暫定龍吟録

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2011年12月の記事

パーソンランクの時代

 この記事は2011年の大晦日に書いてゐる。2011年もいろいろなことがあった年だったが、明くる2012年はどんな年になるだらう。もちろん明るい未来だったらいいのだが、私には心配の種もある。
 そこで、私が今感じてゐる「2012年はこんな年になりさうだ」といふ予感を書く。日本には「来年のことを言ふと鬼が笑ふ」といふ諺があるけれども、私は来年といふ近い未来のことを考へるのは決して悪いことではないと思ふ。

 私が気にかゝってゐることの一つは、こゝ数年のソーシャルネットワークの発展だ。フェイスブックやツイッターに代表されるやうなソーシャルメディアが普及するにつれ、ソーシャルネットワークの世界はどんどん拡大を続けてゐる。私は、かうしたソーシャルネットワークの拡大が私たちの社会、あるいは生活にどのやうな影響を齎すのか、といふことを随分前から危惧してゐる。そして今から2年ほど前に、少し恐ろしい世界のイメージが頭の中に浮かんだ。「人がランク付けされる」といふ世界だ。この2年ほど、ずっとそのことについて考へてゐたがブログには書かなかった。しかし2012年、いよいよさうした世界が現実に顕在化してくるかもしれないといふ不安が大きくなってきたので、その不安の根元と問題点について整理するために、こゝに書いておかうと思ふ。


・2010年初頭、「ツイ割」の衝撃

 2010年1月、私は一つの気になるブログ記事を見かけた。「百式」で有名な田口元氏が、ツイッター割引を実施してゐる玩具屋さんに行った時のレポート記事だ。


Twitterのフォロアー数に応じて割引してくれるボードーゲームのお店、『すごろくや』に突撃してきた! | IDEA*IDEA

 今から2年ほど前、2010年1月、東京・高円寺のボードゲーム店が「ツイ割」を実施した。ツイ割といふのは、ツイッターのフォロワーの人数に応じてその値段分、割引するといふキャンペーンである。フォロワーが100人ゐたら100円の割引。そのかはり、客はツイッターでお店について呟く。
 さういふ企画をやってゐたお店に、当時フォロワー数25万の@taguchi氏が訪れた。私はその時の@taguchi氏と店員とのやり取りに、何か目に見えない緊迫感を感じ取った。

しばらく店内を見回したあとに店員さんをつかまえて質問してみます。

「えーと、Twitterで割引と聞いたのですが?」
「ええ、そうですよ」
「フォロアー数に応じて割引ですよね?」
「そうです」
「僕、25万人ぐらいいますけどいいですか?」
「え?・・・えーと、いいですよ、もちろん」
「ほんとに?」
「えぇ」
「いいんですか?」
「ええ、サイトに書かせていただいたままです。」
「ほんとに?上限とかないんですか?」
「いえ、サイトに書いたままです。」

若干押し問答ぎみになりましたが、どうやら本当に上限はない模様。「実験的な試みなのでいろいろ見直してはいきますが」との前提はありつつも、基本的にはそのままの条件のようです。

でもまぁ、そこで25万円分割り引いてもらうほど鬼畜ではないのでw



 @taguchi氏は、私が知るかぎり、日本で最も早くツイッターを始めた人だ。そして当時、約25万人のフォロワーがゐた。店側としては、25万人もの人に自分の店のことについて宣伝してもらへるのは確かに大きなメリットだ。しかし本当に25万円分の玩具をタダで持って行かれたのでは、大きな痛手である。しかし「割り引く」と言ってしまった以上、後には引けない。@taguchi氏の良心に期待するしかない。
 結局、@taguchi氏は、1500円分の商品を割り引いてもらっただけだった。そしてツイッターどころか、かうしてブログにまで紹介したので、その店にとってはとても大きな宣伝効果になった。よかったよかった、と。

