暫定龍吟録

反便利、反インターネット的 This blog has not been updated since 2016

2011年03月の記事

869年貞観地震とはどんな地震だったのか

・「流光、昼のごとく隠映す」

 2011年3月11日に起きた巨大地震は、869(貞観11)年の「貞観地震」との共通性が指摘されてゐる。

福島第1原発:東電「貞観地震」の解析軽視 - 毎日jp(毎日新聞)

多くの専門家は、東日本大震災を「貞観地震の再来」とみている。同研究所などは05年以降、貞観地震の津波による堆積(たいせき)物を調査。同原発の約7キロ北の福島県浪江町で現在の海岸線から約1.5キロの浸水の痕跡があったほか、過去450~800年程度の間隔で同規模の津波が起きた可能性が浮かんだ。


 9世紀と言へば、平安時代初期にあたり、『枕草子』や『源氏物語』が書かれるよりも1世紀以上前である。
 「貞観」とはどんな時代だったかと言へば、いはゆる「弘仁・貞観文化」が花開き、漢文学や密教が流行した時代である。また、866(貞観8)年には、藤原氏が伴氏、紀氏を没落させた「応天門の変」が起こってゐる。

 そんな時代に三陸地方を襲った巨大地震とはどのやうな地震だったのか。手元の『理科年表』で調べてみた。

869 7 13 (貞観11 5 26) M8.3
 三陸沿岸:城郭・倉庫・門櫓・垣壁など崩れ落ち倒潰するもの無数. 津波が多賀城下を襲い, 溺死約1千. 流光昼のごとく隠映すという. 三陸沖の巨大地震とみられる.



 869年の旧暦5月26日に起きた三陸沖のマグニチュード8.3の巨大地震だったやうだ。この『理科年表』はおそらく歴史書を参考にして書いてゐる。こんなに古い時代の地震の被害の状況がわかるのは、歴史書に書かれてゐるからだ。その歴史書とは『日本三代実録』である。六国史の第六。"三大"実録ではなく、"三代"実録、すなはち、清和、陽成、光孝天皇の三代、858年から887年までの出来事を記した歴史書である。
 その『日本三代実録』の中に次のやうな記述がある。

廿六日癸未。陸奥國地大震動。流光如晝隱映。頃之。人民(叫)呼。伏不能起。或屋仆壓死。或地裂埋殪。馬牛駭奔。或相昇踏。城(郭)倉庫。門櫓墻壁。頽落顛覆。不知其數。海口哮吼。聲似雷霆。驚濤涌潮。泝漲長。忽至城下。去海數十百里。浩々不弁其涯涘。原野道路。惣為滄溟。乗船不遑。登山難及。溺死者千許。資産苗稼。殆無孑遺焉。

 要約すると、

貞観11年5月26日、陸奥国(東北地方)で大地震があった。流光、昼のごとく隠映する。しばらく人々は泣き叫び、倒れて立つこともできなかった。ある者は家屋が倒壊して圧死し、ある者は裂けた地面に埋もれた。牛馬は驚いて走り出し、あるいは足場を失った。建物の倒壊は数知れず。海は吠え、雷のやうだった。長大な驚くべき波が湧き起こり、たちまち城下に至った。海から数十百里離れたところまで、そのはてが分からないほど広大な範囲が波に襲われた。原野も道路もまったく分からなくなった。船に乗って逃げる暇もなく、山に逃げるのも難しかった。溺死者は1000人ばかり。資産も苗もほとんど何一つ残らなかった。



 「馬牛」が「自動車」になったぐらゐで、今回2011年3月11日の巨大地震と様子はよく似てゐる。溺死者が1000人と今回の被害より小さいやうだが、これは当時は今のやうに情報網が発達してゐないから、遠い陸奥国の正確な死者数はよくわからないだらうといふことと、当時は日本全体の人口数も少なかったので、三陸地方にもそれほどたくさん人が住んでゐたわけではなかった、といふことを考慮する必要がある。津波の大きさを物語る記述から見れば、今回の地震に匹敵する巨大地震であったとも考へられる。
 この中で「流光、昼のごとく隠映す」といふところだけがよくわからない。流れる光が夜空を昼のごとく照らした、といふ異常現象を書いてゐるやうだが、どんな物理現象だったのか、この記述だけからではよくわからない。


・多賀城に押し寄せた波は末の松山を越えたのか

 これは、TwitterのTLを見てゐて、@glasscatfish氏や@87a_wtnb氏のツヰートから教へてもらったのだが、百人一首にある清原元輔の有名な歌、

契りきな かたみに袖をしぼりつつ すゑの松山 波こさじとは

の、「すゑの松山」とは、宮城県多賀城市にある場所を指してゐる、といふことだ。

 清原元輔(908-990)は、あの清少納言の父で、この歌の意味は、「あの末の松山を波が越えることがないのと同じやうに、私たちが心変はりすることも絶対ないと約束したよね」といったほどの意味だ。

 この歌には本歌(今で言ふ元ネタ)があって、『古今和歌集』の「みちのくうた」にある、

君をおきて あだし心を わがもたば 末のまつ山 波もこえなん

(波が末の松山を越えることがないのと同じやうに、私が浮気することはあり得ない)
を元としてゐる。
 908年生まれの清原元輔が、自分が生まれる前の869年の貞観地震を知ってゐたかどうかわからないが、陸奥の人の間では古くからこの歌が歌はれてゐたのだらう。そしてそこでは「波が末の松山を越えることはない」とされてゐる。
 
 では「末の松山」とはどこなのか。多くの解説書では「宮城県多賀城市」としてゐるが、岩波文庫『古今和歌集』では、校注者の佐伯梅友が「宮城県多賀城市というが、岩手県二戸郡一戸町とする説もある」と書いてゐる。また、小学館『大辞泉』には、

陸奥(みちのく)の古地名。岩手県二戸(にのへ)郡一戸(いちのへ)町にある浪打峠とも、宮城県多賀城市八幡の末の松山八幡宮付近ともいわれる。[歌枕]

としてゐる。

 多賀城だったのか、一戸だったのか。もし一戸だったら、かなり内陸の町なので、「波」が海からの津波であることはあり得ない。川からの波だらう。多賀城は海沿ひの町なので、今回のやうに津波が襲ってきてをかしくない場所である。

 江戸時代の学者尾崎雅嘉は、その著書『百人一首夕話』で、

この本歌の心は奥州に末の松山といふ山あり、それは海辺の山なれど至りて高き山なる故、いか程波の高くたつ時もこの松山を波の越すといふ事はなし。それ故人の心の変らぬ事を、松山を波の越さぬといふなり。

と書いてゐる。
 この説を信じるなら、「海辺の山」と書いてあるので、やはり多賀城付近にあった山といふことになるだらう。

 869年、貞観地震の巨大津波は、はたして末の松山を越えたのかどうか。興味深いところである。


・地震前から貞観地震の再来を指摘してゐた人たち

 今回の大地震であらためて注目された貞観地震だが、地震の前から貞観地震の再来に注意を喚起してゐた人たちもゐたやうだ。

 例へば、産業技術総合研究所活断層・地震研究センターの宍倉正展氏の研究グループによる2007年の論文。

石巻平野における津波堆積物の分布と年代(pdf)

 またこれは別のチームによる2008年の論文で、貞観地震津波について詳しく書いてある。

石巻・仙台平野における869年貞観津波の数値シミュレーション(pdf)


 そして、これはいつ書かれた文章かわからないが、東北大学の箕浦幸治教授による文章。

特集 津波災害は繰り返す

 こゝには、「貞観津波の襲来から既に1100年余の時が経ており、津波による堆積作用の周期性を考慮するならば、 仙台湾沖で巨大な津波が発生する可能性が懸念されます」とはっきりと指摘されてゐる。

 だからと言って、1000年に一度、来るかもしれないし来ないかもしれない、といふほどの大津波を防ぎきれずに被災してしまった人たちを責めることはできない。人間は誰しも滅多に起こらないことには備へることはできないものだ。

 だがそれと同時に私たちは今回の大震災を深い教訓としなければならないだらう。上記の文章で箕浦教授が言ってゐる「こうした 破壊的な災害には、数世代を経ても、あるいは遭遇しないかもしれません。しかし、海岸域の開発が急速に進みつつある現在、津波災害への憂いを常に自覚しなくてはなりません。 歴史上の事件と同様、津波の災害も繰り返すのです」といふ言葉を肝に銘じたい。



【歴史上の地震関連の記事】
スポンサーサイト

佐久間象山と地震と国防 -佐久間象山生誕200年-

Shozan_Sakuma110322.jpg


 2011年3月11日に東北地方太平洋沖で巨大地震が発生してから今日で11日が経つ。

 救助活動、原発の問題、避難生活等、今でも災害は現在進行中である。


・1995年と2011年の空気感

 人生の中で今回の大震災、大災害ほど「国難」を思はされたことはなかった。
 1995(平成7)年にも似たやうなことは感じた。あの時は1月に関西で「阪神淡路大震災」が、3月に東京で「地下鉄サリン事件」が起きた。あの時の雰囲気に似てゐる。あの時もあはや国家が転覆するのではないかといふ危機感を感じた。そしてあの時と「空気感」も似てゐる。1995年はサリンといふ目に見えない恐怖があった。その前年の夏には、暑いから窓を開けて寝てゐただけの人が亡くなってしまふといふ「松本サリン事件」が起きてゐた。日本中の人が、窓を開けて深呼吸をするのさへ心配してしまふやうな、そんな恐怖感に包まれてゐた。
 今回は、あの1995年の時の地震とサリン事件が同時に同じ地域で起こったやうなものだ。しかもスケールアップして。今回はサリンのかはりに放射能といふやはり目に見えない恐怖が人々を包んだ。東京でさへ、窓を開けてのびのびと深呼吸をするのが躊躇はれる空気感を感じる。福島県に住んでる人はもっと感じてゐるだらう。

