暫定龍吟録

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2010年08月の記事

8月15日に他人の家の墓参りに行ってきた

 お盆なので、墓参りに行ってきた。

 先祖の墓に参らないで、他人の家の墓に参ってる不孝者は、私ぐらゐだらう。
 先祖の墓はあまりに遠すぎる。家の近くには墓がたくさんあるので、近所の他人の墓に参ることが多い。

 今日8月15日は、お盆でもあるが終戦記念日でもある。
 毎年、この日は閣僚が靖国神社に参拝するかどうかが問題になる。今年は菅内閣が、閣僚全員参拝しないといふ方針だったので、あまり問題になってゐないやうだ。このまゝ参拝しない年が続けば、靖国問題は「問題」として語られることはなくなっていくだらう。

 私は靖国神社には子どものころから何回も行ったことがある。子ども心に、靖国神社の境内にゐる鳩はなぜみんな白いんだらう、とずっと不思議だった。

 先日、小菅信子『14歳からの靖国問題』を読んだ。靖国問題についてわかりやすく書いてある。

14歳からの靖国問題 (ちくまプリマー新書)14歳からの靖国問題 (ちくまプリマー新書)
(2010/07/07)
小菅 信子

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 「靖国問題」といふのは複雑な問題でいろいろと問題点があるやうだが、大きくは「政教分離」と「A級戦犯合祀」が問題とされてゐるやうだ。

 マスメディアでも靖国神社ばかりが大きく取り沙汰されて、日本中の、あるいは世界中の多くの人が靖国神社のことは知ってゐると思ふが、すぐ近くにある千鳥ヶ淵戦没者墓苑のことがあまり知られてゐないのは残念だ。私の地元の東京都戦没者霊苑はおそらくもっと知られてゐないだらう。
 私は千鳥ヶ淵戦没者墓苑にも参ったことがあるし、東京都戦没者霊苑の方は地元なので子どものころからよく知ってゐる。
 これらは宗教施設ではないので、「政教分離」といふ点から問題にされることはないだらう。

 あともう一つのA級戦犯の問題であるが、靖国神社に祀られてゐるのは「霊」であって「遺骨」はこゝにはない。
 故人を参る方法としては霊を参るだけでなく、「骨」すなはち墓を参るのも一般的である。

toujouke 2

 A級戦犯として最も有名なこの人も、靖国神社はマスコミやいろいろな人が集まって騒がしいかもしれないが、こゝなら静かに眠れるだらう。

 実際、私は8月15日の午前11時ごろ訪れたが、誰もゐなかった。行く前は、8月15日だし墓の周囲にたくさんの人がゐたらどうしようと思ってゐたが、行ってみたら私の他には誰もゐず、花も供へられてゐたが新しいものではなかった。
 子どものころから何度も見てゐるこの墓だが、この真夏の暑い最中に見ると、また違った感じを受ける。

 中国や韓国などの儒教の思想が強い国では、一度、悪人と決めつけられた人は死後も罵りを受け、その墓には唾を吐きかけられる、と聞いたことがある。
 戦後、全日本国民から激しいバッシングを受けたこの人だが、このきれいな墓を見るかぎり、唾を吐きかけられたり墓石を傷つけられたりはしてゐないやうだ。日本中、世界中にこの人のことを憎んでゐる人が今もたくさんゐるはずだ。本来なら墓石を倒されたりしてもをかしくないくらゐだ。だが、墓に唾を吐いたりしない日本では、かうして穏やかに眠りにつけてゐるのだらう。

 そのあと、昼食をとるために入った定食屋でちゃうど正午を迎へ、夏休みの家族連れなどで賑はってゐた中、一人で黙祷。

 気温35度の猛暑の中での墓参りだった。





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ナイチンゲール没後100年に思う

nightingale.jpg

 今日は、フローレンス・ナイチンゲールの歿後100年の日。
 どれだけ多くの人が話題にしてるだらうかと思って検索してみたけれど、日本語のブログでは話題にしてる人は少ないやうだった。

 ナイチンゲールといふと、私が子どもの頃は、何した人かよく知らないけど、「クリミアの天使」とか「白衣の天使」などと呼ばれてる「天使のやうな素晴らしい女性」といふ漠然としたイメージしかなかった。
 大人になってからは、看護師としてよりも統計学者としての側面から見ることが多かった。

