暫定龍吟録

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2012年06月の記事

『エミール』を読む -ルソー生誕300年-

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 今日2012年6月28日は、18世紀フランスの思想家、ジャン・ジャック・ルソー生誕300年の日になる。

 私は大学生の時ルソーを読んで少なからぬ影響を受けてゐる。生誕300年のルソーイヤーである今年、あらためてルソーのこと、『エミール』のことを書き留めておきたい。たゞし思想には深入りしないで個人的なメモ書き程度に。


私とルソー

 大学で教育学を専攻した私にとって、教育学の古典であるルソーの『エミール』は言はば必修テキストのやうなものであった。それで大学に入ってから何の予備知識もなく読み始めた。
 それから只管『エミール』を読む日々が始まった。「遅読」な私は『エミール』を読むのに10カ月もかゝった。偶に思ひ出したときに少しづつ読み進めてゐたとかいふことではなく、授業を受けたり寝たり食事をしたりする時以外はずっと読んでゐたし、『エミール』を読んでゐる間は他の本に浮気したりもしなかった。毎日何時間もずっと『エミール』(日本語)だけを読み続けて、それで読み終はるのに10カ月もかゝってゐる。
 正確なタイムスケジュールに従って一日を過ごすことで有名だったドイツの哲学者カントが『エミール』を読み耽って日課の散歩を忘れた、といふ逸話はよく知られてゐるが、私はそこまで夢中になってゐたわけではなく、たゞ「読まなければ」といふ思ひで読んでゐた。
 『エミール』を読み終わった後は『新エロイーズ』なども読んだ。


ルソーの人物像

 あれだけ有名な教育書を書いた人なのだから、さぞや立派で高人格な人だったのだらうと思ひきや、ルソーが人間として、あるいは教育者どころか人の親としてもかなりダメダメな人間であったらしいことはさまざまな本に書かれてゐる。愛人との間に5人の子どもを作って5人とも孤児院に送ったとか、世界で最も有名な教育論を書いた人とは思へないやうな私生活ぶりである。
 また、スコットランドの哲学者ヒュームと親交があったが、“いい人”ヒュームが友人のルソーのためにいろいろ世話をしてくれたのに、ルソーは恩を仇で返すやうなことをしたり一方的に迷惑をかけまくったりしてゐた。
 この辺りの話は、福田歓一『ルソー』(岩波現代文庫)などに詳しい。

 しかし、ルソー本人の名誉もあるだらうから、ダメ人間ぶりはこゝではあまり書かないでおかう。
 ルソーはあまり恵まれた少年時代を過ごさなかった。38歳頃に『学問芸術論』がアカデミー懸賞論文に入選して有名になるまでは結構不遇な人生であった。特に10代の頃の放浪の生活はルソーの心に暗い影を落としてゐるかもしれない。


「自然にかへれ」の思想

万物をつくる者の手をはなれるときすべてはよいものであるが、人間の手にうつるとすべてが悪くなる


 ルソー自身は一言も言ってないが、『エミール』の思想はよく「自然にかへれ」といふ言葉で言ひ表される。

 私は特にこの思想に影響を受けた。このブログの副題である「反便利、反インターネット的」といふ私の考への傾向も『エミール』の影響を受けてゐるだらう。
 「人間の手にうつるとすべてが悪くなる」とは言ってゐるが、これは冒頭の言葉なので多少センセーショナルに書いたものであらう。必ずしも「人工」を軽視してゐるわけではなくて、むしろきちんとした教育を行ふことでよくなる、といふ考へ方が看てとれる。そして『エミール』においては、それが「どのやうな教育を行ふか」ではなく「どのやうな教育を行はないか」といふ形で表れる。

わたしの教育の精神は子どもにたくさんのことを教えることではなく、正確で明瞭な観念のほかにはなに一つかれの頭脳にはいりこませないことにある



『エミールの史料的価値』

 『エミール』は単に教育論としてだけでなく、史料的な価値もある。以下は、私が読んでゐて気付いた3つの点である。


<1. フランス革命の予見>

あなたがたは社会の現在の秩序に信頼して、それがさけがたい革命におびやかされていることを考えない。そしてあなたがたの子どもが直面することになるかもしれない革命を予見することも、防止することも不可能であることを考えない。高貴の人は卑小な者になり、富める者は貧しい者になり、君主は臣下になる。そういう運命の打撃はまれにしか起こらないから、あなたがたはそういうことはまぬがれられると考えているのだろうか。


 『エミール』の初版は1762年、その27年後にフランス革命が起こる。まさにルソーの子ども世代がフランス革命に直面してゐる。もっともルソーの思想が大きな影響力をもってフランス革命を誘引した面もある。


<2. 日本への言及>

 日本人としては気になるところ。

人類の三分の二はユダヤ教徒でもマホメット教徒でもキリスト教徒でもないし、モーセとかイエス・キリストとかマホメットとかの話をいちども聞いたことのない人間が何百万いることだろう。(中略)布教師たちは日本に行ってるのか。かれらの策動はかれらを日本から永久に追放させることになってしまったし、またそこでは、かれらの先駆者たちは、新しい世代の人々には、偽善的な熱意をもってやってきて、武力をもちいずに国を奪おうとしたずるい策謀家として知られているにすぎない。


