暫定龍吟録

反便利、反インターネット的 This blog has not been updated since 2017

2012年07月の記事

30歳までニート!鴨長明という人-『方丈記』800年記念-

 テレビで芸能人が「金持ちの家に育ったやつはええなあ」と、裕福な家庭に育った人を羨んでいるのを偶に見かける。そして、自分がどれだけ貧しい少年時代を過ごしたか、そこからどれだけのハングリー精神でがんばって今の成功を掴んだかを力説する。

 しかし、私はそういった話にはあまり共感するところがない。子ども時代に貧しくても、今は成功して家族もマイホームも持ってこうしてテレビに出て稼げているのなら、そっちのほうが「いいなあ」である。
 それとは逆の人生、子ども時代にいくら裕福な家で育っていても大人になってから転落して行く人生の方がよっぽど辛い。

 「だから金持ちのボンボンは駄目なんだよ。ガッツがないから」と彼らは言うかもしれないが、しかし、世の中、裕福な家庭の子どもは大人になっても当然のように裕福になり、貧しい家の子はそのまま貧しくなる、という例の方が多い。

 『方丈記』の作者として知られる鴨長明(かものちょうめい)の人生は、社会的地位や経済面から見れば、まさに転落していく一方の人生だった。

 今日は、そんな鴨長明の失意の人生を振り返ってみたい。
 

鴨長明の人生
 
 1155年、京都の下鴨神社の禰宜の子として生まれた長明は、いわゆる裕福な家の子どもだった。当時の貧しい家の子よりもずっと衣食住に不自由しない生活を送っていただろう。褒めそやされて育てられて、なんとわずか7歳にして「従五位下」の称号を得る。
 しかし、『日本人なら知っておきたい日本文学』の言葉を借りれば、長明はこの7歳の時が「人生のハイライト」。生涯、「従五位下」より位が上がることはなかった。

 長明の夢はお父さんと同じような神官になること。そして自分も大きくなったらお父さんと同じような人生を歩むんだ、就職して社会的地位も得て、大きな家を建てて、結婚して子どもができて、あたたかい家庭を築いて幸せな生活を送るんだ。漠然とそう思っていたに違いない。

 しかし18歳の時、これから社会に出ていくという時に、父親が亡くなる。有力な庇護者であった父を亡くしたことで神社への就職がかなわず。ショックを受けた長明は自殺を思う。(死ななかった。)

 失意の内に20代を過ごすことになるが、長明の20代はよく判っていない。
 特に、長明の恋愛、結婚、家族のことなどは、かなり謎に包まれている。結婚生活だけではない。恋人の存在どころか、友人・知人等、プライベートなことはかなり不明である。

 家はおばあちゃんの家(大邸宅)に住まわせてもらっていた。ここでおそらく結婚して子どももいたらしいが、肩身は狭かった。なぜならニートだったから。働きもしないで毎日家にいる男なんて今も昔も女からは不評だろう。長明もニートのままでいいと思っていたわけではなくて、いろいろ就活もしていたのだろうが、うまく行かなかった。しかしいくら広い家とは言え、毎日家の中にいる夫に妻のイライラは爆発しただろう。おばあちゃんもニートの孫をいつまで住まわせておかなくてはいけないのか、というイライラが募ったのだろう。
 そうした家庭内不和が限界に達して、30歳にして長明はその家を追い出された。事実上の離縁。一気に家も妻も子も失った。

 しかたなく、長明は自分で鴨川のほとりにおばあちゃんの家の10分の1サイズの家を建ててそこに住む。長明も日々、何の努力もせずに遊びほうけていたわけではない。自分の得意なことは「琵琶と和歌だ」と認識していた長明は、その才能を伸ばして何とか世間に認められようと、日々自分磨きに励んでいた。
 その甲斐あってか、33歳の時に『千載和歌集』というわりとメジャーな歌集に自分の歌が一首入選したときはとても喜んだ。初めて自分の才能が世間に認められたような気がした。

 それからも師匠に付いて得意分野の音楽(琵琶)と文学(和歌)の研鑽に励んだが、なかなか世間には認めてもらえなかった。
 だがついに、46歳の時に和歌所の寄人としての就職が決まった。46歳にして初めての就職!

