暫定龍吟録

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2010年05月の記事

デジタルな思い出をどうやって取っておくか

 片付けが下手な人がゐる。整理整頓が苦手で部屋が散らかってゐる人がゐる。

 それに対して、片付け上手な人がよく行ふアドバイスの中に「この一年間、一度も触らなかったものは捨てなさい」といふのがある。部屋の中に物が多すぎるから片付かないのだ、片付けの基本は捨てること、なるべく物を持たない生活にしよう、といふわけである。


 ところで、「思ひ出」とは何だらうか。私は前回の記事「あきらめることとあきらめないこと」で、過去の日記をすべて燃やしてしまった人の話をした。そしてその行為に戦慄したと書いた。

 思ひ出とは、辞書によれば、

1 過去に自分がであった事柄を思い出すこと。また、その事柄。「―にひたる」
2 あることを思い出すよすがになるもの。「旅の―に写真を撮る」(『デジタル大辞泉』)


なので、2の意味でとるなら、物も、当然写真や文章(が書かれた物)もすべて「思ひ出」であると言っていい。

 私が片付け上手の人のさうしたアドバイスに違和感を感じるのは、思ひ出は取っておくことに意味がある、と考へるからである。片付けマンは「でも取っておいてもどうせ見ないんでせう?」と言ふ。でも、その思ひ出を振り返るか振り返らないかが問題なのではない。取っておくことに価値があるのだ。
 例へば、小学校や中学、高校の卒業アルバムを私は取っておいてある。ではそれを一度でも開いて見たか、と言はれれば、こゝ数年間一度も触ってない。でも、だいたい卒業アルバムなんてそんなものではないのだらうか。卒業して何年も経つのに「毎日開いて見てます」とか「週に一度は必ず見てます」などといふ人がゐるのだらうか。

 これに関聯して私が気がかりのは、こゝ十年くらゐで急増してゐるデジタルな思ひ出たちのことだ。
 テキスト、画像、音声、動画。もちろんメールやブログも含まれる。写真はアナログからデジタルになった。葉書や便箋に書いてゐた手紙はメールになった。テレビもデジタルになった。紙に書いてゐた日記はブログになった。
 多くの「思ひ出」がデジタルの形をとるやうになった。それなのに、このデジタルな思ひ出たちの保存問題について真剣に考へてゐる人は意外と少ない。私はこの問題について随分と時間をかけてさまざまなワードでググってみたが、この問題について深く議論、考察してゐるページには出くはさなかった。皆は、自分が死んだ後に、自分の書いた文章や撮りためた写真(画像)などがどうなるのか、考へないのだらうか。
 デジタルデータはこれだけ急増してゐるにもかゝはらず、実はその保存の問題については、まだ「これだ!」といふ答へが出てゐない。だから未だに、大事な写真や文章は紙にプリントアウトしておけ、と言はれるぐらゐなのである。

 現代の私たちは約1000年前に書かれた紫式部の日記を読んでゐる。紙に書かれた日記が1000年後に残ってゐる。紫式部日記が価値があるのは、優れた文学者が書いたものだから、と言ふばかりではない。もし今、平安時代の日記が発見されたら、それが有名な人が書いたものであれ無名な人が書いたものであれ、価値があるだらう。1000年の時を越えて残ってゐるから価値があるのである。

 片付けマンは「それは取っておく価値のある物なの?」と問ひ詰める。現代的な意味合ひで言ふなら、私が書いた駄文など、とりあへず当面「価値がない」だらう。10年後にも価値がないだらう。しかし1000年残ってゐれば分からない。1000年後に発見されれば「価値あるもの」とされるかもしれない。
 「価値があるから取っておく」のではなく、「取っておくと価値が出る」のである。
 例へば戦後のブリキのおもちゃは、今とても価値がある。当時はありふれたどうでもいいものだったが、たった50年後には、もう貴重な価値を持つものになった。

 さうは言っても、あらゆるすべての物を「思ひ出だ」と言って取っておくわけにはいかない。何を取っておいて何を捨てるのか、そこは取捨選択しなければならない。
 私だったら、自分が買って所有してゐる物はまあ残らなくてもいいが、自分が作り出したもの、創作物は残しておきたいと思ふ。例へば画像なら、ネット上で蒐集したお気に入りの画像などは別に後々まで残らなくてもいいが、自分で撮ったオリジナルの写真などはいつまでも残しておきたいと思ふ。

 私はもし自分がIT企業を興したとしても、ブログサービスだけは絶対に始めないと思ふ。日記は、人の思ひ出の品の中でも最上位に位置するものである。大切な他人様の思ひ出をごっそり預かるなんてとても恐ろしくてできない。
 ケータイのリサイクルが進まない理由の一つは、端末の中に思ひ出としてのデータがたくさん入ってゐるからだらう。ブログはサービスを乗り換へても過去のデータごと引越しができるやうになってゐる。だが本当にブログは自分の思ひ出を残す場所として適してゐるのだらうか。私はおよそ2年前に「ブログは思い出媒体として最適か」といふ記事を書き、この問題について考察した。例へばFC2ブログの場合、一ヶ月以上更新が無いと広告が表示されてしまふ仕組みになってゐる。しかしブログの価値は更新にあるのではない。アクセスでもない。「アクセス数ゼロのブログなんて意味あるの?」と言ふ人もゐるかもしれない。でもブログの意味が思ひ出の保存場所としての意味を持つなら、譬へ一年間のアクセス数がゼロでも、一年間に一度も更新されなくても、そのブログはやはり存在する意味がある。
 
