暫定龍吟録

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2010年04月の記事

将棋は「勝つ」ことができない不思議なゲーム

 先日、NHKの爆問学問といふ番組に、将棋の羽生善治名人が登場してゐた。

 爆笑問題の二人が、将棋会館の羽生名人の元に行って話を聞いてくるといふ内容の番組で興味深かったが、爆笑問題の二人があまり将棋に詳しくないやうだったのは少し残念だった。せっかくの機会なのでもっと名人にいろいろ聞き出してほしかった。

 それでも興味深いやり取りはあって、特に印象に残ったのが、爆笑問題の太田が「羽生さんは将来、軍事に行かないんですか」みたいなことを冗談半分に聞いてゐた場面があった。

 将棋は戦争のゲームである。王様を守る将軍がゐて、騎馬隊や槍隊や歩兵隊がゐる。その戦争ゲームをこゝまで天才的に指しこなす羽生さんなら、軍部に登用されれば完璧な軍事作戦を描けるのではないか、といふわけだ。
 これに対し羽生名人は笑ひながら「将棋は情報が100%開示されてるゲーム。実際の戦争では多くの情報が明かされてゐない」といふやうなことを答へてゐた。

 これは重要な点だ。将棋は、自分の持ち駒も相手の駒も持ち駒も、すべてが見えてゐる。こゝが麻雀やトランプと違ふところで100%情報開示なのだ。しかも麻雀やトランプのやうに運が入り込む余地もない。だから「負けても言ひ訳できないので辛いんですよ。すべて自分の責任ですので」と名人は言ってゐた。

 ところで、将棋はゲームとしてはかなり特異なゲームである。ある時テレビで内藤國雄九段が「将棋は審判がゐない珍しいゲーム」と言ってゐた。野球にもサッカーにも大抵のゲームには審判がゐるが、将棋には立会人や記録係はゐるが審判といふものはゐない。では、どうやって勝敗が決まるのかといふと、どちらかが「負けました」と言ふことでゲームが終了する。将棋は王様を取った方が勝ち、と言ふのは初心者に将棋を教へるときの方便であって、実際の対局では王様の駒が取られることはない。王様(玉将)を相手から取られるところに移動させたり、あるいは王様が取られるのを放置してまったく関係ない他の手を指した場合、反則負けといふことになってゐる。
 つまり通常は、どちらかが「負けました」と言はないかぎり勝負の決着がつかないのだ。
 どんなに優勢であっても「勝ちました」と宣言することはできない。

 番組では、羽生名人が爆笑問題チームといはゆる「歩三兵」で戦ったのだが、爆笑問題チームが王様を詰まされたときに最後に「負けました」ときちんと言はなかったのが気になった。礼儀作法として云々と言ふ前に、その言葉を言はなければ将棋は終はらないからである。

 その意味では、近代以前の将棋はゲームとしては不完全なゲームであった。現代のプロの将棋では、その不完全さは解消されてゐる。持ち時間制といふ制限時間が導入されたからだ。王様を追ひ詰められた側が、何の手も指さず、負けましたも言はずに何時間、何日間も粘ってゐたとしても、時間切れ負けになる。

 よって将棋は「勝たないやうにする」といふことが難しい。サッカーだったら「勝たないやうにする」ためには、自分のチームが得点しなければよい。1点も取らなければ、その試合の結果は「負け」か「引き分け」である。
 将棋には「持将棋」といふ稀な例外をのぞけば、引き分けはない。いくら「勝たないやうに」と思って、わざと弱い手ばかり指してゐたとしても、相手が「負けました」と言ってしまへば、その瞬間に自分は勝ってしまふのである。もしどうしても勝ちたくなかったら、できるだけ早く相手より先に「負けました」と宣言することだ。

