暫定龍吟録

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2015年03月の記事

悲運の美男子武将、平維盛の生涯

 私が思いを馳せるのはいつだって、平安時代末期の平氏のこと。
 全盛期の平氏ではなくて。
 没落期の平氏。

 平家全盛を誇った平清盛。
 平清盛のような活躍した武将に注目が集まるのは世のならいだが、今日話すのは、その孫、平維盛(たいらのこれもり)のこと。

 今日3月28日は『平家物語』によれば、平維盛が亡くなった日。
 それで、この絶世の美男子将軍、悲運の武将の生涯を振り返りたい。


主な登場人物

 初めに主な登場人物の名前を紹介しておきたい。
 この時代は「平ナントカ盛」という名前の人が非常に多くてややこしい。日本史で苦しめられた思い出のある人も多いと思う。

平清盛(きよもり):維盛のおじいちゃん。平家隆盛の時代を作ったカリスマ的存在。剛の者。

平重盛(しげもり):維盛のお父さん。清盛の長男。

平宗盛(むねもり):重盛の弟。維盛の叔父さん。清盛、重盛亡き後の平家の大将的存在。が、気が弱く頭も悪い。

平重衡(しげひら):重盛の弟。維盛の歳の近い叔父さん。できる男。女性の扱いにも長けたイケメン。

平維盛(これもり):清盛の孫。重盛の長男。紅顔の美男子。今日の話の主役。


何もなかった子ども時代

 維盛は1159年、平重盛の長男として生まれた。平清盛の孫に当たる。

 1159年と言えば、ちょうど保元・平治の乱という大きな戦があった頃だ。おじいちゃんとお父さんが勝利して、平家の地位を不動のものにした、あの戦争だ。

 維盛は平家の隆盛(りゅうせい)が最高潮に達した時に生まれた。「平家でない者は人にあらず」と言われるほどの時代だった。
 しかも、平家の総大将である平清盛の長男の長男として生まれた。
 「日本一の子ども」として生まれた、と言っても過言ではない。

 因みに同世代の有名人には鴨長明がいる。

 子ども時代は特に困ったこともなかった。順調に出世した。出世と言っても子どもだから政治的な意味合いではなく、年齢とともに階級が上がっていったというだけだが。

 子ども時代は本当に不思議なくらい何もない時代だった。保元・平治の乱は物心がつく前に終わっている。保元の乱は生まれる前で、平治の乱も1歳だから当然記憶に無い。
 物心がついてからの少年時代、10代の頃は、本当に何もない時代だった。


青海波の舞で絶賛された18歳

 10代の時にあった唯一の大きな出来事は、18歳の時の「青海波(せいがいは)」だった。

 清盛おじいちゃんは、平家の棟梁であるばかりでなく武家のトップでもあったので、天皇や偉い貴族の人たちとも親交があった。それで維盛は、おじいちゃんの孫として、重要な儀式の場にちょくちょく呼ばれたりすることもあった。

 この年、後白河法皇の50歳の誕生日を祝う、お誕生日会があった。それに呼ばれて「何か舞え」と言われたので「青海波の舞」を舞った。
 「青海波(せいがいは)」というのは古代中国の舞だ。

 これが大評判を呼んだ。
 幼い頃から「美男子、美男子」と周囲の人から言われてきたけれども、初めて大勢の人の前で舞を舞ったら、「容顔美麗」、「尤も歎美」、「作法優美」、「人々感歎」と絶賛の嵐だった。
 建礼門院右京大夫という、ちょっと年上の綺麗なお姉さんからも「昔今見る中に、例もなき(美貌)」と言われた。

 が、維盛の人生は、この18歳の時がピークだった。


お父さんの死と富士川の敗戦

 20歳の時、重盛お父さんが亡くなった。
 20代になって、いよいよ人生これから、という時だった。
 父親が亡くなるというのは、当時は人生を左右する大きな出来事だった。父親は政治的な意味で有力な庇護者だからだ。
 実際、平家と微妙な関係にあった後白河法皇に、一部の土地を取り上げられた。

 そして、この時期、全国各地で「反平家」の動きが始まった。中でも「源氏」は強力な敵だった。

 東国の源氏を征伐せよ、という命令が出た。
 維盛は平家の将軍として静岡県に向かった。
 富士川というところで源氏と戦った。

 結果は大惨敗。平家軍の兵士たちは敵軍の奇襲にビビって、戦わずして逃げてしまった。
 帰ったら、おじいちゃんにめちゃくちゃ怒られ、「入京を認めない」と言われてしまう。

