暫定龍吟録

反便利、反インターネット的 This blog has not been updated since 2017

2013年09月の記事

天心!天心!天心!岡倉天心没後100年

 今年2013年は、明治時代の美術家、岡倉天心没後100年にあたる。

 そこで、岡倉天心という大きな美術家、思想家の生涯と思想について、この夏に撮ってきた天心ゆかりの地の写真とともに振り返ってみたい。

 天心を振り返ることには意味がある。それは天心の思想が、これからの日本と世界の行く末を考える上での大きなヒントになると思うからだ。
 ここで振り返るのは天心のほんの一部ではあるのだが。


天心の六角堂

 岡倉天心の本名は「覚三」であり、本人もずっと覚三と名乗っていたが、この記事では、現代の人々に親しまれている「天心」という呼び名を使う。

 天心の名前は一昨年の東日本大震災の時に少し国民に思い出された。茨城県の五浦海岸にある天心ゆかりの六角堂が津波によって流されてしまったことがニュースになった。今はもうすでに復元されているらしいが。

 あまり知られていないが天心の六角堂はもう二箇所、東京にもある。こちらは特に地震の影響もなく健在。

 東京藝術大学のど真ん中にある六角堂。


geidairokkakudo.jpg


 の中の威風堂々たる天心。

 藝大の中心で美を叫ぶ?

geidaitenxin.jpg
(2013年8月撮影)


 後光が!


 もう一つの六角堂は東京の天心公園にある。

 そして、こちらにも天心坐像があるのだが、こちらはなんと黄金の像である。

 これがその天心公園の六角堂。


rokkakudo.jpg
(2013年8月撮影)


 画面中央奥に小さく見えるのが六角堂。右手前に見える白い建物は六角形の公衆便所。

 六角堂の中には黄金の天心坐像があるのだが、残念ながら扉に鍵がかかっていて見られない。

 可笑しいでしょう?天心は夢殿を開けさせたのに自分は原則非公開で偶にしか見られないなんて!



 で、偶に見られた時の天心坐像がこちら。




ougontenxin.jpg


 金ピカです。



日本近代美術界の功労者?天心の嫁

 天心は若い頃は、親しくしていた官僚、九鬼隆一の影響で政治に興味があったらしく、政治の世界に進むつもりだったようだ。

 天心は東大生だった時、「国家論」という卒論を書いた。ほぼ書き上げて後は提出するだけ、という時に若妻、基子と夫婦喧嘩をした。喧嘩の理由は分かってないが、おそらく天心の浮気とかそういうことだろう。浮気性の天心と嫉妬深い天心の妻、基子との間には如何にもありそうなことだ。そこで激怒した基子はせっかく書いた卒論を全部燃やしてしまった。
 途方に暮れる天心。もう一回同じものはとても書けない。そこで急遽、「美術論」をぶち上げて、僅か二週間で書き上げ、無事に大学に提出してなんとか卒業することができた。

 その後、天心が美術の道に進み、東京美術学校(現・東京藝術大学)の初代校長に就いたり、横山大観や下村観山、菱田春草などの近代美術界を代表する巨匠たちを育て上げたことを考えると、天心の妻の功績?の大きさを思わずにはいられない。あの時卒論を燃やしていなかったら、天心は地味な政治家になっていたかもしれない。


天心と九鬼

 天心の浮気相手の一人は、九鬼隆一の奥さん、波津子だったと言われている。
『いきの構造』で有名な伊達哲学者、九鬼周造のお母さんである。

 近所同士だった天心はたびたび波津子の家を訪れていた。
 幼かった九鬼周造は母親の膝に凭れて、よく「岡倉のおじさま」の話を聞いていたという。

 この九鬼周造くんの「証言」によって天心と波津子の不適切な関係がばれた、というのではなく、当時から周知のことだったようだ。天心が東京美術学校の校長職を辞任させられたのは、いわゆる「女性問題」によってであると言われている。

 天心が住んでいた辺り。波津子もだいたいこの辺に住んでいた。


negisiogyounomatsu
(2013年8月撮影。ワンコが散歩していました。天心も「鉄空(天心が飼っていた犬の名前)」をこんな風に散歩させていたのかなあ。)


