暫定龍吟録

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2012年05月の記事

東京スカイツリーと後進国的田舎者的心性

 今日2012年5月22日、東京スカイツリーが開業する。

 東京スカイツリーは後進国的建物である。私は、スカイツリーを礼讃してゐる人々、また「まあ、在ってもいい」と建設を容認してきた人々の中に、後進国的心性、あるいは田舎者的心性を感じる。

 私の見知る範囲では、今日までにこの建物を批判し得たのは、仏フィガロ紙の記者レジス・アルノーだけだ。

スカイツリーは東京衰退のシンボルだ | 東京に住む外国人によるリレーコラム | コラム&ブログ | ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイト

 かうした批判がフランス人によってなされること、日本のメディアがどこも批判し得ないのもたいがい情けないと思ってゐたが、つい昨日(5月21日)、毎日新聞が批判記事を書いた。

特集ワイド:曽野綾子さんと考えた 東京スカイツリーなんて、いらない!?- 毎日jp(毎日新聞)

 「「高い建物を建てること=進歩」という考え方は時代遅れだし、今となっては途上国の専売特許だ」と言ふレジス・アルノーに対し、日本人の反応は「フランス人が僻んでる」などといふ幼稚なものばかりが目立つ。


・よくある意見その1「スカイツリーは電波塔として高さが必要だった」

 今、世界で建造物の高さを競ひ合ってゐるのは、中国、東南アジア、中東などの後進国ばかり。欧米の先進国が高さ争ひをしてゐたのは、もう何十年も前の話だ。私は日本は先進国だと思ってゐた。まさかこゝに来て、後進国の高さ競争に参加するとは思はなかった。

 これに対するよくある反論は、「スカイツリーは高さを自慢するために高くしたのではなくて、電波塔として十分な高さが必要だったから」といふもの。

・電波塔で普通に実利を求めたものだろ
・必要性があるからしょうがないんじゃ
・高いビルとかそういう国威発揚目的じゃねえだろ・・・満杯で隙間無い電波を解消するための大型電波塔なのに。

(2chより)
 必要性があったといふのは嘘で、必要性などどこにもなかったといふことが、上記の毎日新聞の記事に書かれてゐる。

地デジで電波塔が足りないから立てるだけだろ単なるインフラだよ


 これも間違ひ。地デジは関係ない。東京タワーで十分、間に合ってゐた。地デジ化した時、スカイツリーはまだ完成してゐない。

・ついでに記録狙うとこういうこと言われるのかw案外馬鹿ばっかだな、地球は
・別に記録狙って不必要な建造物建ててるわけじゃないだろどうせ作るなら高いほうがってことで高くしてるだけで


 これぞまさに後進国的心性。表向きは「必要性」などと言っておきながら、やはり心の内では高さを狙ってゐるのだ。「おらが村にも高い建物が建った」と言って喜ぶ田舎者的心性が垣間見える。
 そもそも電波塔としての高さが必要だったと言ふのなら、最初はもっと低い予定だったのが中国広州の建物の計画を知ってから、慌てて634メートルに引き上げたのはどういふことなのか。
 さらには、電波塔として関東全域に電波を送る必要があったのなら、東京墨田区ではなく、関東の地理的中心であるさいたま市に建てるべきではなかったのか。

つーかスカイツリーに日本人が狂喜乱舞してると思ったら大間違いだろw大半はどうでもいいと考えてるが、完成したらまあ観光スポットの一つとして見に行くかって程度だろうに


 これには笑ってしまった。スカイツリーに来てる中国人団体観光客あたりが「スカイツリーなんてどうでもいい。中国にだってこれぐらゐ高い建物はある。たゞ、日本に来たから、ついでにまあ観光スポットの一つとして見に来ただけだ」と言ひさうである。