 「プライドが高い人は自分はこんな下っ端な仕事はできませんとか言って仕事を選んでるから駄目なんだよ。これだけ不景気で仕事がない時代なんだから、自分はどんな仕事でもやります!っていうぐらいの意気込みじゃないと」と言う人がいるだろう。たしかに長明は自分の得意分野である音楽か文学に関する職に就けたらいいなあとは思っていただろう。しかしこれはいつの時代でも誰もが思うことだ。だが長明は決して「それなりの地位の高い職に」などとは思っていなかった。長明は地下歌人で昇殿を許されない低い身分であった。今の感覚だと、公的機関の非正規の職員みたいなものだ。正規の職員たちに比べて扱いは下だった。

 でも、それでも、長明はこの就職が決まって嬉しかった。そして事務主任の源家長によれば「めちゃくちゃまじめに働いた」。自分を雇ってくれた恩に応えようとしていたのだろう。

 40代は、得意の和歌で勝負ができる、少しだけ楽しい時代だった。
 長明は貴族としては和歌所に集まった他のエリート宮廷歌人たちより身分は低かった。和歌には自信があったけど、彼らの新しい歌風には少しびびった。時代の流れは「新古今流」だった。
 自分がプライドが高すぎることは自分でもよくわかってる。そのプライドに拘りすぎると、時代の波に乗れなくて出世できない。新古今プロジェクトの中心メンバーは藤原定家である。定家流の新しいスタイルの歌が今は流行っているのである。だから長明は自分の今までの拘りは捨てて、最新の歌のスタイルを真似てみたりする工夫をした。プライドも捨てて、とにかく世間に「ウケる」ことが必要だと思った。その結果、新古今和歌集には長明の歌は十首、入選した。

 ああ、頑張っていればいいことあるな。私の人生、少しは良くなってきたのかな。

 そして50歳になった時、河合社のポストが空いた、という話が舞い込んできた。河合社は下鴨神社の摂社。若い頃からのずっと第一希望だった就職先である。もちろん正職員である。ああ、やっと私の人生が好転し始めた。やっぱり生きていればいいこともある。18歳の時に死んでなくてよかった。
 内定が出た。後鳥羽院からの推薦状までいただいた。日頃のまじめな働きぶりを後鳥羽院が評価してくださったのだ。やっぱりまじめに頑張っていれば、見てくれている人はちゃんと見てくれている。

 だが。
 定員1名のポストに対して、もう一人の志願者が「長明は相応しくない」とかいろいろ言って、就職を勝ち取ってしまった。

 長明、大ショック。今度はもう立ち直れないほどの大ショック。
 そりゃそうだろう。安定した職へ就くことは長年の夢だったのだ。しかも、職に就いていなかったことで自分は家や家族まで失っているのだ。そうした暗い過去とようやく決別することができると思っていた。もう就職は目の前まで来ていた。今度は99%確実、周りの人もみんなそう言ってくれていた。何より後鳥羽院の推薦状までもらっていた。それがまたしても目の前で掌からするりと零れ落ちて行った。

 あまりに落ち込んでいる長明を見た後鳥羽院、「今回は残念だったけれど、でも君のために新しいポストを新設したんだ。第一希望のところじゃないけど、その職に就いて頑張ってみたらどうかな。そうしてればまたいつか話がいい方向に進むかもしれないし」。
 「いつかいつかって、私はもう50なんです!残りの人生もそんなに長くないんです。下手な慰めは要りません」と長明が言ったかどうかは分からないが、これ以上はないというほどに落ち込んでいた長明は、後鳥羽院の厚意を拒絶して失踪。京都の街から姿を消した。

 出家することにしたのである。だが、30歳の時に家も家族も失っていたのに今さら出家というのもなんかちょっと変だった。なので俗世間との関わりをさらに断つということを形として示すために、京都の都心を出て、郊外の大原という山の中に住むことにした。
 と言っても、大原はけっこう都心との人の往来も多くて完全に孤独になれる場所ではなかった。

 それで55歳の頃、さらに山の方の日野というところに引っ越した。ここに小さな庵を建てた。広さは四畳半ほど。30歳の時から住んでいた鴨川の家の100分の1。おばあちゃんの家の1000分の1。

 この小さな「方丈(四畳半)」の家に住んで俗世間との関わりを断っているつもりだったが、鎌倉に就職口があるかもしれないという話が舞い込んできた。鎌倉!新しく幕府が開かれたばかりの新天地鎌倉!そうだ鎌倉に行こう!もう時代は京都から鎌倉に移っているんだ。鎌倉に行けば仕事があるかもしれない。

