暫定龍吟録

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2011年04月の記事

余震はいつまで続くのか -『方丈記』に見る元暦地震-

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又同じころかとよ、おびたゝしく大地震振ること侍りき。そのさま、世の常ならず。山は崩れて河を埋み、海は傾きて陸地をひたせり。土さけて水わきいで、巌われて谷にまろびいる。渚漕ぐ船は波にたゞよひ、道ゆく馬は足の立ちどをまどはす。都のほとりには、在々所々、堂舎塔廟、ひとつとして全からず。或は崩れ、或は倒れぬ。塵灰立ち上りて、盛りなる煙の如し。地の動き、家の破るゝ音、雷にことならず。家の内にをれば、忽ちにひしげなんとす。走り出づれば、地われさく。羽なければ、空をも飛ぶべからず。竜ならばや、雲にも乗らむ。恐れのなかに恐るべかりけるは、只地震なりけりとこそ覚え侍りしか。(鴨長明『方丈記』)

(意訳)
元暦二年(1185年)ごろだったと思うが、大地震があった。その様子は尋常じゃなかった。山は崩れて川を埋め、海は傾いて陸地に浸水した。地面は裂けて水が湧き出し、岩は谷に転げ落ちた。船は波間に漂流し、馬は足場を失った。都のあちこちで、仏塔など一つとして無事ではなかった。あるものは崩れ、あるものは倒れていた。塵が立ち上って煙のようだった。震動、家の壊れる音は、雷のようだった。家の中にいれば、たちまち下敷きになってしまう。かと言って外に走りだせば、地面が割れている。羽がないので空を飛ぶこともできない。竜だったら雲にも乗って逃げるだろうが。恐ろしいものの中でとりわけ恐ろしいのは、地震なのだと思った。



 東日本大震災から一カ月以上が経った。普通なら一カ月も経てば、「あの時の地震は」などと振り返るところだが、今回の地震はあまりにも巨大で被害が甚大すぎて、行方不明者の捜索や避難所生活、原発事故の問題も未だ現在進行形だ。
 そして何より、今回の地震の特徴は余震が多い、ということだ。3月11日からちょうど1カ月が経った4月11日にも大きな余震があり、その翌日の4月12日にも千葉県沖で大きな地震があった。東京に住んでいる私のところでは、3月11日から今日4月17日まで、体に感じる地震が1回もなかった日はニ日しかない。
 地面が不安定であるということは、心の不安を引き起こす。震度4とか5のとりわけ大きな揺れではなくて震度1か2程度の小さな揺れでも、こう頻繁に続くと嫌なものだ。私のTwitterのTLでは、多くの人が「怖い」「気持ち悪い」「いいかげんにして」と不安を口にしている。実際に生命の危険を感じるほどの揺れではないのだが、やはり地面が絶えず揺れているというのは、人間の心を不安にさせるものだ。それでなくても、テレビやインターネットで流れてくる三陸地方の悲惨な映像などを毎日たくさん見て、心の平静を失っているのだ。その疲弊して弱った心に相次ぐ余震が追い打ちをかけている。
 東京にいてさえ、これだけ不安なのだ。揺れが大きい東北地方の人はもっと不安だろう。そしてこの余震が何より応えているのは、避難所生活を送っている人たちだろう。

 最初の巨大地震があった3月11日は金曜日で、その翌土曜日と日曜日は、電車もまともに動いてないし、店は休業だらけ、コンビニ・スーパーに行っても買う物がなく、テレビをつけても地震のニュース一色、というわけで、何もすることがなく、また何も手につかなかったので、私は一心に本を読んでいた。
 その時読んでいたのが、『方丈記』だった。

 『方丈記』は、今からほぼ800年前に鴨長明(1155-1216)によって書かれた随筆文学の古典として有名だが、この中に地震に関する記述が出てくる。それが冒頭に引用した部分である。
 鴨長明が被災したこの大地震は、歴史的には「元暦の大地震」として知られている。地震について語ったこの箇所は、『平家物語』にも類似の文章がある。
 「元暦地震」とは、1185年(元暦2年)7月9日、近畿地方を襲ったマグニチュード7.4クラスの大きな地震だった。

近江・山城・大和:京都,特に白河辺の被害が大きかった. 社寺・家屋の倒潰破壊多く死多数. 宇治橋落ち,死1. 9月まで余震多く,特に8月12日の強い余震では多少の被害があった.

