暫定龍吟録

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2009年05月の記事

のび太はいかにして生きていくべきか

 のび太はいかにして生きていくべきか。
 最近、よく考へる問題だ。

 一人の人間の人生を左右するものは努力か天稟か。
 その二つで言ふならば、それは天稟だらう、と思ふ。
 幸田露伴の言を俟つまでもなく努力はたしかに大事だ。がしかし、ある程度の努力は誰でもやつてゐる。のび太だつて努力はしてゐる。
 だがその努力は報はれることがない。のび太の努力はせいぜい頑張つてみても、すべて裏目に出るだけだ。

 のび太は圧倒的に無能である。何の才能も特技もない。
 漫画の中ではドラえもんといふ存在がのび太を助けてくれるけれども、現実社会にはドラえもんはゐない。
 のび太はどうやつて生きていけばいいのか。

 現代の日本社会は、のび太のやうな人間が生きていきにくい社会だ。能力主義や能力ばかりを尊重する風潮が蔓延り、のび太のやうな無能な人間は生きる資格すらない、といふ扱ひをされる。
 のび太は障害者ではない、とされる。目が見えないわけでも、耳が聞こえないわけでも、知能障害でも手足が不自由なわけでもない。でも、のび太のやうに、運動もダメ、勉強もダメ、何をやつてもダメダメダメといふのは、もうほとんど「障害」ではないのか。のび太が障害者扱ひされないのはをかしいのであつて、のび太はこの世を生きていくのにあまりにも多くの障害を持つて(と言ふよりあまりに多くの能力が欠落して)生まれてきた、と言へるのではないか。
 中でも重要なのは要領の良さだ。のび太の最大の欠点は要領が悪すぎるといふところだ。これがほとんど致命的で、このためにのび太はこの現代社会で生きていくことが難しくなつてゐる。

 そして、かういつた能力の大体は、後天的に得られるものではなく、先天的なもの、つまり持つて生まれたものだ。のび太はそれらを持つて生まれて来なかつた、といふ時点ですでに不運な生まれなのだ。
 不運にもこのやうに無能にしてこの世に生まれ落ちて来てしまつたのび太は、一体どうすればいいのか。
 「努力しろ」はダメだ。のび太だつてのび太なりに努力してゐるのだから。それなのに何一つ良い結果を得られないのだから。

 のび太が生きていけない社会に問題があるのだ、と思ふ。のび太のやうな人間を許さない社会。身に覚えがないだらうか。クラスで会社で、一つの目標に向かつて皆一丸となつて取り組んでゐるときに、のび太のやうな人間がゐることに対してイライラした経験がないだらうか。
 しかし、のび太は、それを責められてもしかたないのである。能力は生まれつき持つてゐないのだから、無能を責められてもしやうがない。

 無能を責めてはいけない。努力不足や非礼や態度を責めるのはわかる。でも、無能は責めてはいけないのだ。それはどうしようもない問題だから。
 気をつけなければいけないのは、本人の努力不足と思はれてゐる問題でも、案外生まれつきの能力の問題であつたりする場合が多いことだ。
 勝ち組とか成功者とかトップランナーといふのは「たくさん努力した人」ではなく、「能力と機会に恵まれた幸運な人」のことである。

 のび太が生きていけない現代社会とは何なのだらう。現代社会の論理でいくならば、のび太は生きる資格がないどころか、生きてゐるのが無駄、生きてゐるのが邪魔である。こんな役立たずは死ぬしかないといふことになる。

 切に願ふ。のび太が生きていける社会を、私たちは作つていかなければいけない。ドラえもんに頼ることなしに。これは、現代に生きる日本の、世界の無数ののび太たちに関はる大きな問題なのだ。

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Twitterの読み方

 Twitterがこゝにきて、再ブームを見せてゐる。

 ところで、以前、「"iPhone"の読み方」や「"Google Chrome"の読み方」についてこのブログ上でアンケートしたが、"Twitter"は一体何と読むのだらう。書くときは英語でTwitterと書くか、ひらがなで「ついったー」と書く人が多いと思ふが、実際に発音するときは皆さんどう発音してゐるのだらう。

 先日、知人に「トゥウィッターがね、」と話しかけたら「何それ」と言はれた。

 ちなみに英語のネイティブの人の発音だと「トゥウィタ」のやうになるらしい。「トゥイッター」だと"w"の発音が抜け落ちてゐる感じ。
 「トゥ」の部分を「ツ」とするのは、「2(トゥー)」を「2(ツー)」と発音するやうなものか。

 そこで今回もアンケート。皆さんは"Twitter"をどう読んでますか?