 しかし、ナイチンゲールといふ人は知れば知るほど、「天使」などではなく、とても「冷徹」な人だったのではないかと思へてくる。あらためて顕彰するまでもなく、ナイチンゲールの“冷徹さ”は現代人には広く受け入れられると思ふ。

 「看護」といふ、とても泥臭くて人間的なものと、「統計」といふ、人間を数量的に扱ふ冷静的なものが、彼女の中ではどのやうに結びついてゐたのだらう。一見、相反するこの二つのものがナイチンゲールの中では結びついてゐた。といふよりも、泥臭いものを“冷徹に”処理してゐた、と見ることもできる。

 ナイチンゲールは人々を納得させるために統計を使った。わかりやすいグラフを発明し、自説に説得力を持たせた。 
 現代は、ネットの世界で論争が起きたりすると、すぐに「証拠となるデータは?」と言ふ人が多い。そして統計的な数値を示した表やグラフを載せると簡単に納得する人も多い。少し眉唾なグラフであったとしてもそれを堂々と提示されると、簡単に「なるほど」と感心してる人を多く見かける。
 統計は、万人に「わかりやすい」といふ良い一面がある一方で、工夫次第では簡単に人を欺くことができるといふ悪い一面もある。
 統計を多様して、非常に“論理的に”自説を展開してゐるブログ記事が人気を集めたりしてゐる。かうした現代のネット上における“賢い”やり方がナイチンゲールから始まってゐるのかと思ふといろいろ考へさせられるものがある。

 ところで、最近、病院に行って驚いたことがある。診察室に入っても医者が私の方を見ないでずっとPCの画面ばかり見てゐるのである。
 私が子どもの頃病院に行ったときは、診察室に入ったらすぐに医者は目を下に押し広げたり、「ベーして」と言って口の中を見たり、胸に手を当ててトントンとしたりした。さういふ行為が医学的にどれだけ価値がある行為なのか知らないが、今の医者はさういふことはしない。私が入って行っても私の顔を一瞥もしないで、PCの画面を見ながら「どうしましたー?」と聞く。患者の顔色も見ないで一体何が分かるのだらうか。

 PCの画面にはいろいろなデータが表示されてゐるのだらう。その患者の病歴がわかるやうになってゐるのかもしれないし、ある薬がその病気の患者にどれだけ有効か、といふ統計的な数値が表示されてゐるのかもしれない。また患者の方でも、「この病気はこれぐらゐの確率で治ります」とか「この薬はこれぐらゐの割合で有効です」といったことをPC画面上のグラフを見せられながら説明されたら、納得しやすいのだらう。
 一方で、患者の顔を見るといふことは、まさに「診る」ことだ。看護師ならば「看る」がこれに当たるだらう。

 今、ナイチンゲールが生きてゐたら、PCの画面を見るだらうか、それとも先づ患者を見るだらうか。


優位な立場にいてもデカい態度を取ってはいけない

 この世で一番嫌ひなタイプの人は誰ですか?と問はれたら、「態度がデカい人」と答へる。
 何が嫌ひかって、態度がデカい人間が一番嫌ひである。

 先日、年金事務所に行ったら、対応した50代くらゐの男性職員が、えらく腰の低い、と言ふか、めちゃくちゃ謙虚な姿勢の人で驚いた。愛想笑ひをしながら、いかにも「お客様」である私に一生懸命気を遣ってゐる感じがしたし、「なんでも叮嚀にご説明いたしますから、怒らないでね」といふ感じが伝はってきた。たまたま私に当たったその人がさういふ性格だったのかもしれないが、なんとなく年金事務所全体から、さういふ低姿勢が伝はってきたのだ。入口の一番目立つところに、「私たちの至らない点や改善点などがありましたらお申し付けください」といふお客様カードが置いてあったりもしたからだ。
 数年前に年金問題が国レベルでゴタゴタになったときに国民からさんざん批判を浴びた。それ以来、おそらく年金事務所には毎日たくさんのクレームの電話などがあるのだらう。年金事務所側としても元々は自分たち側の不手際から起こった問題に端を発してゐるので、平身低頭するしかないのだらう。