 
・よくある意見その2「東武鉄道といふ一営利企業がやってることなんだから関係ないぢゃん」
 
 レジス・アルノーの記事に対する2chコメ。

東武鉄道が勝手にやってる商売用タワーで国家を語る外人って哀しいな


 そして毎日新聞記事に対するはてなブックマークコメント。

スカイツリーは東武鉄道が自分の金でやる事業。目くじら立てるような話じゃ無いだろう。


 私は以前、「「断捨離」への疑問 -ゴミ屋敷の住人はなぜ記憶力がいいのか-」といふ記事を書き、その中で「自分のところだけ片付けばいいのか」といふ問題を提起した。私は多くの「きれい好き」な人たちが自分の家の中だけ徹底的に綺麗にして、他人の敷地のことは知ったこっちゃない、みたいな意識でゐるのが不思議だった。きれい好きなはずの人が、どうして街の中にペットボトルが捨ててあるのは平気なのか。
 マンションやアパートなどの共同住宅に住んでゐる場合、自分の部屋ばかりいくら綺麗にしても隣の部屋が汚かったらゴキブリは出る。「このマンションからゴキブリを追ひ出さう」とか、マンションを一つの有機体として考へられないものだらうか。そして「私の街」、「私の東京」、「私の日本」、「私の地球」といふやうに考へられないものだらうか。

 もしかしたら、上のコメントをした人は東京人ではないのかもしれない。さういふ人にとっては東京は「仕事場」である。効率が良ければそれでよい。草木深きふるさとは別にあるのだらう。
 だが私にとってはこゝが故郷だ。自分の故郷が勝手にめちゃくちゃに改変されていくのを許しておけない。「自分の敷地に何を建てようが勝手でしょ」といふ意見を認めるわけにはいかない。


・よくある意見その3「このカオスっぷりが東京らしくていい」

 新旧が混在した、このカオスな感じがいかにも東京らしくて良い、と言ふ人もゐる。これは好みの問題なので「その好みは駄目だ!」とは言へないが、でも言ひたい。
 浅草からの景色はウ◯コビル辺り、墨田区役所も含めてめちゃくちゃで全然良くない。そしてスカイツリーは墨田区の下町の住宅街の風景ともちっとも合ってゐない。同じ高層建築でも、六本木ヒルズの辺りは街全体でオシャレ感を作ってをり、それほどの唐突感はないが(それでもあるが)、スカイツリーは違和感といふか場違ひ感、唐突感がありまくりだ。

 私は統一感のある街並みの方が好きだ。よく引き合ひに出されるエッフェル塔は、まだ全体的な街の統一感に合ってゐる。しかしあの建物でさへ、フランス人には酷評され、有名な文学者モーパッサンは「ここがパリの中で、いまいましいエッフェル塔を見なくてすむ唯一の場所だから」と言ってエッフェル塔1階のレストランによく通ってゐたさうだ。


・よくある意見その4「外国人が勝手に下町情緒とか言ってるだけで、下町の人間にとっては生活の場だ」

 「外国人観光客を喜ばせるために作ったわけぢゃない」といふもの。生活の場なら、なほさら、あんなに生活と関係ないものを作った意味がわからない。


・よくある意見その5「防災の観点から必要だった」

 下町は住宅が密集してゐて救急車や消防車が入れない道がいっぱいあるから、防災的な意味で再開発が必要だったといふ意見。だが、それだったら普通に防災広場を作ればいいだけだ。あんな高い建物を建てる必要はない。


・日本には「建築家」はゐない、建築の思想も無い

 日本の「大家」とか「巨匠」と呼ばれる建築家が建築の思想を語ってゐるのを雑誌等で読んだことがあるが、思想を語り得てゐる人にまだ出遇ったことがない。
 彼らは「ちゃうど来館者の目線の先にこれが来るやうに」とか「来館者の動線を考へて」とか「日本の伝統的意匠を取り入れて」などと語る。細部には異常に拘ってゐるが、全体のことはまったく考へてゐない。
 先日も「太宰府天満宮参道のスタバがすごい!」とネットで話題になってゐた。日本の高名な建築家が設計したらしい。私も写真で見てみたが全然良くない。周囲の景観とまったく合ってゐない。
 日本の建築家が建てた建築物はどれも、それを単体で取り上げたらそれなりに評価しうるものなのかもしれないが、周囲との調和や街並み全体のことはまったく考慮されてゐない。
 そもそもなぜ太宰府天満宮の参道にスタバが必要なのか、といふ問ひに「巨匠」は答へられない。それは全体的な思想がないからだ。上述の如く、日本人は「私は与へられた土地に最高の作品を作るだけです」といふ思想しか持ち合はせてゐない。「それは天満宮に聞いてください」「それは市役所に聞いてください」と言ふのだ。「隣の敷地のことは知ったこっちゃない」といふ考へ方と同じである。