 だが私は、この記事の最後の方に気になる一文を見つけた。

基本的にすごろくやの人たちが素敵だったので印象は良かったのですが、とりようによっては「1フォロアーを1円で買っている」ともとられがちかと・・・(ま、しょうがないですな)。でもTwitterユーザーが楽しんでくれればそれはそれでアリじゃないかな、と個人的に思ったり。



 店の人は、@taguchi氏がネット上の有名人であることを知ってをり、それをきっかけにして話がはずんで場が和んだとのこと。しかし、この時もし、店員が@taguchi氏のことを知らず、話も弾まずに、@taguchi氏の機嫌を損ねてしまったとしたら。その時はどうなるのか。@taguchi氏が店員に対し悪い印象を持ち、ブログに「お店は品揃へも充実してゐたし、それなりに良いお店だったのですが、店員がちょっと不愛想で態度が悪い感じでした」などと書いたら、どうなるのか。
 店側の条件は、ツイッターで店のことについて呟くこと、といふ条件だけなので、その後、ブログなどにどのやうなことを書かうが@taguchi氏の勝手である。
 もちろん、人気ブログで「店員の態度が悪かった」などと書かれたら、店側にとっては大打撃である。しかし、多少大袈裟に言ふならば、店の運命が、@taguchi氏がブログにどのやうに書くか、といふアルファブロガー一人の裁量に委ねられてゐる、といふ状態になってゐるわけで、これはとても怖いことだと思ふのである。


・グーグルの「ページランク」からソーシャルメディアの「パーソンランク」へ

 グーグルはページランクと呼ばれる有名なアルゴリズムを作った。詳細は秘密とされてゐるが、大きな要素は次の3つのやうなものであらう。

 1.質の良いページはページランクが高い。(スパム排除のため)
 2.多くのページからリンクされてゐるほどページランクが高い。
 3.ページランクが高いページからリンクされるとページランクが高まる。

 実際にはこんな単純ではなく、スパムとの長い挌闘の末、今では相当複雑なアルゴリズムになってゐるはずだが、上記に掲げたのは基本的な価値基準である。

 グーグルが生み出したページランクの思想は、ウェブページをノードとしたものだった。私は、これがソーシャルネットワークの時代になって、ノードがウェブページから人に置き換はるのではないかと危惧してゐるのである。
 こんなことは誰でも思ひつきさうなことである。ツイッターを使ってゐて、フォロワー数が多い人はなんとなく自分より格上のやうな気がしたことのある人は多いだらう。
 ソーシャルメディアでは、基本的にウェブページではなく、「人」をノードとして世界が繋がってゐる。それも多くの人が気付いてゐることだ。だとすれば、グーグルのページランクの思想における「ウェブページ」をそのまゝ「人」に置き換へた、言はば「パーソンランク」とでも言ふべきものを誰かが作らうとしてもをかしくはない。

 上記のページランクの3つの価値基準をツイッターで置き換へるならば、こんな感じだ。

 1.オリジナリティのある(RTやコピペやbotでない)ツイートをしている人はパーソンランクが高い。
 2.フォロワー数が多い人ほどパーソンランクが高い。(フォロー数に対するフォロワー数の比率も考慮)
 3.パーソンランクが高い人からフォローされるとその人のパーソンランクは高まる。

 実際、フェイスブックは「エッジランク」といふページランクとパーソンランクの中間のやうなアルゴリズムを作った。
 グーグルやフェイスブックのやうな厖大なソーシャルグラフのデータを持ってゐる企業なら、そんなものはすぐに簡単に作れさうな気がする。実際、もう作ってゐるのかもしれないが、人をランク付けするといふことに対する世間からのバッシングを怖れて公表できないかもしれない。自社サービスのブランド力の失墜はグーグルもフェイスブックも避けたいだらうから。
 しかし、失ふものが何も無いスタートアップ企業なら、それができてしまふかもしれない。私は2011年の初め頃に、Q&AサイトのQuoraが「ピープルランク」とも言ふべきアルゴリズムを開発中である、といふ噂話を耳にした。噂だから本当かどうか全然判らないが。
 Quoraのピープルランクは、Quoraのサイト内だけで適用される指標だからまだよい。もっと大規模に私たちの日常社会にまで浸透してくるほどの巨大なパーソンランクのシステムが敷衍化してきた時に私たちの生活はいったいどうなってしまふのだらうか。