 将棋や囲碁・チェスなど二人で勝負を競ふゲームを、ゲーム理論では「ゼロ和二人ゲーム」と言ふ。サッカーや野球も2チームで争ふのでゼロ和二人ゲームに含まれるが、将棋ほど、この「ゼロサム」の関係がはっきりしてゐるゲームもさうさうないだらうと思ふ。勝敗を審判が判断するのではなく、自分の勝敗の運命は、相手の「負けました」の言葉にかゝってゐるのだ。チェスとは違って、自軍の取られた駒が相手の駒台に乗る、つまり自分のマイナスがそのまゝ相手のプラスになる、といふことがはっきりしてゐる点も、ゼロサムの関係を際立たせてゐる。

 サッカーや野球は、相手より多く点を取れば勝ち。囲碁も、相手より陣地の目の数を多く取れば勝ち。それなのに将棋は「勝つ」ことができない。自力のみで勝つことができない。勝ちを宣言することもできないし、勝ちを判定してくれる人もゐない。たゞ、相手が「負けました」と言ってくれるのを待つのみである。
 相手の王様を動けなくする、いはゆる「詰み」の状態に持っていくことはできる。しかし自力でできるのはそこまで。結局自分の「勝ち」は相手の「負けました」といふ宣言に委ねられてゐる。

 かうして考へると、将棋といふのはゲームとしてはかなり特異なゲームなのだとわかる。

 私は昔から将棋に魅せられてゐるが、それもかうしたゲームとしての特異性のゆゑかもしれない。


 
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移ろいゆく人たち

 昔から、毎月、世論調査による内閣支持率がTVや新聞などで発表されるが、あの数値が大きく上下する意味がよくわからない。内閣支持率はなぜ上下するのか?
 「先々月は支持だったけど、先月は不支持で、今月はまた支持」などといふ人が少なからずゐるのだらう。
 支持や不支持が途中で変はるのが信じられない。

 政治家の支援団体といふのがあるが、その政治家が何か不祥事を起こすと、真っ先に批判の急先鋒に回るのは大抵その人たちだといふのを何度も見てきた。支援者が最大の批判者になる。もし政治家だったら「応援してくれなくていいから批判しないでくれ」と思ふ。

 最近、ネット上で、携帯キャリアのauに対して「auはカス」などといふ悪口をたびたび目にした。大勢の人がauの悪口を言ってゐたのだが、気になったのは、それが皆auの利用者、もしくは元利用者ばかりだといふことだった。
 auは、数年前は携帯の主要3キャリアのうち、契約純増数No.1であり、顧客満足度もNo.1だった。若者にもっとも人気のあるキャリアであり、若者ならケータイはauにしなきゃ、みたいな雰囲気があった。
 しかし、去年2009年あたりからソフトバンクがiPhoneをヒットさせ、今年2010年に入ってからはドコモがXperiaをヒットさせ、auはスマートフォン市場で少し出遅れた感が出た。すると途端に今までauを愛用してゐた利用者たちの一部がauのことを悪く言ひ始めたのだ。

 おそろしいことだ。auが絶大な人気を誇ってゐたころはauに飛びつき、人気が他のキャリアに移ると途端に「auがあまりにも糞だからソフトバンクに乗り換へた」みたいなことを平気で言ふ人が、私は怖い。

 かういふ人は本当の支持者ではないのだ。たゞいつも、勝ち組に乗っかってゐたいだけの人なのだ。

 支持率が低下したとき、本当に苦境に立ったときに応援して側に寄り添ってゐてくれる人、助けてくれる人こそ、本当の支持者だ。

 さういふ意味で、本当の支持者を見つけなければいけない。
 自分が勝ってるとき、調子がいいときに周りに寄ってきてるのは、いはゆる「勝ち馬に乗る」といふ者たちだ。そんな一時的な憑依と変遷を繰り返す者たちに惑はされないやうにしたい。


ITの基礎を知るために読んでおきたい本

 最近読んだのが、『知っておきたい情報社会の安全知識』(坂井修一著・岩波ジュニア新書)といふ本。

知っておきたい 情報社会の安全知識 (岩波ジュニア新書)知っておきたい 情報社会の安全知識 (岩波ジュニア新書)
(2010/03/20)
坂井 修一

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 岩波ジュニア新書は子ども向けの本だと思って侮ってゐると、意外とかうした良書が出てることが多いので、時々チェックするやうにしてゐる。特に子ども向けに書かれてゐるからこそ、非常にわかりやすく書かれており、ある分野の入門書や教科書とするにはもってこいである。