 日本人は、日本庭園を徹底的に造り込む。洋風や現代風を徹底して排除し、完璧な和風を造り上げる。しかし、その背景に入り込んでゐる巨大で異様な物体のことは問題として取り上げない。背景に堂々と入り込んでゐる高層ビルや高層マンションを無視して松の些細な角度を論じて枝ぶりがどうだとか言ってるのは、滑稽としか言ひ様がない。


・そもそも名前もデザインもダサい

 デザインがダサいといふ意見には賛同してくれる人もゐると思ふ。高い建物を建ててもいいけどもう少しオシャレにできなかったのか、と。スカイツリーは上海やクアラルンプールに建ってる建物ですと言はれてもをかしくないやうなデザインである。建築家は「“反り”や“むくみ”などの日本の伝統美を取り入れた」と言ふが、あれを見て日本的な建物だと思ふ人はゐないだらう。
 「東京スカイツリー」といふ名前についてはだいぶ前に批判記事を書いたのでこゝでは繰り返さないが、東武鉄道は「業平橋駅」を「とうきょうスカイツリー駅」に改名したといふ。「業平橋駅」はもちろん地元で歌を詠んだ在原業平に由来するかっこいい名前だが「とうきょうスカイツリー駅」はかっこ悪い。「とうきょう」が平仮名なのも意味不明。


・京都タワーに通じる残念感

 京都タワーは、京都の街全体のブランド力を下げることに貢献してゐる。新幹線で京都駅について真っ先に見る建物である京都タワーに外国人観光客も日本人観光客も皆がっかりする。東寺の五重塔を差し置いて京都タワーを見たいといふ人はゐない。もちろん、京都は私たち「他所者」のための観光地である前に、京都人たちにとっての生活の場である。しかし京都人も京都タワーを望んでゐないだらう。
 高い建物の中でも、エッフェル塔や東京タワー、大阪の通天閣のやうにそれなりに人々に親しまれてゐる建物はある。しかし京都タワーはそれらの建物に比べると残念感が大きい。「やっぱり建てない方が良かったね」といふ感じである。建てた時は「うわー」と感激して誇らしい気持ちになったかもしれないが、タワーとしては高くもなく綺麗でもなく、特に価値が無いことにだんだん人々は気づき始めた。
 そして私はスカイツリーも似たやうな道を、つまり早々に残念感が出始めるのではないかと思ってゐる。世界一高い建物といふわけでもなく、周辺の街が特にオシャレだといふわけでもない。
 それでも私は、東京タワーや京都タワーはまだしやうがないと思ってゐる。日本が高度経済成長期にあった頃、つまり今の中国のやうに経済第一主義で高い建物を建てたりオリンピックを開催したり万博を開いたりすることに国民の全員が無邪気に誇りを感じてゐた時代の遺物だからだ。
 だがそんな時代はとうの昔に過ぎ去ってゐる。今は平成、21世紀だ。スカイツリーが残念である理由の一つに、この時代錯誤感がある。墨田区は50年かかって港区に追ひつきました、みたいな時代遅れ感である。
 

・「東京」とは違ふ「江戸」の心性

 私は、自分の街東京に、あの忌々しい建物が建ってゐると思ふと納得できないので、あれは「江戸」の建物なんだ、と自分に言ひ聞かせて心の整理をつけてゐる。
 実際、この東京と江戸を分けて考へる、といふのは案外正しいかもしれないと思ってゐる。