 ↓投票することで結果を見れます。



 (参考)コトノハ - Twitterの読み方は?

水曜を休日に!-反連休論-

 連休が嫌ひである。

 以前、どこかのブログで「週休3日にするべき」みたいなエントリーを読んだことがあるが、その3日が連休になつてゐるのでは意味がない。飛び石で拡散してゐなければ意味がない。

 政府がハッピーマンデー法などといふ馬鹿な法律を制定したおかげで連休が増えてゐる昨今の状況は苦々しくてしかたがない。

 会社勤めなどをしてゐる人はわかると思ふが、一週間の中で火曜、水曜ごろが一番辛い。木曜、金曜ごろになると少し楽になる。なぜ、より長く働いてゐるはずの木、金の方が楽に感じるのか。それは、「あと少しで休みだ」といふ期待感が出てくるからだ。火、水は、次の休みまでまだほど遠いので精神的にもきつく感じる。
 水曜を休みにすれば、「あと一日働けば(あるいは学校に行けば)休みだ」といふ期待感が出てくるので、会社や学校を苦にしてゐる人たちにすれば、精神衛生上かなり楽になる。

 休日の数が多ければいい、といふのではなく、それがきちんと分散されてゐなければならない、といふのが私の主張だ。
 極端な話、「一年365日のうちの半分の180日を休みにします」と言はれて、皆はうれしいと思ふだらうか。一瞬、そんなにたくさん休みがあるならうれしい、と思ふかもしれない。だが、1月から6月までは毎日ずつと休みで、7月から12月までは一日の休みもなく連続してずつと会社(もしくは学校)といふことだつたら、どうだらうか。おそらく「そんなのは嫌だ」と誰もが思ふのではないか。
 つまり重要なのは、休日の数(量)ではなく、休日がどれだけ按排よく分散されて配置されるかなのだ。
 月曜や金曜の休日は要らない。それどころか私は、水曜が休日になるなら土曜を平日にしてもいいと思つてゐるぐらゐだ。

 以下、連休の4つの弊害を挙げる。

1.休みの“回数”が少ない
 土、日、月の3連休と日、水だけの休みと、どつちがいいだらうか。
 土日休みは週に「いーっかい(一回)」の休みである。土日月でも「いーーっかい」。土日月火の4連休でも「いーーーっかい」。5連休でも「いーーーーっかい」の休みである。日、水なら週に2回の休みがあることになる。

2.仕事が滞る
 郵便物を出したい。でも今日は金曜日。今日出したとしても、明日から土日月と郵便局は3連休だから届くのは、火曜、もしくは水曜日?急いでるのに・・・。なんていふ思ひをしたことのある方は案外多いのではないだらうか。郵便局や銀行など、私たちの日常生活に欠かせない公共機関が2日も3日も連続して休まれると、生活や仕事のあらゆることが滞つてしまふ。

3.だらける
 ゴールデンウィークなどの大型連休を振り返つて、「充実した有意義な5日間だつた」と言へる人がはたしてどれだけゐるだらうか。多くの人は「家の中でだらだらと過ごしてしまつた」といふ後悔に近い念だけが残つてゐるのではないか。連休は折角の休日を非効率で無駄に過ごしてしまふことに貢献する。

4.特定の授業が減る
 学校において、月曜の休日が増えると、月曜日に割り振られてゐる特定の科目の授業ばかりが減つてしまふことになる。

 以上が私の反連休論。
 年配の人に話を聞くと、昔は土曜は平日だつださうである。それがなぜ休日になつたのかといふ経緯はよく知らないが、ともかくもこれ以上、連休を増やさないことが肝腎だ。まづはハッピーマンデー法をなくし、成人の日や体育の日を元に戻すこと。秋の大型連休構想などがあるらしいがもつてのほかだ。
 そして土曜を休日のまゝにするか平日にするかはともかくとして、水曜を休日にしよう!
 今、多くの子どもたちが学校でいじめなどのストレスに遭ひ、会社勤めの正社員たちはワーキングプアの人たちとは対照的に過酷な労働へと追ひたてられてゐる。水曜を休日にすることで、彼らにどれだけ精神的、肉体的安寧が齎されることか。