 私はなんとなく、自分はある程度完成した成熟した社会に生まれてきたのだと思ってゐた。自分が生きてゐる間にはそんなに大きな出来事は起こらないだらう、と。「国難」などといふ言葉は知らなかった、と言ってもいいぐらゐだった。しかし、日本の歴史を振り返れば、さうした「国難」はたびたびあった。江戸時代末期の「安政期」(1854-1859)もその名とは裏腹に、国が亡びるかもしれないといふぐらゐの国難の時代だった。その安政期を生きた一人の思想家、今日からちゃうど200年前に生まれた佐久間象山がどのやうに「"超"国難」に向かひ合ひ、「国防」あるいは「国を守る」といふことをどのやうに考へてゐたのかを象山と地震との関はりを見ながら少し考へてみたい。
 

・安政年間と地震

 安政年間7年間は、ほゞ地震とともにあったと言っても過言ではない。「安政の大地震」が有名だが、その他にも大小の地震がたくさんあった。

 安政元年6月15日 安政伊賀地震
 安政元年11月4日 安政東海地震
 安政元年11月5日 安政南海地震
 安政元年11月7日 安政豊予地震
 安政2年10月2日 安政江戸地震
 安政5年2月26日 安政飛越地震
 
 規模が大きかったものだけでもこれだけある。このうち安政2年の「江戸地震」が「安政の大地震」と呼ばれるが、「東海地震」と「南海地震」は規模から言へば江戸地震を上回るマグニチュード8.4の巨大地震だった。


・佐久間象山と地震

 幕末の先覚者、また吉田松陰の師としても知られる佐久間象山だが、地震とは少なからぬ関はりがある。

 その著書『省ケン録』にも地震について触れてゐる箇所がある。(ケンは漢字出ない。↓写真に撮ってみたが低解像度でよく見えない。)
seikenroku110322.jpg

聞く、關西の地震は、勢賀の間、更に甚しく、城垣衙署、驛亭民屋、傾塌すること算なく、樹木倒植し、井水乾涸し、人民の壓死すること、殆んどその數を知らずと。丁未に信州の地大に震ひしとき、予れ里に在りて、親しくその變を閲せしが、慘毒の劇しきこと、言ふに忍びざるところなりき。信中の變後には、地下毎に雷聲を作し、時にまた搖撼し、久しきを經て止まず、後七年にして小田原の變あり、又一年にして今復た關西の變あり。嘗て人の雜書の載するところを記するに云ふ、その地常に動き、數年の後に至りて大震あり、萬家の樂土、忽ち蠶叢に變ずと。然らば則ち、地震には固より數年に連なるものあり。古來漢儒は地震を以て蠻夷が侵陵するの兆となせり。占候の説は洋學の取らざるところなれども、天人合應の理は、必ずしもこれなしと謂ふべからず。丁未以來の地震の變をば、時事を以てこれを驗するに、漢儒の言は、誣ふべからざるに似たり。今、夷虜の志は未だその極まるところを知らざれば、則ち震の相連なりて、尚ほ劇甚なるものあらんことも、また慮ることなき能はず。
(原頭註)關西の地震は六月十四日にあり、而して獄中に之を傳ふるは二十四五日の間にあり。季秋に放還せられし後、この録を次第せしが、十一月四日に至りて、東海道の地、又大に震ひ、城郭を隳り、廬舍を壞り、死傷算なかりき。因りて竊に書して、江都の所親に寄せ、告ぐるに此の條の大意を以てし、都下も恐らくは亦た免かれざらんと謂ひて、之をして戒備するところあらしめき。明年十月二日の夜、江都に果して大震ありて、火もまた之に從ひ、その餘烈はこれを前の數災に比するに、超過すること數倍なり。而して予がもと親交する所のもの、多くは保全を得たるは、これ天意なりといへども、また小しく予が言に資ることなくんばあらず。乙卯の冬誌す。


 以下、大意。

聞くところによれば、関西の地震は、三重県のあたりで特に被害がひどく、建物は数限りなく倒れ、樹木も倒れ、井戸水は涸れ、圧死した人々も数知れない。弘化4年(1847年)に信州の大地震(善光寺大地震)があったとき、私は故郷の長野県松代町に居て地震を経験したが、その被害の甚だしさは言葉にできない。善光寺大地震の後、地下は常に轟き、時にまた揺れ、それがしばらく続いた。その7年後に小田原で地震があり、そのまた1年後に関西の地震があった。昔の中国の書物には「大地が常に動き、数年後に大地震があった。すべての土地が荒地になってしまった」と書いてある。と言うことは、地震は数年にわたって続くものなのだ。昔から儒学者は地震は外国が攻めて来る予兆だとした。自然現象と社会がまったく関係ないということはないだらう。善光寺大地震以来の地震と昨今の社会情勢を合はせて考へてみると、儒学者の言ってゐることはまんざら嘘でもないだらう。今、西洋列強の侵略の意志が強いから、激甚の地震が続いてゐると考へることもできよう。
(原注)関西の地震は6月14日にあった。そしてその知らせは24、5日で獄中にゐる私のところへ届いた。秋に獄中から釈放された後、この記録を書いてゐたら、11月4日に東海道で大地震があり、城郭も小屋も壊れて死傷者数は数限りなかった。そこで私は密かにこのことを書いて、江戸の知人たちに送った。この文章の大意を書いて、江戸もおそらく災害を免れられないだらうから警戒するやうにと言ったのだ。翌年(安政2年)10月2日の夜、江戸で大地震があり、火事も起こり、その被害は前の震災の数倍はあった。それで私の親しくしてゐた知人の多くは無事だったのだが、これは天災といっても、やはり私の言葉を聞いてゐたおかげだらう。安政2年の冬、記す。



 文中に出てくる「関西の地震」とは、安政元年(1854年)6月15日に起きた「安政伊賀地震」(三重、奈良県で被害がひどかった)、「十一月四日に至りて、東海道の地、又大に震ひ」とは、「安政東海地震」、そして「十月二日の夜、江都に果して大震あり」とは、安政2年の「安政江戸地震」のことを指してゐると思はれる。
 そして、象山はなにより、その数年前に地元の長野県松代で「善光寺大地震」を経験してゐたのだ。「善光寺地震」とは、弘化4年(1847年)の3月24日に起こったマグニチュード7.4の地震で『理科年表』によれば、「松代領で潰家9550,死2695,全国からの善光寺の参詣者7千~8千のうち、生き残ったもの約1割という」大地震だった。
 象山は、この善光寺大地震のときに活躍があったおかげで藩主から表彰されたらしいが、どのやうな活躍をしたのかはよく分からない。また、安政江戸地震をきっかけにして、「地震予知器」を自ら発明した。上の記述と合はせ考へても、地震に対する並々ならぬ関心があったことが窺へる。

 象山がゐた場所と地震との関係がわかりにくいだらうと思ふので、もう一度年表にしてみよう。

弘化4(1847)年37歳3月、地元、長野県松代で善光寺大地震に遭ふ。
嘉永6(1853)年43歳6月、浦賀にペリー黒船来航。
安政元(1854)年44歳1月、江戸湾にペリー再来。
4月、日米和親条約締結。
弟子の吉田松陰の密航事件に連座して江戸の獄中に入る。
6月、伊賀地震(関西の地震)が起きる。
この間、獄中で『省ケン録』を書き綴る。
9月、蟄居を命じられ、江戸の獄中を出て、長野松代に帰る。
秋、『省ケン録』をまとめる。
11月、安政東南海地震が起きる。
安政2(1855)年45歳10月、安政江戸地震が起きる。
冬、『省ケン録』の注釈を記す。
安政4(1857)年47歳10月、ハリス来日。
安政5(1858)年48歳2月、飛越地震が起きる。
6月、日米修好通商条約締結。
井伊直弼による安政の大獄が始まる。
コレラ流行。
安政6(1859)年49歳7月、吉田松陰の死刑が執行される。
安政7(1860)年50歳3月、桜田門外の変が起きる。


(参考:佐久間象山と日本の歴史

 主だったものだけ書き出してみたが、かうして見てみると、いかにこの時代が「激震」の時代だったかが分かる。黒船と地震のWショック。それもアメリカの船だけではない。オランダ、ロシア、フランス、イギリスといろんな国の船が次から次へとやって来て開国を要求し、歴史的大地震が次々と立て続けに起きた。国政のことなど知らない田舎の一般庶民ならともかく、当時一級の知識人であった佐久間象山は、このまゝだと日本は終はってしまふかもしれない、といふ強い危機感を抱いただらう。


・安政江戸地震と藤田東湖の死

 上の『省ケン録』文中では、自分のおかげで江戸の知人たちが助かったやうに書いてゐる象山だが、実は江戸地震のとき、一人の親交のあった人物を亡くしてゐる。象山とほゞ同世代の水戸の儒学者、藤田東湖である。

 藤田東湖もまた、当時一級の人物であり、水戸学を代表する学者であった。そして象山と同時代を生きた東湖も、この黒船、地震のWショックに加へ、コレラの大流行や倒幕派による幕藩体制の危機など「"超"国難」とも言ふべき時代にあって、「天下の形勢油売の地獄に入候如く」(豊田天功宛書簡)と歎息した。
 実際、これだけ大災難が続けば、東湖のやうな第一級の人物と言へども、いや政情や社会情勢に詳しければこそ「もうどうしようもない」「もう日本はダメかもしれないね」と本気で感じてゐたかもしれない。

 安政2年10月2日夜、江戸の街を突然の大地震が襲った。江戸小石川藩邸にゐた藤田東湖は、家族といったん庭に避難したが、母親が家の中に戻ったので母親を助けようとして再び家の中に飛び込んで行った。その時、梁(鴨居)が上から落ちて来て、東湖は咄嗟にありったけの力で母親を外へ押し出し、自分は梁の下敷きになって圧死した。

 私は、藤田東湖は、思想は別としてその最期は立派であったと思ふ。死ぬのが立派だと言ふのではない。口先だけの他の儒学者と違って「親に孝」を人生最後の瞬間に実践で示したからだ。親に先立つのが孝かどうかはわからないが、理論だけの学者でなかったことは確かだ。

 東湖の死を知った佐久間象山は、「疇昔を俯仰すれば昨日の事の如し。而るに東湖は復た見ゆ可からず。因て大息流涕す」(昔を思ひ出せばまるで昨日のことのやうだ。だが東湖にはもう会へない。私は大いに涙する)と言って、同世代の知友を失った悲しみを歎いた。

