暫定龍吟録

反便利、反インターネット的 This blog has not been updated since 2017

あきらめることとあきらめないこと

 「最後まであきらめるな」

と言ふ人と、

 「物事はあきらめが肝腎」

と言ふ人がゐる。一体、どっちが正しいの?


 正解は、どちらも間違ひ。
 「最後まであきらめるな」といふのは自分に向かって言ふ分にはいいけれども、人に向かって言ふのは間違ひ。「あきらめが肝腎」といふのは自分のことについてはそれでもいいけれども、人のことについてはさう簡単にあきらめてはいけない。


 昔知り合った女性で欲が無い人がゐた。私はその人のことを尊敬してゐた。
 私も相当、欲が無い方だ。金銭欲も物欲もあまりないし、所有欲、独占欲や名誉欲などもあまりない。しかし彼女の欲の無さはその私をはるかに上回る(下回る?)ものだった。彼女には、物欲や金銭欲はおろか、知りたい、学びたい、といふ知識欲すら無く、長生きしたいといふ生の欲求すらも無かった。
 「欲しいものは何も無い」と言ってた。
 「別に長生きしなくていい。いつ死んでもいい」と彼女は言った。虚勢ではなく本気でさう思ってゐるやうだった。別に死にたいと思ってゐるわけではなく、たゞ、長く生きたいといふ欲求が無いだけなのだ。

 私は彼女をブッダのやうな人だと思った。欲深い人間が多いこの現代社会において、何とまあ無欲な人なのだらう。今どきこんな素晴らしい人間がゐるだらうか、と思ってゐた。

 ある時、彼女が若い頃にずっと日記を付けてゐたといふ話を聞いた。その日記は今はどうしたのか尋ねると、前に全部一遍に燃やしてしまった、と言ふ。自分が死んだ後に誰かに見られたら恥づかしいと思ったので全部焼却処分した、と言ふのだ。
 私はその話を聞いて慄然とした。厖大な過去の思ひ出を一瞬で灰にしてしまふといふ世にも恐ろしい行動を、おそらく彼女は平然と行ったのだらう。
 彼女には欲が無い。執著が無い。あらゆる執著から解き放たれてゐる彼女は、過去の思ひ出からも自由なのだ。思ひ出に何の未練も無いのだ。
 彼女には過去のどんな素敵な思ひ出に対する何の執著心も無い。それを考へれば、彼女が「いつ死んでもいい」と言った科白には納得がいく。

 ブッダの言葉を読んでみると、とにかくひたすら「執著を捨てよ」といふことばかり言ってゐる。ブッダが執著から離れたのは苦行のおかげかどうかは分からないけれども、生まれつき元々、欲や執著心が無いタイプの人だったのではないだらうか。だからブッダは自分の妻や子を捨てた。捨てることができた。苦渋の決断の末にさうしたのではなく、割とあっさり捨てたのではないだらうか。
 宗教学者の山折哲雄は『ブッダは、なぜ子を捨てたか』といふ本の中で、このブッダの非情について問うてゐる。

 あらゆる欲、一切の執著から離れてゐる人は立派かもしれない。聖人である。その彼女も一見、聖人である。しかし、人(他人)に対する執著まで無くしてしまったとき、それは本当に素晴らしいことと言へるのだらうか。

 例へば、今、目の前に川で溺れてゐる人がゐる。川岸にゐるあなたはどうするか。
 人に対する執著が無いブッダだったら、黙って手を合はせるだらう。あるいはお経を唱へるかもしれない。そしてその人が死後無事に極楽浄土へ行けるやう祈るだらう。
 でも、この場面で求められてゐる行為はそんな行為ではない。川に飛び込んで助ける、ロープや道具を使って助ける、周囲の人に協力を求める、119番などで助けを呼ぶ、さうした行為が求められてゐるはずだ。

 彼女が自分の日記を燃やしたことに私が戦慄したのは、そこには彼女自身のことだけでなく、過去の彼女のすべての人間関係、すなはち他人のことも含まれてゐるからだ。他人に関する記憶、思ひ出すら平然と消去できてしまふ彼女の執著の無さに戦いたのだ。

 自分の生をあきらめるのは結構。長生きに興味が無いなら長生きしなくていい。でも他人のことを自分のことと同様にあきらめてはいけない。
 ブッダが自分の持ち物をすべて捨て去るのは結構。でも妻や子はブッダの所有物ぢゃない。モノぢゃない。人格がある生命なのだ。

 人のことは、さう簡単にあきらめてはいけない。


ブッダは、なぜ子を捨てたか (集英社新書)ブッダは、なぜ子を捨てたか (集英社新書)
(2006/07/14)
山折 哲雄

商品詳細を見る