 敗けた原因はいろいろあるが、一番大きかったのは、参謀役として付き従った藤原忠清というおじさんが、いざ攻め込もうという時になって、「日が悪い」だのなんだのと言って、攻め入るのを遅らせた。このことによって、戦場までの距離が近い源氏軍は、助っ人が続々追いつき、体制を立て直すことができてしまった。

 維盛は戦う気満々だったが、平家軍の兵士たちは恐慌状態に陥り、敗走してしまう。


おじいちゃんの死と倶利伽羅峠の敗戦

 さらに悪いことは続く。

 維盛22歳の時、最悪のタイミングで清盛おじいちゃんが病気で亡くなってしまう。

 清盛おじいちゃんはカリスマ的な人だった。このおじいちゃんの存在のおかげで、平家がまとまっている、平家の隆盛が保たれていると言っても過言ではなかった。

 清盛亡くなるとみるや、今度は木曽義仲という源氏の人が、反平家の挙兵を始めた。

 24歳の維盛は平家の「大将軍」としてこれを追討するよう命じられる。
 「大将軍」というと聞こえはいいけど、遠方への戦は大変な任務なのだ。本当のトップの人は京から動かない。つまり富士川の戦いの大惨敗の責任をとらせる罰の意味もあった。

 維盛率いる平家軍は、その数「四万」とも言われる大軍で、北陸方面に向かった。
 そして富山県あたりで木曽義仲軍と戦った。

 結果から言うと、またしても大惨敗。しかも、富士川の戦いの時と同じく、「戦わずしての敗け」だった。

 この時も敗けた理由がある。
 いわゆる、「群衆事故」だった。
 群衆事故というのは、現代でもある。一箇所に集まった大勢の人が何かをきっかけにパニックになって将棋倒しになったりして圧死したりする事故だ。
 平家の兵庫県繫がりで、私は明石の花火大会歩道橋事故(平成13年)を思い出す。

 夜、休みをとっていた平家軍は突如、源氏軍に奇襲される。慌てた平家軍は逃げようとするが、なんと背後にも源氏軍が待ち構えていた。パニックになった平家の大軍は、唯一、敵兵がいない方向へと走って行く。しかしそこは行き止まりの断崖絶壁だった。
 「戻れー!」「押すなー!」
 「こっちは行き止まりだ!戻れー!戻れー!」
 そういう絶叫が飛び交ったに違いない。しかし次々と押し寄せる平家の大軍。搔き消される叫び声。味方の兵士たちに押されて、次々と崖底へ転落していった。
 この時、平家軍の大半が亡くなり、崖底は死屍累累、平家の屍で谷が埋まるほどだったという。

 私は、これは記録に残る、古い群集事故の例だと思う。
 敵と戦って敗けたというより、味方に押されて落っこちて自滅したのだ。


都落ちと西への逃避行

 この年、平家はついに「都落ち」する。
 しかしこの時も幾つもの「失敗」が重なってそうなったのだ。
 大きな戦いに敗けたとはいえ、平家はまだそれなりの自力を保っていた。
 が、このとき総大将的存在だった宗盛叔父さんの幾つもの「失策」が、事態を悪くした。
 そもそも宗盛叔父さんは「総大将」なのに弱気すぎた。あまりに気が弱くて頭も悪そうだったので、後白河法皇は平家と組んでるのは得策ではないと判断し脱出してしまった。
 これが大誤算だった。法皇は何としても行動を伴にしてもらわなければならなかった。

 平家一門は後白河法皇を連れ出せずに都落ち。西へ西へと逃げる日々が始まる。
 途中で時々、追ってくる源氏軍と戦いながら、ひたすら西へ西へと逃げる。

 しかし次々と味方の誰々が亡くなったという報せが届く。もう駄目だ。平家一門はもう終わりだ。自分が死ぬのも時間の問題だろう。そう悟った維盛は、最期に京に置いてきた妻と子どもに一目逢いたいと思った。
 平家の一行から密かに離脱する。そして京へと向かう。しかし危険すぎる京には入れず、妻と子どもに心の中で永久の別れを告げた維盛は、和歌山県那智に向かい、そこで自ら入水して人生を終える。25歳の若さだった。

 その翌年、最後まで残った平家も、山口県の壇ノ浦でついに滅亡する。


長男の維盛にはどれほどの権力があったか

 ここまで読んで、「かわいそうだけれども少し同情的に書き過ぎじゃないか。維盛は清盛の孫、長男の長男だったんでしょう?だったら、維盛こそトップの責任者じゃないか」と思う人がいるかもしれない。

 だが、長男がそこまで力を持っている時代ではなかった。「長男が偉い」という風潮になっていくのはもう少し後の時代のことだ。「長幼の序」を重んじる儒教の影響がある。平安時代は仏教の影響は強くあったが、儒教はまだそこまでではなかった。また、戦国時代ともなれば完全に武士の世の中なので、指揮系統を統一するためにトップの責任者をはっきりさせる必要があっただろう。しかし平家は、日本史の最初の頃の武家なので、戦国時代の武士の家ほどそこまで組織としてしっかりしているわけでもなかった。

