暫定龍吟録

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2013年10月の記事

甦る谷中の思想 ―田中正造没後100年―

 田中正造という人をどれぐらいの人が知っているだろう。

 名前は聞いたことある、という人が最も多いと思う。「足尾銅山鉱毒事件の人」。私の世代だと小学校の教科書でも習った。だが、ある世代以上の人だと名前すら聞いたことがないらしい。1970年代までは歴史の教科書にも載っていなかったからだ。

 私は残念なことに10代の時に教科書以外で田中正造と巡り逢えなかった。
 大人になってようやく『田中正造文集』を読み、もっと早く出逢っていたかったと思った。


先駆的思想家としての田中正造

 『田中正造文集』を読み、その思想の先進性とスケールの大きさに圧倒された。
 こんな大きな思想家がなぜ知られていないのだろう。田中正造のことを政治家、活動家と思っている人は多いだろうが、思想家と見ている人は少ないと思われる。
 本人も「思想家」と呼ばれるのは嫌かもしれない。建物の中に籠って机上の学問ばかりするようなことは、おそらく嫌いな人だった。
 それでもこの記事のタイトルに「思想」という言葉を使ったのは、正造の優れた思想家としての一面にもっと脚光が当たってほしいと思っているからである。

 田中正造は福島第一原発事故をきっかけに多くの人々に思い出されたが、この記事では反公害運動だけでなく、幾つかのエピソードも踏まえながら田中正造の思想の根幹に迫っていきたいと思う。


福島第一原発事故をきっかけに

 田中正造という名前は、一昨年2011年の東日本大震災をきっかけに多くの人に思い出された。

 田中正造の出身地は、その福島県のお隣りの栃木県。今から100年以上も前の明治時代に公害問題を国に訴え住民運動を展開した。
 今の時代の反原発運動と姿が重なる。

 そもそも、田中正造の名を有名にした足尾銅山鉱毒事件とは何だったのか。これは、その影響がじわじわと目に見えない、あるいは見えにくい形で出てくる事件だった。一気に何千人、何万人という人が亡くなったわけではなく、昭和の水俣病のように見た目に明らかな「奇病」が発生していたわけでもなかった。

 田中正造によればこの鉱毒事件による死者は全部で千数十人。しかしすべての人が「毒」で死んだわけではなく、鉱毒によって作物が枯れたり、治水対策という名目のために貯水池ができたことで水害が増えたりしたことで村民が困窮し、健康状態を悪化させた、という間接的な理由で亡くなった人も多かった。正造はそういう人も「鉱毒被害者」に含めて数えている。

 そういう被害の「わかりにくさ」も原発問題とよく似ている。
 実際、正造が問題として取り上げていなければ、足尾銅山鉱毒事件は「事件」とすら呼ばれていなかったと思える。


北の南方熊楠

 田中正造の思想は、相当、時代に先駆けている。有名な「公害問題」だけではない。「平和主義」、「人権」、「地方自治」等々、今では当たり前に認識されているこれらの概念を百年以上も前に理解し、訴えていた。

 私は和歌山が生んだ天才、南方熊楠を聯想する。熊楠は100年以上も前の日本でいち早く「エコロジー」という概念を理解してその言葉を使っていた天才だが、栃木の田中正造は宛ら「北の南方熊楠」のようであり、タイプの違うもう一人の天才であった。
 南方熊楠は家では常に素っ裸だったらしいが、田中正造は一年中、襤褸を纏っていた。そんなところも似ている。

 南方熊楠は大英博物館などの図書館で勉強するだけでなく、野山を歩いて菌類を採取するなど、実地の研究を重視した人だったが、田中正造も川の治水の在り方の根本を明らかにするために自らの脚で1800km以上歩き、徹底した実地調査を行なった。実証を重視するそんなところも似ている。

 さらに言えば、正造も熊楠も纏まった形で論文や本を発表することが少なかったために、世間からの評価が得られなかったところも似ている。どれだけのレベルに達していたのかさえ後世の私たちには分からず、残された厖大な日記や書簡を精査して、そのあまりにも巨きすぎる足跡を明らかにする作業が今もなお続けられている。


ユーモアたっぷりの人

 田中正造に実際に会ったことがないのでどんな人柄だったのかはなかなか分からないが、正造が残している手紙などの文章を読むかぎり「ユーモアたっぷりの茶目っ気のある人」という印象を持つ。
 そんな正造の人柄がわかる一つのエピソードを紹介したい。