 職員、あるいは社員と、お客様との間に「強弱」あるいは「上下」の関係が一度できてしまふと、もうずっとその関係性が固定されてしまふ面がある気がする。そしてその関係性に乗っかってしまふ人が多い気がする。

 一方、同じ公共性の高いところで、私が知ってるかぎり態度がデカいなあと思ふのは、ハローワークの職員である。こちらは日本年金機構と違って国家公務員だけれども、以前世話になったときは、強圧的で態度のデカい、タメ口で話す職員にたくさん出会った。そこを訪れる人を見下してゐる感じの人が多かった。
 思ふに、無職の人といふのは精神的にも経済的にも追ひ込まれてゐる人が多いので、弱々しい態度で訪れる人も多いのだらう。それでハローワークの職員は「無能なおまへらのためにこっちはわざわざ仕事してやってんだよ」といふ強気な上から目線な態度になるのかもしれない。

 郵便局員と銀行員は、私感だが、その中間ぐらゐ。態度がデカいわけでもなく、極端にへりくだるわけでもない感じ。

 あと、私は関西に行ったことがないので、あくまで推測だが、JR西日本の社員はJR東日本の社員に比べて態度が謙虚なのではないだらうか。福知山線の事故以来、市民から会社の体質をさんざん批判されて、もう怒られ体性になってゐるのではないか。福知山線の事故とは関係のないちょっとしたトラブルがあったときも、客から「JR西は本当に福知山線事故のときのことを反省してゐるのか!」と怒鳴られれば、恐縮するしかない。
 JR東日本は最近そこまでの大事故を起こしてゐないせゐか、客に対してそこまで萎縮してをらず、やゝ態度が大きい社員が多いと感じる。毎日電車を利用してゐる私の感覚では、東京メトロの社員よりもJR東日本の社員の方が態度がデカい。

 もう何年か前の話になるが、NHKが一聯の大きな不祥事を起こして問題になったとき、全国で受信料の不払ひが相次いだことがあった。
 私はこの時、受信料を手動で払ってゐた。そして、今度集金員のをぢさんが来たら、やさしい言葉をかけようと思ってゐた。なぜなら国民はNHKの弱みを握ってゐる。集金員が来たら、「あんたのところはあれだけの不祥事を起こしておきながら、よく金を取りに来れるね」などと玄関先で言ふ人が全国で相次いでゐるだらうと思ったからだ。集金員のをぢさんはNHKの不祥事とはほとんど何の関係もない。不祥事は上層部の人間の問題である。それなのに末端の集金員のをぢさんが、各戸口に立つたびに、その家の人からクレームやら嫌味やらを言はれまくらなければならない。
 私はそんなNHKに対するクレームの嵐が全国で吹き荒れてゐる最中に集金に来たをぢさんに、「大変でせう」と労ひの言葉をかけた。するとそのをぢさんはホッとした表情を見せ、珍しく自分の苦境を理解してくれる人と出会ったと思ったのか、いろいろと自分の苦労話や身の上話などを始めた。1、2分ぐらゐそんな話をしてから少し嬉しさうな顔をして去って行った。

 どうして関係性は、強弱や上下で固定してしまふのだらう。そして一旦相手の弱みを握ると、ますます強い態度に出たがる人がゐる。
 
 職員や社員の側にもさういふ態度を取る人がゐるし、国民や客の側にもさういふ態度を取る人がゐる。自分が相手に対して優位に立ったときに、その立場に嵩をかけてデカい態度を取るべきではない。特に相手の弱みを握ったときに、鬼の首を取ったやうに得意になってふんぞり返るべきではない。

 世の中には、どちらかが一方的に偉い人で、どちらかが一方的に悪い人である関係なんて、そんなに無い。いつ上下は逆転するかも分からない。今日まで優位にゐた人が、明日大きな失敗をして謝罪する側にまわらなければならなくなるかもしれない。

 妙にへりくだったり極端に謙虚である必要はないけれども、デカい態度を取ることは殊に戒めなければならない。特に相手が低姿勢で来た場合は自己の態度を冷静に省みる注意が必要だらう。


