暫定龍吟録

反便利、反インターネット的 This blog has not been updated since 2017

2013年03月の記事

311と想定外

 東日本大震災から二年になるのを機に、あらためて311を振り返りたい。


地震は想定外だったか

 福島第一原発事故のあと、「想定外」という言葉が盛んに使われた。

 できるかぎりの可能性を想定して安全性の確保に努めていたけれども、こんなに大きな地震や津波は想定外だった、ということだ。

 たしかに近年に前列のない大きさの地震だった。発表されたマグニチュードの数字は何度か変更があった。
 近年の日本での巨大地震と言うと阪神大震災、そして知名度の高い大正時代の関東大震災などが思い起こされる。でもどちらも津波の被害のない地震だった。
 それよりもっと古い明治三陸津波、あるいは江戸期の安政の大地震や宝永地震が引き合いに出され、さらにはそれよりずっと古い平安期の貞観地震以来の大地震、1000年に一度の未曾有の大地震と言われた。

 この「想定外」、「未曾有」ということについて政府事故調査委員会の委員長も務めた失敗学の権威、畑村洋太郎がそのものずばり『未曾有と想定外』という本を書いている。


未曾有と想定外─東日本大震災に学ぶ (講談社現代新書)未曾有と想定外─東日本大震災に学ぶ (講談社現代新書)
(2011/07/15)
畑村 洋太郎

商品詳細を見る


 その中で畑村氏は「未曾有」と言っても津波にかぎって言えば明治期、昭和期にも三陸沖で似たような津波があったわけだし、「想定外」と言ってもその想定外を想定するのが専門家の仕事なのだから、「未曾有」や「想定外」という言葉を責任逃れの免罪符にしてはいけない、と厳しく指弾している。


二つの原則

 たしかに「想定外」という言葉を責任逃れのための言い訳の道具に使ってはいけない。
 しかし私は同時にまた、想定外ということはあり得るだろうと思うのだ。

 この二年間、想定外ということ、そして人間が稀に受ける大きな運命の打撃について考えていた。
 そして考えたのは、人間が避けることのできない大きな二つの原則があるということである。即ち、

 「人間には想定できないことがある」

という第一の原則。
 さらに、

 「人間は稀にしか起こらないことには備えることはできない」

という第二の原則とである。
 この二つの大原則を見落とすならば、畑村失敗学は間違うだろう。


第一原則 人間には想定できないことがある

 人間には、どうしても想定できないことがある。予測も予想も、想像することすらできないことがある。
 思いも寄らなかった、考えてもみなかった、ということがある。
 それは人間の想像力には限界があるからである。井の中の蛙は大海を見たことがない、知らないだけでなく、イメージすることすらできない。
 現代の人間は、宇宙の外側がどうなってるのか知らないし想像することもできない。
 近代から現代にかけて科学やテクノロジーが発達して判ったことは、この世界にはわかってることよりも、未だわかってないことの方が遙かに多いということだった。
 想像の限界だけではなく、人間には「盲点」というものもある。
 「空気のような存在」という言葉があるが、昔の人は何もない空間に空気が“ある”とは思わなかった。あるいは数学の世界における「零の発見」とか。あまりにも当たり前すぎて意外と盲点になっていて見落としてしまっているものはたくさんある。


第二原則 人間は滅多に起こらないことには備えることはできない

 人間は滅多に起こらないことには備えることはできない。
 そのことを非常ベルの話、隕石衝突の話、オオカミ少年の話を例に考えてみよう。


もしも非常ベルが鳴ったら、その瞬間どう思うか

 中学の頃、非常ベルが廊下に鳴り響くことが偶にあった。
 皆さんがもし中学校の授業中に非常ベルを聞いたら、どう思うだろうか。

1.火事だ!逃げろ!
2.今日、訓練だったっけ?
3.業者の点検が入ってるのか?
4.また誤作動か…
5.また誰かががふざけて押したな

 この五つのどれだろうか?
 私が通っていた学校はオンボロだったので真っ先に4番を考えた。また不良の生徒も多かったから5番も考えた。
 ちゃんとした(?)学校だった人は4番や5番は思わないかもしれない。もっとちゃんとした学校なら、「非常ベルなんて一度も聞いたことない」か。しかし1番だと思う人も少ないのではないだろうか。


隕石問題

 「どんな危険でも、それが起こる確率が完全にゼロではないのなら、あらゆる危険が起こる事態を想定して備えておくべきです」と言う人がいる。

 では、そういう人は、隕石の衝突に対する何らかの備えをしているのだろうか。
 家一軒を潰すのにちょうどいい大きさの隕石が空から降ってきて、自分の家をピンポイントで直撃する危険性はゼロではない。確率的には限りなくゼロに近いが完全にゼロではない。何か家の屋根に衝突を和らげる材料を取り付けたり、何らかの対策を取っているのだろうか。

