暫定龍吟録

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2015年02月の記事

偏差値型の男、内申型の女

 この小稿は、男が女を見るときは「偏差値的」に見て、女が男を見るときは「内申的」に見ている、ということを書いた一種の類型論である。
 「主語がでかい」とか「内申型じゃない女の人もいます」といった批判もあるかもしれないが、もちろん、すべての女(または男)がそうだというわけではない。世界35億人の女(または男)が一人残らず同じタイプだなどということはあり得ない。
 女(男)には、ゆるやかにこういう傾向があるのではないか、という一つの物の見方として楽しんで読んでいただければと思う。


男は「偏差値的に」女を見る

 男が女を見るときは、「偏差値的」に判断し、女が男を見るときは、「内申的」に判断している。

 男は女を見るとき「顔」を重視している。
 これはとても偏差値的である。顔(またはスタイルも含む「容姿」)は、とてもわかりやすい基準である。

 美女は男から見ても女から見ても誰から見ても美女である。

 「女が言う美人って、男が思ってる美人とはちょっと違うんだよね」

と言いたい男はたくさんいるかもしれないが、それは些細な差だ。美人の尺度がそれほど大きく違うわけではない。

 男が女を見るときは、「容姿」をとても重視する。中でも「顔」を重視する。
 「僕は性格重視だな」と言う人も、顔で判断した後に性格も見ている、ということであって、顔をまったく見ていないわけではない。

 男が女を見る、好きになるときは「顔」の美しさ(または可愛らしさ)という「偏差値」は非常に重要なポイントである。

 「人は見た目が9割」という本がかつて売れたらしいが、見た目が9割なのは「人」ではなく「女」である。

 だから女が男にモテるか否かはほぼ顔で決まる。美人であればモテて、ブスはモテない。
 顔の偏差値が高い人が高評価を受ける、とても分かり易い仕組みだ。
 しかもその偏差値は隠されているのではなく「見た目」に顕れている。だから誰が偏差値が高くて誰が低いのかは一目瞭然だ。どういう顔が美しい顔か、という価値観は男女問わず共有されている。


先生の主観が大きい「内申」

 一方、女が男を見るときの価値基準は実に多岐にわたる。「これ」という絶対的な尺度がない。
 中学校のときの偏差値と内申点に例えれば、とても内申的である。

 一般に、頭のいい子は偏差値も内申点も高い、頭の悪い子は偏差値も内申点も低い、と思われがちだが、そうとばかりはかぎらない。偏差値は高いけど内申点は低いという子もいるし、偏差値は低いけど内申点は高いという子もいる。
 どうしてそういうことが起こるかというと、点の取り方(上げ方)が異なるからである。

 偏差値を上げるためにはテストで良い点を取ればいい。それに尽きる。

 一方、内申点を上げるための「これ」という方法は無い。

 内申とは主に通知表(通信簿)のことだが、通知表の成績は先生が決める。5段階評価の数字以外にも先生の所見などが加わって内申点は決まる。

 内申を良くするための方法というのは誰にも分からない。
 よく「授業中に積極的に手を上げたほうがいい」などと言われるが、手上げを重視する先生もいれば重視しない先生もいる。そういう手上げアピールを「ウザい」と感じる先生もいるかもしれない。そんな先生に対して積極的に手を上げていたら逆効果である。あるいは「自ら進んで清掃活動」も、先生が見ていないところでいくらトイレを綺麗にしても無駄である。

 内申点が良い人というのは、先生一人一人が何を重要視しているかをよく心得ていてその通りに行動でき、しかも上手にアピールできる人である。


女は男を「内申的に」評価する

 女が男を見る(評価する)在り方は、この「内申」の在り方によく似ている。

 「こうすれば、これさえすれば、女にモテる!」という絶対的な方法は存在しない。結局のところ、女一人一人に合わせた対策をとっていくしかない。

 A子さんに気に入られるためにはA子さんがどういうポイントを重視しているか、男のどういう点を嫌っているのかを知らなければならない。
 そして、そうやって一生懸命、勉強した学習成果は、次にB子さんを口説くときには適用できない。B子さんと仲良くなるためには、また別のB子さん対策が必要となってくる。

