暫定龍吟録

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2012年10月の記事

高偏差値、低内申の人

 私のことなのだが。

 「高偏差値、低内申」で苦しんでいる人は世の中に結構いると思うのだが、あまり事例が集められなかったので、自分のことを交えて話そう。

 中学時代の私は「高偏差値、低内申」だった。
 東京の区立中学に通っていたが、どこの県でもだいたい学力の測り方は、偏差値と内申だと思う。

 偏差値というのは、例えば全国一斉の学力テストなどを受ければ、平均からどれだけ遠ざかっているかを表す数値として示される。内申というのは、いわゆる通知表(通信簿)のことだ。

 頭がいい人は偏差値も内申点も高く、頭が悪い人は偏差値も内申点も低いと思われがちだが、たまに偏差値と内申点の成績が乖離している人がいる。

 私は偏差値は高かったが、内申点は極端に低かった。通知表は一般的な5段階評価だったが、「5」や「4」は全然無く、「2」と「3」のオンパレード。「1」を付けられる人は滅多にいないので「2」は事実上、最低の成績ということである。学年最低レベルの成績だったと思う。

 そのことで困ったことがあった。
 高校受験である。

 当時の東京都の場合、私立高校は当日の試験一発、都立高校は当日の試験が50%、内申点(調査書)が50%というところがほとんどだった。
 地方では私立高校は少ないし公立の高校も数が限られているかもしれないが、東京では私立も都立も選択肢はたくさんある。
 進路相談のとき、担任の先生は「あなたは私立だったらどこを受けてもいい。でも都立は、、、」と言って言葉を濁した。
 私は家が貧しいのでできれば都立に行きたかったが「申し訳ないけどあなたの内申点では行ける都立は、、、」と言って先生が提示したのはいわゆる「底辺校」と呼ばれる学校だった。

 私は悩んだ。私立だったら進学校に行ける。都立だったら底辺校。15歳には重すぎる苦渋の選択だった。

 テスト(偏差値)重視の私立、内申重視の都立、という当時の制度はさらに私を苦しめるようにできていた。

 私は9教科の中でいわゆる「主要教科」と言われるものほど得意だった。つまり主要3教科の英・国・数が一番得意で、次に社会・理科、そしてその他の4教科という順番。技術と家庭科が一番苦手だった。
 ところが、当時の東京都では、この「その他4教科」、すなわち体育、音楽、技術、家庭科、の成績は1.3倍されて高校に報告されるルールになっていた。
 つまり、都立高校はただでさえテスト軽視・内申重視なのに、その内申も英国数社理より体音技家を重視するというシステムでますます私を苦しめた。


 偏差値と内申の違いを一言で言うと、「客観」と「主観」である。
 全国一斉学力テストのようなものでもテスト問題を作っているのは人間だから、主観がまったく無いわけではない。だが内申はほぼ主観だと言っていい。“先生の”主観である。
 当然、先生へのアピールが下手な子の内申は低くなる。先生が見てないところでどんなに真面目に掃除をしていても駄目である。

 そもそも体育などの場合、バスケやサッカーなどの球技あるいは集団競技においては、おとなしい生徒のところにはボールは回ってこない、パスされない。つまりボールに触れないから上手いか下手かは判断しようがないはずだが、先生はとにかく「活躍してない」と判断する。
 音楽も技術も家庭科も、要はどれだけ上手に立ち回るかである。そして日頃の生活態度なども、いかに先生に良く見られるかが鍵となる。


 しかし現代では、この高校入試制度もマシになってきているようだ。それは、2002年に通知表の5段階評価が「相対評価」から「絶対評価」に変わったことによっている。つまり、「今学期はみんな頑張ったから全員“5”にしてやったぞ」などということが可能になったということだ。逆に全員「1」か「2」ということも可能。先生の裁量の幅が広がり、どうとでもなるようになった。
 このことで都立高校側が内申をあまり当てにできなくなり、以前は当日の試験と内申の割合が50:50だったのが、最近では70:30ぐらいの比率に設定している学校が多くなっているらしい。
 できれば私の中学時代にそうであってほしかった。

 この「高偏差値、低内申」という特徴は、その後も私の人生にずっと暗い翳を落としている気がする。というのも、世の中には意外と客観評価というのは少なく、誰かの主観で評価される場面が多いからだ。

 中学時代、「2」と「3」ばかり並んでる通知表を持って帰って親に溜め息をつかれるのが常だった。もちろん「偏差値70」と書かれた学力テストの成績表も見せていたけれども、親は偏差値世代ではないので偏差値の「70」という数字の意味が解らず、「100点満点の70点」ぐらいに思っていたようだ。