 自分が書いたデジタルな文章(テキスト)を半永久的に残したい場合に、どうするのが最も正しいのか。各ブログサービスはまだ答へを出してゐない。もちろんブログに拘る必要はない。公表するわけではないのなら、どんなメディアに保存してもよい。CD-RでもDVD-Rでもよい。しかしかういふメディアは信頼できるのだらうか。私はその昔フロッピーに文章を保存してゐた。しかし先月末、フロッピーディスク最大手のソニーが2011年3月末でフロッピーの販売を終了することを発表した。それでなくてももうフロッピーに入れた文章はかなり読めない環境になりつゝある。CDもDVDも似たやうな後を追ふ可能性はある。

 近年、Evernoteが脚光を浴びてゐる。Evernoteが注目されてゐる理由は、大体、人間の記憶を補完するノート、といふ意味合ひにおいてである。例へば、

ただのメモでは勿体ない!Evernoteに人生を記憶しよう
本気でEvernoteを使って、本気で全てを記憶する | goryugo, addicted to Evernote
Evernoteに記憶を自動保存する方法 - RyoAnna's iPhone Blog

などなど。
 だが私は「すべてを記憶する」ことには興味はない。それよりもこのデジタルノートが文字通り「永遠のノート」としてその役割を果たしてくれるのかどうかが興味がある。「記憶」と「思ひ出」は似たやうな意味である。Evernoteがすべてを記憶してくれるなら、思ひ出もすべてこゝに詰め込んでおけば安心なのだらうか。Evernoteは「大丈夫、任せて」と言ってくれるだらうか。

 あなたがケータイでメールを始めるとき、SNSで日記を付け始めるとき、どこかのサービスを使ってブログを書き始めるとき、そんなときは、データがいつまで保存されるのか、よく確認してから使ひ始めたはうがよい。私は月額料や年額料を払はなければいけないやうな有料サービスは使はないやうにしてゐる。金の切れ目がサービスの切れ目、つまり自分が金を払へなくなった途端に、データを抹消されてはたまらないからである。

 紫式部の紙の日記が1000年も保存できたといふのに、現代のデジタル日記が100年も保存できなかったら、情けない話だ。

 さうしたら私は石に刻まうか。

 


あきらめることとあきらめないこと

 「最後まであきらめるな」

と言ふ人と、

 「物事はあきらめが肝腎」

と言ふ人がゐる。一体、どっちが正しいの?


 正解は、どちらも間違ひ。
 「最後まであきらめるな」といふのは自分に向かって言ふ分にはいいけれども、人に向かって言ふのは間違ひ。「あきらめが肝腎」といふのは自分のことについてはそれでもいいけれども、人のことについてはさう簡単にあきらめてはいけない。


 昔知り合った女性で欲が無い人がゐた。私はその人のことを尊敬してゐた。
 私も相当、欲が無い方だ。金銭欲も物欲もあまりないし、所有欲、独占欲や名誉欲などもあまりない。しかし彼女の欲の無さはその私をはるかに上回る(下回る?)ものだった。彼女には、物欲や金銭欲はおろか、知りたい、学びたい、といふ知識欲すら無く、長生きしたいといふ生の欲求すらも無かった。
 「欲しいものは何も無い」と言ってた。
 「別に長生きしなくていい。いつ死んでもいい」と彼女は言った。虚勢ではなく本気でさう思ってゐるやうだった。別に死にたいと思ってゐるわけではなく、たゞ、長く生きたいといふ欲求が無いだけなのだ。

 私は彼女をブッダのやうな人だと思った。欲深い人間が多いこの現代社会において、何とまあ無欲な人なのだらう。今どきこんな素晴らしい人間がゐるだらうか、と思ってゐた。

 ある時、彼女が若い頃にずっと日記を付けてゐたといふ話を聞いた。その日記は今はどうしたのか尋ねると、前に全部一遍に燃やしてしまった、と言ふ。自分が死んだ後に誰かに見られたら恥づかしいと思ったので全部焼却処分した、と言ふのだ。
 私はその話を聞いて慄然とした。厖大な過去の思ひ出を一瞬で灰にしてしまふといふ世にも恐ろしい行動を、おそらく彼女は平然と行ったのだらう。
 彼女には欲が無い。執著が無い。あらゆる執著から解き放たれてゐる彼女は、過去の思ひ出からも自由なのだ。思ひ出に何の未練も無いのだ。
 彼女には過去のどんな素敵な思ひ出に対する何の執著心も無い。それを考へれば、彼女が「いつ死んでもいい」と言った科白には納得がいく。

 ブッダの言葉を読んでみると、とにかくひたすら「執著を捨てよ」といふことばかり言ってゐる。ブッダが執著から離れたのは苦行のおかげかどうかは分からないけれども、生まれつき元々、欲や執著心が無いタイプの人だったのではないだらうか。だからブッダは自分の妻や子を捨てた。捨てることができた。苦渋の決断の末にさうしたのではなく、割とあっさり捨てたのではないだらうか。
 宗教学者の山折哲雄は『ブッダは、なぜ子を捨てたか』といふ本の中で、このブッダの非情について問うてゐる。

 あらゆる欲、一切の執著から離れてゐる人は立派かもしれない。聖人である。その彼女も一見、聖人である。しかし、人(他人)に対する執著まで無くしてしまったとき、それは本当に素晴らしいことと言へるのだらうか。

 例へば、今、目の前に川で溺れてゐる人がゐる。川岸にゐるあなたはどうするか。
 人に対する執著が無いブッダだったら、黙って手を合はせるだらう。あるいはお経を唱へるかもしれない。そしてその人が死後無事に極楽浄土へ行けるやう祈るだらう。
 でも、この場面で求められてゐる行為はそんな行為ではない。川に飛び込んで助ける、ロープや道具を使って助ける、周囲の人に協力を求める、119番などで助けを呼ぶ、さうした行為が求められてゐるはずだ。

