暫定龍吟録

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2013年01月の記事

日本の格差問題とは何か

 日本において「格差問題」と言う時、それは何の格差を問題にしているのだろうか。
 日本は格差が大きい格差社会なのか、それとも格差のない(格差が小さい)社会なのだろうか。
 私たち日本人は英米の格差の概念をそのまま踏襲するあまり、“日本の”格差問題を見落として来たのではないか。そしてその「日本の格差問題」とは「世代間格差」ではないだろうか。


日本は格差が小さい理想の国?

 以下の動画は、イギリスの経済学者、公衆衛生学者のリチャード・ウィルキンソンが2011年にTEDで行なった「いかに経済格差が社会に支障をきたすか」という講演である。

リチャード・ウィルキンソン 「いかに経済格差が社会に支障をきたすか」 | Video on TED.com


(YouTube版はこちら

 この講演では、格差の大きい社会ほど様々な深刻な社会問題が発生するということを幾つものデータを駆使して説明している。
 ここで言う深刻な社会問題とは、寿命、生徒の数学と国語の点数、幼児死亡率、殺人、投獄、十代の妊娠、信頼、肥満、精神病、中毒症、社会流動性などである。

 そしてこの動画で紹介されるグラフデータの中には、何度も日本が一番端っこの目立つところに登場する。
 日本は、北欧とともに「格差の小さい国」として紹介されている。日本や北欧のような格差の小さい国では、殺人も精神病も少ない、と。リチャード・ウィルキンソンは「アメリカンドリームを実現したかったらデンマークに住むべきだ」と半分以上本気の冗談を言っている。

 スウェーデンのような「高税金高福祉社会」か。それともアメリカのような競争原理を中心とした「自由主義社会」か。その二択しかないように思われているが、日本のように基本的にはアメリカ型の社会でありながら、格差が小さい国もある。
 この動画を見ていると、日本は理想的な国、と言われているような気がする。

 そしてどのグラフでも日本や北欧と対極に位置しているのが、アメリカとイギリスである。これらの国は非常に格差が大きく、殺人や精神病も多い。そこに明確な関連性がある、とリチャード・ウィルキンソンは言う。


アメリカやイギリスにおける格差とは

 私はアメリカにもイギリスにも住んだことがないので実感としては分からないのだが、テレビやネットを見ていると、どうも彼らの言う富裕層と貧困層の格差というのは、私が日本に住んで感じているそれとは、だいぶ違うのではないかという気がしている。

 例えば、ネットで見かけた次のような話。

外国からやって来てある程度、日本の社会を知った人々が驚くのは、日本では貧富の格差がそれほど大きくなく、人々がほとんど同じような暮らしを営んでいるということだという。日本以外の国々では貧富の差が非常に激しく、金持ちの暮らす場所と貧困者が暮らす場所は明確に分かれている場合が多い。

しかも、両者の環境はまったく異なっているという。富裕層が暮らす市街は清潔で治安もよい。逆に貧しい人々が暮らす街は不潔で、治安も悪いことが多い。日本にも、山の手と下町の呼び方はある。私も東京の下町に暮らしている。しかし、だから自分が下層だとコンプレクッスに陥ることはない。下町に住んでいる富裕層もたくさんいる。しかも、どちらに住んでいようと、安心して住める。下町の方がより危険だと感じたことは、もちろん私もない。

外国人がもっと驚くのは、山の手の人間が下町に、下町の人間が山の手に自由に往来できることだという。そんなことを指摘されると逆に日本人の私たちが驚いてしまう。日本以外の国々では、必ずしもそうではないらしい。

ある外国人はいう。「日本では、金持ちも庶民も同じ商店街で買い物をし、気軽に言葉を交し合っている。そこには、欧米のような階級社会はないのだと知った。それは‥‥‥、まさにユートピアの一つの形であると感じた。」
マンガは世界にどう広がっているか04 - クールジャパン★Cool Japan