 18世紀のヨーロッパ人であるルソーが、宣教師たちの日本における布教活動やその後の禁止令など、遠い日本のことをこゝまで詳しく知ってゐたことに驚く。


<3. モーツァルトへの言及>

すらりとした体つきの器用な子どもが、大人がもつことのできるのと同じくらいの敏捷さを手足のうちにそなえているのを見ることほどありふれたことはない。(中略)十歳ですばらしくうまくクラヴサンを演奏したイギリス娘のことをパリの人はみんなまだ覚えている。


と書いたところで、ルソーは原注(ルソー自身による注)で、

その後、七歳の男の子がもっと驚くべきことをやっている。


と一言だけ書き足してゐる。この7歳の男の子こそ、後に世界的な音楽家として名を成すモーツァルトである。モーツァルトは1763年、7歳のとき、フランスの宮廷でクラヴサンで自作のソナタを演奏してゐる。ルソーはそれを新聞かなにかで知ってゐたやうである。


ルソーと「むすんでひらいて」

 余談だが、日本で今でもよく知られてゐる童謡「むすんでひらいて」の原曲の作曲者はルソーである。ルソーは音楽家でもあった。

 もともとルソーが作った《村の占師》(Nouvelle Romance de J.J. Rousseau)といふオペラの劇中の音楽だった。それを誰かが編曲し《J.J.ルソーの新ロマンス》(Nouvelle Romance de J.J. Rousseau)になった。
 そして、1812年(ルソー生誕100年)に、ヨハン・バプティスト・クラーマーJohann Baptist Cramerが《ルソーの夢、ピアノフォルテのための主題と変奏曲》(Rousseau's Dream, An Air with Variations for the Piano Forte)として発表した。こゝで作られた「ミーミレドード」の主題旋律が大きな流行を生み出した。


(13秒あたりから)

 フランス、イギリス、アメリカと伝はって行き、アメリカでは「ロディーおばさん」の歌などとしても知られる。


(30秒あたりから)


 そして、海を越えて日本にも賛美歌として伝はった。それが軍歌になったりいろいろな歌詞の変遷を経て、今の「むすんでひらいて」の歌になってゐる。中国や韓国にも同様の歌があるらしい。

 このあたりの歴史は海老沢敏『むすんでひらいて考-ルソーの夢』(岩波書店)に詳しい。


ルソーと現代

 21世紀の現代、多数決によって決めたはずのことが必ずしも満足のいく結果でなかったり、「民主主義って何なの?」と思ふやうな機会に出会ふことも少なくない。ルソー生誕300年を機に、『エミール』だけでなく『人間不平等起源論』や『社会契約論』などの古典も含め、あらためてルソーが読み返されてよい時だらうと思ふ。


※参考文献:記事中の引用もすべて、今野一雄訳『エミール』(岩波文庫)1962年(ルソー生誕250年)発行
 『むすんでひらいての謎』(キングレコード)2003年





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ハードディスクの保証書とは何か

 最近、レンタルサーバーの「ファーストサーバ」といふ会社が大規模障礙を起こし、多数の顧客のデータを大量に消失してしまひ復旧できないといふ出来事があった。

 ファーストサーバで大規模なデータ障害 顧客データが消失 - ITmedia ニュース(2012/06/22)

 ファーストサーバは私も以前、利用を検討したことがあって名前を知ってる会社であり、似たやうなレンタルサーバーサービスを使ってゐたことがある身としては、今回の事は他人事とは思へなかった。

 今回の件に対しての人々の意見の中に、「稼働率100%を謳ってたくせに」といふものがあった。
 私は最近のレンタルサーバー事情を知らなくて、この「稼働率100%」の意味を調べてみたところ、最近のレンタルサーバー会社の多くが「SLA(Service Level Agreement、品質保証制度)」といふものを導入してゐることが判った。そしてこの制度によって、稼働率、つまり稼働時間が限りなく100%に近いことを保証してゐた。

 しかし、問題はそこではないのではないか。大手の有名サイトでさへ、アクセス過多によるサーバーダウンなどで一時的に繋がらなくなることは偶にある。客にとっては「24時間繋がる」ことよりもデータを守ってくれることの方が大事なのではないか。

 この「SLA」が保証してゐる「品質」とは何なのか。それはよく読むと稼働率のことだけであることが分かる。つまり、データを守るためのサーバーの重厚性や安全性を保証してゐるわけではないのだ。

 そして約款を読むと、データについては保証しない、利用者が自分でバックアップを取れ、サーバーの故障などでデータ消失などの損害が起きても責任は取らない、といふことがちゃんと書かれてゐる。