 雑誌などで女性芸能人・アイドルのプロフィール欄に「好きな男性のタイプ:優しい人」などと書いてある。これを見た男性読者が「そうか!優しい男がモテるのか!」と思って次の日から、お花にお水をやっても駄目なのである。女が言う「優しい人」は「“私に”優しい人」だからである。

 男の感覚からすれば、花に水をやるという行為は、生物を慈しむ、じゅうぶんに「優しい」ことだが、女が求める「優しい」はそんな普遍的な優しさではない。
 まして、女の見ているところで花に水をやるのならまだしも、女が見ていない、例えば自宅などで花に水をやっても何の意味もない。


男はイケメンに生まれるのではない。イケメンになるのだ

 テレビで動物番組などを見ていると、なぜオスばかりがこんなにも苦労しなければならないのか、という思いで切なくなることがある。

 オスが一生懸命、巣を作る、おいしい食べ物を捕まえて来る、必死で歌う、必死でダンスを踊る、必死で(文字通り命がけで)他のオスと闘う。

 そこまでやってもメスが首を縦に振ってくれるとはかぎらず、巣の出来映えがイマイチだったり決闘に負けたオスにはソッポを向く。

 男の苦労が絶えないのは、一人一人の女に対する対策を永遠に考え続けなければならないからだ。
 だからこそ男の人生は「イケメンでありさえすれば人生楽勝」などということはないのだ。ボーヴォワールの言葉をモジッて言えば「男はイケメンに生まれるのではない。イケメンになるのだ」。

 「イケメンである」とか「金持ってる」というのはモテるための付加価値かもしれないが、それさえあれば女にモテまくる、という性質のものではない。

 逆はある。女は美人でありさえすれば、モテまくる。人生で得をすることもいっぱいある。
 ただし女は、そこまでモテることを欲していない。女は一人の男と相思相愛の関係になれればそれでいいのであって、不特定多数の男からモテてしまうのは却って厄介に感じたりする。

 女が偏差値が高くある(顔、スタイルが美しくなりたい)のを願うのは、多くの男たちが思っているような、「男のため」、「男にモテるため」ではない。仮に男のため、であったとしても、それは意中の特定の男のため、であって、「その他大勢の男」に含まれる貴男のためではない。
 女が美しくありたいと思うのは、第一に自分のため、つまり自分の満足のためであり、第二に同性である女たちの目を意識し、第三に(特定の)男のため、が入るかもしれない。「その他の男たち」にモテたいと言う女もいるかもしれないが、それは、モテることによって自分の女としての価値を確認したいからであって、「あなた(指名)」にモテたいということではない。


ちょっとした心掛け次第で上げられそうな気がする内申点

 顔の美醜は、ほぼ遺伝によって生まれつきに決まる。
 一方、イケメンとか金持ってるということは、生まれつきではない。
 イケメンというのは単に顔の良し悪しを指す言葉ではない。髪型や服装、清潔感、雰囲気、気遣い、ふるまい、言動、仕事の捌き方など、努力次第でなれるものだ。

 そう、「努力次第では」と思われている。そこが落とし穴だ。
 女の内申的価値観では、常に「君も努力すればモテるかもよ?」という可能性が残されているのだ。
 モテたいと願う男たちはその僅かな希望を頼って果てしない努力へと駆り立てられる。

 しかし、実際にはそんな生易しいものではない。
 経済力なんて努力と工夫次第でなんとかなりそうだが、現実には金持ちの家の子供は金持ちに、貧しい家の子供は貧しくなる、という各種社会データがある。つまり遺伝のような生得的なものではないが、かと言って努力すれば簡単に得られるというものでもない。