 正造は「妻のことは名前で呼ぶべし」と言っている。
 普段、「オーイ」とか「コレコレ」などと呼んでいたが、ある時、東京から妻に葉書を出そうとして宛名を書こうとしたところ、妻の名前を一瞬思い出せなくて固まってしまった。その出来事が自分でもあまりにも可笑しかったので帰ってから妻に顛末を話すと妻はぶすっとして全然笑ってくれなかった。だからそれからは妻のことを必ず名前で呼ぶようにした、と。


前代未聞!歳費辞退

 明治32年、国会議員の歳費(月給)を800円から2000円に値上げしようという法案が提出された。この法案に一人断固として反対した変わり者の議員がいた。

田中正造君(百十六番) 皆様、私はこの修正案に反対致します。

併ながら理由書に現行議員の歳費を以てその資格を保つの資に供するに足らず、何でございますか、金が少いから議員の品位を保つに足らないと云ふのでございます


 怒る正造。そして、正造は議員の品格について語る。

もしそれ国家が富んで租税も減ずる、総て租税を安くすることになつたならば、或は我国家が挙げて議員の歳費も高くしてやつてもよろしいではないか、多くしてやつてもよろしいではないかと、国民の声が立つて来ても、議員たる者は容易に増加することは出来ない、それが議員の品位である、議員の資格である、これが即ち議員の資格であつて、八百円では足りないから、二千円にすれば、議員の資格が保てるとは、何等の不都合なる原案であるか、何等の理由であるか、斯の如き考を以て天下を料理されてたまるものであるか


 国の財政が厳しいと言いながら、国会議員の給料の値上げはやめましょうと言う議員は一人もいない。なぜなら自分たちの給料だからだ。
 そこで敢然一人、「こんな考えで天下を料理されて溜まるものであるか」と言い放つ正造はかっこいい。
 他に誰がこんなことを言えるか。

 で、正造はこの法案が交付されたその日に「歳費辞退届」を出すのである。国会であんな演説をしておいて自分が歳費を貰うわけにはいかない、と。これは受理され、正造は本当に給料を受け取らなかった。

 正造は国会議員の中でも最貧クラスの人だった。そんな人が歳費を辞退したのである。正造の他に誰がこんな真似をできるか。


正造の三つの敵

 私はここに田中正造の三つの敵を措定する。

 一つは古河市兵衛。古河鉱業の創業者で足尾銅山で銅の採掘事業をやっていた人物。これは金銭欲の象徴。

 二つ目は、三島通庸。当時の栃木県令(県知事)。これは権力欲の象徴。

 この二つが田中正造の敵であったことは誰にでもわかる。正造は金銭欲や権力欲に塗れた人間と闘っていた。

 だが、三つ目の敵はわかりにくい。

 三つ目の敵は、地元の人々であったと私は思っている。
 正造が助けようとして共に闘っていた地元の村の人々。
 正造は地元の人々の「しょうがない病」と闘っていたのだ。
 つまり、「銅を採掘するにあたって、多少の鉱毒が流れ出るのはしょうがない」とか、「貯水池を作るにあたって土地を収用されるのもしょうがない」とか。

 私はこれを日本人の「しょうがない病」と呼んでいるが、正造は「日本魂」と言って批判している。


日本魂批判

 「日本魂」とは見慣れない言葉だが「にほんだましい」という言葉は聞いたことがないので「やまとだましい」と読むのだろう。

 田中正造は、「やまとだましい」の本質をいち早く見抜き批判することのできた人物である。

 少し長いが、正造の日本魂批判を引用しよう。

見ヨ、隣家ニ盗賊来リテ財ヲ奪ヒ去ル、人ハコレヲ油断ナリトアザケルモ、コノ盗メルモノヽ心ヲ憎マズ。此クシテ己レノ家ノ財ヲ奪ハレ、身ニ傷ケラルヽモ、コレヲ運命ナリト思ヘリ。甚シキハ、天災ナリト思ハシムルモノアレバ、天災ナリト信ズルニ至レリ。信頼習慣ノ久シキ、人ニ殺サルヽモ天災ナリト信ズルアリ。スベテ災害ヲ天災トシテ怪マザルハ、コレ日本ノ根性トナリ。サレバ日本魂アリトイヘドモ、根本ガ信頼ニヨレル魂ニシテ、自動的日本魂ニアラザルナリ。魂ヲ信頼ス。汝ヂ自身ノ魂ニハアラズ。他ノ必用ニ応ズル魂ナリ。日本ハコレヲ日本魂ト云ヘリ。


