暫定龍吟録

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2012年08月の記事

人間味あふれる大正天皇

 今日8月31日は大正天皇の誕生日。明治(11月3日)と昭和(4月29日)は祝日になっているが、大正天皇の誕生日は祝日にはなっていない。

 大正天皇は明治と昭和の二人の偉大な天皇に挟まれて存在感が薄い。時代としても激動の時代だった明治と昭和に挟まれて大正時代は短く、そしてそこまで大きな出来事がなかっただけに存在感が薄い。

 しかし大正天皇はもっと評価されていい。進歩的な思想の持ち主であった。当時としてはあまりにも進みすぎていたために周りからの理解を得られなかった。

 身体が弱かったとか精神薄弱であったとかいろいろな良くない噂を立てられ、その後のイメージに影響した。
 身体面について言えば、ご健康な時と健康を崩されている時期とあった。生涯にわたってご病弱であったわけではない。そしてそれ以外の噂については単なる噂の域を出ていない。

 ご家族で合唱を楽しまれるなど家庭的な天皇であった。側室を廃して一人の女性とのみご結婚された。

 三島中洲から手ほどきを受けて漢詩がお得意であった。外国語も堪能で世界情勢に興味を持たれていた。朝鮮半島に行かれたときは、若き皇太子李垠と親しくなり、朝鮮語にも関心を持たれた。

 堅苦しいことがお嫌いで自由に振舞われるのがお好きだった。しかし立場上、どこへ行くのにも「お付きの者」が付いてくるのが常だった。

 九州の香椎宮に松茸狩りに行かれた時、あまりにも不自然にたくさんの松茸が生えているのを見抜いてご指摘になった。もちろん、皇太子に失礼なことがあってはならないということで関係者があらかじめたくさん置いておいたわけだが、そういう不自然な演出を嫌われた。しかしもちろん関係者の苦労や気遣いは理解されていた。

 大正天皇に纏わるエピソードの中でも特に私が好きなエピソードは次のものだ。

 明治44年11月、大正天皇がまだ皇太子であった頃に、兵庫県武庫川に演習見学に行ったときのこと。いつものようにお付きの者がたくさん付いてまわって日程をこなしていたのだが、不意に学習院時代の旧友、桜井忠胤の家を訪れた。予定にはないことだったが、どうせ兵庫県まで行くなら友達の家を訪れたいと前々からお考えであったのだろう。
 びっくりしたのは桜井で、突然訪れた皇太子にひれ伏し、「今回は恐れ多き光栄を賜り誠に恐縮に存じ奉る」と言うのが精一杯だった。それはそうだろう。皇太子がいらっしゃるというのに何のお出迎え、おもてなしの準備もできていなかったのだ。
 しかしそれが大正天皇の狙いだった。自分のために豪勢な準備をされた上で会うのではなく、自然体な形で会いたかったのだ。だからこそ、秘密裏にしていたのだ。
 「今度は軍人となって来たのだから恐縮だの恐れ多いだのは止めにして呉れ、そう慇懃では困る」。
 「桜井、今日は恐慌だなどは一切よせよ、お前は学校に居る時、俺と鬼ごっこの相手ではないか、今は此処に住んで何をしているか、どうも騒がしたなア桜井、又来るよ」
 そう言って、旧友の家を後にした。窮屈な「業務日程」の中での、ほんの一瞬の楽しい時間であった。

 こうしたエピソードから窺えるのは、人間的な、あまりにも人間味あふれる天皇像である。

 大正天皇が当時いかに人気があったか。

 先日、ロンドンオリンピックのメダリストたちが銀座で凱旋パレードをした際に50万人の人出があったとして話題になったが、1915年の即位の大礼後に東京にご還幸の時には東京駅に300万人もの人が出迎えた。

 現在復元工事が進められている東京駅は大正天皇のために建てられたと言ってもいい建造物である。

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(2012年8月の東京駅)