 以下、ファーストサーバの「レンタルサーバサービス利用契約約款」より抜粋。

第16条(データの保管およびバックアップ)
1. 契約者は、本サービスが本質的に情報の喪失、改変、破壊等の危険が内在するインターネット通信網を介したサービスであることを理解した上で、サーバ上において利用、作成、保管記録等するファイル、データ、プログラム及び電子メールデータ等の全て(以下「契約者保有データ」といいます。)を自らの責任において利用し、保管管理し、且つ、バックアップするものとします。
2. 当社は、システム保安上の理由等により、契約者保有データを一時的にバックアップする場合があります。ただし、当該バックアップは、契約者データの保全を目的とするものではなく、当社が契約者からの当該バックアップデータの提供要求に応じる場合であっても、当社は、当該データの完全性等を含め何らの保証をしません。
3. 契約者が契約者保有データをバックアップしなかったことによって被った損害について、当社は損害賠償責任を含め何らの責任を負わないものとします。

第35条(免責)
4. 当社は、システムの過負荷、システムの不具合によるデータの破損・紛失に関して一切の責任を負いません。



 つまり、ファーストサーバは、SLAに伴ひ毎月の利用料や年間利用料などは返却することはあるかもしれないが、データ消失による何億円、何十億円といふ損害については賠償しなくてもいいといふことになる。
 だが、これはファーストサーバが特別に悪質とかいふことではなくて、どこのレンタルサーバー会社もだいたい似たやうな決まりになってゐるのである。

 そして、今回のファーストサーバの件で私が思ひ起こしたのは、ハードディスクの保証書のことだ。


ハードディスクの保証書は何を保証してゐるのか

 外付けのHDD(ハードディスクドライブ、以下「ハードディスク」)などを買って来ると保証書が付いてゐる。何年も前からずっとこの保証書の意味について考へてゐた。

 ハードディスクがある日突然壊れて中に入ってゐたデータがすべて消えてしまった、取り出せなくなった、さういふ経験をしたことのある人は世界にたくさんゐるだらう。「大切なデータが入ってたのに!」、「なんとか中のデータを復旧・救出できないか」、さういふ嘆き節をネットでたくさん見てきた。

 さうした質問に対する自己責任論者たちの回答はだいたい決まってゐて、「自分でちゃんとバックアップを取ってゐないから悪いんです」、「ハードディスクは壊れやすいからデータの長期保存に適しません。半永久的に取っておきたいデータならCD-RやDVD-Rなどの記録媒体にバックアップを取っておくべきです」などなど。

 以前、「教えて!goo」で、パソコンに詳しい人が「私は外付けハードディスクを買ふときは同じ物を2個買ふやうにしてゐます。そして同じデータを必ずその両方に入れておくやうにしてゐます」と回答してゐるのを見た。
 それは無理だ。だがパソコンに詳しい人は「データが大事ぢゃなかったんですか!」と一喝するだらう。それは手術代を渋る患者に対して「命とどっちが大事なんですか!」と怒る医者と似てゐる。腕時計が大好きな人は、「安いヤツでいいや」と言ふ一般人に対して「いや、時計だけは少々高くてもいいヤツを買った方がいい」などと言ふ。
 専門家は自分の専門分野の物の価値がよく分かってゐるし、また自分が最も興味のある分野でもあるから、幾らでもお金をかけられるだらう。しかし一般人は自分が興味のない分野のことにはできるだけお金はかけたくないものだし、かけられない。新製品のハードディスクが手元に届いてもあなたのやうに別に心がウキウキするわけではないのだ。

 自分でバックアップを取っておけ、と言ふが、自分でハードディスクを買って来てデータを入れる(コピーする)のも、自分でレンタルサーバーを契約してそこにデータを入れるのも、自分でやってゐるバックアップの一環ではないのか。
 半永久的な保存場所としては適さないかもしれないが、しかし、ハードディスクはデータの一時的な保管場所ではある。

 ハードディスクを買ったときには「保証書」が付いて来る。
 注意したいのは、レンタルサーバーであってもハードディスクであっても「ほしょう」は「保証」であって「補償」ではない、といふことである。「補償」だったらデータ消失によって大きな損害が出た場合その賠償金を払って償はなければならないことになるが、さうした賠償金は払はないといふことである。あくまでもハードディスクとしての品質を保証してゐるのである。「保証」は、確かだと請け負ふことである。

 しかし、では、ハードディスクの品質とは何であらうか。
 データが読み書きできること。そしてある程度の速度があること。だが、それだけではあるまい。やはり、一時的にではあれ、データを保管するといふ役割もハードディスクの大きな役割であらう。それもハードディスクに求められる品質の一つであらう。

 「故障したのが、保証書の期間内(だいたい1年間が多い)であれば、無償で修理(たゞし初期化するのでデータは戻らない)、または無償で新品と交換いたしますよ」と言ふ。それがハードディスクの保証書の意味である。
 そこで「無料で新品に取り替へてもらへた!」と言って喜ぶ人は誰もゐない。ユーザーにとって大事なのはデータであって機械の箱ではない。
 そもそももし1年以内に故障したのであれば、「1年間はちゃんと動く」といふ品質すら保証してゐない。

