしてゐて、4人まで座ることができる。この「桝」をお得意さんが買ひとつてゐるので、たとへ、満員御礼にならなくても、日本相撲協会は毎場所、安定した金銭収入を見込めるやうになつてゐるのだと思ふ。

 この「お得意さん優遇」の文化がどうも苦手だ。観に行つたことがないからわからないけれども、たぶん歌舞伎のやうな他の伝統芸能にも、さういふ文化があるのだらう。
 私は今回、特別なチケットを持つてゐたので「店」の人に厚遇されたが、もしさういふ特別なチケットを持たずに観に行つたならば、冷遇とまでは言はないまでも、かなりの差別的な扱ひを受けてゐたのかもしれない。

 「ご贔屓筋」を大切にするのはたしかにそれなりに大事な意味を持つかもしれないが、もう少し「一見さん」にも優しくならないものか。
 京都には「一見さんお断り」などといふ店もあると聞くが、これはひどい話だ。誰でも最初は一見さんなのだから。

 昨今、相撲文化が低落傾向にある。人気も下降気味だ。映画館のやうに、全席自由席にして、面白ければ客が入る(収入が入る)、面白くなければ客が入らない(収入が入らない)、といふやうにすれば、これは実力制度なので、相撲協会もあるいは力士たちももつと本腰を入れた対策を考へるのではないだらうか。

 お得意さんたちに庇護されてゐる現状は、たしかに相撲といふ日本の大切な伝統文化を潰さないためには一面では大事なことであるけれども、文化の真の興隆といふ面ではマイナスに作用してゐる面もあると感じた次第だ。

ややこしい「梅雨入り」と「入梅」

 今日、私の住んでる東京では、気象庁から梅雨入りが発表された。毎年、気象庁から発表されるこの梅雨入りは「当たらない」といふイメージがあるのだが、さて今年はどうだらう。
 北海道には梅雨はない。だが、大多数の日本人は、これから1ヵ月以上、梅雨の鬱陶しさと戦ふことになる。

 「梅雨(つゆ)」とは何か。
 『広辞苑』によれば、

【梅雨・黴雨】
六月(陰暦では五月)頃降りつづく長雨。また、その雨期。さみだれ。ばいう。


とある。
 
 Wikipediaでは、もう少し詳しく語源も紹介してゐて、

梅雨の語源としては、この時期は湿度が高く黴(カビ)が生えやすいことから「黴雨(ばいう)」と呼ばれ、これが同じ音の「梅雨」に転じたという説や、この時期は梅の実が熟す頃であることからという説、この時期は“毎”日のように雨が降るから「梅」という字が当てられたという説がある。


とある。

 で、この梅雨の時季が始まることを「梅雨入り」と言ふのだが、これと似た言葉で「入梅(にふばい)」といふ言葉がある。この二つの言葉は元来、同じ意味の言葉である。「梅雨入り」をたゞ漢語的に表現したものが「入梅」である。

 だが、今ではこの二つの言葉は違つた意味を持つやうになつてゐる。
 それは、日本の気象庁が「梅雨入り」といふ言葉を“梅雨のシーズンに入つた日”を限定して使ふやうになつたからだ。
 一方の「入梅」は、暦の上で太陽の黄経が80度に達したときのことを言ふ。実際に“梅雨のシーズン”に入つたかどうかとは関係ない暦日なのだ。それは、太陽暦の6月10日頃にあたる。

 といふわけで、今年のやうに梅雨入りが早かつた年は、「梅雨入り」の日と「入梅」の日とのあひだに、開きが生じる。

 だからと言つて、何か問題があるわけではない。空梅雨(からつゆ)の年もあるが、大体毎年、「梅雨入り」は6月10日からさう遠くない日に発表されてゐる。

 そこまで細かい言葉の違ひを気にする人は誰もゐないと思ふ。 

誰かブラウザを知らないか

 先日、2時間かけて書いたブログの文章が一瞬にして消えてしまつた。

 私の文章入力スピードに耐へかねたのか、ブラウザが突然強制終了、そして再起動。再起動後のブラウザ画面は真つ白で、2時間もかけて書いた文章は跡形も無くなつてゐた。

 あまりのショックで、それからしばらくブログを更新する気が起こらなかつた。
 それで3週間近くもブログの更新を休んでゐたわけだが、私のやうに「こんなにショックなこと」と受け取る人もゐれば、「この程度のこと」と軽く受けとめる人もゐるやうだ。
 ある人のブログを読んだら、