 平家は文字通り、平氏の「家(ファミリー)」だった。言わば、親戚の叔父さんたちや従兄弟の男たちなど、全員が「主役」だった。「一人の主君とその部下たち」という組織ではなかった。

 また、維盛は「長男」ではあったが、母親の身分がそれほど高くなかった。
 当時は、高貴な血筋に生まれた人の方が偉い、という感覚が強くあった。だから、単に「一番初めに生まれた男の子」である維盛よりも、高貴な母親から生まれた異母弟たちの方が上に見られることもあった。
 それは父親の重盛にしても同じことで、身分の低い母から生まれた「長男・重盛」よりも、身分の高い母から生まれた宗盛の方が、大将的存在になっていった。


維盛は本当に美男子だったか

 維盛は本当に美男子だったのだろうか。こればかりは写真も残っていないので分からない。
 『平家物語』の作者が物語をおもしろくするために、必要以上に美男子と褒めちぎって書いたかもしれない。

 だが、私は本当に美男子だったのだろうと思う。
 そう思える論拠はある。
 当時の結婚というものは、両家の親同士が話し合って決める、極めて政治的な意味合いの強いものだった。
 維盛のお母さんはいわゆる「正妻」ではない。つまり正式な結婚とは別に、わざわざ身分の低い女性をお父さんが求めた、ということは、お母さんはよほどの美人だったに違いない。男の子はお母さんに似る、というのはよくあることだ。

 『平家物語』の誇張ではなく、維盛は本当に美男子だったのだ。


「桜梅の美男子」と「牡丹のイケメン」の違い

 重盛お父さんの異母弟に重衡(しげひら)という人がいる。維盛の叔父にあたるが、歳が近いため、叔父さんというよりお兄さん的存在だった。

 この重衡が「かっこいいお兄さん」だった。見た目もかっこ良かったし、仕事も「できる男」だった。そのかっこ良さは「牡丹の花」に例えられた。

 女性にモテた。
 重衡の周りには常に女性たちが集まり、人気者だった。女性たちとのコミュニケーションの取り方が上手だった。優しくて明るくて面白くて頼もしい人で、現代風に言うなら「イケメン」だった。

 一方の維盛は、「桜梅」に例えられた。「桜梅少将」と呼ばれた。
 イケメンではなく「美男子」だった。「容顔第一」と呼ばれた維盛は、単に「顔立ちが美しい」というだけだった。

 牡丹の花が美しくそこに“ある”のに対して、桜梅は見た目も美しいが、“散り際”に美しさを見せる。それは、儚い美しさだ。

 女性にもモテなかった。
 一応、親の意嚮で結婚はできたけれども、知ってる女性は妻一人だけだった。

 先にちょろっと紹介した「綺麗なお姉さん」建礼門院右京大夫も、弟の資盛(すけもり)の彼女であって、維盛の彼女ではなかった。


維盛の苦しみ

 「名門の家に生まれて、しかも長男として生まれて、しかも顔が美形ときたら完璧じゃないか!うらやましい!」
 「うらやましすぎる!ずるい!俺と替わってくれ!」

 そう言う人は多いだろう。

 しかしこういう羨みが、まったく的外れであるのは維盛の人生を見れば分かる。

 維盛は「いい家」に生まれたことで、あるいは「美男子」に生まれたことで、人生で得したことなど何もなかった。

 それどころか、逆に平家に生まれたことで、みんなから石を投げつけられる人生を送ることになった。

 美男子ということだって、女性にモテることには役には立たず、男性にモテることに役立ってしまって維盛にとってはちっとも嬉しくもないことだった。(実際、当時、維盛の周囲には男色傾向のある人は多く、男の人たちから迫られることもあったようだ。)

 長男ということだって、「長男なんだから」と責任は押し付けられる一方で、そこまでの権限は与えられず、実際の戦の時には、力を持った叔父さんたちの声が大きくて、自分の声は通せなかった。この「声の大きい叔父さんたち」が軍の統一を乱して敗けに繫がることが多かったのに、敗けたら敗けたで、維盛のせいにされた。

 「いい家」、「長男」、「美男子」。そんな、人が羨むような、本来なら「利点」とも思われる要素は、維盛の人生においてはまったく利点でなかったばかりでなく、むしろマイナスに作用した。


「驕る平家は久しからず」の嘘

 私がなんでこんな話を書こうと思ったか。
 なぜ平維盛という人に関心を持ち、書こうと思ったのか。

 それは、「驕る平家は久しからず」という、あの有名な言葉に以前からずっと違和感を持っていたからだ。いや、違和感というより反撥を抱いていた。

 この言葉は、「驕った態度をとっているといつか痛い目に遭う」という傲慢な人生を送ることへの戒めの言葉として使われる。

 「平家は、あんなに尊大な態度で振るまい傲慢な人生を送っていたから、人々の恨みを買って、ついにはこんな痛い目を見ることになったのだ。ざまあみろ。天罰だ」と人々は言う。

 だが、驕っている人と罰を受けている人が別ではないか。
 維盛がいつ驕った?