 かうなってくると、ハードディスクの保証書とはいったい何を「保証」してゐるのか、といふ疑問が出て来る。あるいは、ハードディスクの保証書は何のためにあるのか。

 ハードディスクの保証書は何のために存在するのか。
 「1年間は保証します。でも1年以内に故障することもあるかもしれません。その時は無償で修理させていただきます」。
 これは何を請け負ってゐるのか。何を「保ち」、「証し」てゐるのか。


人のデータを預かるといふことの重さ

 以前も書いたが、私はもし自分がIT企業の社長だったらブログサービスは手がけたくないと思ふ。

 レンタルサーバーにしろ、ハードディスクにしろ、ブログサービスにしろ、データを扱ふといふことは大変なことだ。縦令、データについては免責されてゐるにしろ、人の一生の記録を預かりあるいは扱ふことに私は空恐ろしさを感じる。機械の故障にしろ操作ミスなどのヒューマンエラーにしろ、たくさんの人の厖大な全記録や思ひ出を一瞬で消してしまふなんてとんでもないことだ。

 上記ファーストサーバの件に関して「単にセキュリティシステムの構築の仕方の問題ぢゃないの?」と言ふ人がゐる。しかし、そのちょっと前に起こったAmazonクラウドのトラブルでは、二重三重に設けてゐた防護策が次々と倒れて行ったことが次の記事などで紹介されてゐる。

 Amazonクラウド先週のシステム障害、原因は電源トラブル。二重三重の防護策が次々と倒れる - Publickey(2012/06/21)

 Amazonのやうな大会社でさへ、かういったことがあるのだ。確実に安全なセキュリティシステムを構築することは簡単なことではない。そこでは「フェイルセーフ」の仕組みなどさまざまな安全対策が課題となってくるが、安全性の問題については、また別稿に改めることにしよう。

よみがえるチューリング -アラン・チューリング生誕100年-

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 毒林檎を齧って死んだ有名人と言へば?

 白雪姫。さう。だがもう一人ゐる。

 アラン・チューリング(Alan Turing 1912-1954)。

 20世紀を代表する天才数学者にして、現代に繋がるコンピュータの生みの親、第二次世界大戦の連合国の勝利に貢献した暗号解読者、同性愛者、そして謎の死を遂げた男。

 今日2012年6月23日は、チューリング生誕100年の日にあたる。
 最近では、コンピュータを専攻するやうな学生でもチューリングの名を知らないとかいふ話を聞いたことがある。たしかにこの天才数学者は日本では今まであまり知られて来なかった。そして本国イギリスでも長年、不当な扱ひを受けてきた。
 しかし、こゝ3、4年ほど前からのTwitterの流行などで人々はbotに出会ひ、一部の人たちは「チューリングテスト」を思ひ出した。そしてそれまでチューリングの名を聞いたことのなかった人たちも、さういったところで「チューリング」の名をぽつぽつと耳にするやうになった。

 チューリングイヤーの今年、チューリングの人生と、彼ののこした遺産が現代・未来にどのやうな意味を持ってくるのかを考へたい。


・長らく回復されなかった名誉

 本国のイギリスですら、長年にわたってチューリングを語ることが憚られて来たのは幾つかの理由がある。一つはそもそも暗号解読者といふ言はば国家の「秘密組織」に属する人間であったこと。そしてもう一つは同性愛者であったこと。チューリングが生きてゐた時代はイギリスでもかなり同性愛者に対する偏見は強かったやうだ。

 2009年9月、当時のブラウン首相は、自国の英雄アラン・チューリングに対して歴史的謝罪をした。

 PM apology after Turing petition | BBC NEWS(2009年9月11日)(英語)

 同性愛者といふ偏見からひどい仕打ちをしてきたことへの謝罪だった。


・もしチューリングが暗号解読に成功してゐなかったら

 チューリングの業績は多岐にわたるが、その中の一つに第二次世界大戦において「解読不能、決して破られることはない」と言はれたドイツ軍の最強の暗号「エニグマ」を解読したことがある。
 戦争の勝敗といふものは一つの要因だけではなく、幾つもの要因が複合的に絡まり合って決定するものだ。しかしドイツ軍の暗号を解読したといふのはその中でも明らかに連合国軍を勝利に導いた大きな要因であったらう。暗号が解読される前のイギリスはドイツ軍によって海上の食糧確保ルートを絶たれ、かなり厳しい状況にあったと言はれてゐる。それがチューリングが率いるチームが暗号解読に成功した後から形勢は逆転する。
 もしチューリングが解読に失敗してゐたら、と思ふ。ドイツ軍は勝ちはしなかったかもしれないが、戦争はもっと長引いてゐたかもしれない。そしてロシアやアメリカとの関係も変はり、日本への原爆投下の判断も変はってゐたかもしれない。
 さう考へると、私たち日本人にとっても、チューリングは大きな影響を与へた人物だと言へる。


・日本におけるチューリング

 日本におけるチューリングの知名度はまだまだ低い。「チューリングテスト」、「チューリングマシン」といふ言葉は知られてゐても、人物そのものについてはあまり知られてゐない。チューリングの名は数学やコンピュータの専門書に出て来るだけだ。