 彼女が自分の日記を燃やしたことに私が戦慄したのは、そこには彼女自身のことだけでなく、過去の彼女のすべての人間関係、すなはち他人のことも含まれてゐるからだ。他人に関する記憶、思ひ出すら平然と消去できてしまふ彼女の執著の無さに戦いたのだ。

 自分の生をあきらめるのは結構。長生きに興味が無いなら長生きしなくていい。でも他人のことを自分のことと同様にあきらめてはいけない。
 ブッダが自分の持ち物をすべて捨て去るのは結構。でも妻や子はブッダの所有物ぢゃない。モノぢゃない。人格がある生命なのだ。

 人のことは、さう簡単にあきらめてはいけない。


ブッダは、なぜ子を捨てたか (集英社新書)ブッダは、なぜ子を捨てたか (集英社新書)
(2006/07/14)
山折 哲雄

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パキスタンとFacebook問題

 boingboing.netの記者がこちらの記事で伝へるところによると、パキスタン政府は、5月20日から、Facebook、YouTube、Twitterなど主要なネットサービスをブロックしてゐる。
 原因は、どうやらFacebook上で「ムハンマドを描かう」といふ不穏な動き(グループ活動)があったためらしい。
 イスラム教では、神や預言者の姿は描いてはいけないことになってゐる。

 かうしたFacebook上の不穏な動きにパキスタン政府が過敏に反応した、と上記記事は伝へてゐる。イスラム教徒ではない人たちまで迷惑を被るのでひどい話だ、といふコメントもあった。

 もし私が日本でかういふ状況にあったら、と考へると、まあ私はFacebookやYouTubeやTwitterがなくても困らない。GoogleやYahooさへ使へなくなってもたぶん大丈夫。
 元々「反インターネット的」である私は、インターネットで不快な思ひをするぐらゐだったら「インターネットなんか無くなっちゃえ」と極端なことを思ふのだが、それはあくまで私個人レベルの所感であって、国家レベルとなるとまた話は違ってくるだらう。

 当のパキスタン人たちの感想を聞いてみたいものだ。

 と思ってゐたら、あるパキスタン人のついったらーが、同じパキスタン人のTwitterユーザーたちに向けて「Facebookにアクセスしてますか?」といふアンケートを取ってゐた。

 その結果がこちら↓


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 私が見た時点で200人が回答を寄せてゐた。4つの選択肢の中で、どれかが突出して回答が多いといふわけではない。アクセスしてるかしてないかといふ観点から見るなら、答へは、ほゞ半々である。もちろん、このアンケートに回答してゐるのは、おそらくITに詳しいかコンピュータ好きの人が多いだらうと推測されるから、この結果がパキスタン全国民の意見を反映してゐるわけではない。ついでに言へば、このアンケートは「パキスタン人だけお答へください」とは書かれてゐるものの、英語で行はれてゐるので、本当にパキスタン人のみが回答したかどうかは定かではない。それでも、この結果を見る限りでは、やはり多くの人がイスラム教に対して冒涜的であるかどうかは気にしてゐるやうだ。

 Facebookをボイコットするといふのは果敢な行動だ。米国でも“Facebook疲れ”や最近の“プライバシー問題”で辞める人も出てきてゐるくらゐだから、使用を辞めるのにちゃうどいいタイミングなのかもしれない。

 ソーシャルなネットサービス、とりわけFacebookのやうに国境を跨いで広範に利用されてるやうなサービスは、見る人によって大きな不快感を齎す。「嫌なら見るな」といふのは暴論であって、Googleと中国の問題にしてもさうだが、今や国家をも凌ぐほどの大きな影響力を持ったネットサービスたちは、この種の問題に対して、もっと繊細でなければならないだらう。




保田與重郎生誕100年記念シンポジウムに行ってきた

 今年の4月15日、保田與重郎の100歳の誕生日の日に、このブログで保田與重郎について取り上げたので、せっかくなので、「自然に生きる 保田與重郎の『日本』」の上映会とシンポジウムを聴きに行ってきた。 

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 会場は新橋のヤクルトホール。会場内は400人を超す人出でかなりの盛況だった。聴きに来てゐたのは全体的に中高年が多い。をぢさんかお爺さんが大半。男女比は7対3ぐらゐ。若い人は1割ぐらゐ。若い女性は2人ぐらゐしか見かけなかった。当然か。保田與重郎のシンポに若い女性が集まるはずがない。

 第1部と第2部に分かれてゐて、第1部は、映像プロデューサー佐藤一彦氏による『自然(かむながら)に生きる』と題した映像作品が上映された。日本の美しい伝統的な自然が、きれいな映像で綴られてゐる。保田の奈良の実家が立派な日本家屋で現在もそのまゝ残ってゐるのには驚いた。
 下の写真にある「身余堂」といふのは、京都にある保田が住んだ山荘の名前。こちらも保田の思想が体現された大変美しい建物だ。子どもの頃から使ってゐたといふ文机が印象的だった。

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 第2部は、『保田與重郎の“暮らしの思想”をめぐって』と題するシンポジウム。
 パネリストは、前田英樹(批評家)、井川一久(ジャーナリスト)、ヴルピッタ・ロマノ(評論家)、谷崎昭男(文芸評論家)、高橋公(NPOふるさと回帰支援センター)の5人。
 この内、実際に保田に会ったことがあるのは3人とのこと。

 何れも興味深い話で長く聴きたかったが、いかんせん時間の制限があり、十分に議論が尽くされたとは言へなかった。
 ちょっと面白かったのは、井川一久氏の「保田は行儀が悪かった」といふ話。なんとなく爆笑問題の太田光を聯想した。どことなく面影も似てゐる。

