暫定龍吟録

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2013年08月の記事

会沢正志斎と現代の「攘夷」 −没後150年記念−

 今年2013年、東京・新大久保での「反韓」デモ行進が大きくニュースとして取り上げられた。「朝鮮人は出て行け」とか、中には殺せと書いた過激なプラカードを持つ人もいた。

 私は新大久保でこのようなデモに遭遇したことがないのでどの程度の規模のデモなのかは分からないが、少なくともニュースとしては大きく取り上げられた。

 日本における、こうした反発行動は韓国と中国に対して、特に韓国に対しては強く見られる。

 このような外国人排斥の動きは、規模や対象となる国の違いはあるが、現代の「攘夷」運動と言ってもいいだろう。
そこで、「攘夷の父」會澤正志齋が今年で歿後150年になるのを機に、その思想を振り返り、現代の攘夷について考察してみたい。


水戸の大学者、會澤正志齋

 江戸後期の水戸の大学者、會澤正志齋が亡くなってから今日で150年になる。

 学生時代に會澤正志齋の『迪彝篇』をよく読んだ。
 會澤と言えば主著『新論』で知られるが、私は学生時代は(そして今も)政治に興味がなかったので、『新論』には興味を持たなかった。


新しかった『新論』

 『新論』は、その名の通り、新しい論だった。
 會澤正志齋は、今では保守の代表のような思想家だと思われているけれども、『新論』は当時としては画期的な、伝統的な儒学の思想からは二歩も三歩も大きく踏み出した新奇な説だった。
 その目新しさと格調の高い文章が多くの人々、特に当時の若者たちを魅了し、あの長州の吉田松陰も影響を受けた。『新論』を読んで感激した松陰はわざわざ水戸まで會澤に会いに行っている。

 この新奇な理論は、当時の老儒たちからは批難の対象になった。あまりにも伝統的儒学の教えからは逸脱していたから。

 どこが新しかったのか。
 簡単に言うと、それは、天皇を持ち出して来たところ。と言っても、天皇に着目するというアイデア自体は国学者や神道家が先にやっていたことだ。その天皇と儒学という二つの価値体系を融合させるというのも、早くは山崎闇斎などがやっている。そこに新たな「國體」を明示したところが斬新だった。
 時代の雰囲気もあった。
 それまでは「国(くに)」と言えば、薩摩とか紀伊とか水戸とか自分の藩を指した。それが相次ぐ外国船の来航により、人々は「日本」という大きな国を意識するようになった。
 日本とはどういう国なのか、と人々が意識し始めたところに『新論』は颯爽と登場した。

 『新論』は密かなブームとなり、日本中の若者たちを虜にしていった。


現代の“攘夷”運動

 現代においてもインターネットが普及し始めた2000年代の初頭頃から徐々に「攘夷」の運きが見られるようになってきた。
 以前は、「ネット右翼(略称:ネトウヨ)」といって、ネットの中だけで見られる存在だったが、ここ数年はネットの世界から飛び出してリアルでも行動しているのが新大久保などでデモ行進をしている人たちだ。
 デモ行進をしている人たちはほんの一部だが、その背景には多数のネット右翼がいる。

 ネット右翼の大半は、韓国や中国を馬鹿にして嘲笑しているだけだが、中にはもっと過激に「韓国人や中国人は日本から出て行け」と言っている人もいる。

 こうした動きは、規模は違うが幕末の攘夷運動に似ている。

 會澤はこういう過激な行動を戒めたのだった。


會澤の『時務策』

 私は学生時代、會澤の重要な短篇を読み落としていた。『新論』を読んだだけで會澤を読んだような気になっていた。

 大人になってから會澤が晩年に著した短篇『時務策』を読み、會澤に対する印象が少し変わった。

 『時務策』は、『新論』に比べてずっと短いし、格調も劣る。名文とは言い難いかもしれない。それはおそらく、桜田門外の変や坂下門外の変を受けての「緊急出版」であったからではないか、と推察する。しかし、だからこそ逆に行間に人間味が感じられて、私は好きだ。

 『時務策』において會澤は開国を説き、過激な行動に出る若者たちを戒めた。

天下ハ天下ノ天下ニシテ一人ノ天下ニアラズ、然ルニ臣下ノ身トシテ、天下ヲ一己ノ私物ノ如ク軽々シク是ヲ一搏ニ抛ントスルハ、臣子ノ心ト云ベカラズ。
(意訳)この国は一人のものではないのだから、まるで私物のようにこの国の運命を博打に賭けるのは、この国の国民の心の在り方ではない。