 欧米、その中でも特にイギリスやアメリカの社会には、富裕層と貧困層の間にこうした“厳然たる格差”があるのではないだろうか。

 以前、NHKでイギリスの貧困層が暮らす街の人々が合唱を通じて「私たちみたいな人間だってやればできるんだ!」と元気と自信を取り戻す、みたいな番組をやっていたが、あれも見ていて違和感を持った。
 日本の感覚では、個人的に音符が読めないとか歌が苦手という人はいるだろうが、音符が読めない「街」とか「階層」が存在するわけではない。


外来語に依ってきた「格差」の理解

 つまり、イギリスやアメリカにはその風土に特有の格差が存在している。
 日本は百年近くにわたって、「ブルジョワ」、「プロレタリア」、「ホワイトカラー」、「ブルーカラー」という外来語によって格差問題を解釈してきた。
 イギリスやアメリカで使われていた言葉をそのまま日本の社会に当て嵌めて解釈しようとした。
 そこに少し無理があったのではないか。
 日本では「あの家はブルーカラー」などという偏見はおそらく英米のようには存在しない。誰々ちゃんのパパが会社員であれ肉体労働者であれ、みんな別け隔てなく遊んでいる。

 先日、次のような興味深い指摘を見かけた。

先日からYahooと若者マニフェスト策定委員会が共同で衆院選候補者向け
アンケートを実施しているのだが、非常に興味深い結果が出ている。

世代間格差アンケート結果

問1.世代間格差についてどう考えますか。
<参考>
内閣府の試算だと、60歳以上の世代は約5000万円の受益超過である一方、
20歳未満を含む将来世代は約5000万円の負担超過との推計がある。

という質問に対して「世代間格差は問題ない」と6割超の候補者が回答したのが
なんと日本共産党である。もちろんぶっちぎりのワースト第一位だ。
結論から言うと、日本共産党は高齢者優遇、若者見殺し政党と言っても過言ではない。
Joe's Labo : 共産党候補の6割超が「世代間格差は問題ない」というスタンス!



 このアンケート結果が信頼できるものだとすると、「弱者に優しい」イメージのある共産党がなぜこんな結果なのか。
 それは左派の人たちは「ブルジョワvs.プロレタリア」という見方に囚われすぎて他の格差問題が見えにくくなっているからではないか。


世代間格差こそ日本の大きな格差問題ではないか

 世代間格差の問題を言うと、「徒(いたずら)に世代間対立を煽るな」という批判が必ずある。

 その前にここで言う「世代」という言葉の意味を整理しておきたい。

 私が言う「世代」とは、「老人世代vs.若者世代」というようなものではない。

 このような使い方なら、「老人だって若かった頃は当時の老人たちから『いまどきの若いモンは』と言われてたんだ」とか「老害って言ってる今の若い人たちだってあと数十年もすれば自分たちが老害って呼ばれるようになるんだ」、「だからお互い様だよ」、「人生は順繰り」などといった言葉で宥められてしまう。

 なので、私が言う「世代」とは生年によるものである。「老人世代」、「若者世代」、「アラフォー世代」など経年によって構成員が入れ替わるものではなく、「大正世代」、「昭和一桁世代」、「団塊世代」、「バブル世代」、「ゆとり世代」など、生年によって固定されているものである。

 私はこの意味における世代間格差の問題を言うことは決して徒なことではないと思う。

 日本における世代間格差の問題について、例えば、総合研究開発機構主任研究員の島澤諭氏は次のように指摘している。

 国際的に世代間格差の大きさを見てみると、アメリカ51%、ドイツ92%、イタリア132%、フランス47%、スウェーデン▲22%、ノルウェー63%、カナダ0%、オーストラリア32%、タイ▲88%、アルゼンチン59%などとなっているのに対し、日本は209%である。わが国の世代間格差は、諸外国には例のない異常な水準であり、世界一深刻であることが確認できる。

 しかも、先日筆者らが行った研究(「社会保障制度を通じた世代間利害対立の克服-シルバー民主主義を超えて-」NIRAモノグラフシリーズNo.34)によると、将来世代に関しては生涯所得の半分近く、実に48.4%の純負担を負わなければならず、将来世代の生活は生まれる前から実質的に破綻していることが明らかになっている。
労働問題における世代間格差 「仕事を選り好む」「堪え性がない」 若者批判の矛盾  WEDGE Infinity(ウェッジ)