 今も東京ドーム隣の道路に「藤田東湖護母到命の処」といふ案内板が建ってゐる。


・佐久間象山の危機意識の高さと責任感

 佐久間象山は「国防」といふ言葉は使ってゐないが「海防」がそれに当たる。ペリー黒船ショックの10年以上も前に「海防八策」を書き著し、象山には国防の第一人者であるといふ自負があった。それは根拠のない自信ではなく、深い洋学、語学、科学の知識に裏打ちされてゐた。
 象山の海防論などは今読んでも、当時の多くの尊皇攘夷論者たちの意気込みだけの精神論に比べれば、はるかに冷静で論理的で科学的であったと思ふ。

 「私は貧乏だけれど穏やかな時代に生まれ育って今まで苦難を知らなかったが、国家の緊急事態のことは常に心配してゐた(『省ケン録』)」といふ言葉は、決して大言でも自慢でもなく、洋書を貪り読み、西洋事情に精通してゐた象山ならではの危機意識の高さが顕れてゐる言葉だと思ふ。
 その、時に尊大とも思へる発言が「自信家過ぎる」と見られがちな象山だが、むしろその大言は強い責任感の表れと見るべきだらう。黒船来航で江戸が戒厳状態にあったときも「精神はますます奮ひぬ」と言ってゐたぐらゐだから、この人は弱気になるどころか最後まで逃げる気はなかったのだらう。


・現代と佐久間象山
 
 私も貧乏だけれども、戦争も安保闘争も知らない時代に生まれ育った。そして、この度の大震災と原発事故で、初めて「国難」を思った。私が佐久間象山から学んだのは、その危機意識の高さと強い責任感だった。大震災の後、改めて象山の主著『省ケン録』を読み、随所に不退転の覚悟が現れてゐるのを知った。「不退転」といふのは必ずしも「死ぬのを潔し」とする考へ方ではない。象山の思想は極めて論理的で科学的で、むしろ徒に死なないための思想であった。
 この「国難」に際して、そして生誕200年にあたって、象山の思想や生き方のさうした良い面がかへりみられたならよいと思ってゐる。


 佐久間象山と海防の問題については以前にも書いたので参照されたい。

 日本の海防と情報 sengoku38と佐久間象山(2010/11/16)


「買い溜め」と小さな制御

 地震から10日が経った。
 
 今日、コンビニに行ってみたら、弁当、おにぎり、サンドイッチの類は復活している。食パン、菓子パンも種類は少ないが復活している。相変わらず、品切れ状態が続いているのは、カップ麺、レトルト食品、米、牛乳などだ。
 薬局では、トイレットペーパー、ティッシュペーパー、電池類、紙おむつ、生理用品、そして洗濯用洗剤までが品切れだった。

・買い溜めとは何か

 こうした品不足が起こるのは、物流が滞っていたり、それらを東北の被災地に優先的に送っていたりすることもあるが、それと同時に「買い溜め」や「買い占め」と呼ばれた行為がたくさん行われたからという理由もあるだろう。

 3日ほど前に、石原都知事が「節電条例」を検討した、というニュースがあって話題になった。
 条例の中身は、〈1〉午後10時以降にネオンを消す〈2〉自動販売機も夜間は消灯〈3〉コンビニエンスストアは午後10時以降閉める、といったものだ。これに対し、電気は溜められないのだから意味が無い、という反発の声がネット上でたくさん上がっていた。真夜中に節電しても、電力需要のピークに節電しなければ意味が無いということだ。

 買い溜めと品切れ、もこれと同じようなことだと思う。
 例えば、スーパーやコンビニなどで一週間分の買い物をしている人がいたとして、「私は自分の家の生活に必要な分を一週間分、先に買っているだけだ。これから一週間は私は買い物をしないのだから同じことだ」と言っている人がいたとしたら、やはりそれは「買い溜め」なのだ。多くの人が同じように考えて買い物のピークがある一瞬に集中してしまうことから品切れが起きる。たとえ「買い占め」るつもりはなくて自分の分だけ考えて買っていたとしても、「明日の分まで」とかいつもより少しでも余分に買った時点で、それは「買い溜め」なのである。「買い溜めは良くない」と考えているのなら、「どうせ明日もスーパーに来るんだから今日買っておこう」ではなくて、「明日の分は明日買おう」としなければいけない。
 ただし、車がなければ買い物にも行けない、というような地域では少し事情が異なるだろうと思う。

・小さな制御

 そんな中、地震から3日後の3月14日に近くの薬局に行ったら、早くも店員さんが「トイレットペーパーは一人一個までです」と厳しく規制していたのが感心したことは2011年3月14日の記事にも書いた。
 今日、近くのセブンイレブンに行ったら、大カゴが完全に撤去されていて、小カゴしか置いてなかった。以前から、大カゴと小カゴがの二種類のカゴがあるのは知っていたが、地震から10日経った今日、大カゴが店内から無くなった。

 これらの店側の工夫、ルールというのは、必ず守らせることに意味があるのではない。「トイレットペーパー1個まで」と言ったところで、2時間後にまた何食わぬ顔をしてやって来て列に並ぶ客もいるかもしれないし、家族4人総出で時間差で買いに来るかもしれない。でも、それでもいいのだ。時間帯のピークが少しでもずれるなら効果がある。少カゴしか置いてなくても、図々しい人はその小カゴを両手に二つ持って買い物をするかもしれない。でも、全体的に緩やかに制御できればそれはそれなりに効果を表すだろう。これを完璧なまでに厳しくしてしまうとまた客側とトラブルになる。

 これだけの大災害なので品薄状態はまだまだ続くだろう。いくつかの店を回ってみたが、こうした工夫をしている店としていない店がある。非常時にはもっと多くの店がこうした「小さな制御」を工夫することを考えてみることも必要だろうと思う。

スーパームーンと地震

 今日で東北地方太平洋沖地震から9日目。未だに被害の全容は判っていない。

 ところで今回のような大きな災害があると、「前兆」があったかなかったかというのが話題になる。
 私は、前兆は見たり感じたりしなかった。3月11日の天気は普通だったし、空模様もその他のことも特に異常は感じなかった。
 
 そしてそれらの「前兆があった」という話は、だいたい地震の後に聞く話ばかりだ。「そう言えば地震の前にこんなことがあった」という類の話は、阪神大震災の直後にもたくさん出てきたそうだ。

 そんな中、今回唯一、私が地震の前に見た「予言」のような話はこれ。有名サイトの人気記事だったので、地震の前に読んだ人も多いと思う。

 スーパームーンで人類滅亡の日は近い!(たぶん俗説) : ギズモード・ジャパン

 英語版の元記事はこちら。

 The SuperMoon Apocalypse Is Near! (No, Actually It’s Not)

 今年2011年の3月20日は月と地球がこの18年間で最も接近する。しかも満月。「スーパームーン」とは、このように月の近地点通過と満月・新月が重なることを言うのだそうで、今夜(3月19日)はいつにも増して月が大きく見えるのだそう。
 そして上記リンク先記事では、「その前後に大災害が起こる」と言う予言者が一部にいる、という話を紹介している。ただし、リンク先を読んでいただければ分かるが、この記事を書いた記者はこうした「予言」については非科学的だとして批判的であることに注意。

 日本語版の記事が書かれたのが2011年3月10日。あの大地震の前日。元文の英語版の記事が書かれたのが3月8日。地震の3日前。

 私は、地震があった日(3月11日)とスーパームーンの日(3月20日)は一週間以上も離れているので、結びつけるのは少々、無理がある気がする。

 ともあれ、今夜はいつになく大きな月が見えるらしいから、窓の外に目をやろう。

 

東北地方太平洋沖地震から一週間

 今日で地震から一週間。未だに被害の全容が判っていない。
 一週間前、地震の当日、私は「東北地方には神戸ほどの大都市はないので、阪神淡路大震災ほどの死傷者数にはならないかもしれない」と書いたが、今回の地震はその被害があまりにも広範にわたったため、ついに阪神淡路大震災の死者行方不明者数を超えてしまった。

 東北地方太平洋沖地震、しかしこの地震はネットや新聞ではほとんど「東日本大震災」と呼ばれている。テレビの民放局では「東日本で大地震」、NHKだけが「東北関東大震災」という呼び名を使っている。

 一週間前の地震当日、大きな余震が続くさなか、私はTwitterで慌てて地震のハッシュタグを探していた。通常、Twitterでは各人がそれぞれいろんな話題について勝手に呟いているため、自身のツイートが何に関するものなのかを分かりやすくするためにハッシュタグが用いられる。私もその習慣に従って、地震直後に地震に関するツイートであることを示すためのハッシュタグを探していた。トレンドのところに「pray for japan」の文字が見えたが、大きく揺れた東京に住んでる私が、まるで海外にいるかのような「日本のために祈る」と付けるのはおかしいと思った。しかし、すぐにハッシュタグを探す必要はないことに気付いた。なぜならタイムラインのすべてのツイートが地震に関するものだったからだ。しかも事は緊急を要する。尋常ではない大きな地震だということは多くの人が感じており、ハッシュタグなど付けている手間も暇もそして必要性もなかった。

 今日、佐賀県が被災者3万人の受け入れを表明した。他の自治体でも受け入れを表明しているところがあるかもしれないが、その迅速さに敬意を感じる。3万人といったら、佐賀県の人口の約3.5%、佐賀市の人口の1割以上にもなる。しかも佐賀県は九州7県の中で最も小さい県だ。そんな小さな県が、いち早く受け入れを表明した。おそらく受け入れの準備も何もまだ整っていない段階であろうが、東北の被災地は、食糧もなく氷点下の寒さで体調を崩している人もたくさんいる、一刻の猶予を争う段階なのだ。受け入れの準備もできていない段階で3万人などとそんな大きなことを言っていいのか、と思う人もいるかもしれないが、むしろ今はこういうことをいち早く発表することで、他の西日本の自治体が続く効果があるかもしれない。しかも被災者は"今"困っているのであって、これが佐賀県が何ヶ月も経って「受け入れ態勢が整いました」という状態になってから発表しても遅すぎる。平常時ならば、ちゃんと準備ができてから発表するものだが、こういう非常時においては、「走りながら考える」ことも必要なのではないか。つまり県内の施設や企業や県民たちに受け入れのお願いを打診する一方で、東北地方からの被災者の受け入れも同時に進める。結果的に3万人受け入れられなかったとしてもそれでもよいではないか。「佐賀県が3万人受け入れると言っておきながら受け入れなかった」と言って責める人は誰もいないだろう。こういう時は、やれるだけのことはやってみるべきで、それを迅速に実行している佐賀県の判断を私は支持する。