軽易無謀ニシテ暴虎馮河センハ、実ニ危キ事ニシテ、天下ノ大事ヲ敗ルニ至ルベシ。
(意訳)深い考えも勝算もなくて勇敢に戦おうとするのは、この国の存立を危うくすることになるだろう


と手厳しく批判している。

 当時の若者たちからすれば、會澤は「尊王攘夷」の旗頭、理論的支柱であったのに、その人が突然「開国」などと言い始めたものだから「會澤先生も歳をとって耄碌したのだ」と言ってその変節ぶりを馬鹿にした。

 會澤は本当に「変節」してしまったのだろうか。
 そうではない。會澤は一貫していた。「國體の父」會澤は、國體を重んずればこそ開国を説き、血気にはやった若者たちの軽挙を戒めていたのだ。


右翼思想の三つの大きな欠点

 右翼と呼ばれる人たちの言動を見ていると、その思考には大きな三つの欠点があると私は常々感じている。

 それは、一つは命を軽んじている点。
 二つ目は、勝敗を度外視している点。
 そして三つ目は時宜が外れている点である。

 この三点に対して會澤はすべて答えてくれている。

一旦憤激ノ故ヲ以テ民命ヲ一搏ニ投ジ、元元ノ塗炭ヲ顧ザルコトハ、宸衷ニ於テ忍バセ給ハザランカト、恐多クモ伏察シ奉ル也


 會澤によれば、民命は天皇の最も重んじるところなのだから、もっと大切にしなくてはならない、ということになる。

 また、「愛国心」を持った右翼が意外と勝敗に拘っていない、あるいは無視しているようにすら感じられるのは、昔からずっと不思議に思っていたことだった。
 會澤は、「万一将帥誤テ喪敗」でもしようものなら「尊号ニ瑕疵ヲ生」じ、「国体ヲ辱ルコトコレヨリ甚シキハナカルベシ」と言っている。万が一、勝算なく外国と戦って敗けようものなら尊い日本の國體にきずがついてしまう、ということである。

 そして、時宜の点についても次にように強調している。

戦フベキトキニ非シテ強テ人ヲ殺ントスルハ、不仁モ亦甚シ。海内ノ百姓皆升平ノ徳沢ヲ蒙リ、其生ヲ安ンジテ世ヲ渡ルハ、天下ノ至慶ナリ。然ヲ今、軽易ニ事ヲ生ジテコレヲ兵火ニ苦マシメントスルハ何ノ心ゾヤ


 時宜のよろしき時は戦うべし、戦うべきでない時はいたずらに戦うべからず、と。


會澤正志齋の「國體」とは何か

 つまり、會澤にとっては「國體」が何よりも大事なものであった。會澤の言う國體とは、日本の国のメンツとか、そういうものではなく、国が安定的持続的に安泰の状態を維持していくことだった。
 現代のネット右翼などは、韓国や中国が日本を脅かしていると考えている。竹島をとったり、尖閣諸島をとろうとしたり、歴史認識問題で日本に対して強硬な姿勢をとったり、産業の面でも自動車や家電などで競合して日本の地位を脅かそうとしている。
 韓国、中国にはやられ放題、言われ放題、これでは日本のメンツは丸つぶれ。こうした気持ちが新大久保の「朝鮮人は出て行け」に繫がっているのだろう。

 だが會澤は「外国ヲ一切ニ拒絶」などといってそのことばかりに拘泥しているのは、「国ノ存亡」や「其他」のことを考えていない「一偏ノ論」だと言う。


引き裂かれる會澤正志齋

 會澤の『新論』の思想は、保守性と革命性の二面性を内包していたがゆえに、晩年の會澤は、その両極に引き裂かれる苦しみを味わった。

 晩年の會澤は、幕末の「志士」と呼ばれる過激な若者たちに激昂していた。
 しかし、その若者たちは自分が育てたのである。自分の『新論』を読んで感銘を受けた若者たちが過激な行動に走るようになったのであり、自ら撒いた種でもあった。


理論的支柱は無く、場だけがある現代

 現代に、會澤正志齋に該当するような、ネット右翼たちの理論的支柱となるような人はいるだろうか。どうも、そういう人はいない。
 日本のネット右翼が最も集まっている場所というと、おそらく2chあたりだろうが、ここには特に理論的指導者やリーダーがいるわけでもなく、ただ「場」があるだけである。
 もし論争になった時は、史料や法律などあちこちにソースを求める。
 幕末の若者たちにとって會澤はソースみたいなものだったろうか。「ソースは新論(キリッ」と思っていたのだろうか。

