暫定龍吟録

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2011年02月の記事

「断捨離」への疑問 -ゴミ屋敷の住人はなぜ記憶力がいいのか-

 昨年2010年の後半頃から「断捨離」といふ言葉を目にしたり耳にしたりすることが多くなった。

 「断捨離」とは何か。

(Wikipediaから引用)

ヨガの「断業」、「捨行」、「離行」という考え方を応用して、人生や日常生活に不要なモノを断つ、また捨てることで、モノへの執着から解放され、身軽で快適な人生を手に入れようという考え。単なる片づけとは一線を引くという。

断=入ってくる要らない物を断つ
捨=家にずっとある要らない物を捨てる
離=物への執着から離れる


 言葉の字面からして古くからある仏教用語のやうな響きだが、さうではなく、クラターコンサルタントのやましたひでこ氏が提唱し始めた言葉のやうである。

 世の中には、片付け上手な人もゐれば片付け下手な人もゐる。「片付け」は大きく分けて、「捨てる」ことと「整理する」ことの二つがあると思ふ。整理術や収納術の本は世にたくさんあるが、どんなに整理や収納が上手でも部屋の狭い空間に対して圧倒的な物量があれば片付けることは困難だ。「先づは捨てること」。そこに光を当てたのが断捨離の思想と言へよう。

 しかし、私は断捨離に関するいくつかの本を読んで考へるうちに、断捨離の思想についていくつかの疑問を抱いた。なので、こゝにその疑問を書かうと思ふ。

 断捨離を実行する人のことを「ダンシャリアン」と言ふらしいが、こゝでは断捨離的思想の持ち主や、それに基づく片付け上手な人、また片付けアドバイザー的な人も「ダンシャリアン」と呼ぶことにしよう。

・「魔界」の住人

 以前、NHKのクローズアップ現代といふ番組で断捨離が取り上げられてゐて、取材を受けてゐた女性が、自分の家の中に足の踏み場もないほど散らかった部屋があって、そこを「魔界」と呼んでゐた。
 それはまだ一つの部屋だからよいが、これが家全体に及ぶと「ゴミ屋敷」などと呼ばれることになる。

 私の家はそこまで散らかってゐないが、床の上に本が堆く積もってゐる。地震が起きたら雪崩がおきて本に埋もれさうである。私もまた片付けが上手な方ではないのだ。

 片付けられない人に対してダンシャリアンは「そんなところに本をたくさん積んでゐたら、どの本がどこにあるか分からなくて不便でせう。本は本棚にしまひませうよ」と言ふ。
 「必要な本が必要なときにすぐに取り出せない」とダンシャリアンは言ふが、だが、これが意外と取り出せるのだ。

 私は、部屋の床に堆く積もってゐる本の地層を上から順に「白亜紀」、「ジュラ紀」、「三畳紀」と呼んでゐる。最近、見たり触ったりした記憶のある本は上の方、つまり白亜紀から見つかるはずである。こゝ一ヶ月以上見てないやうな本はジュラ紀の地層を探せばだいたい見つかる。こゝ一年以上見てないやうな本は三畳紀から発見されるだらう。

 hakuaki.jpg

 その家に住み始めてから一度も触ってゐないやうなものはもう「古生代」に属するが、私の家にはさすがにそのやうなものはない。また一時的にそこに置いただけで、一日以上そこに放っておくつもりがないものは「新生代」に属する。

 片付けられない人や部屋が散らかってゐる人は、多かれ少なかれ、私と似たやうな勘を働かせて探し物をしてゐるだらう。

 地層がひっくり返ってしまったら、例へば、本当の白亜紀の地層から電子レンジが発掘されたら、未来の考古学者は頭が混乱するだらう。


・ゴミ屋敷の住人はなぜ記憶力がいいのか?