 私は以前からこの問題を「隕石衝突対策問題」あるいは「隕石問題」と呼んでいた。「人間は隕石の衝突に備えるべきか」、あるいは「備えることができるか」という問題である。

 以前も、このブログで紹介したことがあるが、統計学の竹内啓が書いた『偶然とは何か』という本がある。この本の中でこの「隕石問題」が取り上げられている。
 ところで、この本は、あまり知られていないスゴ本である。2013年のロシアでの隕石落下騒ぎや2011年の東日本大震災が起こる直前の2010年に書かれた本だが、隕石衝突問題や原発のメルトダウンのことについて言及している。


偶然とは何か――その積極的意味 (岩波新書)偶然とは何か――その積極的意味 (岩波新書)
(2010/09/18)
竹内 啓

商品詳細を見る


 竹内氏は「人類文明の存続というような超大問題から、いろいろなレベルの集団から個人に至るまで、『きわめて小さい確率はゼロと見なす』ということは行動原理とならねばならない」と言う。

そもそも非常に小さい確率の場合、それを実際に検証することは不可能である。それは一定の仮定のもとに計算上導かれた値にすぎない。したがってそれと現実とを結びつける関係は、「小さい確率の事象は事実上起こらない」ということにほかにはないのである。


人類全体も個人一人一人も「きわめて確率の小さいことは起こらない」とする前提にその存在を賭けていることになり、そこに本質的な不安全性が存在するというべきであるが、それはこの宇宙に生きる限り避けられないものである。われわれはそのことを認識すると同時に、そのような危険は無視して生きなければならない。



 竹内氏は、小さい確率のことは起こらないと思って生きなければならない、と言う。これは「もっと想定できるはずだ」と言う畑村氏の言と相反しているように見える。
 だが、相反してはいない。両者とも、どこまでが可能の限界でどこまでが不可能なのかを見極めることの重要さを言っているのである。

 さらにこの本のすごいところは、起こってはならない大事故が起こってしまった時の「不運」を認めた上で「不運の事後処理」の問題を考えなければならない、と説いているところである。

 被害者の「不運」をどう社会で分配していくかを考えなければならない、と竹内氏は言う。これは、東日本大震災のことと併せ考えながら読めば、実に深く考えさせられる。津波被害にしろ、原発被害にしろ、被災者の不運の事後処理は国民全員で、世界全体で考えなければならない問題である。


オオカミ少年の話の続き

 イソップ物語に「オオカミ少年」という話がある。毎日「狼が来た!」と嘘を吐いては村人が慌てふためくのを楽しんでいた少年が本当に狼が来た時に「狼が来た!」と叫んでも誰も信じてくれなかった、という話だ。
 この話は、だから嘘を吐いてはいけない、普段から嘘を吐いてるといざという時に信じてもらえないよ、という教訓話として語り継がれている。
 自己責任論者ならば「あの少年はかわいそうだったけど、まあ自業自得だね」と言うかもしれない。
 この話は少年が食べられた(若しくは少年が飼っていた羊が食べられた)ところで終わっているが、私はこの話はこんなところでは終わらないと思う。
 狼は集団で行動することが多い動物である。当然、少年一人を食べても食べ足りずに更なる美味を求めて集落の奥深くまで村人たちを襲いにやってくるに違いない。
 「自己責任だ」とか「自業自得だ、ざまあみろ」などと言って少年一人を切り離している人たちは我が身の問題として捉えられていない人たちである。羊が食べられたという話だったとしても、少年が管理していたその羊たちは村人たちにとっても大切なものではなかったのか。
 「えっ!?今回は本当だったの?また、あの少年の嘘かと思った」と言っても、もう時すでに遅し。飢えた狼の集団にぐるりと囲まれて万事休す。
 啻に少年一人の身の問題ならず、村人全員の問題である。
 村人たちの対応には明らかに問題がある。少年がいち早く危険を知らせてくれたにもかかわらず何の対応もできず狼の侵入を容易に許した。

 今回の震災でも似たようなことがあった。津波警報が出ていたにもかかわらず、「どうせここまで津波は来ないよ」、「今までの人生で何度か津波警報を聞いたことがあるけど、津波があの防波堤を越えて来たことは一度もないよ」、「逃げるほどのことはない」、そう言ってて高台に逃げずに、あるいは逃げるのが遅れて、津波に飲まれた人がいっぱいいた。もっと早く高台に逃げていれば助かった人がいっぱいいた。

 では、なぜ人々は逃げられなかったのか。


強力な「習慣化」

 何よりも強くて怖いものは「慣れ」である。

 大震災を機に、毎週一回、必ず避難訓練をするようにしましょう、と決めた街があったとする。しかしマメに訓練をしていればしているほど、サイレンや非常ベルを聞いた時に人々は訓練だと思ってしまう。「いつもそう」だと「今回もそう」と人間は思ってしまうものだ。
 非常ベルがしょっちゅう誤作動を起こしている学校の子供は「また誤作動だ」と思って、「逃げる」という行動には至らない。

