暫定龍吟録

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2009年09月の記事

カチカチ山のさようなら

 今年2009年は、作家太宰治の生誕100年、松本清張の生誕100年でもある。皆さんは太宰派だらうか、清張派だらうか。
 生誕100年と言へば、中島敦や埴谷雄高もさうなのだが、こちらはあまり知られてゐない。

 私は太宰の作品をほとんど読んだことがない。『斜陽』しかり、『惜別』しかり。太宰に限らずこゝのProfileにも「本はあまり読まない」と書いてゐるやうに、私は本といふものをあまり読んだことがない。
 たゞ唯一、太宰作品の中で読んだことがあるのが「カチカチ山」である。

 今年、生誕100年といふことで、この「カチカチ山」を再読してみて、あらためていろいろなことを考へさせられた。

 これは残酷な兎と魯鈍な狸の物語だ。童話の「かちかち山」ではない、太宰の「カチカチ山」の話である。
 この狸は魯鈍であるばかりでなく、無邪気であると思へる。兎に嫌はれてゐるのも知らないで、兎にカチカチ山へのデートに誘はれた時は「小さい濁つた眼は歓喜に燃え」、「よろこびの余り、声がしやがれた」のである。さらに、そのカチカチ山のボウボウ山で散々な酷い目に遭つた後にも、「遊びに来ましたよ。うふふ。」などと言つて、無邪気にも自ら兎のところへ近づいて行く。
 醜男の狸は美少女の兎が好きだつた。どうしようもなく好きになつてしまつてゐた。そして兎のことを「いい人」だと信じて疑はなかつた。清純で心の清らかな乙女であると思つてゐたのである。だからこそ、無邪気に何度でも兎に近寄つて行つた。その度に兎に邪険にされるのだが、狸は魯鈍であるために、そのことには気づかなかつた。
 狸が兎の奸計に気付くのは、物語の最後も最後、泥の船とともに湖に沈み行くときだ。この期に至つて初めて兎が本気で自分を殺すつもりだつたことに気付くのだが、時すでに遅し。

 この狸の無邪気さが痛々しい、と思ふのは私だけだらうか。
 狸は世界は善人に満ちてゐると思つてゐる。容姿がきれいな兎は心もきれいだらうと思つてゐる。お爺さんお婆さんには悪いことをしたけれども、兎には何も悪いことはしてゐない。自分から近づいて行つて仲良くしようとすればきつと仲良くなれるはずだ。さう思つてゐる。
 兎にどんなに酷い目に遭はされても、それとは気付かずに、何度でものこのこと兎のところへ会ひに行く無邪気な狸。私はこの狸に、世界は悪人に満ちてゐる、と教へてあげたい。

 ところで、この物語を読んで私が思ひ出すのは、この狸のモデルではないかと言はれた太宰の弟子、田中英光のことだ。太宰の墓前で自殺したこの田中英光に、「さようなら」といふ名エッセイがあると知つたのは、竹内整一著『日本人はなぜ「さようなら」と別れるのか』(ちくま新書)を読んでからだつた。
 田中英光は日本語の「さやうなら」といふ言葉を「諦観的」であると言ひ、次のやうに言ふ。

「さようなら」とは、さようならなくてはならぬ故、お別れしますというだけの、敗北的な無常観に貫ぬかれた、いかにもあっさり死の世界を選ぶ、いままでの日本人らしい袂別(べいべつ)な言葉だ。


 田中英光が「さやうなら」といふ言葉を批判したかつたのかどうかはわからない。

 だが狸はどうだつたのだらう。湖に沈み行く最期のときに何を思つたのか。
 狸は泥の船が沈んでいくときに、兎が自分のことを助けてくれるどころか、逆に櫂で頭をぽかんぽかんと叩いてゐるのを見て、兎が自分のことを嫌つてゐる、兎は自分に対して明確な殺意を持つてゐる、といふことに初めて気付く。そのことに気付いたとき、狸はもがくのをやめたのではないか?
 「兎さん、あなたはそこまでおれのことを嫌つてゐたのですね。おれのことを殺すつもりだつたのですね。今、初めてわかりました。左様ならば、さうであるならば(おれは死ぬしかない)。」
 死の直前に狸の心に去来した思ひは、このやうなものではなかつたか。田中英光が「諦観的」、「敗北的」と喝破した、まさにその「さやうなら」である。
 大好きな人に裏切られたときに突如襲つてくる敗北感と諦観。「ブルータス、お前もか」の心情にも似てゐる。一番信頼してゐた人に裏切られたことを知つたとき、「さうであるならば、しかたない」といふ、何ともやるせない諦観に襲はれる。この場合の「さやうなら」は、腹を括つてゐるのではなく、虚無感と無気力感に支配された言葉である。

 昨今の日本では、毎年、自殺者が多い状態が続いてゐて社会問題となつてゐる。自殺者の死の直前に胸に去来するものも、この種の「さやうなら」ではないか。
 人は本当に絶望に襲はれたとき、やるせない思ひに捕はれ、この世界と自分を如何ともしがたいものと感ずる。そしてたゞ「さやうなら」と呟くしかないのである。

鳩山一郎元総理の墓

 鳩山一郎元総理の墓の前を通りかゝつたので、
「今日、あなたの孫が総理大臣になりましたよ」
と報告しておいた。





えぶずみる光 -右横書きの世界-

 突然ですが、皆さんは「ターャジス」といふのをご存知でせうか。たぶん、ほとんどの人は初耳でせう。

 「ターャジス」とはこれです。↓ 



 要するに、褐色の恋人「スジャータ」のことです。

 現代の日本語は横書きにした場合、左から読むのが普通ですが、「頭はこつち」といふのを意識するがために車体の右側面に書かれる文字などは、このやうに右から書かれることがたまにあります。
 で、それを普通に左から読んでしまふと、「ターャジス」、「人恋の色褐」、「くらいめ京東」などと意味不明な、あるいは別の意味を連想してしまふ言葉になつてしまひます。
 この意味不明な言葉の響きに魅せられてしまふ人も少なからずゐるやうで、mixiには、「右横書き」、「ターャジス」などといふ専門のコミュニティも存在してるほどです。

 私は、この「ターャジス」の車は実際、街中で見かけたことがありますが、その気になつて見てみると、世の中には意外に右横書きのものは少ないことに気づきます。

 ところが、そんな中、先日近所の夏祭りの縁日に行つてみたら、屋台の暖簾(?)に大量の「ターャジス」(右横書き)を発見したので、紹介したいと思ひます。

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 「リワチカ」。
 こんなのです。



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 「いくす魚金」。


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 「ラテスカービベ」。



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 「キーテスンキチ」。
 聞いて、寸吉!



 さて、次のはちよつと、おそろしい。

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 「焼子産道」。
 さ、産道で焼いちやつたの?



 お次は、今回、気に入つたもの、第2位。

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 「スーュジカオピタ」。
 顔ピタッ!
 語感が、かはいらしい。



 最後に、今回気に入つたもの、第1位。

ebuzumiru_0054.jpg

 「えぶずみる光」。
 「えぶずみるひかり」つて、どんな光?
 「えぶずみる」が一つの動詞のやうに聞こえます。
 私の語感としては、「あやしく鈍く光る」といふイメージを受けますが、皆さんはどう感じますか。

 皆さんも、右横書きを探してみてはいかゞでせう。