 国際ピアノコンクールで金賞をとる人は「ピアノが上手い人」じゃない。世界トップレベルの弾き手が集まっている中で「誰がどう聴いても“客観的に”一番上手い」などということがあり得るだろうか。
 審査員の心に響く、訴えかける演奏をできた人が金賞をとるのだ。逆にどんなに高度な演奏テクニックを持っていても、審査員の心証を損ねてしまったら金賞をとることはできない。

 世の中を渡っていけるのは内申点が高い人である。数多の主観評価の場面で好成績を収める人が「勝ち組」となっていく。

 内申というのは、さまざまにある評価方法の中の一つでしかない。通知表の成績が悪かったからといって子どもを叱ることはない。

 IQ(知能指数)というのも「IQが高い人は頭がいい」と思われているが、これも一つの尺度でしかない。例えば一般的なIQテストは「ひらめき力」とでも言うべき能力を測ることに偏っていて、知識量、その人が物知りかどうかということは測らない。

 また、当日の「テスト」にも問題がないわけではない。大学入試センター試験やTOEICなど、多くの日本人が受験するテストにもまた幾つもの欠陥がある。しかしその批判はまた別の稿に改めよう。

 「高偏差値、低内申」の話はいつかしなければと思っていて、今までなかなか書く機会を得ずにいた。
 この問題が重要なのは、なにも高校入試制度だけの問題ではなく、社会全般におけるさまざまな場面での人間評価が「内申型」で行われている問題に繋がってくるからだ。多くの人が「できるかできないか」を問題にしていながら、それをより客観的に測る努力には傾注せず、それどころか関心すら示していないように見える。


 一人でも多くの人に「高偏差値、低内申の人」の存在を知ってもらいたくてこの記事を書いた。
 そして「高偏差値、低内申」で今も苦しんでいる人たちにこの記事が読まれることを願う。

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努力とは何か

 「努力してない」

 「まだまだ努力が足りない」

と言はれる。

 努力とは何だらうか。

 子供の頃、親から「勉強しなさい」と言はれた。勉強は嫌ひだった。成績は良かった。成績が良いのなら勉強しなくてもいいではないかと思ふが、親からすれば「がんばってない姿勢」が苛つくものだったのかもしれない。
 テストで100点を取りたいとか、クラスで1番になりたいとかは思はなかった。「勉強なんか好きな奴だけすればいい」と思ってゐた。今でもだいたいさう思ってゐる。

 私は結果を出さない人間だった。「勉強がよく出来る」といふことと「結果を出す・結実する」といふこととは違ふ。

 以前、テレビで全国模試1位の浪人生といふ男の子が出てゐて、スタジオの芸能人たちから「全国1位の人がなんで東大に受からなかったの?」と質問攻めにあってゐた。その男の子は願書の提出期間に願書を出しそびれたらしい。それで浪人することになった、と。

 普通の人が聞いたら呆れるやうな話かもしれないが、私はさもありなんと思った。東大に入るのが難しいのは何もテストが難しいからばかりではない。願書の提出期間を忘れてゐたり、試験日に高熱でダウンしてしまったり、受験票を忘れたり、おぢいさんに道案内をしてゐる間に遅刻したり、他にもいろんな障礙や困難を乗り超えなければ入ることはできない。障礙者で、東大側のバリアフリーや受け入れ体制が整ってゐないために、入学を断念せざるを得ないこともあるかもしれない。

 東大に入ることに限らず、「結果する」「結実する」といふのは難しいことなのだ。

 私は子どもの頃から、この「結果する」といふことに関しては、また別の能力のやうなものが必要なのではないか、といふ気がしてゐた。そのことに気づいてからは、なほのこと、一生懸命勉強するのは違ふといふ気持ちが強くなっていった。

 それでも私は努力してないわけではなかった。私は私なりにがんばってゐた。たゞそれは、他人の努力の形とは違ってゐたかもしれない。他人から見れば、それは「努力してない」といふことだった。

 なぜ?私はこんなにがんばってるのに、なぜ「努力してない」と言ふの?

 私は確かに「成功」とか「良い思ひ」をしてゐなかったので、傍から見ると苦しんでゐるやうに見える。しかしそれは他人から見れば「努力」をしてゐるのではなく「苦労」をしてゐるといふことだった。

 大学時代は成績が良かった。授業への出席率は誰よりも高かった。私よりも成績が悪く、授業を適当にサボってゐた多くの“普通の”学生たちは、四年で普通に卒業していったが、私は大学を四年で卒業できなかった。

 「努力してない」とか「努力が足りない」と言ふ人たちは、この事実をどう説明するのだらう。
 月曜の1限から土曜の2限まですべての授業に真面目に出席してゐた私は、授業を適当にサボってゐた学生たちよりも努力が足りなかったといふのだらうか?