 東京と江戸は地域が違ふ。東京と言ったら普通は東京23区のことを指すが、しかし全国や世界の人がイメージする東京は、だいたい山手(線)エリアのことだ。江戸と東京は大きく重なってゐる部分もあるが、台東区、江東区、墨田区の下町エリアは「江戸」と言っていいだらう。
 私は下町エリアのことを江戸と呼んでゐる。そして江戸っ子たちが、私たち東京っ子とは、また違ふ感覚を持って育ってゐるといふことも何となく分かってきた。

 以前、東京スカイツリーの名称を批判する記事を書いた時に、「スカイツリーの名は、これまで下町イメージを無理やり押し付けられてきた地元の人間は大歓迎です」といふコメントをもらった。
 このコメントを読んだ時に思ったのは、江戸っ子たちは「自分たちは東京ではない」といふ思ひをどこかに持ち、そしてずっと東京に憧れ続けてきたのではないか、といふことだった。

 江戸っ子たちはスカイツリーのことをどう思ってゐるのだらう。そんな時に出遇ったのが、地元中の地元民である若き文筆家、中川大地が書いた『東京スカイツリー論』だった。


東京スカイツリー論 (光文社新書)東京スカイツリー論 (光文社新書)
(2012/05/17)
中川 大地

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 墨田区出身の著者は、この本の最初の方でスカイツリーの建設計画段階からの過程を振り返って「新タワーはまさに自らの生まれ育った街の田舎くさい民度の低さを思い知らされる、憂鬱以外の何物でもなかった」と言ってゐる。この一言がすべてを物語ってゐる。
 著者が生まれた頃には、墨田区には美しい景観などすでになく、一部を除けば下町情緒もへったくれも無かった。つまり、守るべき景観が無かった。「美しい景観を守らう」などと言ふには手遅れだった。下町エリアにおける開発はすべてがバラバラで、何の統一感も持ってゐなかった。

 スカイツリーは、さうした下町の「何でもアリ」の土壌に建てられたのだとも言へる。

 著者は後のページで長々とスカイツリーの積極的意義付けを試みる。せっかく建ってしまったのだから、「残念」で終はらせるのではなく何か有意義なものにしたい、と。だが、その過程は苦闘の過程である。なんとか積極的意義付けを探るも、それらはすべて結局、後付けでしかない。読んでゐてその苦しみが伝はってくるやうであり、この本が素晴らしいのもまさにその当事者性にある。地元っ子の著者が自分の故郷に出現したこの巨大な建築物をどう飲み込まうかと試行錯誤してゐる。


・最後に

 もっと小さい建物なら「まあ、好きに建てていいぢゃないの」と寛容になれるかもしれないが、あれだけ大きい建物だとさうはいかない。
 東京には「和風」とか「昔風」に拘った庭づくりをしてゐる家もあるだらう。さういふ家のどの庭の背景にもスカイツリーはメタ的に立ち現れる。「そんなに嫌なら行かなければいい」とは言へても「見なければいい」とは言へない。誰の目にも否応なく入ってくる。大きいといふことはそれだけで少し暴力的でもある。

 東京スカイツリーが何よりも後進国的なのは、経済第一優先主義といふその時代遅れな発想である。電波塔として必要といふ建前の名目は崩れ、経済が潤ひ街が活性化してほしい、といふ本音だけが残ってゐる。そしてその経済発展、地域活性化を実現する手立てとして「高い建物」を持って来たところが田舎者的である。
 つまり東京スカイツリーは、後進国的×田舎者的、である。そして全体のことを考へない、といふ点で悪い意味で日本的でもある。