 しかし、會澤正志齋の「國體」から吉田松陰の「大和魂」までの僅かな間に質の変容があった。
 そういうことには、当時を生きている人々はなかなか気づきにくいものだ。

 吉田松陰のことを「先生」と呼んでいる首相は「憲法を改正して国防軍を作ろう」と言っている。はたしてそれは時宜に適ったことなのか。私にはどうしても、今頃?としか思えない。

 會澤にあっては尊王攘夷は徳川幕藩体制をより強固にするためのものであったが、松陰は置いておくとしても、長州の志士の多くは『新論』を「誤読」。いつの間にか目標を「倒幕」へとずらしていった。

 現代にあっても行動や運動はいつの間にか変容していく。しかも元々確固たる支柱があるわけではなく、ただ「場」だけがある状態では容易にサイバーカスケードが起こり、現代人はよほど「元々は何だったっけ?」ということを常に意識していなければ、知らず知らずのうちに雰囲気に飲まれてしまうことになるだろう。

 現代に會澤正志齋みたいな人は必要?
 主義も信念もなくただ流れに乗ってるだけの人よりも、一個の確たる主張を持っている人の方がマシだ。
 だが會澤および水戸学の尊王攘夷の思想は影響力が大きすぎて最終的には制禦を失った。高邁な精神に制禦の理論が付け加わるならばなお強靭であろうが、制禦にはまた制禦に適った人がいるのだろう。それは例えば勝海舟のような人かもしれない。

 會澤は長生きしたために桜田門外の変を見る嵌めになった。だが長生きしていなければ『時務策』が書かれることはなかった。

 會澤正志齋が亡くなって百五十年。

 會澤の苦しみの根源を追究することはあらためてこの国の在り方を考えることになるだろう。


※本文中引用はすべて『日本思想大系 水戸学』(岩波書店)より

戦争世代論 ~天皇はなぜいつまでも戦争責任を問われ続けるのか

 戦後、もう60年以上も経つが、いつまでも「天皇の戦争責任」を問う声が一部で燻っている。

 昭和天皇は平和を愛したお方であられたのに、そしてその天皇の御意に反して軍部が始めた戦争であるというのに、なぜ天皇の戦争責任がいつまでも問われるのか。

 この問題について昔からさまざまな議論があるが、私は世代論の観点から一つの試論を述べてみたいと思う。

 「天皇は戦争世代ではない」

という観点から。

 なお、この記事では「太平洋戦争」という言葉を用いるが、昭和16年から昭和20年までの対米英戦争を念頭に置いている。


戦争世代ではない昭和天皇

 私は子供の頃早くから、自分の家と天皇家とが、世代がずれているということに気づいていた。

 現・皇太子の御年齢は、私の年齢からも私の父の年齢からも離れている。また、今上天皇の御年齢は、父の年齢と祖父の年齢の真ん中にある。つまり、ちょうど交互に食い違っている。

 図で描くと以下のような感じ。
tennouke02.jpg

 私の家のような庶民の家と天皇家を並べるのは不遜で畏れ多いことだが、話をわかりやすくするためにこのように描く。

 私の祖父は大正生まれで、ドンピシャで戦争世代である。戦地に赴き、多くの同世代の仲間を失った。
 大正生まれの祖父が昭和時代の戦争に参加したのだ。

 当たり前のことだが、多くの人がうっかりしがちな事実は、

昭和天皇は昭和生まれではない

という事実である。

 昭和天皇は明治34年生まれ。
 今上天皇(平成の天皇)は昭和8年生まれ。

 つまり、昭和天皇が戦争世代でないのみならず、天皇家が「戦争世代の家」ではないのだ。


戦争に関する知識の「逆転現象」

 私は高校生の頃、年上の人、皇太子様と同じ世代の人たちと話をしていた時、彼らがあまりに戦争のことを何も知らないのに驚いた。彼らは自分の父親も祖父も戦争に行ってないから家庭で戦争の話を聞く機会がなかったのだ。彼らより歳が若い私の方が祖父から戦争のリアルな話をたくさん聞いていたおかげで戦争については詳しかった。