 一週間たった今、震災は未だ現在進行形。原発の問題も現在進行形だ。
 東京における身近な買い物の問題もまだ全然通常には戻っていない。今日もコンビニの棚はガラガラだった。震源地からこれほど遠く離れた東京でさえ、未だにこの有り様なのだ。今回の地震がいかにとてつもないスケールの地震であったかを物語っているだろう。

東北地方太平洋沖地震7日目(2011年3月17日)

 今日はスーパーとコンビニに行ったが、相変わらず人は多いが品物は少ない。スーパーでは水と菓子パンがほんの少しだけあった。スーパー、コンビニ共通してまったく無いのは、食パン、カップ麺、牛乳だった。セブンイレブンのおでんがやっていて驚いた。
 今日も特に夜になってから余震が多い。

 今日3月17日夜時点でのYahoo Japanのスクリーンショット。

yahoo110317.png

 震災はまだ過去形じゃない。現在進行形だ。東京だけじゃなく日本中が徹底した節電生活をしている。
 東北の本当にひどい被害に遭った地域はどうなっているのだろう。語弊があるかもしれないが、ネットやテレビで伝わってきている地域はまだいい。取材陣が辿り着けているのだから。本当に全滅に近い地域は、Twitterはおろかネットもテレビもラジオもメールも電話も防災無線も車も何もないだろう。放射能がどうとかいう話題も知らないだろう。まったく情報も入ってこないし、自分たちからSOSのメッセージを発する手段もない。もしそういう地域があったとしたら、もう一週間近く何も食べずに今もただ寒さに震えているのかもしれない。そういう人たちは今日の時点では生きているが、体力のない人ならば、もう来週には生きているかどうかわからない。

 石巻では略奪行為が横行しているという噂も聞いた。本当かどうかわからない。レジに並んでいた客十数人が金を払わずに逃げたとか。
 今回、これだけの大災害にもかかわらず、多くの日本人が冷静な節度を持って、整然と行動したことに世界から賞賛と感嘆の声が上がっていると言われている。たしかに東京ではそういう行動はたくさん見られた。
 日本人のそうした秩序ある整然とした行動は、"恥"の意識によって規定されているとよく言われる。ビートたけしが作った有名な言葉「赤信号みんなで渡れば怖くない」は日本人の性格をよく表わしていると言われる。"世間体"があるからこそ、自分一人だけ列に並ばないで勝手な行動を取るなどということは恥ずかしくてできないのだ。だがこれは逆に言えば、一人が逃げ、そしてそれに二人目が続けば、あとはもうそこから一気にカスケードが起きる危険性を孕んでいるということだ。みんなが逃げてるなら私も逃げても恥ずかしくない。そして世間体を気にすべき"世間"はもういない。
 「日本人はパニックにならない」というのは、ある限度までは確かにそうであると思うが、限度を超えた極限状態では、disaster cascadeとでもいうべき大混乱が引き起こされる危険性はあると私は思う。
 これがもし東京のような人口の多い都市で起こったら、もっとひどい事態になる。東京は人口密度だけでなく情報密度も高いので、不安心理はあっという間に人々の心の中に伝播するだろう。99%の人が逃げているのに、自分一人だけ逃げないなどと言えるほど、人間の心は強く出来ていない。
 そういうことを考えると、「国、政府はすべての情報を包み隠さず出せ」と言えるかどうかは、難しいところだと思う。「生の情報を全部出して伝えてくれれば、あとは俺たちが自分自身で判断するから」と言えるかどうか。たとえ言えたとしても、それで大混乱の中、結果としていわゆる「リテラシー」の高い人たちだけが生き残ったのでは、これは駄目だろう。
 私は今回のような非常事態においては、種類にもよるが、ある種の「情報管制」はやむを得ないかもしれないと考えている。ただしそれには相当な力量が問われる。


 今、生死の境にいる人たちをどうやったら助けられるのだろう。自分が今見えていない知っていないであろう被災地にまで想像力を働かせなければいけない。
 そして宮城、福島、岩手、茨城など被害の大きい地域の救助活動と同時並行で首都東京の立て直しも行っていかなければならない。東京がストップするということは日本がストップしてしまうということだからだ。

 悩み続ける。


東北地方太平洋沖地震6日目(2011年3月16日)

From immemorial time the shores of Japan have been swept, at irregular intervals of centuries, by enormous tidal waves,-tidal waves caused by earthquakes or by submarine volcanic action. These awful sudden risings of the sea are called by the Japanese tsunami. The last one occurred on the evening of June 17, 1896, when a wave nearly two hundred miles long struck the northeastern provinces of Miyagi, Iwate, and Aomori, wrecking scores of towns and villages, ruining whole districts, and destroying nearly thirty thousand human lives.
-Lafcadio Hearn "A Living God"
(太古の昔から日本の海岸は何世紀にもわたって地震や海底の火山活動によって引き起こされるとてつもない高波によって被害を受けてきた。この恐ろしい突然の海面の上昇は日本語では「ツナミ」と呼ばれている。最近では、1896年の6月17日の夜に起こった。その時は、200マイル近くにもわたる長大な波が東北地方の宮城、岩手、青森を襲い、町や村の境を壊し、すべての地域を破壊し、そして3万人近い人々の命を奪った。)
-ラフカディオ・ハーン『A Living God』)


 上記は、小泉八雲が1897(明治30)年に書いた『A Living God(生ける神)』の一節である。

 小泉八雲は明治29年の「三陸地震津波」のニュースを知って濱口梧陵の話を想起したわけだが、私は今回の東北地方太平洋沖地震を受けて、先ず三陸地震津波を想起し、そこから濱口梧陵、小泉八雲を思った。

 この小泉八雲の著作を元に書かれた中井常蔵『稲むらの火』の話は、1937(昭和12)年から1947(昭和22)年までは小学校の教科書に載っていたが、戦後の教科書には載っていなかった。それが、Wikipediaによれば、2011年度の小学校教科書からまたこの話が載るというのだ。3月にこの大津波があって、翌4月にこの話が教科書に載るというのは、なんとも不思議なめぐり合わせではないか。

 普通、一人の人間が海で波にさらわれた場合、警察、消防、自衛隊など関係機関が総出で救出にあたる。だが、今回は何千人という人が波にさらわれたというのに、誰も救出に行かない。自衛隊がすでに何千人もの人を救出したというニュースを聞くが、陸地の瓦礫に埋もれた人や取り残された人たちだろう。波にのまれていった人たちを助けているわけではないだろう。救援活動は、もはや生き残った人たちへの支援がメインで、その途中にまだ瓦礫の下に生存者がいると分かれば救出作業にあたることもあるかもしれないが、海へ消えていった人々の救出にはもう誰も向かわない。不思議なことだ。一人の人のために普段はたくさんの人が動くのに、こうして何千人単位で遭難すると、もう放っておかれてしまう。


 今日は買い物には行かなかったので、コンビニやスーパーの状況はよくわからないが、おそらく昨日までとほとんど変わりないだろう。
 今日も大きな余震が何回かあった。そしてやはり、テレビからもネットからも入ってくる福島第一原発のニュースが人々の不安を大きくしている。
 夕方頃、テレビで天皇陛下からの国民に向けての御言葉があった。こんなことも初めてだ。

 今日3月16日夜の時点でのYahoo Japanのスクリーンショット。

yahoo110316.png

東北地方太平洋沖地震5日目(2011年3月15日)

 今朝は午前5時頃、東京湾を震源とする地震で飛び起きた。

 震源はどんどん南下してきている。夜11時頃には、静岡で震度6強の地震も起きたし、東北地方の地震が2日前に前震があったことを考えると、17日頃までに東京から静岡あたりでまだ巨大地震が起きる可能性は残っている。

 東京の大地震と言えば、1703(元禄16)年の「元禄地震」、そして1923(大正12)年の『関東大震災』が思い出される。
 そして静岡と言えば、1854(安政元)年の「安政の大地震」が有名だ。
 特に「安政の大地震」では、被害地域は関東から九州までの広範囲に及んだ。「安政の大地震」は最初「東海地震」が起きて、その翌日に「南海地震」が起きている。そのことから考えれば、東京以西の地域の人も決して油断はできないと思う。


 今日は、コンビニに行ってみたが、食料の棚にほんの少しだけ食べ物が復活している。水や食パンも少しあったが、菓子パン棚は相変わらず空だ。カップ麺もまったく無い。しかし特に込んでいるということはなかった。今、コンビニに来ても何も売ってないことがわかっているからだろう。
 薬局のトイレットペーパー、ティッシュペーパーは、相変わらず品切れ状態だ。

 薬局やコンビニによって、仕入れ作業を頑張ってる店とそうでない店があるような気がする。品揃えは店によって多少異なるかもしれない。

 節電のため駅の構内が暗かったりエスカレーターが使えなくなっていたりして、世間全体が「非常事態である」という雰囲気を醸し出している。休業している店もたくさんある。

 今日3月15日夜時点のYahoo Japanのスクリーンショット。

yahoo110315.png

東北地方太平洋沖地震4日目(2011年3月14日)

 今日3月14日夜の時点でのYahoo Japanトップページのスクリーンショット。後にこのページを振り返る人は、このスクリーンショットで何となく雰囲気、状況、様子を掴むことができるだろう。

yahoojapan110314.png

 今日も昨日と同じくスーパーに行った。今日は地震から4日目なので、そろそろ品数も戻ってきてるのではないかと思いきや、昨日よりも品物は減っていた。食料が東北地方の被災地に優先的に回されているのと、テレビ等で被害状況がどんどん大きくなるにつれて、人々の不安心理が大きくなって「早めに買っておかなくては」と思う人が増えてきているからかもしれない。