 長明ははるばる鎌倉まで行って、3代将軍源実朝の面接試験を受ける。

 結果は不採用。

 失意に打ちのめされて京都に帰る。

 そして方丈の庵に籠って『方丈記』を書き上げる。

 それから四年ほどして62歳で亡くなった。


まじめな人、長明

 ここからはちょっとまじめな話。

 「30歳までニート」と書いたが、実際には長明が何歳までニートだったのかは分からない。30歳まではずっとおばあちゃんの家にお世話になっていたわけだが、その後もどうやって生計を立てていたのかは分からないから、フリーターみたいな感じだったのだろう。

 長明のその自由な生き方を知って、「長明は世間の束縛を逃れて自由になりたかったのだ」と言う人がいる。私はその考え方には反対である。
 むしろ長明は世間一般の人並みの暮らしを求めていた。本当に自由になりたかったのなら大原などという中途半端な山中に住まないはずだし、50歳を過ぎても鎌倉まで就活みたいなことをしに行っているのも実社会指向がある証である。長明は、お父さんと同じように、普通に就職して結婚して家を持って、そうした普通の生活を送りたいと思っていたはずだ。

 長明は、よく西行に比較される。
 たしかに山の中の庵に隠居して琵琶を弾いていれば「風雅ですなあ」と思われるのも無理はない。たしかに長明には音楽や文学の教養があったし、そういうことを嗜んではいた。それで昔から今まで多くの人が長明のことを西行のような「風流な趣味人」と解した。
 たしかにそういう一面はある。だが、「風流な趣味人」と思われるのは、長明本人は不本意であろう。
 長明の人柄の本質は、あくまでも「まじめ」である。
 好きでニートでいたわけじゃない。好きで独身でいたわけじゃない。

 長明は出家したとは言っても実社会との関わりを持ち続けていたし、外面的には完全なる出家ではなかった。だが内面的には、そこらの坊主よりもずっと求道的で自分に厳しくまじめだった。『方丈記』の最後の方で、山の静かさや小さな家に拘ることさえおのれの醜い欲望の表れではないか、と自問しているのはまさに長明の「まじめ」さが窺えるところである。


方丈は失意の象徴

 私はかつてほんの僅かな期間だが京都の下鴨神社の近くのアパートに住んでいたことがある。広さはたたみ四畳半。まさに「方丈」の家だった。
 近所の下鴨神社の糺の森をよく散歩した。長明が愛した糺の森。今も当時と変らぬ森閑な静謐がそこにはある。私は長明の思いに思いを馳せた。長明は糺の森が好きだったろうが、同時に苦い思い出の地でもあったはずだ。

 日野の山中に結んだ方丈の庵は、けっして“数寄の結晶”などではない。それは“失意の象徴”であり“まじめの表象”である。

 長明は「孤独を愛した自由人」などではけっしてない。寂しがり屋だった。方丈の庵に琵琶などを持ち込んだけれども、それは風流のためというよりは、音楽でもなければとても寂しさに堪えられなかったからだ。


才能はあるのに生き方下手

 長明は音楽や文学の秀でた才能があった。いや、秀でてたなどというレベルではない。『方丈記』はこうして800年間も多くの人に愛読されてきた。歴史の教科書に名前が残るのは相当なレベルである。

 だが、生き方下手だった。
 長明の人生を見ていると、もっと良い人生、楽な人生を送ることができただろうにと思えるところがいくつもある。人生の数々の分岐点で、自ら悪い方、自分を苦境に追い込む方を選択してしまっているように見える。
 こうした選択も、おそらく長明のまじめな性格がそうさせている。
 もし長明がまじめではなくて、もっと貪欲な性格の持ち主だったら、いくつかの就職の場面などにおいてライバルを蹴落として就職できていてもおかしくはなかった。

 才能はあるのに、とことん生き方が不器用。この要領の悪さが長明を苦しめた。
 そしてもう一つ長明を苦しめたものは時代である。


時代の変化と「無常」

 なぜ長明は「無常」と言ったのか。それは長明が生きた時代と大いに関係がある。

 長明が生きたのは1155年から1216年。鎌倉時代が始まったのが1185年から1192年頃。つまり平安時代から鎌倉時代に世の中の構造が大きく転換する時代を生きた。現代の歴史区分でも平安時代までは「古代」だが、鎌倉時代からは「中世」である。
 それまでの貴族が安定していた時代から変わり、同時代の慈円が言ったように「武者の世」になったのである。だが、昔ながらの伝統の家柄を重んじる風習などはまだ残っていて、貴族としての位は下っ端だった長明はそうした旧習にも苦しんだ。
 結局、長明は旧い社会システムにも新しい社会システムにもどちらにも救われなかった。どっちつかずの変化の途中の時代であった。