・ARとパーソンランク

hazuma.png


 今でも忘れられない光景がある。2009年の春、私は秋葉原に寄った時に、ふとスマートフォンを空中に翳してみた。すると、空中に「姉ヶ崎」「姉ヶ崎」「姉ヶ崎」といふタグがいっぱい浮かんでゐた。ゲームやアニメにまったく詳しくない私は「姉ヶ崎」といふのが何のことか分からず、おそらく地名だらう、姉ヶ崎といふ街から上京して来た人が記念に自分の街の名前をタギングしていったのだらう、と思ってゐた。

 パーソンランクの思想と、私が秋葉原の空で見た拡張現実の世界が一緒になったら、いったいどういふことになるのか。それはおそらく、アニメ「ドラゴンボール」のやうな世界になるのではないか。これは、考へたことのある人も多いだらう。

 「ドラゴンボール」の中では、「スカウター」と呼ばれるコンピューター付きの眼鏡のやうな機械が登場する。その眼鏡をかけると、相手の戦闘力が数値として表される仕組みになってゐる。
 今あるAR(拡張現実)の技術とパーソンランクのアルゴリズムを組み合はせれば、このやうな機械を作ることはそんなに難しいことではないだらう。

 スカウターを身につけた客が店内に入って来る。客のスカウターにはパーソナルに最適化された商品がレコメンドされる。他店との比較情報ももちろん流れてくる。そしてその店が自分が買ひ物をするに相応しい店かどうかを瞬時に判断する。
 一方、店員の側もスカウターを身につけてゐて、今入って来た客のパーソンランク、過去の購買履歴、その人の行動パターンや商品の嗜好、また一回の買ひ物で平均どれくらゐの金を使ふのか、などの情報がスカウターに表示される。
 さうした多様な情報を元にした、言はば、静かな「バトル」のやうなものが繰り広げられるかもしれない。

 そして、こゝからが重要なところだが、このバトルに最終的に勝つのは、パーソンランクが高い方だ、といふことだ。パーソンランクが高い方のスカウターに、より多くの情報が流れ、また上質かつ制度の高い情報が表示されるからだ。
 さらに、パーソンランクが高い人の最大の強みは、なんと言っても影響力である。店に訪れたのは自分一人だが、自分の背後には25万人のフォロワーが控へてゐるのである。

 こゝから、さらに心配すべき事柄が出てくる。それは、パーソンランクによる人間差別の問題だ。パーソンランク25万の客が入って来たら、店員はビビるだらう。そして丁寧な接客に努めるだらう。しかしパーソンランクが低い客が入って来たら、どうせ影響力がないのだから雑な対応でもよいと考へる店員が出てくるかもしれない。


・パーソンランクとセルフブランディング

 2012年はどのやうな年になるだらう、と考へた時に、例へば危惧されるのは、就職活動の問題だ。

 「ソー活」といふ言葉を聞いたことがある。「ソーシャルメディアを使った就職活動」といふ意味ださうだ。これは2012年以降、ますます主流になっていくであらうことは間違ひないと思はれる。その時、学生たちが使ふソーシャルメディアがフェイスブックなのかLinkedInなのか、はたまた他のメディアなのかは知らない。
 こゝで、私はまた、今年2011年頃から嫌な言葉を耳にしてゐる。それは「セルフブランディング」とか「パーソナルブランディング」とかいふ言葉だ。この言葉の意味は説明しなくてもだいたい見当がつくだらう。
 で、セルフブランディングで自己をブランド化していく際に、もっとも重要となる中心的要素は何だらうかと考へてみる。それはもちろん、自分のページを華やかに色取り取りに飾ったりすることではない。採用する側がもっとも重視するであらうポイント、それはやはり、その人物のフォロワー数などの要素、すなはちその人のパーソンランクであらう。
 といふことは、学生たちが「ソー活」に取り組む際、もっとも力を入れるべきことは、自らのパーソンランクを上げること、といふことになる。そしてパーソンランクを上げる、といふのは本質的に、多くの人と繋がる、といふことに他ならない。
 そこでまた、一つの心配事が出てくる。


