暫定龍吟録

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2014年11月の記事

“日本のケプラー” 高橋至時の夢 〜生誕250年〜

 江戸後期の暦算天文家、高橋至時(たかはしよしとき)が生まれて、今年で250年になる。
 
 高橋至時は、その実力や実績に比しても、現代の日本で知名度が低い。

 弟子の伊能忠敬は、現代でも超有名人であり、人気者だ。
 また、江戸時代の数学者という括りなら、吉田光由や関孝和、建部賢弘あたりが有名だ。あるいは暦算家で言えば、私は見ていないが数年前に「天地明察」という映画が流行り、渋川春海が少し知られるようになったようだ。

 だが、高橋至時は脚光を浴びない。

 生誕250年という記念すべき今年に、高橋至時という人物と、彼が追い求めた夢について思いを巡らしてみたい。

 この記事の登場人物の簡単なプロフィール

 高橋至時・・・暦算天文家。寛政暦を作る。

 高橋景保・・・至時の長男。シーボルト事件に連坐して獄死。

 渋川景佑・・・至時の次男。渋川家に養子に行って天保暦を完成させる。

 伊能忠敬・・・日本地図を作った人。至時に師事。至時没後は、景保に師事。


日本のケプラー

 高橋至時は、惑星は太陽の周りを楕円軌道するというケプラーの法則を最も早く理解した日本人の一人だ。

 至時は数学の天才だった。
 オランダ語の語学力に関しては「できた」とする説と「できなかった」とする説があるが、「ところどころ読める」というレベルではなかったかと思う。

 オランダ語の語学力がいまいちだった至時は『ラランデ暦書』を、ほぼ数式や図だけを頼りに解読したのだ。
 これは、ずば抜けた数学の才能があったからこそできたことである。
 そして地球が完全な球体ではなく南北に潰れた楕円の形をしていることなども最も早く認識した日本人の一人であった。


至時と寛政改暦

 至時の業績と言えば、何と言っても「寛政暦」を作ったことだが、しかし、この寛政暦の「完成度」はそんなに高くない。

 江戸時代に公式に使われた暦は五つある。

 宣明暦(中国製)江戸前期
  ↓
 貞享暦(初の国産)江戸中期
 ↓
 宝暦暦(改悪?)江戸後期
 ↓
 寛政暦(修整版)江戸後期
 ↓
 天保暦(究極版)江戸末期

 宣明暦は、それまで日本でずっと長く使われていた中国製の暦。
 貞享暦は、初の「国産」の暦。
 宝暦暦は、「改悪」とも言うべき、出来の悪い暦。
 で、宝暦暦の後に作られた寛政暦は、とりあえず酷すぎる宝暦暦を「まとも」に直すために作られた。

 至時は、寛政暦が「完成形」だと思っていたわけではなく、もっと究極の理想の暦が作れるはずだと思っていた。幕府の命もあり、とりあえずのものを作りはしたが、もっと改良の余地があると思っていた。


至時と伊能忠敬

 至時の高弟に、伊能忠敬がいる。

 伊能もまた、数学や理科の才のある実力者だった。

 伊能忠敬は日本全国を踏破して日本地図を完成させたことで有名だが、東北や北海道方面への測量行脚には、完璧な日本地図を完成させること以外にも別の意味があった。
 それは至時が天文学的な興味から、地球の緯度一度の正確な距離を知りたがっていたことだ。
 大坂や九州など西日本の方は比較的、距離も地図もよく判っていたが、江戸から東西にいくら動いても緯度は求められない。緯度を求めるには南北、すなわち江戸から北方向への距離を測る必要があった。

 しかし当時はまだ、「地動説」とか天体の動きとか、そんなことには誰も興味も関心も持っていない時代。
 幕府のお役人たちは多少、高学歴な人が多かったかもしれないが、それでも地球の大きさとかそんなことはどうでもよかった。
 「緯度が知りたいから」などという名目では幕府からの助成金が下りない。なので、「弟子の伊能に測量させて、この日本の国の形を明らかにします」という名目で幕府からの支援を受けることに成功する。
 伊能の地理学的興味と師匠の天文学的興味の見事な融合だった。


シーボルト事件

 41歳の若さで亡くなった至時。
 家督を継いだ長男の高橋景保は、学問的興味が昂じるあまり、ついに外国書の入手と引き換えに日本地図をシーボルトに渡してしまった。

 捕まって投獄され、そのまま死因不明で獄死する。
 しかもその後死体が引き出され、あらためて斬首という酷たらしい処刑であった。

 景保が捕まったのは、間宮林蔵の密告があったからだとも言われている。この二人の間には確執があったとも言われている。
 景保と間宮を繋ぐのは、景保の弟子であり、間宮の師匠であった伊能忠敬。

 このシーボルト事件の時、伊能忠敬はすでに生きていない。
 伊能がもう少し長生きしていたら、どうなっていただろう。伊能は地位こそ高くなかったが、実力者であり、幕府に大きな貢献もしている。自分の師匠の釈放を働きかけたのではないだろうか。そして、その前に弟子の間宮林蔵の動きを牽制したかもしれない。