 大正天皇が崩御された1926年12月25日のロサンゼルス・タイムズ紙は

嘉仁は日本の最も人気のある元首の一人であった。外国語が達者で、「世界平和や国際道徳に関し、進んだ思想」の持ち主だといわれていた

と書いた。

 『大正天皇一躍五大洲を雄飛す』を書いたフレドリックR.ディキンソンは、

儀式的役割に集中するかぎり、大正天皇は立派な君主だったと言わなければならない

世界の流行に深く馴染んでいた嘉仁が日本帝国の二〇世紀入りを見事に導いた

と言っている。

 何れも高評価である。

 そんな人気のあった天皇も時代が変わり、昭和の軍国主義の強まる風潮の中で、次第に評価が変わっていった。

 私は見てないのだが、数年前に「英国王のスピーチ」という映画が流行った。現エリザベス女王の父、ジョージ6世の話で吃音に悩んでいた英国王が最終的に感動的なスピーチができるようになるという話だそうだ。

 日本でも「大正天皇の勅語」または「大正天皇のお言葉」という映画を作ったらどうだろう。

 日本では2000年にやっと原武史が大正天皇のプラスイメージ復権の先鞭をつけた。しかし遅すぎたぐらいだ。そしてまだ物足りないと感じる。
 今年2012年は大正100年。人間味あふれる大正天皇のプラスイメージがもっともっと広がっていけばいいと思う。


(参考文献)
 以下の二書を参考にした。

大正天皇 (朝日選書)大正天皇 (朝日選書)
(2000/11)
原 武史

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大正天皇―一躍五大洲を雄飛す (ミネルヴァ日本評伝選)大正天皇―一躍五大洲を雄飛す (ミネルヴァ日本評伝選)
(2009/09)
フレドリック・R. ディキンソン

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日中韓、碁風の違いから見る領土問題

 日本と中国、韓国の間で領土問題が再燃している。

 この8月の一聯の騒動を見ていて、私は日本と中国、韓国の碁風の違いを思った。

 囲碁は日本と中国と韓国でメジャーなゲームである。ルールもほぼ同じなので、よくこの3カ国を中心とした国際大会も開かれている。

 将棋は相手の王様の首を狙う「戦争ゲーム」だが、囲碁は「陣地取りゲーム」である。陣地(領土)をより広く取ったほうが勝ちというゲームなので、まさに「領土ゲーム」と言える。

 この「領土ゲーム」を考えることが領土問題を考えるヒントになるのではないか。


囲碁で負け続ける日本

 この囲碁の世界で日本は近年、中韓に負け続けている。

 例えば昨年2011年まで世界囲碁選手権富士通杯というのが開かれていたが、2000年以降の優勝・準優勝者を国別に上げると次のようになる。


優勝準優勝
2000年韓国中国
2001年韓国韓国
2002年韓国韓国
2003年韓国韓国
2004年韓国日本
2005年韓国韓国
2006年韓国中国
2007年韓国韓国
2008年中国韓国
2009年韓国韓国
2010年中国韓国
2011年韓国中国

 また、2010年のアジア競技大会の囲碁競技における成績は次の通りである。


金メダル銀メダル銅メダル
男女ペア碁韓国中国韓国
男子団体戦韓国中国日本
女子団体戦韓国中国中華台北

 ご覧のように中国と韓国の二占である。
 これらの大会には各国のトッププロ棋士が参加し、日本からも名人や本因坊など一流のトップ棋士が参加しているのだが、優勝はおろか、ベスト4に入ることすらもほとんどできない状況である。他の国際棋戦でも同様である。
 領土取りゲームでずっと中国、韓国に負け続けているのである。


碁風の違いから探る日本の弱さ

 なぜ、日本は弱いのか。

 それは、一つには競技人口の差というのがある。日本では囲碁と言えば老人の趣味みたいなおもむきがあるが、中国・韓国では子どもの頃からたくさんの人が囲碁に親しんでいる。裾野が広いのである。

 しかしそれにしても日本は弱い。競技人口の差を差し引いて考えても弱すぎるのではないか。

 日本と中国・韓国の間にはよく“碁風”の違いがあると言われる。

 「厚み」重視と「実利」重視の違いというのがあって、囲碁を打たない人にそれを説明するのは難しいが、簡単に言うと「厚み重視」とは盤面全体を重視するのに対して、「実利重視」というのは細かいポイントを重視することである。