・よみがへるコネ社会

 昔は、顔の広い「地元の名士」と呼ばれるやうな人に頭を下げなければ、その街の中では何もできなかった。所謂、顔が広い、多くのコネクションを持った人が強かったのだ。しかし日本では、とうにそんな時代は過ぎ去り、今では人間一人ひとりの「個」が輝く時代になってゐるはずだった。
 だが、今ふたたび「コネ社会」がよみがへらうとしてゐる。パーソンランクの時代にあっては、何よりも「コネクション」の多さや強さが重視されるからだ。

 かつては、インターネットの登場により、引き篭もりであっても、目の前にネットに繋がったパソコンさへあれば、自分一人の力で十分、社会と渡り合っていける、と思はれてゐた。しかしこゝ数年、つくづく思ひ知らされてゐるのは、リアルで友達がいっぱいゐる人の強さだ。数年前から「リア充」といふ言葉を多く目にするやうになったのは、多くの人が「パソコン強者」や「ネット強者」よりも「リア充」の方がやっぱり強いと感じてゐるからであらう。

 私は以前、「Facebookが日本で流行らない3つの理由」といふ記事を書き、その中で「フェイスブックはリア充仕様である」と批判した。フェイスブックは、今でもすでに強いリア充の強さをさらに助長する道具でしかない。このやうな道具が広まることは、パーソンランクの格差を拡げることにしか貢献しない。


・まとめ

 私はパーソンランクの時代が来て欲しくない。でも、時代の流れはさういふ方向に向かってゐる。
 フォロワー数が多い人の方が偉い、などといふ認識は絶対に間違ってゐるし、さういふ間違った認識を起こさせやすい仕組みにも問題がある。人をランク付けしたり、人をノードとして扱ったりするのも間違ってゐる。そこからさまざまな弊害が生ずるであらうことも予想できる。一番まっさきに思ひつくのは「差別」だ。そしてその偏見から生じる「いぢめ」とか、今まで知られてきた社会問題がさらに増幅される方向に向かふのではないかと怖れてゐる。

 今のところ、私が考へてゐる唯一の抵抗は、せめて、それが表に出てこないやうにすることだ。「パーソンランク」といふ名前かどういふ名前が与へられるかわからないが、そのやうなアルゴリズムは必ず誰かによって作られてしまふだらう。
 でも、それはせめて、人々の目に見えない裏方で動いてほしい。表面化しないやうに。特に数字(数値)といふ形で人々に分かりやすいUIで人々の目に届くことがないやうに。そこはぎりぎり食ひ止めたい。
 誰かが決めた価値基準に基づいた人間評価が数字といふ極めて分かりやすい形で目の前に表示されたしまった時、「そんなものに惑はされないで、私は生きる!」と宣言できるほど、人間は強くも賢くもないからだ。
 人間が巨大なアルゴリズムに飲み込まれてしまはぬやうに。
 私たちはもっと多くの人間が輝く優れた仕組みを作れるはずなのだ。

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冬休みに読みたい? 2011年今年の3冊<311を考える>

 新聞で「今年の3冊」といふ企画がある。それに倣って私も「今年の3冊」を書かうと思ふ。

 かういふのは、読書家である評者が今年読んだ厖大な数の本の中から選りすぐりの3冊を選んで紹介するのが普通だが、私は読書家ではないので、私が今年読んだ「たった3冊の本」をすべて紹介してしまはう。たゞし、すべて「311」絡みだ。私は2011年は311を抜きにしては語れないから。