 長明は子どもの頃、漠然とお父さんと同じような人生を歩むんだと思っていた。お父さんのお父さんも、そのまたお父さんも、長い変化のない時代に、ずっと似たような平凡な人生を送って来た。だが自分は実際にはお父さんとはまったく違う人生を歩むことになった。そのことが長明に「無常」と言わせたのだと思う。時代も社会も人生もすべてはいつまでも「常態」ではない。そのことを誰よりも敏感に感じ取っていた。

 出家の動機の一つとして、岩波文庫版方丈記の解説に載っている市古貞次の次の文はもっとも納得のいくものである。

身分階級が固定し、重代が尊重された社会、才能があってもそれを思うようにのばし得ない環境などに対する抗議の意識が底に流れていたに相違ない


 そしてそれは出家の動機だけでなく、『方丈記』が書かれた動機でもあるだろう。


人間関係を築くのが下手だった

 長明はなぜなかなか就職できなかったのか。
 それはやはり「生き方が下手」だったからなのだが、では、どういうところが下手だったのだろう。

 それを考えるヒントが無くもない。

 長明が書いた文章には、圧倒的に個人名が少ない。もっと関わりのあった人の名前をたくさん書いていてもおかしくはないのだが、全然書いていない。長明が書いてないだけではなく、長明が関わったであろうはずの相手の日記などにも長明の名前が出て来ない。

 これはどういうことか。おそらく、長明は人間関係を築くのが下手だった。長明の文章には、友人・知人・恋人のことがほとんど書かれていない。あまりいなかったのだろう。
 人脈を作ることが下手だったことと、なかなか就職できなかったこととは少なからぬ関係があるだろう。

 そして長明が関わった人物は、後鳥羽院(1221年、隠岐島へ配流)や源実朝(1219年、鶴ヶ岡八幡宮で暗殺)など、いわゆる「悲運系」の人が多い。類は友を呼ぶのであろうか。何か引かれるところがあったのだろう。


折々のたがひめ

 長明が『方丈記』に書き残した「ヲリヲリノタカヒメ」。

 この「折々の違ひめ」を解明することは長明からの課題だと思っている。

 人生はどうしてこうも思いとは違っていくのか。

 食い違い、擦れ違い、あの時あの瞬間のちょっとした行き違いが決定的な今を生む。環境や時代の影響を受け、人生は本意から遠ざかる。

 自分の人生だけではない。多くの人の人生がそうなっている。長明が『方丈記』で自然災害に苦しむ人々に寄せる目は、この人たちはなぜこんなに苦しまなければならないのか、という思いと、もっとうまくやれるはず、という思いの表れではないか。

 しかし、どうしたらうまくいくのかは分からなかった。自分でも抗い難い「たがひめ」を積み重ね、失意を重ねていった鴨長明。

 そんな長明だからこそ書けた。『方丈記』はそういう書だ。

 長明が残した課題は重い。




 この記事は、下記の本にインスパイアされて書いた。

日本人なら知っておきたい日本文学 ヤマトタケルから兼好まで、人物で読む古典日本人なら知っておきたい日本文学 ヤマトタケルから兼好まで、人物で読む古典
(2011/08/25)
蛇蔵、海野 凪子 他

商品詳細を見る


 また、下記の本を参考にした。

閑居の人 鴨長明 (日本の作家 (17))閑居の人 鴨長明 (日本の作家 (17))
(1984/10/10)
三木 紀人

商品詳細を見る


【鴨長明の関連記事】

方丈記800年、今こそ読みたい『方丈記』-大震災から500日-

 あの未曽有の大被害を齎した東日本大震災から今日で500日。
 復興が進んだ地域もあれば遅れている地域もある。大地震が齎した大きな爪痕に今なお苦しんでいる人々がたくさんいる。

 しかし一方で、東京などではすっかり日常生活を取り戻し、脱原発運動などを除いては地震そのものの記憶、特に津波被害のことなどは次第に話題にのぼることも少なくなって来ている。

 こうした、大災害に対する記憶の風化、特に人々の心持ちの変化を800年前に書いている本がある。歴史の教科書でも有名な鴨長明の『方丈記』である。

すなはちは、人みなあぢきなき事を述べて、いさゝか心の濁りもうすらぐと見えしかど、月日重なり、年経にし後は、ことばにかけて言ひ出づる人だになし。
(意訳:地震が起こった直後は、人々は皆「はかない」などと言って欲に塗れた汚い心も少しはきれいになっているように見えたけれども、年月を経るうちに、そういう言葉を口にする人もいなくなった。)

(鴨長明『方丈記』岩波文庫より)

