暫定龍吟録

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2010年12月の記事

アサンジvs.ザッカーバーグ

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 米『タイム』誌は、2010年の「今年の人」にFacebookの創設者マーク・ザッカーバーグ(Mark Zuckerberg)を選んだ。
 読者投票で1位に選ばれてゐたのは、Wikileaksの創設者ジュリアン・アサンジ(Julian Assange)だったが、タイム誌の中の人が選んだのは、読者投票では10位に選ばれてゐたザッカーバーグだった。

 これを受けてネット上では「納得いかない、ザッカーバーグは2009年の人ならわかるけど」といったやうな声が多く見られた。
 Facebookが日本よりだいぶ以前から普及してゐた米国では「2007年の人の間違ひぢゃないのか」といふ皮肉が多く聞かれた。

 どちらが「2010年の人」に相応しい人物だったか。
 たしかにザッカーバーグに「パーソン・オブ・ザ・イヤー」を与へるのは少し遅すぎる気がする。しかしいづれこの男に与へられなければならなかった。2007年から2009年までは与へ逃してゐたのだ。

・WikileaksとFacebookの相違点

 アサンジとザッカーバーグに対してその人物像を評価するとき、私は正確に評価できない。この二人に会ったこともないからだ。あくまでネットで見聞きする範囲での私の勝手なイメージでしかない。

 私はこの二人を似たやうな人物だと思ってゐた。コンピューターに強い人。子どもの頃からコンピューターが得意で、天才的ハッカーであり天才的ギークであった。ITの力を使って世界を変へようとしてゐる。そして今日実際、世界に大きな影響を齎してゐる。
 しかし最近になって、この二人は随分と性格を異にするのではないかと思ふやうになった。

 例へば、二人が作った有名なウェブサイトは、少しその性格を異にしてゐる。

 ウェブ2.0のオープンな世界は終焉するのか?:日経ビジネスオンライン

 海部美知氏は上記記事の中で、オープンな「Web2.0」の時代が終はり、ネットが「クローズド」に向かってゐると指摘してゐる。

 私には、アサンジのWikileaksが「オープン」を志向してゐるのに対し、ザッカーバーグのFacebookは「クローズド」であるやうに見える。
 2004年頃、日本でmixiが流行ってゐると聞いた私はmixiの中を見てみたかったが、誰からも招待されない私はmixiの中を覗ひ見ることができなかった。
 mixiもFBもSNSは基本的に会員登録しなければ中を見ることができないクローズドな世界だ。

・アサンジとザッカーバーグの相違点

 この二つのウェブサイトにさうした大きな相違点を感じるとともに、アサンジとザッカーバーグといふ二人の人物についてもまた相違点を感じる。
 もちろん、Wikileaks=アサンジ、ではない。WLは好きだけれどアサンジは嫌ひだ、といふ人は結構ゐる。

 アサンジには政治信条がある。精神があり、思想があり、主義主張があり、イデオロギーがある。「反権力」を実行していく「活動家」といふイメージがぴったりくる。
 一方、ザッカーバーグにはさうしたものが感じられない。ザッカーバーグを見てゐても、主義主張も信条も思想も感じられないのだ。FBを作るときに「反権力」といった気骨のやうなものが多少はあったかもしれないが、彼の行動原理は基本的に「(ギーク的に)面白いか面白くないか」であるやうな気がする。
 詳しくはわからないが、FBを作る過程で、政治思想を持ってゐたのはクリス・ヒュージ(Chris Hughes)であり、FBの運営思想・経営思想を主に持ってゐたのはエドゥアルド・サヴェリン(Eduardo Saverin)なのではないだらうか。
 ザッカーバーグはそれが面白さうであれば動くし面白くなければ動かない。FBを作ったのは、自らの思想や信条を具現化するためではなく、単にそれが「面白かった」からだ。

・ザッカーバーグは"のらりくらり型"の天才

 私は、ザッカーバーグを見てゐると、日本の西村博之を思ひ出す。スケールは違ふかもしれないが何となく似てゐる。顔ではない。
 皆がきちんとしたスーツを着てくるフォーマルな場所にも、西村博之は私服で素足にサンダル、といふ格好で現れる。一方、ザッカーバーグもフリースにジーンズ、お気に入りのアディダスのサンダル、といつもラフな格好をしてゐる。
 ザッカーバーグはベーコン入りのホットドッグをこよなく愛し、西村博之はめんたい味のうまい棒をこよなく愛す。
 常に時代の斜め上、もしくは斜め先を行くが、その行動原理は自分にとって面白いか面白くないか、である。
 のらりくらりとした態度で周囲の人を苛立たせる。真面目に論争を挑まうとした者は痛い目をみる。よく言へば、意固地でなく、飄々として肩に力が入ってをらず、柔らか頭である。FB共同創業者のサヴェリンは結局、そののらりくらりとした態度に付いていけなかったし、気鋭の経済評論家であった勝間和代は西村博之と対談したとき、そののらりくらりとした態度に苛立ち口を滑らせ、最終的に謝罪させられるまでになった。
 多くの人から訴訟を起こされ、それに対してまともに相手してないところも似てゐる。