 津波警報を出すかどうかを判断する担当者というのがいるだろう。

A.警報を出したけれど、実際には10㎝程度の小さな波しか来なかった

B.警報を出さないでいて、8メートルの巨大な津波が来た

 どちらも「外れ」には違いないが、どちらがマシかと言えば、前者の方がマシである。もし後者のようなことが起こってしまったら担当者は「なぜ警報を出さなかったのか」と全国から非難される。なので自分が「大責」を負うのを恐れて「念のために」「念には念を入れて」少しでも津波の危険性が予想される場合は警報を出す。
 しかし、この「念のために」小さな波の時にも「警報」という大仰な報せを出すことで(※警報は注意報よりもレベルが上)、人々の間には「どうせ今度も大したことない」というオオカミ少年の村人に似た感覚(「オオカミ少年効果」)が広がる。人々の感覚は次第に警報と実際の波の小ささの間のズレを覚え、ゆっくりと麻痺していく。

 少年に100回も嘘を吐かれて、それで101回目の「狼が来た!」を虚心坦懐な気持ちで新鮮に聞け、と言うのはかなり難しいことである。慣れに抗える人間などそうそういるものではない。

 オオカミ少年の話は、「どんな時も常に警戒を怠るな」という教訓話である、という人もいるが、私はそうした見方は「習慣」の強力さを見縊っていると思う。

 非常ベルやサイレンへの反応の早さを促すためには、予測の精度を上げることが重要になる。機械やコンピュータへの信用の度合いがまだ全幅でない時代には人間は自身の勘や直感を優先させるものだ。
 しかしその直感は屡々経験則に基づく。そしてその経験というのは、その人が生きて来た、たかだか数十年の経験なのだ。

 その短さを補うために歴史は記録されている。過去、何百年、何千年にわたる人類がさまざまなアーカイブを残してきた。


不幸を繰り返さないために

 これは畑村氏批判の記事ではない。
 畑村氏が『未曾有と想定外』で言っているのは、未曾有にしろ想定外にしろ、その範囲が狭過ぎる、ということである。
 「未曾有」は「いまだかつてない」という意味だ。過去50年にはなかったかもしれないが、過去100年、1000年、10000年まで遡れば、これぐらいの規模の地震はあっただろう。
 そして、今回の震災に関しては専門家が想定していた範囲はあまりにも狭すぎた。
 私は基本的には、人間には想定できないことがある、という考え方だが、決められた範囲内で問題解決を図るのは皆得意だが、どこが問題とすべき範囲なのかの線引きができる人は少ない、という畑村氏の指摘は重要である。

 畑村氏は、昔の人々がさまざまな形で記録を残して来たのに、現代の人はそれをじゅうぶんに活かすことができなかったということをたくさんの事例で紹介している。

 過去何百年、何千年にわたって人類が残してきたアーカイブ。それをなぜ活かすことができなかったのか。そして現代の情報テクノロジーはなぜ十分に活かされなかったのか。

 また別稿で、震災とInformation Technologyの関係について考察してみたい。



 「オオカミ少年効果」と津波に寄る死者を一人も出さなかった茨城県大洗町の事例をNHKの井上裕之氏が以下に纒められているので参照されたい。

 大洗町はなぜ「避難せよ」と呼びかけたのか(PDFファイル)

スポンサーサイト

和辻哲郎とソーシャルネットワーク ―SNSはなぜ流行ったか―

 今日3月1日は和辻哲郎の誕生日。
 なので、和辻哲郎とソーシャルネットワークの関係について書かうと思ふ。


SNSはなぜ流行ったか?

 2004年頃から日本ではmixiが、2007年頃からはFacebookが世界中で大流行した。
 SNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)は何故こんなにも流行ったのだらう。
 それは、SNSは新しい人間関係のユーザーエクスペリエンスを提供できたからではないか。多くの人にとって「ソーシャルネットワーク」は新鮮に感じられたのではないか。

 「人間」といふ言葉はもともと「世の中、社会」を表す意味の言葉だった。仏教で六道と言ふ時の天、人間、修羅、畜生、餓鬼、地獄の中の人間も「(この)世の中」といふ意味である。
 それが次第に人間社会に住んでる「人」のことも「人間」といふやうになった。
 欧米の個人主義的世界においてはパーソンpersonは、かぎりなく「個」の人、といふ性格を持ってゐる。
 しかし和辻は周囲の人との関はりなく「人間」は存在するものではない、と了解してゐる。そして日本ではむしろそのやうな人間了解の在り方がスタンダードであった。