 日本の棋士は「厚み重視」の人が多く、中韓の棋士は「実利重視」の人が多いと言われる。

 ところで、囲碁というのは将棋と違って終局が難しいゲームである。将棋の場合は、どちらかの王様が詰んだら(逃げ場所がなくなったら)負けなので、ゲームの終わりははっきりしている。それに対して囲碁はゲームの終わりが複雑で曖昧なところがある。
 最後まで領土の境界線が曖昧なところが残るので、その境界線の確定作業(終局作業)をし、そのあと整地作業をして、ようやくゲーム終了となる。
 つまり囲碁というゲームは、両対局者が協力してゲームを終わらせないといつまでたっても終わらないのである。

 問題は、激しい戦いから終局作業に移行する瞬間である。普通は、それまで激しい戦いを繰り広げていた両対局者が、もう大体勝負は終わったなと思ったら、お互いに目で合図するなどして終局作業に移る。

 しかし「実利に辛い」と言われる中韓の棋士は最後までポイントを稼ごうと思っている時、「まだ勝負は終わっていない」と思っている場合がある。日本の棋士が「もう勝負は終わった」と思い終局作業に入り緩い手を打ったらまだゲームを続けて厳しい手を打っていた相手の棋士に石を取られて逆転負けを喫することもある。


 日本の棋士は、過去にはずっと日本の棋士だけを相手に戦い、日本人同士「阿吽の呼吸」でお互いに終局作業に入ることができていた。
 しかし十数年ほど前から国際交流が盛んになって実利に辛い中韓の棋士たちと戦うようになって特に終盤で勝てなくなった。

 日本の囲碁は伝統的に「布石」と呼ばれる序盤の研究は盛んだったが、「詰め」とか「寄せ」と呼ばれる終盤が弱かった。「詰めが甘い」のである。

 尖閣諸島や竹島を巡る領土問題を見ていると、まさにこうした囲碁界における特徴、日本と中韓の違いがよく表れていると感じる。

 日本は「大局的見地に立って」領土問題を解決していこう、と言っている。囲碁の世界で言う「大局観」である。
 日本は領土問題というゲームは日本と相手国が協力してお互いに落とし所、妥協点を見つけて何とか終局に持って行くものだと思っている。そうしないといつまでたっても終わらないじゃないか、と思っている。

 しかし中韓は、領土問題というゲームはまだ終わっていないと思っている。まだ戦いは終わっていないのであり、竹島の接岸工事や大統領の訪問といったことも、実利(実効支配)を重視したポイント稼ぎである。

 日本は韓国に対して「ICJ(国際司法裁判所)で決着をつけようじゃないか」と言って歴史的正当性だけ主張できれば勝てるように思っているけれども、「詰めが甘い」日本が果たして本当に勝てるのかどうか心配である。

 日本は歴史的大局、あるいは国際法的、政治的大局に立って正当性を主張しているが、韓国は小さなポイントを着実にたくさん積み重ねているのである。


ルールの違いから見る領土の捉え方

 今までの話はどちらかと言えば韓国を念頭に置いた話だが、ここからは中国の話。

 日本と中国では、囲碁のルールが少しだけ違う。

 日本では石の線で囲ったところが自分の陣地であり、その陣地が広かった方が勝ちである。
 中国ではそれに加えて置いた石の数も得点に入る。

 このルールの違いによって勝敗が変わってくることはほとんどないのだが、そのルールの違いから囲碁に対する考え方が若干異なっているように思う。

 先日、内田樹氏のこんな記事を読んだ。


 領土問題は終わらない (内田樹の研究室)

彼らに「国境」という概念(があるとすれば)それは私たちの国境概念とはずいぶん違うものではないか

国境付近の帰属のはっきりしない土地については、それが「あいまい」であることを中国人はあまり苦にしない

華夷秩序では、中華皇帝から同心円的に拡がる「王化の光」は拡がるについて光量を失い、フェイドアウトする。だんだん中華の光が及ばない地域になってゆく。だが、「ここから先は暗闇」というデジタルな境界線があるわけではない。


 この内田氏の説に従ってみるならば、中国の碁における碁石は「中華」である。碁石(中華)がどこまでも生きていったところまでが「領土」である。

 一方、日本の囲碁は碁石の線で囲ったところまでが自国の領土である。

 囲碁のルールの違いというこんなところにも日本と中国の領土に対する見方、考え方の違いが表れているように思える。

 (因みに韓国の碁は日本ルール。)