 また、フリーライターの西川敦子氏は次のように書いている。

 アメリカの経済学者、アゥアバアックとコトリフは、世界17ヵ国を対象に社会保障、公共事業、教育などについて、人々が負担する額と得られる恩恵の差を調べた。世代ごとの違いを見てみると、もっともアンバランスだったのは日本。不均衡率(世代間のアンバランスさの割合)は169.3%で、アメリカ(51.1%)の3倍以上にも及んでいた。
世代間格差大国・日本で若者の財布が狙われている! 消費税20%、年金保険料25%を抜き取られる未来|人口減少 ニッポンの未来|ダイヤモンド・オンライン



 年金制度の崩壊などが問題になっている。一人の人間が生涯に負担する額と受給する額が世代によって大きな差があることも指摘されている。

 なぜこうした問題が日本において顕著なのか。それは、日本が世界でも最先端の「少子高齢化」の国だからである。年金制度は昔の時代の「老人の数は少なく子供の数は多い」という人口ピラミッドを前提にして作られた制度だから現代に適合しなくなっている。

 しかし、日本において世代間格差が深刻なのはもう一つ理由がある。それは日本社会の「一発主義」である。

 人生における三大節目、受験、就職、結婚のうち、特に受験と就職は時代の影響を強く受ける仕組みになっている。

 日本ではほとんどの人が18歳で大学受験をし、22歳(または18歳)で就職する。
 受験に関しては、自分の世代が子供の数が多かったか少なかったかによって倍率が変わり、ラッキー世代とアンラッキー世代が生まれる。就職に関しては自分が22歳の時に日本の景気が良かったか悪かったかでラッキー世代とアンラッキー世代の差が生じる。

 アメリカの大学は入学よりも卒業が難しいと言われるが、日本は逆で18歳の時の一発の入学試験に失敗してしまったら、もう挽回できない。
 就職にしても、日本のほとんどの企業は新卒一括採用主義をとっており、22歳の時のチャンスを逃したら、もう一生フリーターかニート確定である。

 また結婚に関しても、上記引用文中の数字を見るかぎり、日本やイタリアのような世代間格差が大きい国ほど結婚できない人が多い、ということに気づく。だが、この関連性についてはもう少し調べてみないと分からない。


まとめ

 上掲のリチャード・ウィルキンソンの講演では、ひとつ肝腎な「格差」が抜け落ちている。
 それは、世代間格差である。

 ウィルキンソンのTED動画を見るかぎり、日本は世界に誇れる「格差の小さい理想的な国」に思える。しかし、視点を変えて「世代間格差」という点に注目するならば、日本は世界でも最大の「格差大国」である。

 ウィルキンソンは「社会流動性」を取り上げているが、これは「世代を超えて受け継がれる家柄間の格差」という意味であって「世代間格差」とはちょっと違う。
 「裕福な父親の子供は裕福に」という問題をウィルキンソンが取り上げているのは、富裕層や貧困層という問題がイギリス人のウィルキンソンにとって身近で大きな問題だからだ。

 日本では世代間格差の問題が大きな格差問題である。私たち日本人はこの問題をもっと直視していかなければならないし、少子高齢化の最先進国だからこそ、この問題について世界に発信していくこともできる。


 ただ、私はこの記事をもって「だから日本には富裕層と貧困層の間の問題など存在しないのだ」、「日本には貧困問題なんてないのだ」「あったとしても外国に比べたら大したことないのだ」などと言うつもりはない。

 団塊世代より上の世代の人たちが「そうは言っても、やっぱり今の若い人は自分達が若かった頃に比べれば物も溢れているし、不幸だとは思わない。アフリカやアジアの人たちに比べればずっと豊かで恵まれているだろう」と言うのは間違いなのである。