 品物別に見ていこう。

 野菜、果物類→まあまあ揃ってる
 魚、刺身類→まあまあ揃ってる
 肉類→値段の高いものしか残ってない
 パン類→食パン、菓子パン含めてまったく無い
 豆腐や漬物など→まあまあ揃ってる
 ヨーグルト、チーズ等乳製品→まあまあ揃ってる
 冷凍食品→ピラフ、チャーハンの類は一切無い、それ以外の物が残ってる
 惣菜、おにぎり→まあまあ揃ってる
 米→まったく無い
 カップ麺類→ほぼ無い
 酒類→揃ってる
 飲み物類→水は無い、お茶は少しあり、牛乳少しあり、あとは全部ジュース
 調味料類→揃ってる

 だいたいこんな感じ。言葉では伝わらないかもしれないが、実際に行った感じでは、開店はしているものの半分休業、といった感じだ。ただし店内は非常に混んでいた。
 上記は、私が行ったスーパーが(その時間帯に)そうであったということで、東京の他のスーパーもこういう品揃えであるかどうかはわからない。ただ、コンビニでもスーパーでも一番早く無くなったのは菓子パン、食パン類だった。
 こうして見てみると、やはりすぐに食料になって(つまり水や火を使わずに食べられて)、なおかつ日持ちのするものほど無くなっているようだ。

 いったん家に帰ってからトイレットペーパーがないことに気付き、薬局(ドラッグストア)に出かけた。が、トイレットペーパー、ティッシュペーパー類はすべて品切れ。
 別の薬局に行ったがそこも品切れ。
 3軒目の薬局に行ったところで、ちょうどトイレットペーパーの入荷作業を行っていた。たくさんの人が買いに来てたが、店の人が「1人1個(12ロール入り)まで」と厳しく規制していたのが感心した。客「種類(メーカー)が違ってもダメ?」店員「ダメです」。
 レジに並ぼうとしたら店内をぐるっと一周して70人くらいの行列ができていたので、その最後尾に並んだ。

 3軒の薬局で共通して品切れ、もしくは品薄だったのは、トイレットペーパー、ティッシュペーパーと懐中電灯、電池のような防災グッズ。


・地震2日前のこと

 みんな忘れているようだが、3月11日大地震の2日前にも地震があった。東北地方で大きな地震。東京もそこそこ揺れたから、東京の人なら知ってるはず。

 その時の私のTwitterでのツイート。

110309tweet.png

 TLでも多くの人が、東北地方でけっこう大きな地震があったらしい、と呟いていた。私はなにか東北地方でとんでもない重大な地震が起きたのではないかと思い、必死にTLを追って情報収集しようとしていたのだが、呟いているのは東京近郊に住んでるらしき人ばかりで、肝腎の東北の人からのツイートが全然無くて、焦りを感じて上記のツイートをした。

 しかし、今思えば、この3月9日の昼ごろの大きな地震が、3月11日のあの巨大地震へ至る一番初めだったのではないか。

 最近の震度1以上を観測した地震 -気象庁

 このリンク先は気象庁が発表している、2月末から3月10日24時までの、つまり地震前日までの地震の記録である。リンクが切れていたり変わってしまっている場合は、こちら→index0.htmlをご覧頂きたい。

 これを見ると、地震前日の3月10日も、そして前々日の3月9日も、ずーっと三陸沖で小さな地震が頻発していたのがわかる。そしてそれらを遡っていって辿り着く一番最初の地震が、あの3月9日の昼に起きた地震だ。

 今にして思えば、あの時の揺れが2日後に来たる巨大地震のお知らせだったのだ。

 後になってからこんなことを言ってもしょうがないけど、あの時、何か動いておけばよかった。せっかくはっきりとした「お知らせ」があったのに。かと言って何ができたか分からないけど、でも、あの時もっといろんなことを真剣に考えておけばよかった。

 3月9日の昼の地震の時、私は、せっかく東北でとんでもない地震が起こったのではという予感を抱いたのに、その後に流れてくる情報で、どうやら大した被害はなかったらしい、と知ってそこで安心してしまい、もうそれ以上地震について考えるのをやめてしまったのだ。
 自らの甘さを悔いる。

・今日3月14日に感じたこと
 昼頃、また福島第一原発の何号機かが巨大爆発、というニュースを聞いて、少し怖くなった。「巨大爆発」という表現も怖かったし、地震発生から3日も経ってる今頃になって、なぜこういうことが起きるんだろうとも思っていた。

 原発についてはTwitterでは、それはもういろんな発言が交錯していて、「危ないから早く避難して」系のRTと「大丈夫です。徒に不安を煽らないでください」系のRTがせめぎ合っていた。しかも双方とも「東大の〇〇先生が言ってた」とか「原子力の専門家が言ってた」とか、いろいろな権威をくっつけていた。Twitterは簡便で速報性や拡散性に優れているだけに、今回はまさに「情報が錯綜している」という表現がふさわしい。あまりにもたくさんの情報を浴びすぎて、多くの人が何を信じたらいいのか分からなくなり、どんどん信頼できる権威を求めていったが、その権威と権威の意見が真っ向からぶつかっている場合も出てきて、人々は不安に陥っている。
 ふだん、自分はITリテラシーが高い、と自称している人でも、今回はツイートの真偽を見極めるのが難しかった例も多々あったのではないだろうか。というのはRTがされすぎて、出所が判らなくなっている情報があまりにも多く、出所を確かめた人も、この出所は本当に信頼できるのだろうか、と疑心暗鬼になる。「いろいろな情報を鵜呑みにしないでください。自分の頭でよく考えて判断してください」といったツイートもたくさん流れてくるので、逆にリテラシーの高い人ほど、あらゆる情報を疑ってしまって、もはや何を信じたらいいのか、という心理状態に陥っているかもしれない。

 私はテレビを見るのはほどほどにしていたが、今日はTwitterをみるのもほどほどにした。

東北地方太平洋沖地震3日目(2011年3月13日)

 今朝起きて、Yahoo Japanのトップページを見たら、「1万人不明の町」などという信じがたい文字が飛び込んできた。

yahootopics.png

 被害の規模が私が当初、予想していたものを遙かに上回っている。歴史に残る大地震になるとは直感していたが、ここまでとは思っていなかった。

 「〇〇大震災」と呼ばれるようになるだろうと一昨日書いたが、今朝のテレビを付けてみるとNHKは「東北関東大震災」、民放は「東日本大地震」と呼んでいるところが多かった。

 一日遅れの内容になるが、昨日の私の行動を書き留めておこう。

・3月12日土曜日(地震から2日目)の私の行動と考えていたこと

 昨日はほとんどテレビはつけなかった。テレビで悲惨なニュースを見聞きするのが精神的に辛かったし、節電が呼びかけられていたからだ。たまたま部屋の蛍光灯が切れたので買いに行こうと思い、午前11時頃、地震後初めてまともに出かけた。

 コンビニに行ったら、牛乳が目に飛び込んできて「なんだいつも通りじゃないか」と思った直後にこの光景が入ってきた。いつもなら手前が食料棚で、奥が弁当やおにぎりを売ってる棚である。

conveni1.jpg

 ご覧のとおり、がらん堂。

 こちらは菓子パン棚だが、こちらもガラ空き。

conveni2.jpg

 食料以外の日用品みたいなのは普通に売ってた。飲み物類は普段の半分くらい。カップ麺の類が普段の4分の1くらい残っていた。
 買い溜めはしない。私がたくさん買ってしまったら、私よりも後に来た人が食べるものがなくて困るだろう。私は蛍光灯と石鹸を買いに来たのだ(ちょうど切らしたから)。

 午後もすることがなくて、ネットを少し見たりする以外は考え事をしていた。
 この大災害のさなかに私が考えていたのはパンダのことだ。
 パンダ?東北の人たちがこれだけ甚大な被害に遭っているというのに、私はいったい何を言っているのだ。
 ほとんどの人には興味のないことだろうが、地元ではもうだいぶ前からパンダが来るという話題で盛り上がっていた。リーリーとシンシンは故郷の四川でも大地震に遭い、そして日本に来て早々また大地震に遭い、ずいぶん災難だったなあ、そんなことをぼんやり考えていた。
 あと考えていたのは、前に亡くなったおばあちゃんのこと、宮澤賢治『銀河鉄道の夜』中の一節「僕はもう、あのさそりのようにほんとうにみんなの幸いのためならば僕のからだなんか、百ぺん灼いてもかまわない」という言葉を思い出していた。

 3月12日(地震2日目)に体に感じた余震は、1時間に2、3回かそれ以上の頻度であったような気がする。


・3月13日日曜日(地震から3日目)の私の行動と考えていたこと

 正直言って、私は、死者行方不明者が1万人を超えるなんてことは昔の日本、あるいは現代だったら発展途上国でしか起こらないと思っていた。現代の先進国ではそんなことは起こらない、東京直下型地震が起きたとしても1万を超えることはないだろうと思っていた。

 三陸の海岸沿いは、昔から何度も大きな津波に襲われてきた。
 1896(明治二十九)年の「三陸地震津波」。
 1933(昭和八)年の「三陸沖地震」。
 1960(昭和三十五)年の「チリ地震津波」。
 津波に対する言い伝えや教訓もあり、津波への世界最高レベルの備えがあったことだろう。
 しかし今回は役に立たなかった。過去に類の無い、想定を遙かに上回る規模だったから。
 人間は、滅多に起こらないことには備えることはできないものだ。

 マグニチュードは今日の午後になって9.0に修正された。日本の歴史上最大の地震だ。世界レベルでも稀有な大地震。
 
 今日もほとんどテレビは見ない。

 今日も正午ごろ、コンビニまで買い物に出かけたが、昨日とほとんど同じで食料は売ってなかった。「松屋」が通常通り営業していたのでそこで食事。
 帰り道の途中、昼間っから酒を飲んでるホームレスらしきおじさん6人組がワイワイ賑やかにしている脇を通ったら、その中の一人から声をかけられた。