 一般的に時代が下っていくにつれて戦争に関する知識は一様に少なくなっていくと思われがちだが、家単位で見てみると、戦争世代の人がいる家庭といない家庭があり、それによって、若い世代の人の方が却って戦争のことを知っている、という逆転現象が起こる。もっともこれからは戦争経験者がいなくなってくるので、こうした逆転現象も起こらなくなるだろうが。


軍隊は20代が中心で、30代は「老人」扱い

 太平洋戦争にかぎって言えば、昭和16年の開戦の年に、昭和天皇は40歳。今上天皇は僅か7歳。
 どちらにしろ、戦地に行く年齢ではない。

 天皇はなぜ戦地に行かれなかったのか。
 多くの人は、「高貴な家柄の人だから」、「尊いお方だから」と思っている。しかし、仮に天皇が一般庶民であったとしても、年齢的に戦地に赴くことはなかったのだ。

 召集令状(通称「赤紙」)は、誰に配られたのか。
 成人の男性すべて、と言われているが、70歳や80歳の男性が兵隊として駆り出されたとは考えられない。

 どこの国でも、だいたい軍隊というものは20代の青年を中心に構成されていると言う。30代で「老人」扱い。40歳以上の人は一部の志願兵とかを除けば、現場には少なかっただろう。

 つまり太平洋戦争開戦時に、すでに40歳であらせられた昭和天皇は、年齢的に言って兵隊として召集されるような御年齢ではなかった。
 また、開戦時、7歳であらせられた今上天皇は、終戦時でさえ、まだ11歳。

 つまり、戦争時、家族の中に戦争世代の人がいる家庭といない家庭があった。
 「銃後を守る」という意味では、戦時中に生きていたすべての人は「戦争世代」と言えるかもしれないが、ここでは実際に兵隊として戦地に駆り出された20代から30代の人のことを戦争世代と呼ぶことにする。


開戦を決めたのは明治生まれ、実際に戦地に行ったのは大正生まれ

 以下、開戦の意志決定に関わった(と私が考える)主な人々の生年を記す。

寺内寿一(明治12年生)
杉山元(明治13年生)
東條英機(明治17年生)
板垣征四郎(明治18年生)
鈴木貞一(明治21年生)
木戸幸一(明治22年生)
近衛文麿(明治24年生)
岸信介(明治29年生)

 ご覧のとおり、全員、明治生まれ。明治30年代、40年代生まれもここにはいないことから、当時の大正生まれの若者たちは、開戦の意志決定にほとんど関わっていないことがわかるだろう。

 明治生まれの「大人」たちが、「もう、こうなったら戦争するぞ!」と決めて、「よーし、おまえら行って来い!」と大正生まれの若者たちを戦地に行かせたのである。
 戦争することを決めた世代と、実際に戦地に行った世代は大きく異なっている。
 上記の人たちも戦争には参加しているが、上記の「世代の人たち」が最前線に行っていたわけではない。

 太平洋戦争で兵隊として召集されたのは、主にどの世代だったのか。生年別に纏めた資料があるかと思って調べてみたが、見つけられなかった。
 私の推測では、おそらく上は明治40年代生まれぐらいから下は昭和2年生まれぐらいまでだと思う。


世代の問題に拘る理由

 私はこのブログでも過去に何度か世代論を取り上げてきた。世代の問題を語ると「不毛な世代論を語るな」と言う人がいる。でも私は世代論を語ることが不毛なことだとは思わない。私は世代の問題に拘りたい。

 祖父は同世代の仲間を戦争でたくさん亡くした。
 20代というのは、普通、恋に遊びに勉強に、人生の中でも最も輝いている楽しい時期のはずだ。それなのに、祖父の20代はなぜ真っ暗だったのか。上下の世代が普通に楽しい20代を送ったのに、なぜ大正生まれの人間だけがこんなに真っ暗な青春時代を送らなければならなかったのか。

 昔から一部の左派の人たちの間で、天皇の戦争責任を問う声が渦巻いている。しかし、そうした左派の人たちでさえ、天皇が“身分”において一般人よりも特別扱いされていることを問題視しているだけだ。
 だが、戦争の時代を肌身に知っている人たちの中に、もし天皇の戦争責任について蟠った気持ちを持っている人がいるとしたら、それは啻に身分の不公平のみならず、世代の不公平を感じているからではないか。にもかかわらず、自分たちでも今まではっきりとそのことを自覚してこなかったのではないか。

 「天皇は平和を願っておられたし戦争責任はないと思うんだけど、なんかモヤモヤするんだよなあ」と今まで思っていた人に、そのモヤモヤを解消するための一つの視点として、この「戦争世代論」を提供したい。