 努力には「すべき努力」と「しなくてもいい努力」がある。しなくてもいい努力は、そのまゝ「苦労」や「徒労」になる。
 努力には筋がある。筋の合った努力は、する甲斐がある。筋の違った努力は何ものも結果しないばかりか、努力そのものすら認められない場合が多い。
 自分ではこんなにがんばって努力してゐるつもりなのに、他人からは「努力が足りない」と言はれてしまふ人は、努力の筋が違ってゐる可能性が高い。

 しかし私は抑々、人の努力など誰にも測り得るものではない、と思ふ。その人が誰も見てゐないところでこっそりと努力してゐることを誰が知ってゐよう。
 だから軽々しく他人に向かって、「努力してない」とか「努力が足りない」などと言ふべきではないのだ。
 すでに筋の違ふ方向への努力を始めてゐる人に、そうした言葉を投げつければ、その人をますます徒に追ひ詰め苦しめることになる。

 厄介なのは、所謂「成功者」たちが、自分が成功したのは自分自身の努力のおかげ、と思ってしまってゐるところだ。だから成功を得られずに苦しんでゐる人に対して、「もっと努力しろ」と言ってしまふ。

 「無駄な経験など一つもない」と言ふ人がゐるがあれは嘘だ。もし今ある程度の成功を収めてゐる人であれば、それまでのすべての経験はそこへ至る重要な欠くべからざるステップだと錯覚する。


 「努力」の取り扱ひには細心の注意が必要だ。にもかゝはらず、大雑把で乱暴な「努力論」が横行してきた。

 いつかまたもう少し詳しい「非努力論」を書きたいと思ってゐる。

本格的なビッグデータ時代到来の前に心がけておきたいこと

 コンビニで菓子パンを買うときに、いつも心の中で呟いていることがある。

 (私は決してこのパンを気に入って買うんじゃないんですよ。他にマシなのがないから仕方なく買うんですよ。)

 普段よく行くコンビニには、本当にろくな菓子パンがない。菓子パンコーナーは広いが私の好みに合うようなパンは全然無く、いつも選択に迷う。
 菓子パンコーナーには毎日のように「新商品」と書かれたシールを貼ったパンが並んでいて、従来のラインナップのパンにお気に入りのものがないので、私はよく新商品のパンを手にする。

 この新商品は、新商品開発会議室で検討されて店頭に並んでいるものだろう。しかし、せっかく良さそうな新商品が出て来ても、大抵はすぐに姿を消してしまう。新商品のパンがレギュラーの座を獲得することはほとんどない。

 コンビニ会社上層部の新商品開発戦略室の人たちは、全体的な売上のデータを持っているだろう。そのデータを見て何を思うか。

 「新商品はよく売れます。これは消費者にとって目新しいからだと思います」
 「新しいものは誰でも一度は試しに買ってみようと思うから売れるのでしょう」

と分析しているだろうか。

 しかし私のように現状のラインナップが全然満足いくものでないから、しかたなく消極的に選択しているということもある。


データの読み方

 あるコンビニでは、客の性別や年齢を把握して、その店舗にどの年齢層の客が多くてどういう商品を買っていくかを分析しているという。

 ここに「A町店は他の店舗にくらべて若年層の客が多い」というデータがあったとしよう。これを見て、上層部はどのような戦略を立てるべきだろうか。
 「A町店は若者客が多いので、若者向けの商品を多く置くようにしよう」という結論を出すだろうか。

 私はそれはデータの分析と活用の仕方としては誤りだと思うのである。A町には元々高齢者がたくさん暮らしていて、だけどもあそこのコンビニには高齢者向きの商品が少ないという理由で来店を避けていたのかもしれない。
 「若者向けの商品を増やす」という対策は、そうした潜在的な高齢者客を見逃しているばかりでなく、ますます高齢者の足を遠ざけるという負のスパイラルを齎すことになる。


全体的な傾向に対する小さな抗い

 普段ネットを使っているとき、例えばYahoo! JAPANのような大きなサイトで興味深い記事が書かれたサイトへのリンクが張られていたとき、私はそのリンクをクリックせずにわざわざ別の検索サイト経由でそのサイトを見に行くことがある。

 データを分析している人は「この日に急にアクセスが増えたのはヤフーにリンク付きで紹介されたからだな。ヤフーからのリンクを辿って来ている人がほとんどだな」などと見る。