 今年2011年に出版された本、といふことではなくて、あくまで私が今年読んだ本、といふことで。
 それでは、行きませう。


1.『偶然とは何か』竹内啓

偶然とは何か――その積極的意味 (岩波新書)偶然とは何か――その積極的意味 (岩波新書)
(2010/09/18)
竹内 啓

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 1冊目に紹介するのは、岩波新書から出てゐる『偶然とは何か』といふ本。これはすごい本だ。読むのを無理にお薦めするわけではないけれど、もっと多くの人が読んで話題になっていい本だと思ってゐる。
 何がすごいって、この本には「メルトダウン」といふ言葉が出てくる。メルトダウンなんて今や誰でも知ってゐる。311後、多くの人が口にし、また耳にしただらう。しかし、この本が出版されたのは2010年の9月、東日本大震災の約半年前である。311の直前に原発のメルトダウン事故のことを考へてゐた人、話題にしてゐた人はそんなに多くないだらう。
 この本では、偶然とは何かといふことを数学的に緻密に考へていく。それはそれで面白いのだが、圧巻なのは最終章「歴史の中の偶然性」で、人間が偶然とどう対峙していくのか、といふ話が展開されるところだ。

 ちょっと長い引用になるが、今年、311の原発事故を経験したばかりの私たちには、かなり衝撃的な文章だと思ふので紹介しよう。

もしそれが発生すれば莫大な損失を発生するような、絶対起こってはならない現象に対しては、大数の法則や期待値にもとづく管理とは別の考え方が必要である。
例えば、「百万人に及ぶ死者を出すような原子力発電所のメルト・ダウン事故の発生する確率は一年間に百万分の一程度であり、したがって「一年あたり期待死者数」は一であるから、他のいろいろなリスク(自動車事故など)と比べてはるかに小さい」というような議論がなされることがあるが、それはナンセンスである。
そのような事故がもし起こったら、いわば「おしまい」である。こんなことが起こる確率は小さかったはずだなどといっても、何の慰めにもならない。また、もしそのことが起こらなかったら、何の変化もないので、毎年平均一人は死んだはずだなどというのはまったくの架空の話でしかない。このような事故に対して、料率が百万分の一の保険をかける、あるいはその他の対策によって「万一に備える」というのは無意味である。



 そのうえで著者は、このやうな事故が起こる可能性は「無視」しろ、と言ってゐる。原発事故が起こる可能性など無視しろ、と言ってゐるのである。さう聞くと、この著者は原発擁護派なのか?と思はれるかもしれないが、よく読めば実際にはさういふことではないことがわかる。
 著者は、原発事故が起こる確率を十分に小さくした上で、さういふ大事故が起こる確率は無視するやうに、と言ってゐるのである。しかし、「原発事故が起こる確率はどんなに小さくしてもゼロにはできないんだから、やっぱり原発は建てるべきぢゃないんぢゃないの?」と思ふ人もゐるかもしれない。著者はその問ひにも答へてくれてゐる。

 311の地震、津波、原発事故。
 あの日の津波で隣の家は流されなかったのに、なぜ自分の家は流されたのか。あるいは自分の1メートルとなりにゐた人は津波に流されて亡くなったのに、なぜ自分だけが偶然にも助かったのか。さうした体験をした人は、偶然とは何か、運・不運とは何かについて問はずにはゐられないだらう。
 事故が起こる前の原発の存在そのものの問題、事故後の政府・東電の対応の問題、さうした問題に関心がある人も、この本を読んでみるといいかもしれない。
 もう一度言ふが、この本は311の半年前に書かれた本で、福島第一原発事故のことには一行も触れてゐない。にもかゝはらず、あの日の津波や原発事故のことを合はせて考へながら読むと、いろいろ深く考へさせられるのだ。