・アサンジのやり方の危ふさ

 アサンジは、2010年、Wikileaksで米国の機密文書を次々と公開し、世界を騒然とさせた。
 アサンジも斜め上を行くタイプの天才だ。ドメインを停止されても別のドメインがちゃんと用意されてあり、サーバーを停止されてもミラーサーバーを用意してゐる。自身が身柄を拘束されて物理的にネットにアクセスできない状況におかれても、自動的に文書を公開する仕組みを用意してゐる。常に相手の出方を上回ってゐる。

 しかし私はアサンジのやり方、すなはち彼の活動の仕方やWLの在り方に一種の危ふさを感じてゐる。

 アサンジは少年の頃から天才ハッカーとしての才能を持ち、10代の頃にはすでにいくつもの大きな組織への侵入を繰り返してゐたと言はれてゐる。
 しかし現在のWLの活動はそのやうなハッキング行為に依ってゐるのではない。ハッキングによって米国政府の機密文書を盗み出してゐるわけではない。内部告発、すなはち内部の人間からの情報提供に依ってゐる。

 私は以前、米国の元天才ハッカーで現在はネットセキュリティの専門家だといふ人の話を聞いて印象に残ってゐる話がある。それは、どこかのサイトの内部に侵入する場合、正面からセキュリティを破るよりも、人を騙す方が簡単だ、といふ話だった。つまりパスワードはそれを知ってゐる人の口から直接聞く方が早い、といふことだ。
 アサンジ少年がコンピューターをいぢってゐた頃だったらハッキングも容易だったかもしれないが、これだけ高度にネットセキュリティが発達した時代にあって、正面突破をはかるのは至難の業だ。それぐらゐのことはアサンジも当然わかってゐるだらう。
 WLは、FBの共同創業者たちの集まりよりも、もっとずっと信条や主義といった志を同じくする仲間たちの手によって成り立ってゐる。WLの協力者たちは基本的には志や精神といった結束で結ばれ、最終的には個人と個人の信頼関係といふところにその礎が置かれてゐる。
 WLがその活動のやり口としてゐる「内部告発」といふ"正義の裏切り"は、同時にWLといふ活動グループ自身にも内在してゐる。WLもまた常に内部崩壊の危機に晒されてゐるのだ。
 中国史を見ても日本史を見ても世界史の教科書を見ても、さうした人間と人間の裏切りの話はたくさん出てくる。
 私がWLに危ふさを感じるのは、皮肉にもその成立構造があまりにも個人と個人との信頼関係に基礎を置き過ぎてしまってゐるからだ。アサンジが今のやり口を進めていくならば、さうした構造はますます強化される。人と人との間に疑心暗鬼が生じ、人間は果てしない心理戦に追ひ込まれる。すでにアサンジ自身が今まで自分が最も信頼してゐた人、最も親しくしてゐた人に裏切られる恐怖に怯えてゐるのではないか。
 もし米国政府がアサンジを敵視してゐるとすれば、間違ひなくさうした協力者や近親者への懐柔策を仕掛けてくるだらう。

・アサンジ対ザッカーバーグ

 アサンジは、2010年の一年間の活動を通じて、あらためて、現実の世界で活動していくのに必要な基本的なサービスの一つ一つが、いかに米国企業のものばかりであるかといふことを嫌といふほど味ははせられただらう。
 PayPalしかり、Amazonしかり、VisaもMasterCardもさうだった。
 以前、WLにドメイン問題といふ小さな問題が起こったが、そのドメインでさへ、大元はICANNといふ米国の団体が管理してゐる。そしてICANNは米商務省の傘下にある。
 いくらアサンジが斜め上を行く天才であったとしても、これだけの基本的なサービスやツールの使用を制限されれば、いくらか行動は制約されるだらう。

 米国政府がアサンジと敵対してゐるとしたら、米国政府は、できるだけ多くの米国企業を味方につけたい。
 できればGoogleに、そして今一番味方につけたいのはFacebookではないだらうか。

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 2010年11月30日に、私は、ブッシュ前大統領とザッカーバーグが対談してゐるのを見た。ブッシュから近づいたのか、ザッカーバーグから接近したのかは分からない。この両者の対談が意味するものは一体何だらうか。
 ブッシュがどれだけ現在の政界に影響力を持ってゐるか知らないが、おそらく多くの政府関係者が、この若き天才と仲良くしたいと思ってゐるはずだ。ザッカーバーグ(とFB)が味方に付いてくれれば、これほど心強いことはない。