 水曜を休日に。昔、平日だつた土曜を休日にできたのだから、できないことはないと思ふ。

 (参考)コトノハ - もし週休3日制になるなら、3連休よりも水曜を休日にして欲しい

それでも東京を選択しない

 田舎は好きだが、それでも東京を選択する。-ミームの死骸を待ちながら

 こちらを読んで、大都会東京で生まれ育つた者として逆の立場から感想を述べてみたい。

 私は東京の中でも大都会と言はれる街で生まれ、小学校の時に、より都心部の街に引つ越して育つた。


・機会の数が桁違ひ

 上記エントリでHash氏も指摘してゐるが、東京は機会の数が桁違ひに多い。逆に言ふと田舎は機会の数が桁違ひに少ない。Hash氏は「平凡と言っていいほどの平和さで高校までの18年間を過ごし、大学入学と同時に東京で一人暮らしを始めた」とさらりと言つてのけてゐるが、これがどんなに恵まれたことであるのかを全然理解してゐない感じだ。
 私は中高時代から田舎に憧れ、大学進学をきつかけに田舎で一人暮らしを始めたいといふ夢を持つてゐた。だが高校に入り大学選びを真剣に検討するにつれ、それはかなり困難なことであることが判明してきた。なぜなら、

 “田舎には大学がない”

 田舎に行けば行くほど大学がない。仙台や福岡のやうな地方の大きめの都市にさへ、あまりない。あるのは県に一つづつの国立大学か、ナントカ工業大学、ナントカ経法大学、ナントカ芸術大学、といつた専門に特化した大学だけだ。私立の総合大学は、日本の場合、そのほとんどが東京、大阪、京都に集中してゐることが判つた。中でも東京への集中度がすごい。私は伝統と歴史のある大学に行きたかつたのだが、日本の歴史ある大学はほとんどが東京の都心、山の手地区に集中してをり、すべて自宅から電車で簡単に行けてしまふ距離にあり、家を出て一人暮らしをする口実とするに足りなかつた。

 「田舎には機会がない」

 田舎に進出する機会がない。私は結局田舎へ行くことをあきらめ、東京都心の大学に進学し、その後も現在に至るまで都心に住んでゐる。


・足下の宝を見つけよ

 ともかく、私のやうに、変化と新しいものと刺激が大嫌ひな性格には東京は合はない環境であると言へるかもしれない。それでも、「隣の芝生は青い」とばかりに他を羨んでばかりゐてもしかたない。地元の良さに気付けるか気付けないか、それが重要だ。
 例へば、私の家の近所に東京国立博物館といふ博物館がある。こゝは世界屈指のミュージアムであると言つて間違ひない。世界最高レベルの日本美術の、東洋美術の粋がこゝに集まつてゐる。特別展に行かずとも常設展で国宝級の美術品の数々を目にすることができる。だが、東京人でもこの博物館のすばらしさを知つてゐる人は案外少ない。東博の常設展にも行つたことがないで、わざわざ遠い外国まで出かけて行つては、やれオルセーだのルーブルだのと言つて騒ぐ。足下にある宝が見えてないのだ。
 
 田舎も同じこと。東京に来てうんぬんと言ふ前に、まづは地元の田舎の良さを発見することの方が先だ。


・地元を捨ててはいけない

 このエントリは、特に田舎にゐる中学生や高校生に伝へたいと思つてゐる。
 「とりあへず」東京に来たりなんかするな。
 Hash氏も上記エントリの中で「能動的に動かないと無駄なので」と言つてるが、まさにその通りで、東京にはたしかに田舎にくらべてたくさんの機会があるが、あまり能動的でない人間にとつては、それらの無数の機会は単に目の前を流れていくだけだ。
 「おもしろい人も多い」とあるが、「留学してるよ」とか「大学院受け直す」とか「起業する」などといつた話は東京でも高学歴の人の間にしか出てこない話だ。二流以下の大学では「大学院」だの「起業」だのといつた話は周囲の人の口から出てこない。

 東京は悪いところだと言つてゐるのではない。東京人として東京の悪口は言ひたくない。たゞ、明確な理由や目的もなく東京にやつて来たら、おそらく地元に留まつた時よりももつと無意義な人生を過ごすことになるだらうと思ふだけだ。
 まづは地元の良さを見つけること。もし、地元が魅力的ではないなら、魅力的な街にしていけばいい。
 
 最近、海外在住の日本人が、日本を捨てゝ海外へ行かう、みたいなことを言つてネットで話題になつたが、

海外で勉強して働こう-On Off and Beyond

やはり、日本人として日本を見捨てゝはいけないのと同様に、東京人は東京を見捨てゝはいけないし、田舎の人は田舎を見捨てゝはいけないのだ。

 田舎には、SUICA、24時間ATM、Google Street View、e-mobileや無線LANがないのか。すばらしいことではないか。少なくともこのすばらしさに気付かないうちは東京に来るな。