 新学社が企画した今回のシンポジウムは総じて良かった。保田與重郎といふと、どうしても右翼だの左翼だのといった観点からの政治思想が語られることが多いが、今回はさういった視点ではなく、「自然に生きる」といふ保田の素朴な思想をテーマにしてゐたのが良かった。このやうなテーマで初めに保田を紹介していくなら、なんとなく広く人々に受け入れられさうな気がする。

 新学社は、またこのメンバーで、あるいはメンバーを入れ替へてもいいので、保田に関するウェブ対談を開催してはどうだらうか。ウェブ上の対談ならば、時間の制約も紙幅の都合も無い。シンポジウムでもちらっと触れられた、21世紀的な現代の社会問題と保田の思想を合はせて考へるのは興味深い。保田について多くの人が語り合へるプラットフォームなどがあってもよい。

生誕百年、という祝い方が保田與重郎にふさわしいかどうかはわからないのだが、この節目の年に、この人について何かを言い、何かをすることが、ただいま現在の日本人にとって実にいいこと、大切なことだという気がしきりである。(前田英樹)


 この節目の年に、私もまたいろいろ考へてみたい。





【関連記事】
やぽん・まるちが聴こえる - [保田與重郎生誕100年]


盲点的サイズ考

 私は物を大切にする方である。
 次々に新しい物が出るたびに買ったりするライフスタイルは好きではないので、一つの物を長く使ってゐる。
 だから私の家の中にある物は、けっこう「初代」の物が多い。

 靴をもう10年ちかく履いてゐて、かなりボロくなっても頑張って履いてゐたのだが、先日つひに壊れて分解してしまった。それでしかたなく10年ぶりに新しく靴を買はうと思ったのだが、どこの靴屋に行っても、自分の足に合ったサイズのものが無い。
 思ひ出した。10年前に靴を買ひに行ったときも、やはりサイズが無いといふ問題に悩まされたのだった。まさか10年後に再び同じ問題に悩まされるとは。

 男性用の靴は私には皆、大きすぎる。女性用の靴は皆、小さすぎる。靴屋はいったいこの問題をどう考へてゐるのだらうか。
 靴のサイズには、明らかに、男性サイズと女性サイズの間に盲点的なサイズが存在する。この盲点的なサイズの靴は東京中のどこの靴屋を探し回っても売ってない。念のためにキッズコーナーの靴も見てみたが、これはやはり小さすぎた。

 同じ問題がズボンにも存在する。
 人間の体は、よく言はれる3サイズのうち、バストサイズとヒップサイズは、男と女でサイズが近い。これは男の方がガタイが大きいけれども、女はバストとヒップが膨らんでゐるため、結果として同じぐらゐになるのである。だが、ウエストサイズだけは、男と女は全然違ふ。女はガタイが小さいうへに、いはゆる「くびれ」があるので男より全然細くなる。(さうでない人もゐるが)。
 私はジーンズを買ひに行くと、メンズコーナーの一番小さいサイズでもブカブカである。それでしかたなく一度、レディースコーナーに行って一番大きいサイズのジーンズを試着してみたのだが、きつくて入らなかった。

 これは何と言ふか、もう許しがたい事態である。
 よくテレビで太ったタレントが、「サイズが無い」と言ってゐるのを聞くが、あれはまあ自分の体が大きすぎるのだからしかたがない。しかし私の体は言はば「日本人の平均」である。その「中間サイズ」な私がなぜサイズが無いと頭を悩まさなければいけないのか。
 だいたい、大きい人は、「大きいサイズ専用の店」なども存在するし外国のものを取り寄せれば事足りるので、それほど事態は深刻ではないだらう。私みたいなサイズの人間は外国のものにも頼ることができず、問題はずっと深刻である。

 全国の靴屋や服屋に言ひたい。男性の一番小さいサイズと女性の一番大きいサイズの中間に存在する盲点的なサイズのものも作ってほしい。と言ふか、さういふ盲点的サイズがあることをもっと多くの人に知ってほしい。

 メンズにも嫌はれレディースにも嫌はれた私は、今日もボロボロのジーンズとボロ靴を履いて出かける。

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人を勝手に低く見積もってはならない

 好きなタイプの人を聞かれることはあるが、嫌ひなタイプの人を聞かれることはあまりない。

 もし「この世でもっとも嫌ひなのはどんなタイプの人ですか」と聞かれたら、私は「態度がでかい人」と答へる。

 態度がでかい、あるいは人を見縊ったり見下したりする人が嫌ひである。

 小学校時代、私はクラスで一番おとなしい子だった。いはゆる学校のカーストで言へば「最も弱い」位置に属してゐた。本当はそんなに弱かったわけではないと自分では思ってゐた。しかし自ら敢へて、「最もおとなしい」「最も弱い」といふ位置に立ってゐたのだ。

 私は人を試してゐた。自分を試験紙として使って人を試してゐたのだ。私は初対面の人に会ったときは、必ず下手(したて)に出る。今でもさうしてゐる。私はなるべく謙虚に謙遜に下手に出る。そのおとなしくて弱さうな私を見て、相手がでかい態度に出てくるかどうかを計ってゐるのだ。相手が調子に乗ってでかい態度で出てきたり、こちらを見縊ったやうな態度を取ってきたら、私はもうその人とは付き合はない。こちらがどんなに下手に出ても、決して態度が大きくならない人が、私が真に尊敬し本当に付き合ひたいと思ふ人だ。