苦しんでる人がいたら社会が助ける

 先日、大阪のマンションで、置き去りにされた幼児2人が遺体で発見されるといふ事件があった。

 この事件について、ちきりんさんが書いてる文章を読んだ。

 誰が何をネグレクト? - Chikirinの日記

 この文章にはたくさんのコメントが付いてゐて、中でも目に付いたのが、「なぜ母親ばかり責められるの?父親の責任は?」といふものだった。この事件を母子家庭の問題として捉へてゐて、「離婚した父親にも責任がある」とか「母親は悩みを一人で抱へ込まないで社会に相談すればよかったのに」といふ声が多かった。

 これが男女逆だったらどうだったらう。父子家庭で父親が子どもを虐待して殺してしまったときに、「なぜ父親ばかり責められるの?離婚した母親の責任は?」、「この父親は一人で悩みを抱へ込まないで誰かに相談すればよかったのに」といふ声が出てゐただらうか。
 父親なら経済力がある、と言ふ人もゐるかもしれないが、それは昔の話だ。今の若い世代の男性はワーキングプアも多く、男だから経済力があるなどとは言へない。

 これは「母子家庭の問題」ではない。「女手一つで子育てするのは大変」などといふのは戦後か高度経済成長期ならともかく、現代においては「男手一つで子育てするのは大変」といふことと大きな差はない。
 大切なのは、苦しんでる人がゐたら社会が助ける、といふことであって、この事件の場合、女だから男だからといふのはあまり関係ない。
 
 それに、この事件は単に経済力の問題だけではなささうだ。精神的な問題や、誰にも相談できなかったといふ人間関係の希薄さの問題など、さまざまな要因が絡んでゐると思はれる。

 ちきりんさんが言ふやうに、行政や社会の仕組みを整へて、かうした悲しい事件を起こらないやうにすることが大切なのだと私も思ふ。
 でも今回のやうに「ちゃんと聯絡したのに行政が何もしてくれなかった」といふ場合はどうしたらいいのだらう。

 マンションの住民の多くが子どもの泣き声を聞いてゐたさうだ。そして、あの家は子どもだけで住んでるのでは?といふところまで感づいてゐる人も何人もゐた。それなのに、誰も助けてやれなかった。都会特有の、あるいはマンション特有の人間関係の希薄さがあったのだらう。
 それに加へて最近は、「プライベート」や「プライバシー」といったことが喧しく言はれるため、他人の家に行きづらい。行政が二の足を踏むのもプライベートにずかずかと入り込んでいくわけにはいかないと思ってゐるからだ。
 それともう一つ、「防犯」や「セキュリティ」の進歩のため、物理的な障碍も出てきてゐる。オートロックのマンションだったら部屋に近づくことさへできない。

 本来なら、小さい子どもが置き去りにされてゐるかもしれないといふ心配があるのだったら、ドアを蹴破ってでも安否を確認しに行くべきなのだ。プライベートがどうかう言ってゐる場合ではない。
 だが、さういふことができにくくなってゐる社会になってゐることを私は憂慮する。

 「社会が助ける」といふ場合の社会とは、もちろん国や行政のことでもあるけれども、「近所の人」も「都会」も「マンション」も「プライベート」も「セキュリティ」も社会である。
 さうした観点から見れば、今の社会は今回の事件のやうにギリギリのところで苦しんでゐる人を救へない社会のやうな気がする。

 「自己責任」といふ言葉は当たらない。命を落としたのは母親自身ではなくて子どもだからだ。この母親には責任がある。そして問題がある。「どうしてこの母親は誰かに頼らなかったのか」といふ疑問は当然出てくるだらうが、問題のある母親にそれを言っても詮ないことだ。それより「どうして周囲の人間は助けてやることができなかったのか」が問はれなければならない。

 社会が、私たちが助けなければいけないのだ。「自己責任」といふ言葉の下にこれ以上苦しんでる人が犠牲にならなければならないのだとしたら、私はそんな世の中は御免だ。



(2010/08/03追記)
 「狐の王国」のKoshianさんが似たことを書いてました。

それでも子育ては社会で取り組むべき - 狐の王国