 「発展がいつも建設を意味するわけではない」といふレジス・アルノーの鋭い指摘をどれだけの日本人が理解できてゐるのだらう。
 
 私は、今日も窓からこの恥づかしい建物を見る。 
 
 
【過去の東京スカイツリー関連の記事】

名称の批判記事

リテラシーとは何か

 先日、「虚構新聞」といふ嘘ニュースを書いてゐるジョークサイトが、ツイッターを中心としたネットの世界で大きく問題になった。
 問題は、2012年5月14日の「橋下市長、市内の小中学生にツイッターを義務化」といふ嘘記事がツイッターでたくさんリツイートされ、日頃から橋下市長の言動に関心を持ってゐた人たちがその記事を本当のことだと思ひ込んで、さらに情報を拡散、騙されてしまった人が続出した、といふ問題だ。

 虚構新聞自身が、この一連の騒ぎを纏めてゐる。(たゞし、虚実混ざった記事なので注意)。

 虚構新聞デジタル:ニュース特集:検証:橋下市長ツイッター義務化報道問題

 この一連の問題を多くの人が話題として取り上げた。虚構新聞を批判する人もゐれば、擁護する人もゐた。

 その中で、虚構新聞を擁護する人たちの中に、何度も「リテラシー」といふ言葉が出て来たのが気になった。要するに「騙されてゐる人は馬鹿。虚構を虚構と見抜けるぐらゐのリテラシーを身に付けろ」といふ意見だ。

 「情報リテラシー」、「ITリテラシー」、「ネットリテラシー」、「メディアリテラシー」などと呼ばれる、この「リテラシー」とは何なのか。
 現代日本社会には、まさにリテラシーが欠けてゐるのではないか。一連の騒動を見てゐて、その思ひを強くしたので、今日こゝに書き留めておきたい。


・「リテラシー」は「読み書き能力」

 リテラシーとは何か。先づは、辞書で確認しておかう。

[literacy]
1 [U]読み書きの能力, 識字能力;教養がある[教育を受けている]こと.
2 (特定分野の)知識, 能力;(コンピュータなどの)使用能力

(『プログレッシブ英和中辞典』)


・「コンピューターリテラシー」から「ネットリテラシー」へ

 「情報リテラシー」、「ITリテラシー」、「メディアリテラシー」といった言葉は、すべて「ネットリテラシー」といふ言葉と似たやうな意味である。しかし2000年代の前半ぐらゐまでは、リテラシーと言へば「コンピューターリテラシー」といふ意味合ひの方が強かった。

 まだ「ヤフー知恵袋」よりも「教えて!goo(OKWave)」がQ&Aサイトの代表であった頃、当時のPCが普及する過程とも相俟って、教えて!gooではパソコン関連のたくさんの質問が溢れてゐた。
 パソコンの初心者が質問し、回答者席に「常駐」してゐるパソコンに「詳しい」人たちが回答するやり取りを私もたくさん見てゐた。

 詳しい人たちは、いつも苛立ってゐた。「過去に同様の質問があります。過去に類似の質問がないかどうか調べてから質問してください」。「もう何度も言ってゐますが、PCについて質問するんだったら、最低限、お持ちのPCのCPUやメモリやOSなどの最低限のスペックを書いてから質問してください」等々。
 私は当時、「教へて!gooの教へ下手」と呼んでゐた。質問者がわざわざ「初心者です」と断ってゐても、「CPUは?」「OSは?」と聞く。初心者がCPUだのOSだのといふ言葉を分からうはずもない。

 「なんで未だにこんな基本的なルールを分かってない人がゐるの?」。「なんで未だに虚構に騙される人がゐるの?」。
 それは、新参者だからだ。時代が移り行き構成員が変はっていく限り、ツイッターにも2chにも毎年一定の新参者がゐる。

 あの頃から変はってないなあ、と思ふ。常連の「詳しい」人たちが、だ。
 パソコンの時代からネットの時代になったけれども、詳しい人たちの言ってることは、「トリセツを読め!」が「ソースを確認しろ!」に変はっただけで、本質的には何も変はってない。