 以前、TVの夕方のニュースで「ゴミ屋敷」が取り上げられてゐた。そこの住人のおばあさんはゴミを拾って来てはどんどん家の中に溜め、悪臭で近所に多大な迷惑をかけてゐた。
 近所から苦情の通報を受けた区の職員の男性二人がやって来たが、頑固ばあさんは家の中に入れようとしない。「ゴミを捨てなさい」などといふ強行姿勢で臨んではだめだとわかってゐる職員は、「手伝ひますよ、一緒に片付けませう」といふ仲間である姿勢を見せることでやうやく中に入れてもらふことができた。
 片付け始めるにあたって職員は「物を勝手に捨てない」といふことをおばあさんに約束させられた。しかしどう考へても家の容積に対して物の量が圧倒的に多すぎる。捨てなきゃ始まらないことは誰の目にも明らかだ。いちいちおばあさんに「いるかいらないか」を尋ねてゐたのでは時間がかゝりすぎるし、おばあさんはすべて「いる」と答へるだらう。
 でも職員たちは、いるかいらないかを尋ねながら片付けを始めた。途中で、ゴミの山の下の方、「三畳紀」かもしくは「古生代」に属するあたりから、もう10年以上触ってないのでは、と思はれるどう見てもいらないゴミが出て来たので、おばあさんが目を離してゐる隙にこっそりとゴミ袋に捨てた。

 その後、事件は起きた。
 しばらくしてからおばあさんが「あんたたち、こゝにあった〇〇は!?」と騒ぎ出したのだ。
 職員たちはおばあさんの超絶記憶力に驚いた。10年以上見ても触ってもゐないやうな小さな「ゴミ」がそこにあったことをどうして覚えてゐるのか。
 結果、職員たちはおばあさんの信頼を失ひ、その日は家から追ひ出されることになった。

 なぜ、おばあさんは覚えてゐるのか?
 それは、原初の形態で記憶してゐるからだ。
 「こんなに散らかってゐたら、どこに何があるか分からないでせう」とダンシャリアンは言ふ。だが、そこに置いてから一度も動かしてゐないからこそ、おばあさんは覚えてゐるのだ。

・トランプ「神経衰弱」の例

 トランプの神経衰弱といふゲームで遊んだことがない人はあまりゐないだらう。好きか嫌ひかは別にして、一度はやったことがあるだらうし、ルールぐらゐは知ってると思ふ。
 私は子どもの頃、このゲームを得意としてゐたが、毎回一つだけ不満があった。

 ゲームの中終盤になって場のカードの枚数が減ってくると、必ず散らばったカードを中央に寄せる人がゐたのだ。
 「あーっ!何すんだよー!」と叫びたくなることが何度もあった。

 「だって散らばってたら取りにくいでしょ」。

 冗談ぢゃない。私はすべてのカードを原初の形態で記憶してゐるのだ。あの人の左膝の前にあるカードが「5」で、自分から見て「八」の字になってるのは「2」と「9」で、あそこの絨毯が少し盛り上がってゐる上に乗ってるカードが「6」だ。
 それなのに、あゝなんてこと。動かされてしまってはすべての記憶がリセットされてしまふ。

 私はこれは象徴的なことだと思ふ。
 トランプ「神経衰弱」の中終盤において、カードを中央に寄せ集めるタイプの人と、動かしたくないタイプの人。
 中央に寄せるタイプの人は、カードの取りやすさ(捲りやすさ)といふ「今現在の効率」を重視してゐる。それに対して、動かしたくないタイプの人は、「原初の記憶」の方に価値を置いてゐるのだ。

 
・ダンシャリアンが国会図書館職員になったら

 国会図書館の使命は、日本で出版された書籍をすべて保存しておくことだ。
 ご存知のとほり、国会図書館はずっと収蔵問題に頭を悩ませてゐる。今は電子書籍が普及して紙の本が減るかどうかと言はれてゐる段階だが、2011年の現状では紙の本は全然減ってない。国会図書館は相変はらず頭が痛い。永田町の国会図書館の地下には巨大な書庫があると言はれてゐるが、それも限界が見えてゐる。

 もし、ダンシャリアンがこの国会図書館の職員になったらどういふことになるだらう。

 ダンシャリアン「この一年で一度も見なかった本は、もう一生見ませんよ」
 元からゐる職員「さうかもしれませんね」
 ダ「では、この五年間で一度も一人からも閲覧されず借りられもしなかった本はすべて捨てませう。さうすれば、こゝもすっきりして収蔵スペースは大幅に広がりますよ」
 元「それはできません」

 断捨離の思想からすればさういふことにならうが、国会図書館の思想はまったく逆である。いるものであれいらないものであれ、取っておくことが大事なのである。
 もしこの五百年間で一度も見られても触られてもゐない本があったとしたら、それは貴重な本だからなほさら取っておかなくてはいけない。
 「今現在の効率」を重視するダンシャリアンは、「今本当に使ってるものだけを取っておきなさい」と言ふだらうが、今年出版されたばかりで世の中にたくさん流通してゐるやうな本ほど、むしろ捨ててもいいのだ。さういふ本は他の図書館にも置いてあるだらうから、国会図書館で保存する必要はない(保存するけど)。