しかし「人の間」すなわち人間関係を単に「人」の意に解するという「誤り」は、あまりにも思索能力の弱さを示しはしないであろうか。


人間は単に「人の間」であるのみならず、自、他、世人であるところの人の間なのである。


homoからその格の変化に添いつつhommmeとonとを作り出したフランス人に至っては、homoにおける右のような両面の意味を引き離して別語としてしまった。同様にドイツ語においても、Mannの形容詞形から出たMensch(人)は、同じ語から出たman(世人)と、全然別の言葉にせられている。英語はこのmanを人の意に用いるとともに、そこから世人もしくはある人の意味を全然閉め出している。


人間とは「世の中」自身であるとともにまた世の中における「人」である。従って「人間」は単なる人でもなければまた単なる社会でもない。

(以上、『人間の学としての倫理学』より)

 戦後、欧米から入って来た「個性」を重視する思想が日本でも流行し「他の誰でもない私」、「私は私」、「私は佐藤さんの奥さん、ではない。佐藤◯子といふ一個の人間である」といふ考へ方が広まった。
 さうした人間の捉へ方に慣れてゐた人々にとって、ソーシャルネットワークは新しい人間の在り方だった。
 ソーシャルネットワークは和辻風に言へば「人倫的ネットワーク」、「人倫に基づいた人間関係」だった。

 多くの人がこの新しい人間存在の在り方に魅了されSNSを使ひ始めた。
 しかしFacebookに代表されるSNSを使ってゐるうちに、だんだん不都合も感じるやうになってきた。


いくつもの「顔」

 若者しか使ってゐない初期の頃は良かったが、大人たちも含めすべての人がFacebookを使ふやうになると困った問題も出て来た。
 この友達とのやり取りをウチの親も見てるの?会社の上司も見てるの?
 最近、日本でもよく聞く、会社の上司からフレンド申請された場合、受けるべきか断るべきかといふ問題だ。
 なぜ、かうしたことが問題になるのか。
 それはやはり人々が、学校での顔、会社での顔、家での顔、を使ひ分けてゐたからに他ならない。
 家での自分(のキャラ)を会社の人に見られるのは嫌なのだ。

 一人の人間はいくつもの顔を持ってゐて、それを所属するサークル(コミュニティ、クラスタ)ごとに使ひ分けてゐる。
 どんな時にも不変な確たる自分といふものがあるわけではない。

 このFacebookが抱へてゐた問題を解決しようとArchana Patchirajanが2012年に新しく作ったSNSがHmmmだった。Hmmmでは幾つもの人格を使ひ分けられるといふ点が売りだった。
 しかしHmmmがやらうとしてゐたことはすでにGoogle+が実現してゐたといふ見方もある。

 もっとも欧米世界にもかうした幾つもの「顔」がなかったわけではない。
 “person”は元々“persona(ペルソナ、面)”であった。
 再び和辻の言葉を引かう。

人間生活におけるそれぞれの役割がペルソナである。我れ、汝、彼というのも第一、第二、第三のペルソナであり、地位、身分、資格等もそれぞれ社会におけるペルソナである。そこでこの用法が神にまで押しひろめられて、父と子と聖霊が神の三つのペルソナだと言われる。しかるに人は社会においておのおの彼自身の役目を持っている。己れ自身のペルソナにおいて行動するのは彼が己れのなすべきことをなすのである。従って他の人のなすべきことを代理する場合には、他の人のペルソナをつとめるということになる。そうなるとペルソナは行為の主体、権利の主体として、「人格」の意味にならざるを得ない。かくして「面」が「人格」となったのである。(『面とペルソナ』)



和辻の透徹した眼を道標に

 かうした人間関係の在り方はかつて誰もが感じてゐたことである。しかしそれを明瞭な言葉で書き記してゐるところに和辻の先見性を感じる。
 ソーシャルネットワークは、和辻が80年近くも前に看破してゐた人間関係の〝再到来″とも言へる。
 和辻が数十年前に言葉によって明瞭化し、Facebookがインターネットで可視化したソーシャルネットワーク。
 これからSNSといふツールが人間関係の世界をどのやうに変へていくのか分からない。ソーシャルグラフはデータマイニングや統計学に絡め取られ更なる苛酷な人間関係を私たちに強いるやうになるかもしれない。
 
 さうして人間関係に困ったり悩んだりした時に、ふと立ち止まって和辻哲郎を振り返りたい。
 和辻は人と人との「間」や「中」の広がりを大事にした。これはソーシャルネットワークを構築していく上でもぜひ参考にしたい考へだ。これは単に個人のソーシャルグラフの広がりのことを言ってゐるのではない。ネットワークとして間を持てるやうになるかといふ問題である。
 和辻の炯眼が再び人間存在の在り方、ソーシャルネットワークの在り方について何らかの道標を示唆してくれるかもしれない。