 かうなると、"アサンジ対ザッカーバーグ"といふ構図が見えてくる。
 実際にはさうはならないであらうが、もしこの二人の天才が直接対決したらどっちが勝つのだらうか、といふことを私は考へてみた。

 それは、やはりザッカーバーグが勝つのではないか。

・天才の掌の上

 なぜなら、Facebookはプラットフォームだからだ。多くの人がその上で生活し、5億人以上の人々を支へて繋げる、がっしりとした基盤を持つ。脆弱な基盤を持ち、内部崩壊・空中分解の危機に常に晒されてゐるWikileaksとは網の結び目の堅さが違ふ。

 私たちは毎日自由にネットの世界を遊んでゐるつもりでゐて、その実は、現代日本のネットユーザーの多くは、西村博之やザッカーバーグのやうな"サンダル履きのあんちゃん"たちの掌の上にゐたりする。

 そのザッカーバーグでさへ、ティム・バーナーズ=リーの掌の上にゐて、バーナーズ=リーはフォン・ノイマンの掌の上かもしれない。
 
 機械が嫌ひでネットが嫌ひで、未だに年賀状を一枚一枚、毛筆の手書きで書いてゐるやうな私みたいな古風な人間は、かうした天才たちに付いていけない。付いて行かなかればいいではないか、と思ふかもしれないが、付いて行かないまでも、かうした一部の天才たちに振り回されるのは嫌なのだ。いくらコンピューターが嫌ひだと言っても、21世紀に生きてゐる以上、まったくコンピューターに触らずに生きていくことはできない。自分を取り巻いてゐる環境に一人で抗ふことはできないのだ。

・小さくて大きな不安

 アサンジとザッカーバーグとどちらが好きか、と問はれたら、私なら「どちらも好きではない」と答へるだらう。

 (政治的な意味ではなく)保守的な傾向のある私は、新しいことに対しては反発を感じやすい。
 私は未だに、もしフォン・ノイマンがゐなかったら、もしロバート・オッペンハイマーがゐなかったら、もしヘンリー・フォードがゐなかったら、もしトーマス・エジソンがゐなかったら、といふ世界を夢想することがある。
 多くの人は、そんなのは馬鹿馬鹿しいことだと言ふだらう。「エジソンが生まれてゐなかったとしても、いづれ別の誰かが電気を発明してゐたさ」と。確かにその通りだ。しかし、それならなほさら「エジソンが」電気を発明する必要はなかった。もし私がエジソンと同時代に生きてゐたら、99%の汗を流してゐるエジソンに向かって「もうちょっと寝たまへ」と言っただらう。

 これは、世界を動かす力を持った天才に対する、小さな凡人の大きな不安なのだ。



 皆さんは、J.アサンジとM.ザッカーバーグの二人のどちらにシンパシーを感じますか。下記から投票してください。(投票すると結果が見れます。)






(おまけ)
 私が今回の記事を書くきっかけになった動画です。ジョーク動画なので真に受けないやうに。でもちょっと考へさせられます。





クルマ社会とパチンコ社会日本

 先日、秋葉原の書店の店頭で、『なぜ韓国は、パチンコを全廃できたのか』(若宮健著、祥伝社新書)といふ本を見かけた。
 そのことについてブログに書かうと思ってゐたら、すでに小飼弾氏が書いてゐた。

404 Blog Not Found:国辱 - 書評 - なぜ韓国は、パチンコを全廃できたのか

Amazonの在庫が一向に回復しないので楽天で買ったが、その楽天も今は在庫切れ。今調べた限りe-hon、7net、紀伊國屋Webにはまだあるようだ。


と書いてゐるが、私が数日前に書店に行ったときは普通に書棚に積み上がってゐた。小飼氏はリアル書店には行かないのだらうか。

 先づ、この刺激的なタイトルに惹かれて手に取った。

 韓国がパチンコ店を全廃できたことを日本で最初に報じたのが、この著者なのださうだ。
 韓国社会は以前、パチンコによる腐敗がひどく、パチンコ中毒者がたくさん出て大きな社会問題になったらしい。しかしその後、国を挙げての政策で国内からパチンコを一掃した。そして著者は、なぜパチンコは廃止されなければならないのか、なぜパチンコが「害」なのかを詳しく説いてゐる。

 そしてこの著者が最も力を入れて訴へてゐることは、どうして韓国にできたことが日本にできないのか、といふことだ。韓国にできて日本にできないのが悔しい、といふ著者の熱い気持ちが伝はってくる。