 2011年3月11日金曜日にあの大地震が起こって、その翌土曜日と翌々日の日曜日に私が一心に読んでいたのは『方丈記』である。被害の全容が徐々に明らかになり、続々と凄まじい映像がテレビやネットで流れ、死者行方不明者の数がどんどん増えていく、そんな大きな不安と動揺の日々の中で読み続けたのは『方丈記』だった。


『方丈記』に書かれた元暦地震

 今からちょうど800年前に書かれた『方丈記』は日本三大随筆の一つとして名高いが、特に自然災害の被害の描写が詳細なことで知られる。
 東日本大震災が「千年に一度の大地震」と言われてから、それまで過去の大きな地震と言えば大正時代の「関東大震災」ぐらいまでの知識しかなかった人たちが、メディアに登場する学者たちが口にする江戸時代やそれ以前の中世、古代の地震にまで関心を持つようになった。

 西暦1185年、長かった平安時代が終わり新しい武士の時代が始まろうとしていた頃、京都の街を大地震が襲った。その時の元号をとって「元暦地震」と呼ばれるこの地震がどれほど大きな地震だったのか、今、鴨長明が『方丈記』に書き残しておいてくれていたからこそ判る。

 『方丈記』には、鴨長明自身が体験した安元三年の火災、治承四年の竜巻、養和の飢饉、元暦の地震という四つの大災害が書かれているが、その中から地震に関する記述をここに載せておこう。上が本文、下が現代語訳である。(以前書いた記事「余震はいつまで続くのか -『方丈記』に見る元暦地震-(2011/04/17)」にも載せてある。)

 又同じころかとよ、おびたゝしく大地震振ること侍りき。そのさま、世の常ならず。山は崩れて河を埋み、海は傾きて陸地をひたせり。土さけて水わきいで、巌われて谷にまろびいる。渚漕ぐ船は波にたゞよひ、道ゆく馬は足の立ちどをまどはす。都のほとりには、在々所々、堂舎塔廟、ひとつとして全からず。或は崩れ、或は倒れぬ。塵灰立ち上りて、盛りなる煙の如し。地の動き、家の破るゝ音、雷にことならず。家の内にをれば、忽ちにひしげなんとす。走り出づれば、地われさく。羽なければ、空をも飛ぶべからず。竜ならばや、雲にも乗らむ。恐れのなかに恐るべかりけるは、只地震なりけりとこそ覚え侍りしか。かくおびたゝしく振る事は、しばしにてやみにしかども、そのなごりしばしば絶えず。世の常驚くほどの地震、二三十度振らぬ日はなし。十日廿日過ぎにしかば、やうやう間遠になりて、或は四五度、二三度、若しは一日まぜ、二三日に一度など、おほかたそのなごり、三月ばかりや侍りけむ。四大種のなかに水火風は常に害をなせど、大地にいたりてはことなる変をなさず。昔斉衡のころとか、大地震振りて、東大寺の仏の御頭落ちなど、いみじき事ども侍りけれど、なほこの度にはしかずとぞ。すなはちは、人みなあぢきなき事を述べて、いさゝか心の濁りもうすらぐと見えしかど、月日重なり、年経にし後は、ことばにかけて言ひ出づる人だになし。


(意訳)
元暦二年(1185年)ごろだったと思うが、大地震があった。その様子は尋常じゃなかった。山は崩れて川を埋め、海は傾いて陸地に浸水した。地面は裂けて水が湧き出し、岩は谷に転げ落ちた。船は波間に漂流し、馬は足場を失った。都のあちこちで、仏塔など一つとして無事ではなかった。あるものは崩れ、あるものは倒れていた。塵が立ち上って煙のようだった。震動、家の壊れる音は、雷のようだった。家の中にいれば、たちまち下敷きになってしまう。かと言って外に走りだせば、地面が割れている。羽がないので空を飛ぶこともできない。竜だったら雲にも乗って逃げるだろうが。恐ろしいものの中でとりわけ恐ろしいのは、地震なのだと思った。こんなに大きな揺れはしばらくしてやんだけれども、余震が絶えなかった。普通にびっくりするくらいの地震が1日に2、30回くらいあった。10日、20日ほど過ぎてようやく間隔があいてきて、1日に4、5回、2、3回、もしくは1日おき、2、3日に1回などとなって、結局、余震は3カ月ぐらい続いた。この世のものの中で、水害と火事と台風はいつも被害があるけれども、大地が揺れるなんてことはなかった。昔、斉衡時代(854-857)に大地震があって、東大寺の大仏の頭が落ちたとか聞いたことあるけれど、今回ほどの地震ではなかっただろう。その当時は、人々は皆「情けない」とか「はかない」とか言って、心の中の濁りや欲望も薄らぐように見えたけれども、年月が経って、そんなことを言う人もいなくなった。