最後に

 「碁風」は当然ながら個人差が大きく、日本、中国、韓国の棋士がそれぞれ全員同じというわけではない。また、この記事では「中韓」と言っているけれども、実際には中国と韓国の碁はまた少し違うところもある。それに尖閣諸島の問題と竹島の問題は同じ「領土問題」と言っても問題の質が違う。

 そうした点も踏まえて、この記事は一つの仮説として楽しんでいただきたい。

福田恆存と朴正熙

 今日2012年8月25日は福田恆存生誕100年の日。

 福田恆存は地元の人なので学生時代に読んでみたが、よく分からなかった。分からなかったというより共感するところが少なかった。

 今あらためて思うと、それは時代の違いのせいかもしれないと思った。
 福田恆存が左翼思想に対して抱いていた反感も、福田が言論活動をしていた当時の感覚だったら妥当な感覚だったのかもしれない。

 福田恆存は、何代か前の韓国大統領朴正熙と親交があった。朴正熙のことを「周圍の人間を獻身的にさせる魅力があつた」、「男が惚れる男」と評価し、「朴正熙氏の人柄を心から敬愛してゐた」と言っている。

 ところで最近日韓関係が拗れている。いや拗れているのは昔からだが、李明博大統領の竹島訪問などを機に悪化が表面化している。日本では、大統領のこうした暴走は政権末期の国内からの突き上げに対する不安の表れと見る人も多い。

朴大統領が「私は人にどう言はれても、あらゆる努力をして、(あの金大中のやうな人達には)大統領の席を譲りたくありません」と言つた時、握り締めた兩の拳を机の上に置き、その間に稍前のめりに顔を伏せ気味にして、半ば自分に言ひ聽かせるやうに力強く言ひ放つた真率、鎮痛な表情、その部厚い兩肩が、未だに私の眼底に残つてゐる。 それは私の生きてゐる限り一生消えないであらう。(中略)大統領は續けてかう言つた、「私が死んだ方が、國民の戦意はかへつて強固なものになるかも知れませんよ。」私はその微笑のうちにこの人の孤獨を看て取つた。(『孤獨の人、朴正熙』)


 こうした文章を読むと、韓国大統領という「職業」の特殊性について考えさせられる。

 福田は初めて朴正熙に会ったとき、約束の一時間が過ぎたので辞し去ろうとすると大統領が「どうせ私も昼食の時間です。私と同じ物でよかったら食べて行きませんか」と福田を引き止めた。
 そこで出されたオムレツは中まで硬く表面がまだらに焦げていて、とても満足のいく食べ物ではなかったが、福田はそこに朴正熙の「清貧濯ふが如」き性格をみた。
 そして食事が済んで三十分くらいして約束の時間をあまりに超過してしまったので再び失礼しようとすると「今日の午後は何も予定がないから」と言って再び押し留められた。
 そこからまた長々としゃべり合い、二人はまるで古くからの友達のようだった。「大韓民国大統領の姿は消え去り、知己、朴正熙しか存在せず」と語っている。

 1979年10月26日、福田は日韓演劇交流のためにソウルを訪れていた。その夜7時55分、朴正熙は兇弾に斃れる。翌朝叩き起こされて事件を知った福田は戒厳令の布かれる中で芝居の公演を行ったのだった。朴正熙がどうしても見に行きたいと言っていた芝居だった。

クリーニング屋のおばちゃんと個人情報

 「個人情報」がうるさく言われるようになってから久しい。

 世の中には個人情報にうるさい人とものすごく鈍感な人がいるが、私はどちらも問題だと思っている。鈍感すぎる人も敏感すぎる人も今の時代になぜこれほど個人情報がうるさく言われるのかが分かっていないという点では同じである。

 個人情報とは何かという話はまた別の機会に書くとして、今日は先日クリーニング屋で経験した個人情報に纏わる話を書こうと思う。



 近くのクリーニング屋は、となり街にかけて5~6店舗ぐらい展開している地域密着型の中小規模のチェーン店である。

 先日、初めてそのクリーニング屋に行ったときのこと。
 その店の60代くらいの店員のおばさんが「会員カードは持ってますか?10%割引きになりますけど」と言った。

 私「いえ、持ってません」
 
 おばさん「初めてですか?作りますか?10%割引きになりますよ」

 私「じゃあ、作ります」

 おばさん「では、これに記入をお願いします」

と言って差し出されたのは、手書きで書いてコピーして鋏で切ったような簡単な小さな申込用紙だった。名前、住所、電話番号、メールアドレスを書く欄があった。

 私が名前と住所とメールアドレスを書いて渡すと、おばさんは「あの、電話番号も・・・、何かあったとき連絡しないといけないので」。
 私はメアドを指さして「ここに連絡してください」と言った。