 もっとも、この記事は、世代の問題を際立たせるために、やや話を単純化している。

 昔は一般的に今よりも兄弟の数が多く、一番上の姉が母親代わりだった、とかいう話はざらにある。つまり、上図のように綺麗に等間隔に並ぶわけではなく、一つの家の中でもっとグラデーションが長くなるのである。
昭和一桁生まれ世代の人などは、「俺は戦争に行かなかったけど、一番上の兄貴は戦争に行った」などという人も多い。
 天皇家も、昭和天皇の歳の離れた弟君である三笠宮崇仁親王は大正生まれで「戦争世代」であり、実際に軍人であった。

 この記事で私が訴えたいのは、世代の問題であり、天皇の戦争責任の問題ではない。

 「明治生まれの人たちだって戦争を経験してるのでは?」
と言う人がいるかもしれないが、日露戦争のような「勝ち戦」と、太平洋戦争では規模も何もかもが違いすぎる。

 「世代間の不公平とか言ってもしょうがない。終わったことをああだこうだ言ってもしょうがない。青春時代が戻ってくるわけじゃないんだし」
 確かに、終わったことをどうこう言っても取り返しはつかない。しかし私は「しょうがない」で済ませたくはないのだ。
 あれほど苛酷で悲惨な戦争体験を「しょうがない」という言葉で済ませたくはない。祖父の20代は戻ってこないけれども、こうして「世代の問題」を語ることで、私たち以降のこれからの世代の人たちにこうした不幸な世代を作り出すことを少しでも防ぐことができれば、と思っている。

 そのための、これは一つの試論である。


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8月15日に他人の家の墓参りに行ってきた

果たせなかった仏教界改革 -清沢満之生誕150年-


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(via清澤満之記念館

 今から100年余り前、落ちぶれた日本の仏教界を改革しようとした一人の青年がいた。
 その人の名は清沢満之。
 今日は清沢満之が生まれてからちょうど150年の日。また、今年2013年は没後110年でもある。

 宗教思想家、仏教活動家として明治時代を生きた清沢満之は、現代ではあまりその名を知られていない。

 私は幼い頃から清沢満之の名前を知っていた。
 清沢満之の高弟に暁烏敏という人がいるのだが、私の大伯母がその暁烏敏の秘書みたいなことをやっていたので、子供の頃から清沢満之の名は聞かされていた。
 だが、どんな人なのかとか、そういうことはまったく知らず、清沢満之の著作を読んだのも大学生になってからだった。

 大学生の時に、清沢満之の代表的著作である『精神主義』や『宗教哲学骸骨』、『他力門哲学骸骨』等を読んだ。
 その時の感想は「よくわからない」であり、特に魅かれるところも共感するところもなかった。

 今あらためて読み返してみても、やはり興味をそそるところがなかったので、自分が成長していないのか。

 だが私の興味は、こうした哲学的著作よりも満之が精力的に取り組んだ宗門改革運動の方にある。
 その独自の精神主義を基に仏教界の改革を語った「教界回転の枢軸」などは満之の熱い思いが伝わってくる文章である。

 清沢満之の著作は解らなくても、清沢満之という人物の生き方には興味がある。
 特に仏教界の改革者としての清沢満之には魅力がある。

 満之は浄土真宗の一徒として、そして一人の仏教者として、当時の仏教界を鋭く批判し変えようとしていた。

 仏教者たちに意識改革を促す次のような言葉は、外からの批判ではなく、一仏教徒である満之による内からの批判である。

本山は本山の大職を棄てて妄に世俗の権勢を徼め、門末は門末の本務を忘れて恣に不義の福利を貪り、僧侶滔々、空海師の「所謂頭を剃りて欲を剃らず、衣を染めて心を染めざる者」にあらざるはなし。
(「教界回転の枢軸」)



 翻って、現代の仏教界を見るに、果たして満之の精神は達成されていると言えるのだろうか。

 NHKの番組で以前紹介されていたアンケートで、「仏教、寺、僧侶についてどれだけ良いイメージを持っていますか?」というものがあった。

 結果は、仏教90%、寺25%、僧侶10%。

 仏教に対しては親しみの感情を持っていても、寺や僧侶に対しては良い印象を持っていない人が多いことがわかる。

 満之が批判していた当時の仏教界というのは、現代のそれとはかなり違っていた。
 明治時代は文明、科学の信仰や廃仏毀釈運動などもあり、仏教界全体が衰頽しており、僧侶も全体的に苦境に立たされていた。満之はそこまで落ちぶれた仏教界の為体ぶりの原因を仏教者たちの意識の低さ、自覚に求めたのだ。