 例へば、初対面の人に「◯◯さんはパソコンは得意ですか?」と聞かれたとしよう。私は決まって「いえ、全然」と答へる。この答へは嘘ではない。もし相手がウェブデザイナーとかプログラマーのやうなITを専門としてゐる仕事の人だったら、わたしみたいのは初級者レベルもいいところなので、「全然苦手なんです」といふ答へで合ってゐる。しかしその相手が、私はパソコン触ったことありません、インターネットって何ですか、といふレベルの人だったら、私みたいな人間でも十分パソコンに詳しい人といふことになるだらう。
 思へば、「パソコンに詳しいか?」といふ質問ほど、ピンからキリまでの幅が広い質問はない。上を見ればキリがないほどめちゃくちゃ詳しい人がゐるし、下を見れば「マウスって鼠ですか」といふレベルの人までさまざまだ。だから、とりあへず相手のパソコンのレベルが分かるまでは、私は「自分はパソコンは全然です」と言ふことにしてゐる。
 さうした私の答へを受けて、「今の時代、パソコンが苦手なんて言ってるやうぢゃ通用しないよ」などといきなり上から目線で説教じみたことを言ってくるやうな人間はもう駄目なのである。
 かういふ人間は勝手に相手を低く見積もってゐるのである。もしかしたら◯◯さん(私)は自分よりパソコンに詳しいかもしれないといふ可能性をまったく考慮に入れてゐない。二人は初対面で、まだ二人のパソコンの実力はお互ひ明らかになってゐないし、比較もされてゐないのに。

 例へば、「君は努力が足りないんだよ」といふ先生がゐる。
 かういふ先生は、いったい生徒の何が分かってゐるといふのだらうか。
 「分かってゐるさ」と先生は言ふ。その理由は「付き合ひが長いんだから」だったり、「僕には分かるのさ」といふ根拠の不明な自信だったりする。
 先生に分かるわけがない。その生徒は必ず先生の見えるところでのみ努力をしてゐるわけではない。陰で、誰にも見えないところで一生懸命してゐる努力がどうして人に分かられよう。
 ニートやフリーターと呼ばれる人たちに向かって「努力が足りない」などと言ふ連中も同じだ。彼らがどれだけ努力してゐるか知りもしないくせに、どうして「君は努力が足りない」などと言へるのか。彼らのことをどれだけ把握してゐるのか。「知ってゐるさ、見てれば分かるさ」と言ふ人は、努力といふものが必ず人目につくところで行はれると思ってゐる人だ。「精一杯努力してゐる姿は必ず誰かに認められる」などと本気で思ってゐるのだ。世の中には誰にも見つからない陰の努力といふものがあることを知らないのだ。
 家族でさへ、親や夫婦でさへ、子どもや配偶者のすべてを知ってゐるわけではない。見知ってゐるのはその人のごく一部だ。夫が会社でどれだけ努力してゐるか、自分が寝たあとに妻がどれだけ努力してゐるか、子どもが学校でどれだけ努力してゐるか、さういふことは全然知らないのである。

 自分が知らないことについては、何でもとりあへず、高く見積もっておくべきである。勝手に低く見積もるべきではない。パソコンの例で言へば、私は初対面の人に会ったとき、その時点ではその相手のパソコンの実力レベルがまったく分からないので、とりあへず、プログラミングとかができるすごく詳しい人なのかもしれない、と仮定しておく。そんなあなたに比べたら私なんて全然パソコン詳しくないです、といふ回答に自然になる。もし私が「パソコンかなり詳しいです」などと答へて、後で相手がIT関聯の仕事をしてゐるプロだと知ったら、そのときは大恥である。

 人を勝手に見縊ったりするやうな人間は、器の小さな人間だ。本当に人間として素晴らしい人といふのは、どんな相手に対しても、決して態度が尊大になったりしない。相手がいかにも偉さうな人だったり、自分よりもレベルが上だと感じられる人の場合は、もちろん態度がでかくなったりはしないだらう。だが、相手が弱い仮面を被ってゐる場合は要注意だ。かういふ時にこそ人としての器が試される。
 ファミレスやファーストフード店などで、店員に対してでかい態度を取ってゐる男を見たことがあるだらう。特に彼女がゐる前だと余計にさういふ態度を取ったりする。ファミレスの店員は「お客様」に対して強く言ふことはできないから、初めから弱い立場にゐる。さうした立場関係に嵩をかけてでかい態度を取る人は、人間として最低クラスの人間なのだ。

 私たちは相手のことを何も知らない。よく知らない部分について、勝手に低く見積もったり、見縊ったり、見下したりしてはならない。


ゲーム理論に初めて触れる人のための1冊『高校生からのゲーム理論』

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 ゲーム理論といふ数学の理論が近年注目を浴びてをり、それに関聯した書籍もいろいろと出版されてゐる。

 しかしその関心は経済学的な応用への関心が専らである。だから今書店に出まはってゐるタイトルに「ゲーム理論」とつく本は、大抵が経済書やビジネス書である。それを除けば、あとは純粋な専門的数学書があるのみだ。

 「ゲーム理論」といふ言葉はこれだけ有名になってきてゐるのに、意外と非理数系の人にも読めるやうな簡単な入門書が存在しない。以前からゲーム理論について書いた入門書のやうな新書があればいいなと思ってゐたが、これだけ大量の新書本が存在する時代であるにもかゝはらず、ゲーム理論について書かれた新書は今まで一冊もなかった。

 そこへ、このたび、ちくまプリマー新書から、松井彰彦の手になるゲーム理論の本が登場した。

高校生からのゲーム理論 (ちくまプリマー新書)高校生からのゲーム理論 (ちくまプリマー新書)
(2010/04/07)
松井 彰彦

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 以前から待ち望んでゐたゲーム理論の新書だ。書店で見かけてから早速読んでみた。