 おばさんは少し困った顔をして、別の先輩おばさん店員に相談しに行った。するとその先輩のおばさんがやって来て「お客さま、電話番号を書いていただかないと、もし何かあったときこちらから連絡しなければいけませんので」。

 私「いや、だからこのメールアドレスに連絡してくださいよ」

 おばさん「これじゃ駄目なんです。電話じゃないと駄目なんです」



 じゃあ何のためにメールアドレスを書かせたんだ、と食ってかかろうと思ったが止めておいた。

 見るからにパートのおばさんである。申込用紙に電話番号を書かない客など初めてだったのだろう。二人とも困ったような顔をしていた。
 そのおばさんに言ってもしょうがない。チェーン店全体の経営を統括している社長がいるだろう。その社長の方針のはずである。



 私も以前、会社で客に申込用紙に記入してもらう仕事をしていたことがあるから、この時代に個人情報を書いてもらう仕事の苦労は分かる。

 私の会社でもパソコンで作って印刷しただけの簡単な申込用紙だったが、しかし私の会社では申込用紙に記入してもらう個人情報は「名前」と「連絡先電話番号」の2つだけだった。

 たしかにトラブルやハプニングがあったときなど、こちらからお客さまに連絡しなければいけない事態が生じることがある。だからどうしても連絡先を聞く必要がある。

 このような申込用紙でよく見かけるのは、聞きすぎている紙である。

「お名前」
「ご住所」
「電話番号」
「携帯電話番号」
「FAX番号」
「メールアドレス」

等々。

 しかし、これだけたくさんの連絡先を聞くということは、店側にこれだけたくさんの手段を使った連絡義務が生じるということである。
 客からは「なんで携帯のほうに連絡してくれなかったんだ」、「なんでFAXで」、「なんでメールで」、「僕は日中は携帯には出られないからこっちの番号に電話してくれ」等々といったお言葉をいただくことになる。

 顔なじみの客もいるだろうが、あの人にはFAXで、あの人にはメールで、あの人には電話で、と人によって連絡手段を変えなければいけないのは、店側にとってはとても手間のかかることである。
 そして連絡がつかなかったら「なんでこの方法で連絡してくれなかったんだ」と言われるので、すべての連絡手段を一応試さなければいけない。

 私の会社では、申込用紙の個人情報に係る記入欄は「名前」と「連絡先電話番号」の2つだけと徹底していた。
 「電話番号」の下に「(携帯電話番号)」などと書いたりもしていない。電話番号は2つも書かせない。
 なぜ「電話番号」かと言うと、年配の客は携帯電話を持ってないという人も多い、逆に若い人で一人暮らしの人などは携帯電話は持ってるけれどイエ電は無いという人も多い、なので、「電話番号」と書いておけば大半の人はどちらかは持っているだろうということである。
 イエ電と携帯電話と両方持っている客がそこにどちらの番号を書くかは客の判断である。そしてその番号にかけて繫がらなかったら、それは客の責任である。もちろん「念の為に」と言って自分からその欄に2つの電話番号を書き込む客もいる。

 FAXやメールアドレスは持ってない人もいる。

 かと言って、「連絡先」とだけ書いておいたら、今ならTwitterアカウントなどを書く人もいるかもしれない。それはそれでやはり連絡手段が多岐化して店側としては面倒である。

 だから「連絡先電話番号」とだけ書いておくのである。



 私はそのクリーニング屋に、その小さな申込用紙に事細かに個人情報に関する取り扱い方針を書いておけ、と言うのではない。ウェブサービスでよく見かけるような「第三者には譲渡・開示いたしません」とか、「このサービスの利用目的以外の目的では利用いたしません」などとそこまで細かく書いておくことは求めない。

 ただ、「ついでに」などといった軽い感覚で不用意に余計な情報まで書かせるべきではない。余計な欄を設けるべきではない。そのおばさんたちに悪意はないだろうが、穿った見方をすれば、そのクリーニング屋はブラックな店と見ることもできる。