 こうした全体的な傾向づくりに自分が貢献しないように、わざわざ別経由で見に行ったり、2、3日経ってから見に行ったりという「小回り」をすることがある。

 Amazonを見るときも、関聯商品はなるべくクリックせずに、まったく関係ない商品や本を見ることで、レコメンデーションの予想を外そうと試みる。

 しかし、こうした小さな抗いもビッグデータの前には風の前の塵に同じである。
 「私は人とはちょっと変わってるんです」とか「自分は珍しいタイプなんです」などと思っていても、ビッグデータから見れば、ちゃんと全体の標準偏差の中に収まっている。


個人の行動は予測できるか

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(2012/07/25)
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 先日、アルバート=ラズロ・バラバシの『BURSTS』を読んだ。ビッグデータ時代の到来に伴い、全体的な社会傾向だけでなく、個人の行動までも予測できる時代の到来の可能性について書かれている。

 未来予測がかなりの確率で可能になる時代がやってくるかもしれない。

 これを気持ち悪いと感じる人も多いだろう。
 うまいダジャレを思いついて口にした瞬間に「言うと思った」と人から言われるとがっかりする。自分の行動を見透かされているのはなんとなく良い気持ちはしないだろう。

 私たちは、これからはもうコンピューターの予測した通りに生きていくしかないのだろうか。


ビッグデータをつくるのは誰か

 私はよくJRの社長とコンビニの社長と大企業の社長とのこんな会話を想像する。

 私「JRの社長さん、なんで深夜1時まで電車が走ってるの?」

 JR「現代は人々の生活が多様化しているでしょう?深夜遅くまで働いている人もいっぱいいるから、なるべく遅くまで電車を走らせておかなきゃいけないんですよ」

 私「コンビニの社長さん、なんでコンビニは24時間あいてるの?」

 コンビニ「現代人の生活時間の多様化に対応しています。電車が深夜1時まで走ってます。その終電に乗って帰って来た人が何か食べ物を買おうとしても、もう商店街もスーパーも閉まってる。だからコンビニは開けておかなくてはいけない。コンビニは現代人にとっての大切なライフラインなんです」

 私「大企業の社長さん、なんで夜遅くまで残業させているの?」

 会社社長「今は遅く帰ってもコンビニもありますしねえ。電車も遅くまで動いてるし」

 私「なんで残業は1時までなの?」

 会社社長「それ以降は電車がないからね」


 それぞれがお互いのことを理由にしている。
 現代人のライフスタイルの多様化に対応しているつもりである。

 しかし電車やコンビニなど「インフラ」とも言える会社の場合、自分たちの決定が現代の人々の生活スタイルに大きな影響を与える「与え手」である。
 電車が夜10時までしか走っていなかったら、多くの会社は残業の在り方を改めるだろうし、コンビニの閉店時間にも影響を与える。
 コンビニの閉店時間も同様に「コンビニがないと生きていけない」という人たちの生活の在り方を大きく変える。
 そして日本を代表するような大企業がフレックスタイム制などを導入したり休日の取り方などを変えていくことは、やはり日本全体への波及効果を齎す。取引先の小さな企業等はどうしても大企業の都合に合わせざるをえなくなってくるからだ。

 現代人に「対応」するのではない。JRやコンビニの社長に言いたいのは、自分たちが「現代人」をつくっているのだという意識を持ってもらいたい、ということだ。


ビッグデータ時代を生きる上で大切なこと

 好むと好まざるとにかかわらず、ビッグデータ時代はやって来る。
 だが、ビッグデータを無闇に怖れるのは間違っている。ビッグデータを形づくるのは結局私たち人間ひとりひとりだからだ。

 ビッグデータ時代を生きる上で大切な二つのこと。
 それは、一つはデータを読み誤らないこと。そしてもう一つは、ビッグデータにしろデータをつくるのは自分自身の行動だという意識を持つこと。

 データに対応していくという姿勢ではなく、データに先駆けるという姿勢が大切になってくるだろう。

 「傾向」も「法則」も自分がつくりだすのだ。


マクドナルドはなぜメニュー表をなくしたか

 10月からマクドナルドがカウンターの上のメニュー表をなくした。

 このことについて「メニュー表をなくさないでほしい」など、さまざまな反応が出ている。

マクドナルドさん、メニュー表を無くさないでください - lessorの日記

マクドナルドがメニュー表を撤廃したのはなぜか考えてみた - 最終防衛ライン2


実際に行ってみた

 私は東京に住んでいるので近くにマックはたくさんあり、実際に2箇所のマックに行ってみたところ、確かにカウンターの上のメニュー表がなくなっていた。

 では、どうやって選ぶのかというと、

【本日から】レジの所のメニュー表がなくなります.入口においてあるメニュー表や,レジ上部にあるメニューをご覧になり,ご注文をお決めになってから,カウンターにお進み頂ければと思います.最初は戸惑う事もあるとは思いますが,どうぞご協力よろしくお願い致します