 酔「お兄ちゃん、踊ろうか?」(阿波踊りの真似をしながら)
 私「・・・」
 酔「兄ちゃん、今日休み?」
 私「今日、日曜日ですよね」
 酔「そう、休みなんだ。一緒に酒飲んでく?」
 私(苦笑)

 よっぽど私が暗い顔をしていたのだろう。酔っぱらいのおっちゃん、ありがとう。なんだか少しだけ気が晴れた気がするよ。

 家に帰ってからは、読書したり少しだけネットを見たりして過ごす。
 今日3月13日に体に感じた地震は12回くらい。(朝8時から午後9時半まで)。ただし2時間ほど外に出ていた間は気づいてない。午後のほうが少ない。

 地震時の津波の様子を伝えるテレビやYouTubeの動画がぞくぞくと集まってきているが、まるで映画の中のフィクションの世界のよう。

 赤木智弘は「希望は戦争」と言っていた。戦争ではなかったが、天地がひっくり返るほどの大災害が起こった。
 だが今日、TwitterのTLで、ある人が、東京の会社の人に電話をしたら地震の話もそこそこに「ところで先日の〇〇の件ですが」と仕事の話が始まった、とツイートしていた。
 私が恐れていたのはこれだ。明日から月曜日。三陸地方の人は別として、東京ではまるで何事もなかったかのように普通にいつもの仕事が始まるのだろう。
 戦争が起ころうが、未曾有の大地震が起ころうが、天地はひっくり返らないのだ。ただ生き残った者の心と体に大きな傷跡を残すだけ。
 多くの日本人が整然と冷静に普段どおりの仕事を淡々とこなす姿に敬意を感じる一方で、被災地への支援や東京でのライフラインに関わる仕事以外の仕事ならこんな時ぐらい休んでいいんじゃないか、どんだけ仕事好きなんだよ日本人、という思いがある。
 赤木の、日常を壊したいという願いの前に、戦争や大地震は徒花となり、赤木は結局さらに苛酷な「日常」を見せつけられることになるだろう。
 この国では暴動も騒乱も起きない。規律は規律。ルールはルール。仕事は仕事。これが地震ではなく戦争であったとしても同じことだ。革命も下克上も起きない。

 慟哭すべきときは声をあげて泣き、非常、非日常が訪れたときはそれもまた受けとめる。もっとそういう在り方でもいいのではないか。
 

東北地方太平洋沖地震2日目(2011年3月12日)

 今日3月12日、地震から2日目。

 昨日、最悪1000人を超えることも予想される、と書いた死者行方不明者は、今日になってその通りの事態になってきた。
 昨日、この地震は「〇〇大震災」と呼ばれるようになるかもしれないと書いたが、今朝、ネット上で「東日本大震災」と書かれているのを見た。
 私は、新聞紙やテレビは見ていないが、今朝の午前8時42分に配信されたニュースで産経新聞が使っているのが、今回の地震における「大震災」という言葉の最も早い使用例ではないか。
daishinsai.png
 私も名付けるとしたら「東日本大震災」かと思っていた。昨日の最初の時点では、「東北大震災」かと思っていたが、関東地方も被災したし私の住んでる東京もかなり激しく揺れたので「東北関東大震災」かと思い直したが、今日の未明に長野県、新潟県でも震度6の揺れを観測したというニュースがあったので、「東北関東甲信越大震災」と呼ばなければならないが、それではあまりにも長いし、今回の地震の被害が相当の広範囲に及んでいることや過去に例の少ない大規模災害であることを考慮しても「東日本大震災」という呼称が適切ではないかと思っていた。東北と北海道を合わせて「北日本」と呼ぶこともあるが、日本を東西に大きく分けた場合は「東日本」なのでこれは妥当だと思う。

 そう言えば、まだ政府から、今回の地震が「激甚災害」に指定されたという話を聞かない。今回の災害が「激甚」なのは言わなくても誰の目にも明らかだし、急いで指定する必要もないからだろう。あと数日経ってから指定されることだろう。

 私は普段は、リアルタイム性の高いことはTwitterの方に書くようにしているが、Twitterのタイムラインは今、緊急災害情報確認用みたいな感じになっているので、私個人の呑気な地震の感想などを書きこんでいる雰囲気ではないので、今回の地震に対する所感を書く場所はブログに切り替える。

 東京人をはじめとする多くの人がTwitterに今回の地震の感想を呟いている。それらは後でtogetterなどにたくさんまとめられるだろう。
 だがそれらとは別に私個人の感想も書き留めておきたい。このブログを見てる人は東京近郊の人が多いだろうが、西日本など遠方に住んでる人たちにとっては、東京に住んでる人が今回の地震をどのように体感し、どう行動しているのか、ということの参考に少しはなるだろうと思う。

・昨日3月11日の私の行動と考えていたこと

地震直後
 午後2時50分頃(正確な時間は覚えていない)東京、私は自宅に一人でいた。最初揺れだした時は「ああ、また地震か」と思った。東京では地震はちっとも珍しくない。
 私の家は安いボロアパートで、地震の時は普段から何割増しかで揺れる。震度3ぐらいの地震だったら4か5くらいに感じる。しかも東北地方と地盤がつながっているみたいで、以前から東北の地震はよく感じていた。青森で震度3ぐらいでも感じることがよくあった。
 机に向かって座っていた。蛍光灯を見ることすらない。いつものよくある地震だからだ。このままやり過ごそう。しかし窓やいくつかのものがガタガタと鳴り出して、「ん、少し大きいかも」と思って立ち上がった。とりあえず、少し大きめの地震が来た時にはいつもそうするように、玄関に行ってドアを開けた。ドアが変形してしまって外に出られなくならないようにするためだ。
 ドアを開けた姿勢で揺れが収まるのを待った。30秒ぐらいで収まるだろう。ところが揺れは収まるどころか、どんどん激しくなっていった。横揺れだがゆっくりとした揺れではなく「ガタガタガタッ」と細かく激しく揺れ出した。これはまずいっ!と思った。人生で経験したことのない揺れだ。私は左手にスマートフォンを持っていたので、Twitterアプリを開き、激しい揺れの中、震える手で東京で大地震が起きている旨のツイートを放った。もっと揺れが大きくなるかもしれないと思ったので、まだなんとか立っていられるうちに言葉を書き残しておきたいと思ったのだ。
 震度6か?7か?これはひょっとしたらアパートごと崩壊するかもしれないという思いがよぎった。言葉を紙に書いても瓦礫に帰すだけだ。なんとしても電波で外に飛ばしたい。
 今考えれば、Twitterの利用者は東京の人が圧倒的に多いので、地震だなんてそんなことは分かってるよ、とお互いに思うことになったかもしれないが、でも遠方のフォロワーもいたかもしれない。
 食器がガタガタ鳴っていたので食器を抑えにまわる。転倒防止器具を付けていた本棚は倒れなかったが本はたくさん飛び出し、棚の上に置いていたものはすべて落ち、冷蔵庫は大きく動いた。
 揺れは長く続いた。3分ぐらい揺れていたのだろうか。もっとだったろうか。
 揺れが少しづつ収まり始めてから、TwitterのTLを見出した。私は一人だったし声をかける人もいなく、恐怖に襲われた時の不安を誰かと共有したかったのかもしれない。
 しばらくTLを見ていて、ふと気付いてテレビをつけた。Twitter→テレビの順番だった。
 私がなぜ他のネットサービス(メール含む)よりも先にTwitterを開いたのかを考えると、やはり速報性、リアルタイム性においてTwitterが一番だと日頃から思っていたからだろう。
 今にして思えば、スマートフォンのUstで揺れる室内を撮影しておけばよかったと思うが、その時は思い至らなかった。
 テレビでは東北地方で強い地震があったことを伝えていた。Twitterは、私がフォローしている人が東京に住んでる人が多いこともあって、東京の情報を中心にものすごい速さで流れてきた。私はTLとテレビ画面を交互に見ていた。何が起こっているのかを知りたいと思った。

地震ちょっと落ち着いてから
 地震が起きて15分ほどたってから外に出た。スマートフォンだけ持って。近くの広場に行ってみたら、数人の人が集まっていたが、みんな持ち物は携帯電話だけだった。途中、変わった様子はなかった。街並みはいつも通り。静かな街だった。風が非常に強いと思った。火事が起きたら延焼しやすそうだ。もうこれ以上、大きな余震はないのではないかと思い、家に戻った。
 家の窓から眺める景色もいつも通り。煙も上がっていないし外が騒がしいということもない。スカイツリーも倒れていない。

地震後から日没まで
 数時間TLを見ながら過ごす。だが断続的にかなり頻繁に大小の余震があったので、そのたびに私はツイートし続けていた。

 日没までにやったことは、冷蔵庫の位置を元に戻した。家の中に大散乱した他のものは手を付けなかった。お腹が空いたのでお茶でも入れようかと思いガスコンロの火をつけようとしたらつかなかったので、ガスメーターを復旧させたこと。あと、お風呂に水を張ったこと。家のすぐ近くに防災用井戸があるので断水しても大丈夫なのだが、念のため。

地震の揺れの特徴
 テレビでは緊急の災害情報を伝えていて、地震のメカニズムがどうとかいう話は後回しになるだろう。
 私の部屋は南北に長く、多くの棚は、南北方向の壁に沿うようにして並べてある。

 room.jpg

 今回の地震で南北に沿って立てていたAの食器棚やBの本棚からはほとんど何も落ちなかったが、東西方向に沿って立てていたCの本棚の本はたくさん飛び出して床に落ちた。また図には描いていないが、もう一つ東西方向に置いた棚の上にあったものはすべて落ちた。それは北側にも南側にも落ちていた。
 私のこの部屋の状況から考えると、今回の地震は、東京では、特に南北方向に大きく揺れたのではないかと推測される。

日没後から深夜まで
 質素な食事をしながら(と言っても私にとってはいつも通りだが)、テレビを見る。NHKからテレビ東京まですべての局が地震関連番組をやっている。食後はテレビを見ながらブログを書く。午後8時ごろから10時ごろのたった2時間あまりの間に絶望的なニュースが入ってくる。
 テレビを見るのが段々、怖くて辛くなってきて、消す。ブログを書くのに専念。午後11時頃、書き終え、パソコンの電源も落とし、部屋の電気も消して、布団に入る。ただし断続的に揺れているため、眠れそうにないので、布団の中でスマートフォンでTwitterのTLをずっと見ていた。1時頃、いつの間にか眠る。

