暫定龍吟録

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2014年06月の記事

「やればできる」批判

 「なんだぁ、やればできるじゃん!」

 「ほら、あなたは、やればできるのよ」

 こういう言葉を口にする人は多い。

 そういう人たちが重視しているのは「やればできる」の後半三文字、即ち「できる」の部分。前半三文字「やれば」の部分は無視しているか、ほとんど見ていない。「やれば」軽視、「できる」重視。

 この「やればできる」という言葉に違和感がある。前半三文字の「やれば」を誰も問題にせず、後半三文字の「できるかできないか」ということばかり問題にする。

 「できるかできないか」という問題の前に「やるかやらないか」という問題がある。


「できる」の前に仮定を置いてはいけない

 「この本を読めば、貴方の人生が変わります!」
 「この本を読めば、劇的に痩せられる!」
 「この本を読めば、英語がペラペラに!」

 痩せられるということについては異論はない。科学的根拠がないとか批判するつもりもない。問題はその前の部分、「この本を読めば」というところだ。

 以前、こんな記事を見かけた。

ウソくさく感じる自己啓発本のコメント1位「やればできる」→「できないから悩む(30歳女性)」 | 「マイナビウーマン」

調査期間:2013/6/4~2013/6/10
アンケート対象:マイナビニュース会員
有効回答数:男性348名、女性430名(ウェブログイン式)

Q.自己啓発本でウソくさく感じる言葉を教えてください(単一回答)

1位 やればできる 22.9%
2位 今すぐ実践すれば成功する 17.4%
3位 願えばかなう 16.2%
4位 潜在能力に気付いていないのでは? 11.1%
5位 心が変われば行動が変わる 9.0%

・「できないから悩んでるんだ、と思う」(30歳女性/情報・IT/事務系専門職)
・「あなたにできても、他人にできるとは言えない」(47歳男性/情報・IT/技術職)
・今すぐ実践すれば成功する「これが本当なら、世の中成功者だらけ」(22歳女性/医薬品・化粧品/クリエイティブ職)


 この記事を書いた人は、「やってもできないから本に救いを求めているわけで……。」と結んでいる。

 しかし、違う。
 みんな、こうした言葉をウソくさいと感じていながら、なぜウソくさく感じられるのかが分かっていない。
 
 この1位から5位までの5つの回答のうちの4つに、「ば」が含まれていることに注意してほしい。
 「やれば」、「実践すれば」、「願えば」、「変われば」。
 この「ば」が曲者なのだ。
 この「ば」は、「もし◯◯すれば」という仮定の「ば」である。


右足を出して左足を出せば歩ける

 「あたりまえ体操」という歌がある。
 「右足出して〜、左足出すと〜、歩ける♪」

 これは、当たり前だ。
 歩けるかどうかは、さして重要じゃない。
 問題は右足を出すことや左足を出すことだ。例えば、身体障碍者など足が無い人は右足を出したりできない。
 「できる」の前に「○○すれば」という前提を置くと、その前提の方ができるかどうかが問題になってくる。「歩くことができるかできないか」ではなく「右足を出すことができるかできないか」が問題になってくる。
 「痩せることができるかできないか」の前に、本に書かれていることを実行できるかできないか、が問題になり、さらにその前にその本を読むことができるかできないか、が問題になってくる。例えば、その本を買うだけのお金がない、とか、太りすぎて本屋まで足を運べない、とか。

 「やればできる」というのは、これと同じで当たり前のことを言ってるにすぎない。
 ややこしい言い方になるが、「できるかどうか」ではなく「やることができるかどうか」が問題になってくる。

 こうした言い方の有名なもので最たるものは、宗教者が口にする「信じる者は救われる」である。信じる者と信じない者を差別している。
 これに対し、「私も胡散臭いと思ってたんだよね。本当に救われるの?」と言う人は多い。しかし、批判すべきポイントはそこではない。
 この言葉の胡散臭さは、やはり「○○だったら(信じる者だったら、信じれば)」という仮定・前提を設けてしまっているところにある。
 仏は遍く衆生を救うのではなかったのか。千手観音は何のために千本も手があるのか。

 「まあ、要するに、それなりのお金をいただければ救いますよ、ということです」

 だとすれば、その手は、金を持ってる人間と持ってない人間を選り分ける汚れた手である。

 「彼女はピアノが弾ける」。

 そうは言えない。
 なぜなら、この部屋にはピアノが無いから。
 この部屋にピアノを持って来ることができるかどうかが問題になる。
 「ピアノが弾ける」とは、目の前にピアノがあって、その鍵盤をポーンと弾いた瞬間に初めて「弾けた」と言える。

 「この部屋にピアノがあれば、彼女はピアノが弾ける」

 そんなこと言ったら、私もピアノが弾ける。
 これから毎日10年間、練習すれば。

 なんてふざけた言い方!と思うだろう。その毎日10年間の練習ができるかどうかが大事なのに!と。

 「○○すれば○○できる」という言い方をしてはいけないのである。


「やる」ことと「できる」ことは分けて考えなければならない

 以前、爆笑問題が漫才で
 「オリンピック陸上男子百メートルで金メダルを取ったウサイン・ボルトは世界最速の男。ジャマイカで2番目に速いんだって」
 「じゃあ、その1番のやつ連れて来いよ!」
というネタをやっていた。

 「やればできる」という言葉を口にする人たちの背景にあるのは、「やる」ことと「できる」ことを一緒にしてしまう思想だと思う。

 「できるかぎりのことをやりなさい」と言う人がいる。
 危ない考え方だ。
 できるかぎりのことをやってはいけない。
 「できるかできないか」ということと「やるかやらないか」ということは分けて考えなければならない。