 読んだ感想は、正直言って、予期してゐたものとは違った。もっとゲーム理論の基礎基本についてしっかり書いてある教科書のやうな本を想像してゐたが、実際読んでみると、これはゲーム理論についての読み物であり物語風に書かれたものだった。

 だが読み物としては楽しい。本書で扱はれてゐる話題は、サッカーのPK戦の話から三国志の話、童話、ヒュームの哲学、アインシュタインの相対性理論、いぢめの問題、ソクラテスから仏教の話まで、多岐に渡る。本来数学の本のはずなのに、これだけ多様な話題を扱ってゐれば、本書の中身をちらっと見ただけでもなんだか楽しさうでワクワクしてくるといふものだ。

 中でも私が印象に残ったのは、第五章の「いじめられる理由なんてない」といふ話だ。

 今こゝに、A、B、C、Dといふ4人の子どもがゐたとして、A、B、Cはグループを作ってDだけが仲間外れになったとする。この状態はゲーム理論的にはナッシュ均衡として意外と安定してゐる。A、B、Cの3人はDに話しかけようとはしない。Dと親しくすれば、今度は自分が仲間外れの標的にされてしまふ可能性があるからだ。さういった意味で3人は誰も戦略を変へようとしないのでナッシュ均衡になるのだ。
 ところで、このDへの仲間外れが持続するためには、「実際にDと遊んだ子どもが仲間外れになる必要はない。重要なのは、Dと『遊ぶ』と自分が仲間外れになる、と心配しているということである」と著者は言ふ。これはつまり、子どもたちが自分たちの頭の中に勝手に作り上げたゲームモデルであるといふことである。
 ではなぜ、Dは最初に仲間外れになったのか。この問ひに対して、多くの人間はD自身に何か問題があったからだと考へる。しかし著者は「それは、A、B、Cという三人が仲間外れにしたからである」とシンプルに言ひ切る。このシンプルすぎる当たり前の答へに気付ける人がいったいどれだけゐるだらうか。著者は、「原因と結果に関する推理はすべて経験の積み重ねから導かれるのであって、そこに論理的な必然性はない」といふデビッド・ヒュームの因果関係に関する哲学を引き合ひに出して、D自身の問題が原因でその結果として仲間外れやいぢめがある、といふ考へ方は私たちの「誤ったものの見方」であると主張する。そしてこの話の最後を次のやうに結んでゐる。

いじめの撲滅は、それが何の益ももたらさないし、見方を変えれば何の根拠もなくなる、とみんなが理解するところから始まる。いじめの問題はいじめられる側ではなく、いじめる側のものの見方が歪んでいることから帰納的に生じることをみんなが理解すれば、何を変えるべきかの答えは自ずと見つかるであろう。



 この本は、ゲーム理論といふ一見冷徹な数学の理論を取り扱った本でありながら、著者の精神や感情が垣間見える。さうした本の書き方は、著者が「友人」だといふ経済学者の小島寛之の本の書き方に似てゐる。私は以前、小島寛之の『確率的発想法』といふ本を読んで感動したことがあるが、数学をこのやうに感動的に語れる人といふのはなかなか少ないのではないだらうか。

 そこには、ゲーム理論は何よりも「人間の科学」でありたいといふ著者の熱い思ひが表れてゐる。こゝにあるのは、たゞの客観的な分析ではない。自分自身が人間社会といふゲームの中のプレイヤーの一人であり、その視点から、人と人との関係をどのやうに把捉していくかといふダイナミックな考察である。

 本書は、ゲーム理論を本格的に学ぶための本ではないけれども、ゲーム理論に初めて触れるといふ人にとっては、とてもすぐれた読み物であると思ふ。たゞ「知る」だけではない。多くのことを「考へさせられる」本なのだ。


関西を関東に当てはめたら?【関西関東相似型】

・奈良=埼玉?
 以前、県民性をテーマにしたテレビ番組を見てゐて関東地方における埼玉県の立ち位置みたいなのが話題になってゐたのだが、そのとき奈良県の人たちが「関西における僕らの立ち位置は、ちゃうど埼玉さんみたいなんですよ」と言ってゐたのが印象的だった。

 かういふのは関西地方に住んでる人でなければピンと来ないだらう。私のやうな東京の人間にとっては、奈良は修学旅行の行き先として「京都・奈良」とセットにして覚えてゐるくらゐで、どれくらゐ都会でどれくらゐ田舎かとか、どれほど大阪から馬鹿にされてゐるかとか、さういふのはピンと来ない。でも、「関西における奈良の立ち位置は、関東における埼玉みたいなものだ」と言はれれば何となくピンと来る。東京人の私にとって、これは目から鱗だった。

 関東における埼玉の微妙な立ち位置だったらよくわかる。東京からは「ださいたま」と馬鹿にされることも多いけれど、そんなに田舎なわけでもなく、栃木や群馬からは都会だと思はれてゐる、この微妙な位置取りの埼玉。奈良も、この微妙な立ち位置が似てゐるのだらう。都会でもなくそれほど田舎でもなく、中途半端な位置取り。
 さう言はれれば、奈良と埼玉は県の形も大きさもなんとなく似てゐる。都心である大阪(東京)と隣接してゐる境界線が長いところも似てゐるし、内陸に位置してゐて海がないところも共通してゐる。

関西地方  関東地方

 この要領で、関西の他の県も関東の県に置き換へてみることができないだらうか。
 関西関東相似型について考へてみよう。

・大阪=東京
 まづ、大阪は東京だらう。大阪は関西の都心であり中心。東京も関東の都心で中心。それぞれの地方の一番の大都会である。府(都)の面積の小ささや形もどことなく似てゐる。