 さう言へば、韓国は数年前にもソウル市内の清流「清渓川」を復活させた。高速道路を撤去し、暗渠化された川を清流として蘇らせた。都心の一等地で不可能と言はれた大プロジェクトだったが、見事に成功させたのだ。
 翻って、我が日本の東京では、都心部に相変はらず高速道路が走り、川は暗くて汚いまゝだ。日本橋を訪れる若い人の中には、橋の上に架かってゐる高速道路が「日本橋」なのだと思ってゐる人もゐるとか。

 この本の著者は他にも、韓国に取材に訪れたときに感じた電車内での若者のマナーの良さについても書いてゐる。韓国の若者はシルバーシートに座らないとか、年上の人にさっと席を譲るとか。いづれも日本人が見習ひたいことだ。

 この本全体から私が感じたのは、著者の、昔の美しき日本を取り戻したい、といふ熱い思ひだった。

 いったいこの本を書いた若宮健といふ人はどんな気鋭の若手ジャーナリストなんだらうと興味を持って、著者プロフィールを見てみたところ、

1940年秋田県生まれ。ジャーナリスト。


と書いてあり、決して若くはないことがわかった。しかしその後に書かれてゐたプロフィールが特に私の目を引いた。

トヨタ自動車に19年勤務。営業マン13年の実績から、トヨタ本社より新車1000台販売の表彰を受ける。


と誇らしげに書いてあったのだ。

 私は、手にしてゐたその本をそっと棚に戻した。

 この著者は、パチンコの害悪を訴へてゐるが、戦後日本のモータリゼーションに伴ふ、騒音、公害、環境問題、「交通戦争」とまで呼ばれた交通事故死者の問題、日本の田舎の隅々にまで行き渡ったクルマ社会が齎す様々な問題、景観問題等を、どう考へてゐるのだらうか。

 日本は田舎に行けば行くほどクルマ社会だ。田舎の本屋は必ずと言っていいほど「本」と書かれた巨大な看板を掲げてゐる。あれはクルマに乗って猛スピードで走り抜けていくドライバーに気付いてもらふために、あゝなってゐるのだらう。
 日本の田舎はどこに行っても、さうした似たやうな醜い光景が広がってゐる。かうした問題を2004年に告発したのが、三浦展『ファスト風土化する日本』(新書y)といふ本だった。三浦展氏は、この本で、日本の田舎が地域固有の特性を失ひ、どこに行っても大型ショッピングセンター、ファミレス、パチンコ屋、といった似たやうな風景が並んでゐる醜さを批判し、かうしたものが田舎に住む人々の暮らしの在り方や家族の在り方、ひいては人間関係までをも変容させてしまってゐると説いた。

 私が住んでゐる東京の真ん中は、電車網が発達してゐてクルマは要らないはずなのに、東京でクルマの交通量が少ないなどといふこともない。

 世界中から観光客が訪れる古都京都も、烏丸通や四条通などのメイン通りを除けば、だいたいは細い通りで、どれぐらゐ細いかといふと、どの通りもちゃうどクルマ一台が通れるくらゐの幅に出来てゐる。クルマが通るたびに散策中の観光客が一斉に壁にへばりつくのは、よく見る光景である。
 あの「古都」京都でさへ、クルマ第一主義、クルマ優先社会なのだ。他の都市は推して知るべし。

 私には、クルマに汚染された日本社会とパチンコに汚染された日本社会は同じくらゐ醜く見える。


 とは言へ、「パチンコの病理」をこゝまで深く追及した本は他にないと思ふので、日本社会とパチンコの問題について考へる上では、価値のある本だと思ふ。


7歳の女の子が歌う「恋人たちのクリスマス」

 日本でもおなじみマライア・キャリーの有名なクリスマスソング「恋人たちのクリスマス」を、アメリカの7歳の女の子 Rhema Marvanneちゃんが見事に歌ひあげてゐる。

 歌ってるときの表情や仕種もかはいいが、ところどころ子音をはっきり発音できてゐないところがまた可愛いらしい。





 本家マライア・キャリーの歌をよく知ってる人はお気づきと思ふが、原曲の歌詞では「Baby, All I want for Christmas is you」となってゐるところを「Daddy, All I want for Christmas is you」と歌ってゐる。

 なぜ「Baby」ではなく「Daddy」なのか。
 それはもちろん、「Baby」といふ言葉を使ふには早すぎる年齢だから。
 ではなぜ、「Mommy」ではなく「Daddy」なのか。
 それは、お父さんがクリスマスプレゼントを持ってきてくれるから、だらうが、この歌を歌ってゐるレーマちゃんは、数年前にお母さんを亡くしてゐる。今の彼女にとっては、歌とお父さんがすべてなのだ。
 その辺の事情を知って聴けば、「私がクリスマスに必要なのはパパなんだよ」と歌ってゐるこの歌が、また違った感慨をもって聴こえるだらう。