 私が知るかぎり、チューリングのことを書いた一般書は、星野力氏による一冊しかない。星野力『甦るチューリング コンピュータ科学に残された夢』。続編『チューリングを受け継ぐ』。

甦るチューリング―コンピュータ科学に残された夢甦るチューリング―コンピュータ科学に残された夢
(2002/09)
星野 力

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 この本は今見たところアマゾンレビューで厳しい評価をしてゐる人もゐるが、しかし日本語で一般人向けに書かれた本はほゞこの本しかなく、この本が果たして来た役割はもっと高く評価されていい。
 私もチューリングについてはこの本に依るところが大きかった。
 
 今までチューリングに関する日本語書籍は寂しい限りであったが、チューリングイヤーの今年2012年、日経BP社から『チューリングを読む』が発売された。

チューリングを読む コンピュータサイエンスの金字塔を楽しもうチューリングを読む コンピュータサイエンスの金字塔を楽しもう
(2012/06/07)
チャールズ・ペゾルド

商品詳細を見る


 星野氏の本がチューリングの人物像と哲学に重きを置いてゐるなら、こちらの本は数学的コンピュータ的業績やその他の人物、例へば、早世の天才ウォルター・ピッツなども紹介されてゐてまた面白い。

 また、雑誌『数学セミナー』は、2012年7月号で、チューリングの特集を組んだ。

 このやうにチューリングイヤーの今年、日本でも少しづつではあるがチューリングに脚光をあてる動きが出てきてゐる。


・チューリングが遺したもの


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 チューリングが41歳の若さで亡くなってから58年が経つ。
 チューリングはなぜ毒林檎を齧って死んだのだらう。林檎は同じイギリスの天才科学者ニュートンを、そしてチューリングは当然知らないだらうが、後の時代に登場するアップルコンピュータを聯想させる。

 林檎をモチーフとして、チューリングをニュートンに比肩させるのは、さう悪くないだらう。どちらもそれ以後の世界の見方を大きく変へた人だ。
 チューリングは、(ノイマン型)コンピュータには計算できないことがあることを示してみせた。ゲーデルとは別のやり方でヒルベルトの夢を打ち砕いた。そしてチューリングが予見したり考へたりしてゐたことの多くが、21世紀になった今でも同じ課題として残ってゐる。
 近年の人工知能の発達が、多くの人々にチューリングテストを思ひ出させてゐるのはその一例である。それこそアップル社が開発した「Siri」などは今はまだ玩具レベルかもしれないが、この先どのやうな知能を備へていくのだらうといふ関心を抱かせる。

 現代において、コンピュータを使ったことがないといふ人は日本にはほとんどゐないだらう。そして大多数の人が仕事場や家でパソコンを使ってゐる。
 チューリングはコンピュータの原型を考へたが、チューリングがゐなかったとしてもコンピュータがこの世界に登場しなかったといふことはないだらう。たゞ登場の時期が少し遅れたかもはしれない。
 今年2012年がチューリング生誕100年といふことは、現代にはまだチューリングが活躍してゐた時代から生きてゐる人がたくさんゐるといふことだ。チューリングが生きてゐた頃は、コンピュータなんて一般の人たちは誰も関心を持ってゐなかっただらう。何しろそんなものは見たことも聞いたこともないし、空想の産物の話をしてるほど暇ぢゃない、と当時の人は言ったことだらう。
 だが、かうして誰もがコンピュータを使ふ時代が数十年後には到来した。「目の前にないモノの話をしてもしやうがない」とか「現実的ぢゃない」と言ふのは、あまりにもつまらない物言ひだ。
 現代の私たちは日々コンピュータのトラブルやハプニングの対応に追はれ、やれ「ファイルが開けない!」、「パソコンが固まった!」、「データが消えちゃった!」などと悪戦苦闘してゐる。チューリングは直接パソコンを作った人ではないが、しかしチューリングが構想してゐたものの末裔に後世の私たちは善かれ悪かれかうして振り回されてゐるのだから、「チューリングが何考へてるかなんて知らない」などといふ無関心な態度は取れないはずである。
 少なくとも私は無関心ではゐられない。そして今の時代の科学者たちが行なってゐることだって、きっと老後の私を善い方向にか悪い方向にか振り回すはずなのである。

 コンピュータの問題だけではなく、「自己組織化」、「自己参照」の問題、脳をコンピュータと見做す問題等、チューリングが先取りしてゐた問題はたくさんある。そして遠くない将来、生命科学とコンピュータ科学はもっと融合し、人間の在り方は変はっていくだらう。その時になって、チューリングが言ってゐたのはかういふことだったのか、と知ることがあるかもしれない。

 星野力氏は、現代の私たちは今もチューリングの掌の中にゐると言ふ。
 私は、その中には未来を暗黒にする鍵も明るく切り拓く鍵もあるやうな気がする。

チューリングは二〇世紀の数学者で終わることはないだろう。二一世紀においても、彼の存在の大きさが増えることはあっても減ることはない。なぜなら、チューリングの残した多くの課題にはまだほとんど答えられていないから。(前掲、『甦るチューリング』)