 現代にあっては、個人情報の聞き方、書かせ方にはもう少し熟慮あるべきである。


 結局、その時は電話番号も書いたけれど、そのクリーニング屋にはそれ以来行ってない。


クラウド時代のバックアップとは何か


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 先日、突然、パソコンがインターネットに繫がらなくなった。幸ひ、インターネットには翌日繫がるやうになったが、その日は一日、仕事にならなかった。

 私はこの痛い経験を機に、バックアップについてあらためて考へた。そこで思ひ知ったのは、自分のバックアップに関する認識の甘さ、考への古さだった。

 私はずっとバックアップの重要性については認識してゐるつもりだったが、バックアップするものはデータだと思ってゐた。データさへバックアップしてゐれば問題ないと思ってゐた。
 だが、さうではなかった。クラウド時代になり、「バックアップ」といふ言葉・行為はもっと多義的に理解されなければならないと痛感した。

 今回、自分が痛い目に遭った経験を教訓として、私と似たやうなライフスタイルを送ってゐる現代人の皆さんが同じ轍を踏まないやうに、考へを書き留めておきたい。


従来のバックアップ

 「バックアップ」といふ語を調べると、IT用語辞典でもウィキペディアでも「データの写しをとって別の場所に保存すること」と書いてある。なにかトラブルがあったときのための予備を用意しておくことである。

データの写しを取って保存すること。コンピュータに保存されたデータやプログラムを、破損やコンピュータウイルス感染などの事態に備え、別の記憶媒体に保存すること。(IT用語辞典)


失われては困るデータを失う前に通常とは別の場所にコピーしておくこと(Wikipedia)


 しかし、バックアップすべき対象については「データ」と書いてある。他のどのサイトを見ても、バックアップといふのは、データのバックアップをとることだと書いてある。

 たしかにこれが今までの多くの人の「バックアップ」の認識である。そして人々が「バックアップは重要ですよ」と言ふとき、それは「データのバックアップを取っておけ」といふことを意味してゐた。


クラウドコンピューティングの時代へ

 私もデータのバックアップが重要だと思ひ、パソコンの中のデータは外部の記録媒体に写しをとるなどしてゐた。
 しかし、かうした記録媒体には欠点があった。一つは壊れやすいといふこと。もう一つは規格などが次々に新しくなり古いタイプのものは使へなくなるといふ点だ。今、相手からフロッピーディスクでデータを渡されても困る人が多いだらう。フロッピーにしろMOにしろCDもDVDも次々と新しい規格が出て、2012年の時点では、フロッピーやMOの中のデータはかなり読み取りづらい環境になってゐる。

 CDや外付けHDDなどのかうした欠点を嫌ってゐたところ、数年前からクラウドコンピューティングの環境が整ってきた。脆弱なローカルな機械に依存しないクラウドサービスは私には魅力的に見えた。もちろん、クラウドと言っても実際にはサーバーコンピューターなどの機械であるわけだが、それでも従来の環境よりは頑強であるやうに思へた。それで、私はデータの保存に限らず、他の多くの作業をクラウドで行ふやうになっていった。

 例へば、以下の九つのクラウドストレージサービスなどは広く知られてゐるサービスである。

A
 Amazon Cloud Drive
B
 Box
C
 CX.com
D
 Dropbox
E
 Evernote
F
 firestorage
G
 Google Drive
H
 HiDrive
I
 iCloud


 これらのクラウドサービスの複数のサービスを使ひ、データをバックアップしてゐた。例へば、Evernoteのデータの写しをDropboxにも保存しておく、といふやうに。
 定期的にデータのバックアップを取るやうにしてゐたし、自分のバックアップのとり方は完璧だと思ってゐた。

 が、そこで先日の事件(といふほどの大袈裟なことではなかったが)が起こった。


クラウドに依存した生活

 朝起きて、いつものやうにパソコンの電源を入れてブラウザを開いたら、ネットに繫がってゐなかった。原因は分からなかった。「分からないことがあったらググれ」と言ふかもしれないが、ネットに繫がってゐないのでググることもできなかった。