 「でも、0代、10代の頃はいい暮らしをしていたでしょう?」と言うかもしれない。
 たしかに維盛は、子ども時代、普通の子よりもいい服を着て、おいしいものを食べていたかもしれない。しかしそれは「裕福な育ち」ということであって、「驕る」ということとは違う。
 子どもの頃は、親によってそのような生活を“させられて”いるのであり、「驕る」というのは、二十歳になって金や権力を使える年齢になって自分の意思で行うことを「驕る」と言うのだ。

 別に驕れなくてもいい。驕った生活をしてはいけないと言うなら、それはそれでいい。維盛はべつに驕りたかったわけではない。質素な生活でもよかった。

 維盛の苦しみは「おじいちゃんやお父さんのように驕った暮らし、豪遊ができなかった」というところにあるのではない。
 「驕る平家は久しからず」と、身に覚えのない言葉で源氏や世間から石を投げつけられたところにある。

 驕っていたのは、お父さんやおじいちゃんや、ひいおじいちゃんの時代の話であって、維盛は身に覚えのないことだ。
 お父さんは身に覚えがあっただろう。おじいちゃんはもっと十分に身に覚えがあっただろう。だが、そのおじいちゃんとお父さんは戦没ではなく病没したのだ。恨みを買った人たちから殺されたのではなく、寿命を全うして亡くなったのだ。おじいちゃんもお父さんも、あの都落ちから西へ西へと敗走した悲惨な日々を知らない。

 「おまえのご先祖様を恨むんだな」などと言いながら、人々は維盛に向かって石を投げつけた。

 驕りたいわけではない、と言ったが、こんな理不尽な目に遭うのなら、いっそ驕った暮らしをしておけばよかった。
 女遊びもしなかった。
 弱冠15歳の時に、父や祖父の意嚮で結婚させられた、ただ一人の妻を愛した。

 18歳の青海波の舞のときは、そのあまりの美しさから「光源氏の再来」と皆から言われたが、その後の人生で源氏軍に苦しめられたことを思えば、敵の名前で褒められるなんて皮肉でしかなかった。「容貌が美しい」なんて、武将としての、男としての幸せや誉れとは何の関係もなかった。

 妻や子供も守ってやれなかった。最後の別れのとき、妻には「自分が亡くなったら再婚してくれ」とは言っておいたが。

「驕る平家は久しからず」。

 平家物語の冒頭の言葉に由来するこの諺を人が口にするとき、私はあなたの言う「平家」とはいったい誰のことを言っているのか、と思う。
 平家という家を構成しているのは一人一人の人だ。その一人一人に光を当ててみれば、時代の波の浮沈が大きく作用しているのが見えてくる。運命という名の人間が作り出した機構が作用しているのが見えてくる。そうしたものを無視して何かを語ることは自分がまた時代を形作ってる主体であるという責任意識の欠如を現している。

 平維盛の生涯は、何度も何度も、時代について、運命について、人生について、私に考えさせる。



(※)この記事は、歴史的事実に関してはなるべく調べて正確性を心掛けて書くようにはしましたが、私の見方が多分に入っており、脚色されています。レポートを書いてる学生さんは「出典:暫定龍吟録」などとせず、もっとしっかりした文献、史料に当たってください。
 私がこの文章を書くにあたって参考にしたのは以下の文献です。特に高橋昌明氏の『平家の群像』は大いに参考にしています。
  • 高橋昌明『平家の群像』(岩波新書)

  • 石母田正『平家物語』(岩波新書)

  • 『新日本古典文学大系・平家物語』(岩波書店)

(※2015/04/03)重衡の名前を間違っていたのを訂正しました。あゝ、本当にややこしい。

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30歳までニート!鴨長明という人-『方丈記』800年記念-(2012/07/31)