 この本についての感想を書かうと思ったら、また別に記事を一つ作らなければいけない。興味がある人は読んでみてください。


2.『天災と日本人』寺田寅彦

天災と日本人  寺田寅彦随筆選 (角川ソフィア文庫)天災と日本人 寺田寅彦随筆選 (角川ソフィア文庫)
(2011/07/23)
寺田 寅彦

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 「天災は忘れた頃にやって来る」で有名な寺田寅彦の随筆選。

しかしここで一つ考えなければならないことで、しかもいつも忘れられがちな重大な要項がある。それは、文明が進めば進むほど天然の暴威による災害がその劇烈の度を増すという事実である。(「天災と国防」)


 科学者であった寺田の警句は含蓄があり、重い。これも詳しくは読んでほしいのだが、寺田が言ってゐるのは単純なる文明批判ではなく、世界を設計・構築していく際にどのやうにしていくべきかといふ問題の提言である。インターネットやソーシャルネットワークなどのネットワークの発展に関係した仕事をしてゐる人は読んでおいてもいいかもしれない。

 311後の「風評被害」と呼ばれた問題、「デマッター」と揶揄されたツイッターによるデマ拡散の問題、さういふ問題に関心がある人は、この本に収録されてゐる「流言蜚語」といふ随筆を読むといいかもしれない。
 また、起こってはならない事故が起こってしまった場合の対応の在り方についても考察されてゐる。この点は上記の『偶然とは何か』と同じだ。福島第一原発事故などの起こってはならない事故が起こってしまった場合、政府は、東電は、そして国民一人ひとりは、どう対応したらいいのか。さうした点についても示唆がある。
 決して古い本ではない。何十年も前にこれだけのことを考へてゐた人がゐた。科学者でもあり名文家でもあった寺田寅彦ならではの深い洞察と含蓄のある文章だ。


3.『花びらは散る 花は散らない』竹内整一 

花びらは散る 花は散らない 無常の日本思想 (角川選書)花びらは散る 花は散らない 無常の日本思想 (角川選書)
(2011/03/25)
竹内 整一

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 竹内整一東大教授の退官記念最終講義を収録したもの。

 311で私たちは地震や津波などの自然の脅威をまざまざと味ははせられた。
 この本を読むと、その「自然」とは何なのか、について考へさせられる。
 自然の「自」は、「おのづから」とも読むし「みづから」とも読める。そこから著者は「”おのづから”と”みづから”の”あはひ”」といふ論を展開していく。私たちが普段よく「自然にさうなった」と言ふとき、それは必然的にさうなったのか、それとも偶然さうなったのか。著者は「自然」といふ言葉には必然と偶然の両義性があると言ふ。

 日本人が「自然」をどう捉へ、どう向き合って来たのか、上記2冊と併せ読むとますます興味が深くなる本だ。

 一見、先人たちの言葉や思想を整理してゐるだけにも見えるが、しかしその整理の手法も手腕もかなり鮮やかで、これまた多くの示唆に富む本に出来上がってゐる。
 特に著者が「間(あひだ)」ではなく、「あはひ」といふ言葉を使ってゐるのは、「あはひ」といふ言葉に動的なニュアンスを読み込んでゐるからだ、と書いてあるのを読んだときは、膝を打つ思ひだった。

 この著者は言葉を大事にしてゐる。実際この本は、「はかない」、「いたむ」、「とむらふ」、「しあはせ」、「幸ひ」、「やさし」、「かなし」、「さやうなら」などの日本語の分析を通して、日本思想の深淵に迫っていくスタイルになってゐる。
 さうして著者が描き出したのは、人の手を超越したものと人の手が織り成すものがダイナミックに関係性を変化させながら創りだされていく世界、といふ世界観だ。


まとめ

 今年2011年は、私は3月11日以降は、ほゞ毎日、311のことを考へて過ごした。311で何かが大きく変はったのか、それとも何も変はらなかったのか。希望と絶望について考へた。運、不運について考へた。
 被災してしまった人、ひどい被害に遭ってしまった人は、その不運とどう心の折り合ひを付けていけばいいのか。
 311が惹起した問題は、社会の問題であり、政治の問題であり、経済の問題であり、数学の問題であり、物理の問題であり、工学の問題であり、教育の問題であり、心理の問題でもある。
 それらは311の前からわかってゐた問題のやうな気もするし、311で改めて切実に考へさせられたのだといふ気もする。