 この本は、大人が読んでも十分読みごたへがある。といふより、むしろ、今インターネットを使ってゐる大人たちで、学校できちんと系統立ってITについて学ばなかった世代の人たちにこそ、この本は読まれたい。

 今の若い世代の人たちは、ちゃんと学校でITを基礎から習ってゐる。しかし上の世代の人たちはコンピュータもインターネットも使ひこなしてゐるとしても、それはほとんど独学で身につけたものである。だから意外と基礎がわかってゐなかったりする人は多い。

 以前このブログで、NHKの『「ネットに弱い」が治る本』を、「最高の教科書」として紹介したが、この本も、さうした「普段からネットは使ひこなしてゐるんだけど、意外と基礎的なことがわかってないんだよね」といふ人には、良い教科書になると思ふ。

 例へば、「ITは性善説によって作られてゐる」といふ本書の言葉は、さまざまなことを考へさせられる。ITによって齎されてるさまざまな問題が、ITの構造そのものが持つ「性善説」といふ性格に起因してゐるなら、その構造やインターフェースを読み解くことによって、私たちITの利用者がどのやうに構造に流されてゐるかの一部を自覚することにもなるだらう。

 また著者は、ITによる質感・量感の喪失、といふ重要な問題も提起する。私たち生身の人間が、さうしたことによってITにどれだけ騙されるのか、といふことについて、こゝから考察を深めていくこともできる。

 ITと言ふと、それを使ってどれだけ楽しいことができるか、といふことばかり皆考へがちである。さうした明るい未来ばかり説く『ウェブ進化論』のやうな本は好まれる。
 だが、ITが齎すマイナスの問題点について考察することは、もっとずっと大切なことだ。なぜなら、「楽しい」といふことは、「マイナスなこと、苦しいこと、不快なことが無い」といふことでもあるからだ。

 私はほゞ毎日、インターネットを通じていくつかの不快に出会ふ。「ぢゃあ、インターネットやめれば?」といふわけにはいかない。これからの時代、ますます多くのデバイスがオンラインに繋がっていく。もはやオフラインの孤高を守り抜いて生きるのは極めて難しい時代になってゐる。

 どうしたら、インターネットの不快を感じずに、ネット生活を送ることができるだらう。
 かうしたことは、ネット社会の作り手である大人たちが考へなければならない問題だ。その杜撰な試作品の犠牲になるのは、いつだってその時代の子どもたちなのだ。

 「面白さうだから、とりあへず作ってみた」。ネット大好き人間には、さういふ人間が多い。新しい世界の創造のためにはさうした好奇心も必要だ。だが私には、かうした発想が時に軽率な遊びに感じられる。
 大人たちの一時の遊びに振り回される子どもたち。例へば、キーボードの並びはなぜQWERTY配列にしたのか。ユニバーサルデザインからはほど遠い。日本語を入力するにはまったくの不自然な並び。学校でその不自然な並びのキーボードのタッチタイピングを学ばなければならない子どもたち。

 ITが齎すマイナス面にも目を向けよう。問題点を把握した上で、その問題点を克服する方法を考へなければならない。IT社会が楽しいものであるためには、不快は取り除かなければならない。
 そのための問題整理として、この本は役に立ちさうである。




 

30代と90代以外は皆、ゆとり世代?