(マクドナルドの非公式Twitterより)

ということらしい。
 しかし、私が行った店舗では、「入口のメニュー」というのは見当たらなかった。
 レジの上部(店員の後ろの上の方)にはたしかにメニューがあり、ほとんどの人はここを見ながら選んでいた。どうやって選んだらいいのか分からず、かなり不便だと感じた。


なぜ、カウンター上のメニュー表をなくしたのか

 回転率を上げるためではないか、と憶測している人が多いようだが、私は客単価を上げるためだと思う。

 「カウンターに進んでから考えるのではなく前もって決めておけよ、ということじゃないの?」と思っている人も多いようだが、私はそうではないと思う。
 マックのカウンター上のメニュー表は以前から分かりづらかった。単品のハンバーガーやドリンクがどこに書いてあるのかも非常に分かりづらかった。
 もし、並んでいるあいだに、つまり自分の順番が来るまでに注文を決めておけ、と言うのであれば、レジ上部のところに全体のメニュー表を掲載しておくはずである。しかし、レジ上部のメニューというのは全体のメニュー表ではなくて、いくつかのセットメニューしか紹介されていない。料金もセット料金しか表示されていない。つまり、「完全なメニュー表」というのは今までもカウンターまで進まなければ見ることはできなかったのだ。

 なぜ、そうなっていたかと言うと、それは「前もって考えておけ」ということではなく、その逆に「前もって考えさせないため」だと思う。前もって考える余裕があると、客が冷静に安く済ませる算段をしてしまう。
 カウンターに進み出てからメニュー表に初めて目を通す。大抵の人なら、よほど鈍感な人でないかぎり、後ろに並んでいる人からの「早くしろよ」という無言のプレッシャーを感じる。メニュー表のどこをどう見ればいいのか迷っているうちに店員から「こちらのセットがお薦めです」と薦められる。「私は店員のお薦めには惑わされない」という人でも、あのメニュー表から単品やドリンクのSサイズなどを探し出すのは結構難しい。そして結局セットメニューを頼んでしまう。

 マックはその安さが魅力で行く人が多いだろうが、マック側からすれば安い品ばかり注文されたのでは経営は苦しくなる。なるべくセットメニューを頼んでもらいたいのだ。

 で、今回はその「完全なメニュー表」もなくして、本当にセットメニューだけが目に入るようにしたということだ。


「ハンバーガー」はどこへ?

 私は今回ためしに、一番シンプルな「ハンバーガー」(単品、100円)と「ホットティーSサイズ」(100円)を探してみたが、2店舗とも、レジ上部のメニューには見つけられなかった。もしかしたらもの凄く小さく書かれていたかもしれないが、私には見つけられなかった。
 「ハンバーガー」にいたってはセットメニューすら書かれていなかった。セットとして紹介されていたのは「ダブルチーズバーガー」とか「ビッグマック」とか期間限定のもの(今なら月見バーガーとか)など、いわゆるマックの中では“高級”なものばかりで、ただの「ハンバーガー」など“低級”なものはセットでも紹介されていない。

 なお、念には念を入れて、本当に「ハンバーガー」がどこにも書かれていないのか、隈なく探してみたところ、1店舗目では、入り口の窓に「100円マック」というポスター(全体のメニューではない)が貼ってあってそこで確認することができた。2店舗目では、店の横にまわると全体のメニュー表に近いものが貼ってあったが、正面から店に入った客はまず気付かないようなところにあった。

 マック側からすれば、私のように200円で飲食(飲み、食べ)を済ませてしまう客はいやな客だと思う。

 100円メニューはもちろん「釣り効果」のために用意してあるのだが、実際に来た客にはもっと高いものを頼んでほしい。

 この新しいシステムでは、普段マックに行き慣れていないような人なら、だいたいポテトなどのついたセットメニューを頼んでしまうだろう。そしてドリンクもMサイズを頼んでしまうだろう。「マックには割りとよく行く」という人でさえ、マックの完全メニュー表が頭に入っている人は少ないだろう。

 ということで、客単価を上げるという狙い目として、この新システムは効力を発揮するだろう。
 しかし、店頭での客とのやり取りとか、バイト店員の負担は重くなるだろう。


(※この記事は2012年10月2日時点のもので、今は記事内容の情報が大きく変わっている可能性があります)