 女は「もうちょっと頑張れば君もモテるかもよ」という僅かな余地を敢えて残している。雌ライオンが二頭の雄ライオンをわざと鉢合わせて闘わせるように。

 男の人生が苦しみに満ちているのはこのためだ。

 しかも、モテるための偏差値のような「これ」という明瞭な基準が存在しない。女個人個人に合わせた対策を手探りで探し続けるしかない。

 それでいて、男は女よりも「モテたい」という願望を強く持っている。

 苦しみから逃れるためには、「良い内申点をとりたい」すなわち「モテたい」という願望を捨てることだ。

 偏差値は諦めることができる。自分は頭が悪いのだと思ったら、もう突拍子もなく高い偏差値など望まなくて済む。
 しかし内申点はちょっとした心掛け次第で上げられるような気がする。
 先生は「あなたももうちょっと良い子(※先生から見て。積極的に手を上げるとか)になる努力をすれば、内申点上がるかもよ?」という余地を常に残している。

 オス鳥がフられたのは、歌が下手だったからでも羽根がみすぼらしかったからでもないかもしれない。そのメスは歌の上手さや羽根模様の美しさよりも巣の出来映えを重視していたのかもしれない。
 だから「歌が上手ければモテる」とか「翼の模様が美しければモテる」などとは言えないのだ。結局のところ、そのオスは目の前のメスの価値観を読み間違えた、読み取ることができなかった、それに合わせた対策をとることができなかったからフられたのだ。
 しかも女の価値基準は、一人の女なら常に「これ」と一定しているわけでもない。
 「前は男らしい人が好きだったけど今は優しい人かな」などと、重視ポイントもコロコロ変わる。

 男が女にモテようとする様は、良い内申点を取るために、先生一人一人の顔色を窺う中学生に似ている。

 より客観的な基準である偏差値に比べて、先生の主観が大きく左右する内申では、その先生が何を重視しているのかを読み取ることは大切なことだ。


内申点は要領

 しかしそこでほぼすべての先生からの印象を良くする「技」を心得ている生徒がいる。それは「頭がいい」といった絶対的な力ではなく、一種の「わざ」や「コツ」、「要領」、「タイミング」といったものだ。
 逆にこの「要領」を心得ていない生徒は、いつまでたっても先生からの好印象、高評価を貰うことはできず、内申点を上げることができない。
 どんなに見た目が格好よくてもモテない男がいるのは、こうした「要領」を心得ていないためだ。

 せっかく思い切って手を上げたのに、そのタイミングで先生が黒板の方を向いてしまって気づいてくれなかったり、手上げが有効だと思って毎日積極的に手を上げていたら、実は先生にうざがられていたり。
 「一回ふられたぐらいで諦めないで何度もアタックするんだよ」と言う女もいれば、「しつこい!」と言う女もいる。「いやよいやよも好きの内」なのか「本当にいやなんだってば!」なのか、要領が悪い男はいつまでたっても、そこが分からない。

 「貴男はブサイクだから、どんなことをしても無駄だ」と言ってもらったほうが、無駄な努力をしなくて済む分だけ男の人生はずっと楽なものになっていたはずだ。

 “先生”の顔色を窺いながら今日も男たちは叶う確率の低い希望に向かって果てしない徒労へと駆り立てられる。


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「※ただイケ」の誤謬を糺す

 「※ただイケ」という言葉がある。

 「※ただしイケメンにかぎる」の省略形である。
 私はこの言葉が好きではない。
 「※ただイケ」は間違っている。

 今日は、この「※ただしイケメンにかぎる」という言葉のどういうところが間違っているかについて書こうと思う。


「※ただしイケメンにかぎる」という言葉の由来

 この言葉は、今では若い女性が使っている例も見受けられるが、元々は男性が言い出した言葉と思って間違いない。
 女性誌などで、「最近は◯◯男子が人気!」(例、オタク男子、理系男子etc.)という特集が組まれ、それがネット上で紹介され、男性ユーザーたちが「お!いよいよ俺みたいな男がモテる時代の到来か?」と色めき立つ。そこで、すかさずユーザーの一人が「勘違いするな、モテるのはイケメンである場合に限られる」という注意を促す。最初に※印があるのは、条件付き、但し書き、ということを意味している。
 つまり、「もしかして俺のモテる時代の到来か?」と何度も勘違いしては裏切られてきた男性たちが自嘲気味に「どうせイケメンにかぎるんだろ」と言い出したのがこの言葉の始まりだと思われる。