 Togetterで、komure氏の「40代、50代こそ真のゆとり?」といふ意見を読む。

 komure氏本人が自分の発言とそれに対する一聯の反応をまとめてゐるが、最初の問題提起となった発言はこれ。

不愉快になる方いたら、ごめんなさい。簡単に就職できて、20代、30代で当たり前のように給料上がった40代、50代こそが真のゆとり世代である。 komure 2010-04-16 20:42:19



 そんなこと言ったら、今生きてる世代では、受験戦争→就職氷河期の30代と、超就職難→実際の戦争を経験した90代以外の世代は、すべてゆとり世代である、と思った。

 今の若い人にはピンと来ないかもしれないが、今の90代は、世界恐慌による超就職難時代に直面し、やっと就職できたと思ってもすぐに戦争が始まり、戦争に駆り出された世代である。

 80代は、就職できたゆとり世代。
 70代は、戦争に行かずに済んだゆとり世代。
 60代は、逃げ切り勝ち組の「団塊」と呼ばれるゆとり世代。
 50代は、「しらけ世代」と呼ばれたゆとり世代。
 40代は、バブルを謳歌したゆとり世代。
 20代は、楽に就職できた本家ゆとり世代。
 10代は、少子化で大学全入できるゆとり世代。

 かうして見ると、大体の世代が「ゆとり」があった世代で、むしろさうした「ゆとり」を享受できなかった30代のやうな世代の方が珍しいと言へるのかもしれない。
 「大学受験」と「就職」といふ人生の2大イベントで両方、辛酸を嘗めたのは、今の30代だけである。



 (※80代の後半の人は、結構戦争に行っているし、50代の人は1975年以降の低成長時代に就職時期が重なってゐるので、「ゆとり」といふほどではないかもしれない。また、20代でも2009年に就活を行った世代は周知の通り就職に苦労してゐる。世代論は大まかなものであり、例外はいくらでもゐる。)



「なんの役に立つんですか?」の必要性

 森山森子氏の「「なんの役に立つんですか?」の暴力性」といふエントリーを読んだ。

 「なんの役に立つんですか?」といふ質問は野暮だと森山森子氏は言ふ。たしかに絵画の鑑賞をしてゐるときに「そんなことしてなんの役に立つんですか?」などと問ひかけられたら野暮だなあ、と思ふ。それは同感。
 でも、科学技術の研究者に対して、今研究中のものについて「それはなんの役に立つんですか?」と問ふことはそんなに野暮でつまらないことなのだらうか。

 先日、大阪大学の教授が人間の女性そっくりのロボットを作ったといふニュースをテレビで見た。

 [動画:1000万円の女性型アンドロイド、ジェミノイドF - engadget日本版]

 実際に本当に人間の女性そっくりで驚いたのだが、そのニュースの最後に、このロボットは「将来的には企業の受付などの用途が考へられる」と言ってゐた。私はそれを聞いたとき、思はず苦笑せざるを得なかった。こんな精巧なロボットを作っておいて、その用途が「企業の受付」とは。
 企業の受付なんていらないし、そもそも女性である必要もないし、もし企業の受付の仕事をするロボットを作るとしても人間の女性の形をしてゐる必要はまったくない。「企業の受付などの用途が考へられる」といふ発言はおそらく苦し紛れの発言だったのだらう。さうとしか思へない。ロボットを作るだけ作ったけど、使ひ途なんて考へてもみなかった。それなのに、誰かがこの教授に「そんなの作ってなんの役に立つんですか?」と問ふたのだらう。だからしかたなく何とか用途をしぼり出して「企業の受付とか・・・」と答へた。

 もし、このニュースを森山森子氏が見てゐたら、「ほら、だから研究者にそんな野暮な質問しちゃいけないんだよ」と言ってただらう。
 だが私はさうは思はなかった。むしろこんなすごいロボットを作ってしまふほどの頭のいい人が、まともな用途一つ思ひ描けてゐないことに愕然とした。