 チューリングが味はったその甘い林檎の味、苦しみの林檎の味は、これから先の時代も何度もよみがへってくることだらう。


Facebookタイムライン化の意味と従来型ホームページの価値の見直し

 今年2012年から、Facebookがタイムラインを導入したことは、少なくとも日本ではあまり大きな話題にならなかったやうだ。ちょっとしたデザイン変更、程度に受け止めてゐる人が多いのかもしれない。

 タイムラインが導入される前のFacebookはそれはそれで不便だった。年月日を示す「タイムスタンプ」がなく、その人の最近の行動履歴が書かれてゐても、いったいそれが何年の何月何日の行動なのかさっぱり分からないといふ、かなり気持ち悪い状態だった。「登録はしたけど全然使ってない」などといふ人の場合、何ヶ月も前の行動が「最近のアクティビティ」として表示されてゐたりした。
 そして私の最大の疑問は、「自分がいつからFacebookを使ひ始めたのかが分からない」といふものだった。Twitterでは、自分がいつからTwitterを使ひ始めたのかを調べるツールはいくらでもある。しかしFacebookにはない。私は絶対に同様の疑問を持ってゐる人が世界中にゐるはずだと思って、日本語、英語でこの謎を調べてみたが、その答へは「過去のメールボックスを開いて一番最初にFacebookからメールが届いた日を探せ」といふものだった。世界中で何億人もの人が使ってるサービスなのに、こんな方法でしか使ひ始めの日が分からないなんて驚きだった。

 Twitterにはタイムスタンプがある。今から「◯時間前」と相対的に表示するのが一般的である。

 ブログでもTwitterでも、あるいは他のウェブサービスでも、何か書いたらタイムスタンプが入るのは常識だと思ってゐたが、Facebookがさうしないのには、何か深い理由があるのだらうと思ってゐた。例へば、Facebookはすべてのユーザーが毎日活発に使ふのを想定してゐて、だから「最近のアクティビティ」は文字通りこゝ2、3日のアクティビティである、と。
 しかし、どう考へてもすべてのユーザーが毎日活発にFacebookを使ふはずがない。

 Facebookが「タイムライン」といふ概念を導入したのは、明らかにTwitterの影響だらう。
 日本ではTwitterの方が先に流行したけれども、アメリカではFacebookブームの後にTwitterブームが来たので「Twitterの方が新しい」といふ感覚がある。(参考:ザッカーバーグ、Twitterを「気にしすぎていた」ことを認める -TechCrunch
 そしてTwitterを真似てタイムラインを導入した結果どうなったか。Facebookのページの中心には時間軸ができて、あらゆる行動が何年の何月何日の行動なのか分かるやうになり、その時間軸を遡れば、その人があるいは自分がいつからFacebookを使ひ始めたのかも分かるやうになった。

 しかし単に「タイムスタンプ」を導入するのと、「タイムライン」といふ時間軸を導入するのとでは、少し意味が違ふ。
 時間軸を導入することで出て来る問題がある。


ホームページは単行本、ブログは雑誌

 以前、ホームページとブログの違ひについて考へたことがある。
 ブログもホームページの一種なので、こゝではブログとは異なる一般的なウェブサイトを「従来型ホームページ」と呼ぶことにしよう。実際にはWordPressやTumblrなどのブログツールでも従来型ホームページのやうなものを作ることができるので境界は曖昧だが、こゝでは一応分けておかう。

 で、昔その違ひについて考へて、自分なりに辿り着いた答へは、本の世界に譬へると「従来型ホームページは単行本で、ブログは雑誌みたいなもの」といふことだった。
 例へば私は書道に興味があるが、書道について詳しく書かれた単行本を一冊買へば、筆、墨、硯、紙のことはすべて分かる。一方、書道雑誌(月刊誌)の場合、毎月新しい情報が読めるといふ楽しみはあるが、特に「筆」の種類について調べたい、と思ったときは、過去に「筆特集」を組んでゐたバックナンバーを探さなければならない。

 ブログは日刊あるいは週刊誌や月刊誌などの雑誌のやうなものである。だからブログには月刊誌などと同じく「購読」といふ言葉があるし、毎月、毎日、新しい情報を届けるかはりに、有益な情報もどんどん過去へ過去へと埋もれていく。
 従来型ホームページは、単行本や辞書のやうなものだ。単行本、辞書、教科書などは数年間新しい情報は加はらないが、そのかはり調べたい情報が常に手前にある。バックナンバーといふ過去を探す必要がない。従来型ホームページにはさうした利点がある。


企業・団体のサイトは「従来型」がいい

 企業・団体のウェブサイトは今でもだいたい「従来型」の形で作られてゐるところが多い。
 私たちユーザーが企業のサイトに求めてゐるのは、「購読」や「更新」ではないからだ。何か読み物を読みに行くわけではない。大抵の場合、その企業・団体の製品情報や利用方法、本社支店の所在地やアクセスマップが見たかったりすることが多い。