 上記3冊は、それらの問題を考へる上で、たくさんのヒントを与へてくれる。正解は無い。


プロが持つべき「所詮」の意識 -続・反プロ論-

 この記事は前回の「プロとは何か -反プロ論-」の続編記事です。

 NHKの「プロフェッショナル・仕事の流儀」といふ番組があまり好きではないことを前回書いた。

 お浚ひしておかう。プロとは何か。

【プロ】
1.職業として行うこと。また、その職業人。
2.ある物事について、(長年の)経験に裏打ちされた知識・技能を具えている人。専門家。



 前回の記事では、1の意味の「職業人としてのプロ」、すなはち「金をもらってやってゐる人間としてのプロ」を批判したのだった。今回は、2の意味の「知識や技能を持った専門家としてのプロ」を批判しようと思ふ。

 「プロフェッショナル・仕事の流儀」といふ番組を見てて何が嫌かといって、たまたまその分野のことがちょっと得意だからと言って、得意になって「流儀」やら「極意」やらを「語って」しまふところが嫌である。「ちょっと」ではない、「相当」得意なのかもしれない。それでも自ら「語って」しまふのは私は見てゐて痛々しく感じるのだ。
 私はさういふ専門的な技術や技能を持った人に対する敬意は持ってゐる。人によっては尊敬の念を抱く。しかしそれはあくまでも「素人からプロへ」といふ方向であって、これが逆転して「プロから素人へ」といふ方向になってはならないのだ。
 「別に自ら語ってゐるわけではない。NHKの人に聞かれたから答へてゐるだけだ」と言ふかもしれない。なるほど、あれは確かにさういった番組だ。NHKの人が巧みに奥義や極意を聞き出す。そしてプロはついぺらぺらと喋ってしまふ。プロの皆さんはあの番組には出ないはうがいいだらう。

 なぜ私は、プロが自らプロフェッショナルを語るのが嫌なのか。

 それは、プロが「所詮」を忘れる瞬間を垣間見るからだ。

 昔、武士の時代に「刀持ち」といふ仕事があった。主君の刀を管理する。
 刀持ちの先輩が後輩に言った。
 「その方の主君は左利きか」
 「いえ、右利きです」
 「ならば何故そのやうな向きに刀を置いてをる。柄の向きが逆ではないか。それでは敵に夜襲をかけられた時に咄嗟に右手で刀を持てないではないか。そんなことではプロの仕事とは言へないぞ!」

 かういふ「先輩」が、いつの時代にも、戦国時代にも江戸時代にも明治時代にも昭和時代にもゐただらう。

あなたがたは社会の現在の秩序に信頼して、それがさけがたい革命におびやかされていることを考えない。
(J.J.ルソー『エミール』)


 最近読んで大いに共感したのは、「仕事の流儀は世代によって異なる」といふ当たり前のことを書いたブログ記事だった。

 ●企画プランナーの頭の中●:ワークショップで考えさせられた世代間で異なる「仕事の流儀」

 社会を安定した秩序の状態と捉へてゐる「先輩」たちは、敵が今まで通り、刀で襲ってくることしか考へてゐない。ピストルを持って襲って来ることを考へてゐない。ピストルで襲はれたらもう一瞬で、刀を右向きに置いてゐようが左向きに置いてゐようがそんなのはあまり関係ないだらう。


