暫定龍吟録

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将棋は「勝つ」ことができない不思議なゲーム

 先日、NHKの爆問学問といふ番組に、将棋の羽生善治名人が登場してゐた。

 爆笑問題の二人が、将棋会館の羽生名人の元に行って話を聞いてくるといふ内容の番組で興味深かったが、爆笑問題の二人があまり将棋に詳しくないやうだったのは少し残念だった。せっかくの機会なのでもっと名人にいろいろ聞き出してほしかった。

 それでも興味深いやり取りはあって、特に印象に残ったのが、爆笑問題の太田が「羽生さんは将来、軍事に行かないんですか」みたいなことを冗談半分に聞いてゐた場面があった。

 将棋は戦争のゲームである。王様を守る将軍がゐて、騎馬隊や槍隊や歩兵隊がゐる。その戦争ゲームをこゝまで天才的に指しこなす羽生さんなら、軍部に登用されれば完璧な軍事作戦を描けるのではないか、といふわけだ。
 これに対し羽生名人は笑ひながら「将棋は情報が100%開示されてるゲーム。実際の戦争では多くの情報が明かされてゐない」といふやうなことを答へてゐた。

 これは重要な点だ。将棋は、自分の持ち駒も相手の駒も持ち駒も、すべてが見えてゐる。こゝが麻雀やトランプと違ふところで100%情報開示なのだ。しかも麻雀やトランプのやうに運が入り込む余地もない。だから「負けても言ひ訳できないので辛いんですよ。すべて自分の責任ですので」と名人は言ってゐた。

 ところで、将棋はゲームとしてはかなり特異なゲームである。ある時テレビで内藤國雄九段が「将棋は審判がゐない珍しいゲーム」と言ってゐた。野球にもサッカーにも大抵のゲームには審判がゐるが、将棋には立会人や記録係はゐるが審判といふものはゐない。では、どうやって勝敗が決まるのかといふと、どちらかが「負けました」と言ふことでゲームが終了する。将棋は王様を取った方が勝ち、と言ふのは初心者に将棋を教へるときの方便であって、実際の対局では王様の駒が取られることはない。王様(玉将)を相手から取られるところに移動させたり、あるいは王様が取られるのを放置してまったく関係ない他の手を指した場合、反則負けといふことになってゐる。
 つまり通常は、どちらかが「負けました」と言はないかぎり勝負の決着がつかないのだ。
 どんなに優勢であっても「勝ちました」と宣言することはできない。

 番組では、羽生名人が爆笑問題チームといはゆる「歩三兵」で戦ったのだが、爆笑問題チームが王様を詰まされたときに最後に「負けました」ときちんと言はなかったのが気になった。礼儀作法として云々と言ふ前に、その言葉を言はなければ将棋は終はらないからである。

 その意味では、近代以前の将棋はゲームとしては不完全なゲームであった。現代のプロの将棋では、その不完全さは解消されてゐる。持ち時間制といふ制限時間が導入されたからだ。王様を追ひ詰められた側が、何の手も指さず、負けましたも言はずに何時間、何日間も粘ってゐたとしても、時間切れ負けになる。

 よって将棋は「勝たないやうにする」といふことが難しい。サッカーだったら「勝たないやうにする」ためには、自分のチームが得点しなければよい。1点も取らなければ、その試合の結果は「負け」か「引き分け」である。
 将棋には「持将棋」といふ稀な例外をのぞけば、引き分けはない。いくら「勝たないやうに」と思って、わざと弱い手ばかり指してゐたとしても、相手が「負けました」と言ってしまへば、その瞬間に自分は勝ってしまふのである。もしどうしても勝ちたくなかったら、できるだけ早く相手より先に「負けました」と宣言することだ。

 将棋や囲碁・チェスなど二人で勝負を競ふゲームを、ゲーム理論では「ゼロ和二人ゲーム」と言ふ。サッカーや野球も2チームで争ふのでゼロ和二人ゲームに含まれるが、将棋ほど、この「ゼロサム」の関係がはっきりしてゐるゲームもさうさうないだらうと思ふ。勝敗を審判が判断するのではなく、自分の勝敗の運命は、相手の「負けました」の言葉にかゝってゐるのだ。チェスとは違って、自軍の取られた駒が相手の駒台に乗る、つまり自分のマイナスがそのまゝ相手のプラスになる、といふことがはっきりしてゐる点も、ゼロサムの関係を際立たせてゐる。

 サッカーや野球は、相手より多く点を取れば勝ち。囲碁も、相手より陣地の目の数を多く取れば勝ち。それなのに将棋は「勝つ」ことができない。自力のみで勝つことができない。勝ちを宣言することもできないし、勝ちを判定してくれる人もゐない。たゞ、相手が「負けました」と言ってくれるのを待つのみである。
 相手の王様を動けなくする、いはゆる「詰み」の状態に持っていくことはできる。しかし自力でできるのはそこまで。結局自分の「勝ち」は相手の「負けました」といふ宣言に委ねられてゐる。

 かうして考へると、将棋といふのはゲームとしてはかなり特異なゲームなのだとわかる。

 私は昔から将棋に魅せられてゐるが、それもかうしたゲームとしての特異性のゆゑかもしれない。