 だから上に紹介した満之の言葉が現代の仏教界に対する批判としてそのまま当て嵌まるわけではない。

 だが、仏教界のこの現状が、満之の望んだ姿だったのか?
 もし満之が現代の仏教界のあり様を見たら、「仏教が隆盛してる!」と言って喜ぶだろうか。そんなことは決してないだろう。
 確かに僧侶は豊かにはなったかもしれないが、人々の尊敬を集めているわけではない。
 「坊さんは大抵ベンツに乗っている」
 それが現代人の唯一の僧侶に対するイメージだ。
 「頭を剃りて欲を剃らず」と痛烈に批判した満之が現代の仏教者たちの在り方をよしとすることはないだろう。

 広大な土地を資産として持ち、読経料やら法外な(そう、まさに“法外”な)墓の永代使用料やら、さまざまな名目で金を儲けることしか考えていない現代の僧侶たち。
 寺を広くオープンにして衆生の悩みを聴くどころか、大抵の門前には、
 「関係者以外立入禁止」
のデカ看板。
 私が住んでる街は東京でも比較的、寺が多い街だが、どこの寺もそれなりの大きさの本堂を有しているのに、東日本大震災の時、被災者を受け入れたなどという話はついぞ聞かなかった。本堂は仏様がいらっしゃるところだから?

 満之は言う。

巍々たる六条の両堂、既に大谷派と為すに足らず、地方一万の堂宇、既に大谷派と為すに足らず。/
大谷派なる宗門は大谷派なる宗教的精神の存する所に在り。
(「大谷派宗務改革の方針如何」)


今や一派の現状を通観するに、本山の威信は日に減じ、僧侶の価値は日に降り、布教振わず、勧学挙らず、紀綱弛み、風俗乱れ、上下を挙て名利奔走に忙わしく、真誠なる宗教的動作を見んと欲するも得易からず。
(「大谷派宗務改革の方針如何」)



 仏教の仏教たる所以は立派な建物にあるのではない。宗教的精神にある。

 満之の思想の特徴は、「先ず須らく内観すべし」という厳しい内省にある。自身も厳しい禁欲生活を行い、結核に倒れることとなった。
 明治36(1903)年、40歳の若さでその生涯を終える。

 満之が目指した仏教界改革は、果たせなかったというべきであろう。

 満之は亡くなる5年前に将来の仏教界への明るい展望を語っている。

今や宗教の煩瑣的研究は漸く世人の厭う所となり、其実行的方面に向て歩を進めんとするの傾向は、教界諸般の現象に於て歴々其徴候を現わせり。是れ余輩が未だ俄に日本仏教の前途に絶望せず、将来復た一大光輝を放つの時期あらんことを期待する所以なり。
(「仏教者盍自重乎」)


 そして、そのためには、仏教者が「其本務に顧みて卑陋の念を脱却し、其実行的方面に於て大に勉むる」ことが大切だと言っている。
 「実行的方面」とは修行のことであり、満之の言う「精神主義」とは、外物に捕われない宗教的精神を持った行動のことである。

 「坊主丸儲け」と世人から揶揄されながらも“ビジネス”に勤しむ現代の僧侶たちを見ていると、残念ながら満之が目指した仏教界の改革は100年経ってもなお実現されなかったと言わなければならないだろう。

 満之が設立した私塾「浩々洞」のメンバーは満之の志を受け継いだけれども、結局、その精神が洞中を出て仏教界全体へ発展していくことはなかった。

 浩々洞は本郷の街なかにあった小さな洞。京都の「巍々たる六条の両堂」よりずっとずっと小さな「どう」。

 暁烏敏は浩々洞時代の思い出を懐かしく語っている。談論風発、時には丁々発止、気のあう仲間同志、笑いの絶えない場だったらしい。
 しかしリーダー満之を失った影響は大きかった。満之没後14年で浩々洞もまた幕を閉じるのである。

koukoudou.jpg
(2013年8月撮影)

 清沢満之が志した改革は、ここ本郷の地で止まったまま。
 清沢満之の精神は100年余の時を超えて現代に語りかける。


(※本文中引用はすべて『清沢満之集』岩波文庫より)