 なんで、あいつばかりイケメンで仕事ができて女の子にモテるんだろう、と会社という小さな社会の中でさえ、人は「格差」を感じている。

 格差は相対的に感じるものだ。
 ウィルキンソンも上掲の講演の中でそう言っている。

ハイネ『諸神流竄記』とギリシャ財政危機


 昨年2012年に海外から来たニュースで日本でも話題になったものに、ギリシャ財政危機のニュースがあった。

 財政が危機的状況に陥っているのは何もギリシャだけではなく、イタリアもスペインも、そしてもっと大きく言えばEU、ユーロ自体が危機的である。
 だが、ギリシャは選挙があったこともあり、EUの中に留まってEUからの支援を受け続けるのか、それともEUから離脱して独自の経済路線で行くのかが注目された。

 結局はEU内に留まることになったわけだが、ギリシャ国内には反発も多かった。それはドイツを中心とする「EU」から「緊縮財政」を強いられているからだ。
 緊縮財政とは、簡単に言うと、「無駄遣いをするな、もっと税金を払え」ということ。だがギリシャ国民からすれば「私たちはただでさえ貧しい生活を送っているのに、さらに増税されるの?ささやかな贅沢すら許されないの?」という気持ちがあった。大国ドイツから上から目線で命令されるのは懲り懲りだった。

 一方、「ユーロ(経済)」の代表たるドイツの側にも言い分があって、「なぜギリシャ人は真面目に働いて節約しないのか」、「本当に経済を立て直す気があるのか」、「なぜ自分たちの税金であんなに出来の悪い国の面倒を見なければならないのか」という不満がある。
 しかもドイツはギリシャを助けてやってるのに、あべこべにギリシャから文句まで言われる始末。それなら、もういっそ見放したほうがいいのではないか。

 だが、ギリシャ国民たちの心の中には一つの思いが燻っている。それは、ドイツというヨーロッパの中心にある経済大国が、自分たちのようなヨーロッパの端っこにある小国を虐めている、という思いだ。

 ドイツ国民たちは、「ギリシャは少し異質なのではないか」「ギリシャはひょっとしたらヨーロッパじゃないんじゃないか」と思い始めていた。

 それでもドイツはギリシャを切り離しはしなかった。
 なぜヨーロッパはギリシャを見捨ててしまわないのか。それはヨーロッパにとってギリシャが「ふるさと」であるからではないだろうか。


 そこまで思って、私は19世紀のドイツの詩人、ハインリヒ・ハイネの『諸神流竄記』を想い起こした。

 この本の中でハイネは、キリスト教に追われた大陸古来の神々の哀れな末路を深い共感を込めて描いている。

 昔々、ヨーロッパ全土に圧倒的な勢いでキリスト教が広まるやいなや、ギリシャの神々はその崇高な座から引きずり降ろされた。
 その後、ギリシャの神々は動物に化けたり覆面をしたりして森の中でひっそりと暮らさなければならなかった。そうした落ちぶれた生活を余儀なくされた神々をハイネは次のように書いている。

世界の真の主が十字架の旗を天の城にうちたて、偶像破壊に血道をあげる狂信者ども、つまり僧侶の黒い一味があらゆる寺院を破壊し、追放された神々をさらに火と呪いのことばをもって追いかけまわしたとき、異教の神々はふたたび逃亡を余儀なくされ、可能な限りの覆面をして人里離れたかくれ家に住まいを求めなければならなかった。これらの亡命者の多くは気の毒にも雨露をしのぐ軒も、神としての食物もなく、今や、せめて日々の糧を得るために人間庶民の手仕事をしなくてはならなくなった。そういう事情のもとで、自分の聖なる社を没収された神々のうちには、わがドイツで木こりとして日雇い労働をし、ネクターの代りにビールを飲まなければならなくなった神もある。



 こうした零落したギリシャの神々の姿をこんなにも愛着をもって描いたのが、またドイツ人のハイネであるというのも面白い。

 私には、今の「ユーロ(EU)対ギリシャ」という構図が「キリスト教対ギリシャ神話の神々」に重なって見える。
 そしてドイツはそのEUの中心であり、象徴的存在である。現在のローマ法王ベネディクト16世がドイツ人だというのもなにか象徴的だと感じる。
 まさにドイツを中心としたキリスト教ユーロ圏が、ヨーロッパの隅っこで落ちぶれているギリシャをどう扱うか悩んでいるのだ。