 先月、オウム真理教の地下鉄サリン事件から15年目の日を迎へた。私は丸ノ内線の利用者だったので、当時の事件の衝撃は強く覚えてゐる。
 サリンといふ毒ガスは、当時のオウム真理教の秀才部隊が作った。麻原は、東大出の理系の秀才たちに、「おまへたちにサリンが作れるかな」といふ難問をふっかけた。秀才たちは目の前に難問を出されたら解かざるをえない。どうしても解きたい。高校受験でも大学受験でも難問をクリアしてきた。俺たちに解けない問題があるはずがない。さうして秀才信者たちは闇雲にサリンを作った。目の前の難問を解きたいといふ一心で。完成したサリンがどういふ風に使はれるかなんて考へてなかった。サリンの使ひ途を考へるのは上層部の仕事で、自分たちはたゞサリンを作るといふ使命だけで頑張った。いや、使命などではなく、単に難問を解くのが楽しかったのだらう。それが「理系気質」あるいは「研究者気質」といふものなのだらう。

 森山森子氏が、

「役に立つ」ということを目標にしても、将来の進歩に結びつくわけじゃないし、「これを知りたい!」という単純だけど強い強い好奇心によって自分勝手に動く研究者のほうがずっと粘り強く、結果的に(本人の意思とは関係ないところで)進歩に貢献するものだ。


と言ってるのはもっともなことだと思ふけれども、そのやうに研究者が「強い強い好奇心によって自分勝手に動く」ことに私は危惧をも感じる。オウムの秀才の信者たちも、そんな単純な強い好奇心だけでサリンを作った。

テレビでも別の研究者さんが、役に立つかどうかなんて事は自分にはどうでもよくて、それはまた別の人が考えること、とおっしゃっていて、基礎科学の人間にとって、発見したことを実用化するかどうかなんてのは管轄外でしかない。


 サリンを作った信者もサリンの用途に関しては「それはまた上層部の人が考へること」と思ってゐたに違ひない。


 ロボットを作った大阪大学の教授とサリンを作ったオウムの信者を同列に論じるのはをかしい、と感じる人もゐるかもしれない。たしかに同列に言ってしまふのは失礼だと思ふが、しかし、私は科学者や研究者にはある種の規範が必要だと思ふのだ。

 ある種の、とは何なのか。それがこの「なんの役に立つんですか?」といふ言葉だと思ふ。この言葉自体にはたしかに馬鹿馬鹿しさもある。だが、科学者や研究者にとってはこの言葉が、すなはち「なんの役に立つんですか?」と自問することが、一つの倫理的な指標になるのではないだらうか。

 科学者や研究者だからこそ、かうした問ひが必要なのではないか。
 例へば、私が絵画を鑑賞するとして、そのことはおそらくあまり誰にも迷惑をかけないし、誰にも貢献もしないし、世界に何の影響も与へない。しかし科学者や研究者の発明は、多くの人々に影響を与へるかもしれないし、世界を大きく変へる可能性がある。

 「なんの役に立つんですか?」といふ言葉は乱発されれば暴力的だと私も感じる。けれども、科学者や研究者といった人々は、自分たちの発明や発見が世界に与へる影響力の大きさを考へれば、深慮と慎重のもとに研究活動を行ふべきであらう。「貢献」だけではない、「迷惑」の可能性だってあるのだ。「私の管轄外」などといふ態度で済まされるのか。
 科学者と倫理の問題を考へるときに、少しはかうした言葉が問はれることも意味のあることだと思へる。

 アインシュタインのやうに、悪用されてから嘆いても遅いのだ。



やぽん・まるちが聴こえる - [保田與重郎生誕100年]

 今日は、戦前から戦後にかけて活躍した文芸評論家、保田與重郎の生誕100年の日。保田が生きてゐれば、今日が100歳の誕生日である。

 「保田與重郎文庫」を出してゐる京都の新学社が、今年の生誕100年を記念して『私の保田與重郎』といふ分厚い本を出版したが、これは新たに書き起こしたのではなく今までの全集や選集に収められてゐる月報などを再編輯したもののやうだ。
 今年は保田の記念すべき年なのだから、新たに語られてもいいはずだ。それなりの論客たちに集まってもらひ保田について思ふ存分語ってもらひ、それが文字化され出版されることで、保田が見直される契機になればいいと思ふ。だがさうしたことも困難なのだらう。もう今生きてゐる現役世代で保田を語れる人が少なくなってゐるのだ。
 戦後2、30年ごろまでならともかく、時代は平成になり、21世紀になり、ますます保田を知る人は少なくなった。保田はもうずっと遠い過去の人になってしまったのだ。