カンバーバッチが走る!映画『イミテーション・ゲーム』感想

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 たまには映画の感想でも。

 映画『イミテーション・ゲーム』を観て来た。
 めずらしく映画を観た。何年ぶりだろう。

 有名人の史実を基にして作られた映画なので、ネタバレも何もないと思うが、一応、まだ観てない人のために詳しいストーリー展開は書かないでおこうと思う。

 感想を一言で言うと、おもしろかった。

 感動的であり、特に後半からエンディングに向かって加速度的に感動が高まっていく。元々、感情的なタイプの私は最後は泣きそうになった。隣の席の男(※後出)の啜り泣く声が聞こえた。(ただの花粉症だったかもしれない。そう言えばチューリングも花粉症だった。)

 第二次世界大戦中に暗躍したイギリスの天才数学者、アラン・チューリングの人生をベネディクト・カンバーバッチが好演している。

 アラン・チューリングは、国からの依頼で、当時イギリスが戦っていたドイツ軍の暗号を解読するよう頼まれる。
 その暗号は「エニグマ」と呼ばれる超難解な暗号で「解読不能」と言われた。世界一の天才数学者チューリングが、その解読に挑む。

 絶対に解読できない暗号 v.s. 世界一の天才数学者

という構図だ。

 しかし私は数学的側面やエンターテインメント的側面よりも、歴史的側面の方が気になった。
 この物語はフィクションだとも言えるし史実だとも言える。しかもそう遠くない昔に実際に何万人という人が亡くなった、あの世界大戦の話なのだ。

 日本ではアインシュタインは有名だが、同時代に生きていたチューリングはそれほど有名ではない。
 それはチューリングの存在自体が戦後も長く、トップレベルの国家機密だったからだ。大正11年の来日時に熱狂的に歓迎されたアインシュタインとは知名度が全然違う。
 チューリングが為した仕事は英独戦の結果に大きな影響を与えた。ということは、ドイツと同盟関係にあった日本の戦局にも大きく影響しているということだ。
 私たち日本人にとって、決して「関係ない数学者」ではない。
 この映画をきっかけにしてもっとその名が知られればいい。

 映画の初めの方では、チューリングの“変人”ぶりが描かれる。だが、チューリングを主人公にしているだけあって、映画全体としてはチューリングを好意的に描いている。

 暗号解読の舞台となったブレッチリー・パークでの「挌闘」「死闘」の日々は、現代の私たちが使っているコンピュータに繫がっている。チューリングはコンピュータの生みの親でもある。その意味でも現代の日本人のほとんどはチューリングの影響を受けているのであり、「関係ない、昔の人」の話ではない。

 チューリング自身が、いわゆる「チューリング・テスト」を行う場面も描かれている。数学やコンピュータの歴史に興味がある人は、そういった観点からも楽しめるかもしれない。
 また、映画には欠かせない「恋愛」の要素も少しは描かれている。
 映画全体としては、壮絶な騙し騙されの世界で、いったいどっちが騙している側でどっちが騙されている側なのか、そうしたスリリングな感じも味わうことができる。

 この映画で一つだけ物足りないと感じたのは音楽だ。
 と言っても悪いわけではない。テーマ音楽は非常に高尚な音楽だ。だが高尚すぎて印象に残らなかった。もっと俗っぽい、歌詞があるような音楽でもよかったのではないか。この映画ではなんと言ってもチューリングが、と言うよりカンバーバッチが、全力疾走するシーンが印象的だが、そこをもっと盛り上げる音楽があればよかった。高貴ではあるが、スリリングさを表現したり興奮を盛り上げたりするには少し物足りない気がした。

 ポスターには「アカデミー賞最有力」の文字があったが、実際には作品賞も主演男優賞も獲らなかった。
 しかし、私はこの映画がアカデミー賞を獲らなくてよかったと思っている。このような“政治的な”映画が、現代の政治の思惑に利用されることは望ましくない。アカデミー賞を獲らなかったことで初めて安心してこの映画が「おもしろい映画」だったと言える。
 
 ところで、映画が始まる前にトイレに行ったら、自分とまったく同じ恰好をした男に遭った。
 背恰好も似ていて服装が丸かぶりだった。
 恥ずかしいので、開場するまでこの男からはなるべく離れたところにいよう、と思った。
 開場時間になって指定の席に座っていると、しばらくしてからその男が入ってきて、私のすぐ隣の席に座った。これだけ広い映画館でよりによって隣の席・・・。
 同じところで買った服なんじゃないか、と思うぐらい上も下も完全にかぶっていた。

 はっ! イミテーションゲームか。






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  • よみがえるチューリング -アラン・チューリング生誕100年-(2012/06/23)



地下鉄サリン事件から20年、オウム真理教事件の衝撃

 自分の人生の中で最大の事件といえば何ですか?

 自分が生まれてから今までで、個人的な事件ではなく、事故や自然災害等も除いて、社会で起こった事件の中で最も大きな衝撃を受けた事件は何ですか?