 そもそもソースを“きちんと”確認するといふことがどれだけ大変なことか。
 ワールドワイドウェブがその初期に取り入れたハイパーテキストは元々は「ソースを確認する」といふことを重視した思想だったけれども、無限に続くハイパーリンクはむしろソースを確認するといふ作業をひどく面倒なものにした。
 リンク先の文章にまたリンク。その先にもまたリンク。どれだけリンクを辿って確認しなければいけないのだらう。
 英語圏のサービスで日本語対応してゐるものがあるが、サイトポリシーや利用規約など一部の文章は英語のまゝになってゐるサービスもある。「詳しい」人、「リテラシーが高い」人たちは、さうした英文までちゃんと読んでゐるのだらうか。


・「書く」側のリテラシー

 池上嘉彦が『日本語と日本語論』といふ本の中で、日本人の会話は話し手責任ではなく聞き手責任の文化である、といふ興味深い見方を紹介してゐる。
 欧米に比べて、話す側よりも話を聞く側、書き手よりも読み手、つまり受け取る側の責任が大きい、と。
 しかし本来、リテラシーは「読み書き能力」。「書く」のもリテラシーの内である。
 欧米のネットの世界はよく知らないが、日本ではあまりにも「読む」リテラシーばかりが問はれ、「書く」「記述する」リテラシーが問はれてゐないのではないか。


・「書く」リテラシーの具体例

 では、「書く」リテラシーとはどういふものだらうか。こゝで一つ具体例を紹介したい。

obento_20120520085049.jpg

 これは、先日、私のツイッターのタイムラインにリツイートで流れて来たツイートだ。人によって環境は異なるだらうが、私のTLでは最初は画像は表示されずに文字だけが流れて来てゐる。このツイートは50人以上の人にRTされふぁぼられてゐた。
 よくあるネタ画像といふやつで、この画像が本当にこの人が初出なのかどうか、といふことは今は追はない。

 しかし、私はこのツイートを見た時、嫌な感じがした。このツイートの文章が、だ。別に疑ふつもりはない。この人は「本当に友だちからメールで送られて来たからツイッターに書いたんです」と言ふかもしれない。本当にさうかもしれない。
 だが、特に「知り合いの会社の人」といふところが良くない。いかやうにも人をごまかす時に使はれる表現に見えるからだ。
 かういふネタ画像を投稿する場合はよくよく注意しなければいけない。自分が初出であるなら「知り合いの会社の人」などといふ如何にも曖昧な書き方ではなくて、もっと具体的に書かなくてはいけない。「友だちの◯◯ちゃん(実名でなくあだ名でよい)からメールで送られて来た」とか具体的に画像の由来も書いた方がいい。

 ネタ画像やおもしろ画像は忘れた頃に流れて来る。普段ツイッターをよく使ってゐる人は、「あゝ、この画像2年くらゐ前に見たわー」「この写真いろんなところで見たことあるわー」といふ経験にたびたび出遇ふ。初出ではないのにまるで自分が初出であるかのやうに装ひ、RTやふぁぼを稼ぐ人がゐる。上掲のやうなおもしろ画像なら騙されたとしても被害はないかもしれないが、それでも書く側にはもっと注意が必要である。

 ネタ画像は投稿しないと言ふ人でも、写真を撮ってツイートすることはあるだらう。その時に「ちょwこれワロタw」などといふ一言で紹介してはいけない。もう少しはっきり言ふと、リンクをクリックしなければどんな画像か分からないやうな書き方をしてはいけない。せめて「この猫の座り方面白いw」などのやうに、リンク先を開かなくてもだいたい何の画像であるかが分かるやうに書かなければいけない。(上掲のネタ画像はtwitter.com内なのでまだ良いが)。
 おもしろ画像のコメント欄に「ちょwこれパ◯ツ見えてるw」などといふ一文とともにリンクが張られてゐるのを見たことのある人も多いだらう。リテラシーが高い人は「だれがそんなのに引っかかるか」と思ふだらうが、10代の子なら引っかかってしまふかもしれない。


・ネット全体で書くリテラシー向上の気運を

 「詳しい」人、「リテラシーが高い」人たちは、「トリセツを読め!」を連呼してゐたあの頃から何も成長してゐない。「嘘を嘘と(略)」、「デマをデマと(略)」、「ガセをガセと(略)」、「ネタをネタと(略)」・・・。かうしたことをいつまで言ひ続けるつもりなのか。