 幕府天文方を務め、亡き父の「究極の暦を作る」という夢を継いだ景保の夢は潰えた。
 そしてその夢は弟に託されることになる。


悲願の天保暦

 史上最高の暦と言っても過言ではない天保暦。天保暦は、現行のグレゴリオ暦よりも太陽年の誤差が少ないとても精緻な暦だ。
 天保暦は高橋父子にとっての夢だった。
 その夢を実現したのは、至時でも、家督を継いだ長男・景保でもなく、次男の渋川景佑だった。

 苗字こそ変わっているが、亡き父と兄の悲願を達成するために並々ならぬ努力をしたに違いない。


旧暦2033年問題

 ところで余談だが、この高橋父子が後世に残した課題(?)に「旧暦2033年問題」というものがある。
 旧暦2033年問題がどういう問題であるかを詳説すると長くなるので、興味のある方は国立天文台のサイトかWikipedia(旧暦2033年問題)を見てほしい。
 簡単に言うと、現行の暦(旧暦ではない!)の西暦2033年に、旧暦の月の数字が決まらなくなり、8月の再来月が11月になってしまったりする現象が起こる(ことが心配されている)という問題である。

 だが、これは、置閏法のちょっとした瑕疵であり、これがために天保暦はひどい暦だと言えるようなものではない。

 ところで、現在、日本で「旧暦」と言う場合には一般的に現行の暦の一個前の暦である天保暦のことを指す。
 中国や韓国では今でも旧正月など旧暦で祝い事を行うことが多いが、中国、韓国で「旧暦」と言う場合は、一個前の中国製の暦である「時憲暦」を指す。

 時憲暦と天保暦は、どちらも太陰太陽暦であり、かなり似ている。
 時憲暦では「旧暦2033年問題」は起きないと言われているので、日本におけるこの問題を解決する方法としては、置閏のルールを中国式に変更すればいい、ということになる。
 だから、「問題」というほど大きな問題ではない。

 私は、この旧暦2033年問題の本当の「問題点」は別にあると思っている。

 それは、置閏のルールを“誰が”変えるのか、という問題だ。

 旧暦というのは、「今は使われていない昔の暦」なので、国も管理していない。
 カレンダーや手帳に旧暦が併記されているものもあるが、あれは業者が「勝手に」書いているだけだ。国立天文台は管理していない。

 つまり、私は、旧暦はパブリック・ドメインに近い状態にあると思っている。

 言わば“著作権者”である渋川景佑が亡くなってから150年以上が経ち、この些細な置閏のルールをいったい“誰が”、“公式に”変えていいのか、という問題がある。


高橋父子の夢


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 麗らかな秋の日、高橋至時の墓を参った。

 側面には尾藤二洲の撰文。


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 すぐ右隣には伊能忠敬の墓。伊能が「自分が亡くなったら師匠の隣に」と願っていたからだ。

 しかしその尊敬する師匠を上回る大きさの堂々とした墓石。

 そして至時の墓から、ちょっと左に離れたところに長男、景保の墓がある。

 伊能忠敬、高橋至時、高橋景保の墓は同じ並びに並んでいる。


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(右から伊能、至時、景保の墓)

 私は、この景保の墓を見たとき、胸がきゅんとなった。
 だって小さい。そして新しい。


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 この墓がいつ建てられたものかは分からないが、後ろの石碑は昭和九年に建てられたものだ。
 「罪人」は長いこと墓すら建ててもらえず、昭和時代になってからやっと名誉を回復して慎ましやかな墓が建てられたのだろう。


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 石碑には「為天下先」の文字。


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 そして、碑文には「志伊慕留土事件(シーボルト事件)」の七文字が。


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 また、石碑の裏面にはシーボルトの言葉が刻まれている。逆光でよく読めなかったけれども、おそらく景保をはじめ、日本の友人たちの多くが自分を助けてくれたことへの感謝の言葉が刻まれている。


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 アップで見ると「Cakujajemon」の文字が見える。「作左衛門」は景保の通称である。

 次男の景佑は渋川家に養子に行ったため墓はここにはないが、若くして亡くなった父と兄の無念はずっと心に継いでいたに違いない。
 そうして、天保暦という史上最高の暦を結実させた。天保暦は太陰太陽暦の掉尾を飾るに相応しい暦であった。

 その天保暦は、明治維新後、あっけなく西洋の太陽暦(グレゴリオ暦)に換えられ、公的暦として活躍した時期は短かった。

 しかし、天保暦が人々の生活の実用に貢献した時期が短かったからと言って、高橋父子の努力が無駄であったということはない。
 この努力は日本の天文学の進歩に大きな足跡を残した。

 そして、このような高精度の暦ができたおかげには、高橋至時が身体を削ってまで『ラランデ暦書』を解読し、西洋天文学を取り入れた功績が大きい。

 小惑星「至時」にもその名を残す、江戸時代の天文学者、高橋至時。
 その先駆的業績はもっと知られていい。


【参考文献】

  • 中山茂『日本の天文学』(岩波新書)

  • 『日本思想大系・洋学下』(岩波書店)

  • 『日本思想大系・近世科学思想下』(岩波書店)

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