 私は1995年の地下鉄サリン事件を始めとする一連の「オウム真理教事件」と答える。

 この事件は本当に大きな事件だった。

 世界的にはこれより大きな事件が他にもあったかもしれない。人によって何を「大きな」と捉えるかはさまざまだが、この事件が一番大きかったと感じるのは、私が日本人で東京に住んでいた、ということもあるだろう。

 あれから20年経って、オウム真理教事件を知らない世代の人も増えてきた。
 歴史の教科書で習って知るのと、リアルタイムで知っているということとは全然違う。
 なので、そういう若い人たちのために、オウム真理教事件の衝撃、当時の世の中の雰囲気、そして事件がどういうふうに受け止められていたのか、をリアルタイムで知っている世代の私が書き留めておこうと思う。


時代を劃す1995年

 それでなくても、1995年という年は印象に残る年だ。
 1月には歴史に残る災害(阪神・淡路大震災)があった。そして、パソコン元年、携帯電話元年、インターネット元年の年でもある。

 この年を機に、パソコンは特定のオタクの物から一般の人の物になった。携帯電話は小型化して一人一台持つ時代になった。それまで特定の限られた人しか触ったことのなかったインターネットを一般の人が使い始めた。

 ぜんぶ1995年だった。


地下鉄サリン事件の衝撃

 オウム真理教が起こした一連の事件の中でも、地下鉄サリン事件は特に衝撃が大きかった。

 私の父はサリンが撒かれた時間帯の丸ノ内線に乗っていた。

 1995年3月20日は月曜日だった。父はいつものように丸ノ内線に乗って出勤した。父は特にトラブルもなく普通に職場に行くことができた。
 あの日、父がもうちょっと早く、あるいはもうちょっと遅く家を出ていたらサリンの被害に遭っていたかもしれない。

 その日の夜、テレビのニュースで人々が担架で運ばれている映像を見たけれども、その時点ではそんなに大した出来事だとは思っていなかった。

 で、その二日後の朝、テレビで突然、警察が山梨県上九一色村の施設に突入する物々しい映像が流れた。

 私はこれを「突然」と感じたことを覚えている。「突然」というのは前後の脈絡がないということだ。

 当時の大人たちのどれだけの人が、二日前に起こった地下鉄の騒ぎと、オウム真理教とを結びつけて考えることができていたのだろう。
 「私は薄々、オウムが怪しいんじゃないかと思ってたよ」という人はどれだけいたのだろう。

 私にとっては「突然なにごと?」という感じだった。
 それは異様な光景だった。
 大規模の警察隊がガスマスクをして、先頭にいる人は鳥籠を持っている。危険な成分が空気中にあったら鳥が真っ先に死んで異常が判るからだ。

 私の頭の中では地下鉄の事件とオウム真理教とはまったく結びついていなかった。さらには山梨県上九一色村に、そんな大きな施設があることも知らなかった。

 テレビは連日、この地下鉄事件とオウム真理教一斉捜索を報道した。緊迫していた。「これは戦争だ」という空気があった。

 翌4月には、教団ナンバー2でサリン事件や数々の兇悪事件で中心的役割をしてきたと見られていた村井秀夫が多くの報道陣に囲まれる中、刺殺されるという事件が起こった。
 これもテレビでリアルタイムで見ていた。あんなに大勢の人に取り囲まれて、さらには全国の視聴者が見ている前で人が殺される、というのも衝撃的だった。
 JFK事件を聯想した。
 犯人はすぐに捕まったが、この事件の背景は未だに解明されていない。そして、村井の死によって、オウムの一連の事件の真相究明も困難になった。

 地下鉄サリン事件がどんな事件だったのかはウィキペディアを見るなり、当時の映像を見れば、なんとなく分かる。
 私が若い人に伝えたいのは、当時の東京に住んでいた「一般市民」が、この事件をどのように感じていたか、ということだ。

 もっとも、受け止め方は人によって温度差があった。
 緊迫感、ものものしい雰囲気、そういうのは誰もが感じていたことだが、これがどれほどの”大きな”事件であるか、という受け止め方にはだいぶ開きがあった。
 子どもたちなんかは、学校で麻原彰晃の似顔絵を書いたり「ポア」や「サティアン」という言葉が流行ったり、ずいぶん呑気なものだった。

 政治家の中では、私は野中広務という人が印象に残っている。国家公安委員長も務めた野中は、オウム事件に対する危機感を最も語っていた政治家だった。「国家が転覆する虞があった」と何度も語っていた。「国家転覆って、そんな大袈裟な」と受け止める人も多い中で、事の重大さをよくわかっている人だと思った。