(『理科年表』より)

 鴨長明は、この地震を30歳の時に経験した。特に京都で被害が大きかったらしいから、京都人の鴨長明は大きな被害と衝撃を受けただろう。だからこそ、こうやって地震の様子を詳細に記しているのだ。この地震をはじめ、火事(安元三年の火災)、水害(治承四年の竜巻)、飢饉(養和の飢饉)など度重なる災難に襲われたことが、あの「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」で始まる名随筆『方丈記』執筆のきっかけになった。
 そして、この1185年元暦地震の一つの大きな特徴は、余震が多かった、ということだった。鴨長明もその点については詳しく書いている。

かくおびたゝしく振る事は、しばしにてやみにしかども、そのなごりしばしば絶えず。世の常驚くほどの地震、二三十度振らぬ日はなし。十日廿日過ぎにしかば、やうやう間遠になりて、或は四五度、二三度、若しは一日まぜ、二三日に一度など、おほかたそのなごり、三月ばかりや侍りけむ。四大種のなかに水火風は常に害をなせど、大地にいたりてはことなる変をなさず。昔斉衡のころとか、大地震振りて、東大寺の仏の御頭落ちなど、いみじき事ども侍りけれど、なほこの度にはしかずとぞ。すなはちは、人みなあぢきなき事を述べて、いさゝか心の濁りもうすらぐと見えしかど、月日重なり、年経にし後は、ことばにかけて言ひ出づる人だになし。

(意訳)
こんなに大きな揺れはしばらくしてやんだけれども、余震が絶えなかった。普通にびっくりするくらいの地震が1日に2、30回くらいあった。10日、20日ほど過ぎてようやく間隔があいてきて、1日に4、5回、2、3回、もしくは1日おき、2、3日に1回などとなって、結局、余震は3カ月ぐらい続いた。この世のものの中で、水害と火事と台風はいつも被害があるけれども、大地が揺れるなんてことはなかった。昔、斉衡時代(854-857)に大地震があって、東大寺の大仏の頭が落ちたとか聞いたことあるけれど、今回ほどの地震ではなかっただろう。その当時は、人々は皆「情けない」とか「はかない」とか言って、心の中の濁りや欲望も薄らぐように見えたけれども、年月が経って、そんなことを言う人もいなくなった。



 7月9日に起きた大地震の余震が断続的に9月頃まで続いた様子が詳しく記録されている。鴨長明が『方丈記』を書いたのは57歳の頃なので、自身が30歳の時に被災した地震、すなわち27年も前のことを驚くべき記憶力でこんなに詳しく書いているのである。もしかしたら地震があった時、余震の回数などを克明に日記につけていたのかもしれない。そして更に驚くことは、鴨長明は自分が生まれる300年も前の斉衡時代の地震について知っていたことだ。今でこそ、図書館やインターネットに過去のアーカイブが保存されていて簡単に調べることができるが、当時はそれほどの情報社会ではない。今回の東日本大震災があった時も、新聞にでも教えてもらわないかぎり、「そう言えば、300年前の江戸時代にも大きな地震があったなあ」などと思えた人はいないだろう。鴨長明はどうやって300年も前の地震を知っていたのか。古文書を調べたのか、それとも京都の街で代々、人々に言い伝えられて来た話だったのだろうか。


 元暦地震と東日本大震災、時代も違えば、場所も違うし規模も違う。今回の東日本大震災のほうが圧倒的にスケールが大きかった。地学的、地震学的には比較することはあまり意味が無いかもしれない。
 しかし、余震が多いという共通点はある。元暦地震は7月9日に最初の大きな揺れがあり、その約1カ月後の8月12日に強い余震があった。平成の東日本大震災では、3月11日に最初の大きな揺れがあり、そのちょうど1カ月後の4月11日に大きな余震があった。体に感じる揺れの間隔が少しづつあいてきている感じも似ている。余震がいつまでも続いて不安だが、もし『方丈記』を参考にするならば、私は3カ月後、つまり6月くらいには余震は収まるのではないかと思っている。科学的ではないけれども、目安を立てることで不安を和らげているのだ。ただし、もちろん今後も大きな地震に対する警戒は必要だ。

 『方丈記』から学びたいのは、地震の直後は、皆「はかない」などと言って「心の濁り」つまり欲望や執着などが薄らいでいたのに、年月が経つと皆そんなことも忘れてしまった、という鴨長明の指摘だ。
 今回の東日本大震災でも、「ウエシマ作戦」と呼ばれた「どうぞどうぞ」という譲り合いの精神や、「ヤシマ作戦」と呼ばれたみんなで協力して節電しよう、という、たくさんの互助や思いやりの精神が生まれた。こうしたせっかく生まれた美しい精神が、歳月とともに失われていってしまうのは悲しい。