 ゴミ屋敷のおばあさんは、この国会図書館の思想によく似た思想の持ち主なのだ。


・形見の品も捨てるべきか

 NHKの番組では、別の人の例で、亡くなった親の形見の品までも「断捨る」べきかどうか、といふ問題事例が取り上げられてゐた。
 その女性は、亡くなった父親が写真が趣味で何千枚といふ写真を撮り遺してゐた。亡き父親のライフワークともいふべき形見の品だが、何十冊にものぼる大量のアルバムが家の空間を圧迫してゐる。父親の部屋の遺品整理で、なんでも思ひ切って断捨ってきたその女性だが、こればかりは捨てるかどうか大分悩んださうだ。
 結局、よく撮れてゐると思ふお気に入りの数枚の写真だけを残して、他の写真はぜんぶ断捨ってしまった。

 過去の思ひ出ばかりに拘泥してゐてもしかたない。なにより過去を大事にしすぎて過去の重みに押し潰されて今の自分が駄目になってしまっては元も子もない。私には私の人生があるんだから今の自分の人生を大切にして、明るく前を見て生きていかなくちゃ。物を捨てたって、お父さんは私の心の中にちゃんと生きてゐる。

 ダンシャリアンならば、さう考へるであらう。
 
 しかし、私はかうした考へ方には疑問がある。
 それは、素人には物の価値がわからないだらう、といふことだ。例へば、このお父さんが、写真が趣味とは言へなかなかの腕前だったとしたら、それは他人から見たら高評価に値する作品があるかもしれない。その物の価値を門外漢の素人が勝手に判断するべきではないのだ。
 私の家には古書があるが、遺品整理に来た人が古本の価値がわからない人だったら、たゞの「古ぼけて汚い本」だと思って捨ててしまふだらう。
 その物の価値がわかる人に判断を委ねるか、もしくは、捨てるのではなく、欲しいかもしれない人たちに譲る、といふ手もある。
 ネットオークションなどに出すのも一つの方法だが、例へばもっと簡便に譲る方法として、Livlis[リブリス]といふサービスがある。このサービスを使へばTwitterを通じて簡単に物をあげたりもらったりすることができる。

 また、これは番組を見てゐたときに思ったことだが、写真ならば、捨てる前に、ぜんぶスキャンしてクラウドに保存しておくといふ手もあると思った。クラウドだって物理的な空間をまったく占有しないわけではないが、デジタルにすることで随分圧縮できる。
 ランドセルを記念保存用に小さく圧縮加工するサービスが流行ってゐるさうだ。ランドセルが取っておくに値するものであるかどうかは別として、かうした圧縮技術を利用するのも一つの手である。


・日記は何のためにつけるのか

 知り合ひが若いころ日記をつけてゐたと言ふので、その日記は今どうしたのかと訊いたところ、結婚したときにすべて燃やしてしまったと聞いて、私は中国の悪名高い焚書坑儒を聯想して軽い眩暈がした。
 読み返してみて恥ずかしかったから、誰かに見られたらこんなに恥ずかしいことはない、と思って燃やしてしまったのださうだ。
 
 紀元前213年に行はれた焚書坑儒は、すべての本を燃やしてしまったわけではなくて、医薬・卜筮・農業などの実用書は燃やさなかったさうだ。秦の始皇帝は、「今現在の効率、実用性」を重視する人だったのだらう。毛沢東もさういふ人だったのかもしれない。


・自分のところだけ片付けばいいのか

 子どものころからずっと疑問に思ってゐたことがある。
 知人や友人の家に遊びに行ったとき、その家が完璧にきれいに片付いてゐることがある。塵や埃ひとつ落ちてなく、髪の毛一本落ちてない。まるでモデルルームのやうな家に住んでる人がゐる。片付け上手のきれい好きなのだらう。
 そんな、自分の部屋に塵や埃が落ちてゐるのが許せないやうな片付け上手できれい好きな人は、自分の街が汚いことをどう感じてゐるのだらう、といふことだ。