TwitterのTLを見ていて感じたこと
 私は結局地震が起きてからその日はずっと家にいたので、外の様子はTwitterを通してしか分からなかった。夜になって帰宅難民が大量発生していることも主にTwitterで見ていたのであり、自分が実際に見聞きしていたわけではなかった。私の家の前の細い路地を帰宅難民がぞろぞろ歩いてるなんて光景もなかった。
 デマが流れてきて、その直後に猛烈なスピードでいろんな人から訂正ツイートが流れてくることは昨日も書いた。
 私はこれだけの大災害があった当日のことはできるだけ時系列的に記録しておきたいと思ったので、何時何分にNHKテレビで何人死亡というニュースを聞く、などとツイートしていたが、そういうツイートを嫌がる人がいた。こんな時だからこそもっと明るいツイートをしましょう、と。
 日本人がこんな大災害の時でも、パニックに陥ったり悪行に走ったりすることなく、いかに落ち着いて整然と行動しているかという、感動話や美談が拡散RTされてたくさん流れてきた。そういう感動話や美談を「胡散臭い」と思う人もいるだろう。でも私はなんとなくそういうRTをしたい人々の気持ちを理解できた。
 東京には私のように一人暮らしの人がたくさんいる。ただでさえ一人で怖くて不安でたまらないのだ。そんな時にスーパーやコンビニの強奪とか夜道でレイプとか起こり始めたら、もう怖くて体の震えが止まらなくなるだろう。昨夜TL上でたくさん見られた「美談拡散RT」というのは、人々にみな善人であってほしい、という願いがこもっているのだ。美談をたくさん流すことで、なんとかこの秩序社会が崩壊するのを食い止めたい、という気持ちがあったのだろう。

ソーシャルメディアについて
 Twitterは強かった。これだけの大災害で大量のツイートが飛び交ったはずだが、落ちなかった。本当に頼りになった。
 他のネットサービスもいろいろとサービスの提供を申し出た。
 Googleは災害情報をまとめたページを開設したし、日本のユーザーが多いEvernoteはプレミアム機能を開放した。ソフトバンクも動いた。
 Facebookは何をしていたのだろう。昨日、4sqなどの位置情報サービスはどう機能したのだろう、と書いたが、Facebook(を代表とするソーシャルメディア)は今回の震災でどういう役割を果たしたのだろう。FBは実名主義ゆえに、疎遠になっていた人とも連絡がとれるという利点がある。本来ならこれほど安否確認に適したサービスは他にない。実際、いわゆる「先進的ユーザー」の中にはFBでたくさんの安否確認メッセージや御見舞いメッセージをもらった人もいたようだ。
 しかしそれは一部の人の話で、どうも全体的には、今回はFB絡みの話が少ない。日本でまだ十分にFBが普及していなかったから、安否確認の手段としてFBを利用した人が少なかったのかもしれない。
 私もFBに何回かアクセスしたが、私はフレンドがいないこともあり、何のメッセージも届いていなかった。私の側から昔の知り合いで何人か気になる人がいたので、こういう非常事態でもあることだし声をかけてみようかと思って名前を検索してみたが、私の知り合いは尽く誰もFBに登録していなかった。
 というわけで、Facebookは今回の震災では少なくとも初期段階ではあまり活躍した印象がない。FBが活躍するとすれば、もっと日にちが経って、仮設住宅に暮らす人々への炊き出しボランティアなど各種ボランティアが必要になった時に、もしかしたら活躍する機会があるかもしれない。その時にムーヴメントを起こせるかどうか。

2011(平成23)年3月11日東北地方太平洋沖地震当日

 2011年3月11日午後2時46分頃、大きな地震があった。

 毎日新聞3月11日19時38分配信のニュース
 

11日午後2時46分ごろ、東北地方で非常に強い地震があり、宮城県栗原市で震度7、仙台市や宇都宮市で6強、東京都心でも5強となるなど、北海道から九州の広い範囲で震度6弱~1の揺れを記録した。津波も福島県・相馬港で7メートル以上を観測するなど、国内の太平洋側のほぼ全域に襲来。気象庁によると、震源地は宮城県・牡鹿半島の東南東約130キロで、震源の深さは約24キロ、地震の規模を示すマグニチュード(M)は国内の観測史上最大の8.8と推定される。建物倒壊や土砂崩れ、火災、津波の被害などが各地で発生し、毎日新聞のまとめでは午後7時現在、死者は39人。行方不明者も多数に上り、警察などは救助作業に全力を挙げている。(毎日新聞)



 この地震は、「東北地方太平洋沖地震」と名付けられたが、明日以降、被害情報が明らかになるにつれて、場合によっては「〇〇大震災」と呼ばれるようになるかもしれない。
 「阪神淡路大震災」も最初は「兵庫県南部地震」と呼ばれていて、「阪神大震災」と呼ばれるようになるまで数日あった。
 今日(3月11日)の夜の時点で、被害の全容はまだまだ判っていない。明日以降、痛ましい悲惨なニュースが徐々に入ってくるだろう。今はまだそうした甚大な被害を実感する前夜なのだ。最終的な死傷者数は3桁をこえるのは確実だろうという予感がする。最悪、1000人を超えることも考えられる。東北地方には神戸ほどの大都市はないので、阪神淡路大震災ほどの死傷者数にはならないかもしれないが、歴史に残る地震になるのも間違いないと思う。

・地震とネットの関係
 地震が起こったとき、私は身の回りのライフラインを確認したが、止まったのはガスだけだった。それも安全のために自動的に止まっただけで、供給が止まったわけではなかった。電気、水道、テレビ、インターネットもつながっていた。

 私が情報をとるために使ったのは、テレビ(NHK)、Twitter、Yahoo、Googleだった。主には速報性の高いTwitterのTLを見ていたが、NHKテレビを見られたことは心強かった。テレビが見られない人のためにNHKやTBSはUstreamでも配信されていたようだ。ネットの他のさまざまな手段を使った人がいただろう。
 だが、インターネットにしろ、テレビにしろ、本当に大きな被害に遭った人はそもそも端末を手にしていないだろう。
 個人的には4sqなどの位置情報サービスが今回の地震でどのように機能したのか興味があるが、今の時点でよくわからない。

 TwitterのTLを見ていて気付いたこと

・最初、揺れてるときは、多くの人が実況をしていた。
・しばらくしてから、東北が震源であるなどの情報や津波に関する情報が流れだした。
・さらにしばらくしてから、地震災害の時の心得などのたくさんの拡散RT願いが流れだした。
・東京では電車などの公共交通機関の運行状況に関するツイートも多かった。
・多くの施設が帰宅難民たちのために施設を開放している情報が流れた。
・少しのデマも流れた。
・デマ訂正のツイートもものすごい勢いで流れた。

 しかしこれらの情報は、主に東京を中心とする地域の情報であって、東北地方の実態をTwitterのTLから掴むことは難しかった。
 東北地方の被害状況は、テレビで確認してた。


・日本史上最大の地震か

 NHKや毎日新聞が、今回の地震が「観測史上最大」と伝えている。「観測史上」とは、明治時代以降という意味だ。では、江戸時代以前にまで遡っても「最大」だったのか。

 今日3月11日夜時点で、気象庁が、今回の地震のマグニチュードを「8.8」と発表している。

 世界を見ればまた別だが、日本に限って言えば、マグニチュードが「8.5」を超えた地震は滅多にない。

 家にあった『理科年表』の「日本付近のおもな被害地震年代表」を見てみたが、私が見た限りでは、1707(宝永4)年に起きた「宝永地震」がマグニチュード「8.6」でこれまでの最大地震だったようだ。(※必ずしも確かではない)。
 理科年表より引用。

五畿・七道:『宝永地震』:わが国最大級の地震の一つ.全体で少なくとも死2万,潰家6万,流出家2万

と書かれている。
 この宝永地震がM8.6だったとすると、今回の地震がM8.8だから、やはり日本史上最大の地震だった可能性がある。(※被害規模ではなくて、地震の規模マグニチュードが最大という意味)


・個人的に
 
 東京は昔から地震の多いところだから地震には慣れているつもりだったが、こんなに怖い思いをしたのは初めてだった。
 地震はいやだ。地が揺れるということは、不安定=不安=不安心を呼び起こす。

 この記事を書いてる間も数回の余震があり、NHKTVが溺れたと見られる200人から300人の遺体が見つかったという情報を伝えている。

 東北地方では甚大な被害があり、東京では帰宅難民などの都市型の被害が起こっている。

 明日以降、悲惨なニュースが次々と入ってくると思うと辛い。
 今日はもっとたくさんのことを書き留めておくべきだと思うが、いったん、ここまで。

 この記事は急いで書いたので、後で削除することもあるかもしれない。

 午後11時すぎ、いったん擱筆。

(2014/3/11、仮名遣いを現代仮名遣いに改めました。この文章は震災当日の記録として多くの人が見返すと思いましたので。タイトルも含め、文章の内容は変更していません。元の文章は以下に残してあります。)



 

 2011年3月11日午後2時46分頃、大きな地震があった。

 毎日新聞3月11日19時38分配信のニュース
 

11日午後2時46分ごろ、東北地方で非常に強い地震があり、宮城県栗原市で震度7、仙台市や宇都宮市で6強、東京都心でも5強となるなど、北海道から九州の広い範囲で震度6弱~1の揺れを記録した。津波も福島県・相馬港で7メートル以上を観測するなど、国内の太平洋側のほぼ全域に襲来。気象庁によると、震源地は宮城県・牡鹿半島の東南東約130キロで、震源の深さは約24キロ、地震の規模を示すマグニチュード(M)は国内の観測史上最大の8.8と推定される。建物倒壊や土砂崩れ、火災、津波の被害などが各地で発生し、毎日新聞のまとめでは午後7時現在、死者は39人。行方不明者も多数に上り、警察などは救助作業に全力を挙げている。(毎日新聞)