 現代の私たちは、この大災害、大災難にどう向き合い、どう心持ちを持つべきなのか。800年前に書かれた書物がいろいろと教えてくれる。


【『方丈記』関連の記事】

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金子みすゞとともに振り返る大震災一カ月

 振り返るのはまだ早い。行方不明者の捜索活動も、避難生活も、原発の問題も、すべて現在進行中だ。
 しかし、地震から今日でちょうど一カ月が経ったのを期に、この大震災をあらためて考えてみようと思う。


・金子みすゞと大震災

 今回、3月11日の地震の後に多くの企業がテレビのCMを自粛し、代わりにACのCMが大量に流れた。その中で使われた金子みすゞの詩が話題になった。「こだまでせうか」という詩だ。

 こだまでせうか

「遊ばう」つていふと
「遊ばう」つていふ。

「馬鹿」つていふと
「馬鹿」つていふ。

「もう遊ばない」つていふと
「遊ばない」つていふ。

さうして、あとで
さみしくなつて、

「ごめんね」つていふと
「ごめんね」つていふ。

こだまでせうか、
いいえ、誰でも。

(『さみしい王女』所収)

 金子みすゞは、大正末期から昭和初期にかけて活躍した童謡詩人。小さな命を大切にする感性の詩を数多く残した。
 この「こだまでせうか」という短い詩は、この一カ月間テレビで繰り返し流れ、日本中の多くの人が耳にした。もう全文覚えてしまった人もいるだろう。

 このCMであらためて脚光を浴びた金子みすゞだが、その作品の中に、震災のことをうたった詩がある。

 去年のけふ
 -大震記念日に-


去年のけふは今ごろは、
私は積木をしてました。
積木の城はがらがらと、
見るまに崩れて散りました。

去年のけふの、夕方は、
芝生のうへに居りました。
黒い火事雲こはいけど、
母さんお瞳がありました。

去年のけふが暮れてから、
せんのお家は焼けました。
あの日届いた洋服も、
積木の城も焼けました。

去年のけふの夜更けて、
火の色映る雲の間に、
しろい月かげ見たときも、
母さん抱いてて呉れました。

お衣もみんなあたらしい、
お家もとうに建つたけど、
あの日の母さんかへらない。
今年はさびしくなりました。

(『空のかあさま』所収)

 この「去年のけふ-大震記念日に-」という詩は、大正14年に発表されたものだが、この「大震」とは大正12年9月1日の「関東大震災」を指しているとみて間違いないだろう。
 金子みすゞは山口県の人だが、その生涯で東京に住んだことはない。関東大震災があったときも山口県下関市に住んでいた。大正時代に山口県付近で大きな地震があったという記録もない。なので、この詩は、金子みすゞ自身が被災した経験を書いたのではなく、東京で被災した子どもの気持ちになって書いた詩だろう。
 当時の人は関東大震災のことを「大震災」とか「大地震」ではなく「大震」と呼んでいたのだろうか。

 今も東北地方には、この詩で書かれたことと同じような思いをしている子どもがたくさんいるだろう。一年たったら、家は再建するかもしれないが、あの日の母さんはかえらないのだ。


・不安心理と「みんなちがって、みんないい」

 3月17日の記事にも書いたが、日本人が今回の震災後に整然と行動した、というのは、一つには「恥」の意識が規定しているのだと思う。みんなが列に並んでいるのに自分だけ並ばなかったら恥ずかしい、という思いが強く作用している。しかし日本人特有のこの「横並び」意識は、時に秩序が一気に崩壊する危険性を孕んでいると思う。逆に言えば、みんなが略奪しているのなら自分もしても恥ずかしくないだろう、ということになる。
 金子みすゞは、「私と小鳥と鈴と」という詩の中で「みんなちがつて、みんないい」という有名な言葉を残した。小鳥には小鳥の、鈴には鈴の、そして私には誰にも真似できない私のよさがある、と。
 「他の人もみんなやってるから」という動機ではなく、「私は私」として「間違ったことはしない」という信念で行動しなければ、今回のような非常時には、社会不安にたやすく押し流されてしまうだろう。そうした不安心理に駆られた人が、悪意はなかったにせよ、チェーンメールやデマを多く拡散させてしまったりもした。(震災後に飛び交ったデマについてはこちらにまとめられている。「震災後のデマ80件を分類整理して見えてきたパニック時の社会心理[絵文録ことのは]2011/04/08」)。