 鴨長明は、地震のことをなぜこんなに詳しく書いているのだろう。
 京都人の鴨長明が元暦の大地震に大きなショックを受けたことは間違いないが、『方丈記』が書かれたのは長明57歳の頃、そして元暦地震は長明30歳の時に被災した地震である。つまりだいぶ前の若い頃に被災した地震のことを思い出して書いているのである。上記引用の中で「すなはちは(当時は)」と言っているのは、斉衡時代の地震のことを振り返っているのではなくて、元暦地震のことを指している。

 鴨長明は30歳の頃は、自分の人生でも辛いことが重なっていた時期でもあり、とても筆を執れるような心境ではなかったかもしれない。しかし、人生の最終盤に差し掛かり、閑居していた方丈の庵の中で自らの人生を振り返り、世の無常を思った。
 『方丈記』は随筆でありながら、プライベートなことよりも自然現象や抽象的な思想などを語っている点が特徴的である。そしてこの点が『方丈記』を価値あるものにしている。


『方丈記』の歴史的な眼

 最近読んだ中で興味深かったのは、『日本人なら知っておきたい日本文学』の中で著者の海野凪子氏が、『方丈記』の中には「いくさ」という言葉が出て来ない、と指摘していたことである。

 鴨長明が生きた時代は源平の争乱が最も激しかった頃に重なる。そうした戦の数々について記していてもおかしくはない。

 しかし長明は、政治や自分のプライベートなことなど、流動的な現在進行形のことについては敢えて書かなかったのだろう。私には『方丈記』は、遠い過去から遠い未来へと亘って貫徹する歴史の哲理のようなものを追究した本に見える。それは300年も前の斉衡時代の地震に言及しているところなどからも窺える。長明はあきらかにこの本を後世の人たちが読んだ時に歴史的な史料として参考になることを意識して書いている。自然災害の描写が詳しかったり、本の最後に「于時建暦の二年、弥生の晦日ごろ、桑門の蓮胤、外山の庵にして、これをしるす」と年月日をしっかり記しているのも、そうした歴史を意識している表れである。当時はこうした随筆文にそれを書いた年月日を記すことは珍しかった。


『方丈記』が肯定する“人間らしさ”

 岩波文庫版(が底本としている大福光寺所蔵本)の本文には載っていないが、別の伝本にはこんな話も載っている。

 6歳か7歳ぐらいの子どもが遊んでいたが、大地震(元暦地震)が来て塀の下敷きになって死んでしまった。その子を抱きかかえて、父親と母親が声を惜しまずに泣いていた。その子の父親は武者だったが、そんな勇敢な者でも我が子を失った悲しみには恥を忘れて泣くのだ、と。

 ここにほんの少しだけ、当時擡頭して来ていた武士に対する長明の思いと、やはりどんなに時代や人が変わっても我が子を失った悲しみは変わらない、という長明の確信を看て取れる。長明はそれを「いとをしくことわりかな」と言っている。

 『方丈記』が強烈に肯定しているのは、こうした「人間らしさ」。政治的な、誰が天下を取ったとか誰が偉くて誰が上で下だとかいう話ではなく、もっと根源的な人間らしさを語っている。


東日本大震災と『方丈記』800年

 今年2012年は『方丈記』が書かれてから、ちょうど800年の年になる。

 東日本大震災の直後、多くの日本人が味わったあの危機感。電車が止まり、コンビニやスーパーから食料品が消え、テレビでは津波の衝撃的な映像が流れ、ネットでは猛烈な情報が流れ、原発事故の見えない恐怖に脅えていたあの頃、見知らぬ人とも「こんな時ですからお互いに助け合いましょう」という空気が、少なくとも私の住んでる東京にはあった。
 多くの人が東北の被災地にボランティアに行き、あるいは募金に応じ、無償の行動をしていた。こうした心を私たちはいつまで持ち続けていられるのだろうか。長明は大地震から二十数年後には「そんなことを言う人すらいなくなった」と言っている。
 東日本大震災はいろいろな形で記録され、その記録自体は風化しないだろうが、長明が言っているのは心持ちの風化である。
 西日本や海外に住んでいた人はもしかしたら少し感じ方が違うかもしれないが、私は東日本に住んでいた人間として、あの時感じた必死の思いやその時に人々の間にあらわれた人間らしさの感覚を忘れたくない。