 カタカナでは読みにくいだろうと思うので、以下に意訳してみる。

(意訳、現代語訳)
見よ、隣の家に泥棒が入った。人々は盗まれた人に対して「油断だ」と言うが、盗んだ人のことは批判しない。こうして家の財産を奪われ、身体を傷つけられても、それを「運命だ」と言う。もっとひどいのは「天災だ」と言う人もいる。あらゆる災害を天災だと思って疑わないのは、日本人の根性になっている。だから「日本には大和魂がある」と言ってもその本質は他者に依拠している魂であって、自ら動く魂ではない。自分自身の魂ではなく、他者の必要に応じる魂である。日本人はこれを大和魂と言っている。


 大和魂の本質を見抜き、いち早く批判できたのは田中正造。「自動的ではない」と喝破した見事な批判である。


漱石「現代日本の開化」と正造の「無日本論」

 私は正造のこの一文を読んだ時、夏目漱石の次の有名な言葉を思い出した。

それで現代の日本の開化は前に述べた一般の開化とどこが違うかというのが問題です。もし一言にしてこの問題を決しようとするならば私はこう断じたい、西洋の開化(すなわち一般の開化)は内発的であって、日本の現代の開化は外発的である。ここに内発的というのは内から自然に出て発展するという意味でちょうど花が開くようにおのずから蕾が破れて花弁が外に向うのをいい、また外発的とは外からおっかぶさった他の力で已むを得ず一種の形式を取るのを指した積なのです。


 これは、漱石の「現代日本の開化」という講演中の一文である。「西洋の開化は内発的だが日本の開化は外発的」というこの漱石の指摘の件は夙に有名である。

 正造の「自動」と漱石の「自然」という言葉の違いには慎重な注意を要するが、それにしても「日本は自(みずから、おのずから)ではない)」という指摘、正造の「他者の必要に応じる魂」と漱石の「他の力で已むを得ず一種の形式を取る」という指摘はびっくりするくらい似ている。

 私はひょっとしたら、どちらかがどちらかの言葉を聞き知ってて影響を受けたのではないかと思い、この二人のどちらが先にこの発言をしたのかを調べてみたが、驚いたことに、どちらも明治44(1911)年8月の発言だった。

 漱石の方は明治44年8月の和歌山の講演会での発言である。正造の方は同じく明治44年8月の日記に「無日本論」というタイトルで書かれている。

 年だけではなく月まで一緒。

 違うのは、漱石の言葉は、明治時代の文明開化の本質を見抜いた言葉として広く知られているのに対して、正造のそれはほとんど知られていないという点だ。

 漱石は「開化」、正造は「日本魂」について語っており、語っているテーマは違うものの、正造の思想レベルは決して漱石に引けを取るものではない。
 少なくとも漱石と同時期にそこまでの本質を見抜いていた人物が漱石以外にもいたということだ。

 この本質は現代でも変わらない。
 街の古い建物が取り壊されるというニュースがやっている。跡地には高層マンションが建つのだという。TV局が地元の人にインタビューしている。地元の人は「んー、なんか寂しい気もするけどね。まあ、でもこれも時代の流れだからしょうがないね」。

 こういう科白を私は何人の口から何回聞いてきただろう。「時代の流れだからしょうがない」。
「しょうがない病」は現代の日本人にも脈々と受け継がれている。

「でも、そんなこと言ったって実際、しょうがないでしょう。『私は古い建物が取り壊されてマンションが建つのは嫌です』って言ったって計画を撤回させられるわけじゃないんだから。そういう、自分の力ではどうしようもないことに文句を言うんじゃなくて、まずは自分にできることからやりなさいよ」

 こうした謂いを人生で何人の口から聞いてきたことだろう。

 社会の問題を「自分の力ではどうしようもないこと」と勝手に決めつけて放棄し、「まずは」と言って勝手に優先順位を決め、「自分にできることから」と勝手にできる範囲を制限する。

 正造は「しょうがない」とは言わなかった。


何ができることで何ができないことか

 正造の言葉が一つ一つTwitterのツイートだったら、私はほぼすべてにスターを付けているかもしれない。
 それぐらい正造の言葉はここで全部紹介したいぐらいなのだが、それでは『正造文集』を読んだ方が早いということになってしまうので、私が特に気に入っている言葉を一つ紹介しよう。