「顔」を重視する男性

 そこで、そもそも「イケメン」とは何かという定義から考えなければならない。

 『広辞苑』には【いけ面】で項目立てしてあり、「顔が良い」が語源であるように書かれているが、これは誤りである。「イケメン」の「メン」は「面」ではなく「メンズ」から来ている。イケメンとは「イケてる男(メンズ)」の略である。

 ならば、「イケてる」とはどういうことか。
 私は「イケてる」という言葉は男たちが考えているよりずっと多義的な言葉だと思う。
 容姿だけではなく、振る舞いがスマートである、とか、仕草が男らしい、仕事で活躍して輝いて見える、働いている時の背中がかっこいい、等々、「イケてる」が意味するものは実に多義的である。
 だが少なくとも男たちの多くは「イケてる」を「顔がいい」という意味だと思っている。これは男たちが女を見る際に顔を重視するから、女も男を選ぶ時に顔を重視するに違いない、と考えてしまうからである。


男は顔か中身か?

 「所詮、男は顔だよ」

 「いや、やっぱり大事なのは中身でしょ」

 「いやいや、結局、なんだかんだ言ったって男はやっぱり顔なんだって!」

 男同士のこういう会話を聞くことがある。その度に私は「ああ、この人たちは分かってないな」と思う。

 「三高」信仰というものがある。「高身長・高学歴・高収入」の男が女に人気があるというものである。

 「三高はもう古いよ」と言う人もいるかもしれないが、それは以前ほどは言わなくなったというだけであり、今もこの三項目が重視されていることに変わりはない。

 で、この「三高」が示す三つの項目の中に、「顔」も「中身(性格)」も入っていないことに注意してほしい。

 男はすぐに「男は顔か中身か」という議論をしたがるが、その二択の設定がそもそも頓珍漢なのである。

 顔がかっこ良くて性格も良ければ申し分ないだろう、と男なら考える。
 だがそれでもモテないことがあるのは、女が求めているものとの齟齬があるからである。


中でも一番重視される「収入」

 三高の中でも一番重視されるのはなんと言っても収入である。
 結婚相談所などでも男が必ず書かされるのは年収。
 女が「結婚相手の男に求める条件は最低でも年収500万以上」などと言うのは、男が「女は最低でも胸がCカップ以上」と言うのと同じくらい、いやらしいことだと私は思っている。にもかかわらず、女はバストサイズの記入は義務づけられていないし、そもそも表向きは尋ねられることもないのに対して、男は堂々と年収を聞かれる。


美しい羽を持った孔雀がモテる?

 イケメンでありさえすれば、顔さえ良ければ女にモテる、そんな簡単なことだったら男にとって人生はもっとずっと楽なものになっているはずだ。

 男の人生は何故こんなにも苦労に満ちているのか。
 それは、男は顔さえ良ければモテる、などという単純なことではないからだ。

 つまり、「ただ◯◯でありさえすれば」などというものは、少なくとも男には存在しない。

 孔雀は美しい羽を持った雄がモテるという。しかし本当にそうなら、雄はダンスをしたり鳴いたりする必要はないし、そもそも羽を広げる必要すらない。ただ寝てればいいだけである。寝ているところに雌がやって来て、寝ている雄の羽を押し広げて美しさを鑑定して、美しければ交尾を迫るだろう。