 天心は晩年、インド・ベンガルで知り合った女性にもラブレターを送ってるし、生涯を通じて好きな女性が何人もいる人だった。

 ともかく、「女性問題」で美術学校を追われた天心は、数名の同志とともに「日本美術院」を立ち上げる。


nihonbijutuinhasshounoti.jpg


 天心公園内にある「日本美術院発祥之地」碑。

 この日本美術院がその後どのような紆余曲折を経て現在に至っているかは、美術史に興味のある人は調べてほしい。
 そこに立ち入ると長くなりそうなのでこの記事では割愛。

 
nihonbijutuin.jpg
(2013年8月撮影)


 現在の日本美術院。「院展」を主催している。


煽動者、天心

 他の天心の人物評は、「浮気性」というのは本人も有難くないだろうから置いておくとして、和辻哲郎が「煽動者」と評している。
 たしかに、『東洋の理想』や『東洋の覚醒』には、読む者を奮い立たせるような語調がある。「覚醒」させるために陶酔的な語り口でたくさんの人を「けしかけた」。
 アジア主義の煽動者というと大川周明を真っ先に思い出す人も多いと思うが、天心もまた、大川周明とは違うタイプの、そしてずっと時代に先駆けたもう一人の煽動者であった。


天心のアジア主義

 天心のアジア主義が大川周明に影響を与えていることから、いわゆる「天心の戦争責任」を問う声がたまにある。
 だが間違ってはいけない。時代が違いすぎる。天心は江戸時代生まれだ。

 それでも明治時代の帝国主義に則って、アジアへの侵略を肯定、または煽動していたのではないか、と思ってる人もいるかもしれない。
 しかし天心はそのような戦争を毫も望んではいなかった。

西洋人は、日本が平和のおだやかな技芸に耽っていたとき、野蛮国とみなしていたものである。だが、日本が満州の戦場で大殺戮を犯しはじめて以来、文明国と呼んでいる。(中略)もしもわが国が文明国となるために、身の毛もよだつ戦争の光栄に拠らなければならないとしたら、われわれは喜んで野蛮人でいよう。
(『茶の本』より)



 天心はむしろ、反帝国主義。西洋の帝国主義に抗するために「東洋の覚醒」を言ったのだ。西洋文明の圧倒的な力に飲み込まれ、「アジア」が消滅するかもしれないというのっぴきならない危機感の中で、人々にアジアを自覚させようとしたのだった。


天心の頃から進歩したか

 天心の『東洋の理想』や『茶の本』を読んでいると、あの頃から現代は少しぐらい進歩したのか?と思う。日本もそうだし、西洋のアジア理解もまだまだ表層に留まっている、あるいは多くの偏見があると感じる。

 最近は「サムライ」という言葉が持て囃されてそうしたハリウッド映画などが作られ、それが代表的な「ジャパン」のイメージとして広まっているのを見るにつけても、つくづくその思いを強くする。
 天心が『The Book of Tea』で言いたかったのは「The Code of Samurai」のような見た目にかっこ良く分かりやすいものだけが日本文化ではない、ということだ。

 今では茶道というのも比較的“わかりやすい”Japanese Culture”かもしれないが、天心の当時は違った。
 真の文明とは何か。立派な火器を作ることではなく、茶器にこそ日本文化の真髄が宿っている。当時の西洋が、そして日本人自身も顧みようとしなかった「茶」に光を当てることで、西洋文明に翻弄される明治日本の行く末を照らし出そうとしていた。

 今の政府主導の「クールジャパン」でも、代表的な日本文化とされているのは、アニメ、ロボット、ゲームなど見た目に分かりやすいものばかり。
 もっと分かりにくい、日本のごく普通の人々たちの何気無い暮らしぶりの中に本当の「クール」はある。


猫にあてたラブレター

 天心は猫を飼っていた。名前は「孤雲」。普段は「コーちゃん」とか「コーたん」と呼んでいたらしい。日本に帰国する時アメリカに置いてきたコーちゃんにあてて書いたラブレターがある。

東京
一九一一年十月四日

親愛なるコーちゃん

長らくごぶさたしたね――変りないかい。
(中略)
最初のねずみはもう捕まえたかい。おいしかったかな。きっと、栗鼠を楽しく追いまわしているんだろうね。到達不可能なものを追求することには偉大な楽しみがあるものだね。君も私も、驚きこそが至福の秘密であり、理性と共に美わしきものの死もやって来ることを知っているものね。
陰険な雌猫どもとは親密にならん方がいいと思うよ――君を理解するふりをして、実はその眼にお似合いの爪を持ってるだけの、腹黒い連中だからね。雄猫どもと友情を結ぶのも慎重にやりたまえ――たとえ最上の手合いとでもね。連中は苦痛を通じて知り得たことしか君には教えちゃくれないよ。君は一切を喜びの門を通じて学ばねばいけない。
(中略)
コーちゃん、淋しいかい。孤独は君や私よりずっとりっぱな人々に課せられた運命なんだよ。
元気でね。