 この地震は、「東北地方太平洋沖地震」と名付けられたが、明日以降、被害情報が明らかになるにつれて、場合によっては「〇〇大震災」と呼ばれるやうになるかもしれない。
 「阪神淡路大震災」も最初は「兵庫県南部地震」と呼ばれてゐて、「阪神大震災」と呼ばれるやうになるまで数日あった。
 今日(3月11日)の夜の時点で、被害の全容はまだまだ判ってゐない。明日以降、痛ましい悲惨なニュースが徐々に入ってくるだらう。今はまださうした甚大な被害を実感する前夜なのだ。最終的な死傷者数は3桁をこえるのは確実だらうといふ予感がする。最悪、1000人を超えることも考へられる。東北地方には神戸ほどの大都市はないので、阪神淡路大震災ほどの死傷者数にはならないかもしれないが、歴史に残る地震になるのも間違ひないと思ふ。

・地震とネットの関係
 地震が起こったとき、私は身の回りのライフラインを確認したが、止まったのはガスだけだった。それも安全のために自動的に止まっただけで、供給が止まったわけではなかった。電気、水道、テレビ、インターネットもつながってゐた。

 私が情報をとるために使ったのは、テレビ(NHK)、Twitter、Yahoo、Googleだった。主には速報性の高いTwitterのTLを見てゐたが、NHKテレビを見られたことは心強かった。テレビが見られない人のためにNHKやTBSはUstreamでも配信されてゐたやうだ。ネットの他のさまざまな手段を使った人がゐただらう。
 だが、インターネットにしろ、テレビにしろ、本当に大きな被害に遭った人はそもそも端末を手にしてゐないだらう。
 個人的には4sqなどの位置情報サービスが今回の地震でどのやうに機能したのか興味があるが、今の時点でよくわからない。

 TwitterのTLを見てゐて気付いたこと

・最初、揺れてるときは、多くの人が実況をしてゐた。
・しばらくしてから、東北が震源であるなどの情報や津波に関する情報が流れだした。
・さらにしばらくしてから、地震災害の時の心得などのたくさんの拡散RT願いが流れだした。
・東京では電車などの公共交通機関の運行状況に関するツイートも多かった。
・多くの施設が帰宅難民たちのために施設を開放してゐる情報が流れた。
・少しのデマも流れた。
・デマ訂正のツイートもものすごい勢いで流れた。

 しかしこれらの情報は、主に東京を中心とする地域の情報であって、東北地方の実態をTwitterのTLから掴むことは難しかった。
 東北地方の被害状況は、テレビで確認してた。


・日本史上最大の地震か

 NHKや毎日新聞が、今回の地震が「観測史上最大」と伝へてゐる。「観測史上」とは、明治時代以降といふ意味だ。では、江戸時代以前にまで遡っても「最大」だったのか。

 今日3月11日夜時点で、気象庁が、今回の地震のマグニチュードを「8.8」と発表してゐる。

 世界を見ればまた別だが、日本に限って言へば、マグニチュードが「8.5」を超えた地震は滅多にない。

 家にあった『理科年表』の「日本付近のおもな被害地震年代表」を見てみたが、私が見た限りでは、1707(宝永4)年に起きた「宝永地震」がマグニチュード「8.6」でこれまでの最大地震だったやうだ。(※必ずしも確かではない)。
 理科年表より引用。

五畿・七道:『宝永地震』:わが国最大級の地震の一つ.全体で少なくとも死2万,潰家6万,流出家2万

と書かれてゐる。
 この宝永地震がM8.6だったとすると、今回の地震がM8.8だから、やはり日本史上最大の地震だった可能性がある。(※被害規模ではなくて、地震の規模マグニチュードが最大といふ意味)


・個人的に
 
 東京は昔から地震の多いところだから地震には慣れてゐるつもりだったが、こんなに怖い思ひをしたのは初めてだった。
 地震はいやだ。地が揺れるといふことは、不安定=不安=不安心を呼び起こす。

 この記事を書いてる間も数回の余震があり、NHKTVが溺れたと見られる200人から300人の遺体が見つかったといふ情報を伝へてゐる。

 東北地方では甚大な被害があり、東京では帰宅難民などの都市型の被害が起こってゐる。

 明日以降、悲惨なニュースが次々と入ってくると思ふと辛い。
 今日はもっとたくさんのことを書き留めておくべきだと思ふが、いったん、こゝまで。

 この記事は急いで書いたので、後で削除することもあるかもしれない。

 午後11時すぎ、いったん擱筆。

 

パンダ名考

 上野動物園にやって来たパンダ2頭の名前が今日(2011年3月9日)決定した。

東京・上野のパンダ、日本名決まる オス「リーリー」 メス「シンシン」 - MSN産経ニュース

東京・上野動物園が中国から借り受けるジャイアントパンダのつがい2頭の日本名が9日、決まった。オスが「リーリー」(力力)、メスが「シンシン」(真真)。都などが名前を公募していた中から審査の末に選ばれた。


パンダの中国名はオスが「比力(ビーリー)」、メスが「仙女(シィエンニュ)」。


都は、2頭の来日にあわせて日本名を公募したところ、4万438件の応募があった。選定委員会で応募数の多かった名前100点を対象に選考を実施。オス・メス各4点の名前を最終候補として審査し、「リーリー」(応募数は359件)、「シンシン」(同127件)に決まった。
 決定理由は、「リーリー」が活発で力持ちのイメージ、シンシンは「純真」「天真」などの優しいイメージだった。



 1月に名前の公募があって以来、どんな名前に決まるのだらうと思ってゐた。

 東京動物園協会がパンダの名前を公募してゐたときに、「サクラ」とか「ソラ」といった大胆な名前を応募してゐる人がゐて、ちょっと気になってゐたのだ。
 上野動物園の歴代のパンダたちの名前はみな、初代カンカン、ランランから始まって最近のリンリンに至るまで、同じ音の繰り返しである。

カンカン
ランラン
ホァンホァン
フェイフェイ
チュチュ
トントン
ユウユウ
シュアンシュアン
リンリン

 いづれも中国っぽい名前であり、そこにいきなり「サクラ」とか「ソラ」といった日本人のやうな名前が出てくるのは私は違和感があった。

 実際に「サクラ」(メス)と「ソラ」(オス)は、40438件の応募の中から最終候補の4点に残ったらしい。因みに最終候補に残った4点の名前はこちら。

オス
 リーリー(359件)、
 ヨウヨウ(226件)、
 ゲンキ(216件)、 
 ソラ(128件)

メス
 サクラ(817件)、
 シャンシャン(270件)、
 シンシン(127件)、
 ミライ(66件)
 
(参照:UENO-PANDA.JP

 この中に明らかに日本人っぽい名前が4つある。「ゲンキ」と「ソラ」と「サクラ」と「ミライ」だ。「ゲンキ」や「ミライ」は漢語を聯想させるからまだしも、「ソラ」と「サクラ」は完全なる和語だ。

 なぜ今回このやうな"日本っぽい"名前の応募がたくさんあったのだらうか。
 1月に名前の公募があったとき、たしか私の記憶では、東京動物園協会は「日本での名前を募集」としてゐたはずだった。ところが、多くのマスコミがこれを「日本名を募集」と伝へた。
 「日本での名前」と「日本名」ではニュアンスが違ふ。「日本名」と聞けば、「日本っぽい名前」「日本人っぽい名前」を考へる人もゐるだらう。

 しかし今回のパンダの来日が、中国から東京都への「寄贈」ではなくて「貸与」であることを併せ考へても、やはり私は中国っぽい名前がよいと思ってゐた。

 だから中国名の「ビーリー(比力)」と「シィエンニュ(仙女)」のまゝでもいいと思ってゐた。たゞし、「仙女」の読みは、マスコミでは「シィエンニュ」で統一してゐるやうだが、これでは多くの日本人は「しーえんにゅ」と読んでしまふだらう。本来の中国語の発音に近い「シェンニュ」もしくは「シェンニー」と表記するのがいいだらう。

 「しーえんにゅ」だと長くて呼びにくい。「びーりー」は日本語で「最下位」を意味する「びり」を聯想させる。といったやうな理由で日本での名前が新たに募集されたのかもしれない。

 「リーリー」「シンシン」といふ名前は、中国名の「ビーリー」「シェンニュ」に似せてゐる意図が伝はってくる名前だ。

 ところでパンダの漢字名の読みは面白いもので、オスの「力力(リーリー)」は日本語では「リキリキ」と読むのが普通だ。一方、メスの「真真(シンシン)」は中国語読みでは「ジェンジェン」だ。オスは中国語読み、メスは日本語読み。子どもたちが親しみやすい、あるいは語感が可愛らしい読みの方を選択してゐるのだらう。


 こゝまで、上野動物園のパンダについて書いてきたが、和歌山の動物園のパンダには、また違った名付けの伝統があるやうだ。

永明(えいめい)
梅梅(めいめい)
良浜(らうひん)
雄浜(ゆうひん)
隆浜・秋浜(りゅうひん・しゅうひん)
幸浜(こうひん)
愛浜・明浜(あいひん・めいひん)
梅浜・永浜(めいひん・えいひん)
海浜・陽浜(かいひん・ようひん)

 名前に「浜」が付いてゐるのが多いのは、白浜町といふ町の名前に由来してゐるのだらう。例へば「永浜」を「ながはま」とは読まずに「えいひん」と音読みしてゐるのは、やはり中国っぽさを意識してゐるのだらう。
 こゝでも、「梅浜」は普通に日本語読みすれば「ばいひん」のはずだが、「梅」を「めい」と中国語読みしてゐる。
 難しいのは「良浜」で、これは日本語読みなら「りょうひん」で中国語読みなら「りゃんびん」のはずだが、これで「らうひん」と読ませてゐる。「らうひん」の名前の由来を調べてみたが分からなかった。

 あと、気付いたのは、上野動物園のパンダが基本カタカナ表記なのに対して、和歌山のパンダは漢字+ひらがなで表記されることが多い。これは、和歌山のパンダは日本生まれが多いから、その分少し「日本っぽい」のだらう。






(おまけ)
世界を駆けるパンダ。

PANDA 1/2「PANDA! PANDA! PANDA!」