引きこもりニートの福山雅治はモテない

 私は昔から、

 「引きこもりニートの福山雅治はモテない」

と言っている。(「福山雅治」の部分は各自適当なイケメンに置き換えてください)
 これは断言できる。
 福山雅治さんは、音楽家、俳優、写真家などとして幅広く活躍しているから、(その上に顔もよいから)モテるのである。
 いくら福山さんの顔でも年中、部屋に閉じ籠って、それでいてネット上で活躍したりするわけでもなく、誰とも接触せずに無為に毎日を過ごしていたとしたら、そんな男がモテることはまずない。

 逆はあり得る。
 昔のアニメなどに、よく「深窓の美少女」が登場した。病弱などの理由で外出を禁じられている女の子を外から見かけた男の子が一目惚れし、窓に紙飛行機を投げたりしてなんとかコンタクトを取ろうとする。そういう話はある。
 だが、「深窓の美男子」はあり得ないのだ。


「ただイケ」よりも恐ろしい「ただカネ」

 現代社会において、もし「これさえあれば」というようなものを強いて一つ上げるとするならば、私はそれは「ただイケ」ではなく「ただカネ」だと思う。
 「※ただしカネ持ってる男にかぎる」である。

 上述のように、女が男を選ぶポイントはとても多岐にわたる。男が「女は可愛ければ、ただ優しければ、それでいい」と言うのとは違う。
 しかしその多岐の中でも強いて一つを上げろと言われたら、現代の日本の女が最も重視しているのは「金(カネ)」であろう。

 私が「ただイケ」という言葉が嫌いなのは、「ただイケ」よりずっと残酷で冷酷な現実として頑として横たわっている「ただカネ」を隠蔽して見えなくしてしまっているからだ。

 現代の多くの男たちは本当はこの「ただカネ」にこそ苦しんでいる。
 結婚したいかどうかは置いておくとして、現代の大半の若い男たちの収入は年収500万にも届かない。
 にもかかわらず、自分たちで「ただイケ」と言うことにより、この深刻な問題を自ら見えにくくしてしまっている。
 心理的な背景から考察すれば、「顔さえ良ければ俺はもっとモテるはずなんだ」と思い込むことによって自らを慰めていると考えられる。
 しかしやはりそれは間違いなのである。
 そうやって慰めに逃げてしまうことで男たちは自分たちの首を自ら締めていることに気づいていない。

 男たちが「ただイケ」と言い続けていてくれるかぎり、女たちは「ただカネ」という汚い本心を隠し続けることができる。
 「ただカネ」は「ただイケ」を上手に隠れ蓑として利用して、現代社会に着実に瀰漫している。


「イケメン」は必要最低条件でもない

 「イケメンでありさえすれば人生全勝だ!」ということはない。それどころかイケメンであっても「九敗一勝」すらできないこともある。

 女の「美人」と違って男の顔にはそこまでの力はない。
 それなのに、「ただイケ」と言うことによって実際以上に過剰に顔に力を持たせてしまっていることが問題なのだ。つまり、例えば顔を美形な顔に取り替えただけで本当にモテるようになるのなら「ただイケ」と言ってもいいが、実際にはそんなことはない。

 モテのための必須要素は他にある。
 「イケメン」というのは、モテるための必要最低条件ではなくて、数ある「付加価値」の一つである。

 「イケメン」がモテるための必須条件だとすると、イケメンではないのにモテているたくさんの男についての説明がつかなくなる。(例えば、若い美女と結婚しているブサイクな石油王、等。)

 「イケメン」は第一必須要件ではない。所詮、付加価値程度の価値しかない。繰り返しになるが、「イケメン」であることがそんなに強大な力を持っていたなら、男の人生はもっと楽なものになっていたはずなのだ。

 もっとも、「ただし金持ってる男にかぎる」と言う女ばかりではない。

 女が男を見る、選ぶときには、顔や金以外のさまざまな評価基準があって、「モテたい」と願う男たちを苦しめている。
 それは「イケてる」という言葉が持つ多義性とも関係がある。


 では、そのさまざまな評価基準とはいったい何なのか。

 それらの点についてはまた別稿で論じたいと思う。