暫定龍吟録

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2014年08月の記事

「教育家」益軒 -貝原益軒没後300年-

 江戸時代の本草学者・儒学者、貝原益軒が亡くなってから今日で300年になる。

 学生時代に益軒を読んだ。
 益軒と同時代の山崎闇斎などは私はどうしても好きになれなかったが、益軒は気持ちよく読めた。

 益軒は交遊の広い人で、一度会った人とはだいたい親交を深めているが、山崎闇斎とは京都で会っているにもかかわらず、その後親しくなっていない。おそらく馬が合わなかったのだろう。それはなんとなく分かる気がする。


教育家、益軒

 益軒とは何者かと言うと、もちろん儒学者だが、しかし他の儒学者とは毛色が違う、と私は思っている。

 儒学者というのは、今で言えば、思想家・哲学者である。
 益軒は儒学者として名をなしていたし、当時の高名な儒学者たちと議論もしている。
 だが、他の儒学者たちとはちょっと違う。

 哲学者ならば、何が「真」で何が「偽」か、何が「正」で何が「非」か、ということを侃侃諤諤、それこそ夜通しで論を闘わせることだろう。
 だが、益軒はそのような「闘論」にはあまり加わらない。

 例えば、『大疑録』中の次のページ。

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 漢字ばかりで、ぱっと見、わかりにくいが、簡単に言うと「言い方もあるよね」と言っている。

 私は益軒のこういうところが好きだ。
 どちらが正しくてどちらが間違っているか、ということよりも言い方を重視したりする。いくら正論であっても言い方には気をつけなければいけない。

 こうした、論の正しさよりも、言い方の方が気になってしまうのは、益軒が儒学者である前に教育家であった、ということなのだと思う。哲学者だったら、論の正しさの方が気になるはずなのだ。


高校の先生、益軒

 益軒は、現代で言えば、宛ら、地方の高校の先生みたいだ。

 林家や昌平坂学問所の「御用学者」(今はこう言うと意味合いが変わってきてしまうけど)たちが東大教授だとすると、益軒はまるで福岡の高校の先生のようである。

 近隣の天文学者たちと天文サークルを作って天体観測会を開いたりして、弟子たちを参加させたり、まさに高校の先生が企画する「夏の体験学習」みたいだ。

 益軒は当時、最先端の中国の学問にもよく通じていた。本草学も医学も朱子学も陽明学も常に最先端の学問に通暁していた。
 益軒ほどの博識を持っていた人間なら、難しく書こうと思えばいくらでも難しく書ける。だが、多くの文章を一般庶民にも読める平易な言葉で書き著した。

 益軒は「哲学」よりも「教育」を重んじていた。
 益軒のこういうところが、「教授」ではなく「先生」っぽいと感じる。

 益軒はとても身近な感じがする。


晩年の名著『大疑録』

 益軒がその晩年に著した『大疑録』は、益軒の思いが詰まった心を動かされる書だ。

 「譬へば、道路を行くが如く然り。行き行きて休まざれば、則ち岐あるに逢ひて、その正路を知らず。故に疑ふ。迷ひて行く能はず。故に問はざる能はず。もし道路を行かざるの人ならば、何の疑ひかこれあらん」
という序文で始まるこの書は、儒学者益軒がその人生を賭して、まさに畢生の作として抛った「疑い」である。

 当時の「正当な」学問である朱子学に疑義を挟むことは儒学者として許されない行為であったが、もう余命も少ないことだし、最後に問うておきたい、という気持ちで書いたのだろう。


「無極」批判

 『大疑録』の中で、益軒は、儒教の教えでは昔から「はじめに太極あり」と言ってきたものを朱熹が「無極」と言い換えていることを批判している。
 無(無極)から有(太極)が生まれるなどという考えは、老子や仏教の考えだといい、「大抵理學諸儒、其學術多禅寂之意(哲学者の諸先生は大体において学風に禅学趣味が多い)」と皮肉っている。

 これは、益軒のオリジナルの考えではなく陸象山に依っているかもしれないが、鋭い視点である。朱子学者たちの実存性の無さを批判している。日本においては、徂徠の「聖人がつくった道」に比肩する、もう一つの朱子学批判である。


益軒のバランス感覚

 『大疑録』などを読んでいると、「朱子学を濫に批判するのはよくない」と言ったり、かと思うと、「朱子学を妄信するのはよくない」と言ったり。いったい、「益軒先生!あなたは朱子学賛成派なんですか?それとも反対派なんですか?どっちなんですか?」と言いたくなる。

 しかし読んでいて主張が一方的ではなく、一冊の書の中にさえ言ってることの矛盾が見られるような書というのは、その著者がバランス感覚を持っている証拠とも言える。そして、このバランス感覚こそ、教育家として必要なものなのだ。

 
損軒先生の尊見

 益軒は晩年に「益軒」を名乗るまでは、ずっと「損軒」を名乗っていた。

 益軒の魅力は、どこまでも人々の人生の実態に則した思想を説いたところにある。

 いわゆる「女大学」などは、いかめしいおじさん学者が女の生き方を雁字搦めにする、おせっかい説教、と“誤読”されることもある。
 しかし、それは違う。当時の女性たちの悩みに応じて、“生きやすさ”を提示しているところに益軒の思想の特徴はある。
益軒自身、妻の多趣味を支持し、夫婦であちこち旅行にも出かけている。人生を如何に楽しむかということに主眼を置いている。

 現実を追いかけるというほどの「現実主義」ではないが、現実をまったく離れてしまっている机上の空論でもない。

 博学であった益軒は、しかし徒に空理に走ることなく、人々の人生の実態に則した言葉を説きつづけた。
 かと言って、真理の追究に興味がなかったわけでもない。益軒は、ものの言い方や文章の書き方、そして日々の生き方さえも「真理」の一つと見ていたのだ。
 この「尊見」はもっと高く評価されていい。

 益軒の魅力は尽きるところがない。
 『養生訓』を書き、実際、自ら長生きした益軒。
 『養生訓』は現代でもいくらか読まれているが、『樂訓』など、もっと多くの著書が読まれていい。

 「無極」批判にも看て取れるように、益軒の思想は根本的に「ない」ではなく「ある」から始まっている。
 だから、益軒の思想は圧倒的な人生の肯定に満ちている。

 歿後300年を機に、もっと貝原益軒の魅力が知られたらいい。

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