 その日に資料を渡す予定だった相手から「資料をくれ」と言はれた。
 「資料は出来上がってゐるのだが、今日はパソコンがネットに繫がってゐないのでデータを取り出すことができない」と答へた。
 データのバックアップをとってゐなかったわけぢゃない。EvernoteにもDropboxにもGoogleDriveにもまったく同じデータを保存してあるし、ネット上のあちこちに保存してある。でもすべてネット上である。ネットに繫がってゐなかったらどれだけたくさんのクラウドサービスに保存してゐようともデータを取り出せない。

 相手から「では、パソコンは壊れてないんだらうから、一から資料を作って。それをメールで、いやネットに繫がらないんだったらメールも無理だらうから、印刷して持って来てくれ」と言はれた。

 しかし「それも無理だ」と答へた。資料を一から作れたとしても、印刷はできない。私の家にはプリンターさへ無かった。印刷さへネットに頼ってゐたのだ。

 相手「では、パソコンで作ったデータをUSBメモリにうつして、それをキンコーズかどこかで印刷して」
 私「USBメモリも持ってない」

 私のライフスタイルはもう全面的にインターネットに頼ったものになってゐた。資料を作らうにもWordやExcelなどのローカルなアプリケーション・ソフトウェアは持ってゐなかった。文書作成や表計算もすべてクラウドに頼ってゐた。プリンターもUSBメモリもCDもDVDも何も持ってゐなかった。さうした機械に頼らない生活を目指してゐたのだから、当然の帰結と言へば当然の帰結だった。

 結局、相手にはネットに繫がるやうになるまで待ってもらって、翌日にはネットに繫がるやうになったのだが、この一件から多くのことを考へさせられた。


一本しかなかった経路

 問題は、私がそれだけネットに頼った生活を送っておきながら、インターネットに繫がる経路を一本しか持ってゐなかったといふことである。
 無線インターネットの環境さへ整へてゐなかった。仕事場にもパソコンはなく、ネットカフェがどこにあるかも知らず、タブレット型PCやゲーム機はおろか、携帯電話さへ持ってをらず、家のたった一台のパソコンでたった一本の有線インターネットで繫がってゐた。


アクセスできないデータに意味は無い

 こゝまでくれば私の言ひたいこともお分かりだと思ふが、バックアップとは単にデータのバックアップをとっておけばいいのではない。クラウド時代のバックアップとは、インターネットに繫がる複数の経路を確保しておくことである。しかも“すぐに”利用できるといふことが大事である。ネットカフェがあるぢゃないか、と思ってゐても、いざ利用しようとしたときに場所が分からなかったり近くに無かったり、あるいは利用方法が分からなかったりしたのでは駄目である。

 例へば、すごく好きで今すぐにでも会ひたい人がゐるとしよう。「その人が生きてゐることは確かだが、所在地は分からない。この地球上のどこにゐるかは分からない。聯絡の取りやうもない」と言はれたら、どうだらうか。
 「この地球上のどこにゐるか分からない」などといふ人を探し出すことはできない。将来的にはfoursquareのやうな位置情報系サービスの普及により人を探し出すのが容易になるだらうが、それはもうちょっと先の話で、現状では難しい。そんな人が生きてゐることを教へられたところでどうしよう。おそらくその人にはもう二度と会へない。永遠に会へない人など死んだも同然である。

 クラウドに保存されてゐるデータは消えてしまったわけではない。ちゃんと生きて残ってゐる。しかしアクセスできないデータに何の価値があるだらう。


クラウドコンピューティング時代のバックアップとは

 思ひ返せば、そもそもインターネットはそのやうな複数の経路を確保するやうに設計されて出来上がって来たものだ。インターネットの前身はアメリカの軍事ネットワーク<ARPANET>で、一箇所を攻撃されても、別の迂回ルートで情報を届けられるやうに構築されてゐた。現在のインターネットもその流れを引き継いでゐる。

 インターネットはさうした冗長性を持った構造で世界に普及したが、インターネットと人間を繫ぐ部分、すなはち端末、インターフェイスには課題がある。その課題についてはまた別稿で論ずることにしよう。

 繰り返しになるが、バックアップとは単にデータの写しをとっておくことを意味せず、クラウドコンピューティングの時代にあっては、インターネットに繫がる複数の予備の経路を確保しておくこともまたバックアップである。
 お父さんのスマートフォン、お母さんの携帯電話、お兄ちゃんのパソコン、あるいは学校の、サークルの部室のパソコン、なんでもいい。いざといふ時に自分がすぐに使へるネット環境を複数用意しておくことだ。