 もし保田がまだ生きてゐて、今日のネット社会を目の当たりにしてゐたら、一体どんなことを言ふだらう。ネットに蔓延するネット右翼と呼ばれる輩の言動をどう思ふか、ぜひ聞いてみたいものだ。
 保田の『絶対平和論』のやうな精神は、インターネットを使ってゐる現代の若者の心には響くことはないのであらうか。『絶対平和論』の精神や思想は、私は古くさいものだとは思はないが、かうした思想が現代に説かれることは意味がないであらうか。

 私は普段から本はあまり読まないので、保田の著作もあまり読んでゐない。だから保田について何事か語らうとしても語れない。しかしそれでも保田の名文には心打たれるものがある。例へば『日本の橋』に出てくる次のやうな一節。

思へば、日本の古社寺の建築が今日のことばで建築と呼ぶさへ、私は何かあはれまれるのである。日本の橋の自然と人工の関係を思ふとき、人工さへもほのかにし、努めて自然の相たらしめようとした、そのへだてにあつた果無い反省と徒労な自虐の淡いゆきずりの代りに、羅馬人の橋は遙かに雄大な人工のみに成立する精神である。


 26歳の若さでこんな文章を書いてゐる保田の早熟ぶりも驚きだが、保田が現代の私たちにはわからない敏感さや豊かな感受性を持ってゐたことにも驚かされる。<建築>に対するかうした感覚一つ取ってみても、明治生まれの保田にはわかるが昭和生まれの者には体感的にわからない、といふことがある。昭和、特に戦後以降の奇妙な建築物の数々を見れば、それももっともなことだと感じる。もう現代の日本の<建築>には思想と呼べるほどの思想はないのだらうと私は思ってゐる。保田は、「日本の橋」が何であるかがわかってゐる最後の人だったのかもしれない。

 名文と言へば、私が好きな保田の名文は、『やぽん・まるち』といふ、初期の頃に書かれた短いエッセイだ。この名エッセイは次のやうな一文で締めくゝられてゐる。

上野のあつけない陥落は昼頃だつた。あひ変らずに喪心して皷をうちつゞけてゐた、「まるち」の作者は、自分の周囲を殺到してゆく無数の人馬の声と足音を夢心地の中で感じた。しかし彼は夢中でなほも「やぽん・まるち」の曲を陰々と惻々と、街も山内も、すべてを覆ふ人馬の響や、鉄砲の音よりも強い音階で奏しつゞけてゐた──彼にとつて、それは薩摩側の勝ち矜つた鬨の声よりも高くたうたうと上野の山を流れてゆく様に思はれてゐた。


 私は昔から上野の山をよく散策してゐる。中でも、寛永寺の境内を通り抜けるときに、あの鬱蒼とした雰囲気の所で、この一文をいつも思ひ出す。寛永寺幼稚園の子どもたちの声の向かふに遠く「やぽん・まるち」が聴こへるのである。それは勇ましくも物悲しい調べである。私にとっては淋しい響きでもある。

 これは「体感」といふよりほかない。頭で理解することではない。保田の思想・精神は読んで体で感じるものであり、感じるものがなかったとしたら何も「わかった」とは言へない。

 新学社は今年、生誕100年の何か記念事業を企画してゐるらしいが、この記念すべき年に、もっと保田に再び光が当てられてほしい。いや、再びではない。保田の死後、このすぐれた思想家が注目を浴びたことなどほとんどなかった。現代思想や文芸に興味を持ってゐる人ですら、保田與重郎と言っても「知らない」と言ふ人が多いだらう。

 21世紀の現代に必要な人。保田與重郎。現代の昏迷を解くヒントをいたゞくもよし、文章を深く解し味はふもよし。今年を契機に脚光が当たらんことを願ふ。

 私の中では、保田與重郎は今もなほ輝いてゐる。

 