 普段から、できるかぎりのことをやっていたら、それで悲劇や惨事が起こった場合にどうするのだろう。もうどうしようもない。その悪い事態を回避すべき余裕がない。

 「俺は100メートルを8秒で走れる」と言う人が現れたらどう思うだろう。

 「嘘つけ。じゃあ、なんでお前はオリンピックで金メダル取ってないんだよ」

 「オリンピックに出てないから」

 「出ればいいじゃん。出れるだろう?」

 「出たくない。金メダルも欲しくない」

 「じゃあ、とりあえずここで走ってみせろ」

 「疲れるから嫌だ」

 「走ってみせないと誰も信じないよ?」

 「いいよ」

 私はこういうことはあり得ると思う。と言うか、あらねばならない。

 ウサイン・ボルトより足が速い人はどこかに必ずいる。ウサイン・ボルトが人類の極限だったら、もう人類に望みはない。ウサイン・ボルトは「“今、判明しているかぎりの”世界で1番足が速い人」である。


「できる」ラインと「やる」ラインを揃えてはいけない

 私は子どもの頃から、意識的に「できる」ラインと「やる」ラインをずらしてきた。

 「できる」ラインと「やる」ラインを揃えてはいけない。

 「できるかできないか」という問題と「やるかやらないか」という問題はまったく別問題である。
 ところが、普段からその両ラインを一緒にしてしまっている人は、この二つの問題を区別できない。

 この二つの問題を区別する習慣が普段から付いていないから、アインシュタインが「原子爆弾は作れるよ(理論的には)」と言ったら、「じゃあ、作ろうよ」となってしまう。
 「できる」ラインと「やる」ラインを一緒にしてしまっているのである。
 原子爆弾を作ることができるかどうかという問題と、実際に作るかどうかという問題は別問題である。


「やれるけどやらない」という態度

 「やればできる」の後半三文字を重視するあまりに、前半三文字が軽視されすぎていると感じる。

 そこにあるのは、今の環境を考えることの軽視である。

 例えば皆、英語能力の向上には関心を寄せるが、英語が使われる環境については考えない。
 鎌倉時代の日本に英語ペラペラな自分が生まれ落ちたらどうなるか。その卓越した英語力は一生の内で使う機会があるのだろうか。

 「できるかできないか」ということより大切なのは「やることができるかできないか」である。

 英語の才能よりも、英語を使うことが「できるかどうか」を考えることの方がはるかに重要である。

 そして、もっと大切なのは「やるかやらないか」である。
 英語を話すか話さないか、という問題である。

 100メートルを8秒で走れるか走れないか、という問題の前に、そもそも100メートルを走るか走らないか、という問題があるはずなのだ。
 走らないで車で移動する、という考えもあるし、100メートル先に移動するべきではない、ここに留まるべきだ、という考えもあるだろう。
 「100メートルを8秒で走ろうと思えば走れるけど走らない」という科白を聞いたら、多くの人は「中二病」、「何もしたことがない奴の謎の全能感」などと嗤うだろうが、私はこういう態度は重要であると考えている。


「やれば」を考えよう

 子供の頃からずっと、「やればできる」という言葉に対して違和感を持って来た。

 この言葉を口にする人は「できるかできないか」ということだけ考え、「やれば」のことはほとんど無視している。
 「やる」ことは当然のこと、自明のこと、簡単なこと、と思っている。

 「やればできるよ!」
 「やればできるさ!」

 人がそう言うとき、私は心の中で「そりゃそうだろう」と呟いている。
 私には、後半三文字に力点を置いた「やればできる」は、大した意味を持った言葉には聞こえない。
 「右足出して左足出すと歩ける」というのと同じ、“あたりまえ”のことを言ってるだけのようにしか聞こえない。

 もしかしたら、こういうことを言う人は、励まそうと思って善意で言っているのかもしれないが、「やればできる」という言葉のあまりの一人歩きは環境の軽視や「やるかやらざるべきか」という大事な問題の軽視に繫がる。

 過ちを犯したのはアインシュタインだけではない。オッペンハイマーもノイマンもファインマンも、世界に名だたる科学者、数学者が、原爆を「作れるか作れないか」という問題には関心を持ったが、「作るか作らないか」いう問題については考えられなかった。

 どうしてこんなに後半三文字に重点が偏ってしまっているのか。

 それはおそらく、人々の間で「できる」ということはどういうことか、という認識が変化してきた歴史と関係があるように思う。
 以前、『「できる」とはどういうことか』という記事を書いた。
 掻い摘んで言うと、現代の人々は「できる」を才能や能力、あるいは可能性の意で捉えている。しかし、元来、「できる」は「出で来たる」、つまり「出現する」「実現する」の意であった、というのが私の主張である。

 これからの時代は科学技術の進歩に伴い、人間に可能性として「できる」ことは飛躍的に増えていく。「できるかできないか」だけを問うのなら、ほとんどの答えは「できる」になる。
 だからこそ、普段から「できる」ことと「やる」ことを分けて考える生き方が重要になってくる。
 みんながみんな「できるかぎりのことをやる」などという生き方をしていたら、可能性を拡張してきたはずの人類はいつの間にか金輪際に立ち、退っ引きならない極限の中で、単一のラインしか残されていない人生を辿ることになるだろう。自由を広げようとして逆に不自由に陥るという皮肉を味わうことになる。

 後半三文字から前半三文字へと重点をシフトしていくことで、こうした事態を回避したい、と私は考えている。

 「やれば」を考えよう。


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