 バックアップについての考へを改めなければいけない時期に来てゐる。


“反利”の先駆者、大橋訥庵


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 今年2012年は、幕末の思想家、大橋訥庵の歿後150年。

 たぶん現行の暦だと今日8月7日がその歿後150年目の日になる。

 大橋訥庵はマイナーな人物である。高校で日本史をとった人でも名前を聞いたことがないという人が多いはずである。同じ幕末の思想家でも吉田松陰などはずいぶんとメジャーであるのに対し、大橋訥庵はそこまでメジャーにはなれなかった。

 訥庵はなぜメジャーになれなかったのか。
 一言で言うと、「早すぎた」からだろう。時代に対して早すぎる人は、自分が誰かの後につくのではなくて、自分の後に若い人たちがついてくる。だから時代にマッチして活躍するのは若い弟子たちである。吉田松陰にしても、自身は獄死し、活躍したのは木戸孝允、伊藤博文、山県有朋などの弟子たちであった。
 訥庵の塾(思誠塾)からはそこまで有名な弟子は出なかった。

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(緑に囲まれている。特に花などは活けられていなかった)

 1816年に生まれた訥庵は47歳で亡くなっているが、生きていても明治維新の時には52歳、明治時代には活躍できなかっただろう。長生きできるタイプの人でもなかった。

 尊王攘夷論者の中でもかなり早いほうだった。もっと長生きしていれば、その後の時代の移り変わりを見て意見が変わったかもしれないがそれは分からない。

 そしてもう一つメジャーになりがたい要素としては、やはり坂下門外の変の首謀者、というマイナスイメージがあるだろう。

 訥庵は、その主著『闢邪小言』こそよく読まれたものの、あとは老中暗殺計画も失敗に終わり(因みに訥庵は計画しただけで実行前に捕まってしまい、自身は実行グループに加わってすらいない)、攘夷作戦も結局決行できず、逮捕されて死んだだけである。何か世の中を変革するような大きな事を成し遂げたわけではなかった。

 訥庵は実際にそうして行動を起こそうとしていたので行動派の人物ではあったが、やはり尊王攘夷の志士たちの理論的支柱でもあった。

 『闢邪小言』に現れるような訥庵の思想は、その後の明治時代、あるいは昭和時代において、思想・精神的柱としてもっと日の目を見てもいいはずだった。
 それなのに、訥庵ブームはなぜ幕末の一時代的なもので終わってしまったのか。

 深く考えればいろいろな理由があるかもしれないが、簡単に考えれば、その理由は分からないでもない。
 それは、『闢邪小言』の中には「反“利”」の思想が語られているからである。

道理に於て為すべき事は、利ありとも害ありとも、生るも死するとも、絶てそれらに目を属せず、真一文字に為すを義と云ひ、かくせばかかる益あらん、かくせばかかる損あらんと、一己の私情に徇て、為し行く事をば総て利と曰ふ


便利の説を張る者多きは、華夷の藩籬を壊裂して、人を禽獣に駆んとするなり、懼るべく又悪むべし


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 明治時代は富国強兵、文明開化の時代。そうした時代の潮流に訥庵の反利の思想が受け容れられなかったであろうことは容易に推測できる。昭和の時代も戦後は「アメリカに追いつけ追い越せ」の時代だった。何よりも経済成長を優先させ、便利なアメリカンライフスタイルに憧れていた人たちに、やはり訥庵の反利の思想が顧みられるわけがない。

 訥庵が計画した坂下門外の変や、あるいは攘夷思想そのものについては肯定しがたい面もある。
 しかし訥庵の“反利”の思想には私は刮目すべきものがあると思っている。
 その点において大橋訥庵は先駆者だった。

 今、利潤ばかりを追求してきた世界のシステムが破綻しようとしている。大きなクライシスに向かっている。小さな綻びはもうすでにあちこちで出ている。
 訥庵の批判を、尊王攘夷思想に染まった昔の人の「小言」だと切り捨てるのはまだ早い。訥庵が鮮やかに説いた「利」批判は、現代においてますます重要な意義を持って来ている。