『いじめの直し方』-いじめ問題は誰に語られるべき問題か

 『いじめの直し方』(内藤朝雄・荻上チキ著、朝日新聞出版)を読む。

 薄い本で、しかも小中学生に語りかけるやうな口調でわかり易く書かれてゐるので、短い時間で読める。


いじめの直し方いじめの直し方
(2010/03/19)
内藤 朝雄荻上 チキ

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 この本では、「元気も勇気もいらないし、きみが変はる必要もない」と言ふ。タイトルが「治し方」ではなく「直し方」となってゐるのも意味があって、いぢめが起きやすい環境や構造を見直さう、といふ意味があるやうだ。
 普通のいぢめ関係の本だったら、「負けるな」とか「いぢめに立ち向かへ」「強くなれ」「きみ自身が変はらなきゃ」などといった言葉が並ぶのが普通だが、この本には一切そのやうな言葉は出てこない。

 例へば、著者は交通事故の例をあげる。道路のある場所で交通事故が異常に頻繁に起こる場合、もちろんドライバーはもっと注意深くなるべきだし運転技術の向上のために努力しなければならないが、しかし、その場の環境や構造を見直すことも大切なのでは?と著者は言ふ。
 たしかに努力は大事だ。私たちは日々努力を怠るべきではない。しかし、ある特定の場所で異常に交通事故が多かったとしたら、やはりその場の環境に何か問題があると考へるのが自然ではないのか。
 
 広い海で仲良く泳いでゐた魚たちを狭い水槽に入れると途端にいぢめが始まる、といふさかなクンの話も本書では紹介されてゐる。

 (参考リンク)いじめられている気味へ - 広い海へ出てみよう 東京海洋大客員助教授・さかなクン

 学校といふ日本の閉鎖的で特殊な環境がいぢめを生み出してゐる構造について私たちは考へるべきなのだ。

 よくプロボクサーなどが「自分は子どものころいぢめられっ子だったので、強くなりたいと思ってボクシングを始めました」などと言ふのを聞く。かうした話はテレビなどでよく紹介されるのだが、これなどはまさに「いぢめられっ子自身が変はらなきゃ」といふ発想のものだ。もちろん本人が変はりたいと思ったなら変はっていいのだけれど、大人がかうしたことを子どもに言ふのはよくない。子どもだけではなく、いぢめに苦しんでゐる大人に対して言ふのも間違ってゐる。それは、いぢめられっ子は「弱いからいぢめられる」のではないからだ。
 「弱いからいぢめられるのではない」といふことについては、例へば渡辺真由子といふメディアジャーナリストが『大人が知らないネットいじめの真実』といふ本の中で明確にはっきりと述べてゐる。

大人が知らない ネットいじめの真実大人が知らない ネットいじめの真実
(2008/07/25)
渡辺 真由子

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 いぢめ問題は、まづ誰に語りかけるべきかといふ問題がある。『いじめの直し方』は良い本だ。この本は、いぢめられっ子に向かって語りかけてゐる。いぢめに遭ったときどうすればいいか、処方箋のやうな本だと言へるだらう。
 私は、だが、いぢめ問題といふのは本来、いぢめっ子、または大人たちに向かって語られるべき問題だと思ふ。順番としてはそちらが先だ。いぢめられっ子本人がなんとかしなければいけない問題ではない。狭い水槽に入れられた魚はどうやって広い海に戻ればいいのか?魚自身の努力でなんとかなるのか?魚たちを狭い水槽に入れた人間が問題なのである。まづその人間に向かっていぢめ問題は語られなければならないはずだ。

 となると、この本も、いぢめられっ子ではなく大人たちに読まれるべきである。「弱いからいぢめられるんだ」「本人が変はらうと努力しなきゃ」「がんばれ」「応援してるから」等々、いぢめの自己責任論を振りかざす無責任な大人たちにこそ、この本を読んでもらひたい。
 いぢめられっ子自身も当然、いぢめられてゐる現状は嫌なわけだから、なんとかして環境を変へようと努力するだらう。しかし環境を変へるのは私たち大人たちの責務である。その責務を放ったらかしておいて、いぢめられっ子に向かって「がんばれ」などと言ふことは、到底許されることではない。