 ところが偶に企業や店のサイトをブログ形式で運営してゐるところがある。店のサイトの場合、ユーザーが知りたいのは普通、その店の営業日や営業時間、アクセスマップなどだと思ふが、そんな重要な情報が過去記事になってゐたら、ユーザーにとってこんな不便なことはない。
 
 もしどうしても何か日常を綴りたいと言ふのであれば、従来型ホームページの中の一ページとしてブログなりTwitterなりを設置したらよい。さうして営業時間や所在地などの重要情報は常にトップページに表示しておくべきである。


佐賀県武雄市の例

 昨年2011年、佐賀県武雄市は市のホームページをFacebook上に移行した。

 「市長がはまっている」 佐賀県武雄市、市のページをFacebookに完全移行へ - ITmedia ニュース

 このニュースを聞いたとき、利用者はかなり不便だらうと思った。それでも、私は以前は、Facebookとは「もう一つのウェブ」の世界だ、といふ認識だったから、これからはかういふやり方も有りなんだらう、ぐらゐに思ってゐた。

 しかし、Facebookがタイムラインを導入したことにより、武雄市のFacebookサイト(facebook.com/takeocity)は完全に見づらいものになった。
 時間軸を導入したといふことは、Facebookがよりブログに似たものになったといふことである。
 例へば、各種申請書の手続きについての情報に新しい記事とか古い記事といふ概念があるのは違和感がある。しかも各種申請書類のダウンロードや観光情報など多くのコンテンツは従来のサイト(city.takeo.lg.jp)に置いたまゝでそこにリンクを張ってゐるだけである。

 企業がブランドを売り込むためのFacebookページとは訳が違ふ。今後、このやうにFacebookへ移行する公的機関が現れるのかどうか分からないけれど、もう少しユーザビリティについては考へた方がよい。


従来型ホームページの価値の見直し

 となると、従来型ホームページの「在り方」が見直されてくる。ブログもTwitterもFacebookもみな、情報が過去へ過去へと埋もれて行くなら、さうではない情報の提示の仕方をしてゐる従来型ホームページの在り方の価値が逆に高まってくるだらう。

 企業や団体だけではない。
 今では「個人のホームページ」と言へばブログだったり、時には単なるTwitterのその人のログ(またはそれをまとめたTwilogのやうなもの)であったりすることも多い。しかし昔はさうではなかった。「テキストサイト」などと呼ばれた個人のホームページはデザインはまちまちで今から見ると古めかしく感じられる見た目のサイトもあったが、今のブログやTwitterより便利な点がいろいろあった。
 その最たるものは「一覧性」だらう。トップページで全体が俯瞰できた。Yahoo!JAPANはなぜ人気があるか。Yahoo!Japanのトップページはごちゃごちゃしてゐるけれども、そこで「ニュース」「天気」「テレビ」「地図」などコンテンツの全体を一覧できる。そしてもう一点、緊急地震速報などの重要な情報はトップページに載せることができるといふ点がある。この点、リアルタイム性を重視してゐるTwitterなら「地震だ!」は合ってゐるけれども、ブログに「地震だ!」と書くのは何とも間の抜けた感じがする。もっとも地震情報などはYahoo!のやうな常に見られてゐるサイトだからこそであって、普通の個人サイトには載せない。個人サイトにはその個人にとっての重要情報といふことになる。

 ブログ、Twitter、Facebook、他にも時間軸を導入したサイトが多くなるにつれて、私はますます従来型のホームページに魅力を感じることが多くなってきた。

 たゞし、タイムスタンプは必要である。従来型ホームページで更新情報などの欄に「1/15更新!」などと書かれてゐるのをたまに見かけるが、それが今年の1月15日なのか去年の1月15日なのか、はたまたもっと昔の1月15日なのか分からないときがある。
 どんなコンテンツも将来「ソース」になる可能性がある。そのためにも年月日の記載は必要である。
 
 その点さへ気をつけて行けば、従来型ホームページの在り方(サイト構造)は価値あるものである。特に、コンテンツに古いとか新しいといった価値を付けるのが無用な場合にその力を発揮するだらう。

 従来型ホームページはもっと見直されていい。

遅れ続ける日本

 「日本はこの分野で大きく遅れてをり・・・」

 ニュースなどでよく聞く言葉。この言葉は子どもの頃からずーっと聞いてる気がする。自分が子どもの頃から日本は世界に遅れてゐて、その後もずっと遅れてゐて、今も遅れてゐる。
 「うかうかしてゐると世界に遅れをとるぞ」などと言ふが、今がまさにうかうかしてゐる時なのだと感じる。


旧ステージに拘る日本

 最近、巷間でよく聞くのは、製造業とくにテレビなどの日本の「お家芸」と言へる分野で韓国に負けてゐて悔しい、日本はもっと頑張らなければ、といふやうな声。テレビを始めとした家電や、自動車など、今まで日本が世界をリードして来た分野で韓国企業が日本を追ひ越し始めてゐる。