 しかしギリシャの貧しい日雇い労働者たちは、かつてこの大陸に君臨していた、あのオリュンポスの神々である。

 ヨーロッパの人々は、貧しい生活に苦しむギリシャの人々の姿に遠い昔の神々の面影を見、なにかこの人たちを見捨ててはいけない、と感じとっているのかもしれない。

 だが、ギリシャにとっては、ユーロがギリシャをも飲み込んだということがすでに「火と呪いのことばをもって追いかけまわし」て来たということなのかもしれない。


【参考文献(文中の引用も)】
ハインリヒ・ハイネ著、小沢俊夫訳『流刑の神々・精霊物語』岩波文庫、1980

警察はなぜ「真犯人」を逮捕できないのか -ひとつの「日本病」を考える-

(2013年2月10日追記:以下の記事は2013年1月3日、真犯人が逮捕される前に書いたものです。)




 昨年2012年の日本を騒がせたものに、PC遠隔操作ウイルス事件があった。4人の人が無実の罪で誤認逮捕されるという事態が起こり、社会的にも大きな注目を集めた。
 そして2013年1月現在、まだ警察は「真犯人」を逮捕するに至っていない。

 警察は、なぜ真犯人を逮捕できないのか?なぜ、無実の人を誤って逮捕してしまったのか?「日本の警察は世界一優秀」なのではなかったのか?

 「世界一優秀」と言われる日本の警察がなぜ真犯人を逮捕できないのか。そこには、私は一つの「日本病」が関わっているのではないかと考える。そのことについて今日は書こうと思う。


「世界一優秀」な日本の警察はなぜ真犯人を逮捕できないか

 「日本病」という言葉はすでにいろいろな意味で使われている。あるサイトの定義によれば、日本病(にほんびょう)とは、日本における政治・文化・社会を取り巻くさまざまな病理現象を表す言葉。とあるから、日本において特徴的な事象であるなら、「日本病」と呼んでもいいのだろう。

 日本の警察は、その検挙率の高さなどから「世界一優秀」だと言われることがある。その優秀なはずの日本の警察がPC遠隔操作ウイルス事件の真犯人を逮捕できない。

 これは、日本の企業や組織が、どういう点が優秀なのか、という問題と関わってくるのだと思う。

 日本の企業・組織では、徹底した効率化が求められる。作業の流れは究極的に効率が良くなり、そしてその流れはどんどん洗練されていく。
 すべての社員・職員が徹底的に無駄を省いて効率化を追求し、出来上がった流れ(フロー)をマニュアルに纒めて後輩へ伝えていく。

 日本の社会では「無駄」がとことん嫌われる。

 「どうして、そんな無駄なことやってるの!?」

 「なんで、そんな効率の悪いやり方でやってるの!?」

 「効率化」は日本の企業・組織における至上命題(至上課題)である。

 指紋を採って犯人を捜すというのは、昔からの基本的な犯人捜査方法だった。警察では代々、指紋採取方法が先輩から後輩へと受け継がれ、その過程において一人ひとりがより良い技術や効率化を追求し、指紋採取技術はどんどん洗練されていったのだろう。指紋採取の技術に関しては、日本の警察は世界一なのかもしれない。

 そうした古くからの技術がますます洗練されていく一方で、PC遠隔操作ウイルスなどの新しい技術については対応できる者が組織内にいなかった。

 誤認逮捕の時、警察は「IPアドレスが指紋みたいなもの」とまで言った。

 2chにしてもそうで、警察は今まで何回か2chを「捜索」しているが、結局ひろゆきの逮捕には至っていない。それはひろゆき自身が指摘している「法の未整備」の問題が解決されていないからだ。ネットに関する法の整備は後手後手にまわっており、「今までの」法律では取り締まれないのだ。