 「剣術」といふものがある。現代にも何十、何百といふ流派があって稽古や指導が行はれてゐる。今も世界のあちこちで、師範が弟子に向かってもっともらしい顔で「奥義」だの「極意」だのを伝授してゐることだらう。
 しかし、刀剣が実際に武器として活躍した戦国時代ならいざ知らず、現代において剣術をマスターすることに何の意味があるのか。その剣術はどこで使ふ場面があるのか。
 剣術といふと、いかにももっともらしく聞こえるし、「奥義」や「極意」といった言葉が似合ふし、職人っぽさやプロっぽさを感じる。けれども所詮は、全国各地にある「伝統芸能保存会の皆さん」とやってることは変はりないのだ。
 もっとも私は、伝統的な技芸を馬鹿にしてゐない。それは時に芸術的な価値があり、伝へていく価値がある。しかし、それは必要缺くべからざる「仕事」ではない、といふことだ。


 大正時代から昭和前期にかけて、蒸気機関車が走ってゐた。ウィキペディアによれば、当時の国産の蒸気機関車の技術水準は低く、もっぱら機関士や検修員など現場職員の「職人芸」的な技量によって補われながら走ってゐたといふことだ。
 先輩機関士が後輩機関士に向かってプロとしての仕事の流儀を教へる。
 「火室に放り込む一回の石炭の分量はこれぐらゐだ。タイミングはこれぐらゐのタイミングで。早すぎても遅すぎても駄目だ。シャベルはかういふ姿勢で持ったはうがやりやすい。いかに効率的にできるかを常に考へろ」。
 しかし、かうした「流儀」は現代において役立ってゐるだらうか。日本において蒸気機関車が活躍してゐた時期は70年にも満たない。親子三世代にすら伝はることのない技能を、さももっともらしく語るなど滑稽ではないか。


 パソコン教室の先生が超初心者の生徒さんたちに向かって言ひました。「この砂時計のマークが出たら”待て”の合図だと覚えて下さい」。だが、WindowsVistaからは砂時計はサークルの形に。馬鹿の一つ覚えをしてゐた生徒さんは言ひました。「あれ、先生、”待て”は砂時計ぢゃなかったの?」。私は、ビル・ゲイツの気まぐれにいちいち付き合ふパソコン教室の先生はすごいと思ふと同時に愚かだとも思ふ。


 私は将棋が好きだ。現代の将棋界は歴史的にもかなり高いレベルに位置してゐる。そのトップに君臨する羽生善治はプロとして一流、いや、超一流だ。私は、羽生の超一流のプレイをいつも感嘆の眼差しで見てゐるし尊敬をもしてゐる。こんなすごい人はもう二度と出ないのではないか、ぐらゐに思ってゐる。だが、その羽生にしたって、人間の将棋指しとしては超一流であるといふにすぎない。数十年後には世界で超一流の将棋プレイヤーはコンピューターになってゐるはずである。
 そして将棋は、所詮、ゲームであり娯楽である。明日から将棋が無くなっても誰も困らない。せいぜい一部のプロ棋士と将棋連盟の職員が食ひ扶持に困るくらゐだらう。

 この「所詮」といふ感覚を忘れないでほしいのだ。
 将棋が柔道や剣道のやうに、「将棋道」を名乗り出したら嫌だ。たかがゲームなのにもっともらしく語らないでほしいのだ。

 私はプロを馬鹿にすることを奨めてゐるのではない。むしろ逆で、「非プロ」の素人・一般人たちは、もっとプロへの敬意を持つべきである。これは素人からプロへ、といふベクトルでの話だ。そして逆にプロから素人へ、といふベクトルにおいては、プロはもっともらしいことを語らず、常に「所詮」といふ気持ちを持ってゐてほしい。


 そもそも、「流儀」といふ言葉自体が極めて私的な性格のものだ。「私はかういふやり方でやってますよ」といふだけのことだ。他人にもっともらしく語るやうなことではない。もっとうまいやり方、効率的なやり方があるかもしれないが、それも「所詮」の前では些細なことである。
 井の中の蛙にも泳ぎのプロがゐるだらう。一掻きでどれだけの距離を進めるか、そのやり方を真剣に語ってゐる蛙がゐることだらう。その真剣さは認める。けれども、所詮、井の中であることも忘れないでゐたい。