地下鉄サリン事件がなぜ一位なのか

 私がなぜ、「人生の中で一番大きな事件」として地下鉄サリン事件および一連のオウム真理教事件を上げるのか。
 被害者の数だけで言うなら他にもっと大きな事件があったかもしれない。テレビで取り上げられたインパクトという点でももっと他に大きな事件があったかもしれない。

 例えば、あさま山荘事件などは、テレビでも中継され、当時の日本国民に与えたインパクトも大きかった。だが、こうした事件は”昔”、”昭和の昔”を思わせる。

 地下鉄サリン事件の衝撃は、一言で言うと、”未来”を感じさせたところにある。

 褒め言葉では決してないが、地下鉄サリン事件は時代を何十年も先取りしていた。

 2015年の今の事件だと言ってもおかしくないし、今から20年後の東京で起こる事件だ、と言われてもおかしくない。

 実際、地下鉄サリン事件は時代の時計の針を一気に進めた。

 例えば、都心のオフィスビルに、地下の飲食店フロアなど一般に開放されているエリアを除けば、普通、部外者は中に立ち入ることはできない。今の若い人は、これを当たり前のことだと思うだろう。

 だが、1994年までは部外者でもオフィスビル内にけっこう自由に立ち入ることができたのだ。さすがに部屋の中までは入れないが、大きなビルなら中層階や高層階のトイレなどでも利用することができた。
 それが1995年を境に、あらゆるビルの入り口に、「関係者以外立入禁止」、「特別警戒実施中」、「防犯カメラ稼働中」という看板が設置されるようになった。

 「昔はいろんなことが大らかで、規制もゆるかったよね。最近は物騒な世の中で、だんだん”防犯”とか”セキュリティ”とか厳しくなってきたよね」と言う人がいる。

 そう、こういう変化は普通は「だんだん」、何年、何十年というスパンで徐々に変化していくものだ。

 だが、ビル内への立ち入り規制などは、1995年に”ガラッと”変わったのだ。


”寛容”だった1990年代前半の社会的ムード

 当時の時代背景についても触れておきたい。

 1990年代の日本はどのような時代の空気に包まれていたか。

 今は、「ヘイトスピーチ」が話題になるなど、社会全体として「狭隘」、「偏狭」の度合いがやや強まっている印象があるが、当時は逆に「寛容」の度合いが大きい時代だった。
 「個性を大事にしましょう」ということが盛んに言われた時代だった。

 衆議院議員選挙で、街のあちこちの掲示板にオウムの立候補者のポスターが貼ってあったが、「見るからに怪しい」などと先入観や偏見で人を判断してはいけません、という空気が強く支配していた。

 1990年代の前半頃の日本は、国全体に「寛容」、「個性尊重」という空気が流れていた。そういう時代背景がなければ「サティアン」のような、あんな大きな「工場」を堂々と建設できていなかった。


オウム事件が問いかけるもの

 オウム事件が一変させたものは、建物の防犯の強化やゴミ箱の撤去ばかりではない。
 「洗脳」という、それまで日常であまり聞くことのなかった言葉を日常的に聞くようになった。

 海外でもこのニュースは大々的に報道された。
 海外での注目度が高かったのも、この事件が「未来的」だったからだ。

 想像を超えていた。
 何もかもが斬新だった。
 信者を獲得する方法も、東大生や理系学部出身の高学歴者を狙う戦略も、それらの人を徐々に洗脳していくやり方も、教団内にさまざまな「大臣」を置いて擬似国家を形成していくやり方も。

 「国家転覆なんてあるはずないよ。法治国家の現代の日本でそんなことはあり得ない。現にこうして悪いことをした人たちはみんな逮捕されてるじゃないか」と言った人がいた。

 しかし逮捕されたのは、それは結果の側から言えばそうだというだけだ。
 語弊のある言い方かもしれないが、被害がこれぐらいで済んだのは、麻原が、あるいは指示を受けた実行犯が「ヘマ」をしたからだ。もっと上手くやっていればもっと何十倍、何百倍という被害者を出していただろう。
 オウム真理教の暴走を止められなかった。あんな大規模なサリンの製造工場まで作ってしまうのを日本は看過していた。
 私たちはオウムの「拙攻」に助けられたのだ。

 今の私たちは、こうした事件が再び起こるのを防ぐことができるだろうか。「防犯」や「セキュリティ」の強化だけで防げるだろうか。

 20年経った今でも、あの頃を思い出す。
 地下鉄の網棚にある袋に異常に敏感になっていたあの頃。地下鉄に乗った時は、なんとなく思いきり息を吸うのが怖くて、少し”浅め”に呼吸していたあの頃。