 「リテラシーが高い」のだったら、もっとユーザーインターフェースを改良するなり、書くリテラシー向上の気運を盛り上げていくなり、いろいろと良くして行くことができるはずだ。未だに「ソースを確認しろ!」ばかり連呼してゐるのは、あまりに能がないと感じる。


・最後に
 
 この記事は虚構新聞批判ではない。虚構新聞は私も何年か前から偶に読んでゐる。
 虚構新聞そのものよりも、それを擁護する人たちの中にあまりに「リテラシー云々」と言ふ人が多かったので、その人たちに対する批判記事である。

 「リテラシー、リテラシー」と言ふのなら、先づ、「リテラシーが高い」人たちが先頭に立って書くリテラシー、記述するリテラシーの向上に、ネット全体の気運を盛り上げて行ってもらひたい。
 「リテラシーが高い」からこそできることがあるはずだ。



 似たやうなことを批判してゐる記事があったので紹介。

 情報リテラシーなるものの正体 - novtan別館

ソーシャルスコアとソーシャルプア

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via businessesgrow.com



 先月(2012年4月)、朝のNHKテレビを見てゐたら、最近の就職活動の在り方、特に採用する企業の側の在り方が変はってきた、といふニュースをやってゐた。ある不動産会社が今年から、銓衡の際に、履歴書や面接だけでなくフェイスブックのチェックを始めた、といふ事例が紹介されてゐた。その会社の採用担当者曰く、面接などはどの学校も力を入れてゐるので何を質問してもありきたりな答へしか返ってこないので、フェイスブックで応募者の素顔を知りたい、とのことだった。

 私はこのニュースを聞いてゐて、情けなく思った。
 フェイスブックで応募者の素顔を知ることができる!?

 かつて悪質SEO業者とグーグルが何年にも渡り繰り広げてきたあの不毛な戦ひを、ソーシャルネットワーク版でやり直さうと言ふのか。

 実際、もうパーソナルブランディングに関するさまざまな対策がすでに進行してをり、その番組で紹介されてゐた学生向けの就職活動セミナーでは、フェイスブック対策が教へられてゐた。その内容がまた驚くべきもの(と言ふよりくだらないもの)だったのだが、(1)笑顔の写真を掲載しろ、(2)友達の数は50人以上を目指せ、(3)週に2回は前向きな発言を書き込め、といふものだった。

 (1)は自分でできる。(3)は、週に2回くらゐの頻度でポジティブな発言を自動的に書き込んでくれるbotがすぐにでも登場するだらう。そして(2)こそ、悪質業者の出番だ。10万円であなたの友達の数を100人以上にしてあげます、などといふ業者が雨後の筍の如く現れるだらう。いや、もうすでにあるのかもしれない。

 本当にフェイスブックで応募者の素顔を見られると思ってゐるのだらうか。私はテレビを見てゐて、企業の採用担当者がこんなことでは情けない、と不安になった。


・人間を数値化する「ソーシャルスコア」
 
 昨年2011年に「パーソンランクの時代」といふ記事で、人間をノードとしたランク付けの世界が始まらうとしてゐる危惧について書いた。そこでは、とりあへず「パーソンランク」といふ言葉を使ったが、他の言ひ方があるかもしれない、とも書いた。
 私は英語圏のウェブを見てゐるうちに、それが「ソーシャルスコア」といふ言葉で呼ばれてゐるのを見かけた。このソーシャルスコアといふ言葉はまさに私がパーソンランクと呼んでゐたものだ。
 人間を数値でランク付けするといふのは、衝撃的なことであり、多くの人は直感的に反発を感じることでもあらう。実際、ソーシャルスコアの代表格ともいふべきKlout(企業名またサービス名)に対し、英語圏では批判の記事がたくさん書かれてゐる。
 私は「パーソンランクの時代」の記事の中で、パーソンランクにしろエッジランクにしろ、さうした仕組みは出来てゐたとしてもなるべく人の目に触れないやうにしなければいけない、と書いたが、Kloutなどはまさに思ひっきり人の目に触れるやうに、しかも分かり易く表示する仕組みにしてゐる。
 当然だが、人間はそんな数値で測れるものではない。なんでも数値化、定量化しようとするのは西洋人の悪い癖だ。