 断捨離に関する本を読んでゐると、自分の部屋の概念を拡張して、街を自分の部屋のやうなものだと考へろ、といふ話が出てくる。
 食料を買って、自分の家の冷蔵庫に詰め込まないでも、近くのコンビニやスーパーを自宅の冷蔵庫がはりに考へればよい、と言ふのだ。衣類も同じで、自宅のクローゼットに詰め込まないで、近くの衣料品店が自分のクローゼットだと考へれば、好きなときに買ってくればよいと考へることができる。つまり自分の家の中の空間はなるべくすっきりさせて外部に委ねよ、といふ考へ方だ。
 しかしそのやうに考へるならば、やはり自分の街は自分の家と同じではないのか。
 
 子どものころから不思議で不思議でしやうがなかったのは、さういふきれい好きな人は、自分の街にタバコの吸殻やペットボトルが落ちてゐても平気なのだらうか、といふことだ。実際のところ、どう感じてゐるのだらう。自分の家の中さへきれいだったら、外は散らかってても平気なの?
 自分の街が散らかってる、自分の国(日本)が散らかってる、自分の星(地球)が散らかってることについてどう感じてゐるのだらう。

 ところで、私は恥ずかしながら、ゴミ拾ひの清掃ボランティア活動に参加したことがない。
 ゴミを拾ふとき、私はどうしてもゴミを捨てる方の行為を思ってしまふ。海岸でせっせとペットボトルを拾ふ人がゐる一方でせっせと捨ててる人がゐる。

 自分の家の中に溜まってるゴミはすべて海岸に捨ててしまってもいいですか?どうですか、ダンシャリアンさん。

 ダ「駄目です。地域のゴミ出しのルールに従って捨ててください」。

 しかし捨てたゴミはどこへ行くのか。日本国内のゴミの最終処分場がどこも満杯に近づいてゐる問題は多くの人が知ってゐるだらう。外国に捨てればいい。海に捨てればいい。いや、地球の外、宇宙に捨てればいい。たしかに宇宙はほゞ無限の空間を有してゐるからいくらでもゴミを捨てていい気がする。だが、宇宙にさへ「宇宙ゴミ」と呼ばれる問題があって、いくらでもばんばんゴミを捨てていいわけではない。


・なぜ生ましめるものを問はないか

 私の、断捨離に対する最大の疑問、それは「なぜ生ましめるものを問はないのか」といふことだ。

 断捨離の思想が流行る背景には、社会の構造の変化があると思ふ。
 昭和30年代、40年代の高度経済成長期を通して、日本は大量生産大量消費社会へと変化し、それまでの物が貧しかった時代から、一気に物が溢れる時代になった。そこで、家の中に入ってくる物を「断」ったり「捨」てたりするテクニックが必要とされるやうになった。
 しかし私は、その前の段階の、物を「生む」といふ行為についてもう一度再考してみる必要があると思ってゐる。

 ダンシャリアンたちはなぜ、生産、作成、製造について問はないのか。

 昔から仏教を批判する人の中で、特に釈迦が妻子を捨てたことを批判する人が多い。しかし私は釈迦が妻子を捨てたことよりもむしろ、なぜ釈迦は家庭を作り子どもを作ったのかを問ひたいのだ。捨てるぐらゐならなぜ結婚し、子どもまでまうけたのか。

 「生む」といふ行為。生ましめる者、モノ。「生産」、「作成」、「製造」。かういった行為は今後もっと真剣に問はれていかなければならないと考へる。

 昨今の少子化は、単に経済的な問題ではなく、「生む」といふ行為に対する漫然とした哲学的懐疑もあるのではないだらうか。


・最後に

 こゝまで、断捨離の思想を批判してきたが、物事には程度問題といふのがあって、もちろん魔界やゴミ屋敷は行き過ぎである。部屋を“常識的な”程度に片付けることは必要なことであり、そのためには断捨離の考へ方は有用であると思はれる。
 たゞ、私のやうな、今現在の効率や有用性よりも過去の思ひ出や原初の記憶を大切にするタイプの人間にとっては、断捨離の思想は、首肯しがたい面や疑問に思ふところもあった。
 片付け上手なダンシャリアンたちが「片付けられない人」たちに片付けのアドバイスをするときに、片付けられない人の気持ちや思想をわかってゐた方が、より有効なアドバイスができるだらうと思って、この記事を書いた。

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(追記)
 ちゃうどかういふ記事を見つけた。

 片づけってこういうことだったのか!片づけ不要の部屋を作る6つのポイント - ライフハックブログKo's Style

 部屋を片付けたい人は参考にどうぞ。 

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