 私はこのように、古くからの技術や方法を洗練させて磨き上げることばかりに専念し、新しいものにはまったく対応できない傾向のことを、一つの「日本病」と呼ぼう。


FAXの例

 以前、大きな企業に勤めた時に驚いたことが一つあった。

 最初の日、「これは何をしているのですか?」と聞いたら、「これは取引先からFAXで送られてきた厖大なデータをデジタルデータに変換してコンピュータに取り込んでいるのです」という返事が返ってきた。

 私はプライベートではFAXというものは使ったことがない。生まれてから今までずっと家にないから、一度も使ったことがない。最初に働いたところで「FAXってどうやって使うんですか?」と言ってしまって周囲を唖然とさせたこともあった。

 今は、すべてのデータをデジタルで管理している。しかし古くからの取引先はFAX時代の名残で今でもFAXでデータを送って来るし、オンラインシステムでも古いバージョンのやつで送って来るところもあるので、最新のシステムに適合するように変換作業が必要なのだ、と。
 取引先にも最新のシステムを導入してほしいのだが、経済的な問題もあり、なかなか切り替えてくれないのだ、と。

 なんと滑稽なことではないか。
 FAXという機械がこの世に登場した時、今まで郵送で送っていた書類がこの機械を使えば一瞬で届く!時間短縮に繫がる!と手を叩いて喜び、仕事の効率化を求めていち早くFAXを導入した企業が、今はFAXが送ってくる紙データの取り扱いに苦しんでいるのだ。

 一見、矛盾したことを言ってるように思われるかもしれない。新しもの好きの人を批判しているのか、それとも新しいものに鈍感で対応できない人を批判しているのか。

 私は、新しいものに敏感である必要はあると思う。だが、それを「効率化」のためだけに使い始めるならば、結局は「日本病」に陥るだろうと思うのだ。


原発の例

 原発事故にしても、そうだ。

 私は以前、原発の安全に関わる仕事をしていた人たちと仕事上の付き合いがあって、彼らの働きぶりを見ていたが、彼らは非常に真面目に働いていた。決して怠けたりせず、日々の安全確認の作業を厳しく行なっていた。

 しかし、すべての社員・職員が、究極的なまでに洗練され効率化された流れ(フロー)の中で“きちきちで”業務を行なっていた。

 そこに欠如しているものは、「余剰」や「無駄」である。

 「そう言えば、もしとてつもなく大きな津波が来たら原発は大丈夫なんだろうか?」

 そんなことを、ふとぼんやり考える余裕のある社員は誰もいなかった。

 誰もなまけたり怠ったりしていなかった。何重にもわたる日々の厳しい安全確認フローを真面目に行なっていた。

 「想定内」の日々が続くかぎり「原発は100%安全」だったのだ。


「今まで通り」ではないかもしれない世界を考える

 警察にしても、ネット関聯の事件では、「まずIPアドレスを突き止めること」というマニュアルがあり、今回もそのマニュアル通りにやったのだろう。そして「IPアドレスを突き止めたら、もう犯人を押さえたも同然」であり、あとは指紋採取のやり方と同じように今まで通り、粛々と作業を進めていくだけである。

 しかし、それでは犯人は捕まえられず別の人を間違えて逮捕してしまった。それは犯行の手口が「今まで通り」ではないからである。

 FAXの例のように、効率ばかりを追求した結果、却って手間が増えている例は他にもたくさんあるように思う。

 私がこの記事を通して言いたかったのは「日本人はマニュアル通りに動きすぎなので、もっと柔軟に臨機応変に対応した方がよい」ということではない。

 機に臨み変に応じるというのは、所詮は事後のことである。
 原発事故などの最悪の事故は起こってしまったらおしまいであり、事後にいくら上手に対応しても遅い。

 永遠に続くかのように思っている「日常」の中で、多くの日本人はふと立ち止まって考える余裕を持たない。

 究極的に効率化されたフローの中でタイトなスケジュールをこなしている人々は、「今まではこうだったけれど、これからは違うかもしれない」と思いを巡らせる時間がない。


 「日本病」を放置したままでいると、もっと大きな病気を誘発することだってあるだろう。