 そしてKloutに対する批判記事でもやはり多いのが「差別に繋がる」といふ点を指摘する声だ。ソーシャルスコアが低いだけで駄目な人間と見做されてしまったり、差別的な扱ひを受けたりすることになる。「私はスコアの数値を見ても心を動かされません。絶対に差別しません」と言へるほど、人間の心は強くないからだ。
 先日ツイッターのタイムラインで見かけたのは、「この人はかういふところがいい、とか、かういふ点だったらこの人が優れてゐる、とか、 それぞれの人の長所を見て付き合っていきたい」といふ誰かの発言だった。つまり、一人の人間に総合的に点数を付けるのではなく、この人は歴史に詳しい、だとか、音楽に関することだったらこの人に聞かう、といふやうなそれぞれの人の得意分野に注目してフォローしていく、といふスタイルだ。

 ソーシャルスコアの仕組みではそこまで詳しく見えない。もしかしたら、そこまでの細かい分野別スコアにも対応しますよ、とKloutが言ってくるかもしれないが、しかし、あの人は優しいのが取り柄だ、とか、情感が豊かだ、とか、センスがいい、だとか、さういふことは決して数値化できるものではない。
 あの人は、何の経験も地位も才能も無ささうだしフォロワー数も少ないみたいなんだけれども、でもなんとなく心が暖かい感じがするからフォローしてゐる、といふこともあるはずだ。

 しかし、こんなことは別に新しく言ふまでもなく、昔から言はれて来たことだ。全人的に付き合ってゐると、ちょっとでも欠点があった時にその人のことを許せなくなってしまって、結果的に友だちができないといふことになるから、いろんな人の長所だけ見て付き合っていったらいいよ、といふやうなことは昔の人も繰り返し言ってゐることだ。
 こんな「人間との付き合ひ方」を改めて唱へる人が出て来るのは、それだけ「ソーシャルスコア的世界」が普及して来るかどうかの岐路に今まさに来てゐるからだらう。
 

・やって来たる「ソーシャルプア」の問題

 しかし、かうした数値化システムの普及が進行するか留まるかに拘らず、所謂「ソーシャルプア」の問題は確実にやって来る。
 これも、今、私は仮に「ソーシャルプア」と言ふけれども、違ふ言葉で言はれるかもしれない。

 ワーキングプアとソーシャルプアの違ひは、前者が「職が無い、金が無い」状態(または人)を言ふのに対して、後者はそれに「人脈が無い、能力が無い、経験が無い」が加はったやうなものと考へれば分かり易いだらう。

 「社会的貧困」と「ソーシャルプア」の違ひは、ソーシャルメディアを通してより明らかになりやすい貧困が後者だと考へればいいだらう。
 だからこそ、ソーシャルメディアの普及に当たっては、もっとソーシャルプアの問題が考へられなければならない。

 人々はこの世界の見方が「勝ち組、負け組」などといふ見方でいいと思ってゐるのだらうか。フェイスブックやリンクトインが「勝ち組」のためのツールにしかなってゐない現状をどう思ってゐるのだらうか。

 かうした格差を増さしめる世界の在りやうを変へるには、所謂「ソーシャルグッド」などのソーシャルメディアを社会を良くするために使ふことも一つの方法だが、それと同時にソーシャルメディアの設計デザインについて根本からの見直しを迫らなければならないだらう。そしてネットユーザーひとりひとりは、かうした世界を助長する行動に加担しないやうにすべきだらう。

 「ソーシャルメディアを使って優秀な人材を確保する」などと短期的な利益ばかりを見てゐてよいものか。


【ソーシャルスコア関連の記事】
  • パーソンランクの時代(2011/12/31)