 『方丈記』には地震に関する記述の他にも、弱者に対する眼差し、命に対する眼差し、など興味深い点がたくさんある。もちろん、文学的価値の高い名文でもある。
 『方丈記』は非常に薄い本なのですぐに読めるし、今は読みやすい現代語訳がいくつかある。まだ読んだことのない人、中学高校時代の古文の時間に習った冒頭の「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」しか覚えていないという人は、800年記念の今年に、ぜひ読んでみてはいかがだろうか。


方丈記 (講談社学術文庫 459)方丈記 (講談社学術文庫 459)
(1980/02/07)
安良岡 康作

商品詳細を見る


すらすら読める方丈記すらすら読める方丈記
(2003/02/20)
中野 孝次

商品詳細を見る



【『方丈記』関連の記事】

ツイッターユーザーは右寄り?米国のソーシャルウェブと支持する政党の関係

 「engage(英語)」といふサイトで、米国における各種ソーシャルウェブサービスと政治思想の関係を示したちょっと興味深い図が紹介されてゐた。

Politics-of-the-Social-Web-Engage_20120711215754.png
(クリックで拡大)

 この図では、右に行くほど共和党寄り、左に行くほど民主党寄り。上に行くほど政治への関心が高く、下に行くほど政治への関心が低い。

 これはengageが、数千人のフェイスブックユーザーの「いいね!」の傾向を独自に調べて図にしたものらしい。

 一見して、Facebook(SNS)やYouTube(動画)が中央にある。これらはユーザー数も多いし、政治的偏向が無いのは納得。他にもskype(電話)やWordPress(ブログ)など、誰でも使ってる中立性の高いサービスが中央に来てゐる。
 左右に注目して見ると、一番右、つまり共和党寄りには、ebay(オークション)・PayPal(決済)グループ。左にはBuzzFeed(ニュース)などが位置してゐる。
 上下に注目して見ると、HuffingtonPostと繋がりのあるBuzzFeedや、ビジネスSNSのLinkedInが上に来るのはさもありなんといった感じで、画像のPinterestTumblr、ゲームのFarmVilleAngryBirdsが下に来るのもこれまたさもありなん。

 この図の中で一番違和感があるのはreddit(ネタ)の位置である。こんな左下なはずがない。もっと右上に来るべき気がする。
 あと、全体を見ての感想は、右側はお金がかゝりさう。といふより、金持ちの楽しみ、といった感じがする。右下に描かれてゐるZillow(不動産)なんかはまさにそんな感じだ。

 元記事では、右側にコマースサイトが多く、左側にはQuora(Q&A)やWikipedia(百科事典)など知識や情報を重視するサイトが来てゐると分析してゐる。また、政治的関心が低く左右に偏ってゐない、この図の下部中央に位置するPinterestやAngryBirdsは、言はば「無党派層」なので、票の取り込みが期待できるとも分析してゐる。といふことは、今度の大統領選挙ではPinterestユーザーの支持を集めた方が勝利する?しかしソーシャルゲームユーザーとかそもそも選挙に行かない感じの層である。

 これを日本で調べたら、どういふ結果になるだらう、と考へてみる。
 上図では、Twitterが右寄りに位置してゐるが、日本だったら左上に来るのではないだらうか。私のイメージでは日本のツイッターユーザーは全体的に政治的関心が高くやゝ左寄りな印象だ。一番右に来るのは2chだと思ふ。2chと親和性の高いニコニコ動画は右寄りだが2chよりは下に来るだらう。日本最大のYahoo!JAPANはど真ん中に来るべきところだが、分からない。上下で言へば、ツイッターやUstreamは上に来さうで、アメーバ、Pixiv、グリー、モバゲーなどユーザー層が若さうなのは、すべて下に来るだらう。そして上の法則に従へば、楽天は右上、教えて!gooやはてなブックマークは左上?あとtumblrも米国のものよりは右に来さうな気がする。tumblrは一見画像メインだがテキストに注目して見ると全体的な思想傾向がゆるやかに見えてくる。

 読者の皆さんはこの図からどのやうな傾向を読み取るだらうか。

 たゞし、上図の分析結果がどこまで信頼に足るものであるかどうかは保証しない。あくまで参考までに。


学校のいじめと社会

(2012/7/9加筆あり)