 たしかに大相撲などで外国人力士が活躍し、日本人力士がまったく活躍してゐない状況などを残念だと思ふ気持ちはわかる。しかし相撲は日本のお家芸かもしれないが、テレビや自動車が日本のお家芸だらうか。

 2004年に中国レノボが米IBMのPC部門を買収した時、中国は龍が巨人を飲み込んだと喜んだが、アメリカは大して大騒ぎもしなかった。旧いステージは後進国に呉れてやっていいぐらゐに思ってゐたのではないか。

 日本が頑張って国産のPCを普及させようとしてゐた頃にアメリカはOSの世界を制覇してゐたし、日本が国産のOS作りに励み出した頃にはアメリカはネット検索の世界を制してゐた。そして日本が国産の検索エンジンを、と言ってゐた頃にはアメリカはソーシャルネットワークの世界にステージを移し始めてゐた。


国内に留まる日本

 日本のサービスは概ね日本人向け(国内向け)に特化されてゐる。そのことを如実に表してゐる例は「ガラケー」とも呼ばれるケータイであらう。
 言葉の壁や文化の壁があって海外へ進出するのは難しいのかもしれない。
 日本のケータイは機能や性能の面において決して遅れてゐたわけではない。むしろ進んでゐた。日本列島といふ小さな島の中で独自の進化を遂げてきた。しかし後進の"iPhone"および外来のスマートフォンに駆逐されつゝあるのが現状だ。
 なぜ、進んでゐる日本のケータイが遅れてゐるやうに見える外来のスマートフォンに負けてゐるのか。

 「ケータイ」と「スマホ」の違ひは何か。「スマホとは何か」と訊かれた時、多くの人の認識は「今までボタンで操作してゐたのがケータイで、直接画面にタッチして指でシュッシュッてやるやつがスマホでしょ?」といふレベルである。
 一般人のスマホ理解がそのレベルであるのは仕方ないとして、私が心配してゐるのは、日本の携帯電話を作ってゐる会社のトップの方の人たちさへ、もしかしたらその程度の認識なのではないか、といふことだ。
 日本のケータイは、携帯電話を元としてそれにいろいろな機能を付加して進化してきたものだ。スマホは元はパソコンで、それに電話機能などを後付けしてできてきてゐるものだ。ケータイはハードウェアそのものを改変することで進化していくが、スマホはハードウェアよりも、その中のOSやアプリを進化させていく。根本的な思想が違ふ。
 iPhoneが凄いと言はれるのはiOSといふ思想を搭載してゐるからである。アップル社以外のスマホにはそのやうな思想がないやうに見えるが、OSがAndroidであることでグーグルの思想を搭載してゐると言へる。

 そして、このモバイルアプリの世界でも日本のIT企業が作るアプリは日本国内向けである。韓国の「LINE」や中国の「微信」が国境を超えてヒットしてゐるのに比べると、日本はこの分野でも世界市場において遅れてゐる感じがする。


遅れ続けるテレビ

 「日本は遅れてゐる」といふ問題を考へるとき、一番わかりやすくて象徴的なのは、やはりテレビだらう。
 2011年第3四半期の世界の薄型テレビのシェアランキングは次の通り。

1位:サムスン(韓)22.8%
2位:LG電子(韓)13.1%
3位:ソニー(日)9.9%
4位:パナソニック(日)8.4%
5位:シャープ(日)7.6%
その他38.2% 
(Source: DisplaySearch Advanced Quarterly Global TV Shipment and Forecast Report)

 今まで日本の得意分野だったテレビ作りの世界で韓国に負けた、と随分、話題になった。そして日本のメーカーは、更なる高画質化を目指して韓国勢に勝つ、などと言ってゐる。

 今は、まったく新しいタイプのテレビが出て来る前夜ともいふべき時期である。私は別に日本のメーカーに1位になってほしいとは思ってゐないけれど、この時期になってもなほ、「薄型」だの「高画質」だのといった旧来の基準にばかり着目してゐる日本企業は大丈夫なのかと心配になってくる。

 「いや、どんな時代になってもモノづくりは大事ですよ」と言ふ人もゐるかもしれない。確かにその通りで、この先の時代もハードウェアを軽視していいといふことにはならない。しかし、その「モノ」がテレビや自動車である必要はない。
 私は昨今の若者のテレビ離れや自動車離れによって、すぐにもテレビや自動車が無くなるとは思はない。たゞ、これからのテレビや自動車は従来の概念を覆すほどのまったく新しいタイプのものが世界を席巻するだらう。iPhoneが携帯電話ではなかったやうに。
 テレビの世界で言ふなら、それはインターネットとの融合だったり、壁や空中などに自由にディスプレイを表示できる技術だったり。少なくとも、「リモコンのボタンで視聴者の皆さんも番組のクイズに参加できます」などといふレベルの革新ではない。

 数年後には、さうしたまったく新しいタイプのテレビが(おそらくどこかの外国で)登場して世界に普及し始め、その時NHKのアナウンサーがいつものやうに「この分野で日本は大きく遅れてをり・・・」といふニュースを伝へてゐることだらう。