今の世の人ハ天災を救ふ事をしれども、人為を以て災を来す事を救ふに乏し。甚しきハ人の造れる災までも、天災と名けて欺けバ救金を出す。人造と申せバ救ふの心なし。(中略)人造ハ予め救ひ得るなり。予め救ひ得べきものを救はずして、救ふべからざるを救ふハ未だ文学の何たるをしらざるに原因す。


 念のため、現代語訳。

今の世の人々は、天災に遭った人を助けようとはするけれど、人災に遭った人を助けようという心に乏しい。ひどいのは人がつくった災いでも「天災だ」とごまかせば義捐金を出す。「人災だ」と言えば誰も助けようとしない。
人がつくったものは、あらかじめ救うことができるものである。あらかじめ救うことができるものを救わないで、救うことが不可能なものを救おうとしているのは、文学の何たるかがわかっていないからである。


 田中正造は自身が「正しく造る」という名前なのに、徹底的に「造る」を批判した人だった。いや、正しく造るという名前の人だったからこそ「人造」や「人災」を見抜く天才だったのかもしれない。

 「文学の何たるをしらざる」という、この痛烈な批判に現代の私たちは耳を傾けなければいけない。

 ここで正造は、何ができることで何ができないことなのかを語っている。
 そして、不可能なことを「できる」と言い、可能なことを「できない」と真逆のことを言う「今の世の人」たちを批判している。

 もしそれが本当に天災ならば、それはもうどうしようもない、と正造は言う。これは大きい意味を持つ。「しょうがない」を拒んだ正造が「しょうがない」という時、それは逆説的な意味を持つ。それは「天災とは何か。それは本当に天災なのか」という強烈な問いを突きつけているからだ。

 天災の坩堝にある人災を看過することは正造にとって耐えられないことであった。


甦る谷中の思想

 田中正造の思想を、その住んでいた村の名から「谷中の思想」という。
 正造が亡くなって100年が経つ現代でもなお、谷中の思想は必要とされている。

 田中正造は人間に「何ができるか」を身をもって示した一人の傑人。

 現代の人々も、人が為したことを、「自然」と言ってごまかしている。自然とは「おのずから、しかり」、「おのずから、そのようにある」ということである。
 あるいは「時代の流れ」という言葉でごまかす人もいる。

 何れも行為の主体が意図的にまたは無自覚的に捨象されている。

 
歿後100年、甦る田中正造

 2011年の東日本大震災をきっかけに田中正造の先進性がクローズアップされてきている機運がある。

 しかしまだまだ足りない。ただの活動事蹟だけではなく、その思想の先進性や雄大さは、もっと知られるべきだと思う。

 どうして田中正造の知名度は今ひとつなのだろう。栃木県内ではよく知られているのだろうか。あるいは佐野市内なら誰もが知っている有名人なのだろうか。だが、「高知県と言えば坂本龍馬」や「岩手県と言えば宮澤賢治」というほど全国的に知られているとは思えない。
 栃木県はもっと郷土の偉人としてPRしていくべきではないか。

 ウィキペディアの「田中正造」の項は英語版すら存在しない。
 正造と交流の深かった「巣鴨の聖人」、新井奥邃などは日本でも殆ど名を知られておらず、むしろ海外での研究の方が進んでいるくらいだ。

 田中正造がほんの束の間にも寸暇を惜しむように日記を書きつけていた、というエピソードが心に残る。必死で後世に訴えたいことがあったのだろう。
 正造は纏まった本を書いたりはしていないから、日記や書簡からしかその思想を窺い知ることはできない。正造の日記が後世に伝わり、こうして文庫版で読むことができるのは有り難いことだ。

 田中正造は口だけの人ではなかった。

 人々のために闘い、亡くなった時は、ほとんど一銭の金も持っていなかった。

 私は以前、「花の名など知らなくていい」とTwitterでツイートしたことがあった気がする。

 今回あらためて『田中正造文集』を読んで、似たようなことを言ってる箇所を見つけて嬉しくなった。

山野ニ出でゝ多くいろいろな草花を見よ。花の奇麗なニハ眼も心も奪はる。而もその花の名をしらぬと同じ。この人々が花ニ楽しむハ自然の楽しみなり。造りて楽むニあらず。山ニ草苅りニ来たり、他の用事の序に山道を往来するときニ見るのである。



 歿後100年を機に、もっと田中正造が知られてほしい。




※文中、田中正造の言葉の引用はすべて『田中正造文集』(岩波文庫)より



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(2005/02/16)
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