【学校が人を怪物にさせる】大津いじめ自殺事件についての内藤朝雄さんのコメント - Togetter

 これを読んで、同感する部分もあったが少しく違和感を感じた気になった部分があったので書き留めておきたい。

 違和感を感じた気になったのは、内藤朝雄氏の次のようなツイート。

【学校に法を、いじめ加害者に刑事罰を】暴力に対しては警察を呼ぶのがあたりまえの場所であれば「警察だ」の一言で、(利害計算の値が変わって)暴力によるいじめは確実に止まる。加害者が大きな損失を被ってまで特定の人をいじめ続けることはほんんどない。
【学校に法を】いじめは「やっても大丈夫」「やった方がむしろ得だ」という利害構造に支えられて蔓延し、エスカレートする。さらに法は、現実感覚のモードを切り替えるを、強力な解除キーとして働く。
【法は解除キー】法執行機関が目の前に迫ってきたり、「警察を呼ぶ」「告訴する」「あなたの行為は刑法○○条に触れている」といった法の言葉が発せられたりするだけで、現実感覚は聖なる集団生活のモードから、市民社会のモードへと、瞬時に切り替わる


 今回の大津いじめ自殺事件では、その警察も頼りにならなかったから問題になっているわけで、「警察を呼びます」、「法に訴えます」と言って解決するならいいが、警察も法も守ってくれなかったらどうすればいいのか。

 内藤朝雄氏の考え方は、「学校」という場所を特別な場所にしないでその中に「市民社会」のルールを適用させよう、という考え方だ。

【学校での暴力はすぐに警察に】路上で誰かが誰かを殴るのを目撃したら警察に通報するのが当然だが、学校の「友だち」や「先生」の暴行傷害を学校の頭越しに警察に通報すれば、学校と地域社会で非難されるのは加害者ではなく被害者や目撃者の方となりがちだ。


 つまり、「あなたたちいじめっ子の行いは“社会”では通用しません」と言いたいのだろう。

 だが、ちょっと待て。この「そんなの社会では通用しません」、「社会はそんなに甘くありません」、「社会の厳しさを教えてやる」という言葉はどこかでよく聞く言葉だ。

 同じ日にこんな文章を見た。

 体育会系のクズがやさしい社会を殺してる気がする(はてな匿名ダイアリー2012-07-08)

 この中に、

体育会系は「社会は厳しい」と言う

就職活動中の学生に「そんなんじゃ、社会に出たらやっていけない。」というのが快感になっている。
基本的に学生の事なんかこれっぽっちも考えて喋ってなくて、自分がいかに社会を生きてきたかの武勇伝が中心となる。


とあった。

 私は中学時代、いじめっ子に暴力を振るわれるときに「おまえのそのひん曲がった根性を叩き直してやる」と言われた。彼らは社会の厳しい掟を教えてやってくれていたわけだ。

 大人の社会にもいじめはある。子どもの社会は大人社会の縮図である。本来、規範となるべきその大人の“社会”がダメダメである。まず“社会”が全然立派じゃない。とても胸を張って子どもに教えられるようなものじゃない。

 そして学校は、人間がいきなり社会の厳しい荒波に揉まれて戸惑わないように、生きていく術を身につけておく場だと位置づけられている。それは2002年以来の学習指導要領に打ち出されている「生きる力」というスローガンにも表れている。

 しかし“社会”を厳しいものだとしておきたい人たちがいる。無意味に固定化して、それは「変えられないものだ」という人たちがいる。「俺らも1年の頃はこういう厳しい扱きを受けたんだ」と厳しい伝統を守りたがる2、3年生が学校にいるのは、そういう大人たちの高校バージョンであり、中学バージョンである。

 学校がそのような目的を課せられているのであれば、あるいは学校の存在意義がそのように定義づけられているのであれば、いじめっ子がおとなしい子に社会の厳しさを教えているのは一面理に適ったこと、学校の目的に沿ったことだと言えるだろう。
 言えてしまうだろう。



(2012/7/9追記)
 私は内藤朝雄氏の言ってることに同感する部分もあったので、「違和感を感じた」という言葉を「気になった」に改めた。
 内藤氏は、学校が社会の最低限のルール(法)さえ通用しないあまりにも特別な場所になってしまっているのを注意しているのだろう。異常な暴力や命の危険に晒されるほどの行為が学校の中なら許されるというのは確かにおかしい。
 学校という装置の中に長年いると、その異常が常態化してしまう。こうしたことは会社などでも同じようなことが起こる。その団体や組織の中に長年いればいる人ほど、異常に対する感覚は薄れてゆく。ただ、学校は会社に比べて自由度が低い。転校することは社会人が転職するよりもずっと難しい。その点を考慮して「学校に最低限のルールを」と言うのはわかる。