君の友なる覚三

君に日本のマタタビを少々送る。気に入ってくれるといいがね。



 このラブレターは元は英語で書かれており、この日本語訳は詩人の大岡信によるものである。

 その大岡信がこのラブレターについて解説しているのを読んだがその解説がまたすごい。
 孫引きのような紹介になって申し訳ないが紹介したいので引用しよう。

私にとってさらに重要だと思われるのは、雄猫どもを警戒せよと彼が孤雲に忠告する時の理由である。すなわち、「連中は苦痛を通じて知り得たことしか君には教えちゃくれないよ。君は一切を喜びの門を通じて学ばねばいけない」と彼はいう。
「苦痛を通じて知り得たこと」に、世間というものはいつも大きな価値を置く。その常識を、彼は断固として拒否する。この拒否の意味は大きい。偉大な叡智がここで語っているように思われる。「苦痛」をなめ尽した人でなければ言えないものが、この短い言葉の中にこもっている。真の詩人がここで語っている。



 この文章を書いた天心もすごいが、この文章からこれだけのことを見抜く大岡信もまたすごい。

「常識を拒否する」というのは、たしかに天心の思想の核心かもしれない。
 そして天心は他のずる賢い猫たちに騙されるなと言う。これは人間社会の“巧みな嘘”への批判である。
 天心は虚構ではない確固たる基盤に立脚しようとしている。

 天心は百年以上も前に、早くもこのスタート地点に着いていた。
 天心亡き後の100年はどうか。天心のスタート地点は前方に遠ざかっていくばかり。もう霞んで見えなくなっているではないか。
 天心の立脚点を確と見ることは縦令その先の理想は違えどこの世界を見るための重要なヒントになると私には思われる。


辞世の詩「戒告」

 最後に、天心が亡くなる一ヶ月ほど前に書いた"An Injunction"という辞世の詩とでもいうべき詩があるので紹介しておこう。天心の「美術」が文学方面に遺憾なく発揮されていたのが窺えるだろう。

An Injunction

When I am dead,
Beat no cymbals, no banners display,
Deep in the pine-leaves on a lonely shore,
Bury me quietly―her poems on my breast.
Let the sea-mews chant my dirge,
If a monument they must raise,
Plant me some narcissus, a plumtree of fragrance rare;
Perchance, one distant mist-white night
I may hear her footsteps on the moonlight sweet.

Aug. 1st 1913


戒告

私が死んだら、
悲しみの鐘を鳴らすな、旗をたてるな。
人里遠い岸辺、つもる松葉の下ふかく、
ひっそりと埋めてくれ――あのひとの詩を私の胸に置いて。
私の挽歌は鷗らにうたわせよ。
もし碑をたてねばならぬとなら、
いささかの水仙と、たぐいまれな芳香を放つ一本の梅を。
さいわいにして、はるか遠い日、海もほのかに白む一夜、
甘美な月の光をふむ、あのひとの足音の聞こえることもあるだろう。

一九一三年八月一日

(大岡信訳)



 美とともに舞い降り、美とともに去って行った天心。
 当時のアジアの最先端で、西洋に向かって堂々と「喜んで野蛮人でいよう」と皮肉り対峙することができた人物は天心以外にそうそういない。
 天心の速さはかっこ良く、ゆるさは魅力的である。「速さ」と「ゆるさ」を兼ね備えた天心だからこそ思い描けた美の世界があった。
 
 天心が思い描いていた遠大な理想に思いを馳せながら、墓に手を合わせた。


tenxinhaka.jpg


 変わった形の天心の墓。台座のような形。上は何?何か栽培するところ?


hosizakihatuko.jpg


 その天心の墓から100メートルほど離れたところにある波津子の墓。
 ちなみに、天心の墓とは向かい合っていない。



(参考文献)

・『岡倉天心全集』平凡社

・桶谷秀昭訳『茶の本』講談社学術文庫

英文収録 茶の本 (講談社学術文庫)英文収録 茶の本 (講談社学術文庫)
(1994/08/10)
岡倉 天心

商品詳細を見る


・北康利『九鬼と天心』PHP研究所

九鬼と天心九鬼と天心
(2008/09/13)
北 康利

商品詳細を見る



スポンサーサイト