・小さな命へのまなざし

 金子みすゞの詩には、「おとむらひの日」、「お葬ひごつこ」、「鯨法會」、「にぎやかなお葬ひ」など、弔いに関する詩がたくさんある。人の生やあらゆる生き物の命に対する深い眼差しがあったことがわかる。彼女の代表作でもある「大漁」の中の一節「濱は祭りの/やうだけど/海のなかでは/何萬の/鰮のとむらひ/するだらう。」には、そうした視点がよく表れている。

 今日4月11日は、東日本大震災から一カ月。そして、金子みすゞの誕生日。生きていれば108歳になる。26歳の若さで夭逝した金子みすゞは、大震災をきっかけに自分の詩が人口に膾炙しているのを天国で見て、どう思っているだろうか。おそらく今回の震災で亡くなった何万もの命への「おとむらひ」をうたうのではないか。


 金子みすゞは決して暗い詩ばかり書いていたわけではない。最後に明るい詩を紹介しておこう。

 おてんとさんの唄

日本の旗は、
  おてんとさんの旗よ。
日本のこども、
  おてんとさんのこども。
こどもはうたほ、
  おてんとさんの唄を。
さくらの下で、
  かすみの底で。

日本のくにに、
こぼれる唄は、
  お舟に積んで、
  世界中へくばろ。
こぼれるほどうたほ、
  おてんとさんの唄を。
さくらのかげで、
  おてんとさんの下で。

(『空のかあさま』所収)

 戦後最大の国難と言われる今回の大震災。日本全体が辛い時で、世界中からたくさんの支援をもらっているが、むしろ日本が元気を出して国内に「こぼれる唄」を逆に「世界中へくば」るぐらいの意気込みでいきたい。
 金子みすゞが背中を押してくれている。


東京人は2011年の夏を乗り切れるか

 今日4月7日、asahi.comのニュースより。

asahi.com(朝日新聞社):家庭の節電促す「電気予報」放送 今夏、経産省が検討

東京電力管内で電力不足が予想される今夏、経済産業省が、テレビやラジオで天気予報ならぬ「電気予報」の放送を検討していることが6日、明らかになった。近く放送局と調整に入る。計画停電を避けるため、電力需要の3割を占める家庭の節電意識を徹底するよう促す。
電気予報はニュース番組などで放送される天気予報に続いて、当日や翌日の電力の需要と供給の予測を時間帯別に伝える方法を検討している。猛暑で日中に需要が高まりそうな場合、「冷房の設定温度を上げて」「使わない家電製品の電源を抜いて」といったコメントも添え、視聴者に節電をするよう注意を促す。



・初めての「節電」

 経産省からこのやうな呼びかけがなくとも、今まで水や電気をこまめに節約してゐた人はゐただらう。だが、「節水」が、ダムの貯水量が足りなくなる心配から「水がもったいない」といふ精神で行はれてゐたのに対し、「節電」は、「電気がもったいない」といふよりも、今までは「お金(電気代)がもったいない」といふ精神で行なってゐた人が多かっただらう。
 今年2011年の夏は、おそらく初めて「電気がもったいない」といふ「でんこちゃん」の精神で行はれる節電となる。


・猛暑の日に冷房を消せるか

 「電気予報」はいいアイデアだと思ふが、上記記事中、「猛暑で日中に需要が高まりそうな場合、「冷房の設定温度を上げて」」といふのは、難しいだらうと思ふ。
 日頃から節電意識が高い人は、普段から冷房の設定温度を高めに設定してゐるだらう。それなのに、今日は最高気温が35℃を超える猛暑日だ、といふ日に、いつもより更に設定温度を高くすることができるだらうか。
 逆に意識の低い人は、日頃から冷房温度を低く設定してガンガンに冷やしてゐる。最高気温28℃程度の日にガンガンにかけてる人が、最高気温35℃の日に冷房をゆるめるとは考へにくい。
 そこで考へたいのが「リアルタイム節電」だ。


・リアルタイム節電

需要が急に跳ね上がって供給を上回り、予期せぬ大停電が起こりそうになれば、「ニュース速報」で電力使用をただちに控えるよう求めるテロップを流す案もあがっている。新聞やインターネットでも、電気予報ができないか検討する。