今、ブログを書き終えた途端、パソコンがフリーズして結局全ての文章が消えてしまい、書き直しています。こういうとき、神様から、「さっきの文章だと駄目だから、もう一度やり直し!」と言われたんだ、きっとって思うことにしています。


と、書いてあつた。
 このやうに前向きにポジティブに受けとめることができる人もゐるんだなあ、と改めて感心した次第だ。

 だが、やはり、2時間もかけて書いた文章が一瞬にして消えてしまふのは、どう考へても効率が悪い。しかも、このやうな経験は一度や二度ではない。

 ブログの更新の仕方、文章の書き方は人さまざまだと思ふ。ケータイから更新してる人もゐるだらうし、パソコンで更新してる人も、ブラウザ以外で文章を書いてる人もゐるだらう。
 しかし、私のやうにブラウザに直接、文章を書きこむスタイルの人も多くゐるだらう。
 このとき、ブラウザは、紙の日記を書くときの「紙」である。紙にはしつかりしてもらはなければいけない。誰も、書いてる途中で紙が溶けたり紙が破れたりすることを想定してゐない。

 昨今、ワープロソフトから表計算ソフト、果ては、時計やスケジュール帳やカレンダーに至るまで、ローカルなアプリケーションソフトウェアとして使はれてゐたものの多くが、ウェブ上のサービスとして登場するやうになつてゐる。それに伴ひ、多くの人がウェブ上のサービスを利用するやうになつてゐる。さうしたウェブを利用する時の窓口になつてゐるのがブラウザだ。ブラウザを利用しないネットサービスもいろいろあるとは言へ、まだ多くのウェブサービスはブラウザを通して提供される。そのやうなサービスやコンテンツたちにとつては、ブラウザはプラットフォームのやうなものである。

 そんな時代だからこそ、ブラウザにはあらゆる基盤のプラットフォームとしての強靭さが求められるはずである。それなのにブラウザは、なぜかくも脆弱なのか。私だけではなく、誰しもネットサーフィンの途中にブラウザが突然強制終了した経験があるのではないだらうか。

 私は今、ブラウザはInternetExplorer7を使つてゐる。2008年6月現在では、最新に属するブラウザだと思ふ。だが、この最新のブラウザを持つてしても、この脆弱ぶりなのだ。
 昔、OperaFirefoxを使つてゐたこともある。だが、使ひ勝手が悪かつたので使ふのをやめてしまつた。Sleipnirといふブラウザを使つたこともあつたが、このブラウザでは酷い目に遭つたのですぐに使ふのをやめた。いづれも「タブ型ブラウザがすばらしい」といふのが売り文句だつたが、IE7もタブ型ブラウザである。世間ではFirefoxの評判がいいやうだが、本当だらうか。私がFirefoxを使つてゐたのはもう随分昔だから、もしかしたらこの数年の間に改良が重ねられて劇的に使ひやすくなつてゐるのかもしれない。

 「お薦めのブラウザは?」と訊けば、いろいろ出てくるだらう。Safariを薦める人もゐるかもしれないし、聞いたことのないやうなのを薦める人もゐるかもしれない。世の中には私の使つたことのないブラウザがたくさんある。だが、それらのブラウザをいちいちインストールして使つてみることはできない。誰もそんなことに時間を費やしたくはない。

 「これなら間違ひない」といふやうなブラウザを本当は待望してゐる。強靭さと賢さを兼ね備へたブラウザ。しかし、そんな完璧に近いブラウザはないであらう。私たちがウェブを利用するときにブラウザに依拠してゐると先ほど言つたが、ブラウザはまたOSに依拠してゐるし、OSはまたハードウェアに依拠してゐる面がある。ブラウザを完璧にするのであればハードウェアから根本的に改良しなければならない、といふ意見もあらう。それはそれでもつともであるし、そこら辺はパソコンに詳しい人たちに任せよう。
 たゞ、私のやうなパソコンに詳しくない一般人が願ふことは、2時間もかけて書いた記事が一瞬にして消えてしまふやうな惨事が起こらないやう、たゞたゞそんなことだけを願つてゐるだけだ。

 ウェブに依存することが多くなつた時代だからこそ、ブラウザの重要性は高まつてゐると思ふのである。