・兵庫=神奈川
 兵庫は神奈川だらう。神戸(横浜)といふ大きな港町を抱へてゐる。いづれもオシャレな街といふイメージがある。兵庫は神戸ばかりが有名だが、六甲山や丹波地方の山々など意外に山も多い。一方、神奈川も横浜が有名だが、箱根の山などがある。県の西端に有名な城(姫路城、小田原城)があるところなど共通点が多い。

・滋賀=茨城
 滋賀は譬へるなら茨城ではないか。都心(大阪、東京)から見て北東に位置してゐる。県南部は都心(大阪、東京)のベッドタウンである。遠距離通勤をしてゐる人もゐる。県北部からだとさすがに都心部まで遠すぎるといふ、この微妙な距離感がそっくりだ。県内に大きな湖(琵琶湖、霞ヶ浦)があるといふ点も共通してゐる。

・和歌山=千葉
 和歌山は千葉かな?都会度から言へば全然千葉の方が上で、都会度といふ観点から釣り合ひをとるなら京都を千葉に対応させた方がいいのかもしれないが、房総半島の部分に着目すれば、のどかな田舎ぐあいも和歌山と千葉でわりと釣り合ひがとれるのではないだらうか。大阪湾を中心にして左に45度回転させると、兵庫・大阪・和歌山の並びは神奈川・東京・千葉の並びに見える。県が南の海に突き出してゐて海岸線が長いところなどが似てゐる。都心(大阪、東京)に隣接してゐるけれど、県自体の面積が大きいために都心まで行くのに時間がかゝるところなども似てゐる。

・京都=?
 さて、京都が残った。京都は関東で言へば何県なんだらう。もちろん栃木や群馬ではない。「古都」といふ点に注目すれば神奈川県の鎌倉が対応してゐる気がするが、市単位の対応ならそれでもよいが、県単位の対応ではそれではバランスが悪い。「兵庫が神奈川なら、京都は千葉だらう」といふ見方もあらうが、なんと言ふか、京都は多くの日本人にとって別格なのだ。東京人の私から見ても京都は別格だ。とても千葉で対応できる気がしないのだ。だとすると、京都は京(みやこ)なのだから、同じ京(みやこ)である東京と対応すると考へるのが自然だ。つまり、大阪と京都が合体したものが東京である、と考へればいいことになる。しかし、関西の一県を関東の一県に対応させるといふ一対一対応ルールだとすると、すでに大阪=東京となってゐるので、京都はあぶれることになる。京都に該当する県は関東にはない、としておかう。


 といふわけで、無理やり関西を関東に当てはめてみた。かなり無理があると思へるケースもあるが、結構そっくりだと思へるペアもある。関西と関東では元々、県の数が違ふので、栃木と群馬は該当する県はない。
 関係ないけど、関西の人が「栃木と群馬はどっちがどっちだったか覚えられない」と言ふのをよく聞く。これは関西にそれに類似する県がない、といふことも一因なのではないか。

 以上、これは単なる思考実験といふか遊びです。田舎だとか書かれててもあまり真剣に受け取らないでください。


【関連記事】
 以前書いた、北陸・北欧相似説はこちら→「IT力に見る北陸と北欧の共通性」


好きなものがない私

 日頃から、「非マニア」「非オタク」を自称し、あちこちのプロフィール欄に「無趣味」と書いてゐる私。本当は履歴書の趣味の欄にも無趣味と書きたいぐらゐだ。だってそれが本当なのだから。

 たゞ世の中には、私のやうにまったく趣味がないといふ人は少ないらしい。

 例へば、Twitterで誰をフォローするか悩む。普通はTwitterプロフィール検索などで、趣味のキーワードで検索し、自分と同じ趣味を持った人をフォローしたりするのだらう。
 私みたいに趣味が何もない人間はそれができない。しかたないので試しにTwitterプロフィール検索で「無趣味」と入れて検索してみたところ、「無趣味は多趣味」とか「多趣味すぎて無趣味」といふ人ばかり出てきた。どうやら本当に無趣味な人はやはりあまりゐないらしい。

 かつて何かにハマったことが一度もない。当然ながらマイブームなどといふものも過去になかったし、これからもないであらう。

 よくテレビや雑誌で、「好きな異性のタイプは?」といふ質問がされるのを見かける。もし私がこの質問に真面目に答へるとしたら「ない」と答へるしかない。好きな異性のタイプなんてない。ぢゃあ、誰でもいいの?と言ふとさうではない。嫌ひな異性のタイプならいくらでも言へる。百でも二百でも千でも二千でも言へる。だが“これが好きだ”といふタイプはない。

 昔、私淑してゐた先生が
 「『おいしい店をご存じですか』ってよく聞かれるんだけど、“この店がおいしい”なんて言へないんだよね。“この店が不味い”って店ならいくらでも言へるんだけど」
と言ってたのを聞いて、深く共感したのを覚えてゐる。「おいしいかどうかなんて分からない。でも不味いってことははっきり分かる」とその先生は言ってゐた。

 私は自炊をしてゐるので、原則的には毎日自分の好きなものを食べられるはずだが、では「毎日好きなものを食べてゐるのか」と問はれれば、やはり「そんなことはない」と答へる。嫌ひな食べ物ならたくさんある。その嫌ひな食べ物以外の食べ物を毎日食べてゐるのである。“好きな食べ物”といふのはない。

 “好きな音楽”もない。このジャンルの音楽が好きだとか、このミュージシャンの音楽が好きだとか、ない。私は日ごろ音楽を聴くけれども、このジャンルの音楽は嫌ひ、とか、このミュージシャンは嫌ひ、といふのはあるので、その嫌ひな音楽“ではない”音楽を聴いてゐるだけである。