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 最近、Yahoo Japanのトップページにこのやうな東京電力の電力使用状況が表示されてゐる。
 これは、さうした一環だらう。
 だが、こゝ数日、これを見てゐるが、「毎時更新」と書いてあるものの実際には常に2時間くらゐ前の情報が表示されてゐる。
 もしできるなら、もっとリアルタイム性を高めて、電力使用状況を知らせてはどうか。さうすれば、どんなに暑い日でも「今一瞬だけ、冷房を止める」といふことは各家庭ではできるだらう。
 全員が一斉に冷房を止めて、電力使用量が十分に下がったのを見て安心して、全員が一斉に再び冷房のスイッチを入れてしまったら大変なことになってしまふわけだが、リアルタイム情報を流したとしても、そこまで大勢の人が一斉の行動を取ることはないと思ふ。情報にアクセスする時間は各人バラバラだからだ。
 リアルタイム電力使用量情報を流すなら、やはりネット、特にTwitterを使った方がいいだらう。新聞では「予報」はできても、リアルタイムな情報は伝へられらない。


 私たち東京人がこの夏を乗り切れるかどうか、知恵が試されてゐる。



東北地方太平洋沖地震から三週間

 今日で、東北地方太平洋沖地震から三週間になる。今は、救助活動が終わって、生き残った被災者支援活動に移っている段階だ。行方不明者の捜索は今も続いている。復興はまだまだ先。原発の問題も現在進行形であり、収束の目処は立っていない。
 また、今回の地震は非常に余震が多く長く続いており、昨日3月31日まで、体に感じる揺れが一回もなかった日は一日もない。

 状況はメディアが伝える以上のことはあまりわからない。
 私が観測できる範囲のことを書き留めておこう。


・スーパーやコンビニの状況

 東京の私の家の近くのスーパーやコンビニにおける話。

 スーパーでもコンビニでも、多くの食料品が、地震から11日後の3月22日ごろから揃い始めた。そしてこの頃は、水も普通に売っていた。しかし、3月23日に金町浄水場から放射線が検出されて乳児への水の摂取制限が発表されてから、ペットボトルの水が一気に姿を消した。
 
 今日4月1日現在、食パン菓子パン類、カップ麺類、米も冷凍食品も揃っている。品切れ状態が続いているのは、500mlサイズの牛乳、ペットボトルの水、ぐらいだろうか。私が不便に思っているのがそれぐらいだということで、スーパーでもコンビニでも全体的に空き棚はまだたくさんある。
 しかし、今日スーパーに行ってみたら、今までよりだいぶ客も少なかったので、いわゆる「買い溜め」「買い占め」も落ち着いて来ているのだろう。

 近くの薬局のトイレットペーパーは地震から18日後の3月29日にやっと店頭に並んだ。


・現代の藤田東湖

 昨日、朝日新聞がこのようなニュースを伝えていた。

asahi.com(朝日新聞社):天井崩落、女生徒救う 中1柔道部員「日本一強い男に」 - 社会

東日本大震災が起きた今月11日、栃木県下野市の市立国分寺中学校の体育館で、同中1年の柔道部員、瀬内龍虎君(13)が、崩れ落ちる天井の下から女子生徒を助けた。自身も落下物が肩にあたり、けがをするなか、女子生徒を上から覆うようにして壁際まで移動させた。とっさの判断だったが、「勇気ある行動」として校長賞が贈られた。


 私は、この話を読んで、江戸時代の水戸の儒学者、藤田東湖を思い出した。藤田東湖は、1855年の「安政の大地震」の時、母親を庇って外へ押し出し、自らは上から落ちてきた梁の下敷きになって絶命した。「東湖」と「龍虎」と名前の音の響きも似ているし、茨城と栃木と同じ北関東の人で、自分の身を挺して女性を守ったという共通点がある。
 いつの時代も立派な人はいるものだ。


・「東日本大震災」という名称

 2011年3月11日に起きた地震は、その日の内に「東北地方太平洋沖地震」という名前がついて、その後は、ほとんどのマスコミが「東日本大震災」、NHKだけが「東北関東大震災」という名称を用いていた。
 「東日本大震災」と「東北関東大震災」では、後者の言い方のほうが被害が大きかった地域をより的確に表わしているかもしれない。
 また、同時期に起こった長野県や静岡県の地震を含めるか含めないか、でも違ってくる。含めるなら「東日本大震災」だが、含めないなら「東北関東大震災」だ。
 
 今日、政府が閣議によって、3月11日の地震を「東日本大震災」という名称にすることを決め、NHKのニュースでも今日からは「東日本大震災」と言うようになった。

 私は、どちらかと言えば、「東日本大震災」という名称のほうがいいだろうと思っていた。というのは、「東北関東大震災」という名前にしてしまうと、大正12年の「関東大震災」についてネットで調べたい時、検索結果に「東北関東大震災」に関するものが含まれてしまうと思ったからだ。
 「東日本大震災」というあまりにも大きすぎる名前が、まさに千年に一度と言われるこの未曾有の災害に相応しいかもしれない。