Evernoteが使いにくい

 Evernoteが使ひにくい。

 Evernoteは保存には優れてゐるが、テキストエディタとしては今のところまったく役に立たない。

 私は、Windows版のEvernote×GoogleIMEの組み合はせで使ってゐるが、


evernote01.png



 ノートに文字を入力して変換しようとすると、文字入力の場所の上に変換候補ウィンドウがかぶって入力中の文字が見えなかったり、
 


evernote03.png

  

 ノートの右側の方で「へんかん」と入力し変換キーを押すと、ずっと左の方に候補ウィンドウが表示されたり、もう一回変換キーを押すと今度は・・・、


evernote02.png


 ↑のやうに、入力中の文字の場所とはるかに離れたところに候補ウィンドウが表示されたりする。

 何なんだらう、これは。きはめて使ひづらい。ほかにも勝手に左寄せが選択されたり、勝手に太字になったり、と不審な挙動を見せる。いろいろ細かいUIがをかしいのだ。こんな滅茶苦茶なUIのものを多くの人が皆不満を言ふこともなく使ってゐるのだらうか。

 ウェブ版も使ってみたが、何も触ってないのに、急に文字全体が6行分ぐらゐ下がったりするをかしな動きが1分に1回くらゐの割合で起こる。

 このやうなをかしな症状が現れるのは私だけなのだらうか。

 これはMicrosoft Wordに匹敵する使ひ勝手の悪さだ。なんでこんなに使ひ勝手が悪いのか。このまゝUIが改善されなければ有料版を使はうと思ふ人は少ないのではないか。

 別に至高の使ひ勝手を求めてゐるわけではない。Windows標準のメモ帳を使ふときのやうなシンプルで普通の使ひ勝手が欲しいだけだ。

 それともEvernoteにテキストエディタとしての期待を抱くのは間違ってゐるのだらうか。

 複数の異なるデバイスから同期する仕組みとか、ウェブページを手軽にクリップする仕組みなど、Evernoteには優れた点がいっぱいある。特にデータの保存といふ観点からは、とても優れたアプリだと言へる。
 それだけに細かなUIがお粗末なのが惜しいと思ふ。

 今後、改善されるのを期待して待たう。

買い間違い?

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 Suicaとか持たない派なので毎回切符を買ってゐるのだが、先日、山手線に乗るべく切符を買ったら、券売機の切符出口のところで「買ひ間違ひ」と指摘されてしまった。

 いや、買ひ間違へてゐません。ちゃんと目的地までの料金で正しく買ひました。

 しばらく考へてから気づいた。あゝ買ひ間違へてゐないかその場で確認してくださいね、といふことか。1分ぐらゐ考へてしまったよ。

東京スカイツリーが傾いていると話題に

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 東京都墨田区押上に建設中の電波塔「東京スカイツリー」が傾いていると話題になっている。

 先日、東京タワーの333メートルを抜いて「日本一高い建物」となった東京スカイツリーには、早くも連日大勢の観光客が詰めかけている。その観光客の一部から「傾いているのでは?」との声が先月頃から墨田区役所などに寄せられるようになった。
 そうした声を受けて、墨田区が事業主体である東武鉄道および国土地理院と共同で調査に当たったところ、南南東の方角に約1.5度、傾斜していることが判明した。このまま建設を続ければ、完成時には塔自身の重みも加わり最大で4.5度傾くことになるとみられている。
 原因については現在調査中であるが、付近に北十間川などの川が流れている地質から地盤が軟弱なためではないか、とする見方が出ている。

 では、東京スカイツリーはこのまま建設を進めて倒壊する危険はないのだろうか。専門家は「将来的に倒壊する確率は4.1%程度。踏みとどまる可能性の方が高いので心配ない」としている。

 詳細は[続きを読む]から。

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