 好きな絵画も好きな本も好きな映画も、ない。たゞ「かういふのが嫌ひだ」といふのははっきりしてゐるので、さういった嫌ひなものを避けて鑑賞してゐる。

 オタクとまではいかなくても、普通に趣味を持ってる人が羨ましいと思ふことはよくある。共通の趣味を持った人どうし話が合ふのだらう。たとへどんなにマニアックな趣味であったとしても趣味があるかぎり誰かと投合できる可能性がある。しかしまったく好きなものがない私は人と話しが合った試しがない。せっかくTwitterなどをやってゐても誰とも話が合はないといふのは淋しいものだ。

 だが、私の「好きなものがない」といふこの姿勢も、一つのポリシーなのだらう。さう思ってゐる。今までもそれを貫いてきたし、今さら変更することもないだらう。

 堅苦しく考へるのがいけないのかもしれない。そのときちょっとでも“いいな”と思ったのなら「好き」と言ってしまへばいいのかもしれない。
 しかし私は「好き」と言ひきってしまふことを恐れる。「好き」といふ嗜好は、人間の生き方の信念や精神の一端が現れてゐるやうな気がするからだ。好きな異性のタイプを聞くと、なんとなくその人の人柄や人間としての器量までもが分かってしまふ気がする。さういふことってないだらうか。例へば、せっかくの格好いい芸能人が好きな異性のタイプをしゃべり出した途端、その内容がひどく残念だったり趣味が悪いと思はれたりして、イメージダウンすることってないだらうか。

 さうしたことまで含めて真剣に考へると、やはり迂闊に「これが好き」とは言へなくなるのだ。


「パワースポット」ブームに思う

 最近、テレビなどで「パワースポット」といふ聞き慣れない言葉をよく聞くやうになった。

 テレビでも雑誌でもネットでも、見ない日はないといふぐらゐ取り上げられてゐる。

 パワースポットとは何ぞ。
 どうやら占ひで「ご利益のある場所」といふほどの意味らしい。
 それにしても、日本語には昔から「霊験あらたかな」といふ美しい言葉があるのに、なぜ「パワースポット」などといふカタカナ言葉を使ふのだらうか。

 ブームになってゐるのは、2009年末ぐらゐかららしい。

 明治神宮の御苑の中に「清正井」といふ井戸がある。この井戸が、その「パワースポット」として最近注目を集めてゐるらしい。なんでもこの井戸にお参りしてケータイで写真を撮って待ち受けにしておくとご利益があるといふ噂が広まっており、今は連日、3時間待ちとも5時間待ちとも言はれる行列ができてゐるらしい。

 清正井は私は思ひ出がある。
 明治神宮の近くの学校に通ってゐた私は、学校帰りによくこの井戸に立ち寄って、その清冽な水で喉を潤したりした。当時は並んでゐる人など誰もゐなかった。御苑の中自体にほとんど人がゐなかった。ケータイを持ってない私はもちろんそれを撮影して待ち受けにしたりなどしなかった。本当に当時は清正井なんて誰も知らなかった。知る人ぞ知るといふ感じの場所だった。

 それが今は3時間待ちの長蛇の列。こんなに多くの人が訪れたら、環境も悪化するかもしれないし水質も劣化するかもしれない。私はもう二度とこの井戸を訪れることはないだらう。あるいは30年後か40年後、ブームのほとぼりが冷めたころに、また訪れる機会があるかもしれない。

 清正井がこゝまで有名になったのは、2009年末にある占ひ芸能人がテレビで紹介したことがきっかけらしい。そしてその後、テレビやネットで何度も紹介されて「ご利益」の噂が広まって行った。

 つくづくテレビやネットが恨めしい。特にテレビは、まだまだネットよりも大きい影響力がある。
 余談だが、家の近くに普段閑古鳥が鳴いてゐる定食屋がある。その平凡な定食屋がある日テレビで紹介されたのだが、翌日に行列ができてゐて驚いた。

 最近のウェブのトレンドである「ソーシャル」といふ言葉には「共有」といふニュアンスもあるらしいが、私はどうもこの「共有」が苦手だ。「とっておきのおいしい店」なら、なほさらのこと、なぜ人に教へるのか理解できない。人が殺到してしまったら、自分がその店に行くことができなくなるではないか。
 これはケチとかさういふ問題ではない。本当に親しい人には教へてもいいのだ。たゞ、マスメディアを使って不特定多数の人に教へるべきではないといふ意見である。

 だが、人気ブログを書いてる人などは、「情報を出し惜しみすべきではない」と言ふ。たくさんアウトプットすれば、それだけたくさん人が集まってきて、インプットしてくる貴重な情報も増えてくると言ふのだ。
 なるほど、その言葉を聞けば、確かにこのブログがアクセス数が少ない理由がわかる。しかし残念ながら、私はアクセス数は増やしたいけれども知りたがりではないので、そんなにたくさんの情報を得たいとも思はないし、「とっておきのおいしい店」を教へてもらひたいとも思はない。

 私はたゞ静かに、今自分の持ってゐるものを大切にしたいと思ふだけだ。その持ってゐるものとは、自分に何か関聯したものでなければならない。私は学生の時分、わざわざ明治神宮まで出かけて行ったわけではない。自分の学校の近くだったから立ち寄ったのだ。
 私は自分のテリトリーを守りたい。あれもこれもと興味の赴くまゝに手を出して他人の領域を荒らしたくない。

 人々の静かな暮らしを蹂躙するのにテレビやネットが貢献してゐるのだとしたら、私たちはこれらの道具の使ひ方を今一度再考するべきではないか。