 父があとほんの少し早い電車に乗っていれば、私の人生は高橋シズヱさんのような裁判所通いの日々になっていたかもしれない。
 地下鉄サリン事件で夫を亡くした高橋さんの、
 「19年、20年たつと(事件を)知らない人がたくさんいる。これから(同じような事件が)起こらないとは限らない。裁判で刑が確定して終わりではなく、何が起きたのか、風化させてはいけない。」
という言葉が重く心に響く。

 被害者の人たちは今も後遺症に苦しんでいる。教団も後継して存続している。
 事件はまだ終わっていない。

Apple Watchが日本であまり流行らないだろうと思う3つの理由

1. 片手操作ができないから

 多くのアメリカ生まれの製品は、iPhone 6 Plusなどもそうだが、アメリカ人向きに作られている。

 「スマホの文字入力は片手派?それとも両手派?」

という質問をたまに見かける。
 だが、これはずいぶん雑な質問なのだ。

 日本語の場合、「両手で文字入力」とはどういうことかと言うと、例えば左手でスマホを持ち、右手の人差し指でフリック入力するということだ。

 だがアメリカ人は違う。アメリカで「両手入力」と言った場合は、両手でスマホを持ち、両手の親指を使って文字を入力することを意味する。英語は日本語に比べてたくさんの文字を入力しなければならないので、両手の親指を使って高速文字打ちをする。子音と母音を連続入力しなければならない韓国でも両手親指高速打ちの人はいる。

 だが、日本には「両手文字入力」をしている人はあまりいない。


 アメリカ人は常に両手が空いている。
 リュックだし、雨降ってても傘ささないし、移動は車だから運転手以外は常に両手が空いている。

 だが、日本、特に都会に住んでいる日本人の生活スタイルは全然違う。
 満員の通勤電車で、左手は吊り革に摑まり、右手には鞄、傘、さらに夏は暑くて脱いでいるスーツの上着まで持っている。

 この状態でどうやってApple Watchを使うのだろうか。

 左手に嵌めたApple Watchは左手で操作することはできない。右手でしか操作できない。
 「右手だけで操作するんだから片手操作じゃないか!」
とは言えない。

 操作するためには左腕を目の前に持って来なければいけないから、結局両手が必要なのである。

 左手を一時的に吊り革から離し、目の前に持ってくることはできる。しかし右手の鞄や傘を手放すわけにはいかない。つまり、「見る」ことぐらいはできるが、操作するのは顎でするしかない。

 ティム・クックは「腕時計で電話ができる!」と言っていたが、今のiPhoneはイヤフォンの途中にある通話口から電話できる。iPhoneをポケットに入れたまま、手ぶらの状態で電話ができる。
 このスタイルに比べて、左腕を口元に持ってきて電話をするスタイルが新しいとは思えない。


2. 今のところ「健康」目的以外の使い途がない

 Apple Watchが発表された日、NHKのニュースでは皇居の周りを走るマラソンランナーにインタビューしていた。
 これは逆にそういう人でもないかぎり、いったいどういう目的で使うのかが分からないからだろう。

 健康志向や、スポーツ、フィットネスというのは、確かに一ジャンルではあるが、日本ではそこまで大きなジャンルというわけではない。
 これも「アメリカンスタイル」、「アメリカ人思考」なのだ。

 App Storeで、もっと細かく分かれるべきだと思うジャンルが分かれていなくて、「ヘルスケア/フィットネス」、「メディカル」、「ライフスタイル」と似たようなジャンルが細分化されているのを疑問に感じる日本人は私だけではないだろう。(※他にも「仕事効率化」、「ビジネス」、「ファイナンス」とかも一緒でいいんじゃないの?と思ってしまう。)

 「心拍数が測れる」とか「歩数が測れる」とか、そんな機能が付いたものはずっと昔からある。

 Appleが今後、健康目的以外の何か新しい用途を提案できるなら別だが、今のところはこれといった新しみがないように思える。


3. iPhoneがなければ機能しない

 Apple WatchにはiPhoneがなければ機能しない機能が多い。朝、Apple Watchさえ嵌めて出かけるのを忘れなければ大抵のことはこなせる、というのだったら便利だが、iPhoneを持って行って初めてApple Watchは機能する。

 で、その機能のほとんどはiPhoneでできることだと言う。

 だったら、iPhoneだけ持って行けばいいじゃん!!


 以上の3つが、私がApple Watchが日本であまり流行らないだろうと思う理由です。

 あくまでも、「今のところは」という話。
 今後、Apple Watchが進化してもっと劇的に魅力ある変化を遂げれば人気が出ることもあるかもしれない。だが今のApple Watchには私はまったく魅力を感じないし、日本で流行るとも思えない。

 同じウェアラブル端末だったら、Apple WatchよりもGoogle Glassの方が未来を感じる。だって、Google Glassは両手を必要としないでしょう?